岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

画中日記

『画中日記』2009年

投稿日:2020-04-30 更新日:

『画中日記』2009年

 2009.03.31

2007年にPCを買い替え、電話回線も光に替えたので以前に比べ格段にPCの使い勝手が良くなり、そのせいで操作にも慣れてきました。私は日頃日記はつけませんが、キーボードをたたけば軽い気持で書けるだろうと「画中日記」を思いつきました。

画家は日々の日常生活は単調ですが、頭のなかの想念はさまざまな世界を飛び回ります。それをメモ代わりにスケッチすれば画のエスキースと同じで、次に書く本のタネにもなるだろうという欲の深い自分勝手なページです。兼好法師も「おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破(や)り捨(す)つべきものなれば、人の見るべきにもあらず(徒然草第19段)」と言っているようにせいぜい自己満足な事を言っていこうと思います。【このページをリニューアル】

 2009.04.02

「狂人の真似とて大路(おほち)を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥の類(たぐ)ひ、舜(しゅん)を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」(徒然草第85段)

先日の、「もの言わぬは腹膨れる業なり」の兼好法師の原文を検索した際に、いくつかのブログの『徒然草』の現代語訳をザッと読んで、非常におもしろかった。さっそく『徒然草』の文庫本を買ってきてこれから読もうと思う。先ず手始めに目についた文章。自分が成長する時に、勉強の過程でどうせ影響と模倣が免れえないのなら最も高い記録を持っている人を目標にすべきである。つまらない人の、生き方や作品のマネをしてはだめ。【『徒然草』-1】

 2009.04.04

物をハカるには、ハカる対象の性質のなかの何をハカるのかを決めなければならない。それに加えて、同一の単位の物差しでハカらなければ比較対照できない。運動競技ならば速さを競うか、距離を競うか。距離を競う競技の単位は1メートルである。地球と太陽までの距離を「1AU」というのだそうだ。Aはアストロノミカル、Uはユニットで、日本語では天文単位という。自分の「生きられる空間」をハカるのに使う物差しの単位を1AUの目盛で生きたいものだ。1AUで日々の生活を送りたいものだ。

そこで、絵の美しさをハカる物差しの単位を思いつき、その物差しで日々描いている自分の画の美しさの記録をハカることに決めた。「1CU」。Cはセザンニカル(Cezanne→Cezannical)の頭文字。【1CU】

 2009.04.08

僕の子供の頃、鉛筆は他の物価に比べて高価だったので、1ダースの箱入りの鉛筆を買って貰うと、それは豊かな幸福感に包まれたものだった。ということは、なかなか手に入らない価値の高いものを所有すると、人は嬉しいのだ。お金、セックス、家庭、マイホーム、車、海外旅行、グルメ、テレビ、洗濯機、冷蔵庫・・・。しかし、それらの「物」の価値は相対的なので、時代や状況によってなんでもない、ありふれた物に成り下がってしまう。今の若い人にとっては、それらの物と同じように、セックスや家庭や子供も、ありふれて簡単に手に入るので、とりたてて所有したいという欲望にかりたてられないのではないのだろうか。【欲望の相対性】

 2009.04.10

僕の住んでいるアトリエの土地は一階分高い所にあるので、目の前の窓の外に前の家の二階の屋根が見える。屋根の隙間に雀が巣を作っているらしく、その様子が目に入ってくる。雀は忙しい鳥で、たえず何かをしている。生きることに精一杯で、一羽でぼんやりしている姿を見たことがない。それに比べて、鳥の種類は知らないが雀より少し大きな鳥が一羽、時々テレビのアンテナにしばらくとまっていることがある。その鳥は、その時何をしているのだろう。あるいは、その鳥の頭の中は何を考えているのだろう。【思惟する鳥】

 2009.04.12

画面における「物感」について試行していて、今年に入って作画の過程でコンパスと定規、マスキングテープを使うのをやめてみた。作画の最初から最後まで記号的認識を介在させない、という意味での実験だ。そのことが正解であることに確信をもった。ロスコの晩年の作品の、周りのマスキングテープらしい余白はセザンヌの塗り残しの空間とはまったく異なってみえる。ロスコの画の何点かは、セザンヌの画に比べるとデザイン的にみえてしまう。【画面上の「記号」を排す】

2009.04.13

最近、宇宙物理学の本の中からいい言葉を見つけた。「相転移」。相転移とは水が温度というパラメーターで、液体から氷という固体になったり、水蒸気という気体になったり、構成要素は何一つ変わらないのにその様相が変わることで、物質と同じようにその容れものである宇宙の〈場〉も相転移するらしい。物質や時空だけでなく、生物や人間(経済、社会、歴史)も「相転移」というタームで解釈するといろんなことがみえてくる。

絵画の画面は、絵具の塊にすぎない。それがなんらかの関係に組み合わされると芸術に錯視されるのだ。絵具がモティーフの「もの」に相転移するのがスケートの1回転ジャンプ、「光」に相転移するのが2回転ジャンプ、「光」と「空間」に相転移するのが3回転ジャンプ、「光」と「空間」と「時間」、すなわち世界の「存在」に相転移するのが4回転ジャンプで、それがこれからの僕の、画家としての究極の目標だ。【相転移】

 2009.04.18

明日は競馬の『皐月賞』だ。芸大生時代から10年間くらい競馬にこった時代があった。「ランドプリンス」「タイティエム」「トウショウボーイ」の3強の年のクラシックレースは当時の連勝複式馬券の特券(1000円)3点買いでほとんどのレースを当てたように思う。札幌に住んでいた時も、夏の札幌競馬場に路線バスと歩きでよく通ったものだった。「ユウシオ」「ベルワイド」などを思い出す。競馬、スキー、釣り、ゴルフ、酒場通い、ずいぶん色んなことに熱中したものだ。それが今は、まったく無趣味になってしまった。何をしても飽きてしまって面白くない。

いつまでも、限りなく飽きないのが絵画で、ただ絵具をいじっているだけで楽しい。今の僕の唯一の趣味は・・・『個展』。人に「趣味は?」と聞かれると、「趣味は個展」。【趣味】

 2009.04.19

『芸術の哲学』にも書いたが、絵画が芸術に錯視されるためには画家の空間的な「立ち位置」が鑑賞者に暗示されなくてはならない。それによって描写が、意識の描写から視覚の描写に変わり鑑賞者は画家の目にシンクロ(共鳴)する。それは文学においても同じだということに気付いた。

「空は青い」、この文章にはこの文章の作者の姿はイメージできない。しかし「空は青かった」とするだけで作者の影が文をよぎる。山頭火と尾崎放哉は同じ自由律俳句で、荻原井泉水の『層雲』のメンバーでお互いに会ったことはなかったが似たような俳句と両者とも孤独で悲劇的な人生を過し、今でもファンが多い。ふたりの俳句を例にして少し文章論を展開してみようかと思う。【文章論】

 2009.04.20

山頭火の句

*鉄鉢の中へも霰 *てふてふひらひらいらかをこえた 

視覚的にも聴覚的にも鮮やかに山頭火の立っている情景が浮かび、孤独でありながらしかし決してネガティブではない人間の孤独な姿を感じさせる名句である。使われたすべての言葉は全て外側の単語で、山頭火の内面の説明の単語は使われていない。

