岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

画中日記

『画中日記』2012年

投稿日:2020-04-30 更新日:

『画中日記』2012年

 2012.03.25 【「抽象印象主義」その後】

 2010年5月からのイーゼル絵画への取り組みから、ギャラリー絵夢での東伊豆風景の個展と、近年すっかり具象の作品を中心に制作していたのだが、最近、抽象画の方も動き出してきた。それは、やはりイーゼル絵画の現場での色々な発見が原因だ。現実の光と空間の前で制作するイーゼル絵画と、写真や下絵など平面をもとに制作するアトリエ絵画の光や空間の違いを考えているうちに、イメージの形象をもとに制作する抽象画とイーゼル画との光や空間の違いが浮上してきたからなのだ。以下、今までの私の抽象画の光と空間を箇条書きに記す。

(1)形象の面がすべて正面を向いていて、斜めの面がない。

(2)近景がない。

 つまり、光が描ければは画家の目と鑑賞者の目はシンクロするのだから今まで通りでいいのだが、画面から画家の立ち位置までの「空間」を暗示できなければ、鑑賞者の目を画家の目まで引っ張ってくることができないのだ。逆に言えば、今までの私の抽象印象主義の画に以上の点を加えて描写できれば、イーゼル画に負けない抽象画ができるだろう。

 11月の藤屋画廊での個展はイーゼル画だけでやろうと思っていたのだが、抽象印象主義も健在なところを展覧しようかと迷っている。

 2012.03.24 【『風姿花伝』を読む】

  さるほどに、細かに知るべき事あり。風情を博士(はかせ)にて〔所作を基準として〕音曲をする爲手(して)は、初心の所なり。音曲より働きの生ずるは、劫(こふ)入りたる故〔年功を積んだため〕なり。音曲は聞く所、風體は見る所なり。一切の事は、謂はれを道にしてこそ、萬(よろず)の風情にはなるべき理(ことわり)なれ。謂はれを現はすは、言葉なり。さるほどに、音曲は體(たい)なり、風情は用なり〔耳に入る音曲は體で、それから生ずる、眼に見える姿は用である〕。しかれば、音曲より働きの生ずるは、順なり。働きにて音曲するは、逆なり。諸道・諸事において、順・逆とこそ下(くだ)るべけれ。逆・順とはあるべからず。返す返(がえ)す、音曲の言葉の便りをもて、風體を彩り給ふべきなり。これ、音曲・働き、一心になる稽古なり。(『風姿花伝』岩波文庫 83~84頁)

 2012.04.30 【『100年の難問はなぜ解けたのか』を読む】

 以前、NHKのテレビ番組を録画した『魔性の難問~リーマン予想・天才たちの闘い』と言うDVDを送ってもらい、その件で、N氏と交わしたメールのやりとりを2009年11月27日の画中日記に載せた。今回は『100年の難問はなぜ解けたのか』(新潮文庫)をめぐるメールのやりとりを下記に載せます。

●Date: 2012年4月22日 15:41:21:JST

面白い本を読み終えて、今読書ノートに抜き書きしています。終われば、私のサイトにアップします。題名は『100年の難問はなぜ解けたのか』天才数学者の光と影 NHKディレクター春日真人著 新潮文庫です。番組の取材ノートの紹介は、下記のアドレスにアップしています。

http://mathsoc.jp/publication/tushin/1402/1402kasuga.pdf

超越(真・善・美)に人生を賭ける少数の人達の実存的人生のドラマは皆同じ構造をしているということが分ります。時間があれば読んでみてください。岡野

◎Date: 2012年4月22日 22:48:12:JST

興味深い本の紹介、ありがとうございます。

超越(真・善・美)の探究に人生をかけた人達のお陰で、後の私たちがどんなに恩恵を受けたか、計り知れません。

未踏の領域へ果敢に挑戦した天才たちの人生の重さを感じつつ読んでみたいと思います。

☆帰りに駅の本屋でさっそくゲットしました。

また、読み終わりましたら、メールします。

ありがとうございました。(iPhoneから送信)

N

◎Subject: ポアンカレ予想

Date: 2012年4月30日 0:26:20:JST

「100年の難問はなぜ解けたか」読了しました。

数学の世界の魅力に引き込まれるように読み続けました。

私の知る算数の延長にあると思っていた数学という世界が、

宇宙や多次元などを扱い、観測でなく、論理で宇宙の形を知ることができることの驚き。

 

さらにこのポアンカレ予想を証明するために天才たちが展開した論理の世界の奇想天外さと鮮やかさ。

その魅力は相当な吸引力を持っていますね。

天才と言われた数学者たちが、人生をかけてしまう真理というものの魅力がわかるような気がします。

また、それは解かれなくてはならないものなのですね。

この証明には物理学の知識が必要だったことは、リーマン予想に通じるところがあり、どのルートをたどっても万物を超越した真理というものが立ち現われてくるということなんですね。

