岡野岬石の資料蔵

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画中日記

『画中日記』2013年

投稿日:2020-04-30 更新日:

『画中日記』2013年

 2013.01.13 【塩谷定好写真集】

 昨日は、夕方写真家の足立氏がアトリエに遊びにきた。今まで買い集めた本や画集や写真集は処分出来なくて大量にあるが、写真集は私が死蔵するよりも、これからの写真家に貰ってもらう方が、本の価値が活きるとおもって今まで何冊か差し上げてきた。昨日は用意していなかったので、部屋の隅に積んでいた本から適当に2冊渡した。その1冊が塩谷定好写真集『海鳴りの風景』で、柏の古本屋でたまたま手に入れたものだが、今日ネットで塩谷定好で検索すると、現在の色んな情報にヒットする。鳥取県の赤碕町で一生を過ごしても、いい仕事をすれば、歴史は作品を決して消し去りはしないということだ。だからこそ、がんばらねば。

 2013.02.02 【自由のあるところに秩序(レゴラ)はない

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』 杉浦明平訳 岩波文庫より

■自由のあるところに秩序(レゴラ)はない。(45頁)

【岡野注;私が実存主義者だった頃には、そんな秩序なんていらないと思っていたが、それは、「地上の世界」の中の「近代的自我」を世界観の構造として捉え、生きていたからで、超越(プラトン的イデア界)の世界=内=存在として自己を捉え直せば、この言葉や仏教のアートマンの否定(無我)や、道元のいう自己放下という意味もよく理解できる。そして、それを自分の世界観に措定すると、セザンヌ以後吹き荒れたアメリカ型現代美術の反証として、いつの時代も描写絵画、イーゼル絵画が、美術史の最前線であり、これからもそうであり続けることが分かるでしょうし、画家の生き方や作品世界の構造の基盤であることが理解できるでしょう。超越(真・善・美)の前では自由はありません。「真」の前の自由は偽であり、「善」の前の自由は悪であり、「美」の前の自由は醜です】

 2013.02.04 【画家の戦争責任】

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』 杉浦明平訳 岩波文庫より

■孤りなればおとなしく虫も殺さざるもの、悪しき仲間ゆえに戦慄すべき獰猛なるものとなり、残酷極まりなくも多数の人々の生命をうばわん。洞窟より現るる霊魂なき物にしてかれらを防がずんば、さらに数多の人をも殺すべし。自分一人では決して誰にも害をはたらかぬ刀や槍について。(164頁)

【岡野注;自分が包丁を作る仕事をしていて、そのを包丁を料理人が買おうと、犯罪者が買おうと、使い道の責任は使った人が問われるべきで、作った人や売った店の人の責任は問うてはいけません。戦後、戦争画を描いた多くの日本の画家が糾弾され、まるで犯罪者のように当時の画壇(今も生きていますし、今の人にもいます)に責められ、私の芸大時代の担任教授であった小磯良平先生(『娘子関を往く』『斉唱』というすばらしい絵があります)の心にも大きな傷を残しました。戦争当時の状況で、私に軍部からオファーがあれば、喜んで何時もの絵と変わりなく全力をあげてオファーに応えます。また、悪人といわれる人から私の絵にオファーがあってもまた、喜んで何時もの絵と変わりなく全力をあげて描きます。画家が責任を問われるは、その絵が美しいかどうかであって、画家の犯罪的行為は世界に醜いゴミのような作品を垂れ流すことです。】

 2013.03.31 【『芸術の哲学』の文章が日大の入試の問題に使用される

 先日、日本大学芸術学部(教務課入試係)から、2009年に発行した拙著『芸術の哲学』の文章を、一般入学試験にて使用した、というメールが届いた。後日、日本大学本部のほうより、実際に使用した試験問題等と、正式なお礼を兼ねた報告文書を送付する、とのことだそうだ。

 嬉しく、誇らしい。絵画作品と同じように、いい作品、コンテンツのしっかりした文章さえ書いておけば、いつかどこかで誰かの目とシンクロして目にとまるだろうという期待は持っていたが、大学入試の問題に使用されるということは想像もしていなかった。実際の使用された試験問題とその文章は、後日届けば転載しますが、まずは喜びの報告まで。