*どうしようもない私が歩いている

〈どうしようもない〉が何も描写をしていない。こういう単語は映像にならない。以前ラジオを聞いていて、街頭インタビューで「どんなお孫さんですか」という問いに「かわいい孫です」と答えていた。この答では何も聴取者に伝わらない。その逆に何も伝えたくないときの例で、ヨッパライ運転で警察に「どんな酒を飲んできたの」と聞かれ「楽しい酒」と答えていたのをテレビで見たことがある。〈私が歩いている〉も作者の視点が特定できないので、例えば映画で撮る場合にカメラを設定する場所がない。この句は作品というよりも愚痴や嘆きやボヤキの類で、僕の評価は低い。【作家の「立ち位置」と客観的「描写」-1】

 2009.04.22

尾崎放哉の句

*打ちそこねた釘が首を曲げた *烏がだまってとんで行った *足のうら洗えば白くなる *あらしがすっかり青空にしてしまった *春の山のうしろから烟が出だした

記号には行間やアトモスフェアがないのに反して、詩的言語を駆使するとなんと多くの情報が文章の上にのるのだろう。日常言語の「打ちそこねた釘の首が曲った」を、詩的言語の「打ちそこねた釘が首を曲げた」をとするだけで句の空間は大きく変わる。

*せきをしてもひとり

尾崎放哉の代表作として有名な句だが、そのことの心境を外側の客観的事物や事象で描写しなければ、つまり外化しなければ作品にはならない。あつい、さむい、さみしい、くやしい・・・のような自分の内面の現象を台詞で言わせるのは凡庸な脚本家や監督の映画である。こういう独り言のような句は、鑑賞者を措定していない日記の言語使いなので僕の評価は落ちる。【作家の「立ち位置」と客観的「描写」-2】

 2009.04.29

正岡子規の短歌

*瓶にさす 藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり

通常の生活の中の目の位置では決して気付かない、病床の子規の透徹した描写の短歌で詩的言語を習う人にとって教科書のような作品である。子規の目の位置が映像的にありありと浮かんでくるし、藤の花を見つめる子規の心の動きが切ないまでに伝わってくる。しかも短歌の中に子規の心の内面の言葉は何も使われていなくて、外側の事物を描写しているだけである。行間にたっぷりと情報がつまっているので、人生の切り口が鮮やかに描写されて生と死の切なさがひしひしと感じられる。

小津安二郎監督の有名なローアングルの映像の着想は、何かこの短歌と関係があるのだろうか。【作家の「立ち位置」と客観的「描写」-3】

 2009.05.01

『徒然草』を読むことの興味が失せる。兼好自身、人生や社会を評論するだけで芭蕉のように全身をかけて打ち込んだ仕事を持っていない。評論家やコメンテーターの言であるので、『芸術の杣径』や『芸術の哲学』にも書いたけれども、漁師の魚に対するアプローチではなく、兼好はグルメな食物評論家の魚に対する態度なのだ。人生に対してもの申すならおなじく、評論するよりも何かに打ち込んで、人生そものの過程から出てくる言葉でないと、私にはつまらない。これは夏目漱石も同じで(高等遊民)、超越を措定しない仕事は、この人間界から一歩も出られないので、所詮相対に過ぎない。【『徒然草』-2】

 2009.05.02

イチローに向かってバッティングの評論はをできる人はいないし、羽生に向かって将棋を教えられる人はいません。私は絵画のことについて聞く耳を持つのは、同じ競技で私よりも美の記録持っている画家の意見だけです(『芸術の哲学』の中に書いてあります)。心の中で思う事はかってですがコメントできないことには、コメントしてはいけません。ましてそれを画家本人に、たとえ褒め言葉であってもどれが良いだの悪いだのと、美術のことを発言するのは僭越です。あなたが、美術評論に人生をかけるのなら別ですが。どんな画家でも画家を志した時には、芸術に人生をかけて、実際に美術という賭場で持ち金全部を出して勝負しているのですから。

【M氏のメールヘの返信】

 2009.05.04

宮本常一は昭和20年7月9日の堺市一帯の空襲で、10数年にわたってコツコツと聞きとりした採集ノート約100冊、書きためた原稿1万2千枚、その他写真など貴重な資料のすべてを一瞬にして失った。

こういう場合の経験は、人間の生命の次に大事なものの価値観の優先順位があぶりだされる。ベルナールがエジプトからの旅行の帰りに突然エクスのセザンヌを訪ね、その後下宿をさがして1ヶ月も逗留して後に『回想のセザンヌ』という1冊の本を書く。そしてその本を古本で100年後の東洋の画家が読んで感銘をうける。人は自分自身の優先順位をきっちりと自覚すべきだ。特に残り時間の少ない老人は。【人生のプライオリティー】

 2009.05.05

「空は青い」この文章にはこの文章の作者の姿はイメージできない。しかし「空は青かった」とするだけで作者の影が文をよぎる(これは4月14日の「画中日記」に書いた文章)。さっきトイレにいってこれに似たようなことに気付いた。公共のトイレでトイレットペーパーがホルダーから舌のように出ていると、なんだか微妙にいやな気持がする。その原因は、前に使った人の影がよぎるからだろう。白い紙の長さの、たった10センチの違いである。

それに気付いたのも、今日の午后旧知の画商のK氏がアトリエに来る予定があるからだ。トイレットペーパーが出ているのを見て、まさかホテルのように両端を折ったりはしないが、紙の切り口をカバーの端にそろえておいた。【10センチのトイレットペーパー】

 2009.05.11

最近の、新型インフルエンザに対するニュースや世間の過剰な対応には複雑な思いに襲われる。一つは、ウィルスは〈もの〉であるので身体の病原菌であるが、思想や宗教や芸術などの精神的な病原菌に対する対応はどうするのか。二つ目は、ウィルスはすべての人にとって害毒で文句のつけようがないが、精神的なものは世界観の持ち主本人にとってはむしろ病気を蔓延させたいのではないだろうか。

「丘の上の愚か者」と「麓の住人」の関係に似ている。「丘の上の住人」は、自分自身のことを〈薬〉だとおもっているので世のため人のため「麓の住人」の病気を治そうとしているのだが、麓の住人からは〈ウィルス〉だとみられている。「麓の住人」は多数派なので決して自分のことを保菌者だとはおもわない。

人は、病気に感染することもあるし保菌者になって他の人を感染させることもある。隔離させられることもあるし、自ら引き蘢ることもある。うつされることもあるし、うつすこともある。

「丘の上の住人」の一人としては、こう叫びたい。「私は〈ウィルス〉ではないのだ。私はあなたたちを元気にする〈薬〉なのだ!! 」【ウィルスか薬か】

 2009.05.12

私のホームページを見てくれているようで、ありがとう。5月2日の「画中日記」に書いたように、私は他者に自分の画のコメントを求めてはいません。だから言わない方がいいですよ。

お察しのように単調ですが、内容は複雑な毎日を送っています。こんな日常を過ごしているのだから、今もそうだけれど将来は、よりガチガチの頑固爺さんになるのは確実なことでしょう。最近は、それに人間嫌いの気味がでてきていて、人から見ると私はいつもプンプンしているように見えるそうです。それに歳を取ると反省ということをしなくなるのでますます頑固になる。それに、そんな状態になるのになんの不満もないし大満足しているのだから、ますますもって手の付けられない老人になりそうです。【Kさんへのメール】

 2009.05.13

「物感」についてさらに重要なことに気付く。いままで主に物の側から物感のことを考えていたのだが、空間の側から「空間(余白)の物感」という命題を立てたらどうなるのか。