しかし、ペレリマンが物理を得意だったことや、誰も取り組みそうもない研究の特異性が証明を可能にしたことを考えると、100年を費やしたこの証明に残された最後のピースが、ペレリマン自身だったのではないかと思えるほど、その巡り合わせの数奇さには驚きます。

しかし、証明に成功した当のペレリマンの後の姿を見ますと、それはなおさら感慨深いものでした。

ところで、NHKスペシャルのこの番組は、録画しておりました。

すっかり忘れていまして、探し出して観ました。

ダビングして送りますので、観ていないようでしたら、ご覧になっていただければと思います。

N

●Subject: Re: ポアンカレ予想

Date: 2012年4月30日 7:00:29:JST

 昨年の最後の【読書ノート】に載せた『善の研究』(西田幾多郎著 全注釈小坂国継 講談社学術文庫)は途中で読み進めるのを断念しかかったのだが、2009年8月24日の【読書ノート】に載せた『ペンローズの〈量子脳〉理論』(ロジャー・ペンローズ著 竹内薫・茂木健一郎訳・解説 ちくま学芸文庫)で出会った、「物の世界」、「心の世界」、「プラトン的イデア界」を三位一体とするペンローズの説と同じではないかと驚き、その構造で読み進めると論旨が矛盾なく頭のなかに入って来て驚いた。西田哲学のすばらしさはもっと世界にアピールすべきだし、その東洋的世界観の正しさを日本人はもっと誇ってもいいと思う。物理、数学畑のペンローズの理論と、倫理、宗教、哲学畑の西田の理論と、芸術畑の私の世界観が、歩んできた道は違ってもほとんど同じところに行き着くのは何故だろうか。その理由は簡単なこと、世界はそうなっているから、世界はそのように存在しているから、私はそう確信している。( 2011.01.09 【『善の研究』を読む】)

上記の文章は以前私のサイトの【画中日記】に載せたものです。世紀の難問を、ペレリマンの証明が物理学を使ったり、トポロジー(美術でいえば抽象絵画)ではなく数学の世界では時代遅れの微分幾何学を使って解いたということに、そして彼がまるで、自身の実存を断ち切った修道僧のように、人生の時間を使っているということに、三元論的世界観の正しさの証拠を見たおもいがします。私も残った人生を、芸術の道から、自信を持ってこの山に登り続けようとおもいます。道は、迷い見失っていないのだから。岡野

 2012.08.03 【「逆遠近法」】

 富士(1)と富士(2)は近景まで画面に入れたのだが、(3)、(4)の横構図で遠景の大きな対象をキャンバスの中心に入れると、近景が入らない。そうなると、イーゼル絵画の重要な利点である画家の立ち位置を暗示するにはどうするのか、という命題が立ち上がってくる。でもそこがアトリエ絵画と違って、イーゼル絵画のいいところで、問題にかまわず現場で描いているうちに、この命題(画家の立ち位置の暗示)をクリアするいいアイデアがひらめいた。それは、かって桑原住雄氏が1974年に札幌三越での個展の時につくった私の作品集の巻頭の評論に書いた「逆遠近法」という言葉を思い出し、それがヒントになりました。この桑原氏の文章の一部を引用します。

 

「彼の人家も、樹木も、草原も、永劫という蒼穹に到るパースペクティブのうえに人家、樹木、草原、という物象が配列される。しかし、ここで注意しなければならないのは、岡野の遠近法の消失点は蒼穹の彼方に置かれてはいないということだ。消失点は自己そのものなのであって、したがって、自分の足許から次第に地平線へと遠ざかってゆくパースペクティブは、岡野とは関係はない。かれの遠近法は蒼穹に始点があり、自己という消失点に向って、逆に展開されていると言ってよいだろう。遥か彼方から始まり、自己に到って完了すると言う逆遠近法が、彼の内面の風景を支配し、構築している。自己消失のパースペクティブである。」(「岡野浩二の内景」桑原住雄 1974年 『岡野浩二作品集』巻頭文より)

 イーゼル絵画のシバリは、画家の立ち位置、視覚対象(モティーフ)、画面のつくる3角形を崩さず描画する、そのためには裸眼(写真のソフトや他人の眼のソフトではない自分のソフト)で、直接(写真や、下絵等の平面や記憶、想像からではない)キャンバスを立て(そのために、世界を横に見る)て描くという3つです。画家の眼のある場所(立ち位置)が暗示されると、画面上の形象が空間を持ち芸術美の重要なフレーバーである「物感」が鑑賞者に伝わる、つまり、鑑賞者の目は、画家の目にシンクロするのです。画家の立ち位置のないアトリエ絵画は、画家の頭の中(脳、意識)には反応しても、身体(目)にはシンクロしない。