 こういうことがあると、漠然と、死ぬ前にもう1冊書きたいと思っていた本の出版への気力が湧きあがってくる。

 2013.04.25 【イーゼル絵画は禅に似ている

 イーゼル絵画は禅に似ている。香厳智閑(きょうげんしかん)禅師は掃除している時に小石が飛んで竹に当り、カーンという音がして「忽然として悟道」したという。カーンという音(外部世界の現象)とそれを聞く自分(身心)の出会う今という一瞬は、存在の創世の過去からの無数の組み合わせのなかのたった1本の因と縁によって現象しているのだ。主觀も客観も現象も、境界がなく、隙間なく、またはみ出るところなく相互に挿入されて世界の存在とかけがえのない今があるということだ。

 天のオファーがあっても、それに気付き描写するスキルを持っていなければ、せっかくの幸運も逃げてしまう。マグロを独りで釣ろうとすると、船を買う資金のことから操船技術、漁場、しかけ、餌等々、種類の違うハードルをいくつもクリアしなければならないが、それらをすべて乗り越えても、せっかく喰い付いたマグロをしっかりと針がかりさせ、船上に取り込むスキルを持っていなければバラしてしまう。だからこそ、専心修行、只管打坐(しかんたざ)せよと道元は言っているのだ。イーゼル画なくして芸術の世界には到達できません。

 2013.07.03 【明日から個展

 去年の6月からのフェイスブックの参加から、「画中日記」に書くことがすっかり間遠くなってしまった。今日は明日からの個展のために、仕事を早めに切り上げ、夕方回転鮨で一杯やって銭湯に入り今帰ってきてこの文章を書いています。

 明日から個展ですが、芸大の4年生の時の同級生との、銀座あかね画廊での2人展から始まり、今までいったい何回展覧会をやったのだろうか。多くの私の作品と、多くの人との出会いが通り過ぎて行った。諸行は無常である。実存も無常だ。自我を存在理由にして生きるかぎり、どう生きたって死ねば終りだ。

 〈世界〉は、人間の外側に人間に関係なくある〈超越〉なのか、〈内在〉つまり人間が、認識する側が創造するのか。〈美〉は、人間の外側に人間に関係なくある〈超越〉なのか、〈内在〉つまり人間の内側に生まれ、認識する側が創造するのか。その世界観によって画家の描く絵が違ってくるし、当然生き方も決まってくる。この弁証法的な進歩によって世界の美術史は脈々と続いてきたのだ。

 そう考えると、〈美〉は100人100通りと考えるポスト・モダンの国アメリカがリードしてきた戦後の現代美術の流れは、ゴーキーやロスコ等の少数の画家を除いて見当はずれの現象だったことが分かるだろう。人は錯誤するし、家族も錯誤する、会社も錯誤する、国家も錯誤する、時代も錯誤する。

 〈超越〉は無常ではないし、錯誤はしない。〈美〉は超越である!

 2013.08.23 【クロアナバチ

 数年前から気付いていたのだが、団地の始発のバス停の,道路と歩道の間の雑草の隙間の裸地に毎年この時期、クロアナバチが穴を掘っている。新しい穴は小さな虫が細かく掻き出すので、土の色と質が周囲と異なり、気をつければすぐに分かります。穴はたいてい(全部のハチを見たわけではないので)1匹で3個掘って、真ん中の穴が本当の巣穴、あとの2つはダミーです。この穴に、正確な部位を刺して動けなくしたツユムシやクサキリを入れ、卵を産んで入口を塞ぎ、生まれた幼虫は動けないだけで、生きているツユムシやクサキリを食べ、そのまま自力で成虫になって穴から出てゆく。

 クロアナバチを最初に見たのは、父が千葉県の市原で団地内の、勤めていた会社の分譲した土地を買い、そこにプレハブの家を建てた時の、引っ越ししたてのまだ塀も庭も出来ていない造成地の土の上だった。ハチが穴を掘って、ツユムシやクサキリを狩って穴に運び込むのを観察していると、虫好きだった少年時代の興味が復活してきた。塞ぎ飛び去った穴を丁寧に掘り返し、足の付け根に卵の付いたクサキリを取りだし、飼ってみたのだが結局卵は孵化せずクサキリも死んでしまった。温度や湿度、大雨による水、それにカビや細菌など微妙なハードルが、数々あるのだろう。同じような場所はどこでも沢山ありそうなのに、クロアナバチの巣穴がかたまってあるのは、そのせいなのだろう。

 忘れてしまっていたクロアナバチを、何十年ぶりに何年か前にバス停で見た。それ以来毎年この時期に同じ場所で見かける。私のなかのクロアナバチの記憶も、現実のクロアナバチの存在も、どこにも切れ目や穴ぼこはなかったのだ。時間と空間の隅々に、オールオーバーに洩らさず、存在は埋め尽くされている証拠がここにある。