・デッサンのバックの問題

・バックを描かないデッサンの問題

・ドローイングの問題

・物と空間の関係の、空間の側からの浸食、にじみ、境界、フラクタルの問題

【空間の物感】

 2009.05.14

記号で世界を描写しようとすると、絵画でいえば余白や塗り残し、文章では行間がなにもないのでそこには情報がゼロだ。日本語の単語は表意と表音が交じった言語なので、日本語の「虫の音(ね)」を英語に訳そうとすると大変に困難だ。ちなみに、パソコンの翻訳で調べてみると、「Singing of insects」だった。日本人の大人は文脈を考慮に入れなくても、「虫の音」という単語だけから、季節や時間や天候や虫の種類まで情報を読み取ることだろう。このツール、使用言語の違いに焦点を合わせれて、比較芸術論をおこなえば自分の画にも役立つだろう。

・表音文字は記号なので、散文にならざるをえない。

・表音文字を詩や韻文に使おうとすれば単語の周りにアトモスフェアがないのだか 

 ら、いきおい比喩や暗喩か韻律(音楽的)を使うしかない。そうしなければ行間

 に情報が拡がっていかない。

・桑田啓介の歌の詞は、吉田拓郎の詞に比べて音楽的(西洋的、記号的)であって 

 作詞という面では正解である。

・「盆栽」や「盆石」は日本語が生みだした文化である。

・逆に日本語は曖昧になり、「玉虫色」や「大げさ」や「深読み」という問題がで

 てくる。(高校の時に読んだ小林秀雄訳のランボーの詩を、大学のゼミの英訳で

 出会い、なんて分かりやすいのだろうと思ったことがあった。例として、有名な

 「地獄の季節」冒頭の〈僕の記憶が確かならば、かって僕の生活は饗宴だった〉

 ……なんだか分かりにくく大げさでしょう。他の例では、「洪水はわが魂に及び

 ぬ」や「蒼ざめた馬を見よ」など)【日本語】

 2009.05.15

このブログの〈彫刻〉のページに載せているフラーの「テンセグリティー」の模型を見ていて新たなことに気付いた。自己意識は構造内の6本の棒をとび回っているのではないだろうか。自分で自分をくすぐってもくすぐったくはない。逆に、かゆいところをかくと気持いい。お皿を左手に持ち、紅茶を飲みながら友人との話に根中している時の自己意識は話の内容の方にあるが、紅茶をこぼせば瞬時に話は中断してこぼれた紅茶の方に飛び移る。パソコンのアプリケーションとよく似ている。しかし人間はパソコンと違って、いくつものことを同時にしている。つまり自己意識は、どこか一箇所に固定した所、司令室からコマンドをだしているのではなく、自己意識がその場所に憑依すると考える方が自然で、いわば、フランチャイズ制の各店舗に社長が飛び歩いているようなものだ。

人は全体と部分はフラクタルに有機的に動いていて全体の行動を指令する自己意識の方があちこちと飛び歩いているのだ。―続く【飛び歩く自己意識-1】

 2009.05.16

そして、訓練すれば自己意識は自分の外にまで飛ぶ。世阿弥の言っている「離見の見」だ。画家は自分の画を「離見の見」で視なければならない。そして、自分の「生きられる空間」と人生そのものも。

そのためのエクササイスの最初の導入部は、自分の内部を外部に取り出すことを常日頃こころみることだろう。それによって自分の内部を客観視できる。いわば、自分自身をモニターしてみるということだ。外側の視点から見た自分をもう一度自分のなかに思い描いてみる。

しかしこれでは、自己意識のある場所が動いていない。その上のステージは、自分自身と自分を取り巻く環境をそのまままるごと「離見の見」で視ることを心掛けることだ。自分の行動や生活を自分の司令室から出て一段高い視点から眺める、つまり認知科学の言うところの「メタ認知」。このメタ認知能力を持ち、それを身体に覚えこませることが芸術家にとって重要な意味をもってくる。

画家はイーゼル上の自分の画を、他人が描いた画のように視なければならない。……この続きは明日。【飛び歩く自己意識-2】

 2009.05.17

画家はイーゼル上の自分の画を、他人が描いた画のように視なければならない。自分のことは外側から眺められないのだから、自分の内面を外に出しても描いている渦中では自己がキャンバスと密着しているので、なかなか客観的な目で見ることができない。思い込みが強すぎたり、自己満足に陥らないように常に画面に向かうよう心掛けなければならない。それにはどうするかというと、意識のなかで自分と目を切り離して、目を独立させて眼だけで視る訓練をつむことだ。つまり、自己意識を目に呼ばないで社長室に閉じ込め鍵をかけてしまうのだ。このことが、画家になるための最初のハードルであるのだけれども、これがむつかしい。日記は誰にでも書けるけれども、小説は誰にでも書けない。美術も同じである。

【飛び歩く自己意識-3】

 2009.05.22

セザンヌがサントヴィクトワールに対するのと同じ見方でルノワールのモデルのような人物やヌードを描いたとしたら、さぞや宝石のような硬質で美しい絵になり、世界中に知れ渡っている「モナリザ」や「裸のマハ」に匹敵するポピュラーでメジャーな人物画になっていたことだろう。そういうセザンヌの絵を見てみたい。

前期の厚塗りの作品にみられるように、セザンヌは人物に対して情念が過剰すぎる。だから、若く美しい女性や、魅力的な女性のヌードをモデルにして画を描くことに対して意識過剰な言説が伝えられている。つまり、自分をすけべな男だと思われたくない、自分の情念を人に見透かされたくない、またそれが自分の絵の上に表れるのをおそれる、というように何重にも自己の実存に拘泥している。よく吟味されて選ばれた風景や静物とおなじように美しいモデルに出会い、セザンヌがセザンヌ自身の情念を持て余さなければ、画面を自身の実存と切り離してモデルを描写すれば、人類史の奇跡の一つとして美しい人物画が顕現していただろうにと思うと残念でならない。【セザンヌのヌード】

 2009.05.25

自分が手品師ならば、他の手品師が空中からタバコを取り出したのを見て、超能力だと感心してはいけない。「どこにタバコを隠しどうやってそれを取り出したのか」、という見方で事象にアプローチをし、探求し、その技術を鍛錬しなければならない。感心ばかりして、子供を相手にチャチな手品くらいしかできなければ、それは趣味や遊びである。漁師と遊漁船に乗って釣りをしている人は、おなじ魚釣りでもまったく種類が異なる行為なのだ。

画家も同じで感動する絵に出会ったら、生まれつきの才能や能力の違いだと諦めないで、そのタネを探求し技術を磨いて先人の画家の記録を乗り越えるしか、タバコを空中から取り出す方法はない。【タバコはどこから出したのか】

 2009.05.31

個展が近づいてきて何かと雑用に追われる。「芸術」以外のことはチャッチャと片付けて絵を描かなければ画家になった甲斐がない。

自分の行動と時間を厳密に雑用と実用に分けると、またその実用を生活(お金)と芸術(超越)に分けると、ほとんどの人間は地上の生活で目一杯人生を使ってしまう。超越(真・善・美)を志し、それにたずさわっていても自分でも知らず知らずのうちに日常に頽落してしまう。自分を客観視する視点のことを認知科学の用語では「メタ認知」と呼んでいるが、これを忘れるとせっかく人間に生まれてきたのに、『イソップ物語』のアリさんの生活で人生が終わってしまう。これは自分に言い聞かせていることで……でも今日の午后3時からテレビでダービーがあるので見よ~ット。【ダービーの日】

 2009.06.03

このところの天候は雨が多いが、昨日はⅠ日中晴れて気分が良かった。太陽は光やエネルギーと同時に人の気持にまで幸福感を与えてくれる。それなのに見返りを何も求めない。お金に換算すれば莫大な金額である。もし太陽が地球上の生物に請求書を送ってきたら、お金を払わなければ光と熱の供給を止めるといったら、なにをさて置いてもそのお金を支払わなくてはならないだろう。