 画家の立ち位置の暗示の命題から、東伊豆では近景を画面に入れるという、そして風景画の縦構図という、私の今までの画業のなかでは画期的な方法で乗り越えてきたのに、これが富士山というモティーフでは通用しない。縦構図では辛うじて近景が入るが、キャンバスを横に使う横構図だと近景が画面からはみだしてしまうのだ。最遠景に巨大な形象があると、近景のない、中遠景のみの画面になってしまい、この場合の画家の立ち位置の暗示をどうするかという新たな命題が出てきた。この命題「近景のない絵の画家の立ち位置の暗示」の方法のヒントが、桑原氏の使った「逆遠近法」という言葉です。

 つまり、視線の矢印を逆にして、画家の目を対象に対する発出点ではなく、対象からの消失点としてとらえ直すというアイディアです。消失点としての立ち位置が画面に暗示でき、画家が現に裸眼で画面に描かれた形象を視ているという感じが出て、画面に物感が立ち現れればこの命題は解決できるだろう。富士山の絵を描いて、証拠を見せるのはこれからの難事業だが。

 2012.08.18 【自分の居る位置】

 7月26日に手をつけた「富士(1)」が出来あがった。東伊豆で描画のスキルを鍛練したおかげで、描き初めから停滞なしに、順調に仕上がった。

 道のない山の中で迷うと、同じところをグルグル廻るように、キャンバスの上でも、筆のタッチの後ろに、やっている行為の意味の裏付けがないと、時間をかけても画面が堂々巡りをして、描くことが空しく苦しくなる。

 道に迷わないで目的地に行くのに、地図だけ用意してもダメで、自分のいる位置が地図上のどこにいるのかを特定して(今は、ナビやGTSで簡単になったが)、目的地の方向と自分の進む方向を磁石で合せて初めて目的地に近づけるのだ。このかってはあたりまえの常識であったことを無視して(絵画でいえば「美」の喪失と「デッサン不要論」と写真や資料による「アトリエ絵画」)、地図さえも用意せず、描く行為のみを楽しみ、目的地のない、自分の周辺を散歩するような行為として芸術をとらえるというカンチガイが現代絵画に蔓延している。セザンヌ以後のセザンヌ解釈の誤りによって美の基盤を失い(ピカソとアメリカの現代絵画)、現代美術は間違った道に進んでしまった。

 何かを成すのに、自由にやっていれば偶然にできたり、なんのスキルも持っていない子供や素人の方が良い物を作るような仕事は、この世のどこにも無い。画も例外ではありません。

 2012.08.31 【住谷重光氏の文章】

 住谷美知江さんのフェイスブックにアップされた、住谷重光氏の文章を下記にコピーし、それにたいする私のレスをその下に書きました。

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 住谷重光が岡野岬石さんの作品写真を見て。

 

 小沼さんが、作者の立ち位置を感じていると言われた岡野さんの作品、素晴らしいです。僕も同感です。

 

 岡野さんの抽象作品と出会った5年程前の藤屋画廊での事を思い出します。その時からすでに平面の美しさ、画面の奥に何か存在を感じる事、そして、観る人も含めた現実空間に作用するエネルギーなどありました。

 もちろん、今回の作品は、より深く、より広く、そして、豊かさを感じるのですが、それは、イーゼル絵画によって、物感を追及された成果なのでしょう。

 

 そう言えば、坂本繁二郎の「月」のシリーズでも、近景のない月の作品は、どう工芸的な方向に向かい感心しません。最晩年の逝去された1969年に描かれた「月光」「幽光」など近景のある作品は、作者の立ち位置、作者の呼吸している空気や光や温度、画面からの芸術の香り、そして、あるがままの世界は、こんなにも美しいんだよという愛に満ちた現実肯定。その感動は今もありありと思い出します。イーゼル絵画による作者の立ち位置の大切さなのでしょうね。

 

 さらに、物を前にして描くという姿勢を貫いていた画家が、物から離れて自由に描くといった境地も取り入れている事も興味深いです。

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 私のレスポンス

 

 ほとんどの絵画作品は、通常壁に掛けて鑑賞します。画集をや写真を見るように、手に持って上から見下ろすようには見ません。天井画は、本で見るとなんの違和感も感じませんが、実物を壁に掛けると空間に違和感を感じることでしょう。地上で生きている人間や動物は世界を横に見ています。横から見た世界の中で生れ、育ち、生きています。

 ですから、イーゼル絵画のように、世界を横に見て、キャンバスを立てて置き、完成した作品を壁に掛けて鑑賞すると、画家の眼が認識定着した画面の空間と、その作品を見る鑑賞者の空間が一致して画家の眼を追体験して、芸術の感動が生まれるのだとおもいます。