 この時期になると、いつもバス停でクロアナバチをさがす。クロアナバチの無心に生きている姿を見かけると、もともとネアカなのだが、より以上にウレシく元気になる。

 2013.09.27 【満月を見て

 先週の9月19日は中秋の満月だった。富士の裾野の、御殿場という名月にピッタリの風景のなかで、台風一過の雲一つない理想的な真円の月を見ていて、あらためて気付いたことがありました。

 そのとき私は何を見ているのだろうか。月〈その物〉を見ているのだろうか。

 太陽のような発光源と違って、月は太陽の光のリフレ(反射光)である。ということは、その月を見て描くということは、月その物を見て描いているのではなく、月に反射する光を見て描いているということなのだ。これは日中でも同じで、私達は物自体を見ていると思い込んでいるが、実は物に当たったリフレを見ているのだ。このことに画家が気付き(もちろん、印象派以前にもそれに気付いていた画家はベラスケスの他多数います)、意識化し、方法論を研究し、描画法を研鑽したことが、印象派の始まりなのだ。つまり、印象派はリアリズムなのです。この構造が理解できれば、印象派の絵が心のフィルターを通して描いているという解釈や、写真のようにただ細密に描くことが、物自体の実在に迫るという考え方の絵がピントはずれであるということに気が付くでしょう。このことに気付けば、坂本繁二郎の、「露國や獨逸あたりの畫によく見らるゝやうな咀嚼されない惡寫實はたまらない」(『坂本繁二郎文集』 昭和31年、中央公論社刊、214~218頁)の言っている意味がよく解るでしょう。つまり、絵具がリフレに変換しきれていないところが、〈咀嚼されない惡寫實〉の印象を鑑賞者に与えるのです。

 2013.09.28 【一発菩提心を百千万発するなり

 「一発菩提心を百千万発するなり。」(『正法眼蔵(3)』岩波文庫、332頁)

 発心なくして成仏はありません。発心が原因で成仏が結果です。しかし、釈迦や道元といえども、1度の発心と成仏の後も、発心、修行を続けなければ、つまり成仏の結果だけでその後の生活を過すならば、すぐに修行がマンネリズムにおちいってしまうでしょう。

 因果律からいえば、現在は過去の結果である。タネを撒かなければ収穫はない。そして、忘れてはならない、日常生活に頽落すると忘れがちなのが、「現在は未来の原因である」ということだ。今日撒いたタネが数カ月後の収穫になるのであり、今日の働きが1カ月後の月給になるのであり、今日の勉強、修行、努力が未来の自分を大きくするのです。

 老いは恐ろしい。未来の時間が少なくなると、若い時と違って、今という時間が未来の原因であるということを忘れてしまう。明日の絵は過去の作品よりも少し進んでいる、1年後はもっと進んでいる、最晩年の作品が1番良いと自分に納得できるように発心をし続けなければ芸術を志したカイがない。

 2013.10.14 【伊澤達史氏を推す

 伊澤さんの作品に私が初めて出会ったのは、2002年の8月、銀座奥野ビルのギャラリー銀座フォレストでの彼の個展会場でだった。画廊での展示作品はモノクロームの光を主題にした作品だったが、私が強く印象付けられたのは、会場に用意されていた何冊かのファイルの中にあった、過去の作品群で、風景や静物をただ単に写生しただけの絵だ。

 驚いた。前世紀には当たり前だったイーゼル絵画(モチーフの前にイーゼルを立て、写真や下絵を使わない直接描法)をやっている、現代の若い絵描きがまだいる、まだいた。その作品群はイーゼル絵画特有の「物感」に溢れている。当たり前だ、画家の裸眼の視線のアリバイが画面に変換されているのだから。

 その後、藤屋画廊の濱田さんから持ちかけられて生まれた、2006年10月の『視惟展』(今年で第8回目だが、こんなに続くと思っていなかったのでDMは初回、視惟展とだけしか印刷していない)に参加を呼びかけ、今年まで連続して出品して貰っている。

 彼は現在、生まれ育った岡山に住んでいるので、東京の美術シーンの動向に取り残されるという焦りもまだ若いので多少あるとおもうが、イーゼル絵画にはそれは逆で、写真や資料やイメージで描くのではないのだから、裸眼で、無心に身の周りの美しい世界に対峙して描き続けることができれば、そして描き続ければ、必ず美しい作品群が残ることでしょう。イクスの風景を残したセザンヌのように。

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