過去に超越(真・善・美)に係わった人達は、自分の人生を犠牲にして、いうならば自分の人生を天(太陽)に代価として支払ってきたといえるのだ。その他の人達は、本来は自分が支払わねばならないお金を、肩代わりして支払ってくれている人たちに感謝しなければならない。出家者は在家者の代わって信心してくれているので、在家者は当然出家者を大事にしなければならない。

『イソップ物語』のアリさんは冬にキリギリスさんがボロボロになって訪ねて来たら、ケチなことを言わないで「夏には私たちも楽しませて貰ったよ」と食べ物をわけてあげるべきだ。ところがケチで人の悪い女王アリの奴隷のアリさんはキリギリスさんの無心は断っておいて、そのうえおまけにキリギリスさんに説教をするのだ。【太陽の請求書】

 2009.06.10

昨日は久しぶりに東京に出かけ、夕方から私も出品しているギャラリーTの画廊移転展のパーティー、2次会にも付き合ってしまった。ますます他人との共通した話がなくなる。今ただ一人の話し相手は熊本の「丘の上の住人」のTだけになってしまった。こうなると、たった一人でも話し相手があることは、貴重で幸せだということを痛感する。それにしてもこんなことでは、来週からの個展が思いやられるなぁ。【反省】

 2009.06.11

 個展の準備はすべて終っているので、画の制作は一段落してもよさそうなものだが、アクリル オン ペーパーで8号大のエスキースを4点仕上げた。画を描く空間で過すことは本当に楽しくて充実した時間を生きているという満足感で一日が終わる。昨日のような一日は徒労感で、ガックリくる。ここ何年間は世間にうって出て芸術を伝動、折伏つもりでやってきたがここらへんでポリシー(戦略)を変える頃かもしれない。麓の住人と接触すると必ず自分の「生きられる空間」の一部が壊れる。青年時代は丘の上で住むことを目指していた画家でさえ、いつのまにかほとんどが麓の住人になってしまうのだから。【生きられる空間の相転移-1】

 2009.06.12

 人間は誰もが(セザンヌやマチスといえども)麓で生まれ育ったので出自がもともと悪い。種が悪いのである。その種が育つときに最初は家庭、その次は学校、そして社会と、可塑的な人間は順次各自の環境の雌型によって自己の〈生きられる世界〉の型を作るのである。生まれ育った周りの環境がもともと麓なので、ナチュラルに人生を送れば麓の住人になるのは当然のことで、丘の上の住人になろうとすると、その〈生きられる空間〉そのものを相転移しなければ、できなければ、〈美〉という超越に届く筈がない。

 そして、〈生きられる空間〉そのものの相転移なので、麓の住人からみれば丘の上の住人の生き方の規範が理解できないのである。そして、麓の住人の幸福の条件を満たしていない丘の上の住人は、つまり「助さん角さん」もいないし「印籠」ももっていないみすぼらしい老人は、セザンヌのように麓の住人の子供たちから石を投げられるのである。【生きられる空間の相転移-2】

 2009.06.13

 生きられる空間の相転移は実人生では困難で希有のことで、つまり精神は丘の上で暮らしていても現実の生活の周りは麓の住人ばかりなので、孤独に耐えて超越に向かう強い意志を持続させなければならない。いちばん身近な肉親や家族や「助さん角さん」さえも、麓の住人なのだから。しかしそれでも、生きられる空間の相転移をしなければ、つまり生活環境(自分を入れる容器としての空間)と生活態度(生き方)を指向する目標に一致させなければ決してセザンヌのような画は描けないだろう。生きられる空間がナチュラルなままではどんなに努力を重ねても無理なことで、それは、内と外がフラクタル(全体と部分が自己相似の図形)だと考えれば、当然のことなのだ。(フラクタルということが解りにくければ鋳物を考えてみればいい。ブロンズ彫刻は雌型のとおりに作品が生まれる)【生きられる空間の相転移-3】

 2009.06.14

 この2、3日の考えは競馬の4コーナー過ぎの僕の人生にとって、重要なエポックになることだろう。社会に対するポリシー(基本戦略)の変更を含むからだ。

 ここ数年間は麓に降りていって芸術を伝動、折伏つもりでやってきたがここらへんでポリシー(戦略)を変える頃かもしれない。麓の住人と接触すると必ず自分の「生きられる空間」の一部が壊れる。おまけに、麓の住人は決して相転移はしない。麓の住人は決して丘の上に登ろうとはしない。誰もが麓で神殿を建てることが究極のゴールなのだから。

 ハイリスクノーリターンを覚悟し、生活空間ごと相転移を意志する人だけが丘の上の住人になれるのだから人類史上何人も丘上の人がいないのは当然なことだ。登る途中で食料が尽きたりブッシュに阻まれたり道に迷って遭難したりでハードルは高く聳えている。たどり着けずに討ち死にした無名の死体は累々としている。たとえ丘の上にたどりつけても豪華な神殿はない。ただ何もない渺々とした草原があるだけなのだ。強い風の吹く渺々とした丘の草原で雲の中に頭を突っ込んでただ咆哮することを許されるだけなのだ。

 それでも丘の上に登りたい。僕の走っているレースが、直線の長い競馬場であることを願っている。4コーナーでこれらのことに気付けて本当によかった。画家になってよかった。【生きられる空間の相転移-4】

 2009.06.16

今日から藤屋画廊での個展。生きられる空間の相転移を決心して生き方のポリシーを変えると、何度も開いてきた個展が今の私にはどう見えどう感じられるだろうか。そして自分はどういう態度で周りと応対するのだろうか。展覧会の成功、不成功よりもそういった自分の心の動きに興味がある。『芸術の杣径』の中に書いているように、汽車の中の駅弁からの意識の流れが若い時の実存主義に行き着いたように、内側の意識は外側の行動と一致していく。生きられる空間の相転移を意志すると私の心はどのような動きをするのだろうか。【個展の朝】

 2009.06.19

昨日、日本橋でかって大きく商売をしていた某画廊のオーナーが個展に来廊した。昔、彼から、僕が日本橋画廊からの買い取り契約打ち切り以後のフリーの活動、そして絵の方向の変更に対して、資生堂画廊での『赫陽展』の会場でお説教されたことがある。もちろんすぐに反論したし、芸術は画廊のためにあるのではないからお説教を聞く筈もない。その後たまたま何年か前に僕の個展に来て、その後DMを出しているので個展会場が銀座の時は時々見にきてくれる。いつもは元気な口調のIさんも、年齢とこのところの金融不況での絵画市場の落ち込みがこたえているらしく、身体が萎んでしまって記帳するまで彼だと分からなかった。

個展前の気負いがなんだか肩すかしだ。昔はアリさんにキリギリスさんが説教されていたのに、アリさんの糧秣が不足すると、今頃になって『キリギリスさんはいいなあ」なんて言うんだから。麓が不作になれば、どうせ結果が同じような状況なら好きなことをやって生きた方が良いというわけだ。麓から、生活の高いハードルを超えてやっとここまでたどり着いたのに、ハイリスクノーリタンを覚悟して丘の上を目指してきたのに、麓の住人は自分のリターンがなくなると、丘の上の住人はキリギリスのようにカンツォーネを歌いながら運命の幸運で丘の上にいけたんだと思うんだから。【個展の会期中】

 2009.06.20

ものを作る場合、他者に何かを頼むとすれば発注の過程で必ず記号が介在する。これは自身にもいえることで、自分が自分自身に何かを発注すれば自分の中の伝達の過程で必ず記号が介在する。画の中では記号的解釈はどうしても図的になる。同じ平面でも、設計図は芸術作品ではない。図的解釈では、光や空間や、ましてや時間の物感を描出することはできない。キャンバス上のすべての部分に、すべての過程に記号的解釈を排さなければならない。それが「自分自身への発注の禁止」の理由である。それが作画において定規、コンパス、マスキングテープを使わない理由だ。【自分自身への発注の禁止-1】

 2009.06.21

「自分自身への発注の禁止」のルールに気付いたのは、今年1月横浜美術館の『セザンヌ主義』展を観たことがきっかけだった。あのセザンヌさえも自分に発注した作品は空間に物感がないので画面がなんだかおかしい。その展覧会での『庭園の花瓶』や『ドラクロワ礼讃』はいただけないし、そもそも傑作とされている『大水浴』も僕にはセザンヌの作品のなかではいい絵とは思えない。208㎝×249㎝というような大きな作品はキャンバスをアトリエの外に持ち出せないので対象物を直接には描けない。印象派の画家の絵は、モネのオランジェリー美術館の作品、ゴーギャンの『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』、のように大作がうまくいっていない。セザンヌの大作は『大水浴』以外に見たことがないで、あの作品はを描いたのはルーブル美術館に入れたいという欲求があの画を描かせたのであろう。初期のロマン主義的時代の作品や後期でも対象から直接描いていない作品は絵画空間がおかしい。完成作品においては一見して大して変わりはないが、目での直接の描写と、頭での記号的解釈で描くことの方法の違いは、画家にとっては大きいのだ。その違いは特にフォルムと空間の境い目の輪郭、色、筆のタッチに現われる。

画家は、記号的認識を排し眼を独立せよ!。【自分自身への発注の禁止-2】

 2009.06.22

モデルやモティーフを前にして描写することの軽視のせいで、現代アートはすっかり芸術から遠ざかってしまった。ただ見た、見えたとおりに描くというのは大変なテクニックやボギャブラリーと視覚に対する不断の考察を必要とするのに、どうも近年の美術教育のデッサン軽視の風潮のために、描写することは簡単なことだと誤解されている。モネもセザンヌもマチスも岸田劉生も坂本繁二郎も僕の好きな画家はすべて、対象を見ながら描くイーゼル画の絵描きだ。セザンヌはサントヴィクトワールを、視覚の他に何も付与しないで、ただ見て描いている。セザンヌの描写過程を研究すると、ただ見てただ描くことがいかに複雑で困難な命題かということが分かるだろう。物感なしに純粋芸術は成り立たないし、描写のスキルなしに物感は表わせないし、事物の描写から光の描写、空間の描写、時間の描写へと進んでいけば画家は一生目から離れられないことが分かるだろう。芸術を目指す画家は決して対象世界から離れてはいけない。【イーゼル画】

 2009.06.23

今、個展会場の行き帰りの電車で読んでいる本、『ペンローズの〈量子脳〉理論』の中で気になる言葉を見つけた。「クオリア」という言葉だ。ウィキペディアで調べると〔外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕らえそれを脳に伝達する。すると即座に何らかのイメージや感じが湧きあがる。たとえばある波長の光(視覚刺激)を目を通じて受け取ったとき、その刺激を赤い色と感じれば、その赤い色のイメージは意識体験の具体的な内容のことであり、その「赤さ」こそがクオリアの一種である。

簡単に言えば、クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な体験そのものである。〕とでていた。

そこから、いつ出せるか分からないが、次の本の書名を考えついた。『芸術のクオリア』。今まで、芸術を錯視や見立てとみていたが、芸術を青や赤と同じようなクオリアと考えると、そのタームで芸術にアプローチすると新しい局面が見えてくる。「芸術という感じ」ということだと、「美」の中に「芸術」があるのであって、「芸術」の中に「美」があるのではない、ということになる。【クオリア-1】

 2009.06.24

キャンバスの上に、青色を記号として使わないで、空を描写するつもりで塗った場合、その青一色の平面が物感を持てば、抽象と具象を超えた美しい絵になるだろう。しかしそれは、セザンヌのサントヴィクトアールやゴッホの向日葵のように、現実よりも美しい空の絵になるのだろうか。

「美」が「芸術」の上位概念だとしたら、芸術のなかに美があるのではなく、美の中に「芸術のクオリアがある美」もあるということになる。芸術が美に包括されるのなら美の措定なしの芸術は自己矛盾になるので、美を否定した行為は芸術のジャンルの外の行為であるし、美を否定した芸術はありえない。美に向った行為でもそのなかにヒエラルキーが生まれる。美にも色々な美があって、自然美、抽象的幾何学的美、記号的デザイン的人工美、芸術的美。美のなかで一番ヒエラルキーが高いのが少数の芸術美で、その次が自然美かな。自然美を素(もと)にして芸術美が生まれるのだけれど、自然から生まれた人間の生む芸術美が自然美を超えるのは奇跡的なことで歴史が証明している。こうやって、画家のマッピング(地図作り)が精緻に出来あがってくると、行路に迷わなくなるが、自然美よりも美しい芸術美を描くことの困難さのハードルが改めて立ちはだかってくる。

作品の美しさのなかで、芸術のクオリアを感じさせる大きな要素が物感で、そのため物感のない絵は美しくても芸術という感じがしない。つまるところ今後の私の画の目標は、自然美を超える芸術美の描写と、時間の描出。これが出来ればセザンヌを超えることができるだろう。【クオリア-2】

 2009.06.26

芸術美が自然美や人工美や数学的美よりも美しいのは当然で、超越的世界(真・善・美)、物質的世界(自然)、精神的世界(実存)の3つの世界の各々に足を踏まえ、それを超えた、いわばメタ世界を描出するからだ。超越的世界(真・善・美)、物質的世界(自然)、精神的世界(実存)は『ペンローズの〈量子脳〉理論』(読み終わったら「読書ノート」に抜き書きをアップします)の本にでてくる不可能3角形の頂点にある〈プラトン的世界〉、〈物理的世界〉、〈心の世界〉とピッタリと符合する。〈プラトン的世界〉が私の常々言っている〈超越〉のことで〈美〉の在る所です。

キャンバスの上の絵具の組み合わせでもって、自然(物質的世界)の中の美(イデア的世界)を画家の立ち位置(視点。意識のある場所)を含めて描出することが出来れば、画面が馥郁とした、自然よりも美しい芸術のクオリアをかもしだすことだろう。【クオリア-3】

 2009.06.27

今まで『芸術の杣径』や『芸術の哲学』で語ってきた、主観、客観、超越の三つの関係は、『ペンローズの〈量子脳〉理論』にでてくる不可能3角形の頂点にある〈プラトン的世界〉、〈物理的世界〉、〈心の世界〉の図が解りやすい。

世界は、3つの頂点の各々の2つが、互いに入れ子(フラクタル)の関係になっているのではないだろうか。そしてその3つが、3次元に結晶したものが有機物で、その進化の最高物が人間の意識だということだろう。数は3次元にはないので、ペンローズの不可能3角形と同じく3次元内には作れないが、マンデルブロー集合の3次元版が生物だと考えるのは画家の飛躍しすぎるイメージだろうか。ペンローズの不可能3角形が2次元の図では描けるように、3次元のマンデルブロー集合であるメタ世界を図ではなく物感のある絵に描出できれば……ああ、なんと困難で、楽しい挑戦だろう。【クオリア-4】

 2009.06.28

昨晩のテレビでたまたま多摩川の天然アユの復活の番組をやっていた。水質汚染と堰(せき)の二重のハードルで絶滅していたアユが水質の改善と魚道の改良で上流に遡上出来るようになって、天然アユが復活しているらしい。嬉しいことで、マチス以降絶滅している純粋芸術も条件さえ整えばアユのようにあっというまに復活するだろう。それが大きな自然の摂理だから。【多摩川の天然アユ】

 2009.06.29

「抽象表現主義」をウィキペディアで検索するとその特徴を、

*非常に巨大なキャンバスを使い、観る者を圧倒する。

*画面に焦点となる点がなく、地も柄もなく、どこまでも均質な色や線の広がりが描かれている、「オールオーバー」(全体を一面に覆っている)な絵画である。

*絵画のキャンバスは現実の風景や姿形等を再現する場所ではなく、作家の描画行為の場(フィールド)であると考える。

とでている。1番目と3番目は「絵画は描写(Impress)である」と標榜する私としては全く同意できないけれど、2番目の「オールオーバー」は見逃せない言葉だ。この言葉は抽象表現主義の絵画(ポロックの作品)の専売特許のように言われているが、もともとモネやセザンヌの画はオールオーバーである。視覚は本来オールオーバーで特異点を持たない。特異点は、人間の意識が視覚対象を志向性で差別化するから生まれるので、鏡や写真、つまり本来視覚(眼)の中に特異点があるわけではない。「オールオーバー」という言葉は、印象派の画家たち、モネやセザンヌの絵にこそ使われるべきなのだ。画家を志す人は、モネやセザンヌの絵のように、外界を視覚(眼)でオールオーバーに認識するという方法をキッチリと自覚すべきだ。【オールオーバー】

 2009.07.10

「神の前の単独者」とは、キルケゴールの『死に至る病』のなかで出てくる言葉だが、「世界の前の単独者」としてキャンバスに向かうということは、言うは簡単だが行なうのは至難の技だ。宗教が、宗派や教団やセクトを通してしか、あるいは神父や牧師や僧の通訳を通してしか超越に向きあえないのとおなじで、芸術もイズムやセクトや状況を通してしかキャンバスに向かえない。いやむしろ、イズムや状況やセクト的表現こそが画家のやるべき仕事だと思っている人が大半だ。おまけに、自分自身の自己意識までがこっそりと介入してくる。自分が自分にオファーするのだ(例、セザンヌの『大水浴』)。

「世界をダイレクトに裸眼で見て裸眼でキャンバスに向かう」、まさに「丘上の愚者」だね、これは……。【神の前の単独者(丘上の愚者)】

 2009.07.27

昨日アトリエ・グリュでの個展が終わった。周りの世界の状況も自分の状況も一っ時も止どまることはない。諸行は無常なのだけれど、超越は諸行を越え出ているので無常ではなく、したがって相対ではない。超越(プラトン的世界)を見失うと人生は老いによって締念におちいる。

《もしも人がその真の本性を失ったなら――どんなものを持ってきても、それが彼の本性ということになる。ちょうどそれと同じように、もしも真の幸福を失ったら、どんなものを持ってきてもそれが彼の幸福ということになってしまう。(パスカル)》『文読む月日(下)』トルストイ 北御門二郎訳 ちくま文庫(395㌻)【超越(プラトン的世界)】

 2009.08.09

8月3日の千葉日報の読書欄に「郷土の人の本」ということで『芸術の哲学』が大きく紹介された。おまけに「芸術書簡」というタイトルで読者と私の往復書簡の形式で何度か紙面に掲載されることが決まった。私は落語『寝床』の大家の義太夫のつもりで個展や本を出版しているのだが、世の中は捨てたものではないなぁ。ちゃんと「拾う神」がいるのだから。嬉しく、また心強く、エネルギーがわいてきます。【拾う神】

 2009.08.17

 健全(sound)と完全(complete)……大まかに言って、「健全」な理論は「証明や計算が間違った結果を出さない」。その反対に(ママ)、「完全」な理論は「正しい結果は必ず証明あるいは計算できる」。ペンローズがこの健全性を強調するのは、そもそも不健全な理論を論じてもはじまらないからである。(中略)健全は「証明できる」、完全は「真」に対応する。(『ペンローズの〈量子脳〉理論』ロジャー・ペンローズ著、竹内薫・茂木健一郎訳、解説、ちくま学芸文庫122~123頁)

 何かを推論するときには命題の立て方が重要だ。健全な命題を立てなければ推論が証明にまで到着できない。「不健全な理論を論じてもはじまらない」のと同じように、不健全な(間違った)ベクトルで努力しても何の成果もあげられない。これは人生も同じで、何かを為そうとするとき、健全な方向(ベクトル)と健全な命題を立てて努力しなければ無駄な一生に終わってしまうだろう。自分の職業がドロボーで石川五右衛門が人生の目標では、いくらまじめで、家族思いで、働き者で、やさしくても社会には不必要だろう。おなじように、これから画家を目指す人は〈美〉に向かわない不健全な絵を目標にしてはいけない。世界は美しく、生きることは良きことなのだから。【健全(sound)と完全(complete)】

 2009.09.05

今日(9月5日)の千葉日報の学芸欄に『芸術書簡』の一回目の原稿が掲載された。今後隔週土曜日に元千葉日報の文化部長だったK氏と読者と私の往復書簡の形式で何度か紙面に掲載される。【芸術書簡】

 2009.10.02

昨晩またまた、絵画上重要なことに気付いた。人間が世界を認識する時の「立ち位置」のことを考えてみれば、目は現実世界を横から見ている。それに反して設計図も幾何学の図も空間を上から見ている。画家が世界を描写するかぎり、つまりイーゼル画に徹するならば、対象世界を横から見ていることになる。世界は立っている画家の目に対して立って相対しているしキャンバスも立って相対している。当然キャンバス上の絵も世界を横から見た空間の中の図像に変換される。現実空間を横から見ているのなら、絵画空間も世界を横から見た空間にならざるをえないのは当然のことだ。図的な絵は芸術のクオリアが少ないのはそのせいかもしれない。下から見ている坂本繁二郎の月の絵や、ゴーキーの絵画空間が立っているのに比べて上から見ているポロックの絵に僕が惹かれないのはそのせいかもしれない。このことはズルズルと絵画上の大きな問題につながる予感がする。【世界を横から見る】

 2009.10.04

10月2日の日記の続き。記号は正面しか向いていない。記号には奥行きがない。記号には時間がない。干し椎茸をもどしても生椎茸にはもどらないのと同様に、一度世界を記号化したものに物感を込めようとしても限界がある。例は、ジャスパー・ジョーンズの地図や星条旗、ウォーホールのマリリン・モンロー。【スルメは2度と生イカの味には戻らない】

 2009.10.05

このところ、寝る前にベッドの中で以前読んだ『セザンヌの手紙』(美術公論社刊)を読んでいる。若い時に読んだ時より自分が成長した分、セザンヌやゴーギャンやピサロが伝説上の人物から等身大に見えてくるが、つまり、セザンヌやゴーギャンといえども実存の大きさは僕らとほとんど変わらないことが分かるが、その分自分の生き方を厳しく問われる。画家にかぎらず、他の分野の天才たちと普通の人のどこが違うのかというと、それは「超越(真・善・美)への持続する志し」の点だ。自分の行動のプライオリティー(優先順位)のトップに「超越(美)」を置くか「実存(自分)」を置くかの違いだ。【セザンヌの手紙-1】

 2009.10.20

世界美術史の中でリアリズムから印象派に移る時代と、日本の花鳥風月だけが内容の意味を持たない描写だけで成り立っている絵画だ。19世紀末、近代哲学が認識論を中心に展開してきたことに呼応して、美術も認識が中心命題になった。そうなると当然画家の為すべき事は視覚(目)が中心となり、視覚対象も外せない。それなのに、マチス以降、描写の画は美術史から消えてしまった。認識論的絵画を置き去りにして、意味論的絵画や解釈学的絵画や社会学的絵画に、つまりポスト・モダンの国アメリカ型美術に世界中が席巻されてしまってきた。しかし今、世界は変わろうとしている。認識論の復活(ペンローズの言う、世界を成す〈プラトン的世界〉、〈物理的世界〉、〈心の世界〉の3つの要素が線形ではなく、不可能3角形の頂点に措定するという認識。〈プラトン的世界〉が私の常々言っている〈超越〉のことで〈美〉の在る所)、描写絵画(キャンバス〈美〉、対象〈物自体〉、自分の目の位置〈自己〉を不可能3角形の頂点に措定して描画する、つまりイーゼル絵画)の復権がこれからの画家がやるべき使命だ。キャンバスの上の絵具の組み合わせで、自然(物質的世界)の中の美(イデア的世界)を画家の立ち位置(視点。意識のある場所)を含めて描出することが出来れば、画面が馥郁とした、自然美や記号美よりも美しい芸術美のクオリアをかもしだすことだろう。【認識論と芸術】

 2009.10.21

 以前読んだ『セザンヌの手紙』をもうすぐ読み終わります。

 買って来た本は山積みしているのだが、読もうと思って手に取っても最後まで読み終える本が少なくなりました。読み始めても途中で著者の世界観のパラダイムに納得いかないとそれ以上読む気力を失ってしまうのです。そんな中でも、『セザンヌの手紙』は再読だが僕が以前より成長した分、そして僕の年齢がセザンヌの没年に近づいてきた分手紙の内容が理解できて大変面白く読んでいます。読み終わったら近いうちに「読書ノート」に抜き書きをアップします。【セザンヌの手紙-2】

 2009.10.22

 地上のオファーと自分のオファーはキャンバス上への画家の行為に理由があるのでその理由に答えるために仕事をすればいいことなので問題はないが、地上のオファーがなくなると、とたんにキャンバスに向かって何をするのか途方に暮れてしまい、自分のオファーに切り替えてキャンバス上で自己満足の日記のような文体の描画に陥ってしまう。天上からのオファーは超越(美)を措定しないと、つまり超越の存在を信じないと天からのオファーもありえない。宗教的な生活が神や仏を信じることなしにはありえないのと同じで、画家は「美」の存在を信じることなしにはありえない。そうでなければ、なんで過去の宗教家、哲学者、芸術家達が地上での過酷な人生上のリスクををおかしてまで超越に突き進んでいったのか理解ができないだろう。【天上からのオファー】

 2009.11.11

 昨日、録りためていたラジオの放送大学の「ドイツ観念論」のテープを聴いていてメモした文章を、どこかに紛れないように『画中日記』に記しておく。今まではクロッキーブックに書いていたのだが、パソコンのおかげで便利になったものだ。文章を書くことももちろんだが、その保存と取り出しが飛躍的に便利になった。パソコンが使えなければ、『芸術の杣径』も『芸術の哲学』も上梓できなかっただろう……ということで、下記。

――ラインフォルトは言う。「認識には表象が先立つ」「時間空間という感性形式は感性的表象であり、純粋悟性概念は悟性の表象であり、理念は理性の表象に他ならない」。――

 私の意見……それは脳一元論者の説で、「脳の中の小人」の認識はその通りである。しかし、認識には表象(記号)がともなわない認識がある。身体がダイレクトに認識する場合で、「身体は世界を写し込む」「感覚は認識が表象に先立つ」。

 私が1981年にブリジストン美術館でモネの絵を観て、それまでの自分の絵画の見方の間違いに気付いたことがこれであって、それまでは解釈学的(脳にすべて判断を仰ぐ、トップダウンシステム)に絵に接していたことを、現象学的(眼を独立させて、眼の判断を脳にあげるボトムアップシステム)にシステムチェンジしたことの理由なのだ。(おまけに近年、脳の中にも、ミラー細胞のように表象(記号)以外の情報を受け持つ部位が在ることが発見されている)

【美の認識はどこでするのか?-1】

 2009.11.12

 食べ物の解釈や構造の分析は脳でするのだが、味(おいしさ)の認識は脳でするのか舌でするのか。このことをどう考えるかの決定は、画家にとっては重要な問題で、なぜなら「美」の認識は脳でするのか眼でするのかという問題に係わり、しいては画家のコンセプトによるキャンバス上の行為、描く絵の内容や意味にまで敷衍する。

 以前この『画中日記』にも書いた、クオリアの認識も、身体の直接的な現象の脳へのボトムアップだとすると、すっきりとした解釈になるのではないだろうか。

【美の認識はどこでするのか?-2】

 2009.11.27

 今日、旧知の画商のN氏から送ってもらった、NHKのテレビ番組を録画した『魔性の難問~リーマン予想・天才たちの闘い』と言うDVDを観た。この件で、N氏と交わしたメールのやりとりを下記に記します。

◎「芸術書簡」ありがとうございます。

Date: 2009年11月23日 15:28:07:JST

毎度お世話になっております。

「芸術書簡」送って頂きまして、ありがとうございます。

前回送って頂いたのは、先生のかねてからの主張が書かれていたので理解できたのですが、しかし、今回のは難し過ぎて私の理解を〈超越〉してしまっております。

情けないですが限り無く〈物質化〉しております。

しかし、あらためて、芸術理論の最前線の現場にいるようで、大変刺激的です。

今後の発展、楽しみにしております。

ところで、最前線といえば、先日NHKで放映された「リーマン予想」の番組はご覧になりましたか?

数学界の最大の難問のひとつを巡る番組でしたが、その謎に驚愕の意味が隠されているかもしれないという展開に興奮いたしました。

もしご覧になってなければDVDに録ってありますので送ります。

取り急ぎお礼まで。

N

●Re: 「芸術書簡」ありがとうございます。

Date: 2009年11月23日 16:17:56:JST

今回の文章は、「読者からの手紙」ということで、毎回書いている元千葉日報の文化部の部長だった人のテキストです。次回は(28日)私の文章になります(次を入れてあと3回)。「リーマン予想」のDVDは送ってください。テレビ用の再生装置はないのですが、Iマックにはあります。再生できればいいのですが。

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岡野 浩二

(URL)http://homepage3.nifty.com/okanogal/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎Re: 「芸術書簡」ありがとうございます。

 Date: 2009年11月23日 17:38:32:JST

DVD了解いたしました。

私のはウィンドウズですが、バソコンで観れるのでマックでも大丈夫かと思います。

送らせて頂きます。

N

●見れました

 Date: 2009年11月27日 9:27:45:JST

「リーマン予想」見れました。以前なら見逃すはずのなく、またビデオに録って永久保存している番組ですが、最近テレビをほとんどみないので、また新聞をとっていないので知りませんでした。大変面白く、またためになりました。数学と物理学、つまり「プラトン的世界(イデア界)」と「物の世界」が相互相入されているということは、現在の私の世界観にも合致するしまたそれがスペクトルや円や直線といった視覚にも関係し、しいては芸術(美)にまで関係します。自分のやろうとしている方向に間違いないという確信をもちました。本当にありがとう。

岡野 浩二

●メールで送ります

Date: 2009年11月27日 11:54:35:JST

明日、千葉日報の『芸術書簡』の4回目の原稿が紙面に載る日です。スキャンしてメールします。ちょうど「リーマン予想」の内容に近い世界の構造のことを問題にした内容です。岡野

◎Re: Nです。

Date: 2009年11月27日 16:44:33:JST

この「リーマン予想」の番組は、私にとってまさに「リーマン・ショック」と言っていいものでした。

真理の隠し場所とその方法に畏怖の念さえ覚えました。

「どうしてこのような真理を、こんな形でこんな所に!」

まさに人智をこえている。

誰もなしえない。

自然界の原理原則の当然の成り立ちと言えばその通りかもしれないが、あまりの完璧さ美しさに、未開人のシッポを残している私はおののいたのでしょう。

世界の真理が解き明されたとき、わたしは歓喜するのか驚愕し畏怖するのか。

それも、神のみぞ知るかな?

N

【リーマン予想】

 2009.12.15

N氏と交わしたメールのやりとりの続き。

◎こんばんは、Nです。

 Date: 2009年12月4日 23:53:53:JST

「ペンローズの〈量子脳〉理論」買いました。

本日、百貨店の本屋に立ち寄り、求めました。

 

タイトルからして、これは難問だなと思っておりました。

本棚に見つけたとき、他の本と比べ一際分厚いじゃないですか。

「あ~ぁ、これからこの本と格闘するのか」と思うと気が重かったのですが、

帰りの電車の中で読み始めました。

序文……期待にたがわす、すばらしく難しい!

 

次に「竹内薫の解説その1」 あれあれっ いきなり? 訳文ではないの?

しかし、これがすばらしい! 

解かる。気持ちいい!

ペンローズの「ぺ」も知らないけれど、これは面白い!

 

これから先、どうなっていくか解かりませんが、

「ペンローズ」は「リーマン予想」と並んで、

本年度、私の「流行語大賞」候補になりそうです。

 

少しは先生の問題意識が解るようになれればと思います。

とりあえず、ご報告まで。

N

◎「芸術書簡」読者からの手紙4

Date: 2009年12月12日 16:52:12:JST

「芸術書簡」ありがとうございます。

 

まだペンローズの〈量子脳〉理論四苦八苦しております。

どうにもわからないところなど、インターネットや他の文献も参考にしながら、

読み進めております。

 

まだまだ先は遠いようです。

N

●Re: 「芸術書簡」読者からの手紙4

 Date: 2009年12月12日 22:17:49:JST

分からないところは、読み跳ばしてカンジンのところが分かればいいのです。それを明日、図にしてあなたのパソコンに送ります。岡野浩二

●ペンローズの世界観-1

 Date: 2009年12月13日 8:33:56:JST

(図1)この図は当サイトの『近作/横型』のページに載せています。

●説明

 Date: 2009年12月13日 8:39:00:JST

1の図は、トリックを使った2次元の写真や図にはできますが、実際の3次元の空間には実現不可能です。

●従来の世界観

 Date: 2009年12月13日 9:04:47:JST

〈従来の世界観〉の図は当サイトの『近作/横型』のページに載せています。

●ペンローズ-3

 Date: 2009年12月13日 9:24:17:JST

〈ペンローズの世界観〉の図は当サイトの『近作/横型』のページに載せています。

●ペンローズの世界観の説明

 Date: 2009年12月13日 9:55:10:JST

ペンローズの世界観はどちらにも一元に集束できなかった、観念論や経験論、心身二元論、と超越(真・善・美。プラトン的世界)との形態を、三元論で捉え直しているところが画期的なのです。つまり、存在を3つの世界の相互相入、三位一体として捉えたのですネ。

岡野 浩二

◎Nです。

 Date: 2009年12月13日 12:33:33:JST

メール、ありがとうございます。(岡野注;このメールは携帯から送られたもので、私の説明のメールは見ているがこの時点では今朝彼のパソコンに送った図を見ていない)

ペンローズの顕した三つの世界の関係を見てみると、リーマン予想で見られた、素数の出現の仕方が、原子核の振る舞いに酷似している事を、裏付けているようですね。

そこで、「心の世界」の思念パワーを使って、「物理的世界」の売上げ倍増をと思っているのですが、私の理解力が足りないのか、「心の世界」は「ブラトン的世界」にしか向かわないのか、かんばしい結果が出ておりません。(冗談ですが)

引き続き、〈量子脳〉理論、読み続けてみます。

◎Re: ペンローズの世界観

 Date: 2009年12月13日 23:03:41:JST

今、送っていただいた図、拝見しました。

〈従来の世界観〉と〈ペンローズの世界観〉見比べています。

従来の世界の天と地、物自体と超越的世界。まさしくそのとおり。

それに比べてペンローズの世界観、相互相入、三位一体。

その画期的な違いが比べると良く解りますね。

 

そして、従来の世界観ですと、イデア界の素数と原子核という物理的世界が対極に位置し、関係性がないことになってしまいますが、この間のリーマン予想から判明し、数学界、物理学界を巻き込んでの大騒ぎは、ペンローズの世界観が正しかったことの証明になったのではないでしょうか。

先生の図を見て改めて思いました。

有難うございました。

N

●Re: ペンローズの世界観

 Date: 2009年12月14日 8:29:19:JST

ペンローズの世界観が正しいのならば、私が最近捉われ,その方向を作画上のベクトルにしている、「物感」やイーゼル絵画の方向が間違っていないという自信がつきます。以前メールで送った11月28日の千葉日報の『芸術書簡』「画家がアトリエから-4」を読んでください。

岡野浩二

◎Re: ペンローズの世界観

 Date: 2009年12月14日 19:18:48:JST

ペンローズが三つの世界を描いた「心の影」が邦訳されたのが2001年12月ですから、先生の方もそれに劣らず、早くから世界観についての問題提起をしていたことになります。

それにしても、物理、数学、芸術と異なる領域から、同じような世界観に到るというのも「薔薇の木に薔薇の花咲く」で、それが真理であれば「何ごとの不思議なけれど」ということでしょうが、やはり驚きです。

N

●Re: ペンローズの世界観

 Date: 2009年12月14日 20:31:04:JST

自分のやっていることを誰かが認めてくれているということを知るということは、大きな励みになります。ありがとう。

岡野浩二

【ペンローズの世界観】

 2009.12.28

 いよいよ年の暮れです。今年もあっという間に過ぎ去っていったけれど、「画中日記」や「読書ノート」を当サイトにUPしているおかげで、それを読むと、決して時間を無駄には過ごして来なかったと自分を慰められます。来年には、一昨日写真撮りした最新作をUPします。それと、1月23日(土)に新宿のギャラリー絵夢で「文章と映画と絵画の描写法の比較」というトークを予定しています。くわしくは「展覧会予定」をご覧ください。

 さて、来年はどんな年になるのでしょうか。周りの状況はどんなに変化しようとも私はより美しい画を描くことに専念するだけですが。

【年末雑感】

-画中日記

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『画中日記』2012年

『画中日記』2012年  2012.03.25 【「抽象印象主義」その後】  2010年5月からのイーゼル絵画への取り組みから、ギャラリー絵夢での東伊豆風景の個展と、近年すっかり具象の作品を中心に制作 …

御殿場だより

御殿場だより(2012年)  2012.07.12 【裸眼の富士山】 東伊豆の畳の部屋の仮アトリエから、今度の借家はフローリングなので、画の道具がまだ揃わず、今週はロケハンだけで終わった。遠景が肉眼よ …

『画中日記』2013年

『画中日記』2013年  2013.01.13 【塩谷定好写真集】  昨日は、夕方写真家の足立氏がアトリエに遊びにきた。今まで買い集めた本や画集や写真集は処分出来なくて大量にあるが、写真集は私が死蔵す …

画中日記(2023年)

画中日記(2023年)   『画中日記』2023.01.01【新年に】  新しい年を迎えた。パソコンに向かっている。時間は8時10分、朝の光が眼に入ってくる。眩しいが、幸せな気分だ。 今年の …