 坂本繁二郎の月の絵は、彼の本で読んだのですが、イーゼル絵画ではなく夜トイレにいった時に見た月を記憶で描いたようです。イーゼルを立てて直接対象を描写していれば、何も考えなくても世界の認識空間の問題は自然に克服できているのですが、アトリエ絵画や、抽象画では空間の問題に気付きにくく、無視されがちです。ドリッピングの絵を壁に掛けたり、キャンバスを寝せたり回したりして描いた絵は、画面の空間と鑑賞者の空間がシンクロしないのでそれが芸術のテイストに欠ける原因だとおもいます。

 坂本繁二郎の月の絵は、見上げた視線の月で、あの絵をイーゼルを立てて描いたとすると、非情に苦しい姿勢で描かねばなりません。つまり、あの絵の空間にはキャンバスの立ち位置がないのです。それが、坂本繁二郎のイーゼル絵画の作品との物感の違いではないでしょうか。

 2012.11.04 【個展2日前

 明日は、個展の搬入飾り付けで、明後日6日(火)から銀座藤屋画廊での個展です。

 ほとんどの画家は、自分の作品を見せたくて、見てもらわなくては生きていけない人種なのです。作品の前に立っている人の目の中に、自分の作品が写り込んでいるところを想像し、またその映像が、美しきものとして永く記憶にとどめられることを期待して、ただ生きていくだけでも過酷な日常生活をしのいでいるのです。

 どうぞ、画家のそのささやかな喜びのために、個展後も描き続けるモチベーション保持のために、ご来廊を切にお願い申しあげます。

 2012.11.05 個展前日

 明日から、いよいよ個展の開幕です。個展の初日は、何回やっても、年齢を重ねて面の皮が厚くなっても、想定外の甘い期待にワクワクします。低い格率ながら小説のような出会いと出来事が、本当にあるのですから。

 結果はどうであれ、飾り付けが終わった画廊で、ひとまわり自分の作品を見廻して、心の中で小さなガッツポーズがでれば、その個展は成功といってもよいでしょう。私の以前作ったアフォリズムに「代価はアトリエ(今は現場)ですでに支払われている」というのがあります。ということは、貸借対照表からいえば個展前に貸し借りなしなのですから、当然個展の喜びは全べてプラスのカウントになります。

 ということで、明日は洲崎さんに個展会場のパノラマ画像を録ってアップして貰いますが、私もデジカメで動画を撮ってユーチューブにアップしてみようとおもいます。うまくいくかどうか……。

 2012.11.11 【パラダイス・アンド・ランチ】(序)

 「Paradise and lunch」という言葉は、ライ・クーダーのCDの題名です。今はもう人にあげて手もとにはないのだが、FMラジオをを聞いていて、この曲の題名の由来を知って、すぐに検索して買いました。

「パラダイス&ランチ」はライ・クーダーがアメリかの田舎で出会った、道路沿いの軽食堂の軽食堂の名前で、その名前の意味を店主から聞いて自分のアルバムの題名にしたそうです。その意味とは――天国でランチを食べているのだから、食い物が旨いの不味いのなんて贅沢言うな、ということだそうです。

 それにプラスして、私のもう一つの解釈は、天国にいるのに、そのうえ美味しいものが食べられるなんて「豪勢なもんだゼ」というものです。つまり、生きていることは、そもそも天国にいるのだからマイナスのポイントは「ブチブチ不平不満や文句を言うな」、であり、プラスのポイントは「豪勢なもんだゼ」ということです。

 同じような意味で、私の以前作ったアフォリズムに「代貨はアトリエ(今は現場)ですでに支払われている」というのがあります。ということは、貸借対照表からいえば個展前にプラマイ0、貸し借りなしなのですから、当然個展の喜びは全べてプラスのカウントになります。

 ですから、当然個展での新たな出会い、喜びの時間は「パラダイス・アンド・ランチ」、「豪勢なもんだゼ」ということになります。

 2012.11.12 【パラダイス・アンド・ランチ】(レストランロゴスキー)

 私がまだ20代の頃、今はもうないが高島屋の横の喫茶店ゲルボアの2階にあった日本橋画廊(数々のこの画廊経由で有名になった画家を売りだした伝説の画廊。オーナー、児島徹郎)で最初の個展を開いた時、作品は完売だったので、両親が見にきたときの昼食に、画廊の近くのロシア料理店につれていった。見知らぬ銀座のレストランで、メニューから知らない料理を選び、3人前食べるのはまだまだ敷居が高いが、ボルシチとピロシキをたのべば値段もたいしたことはないだろうとの心づもりだ。昔の人は、小食だしおまけに昼食なのでそれで充分、ボルシチとピロシキ3人前では同じ年ごろのボーイ(懐かしい言葉だネ)にバカにされそうで、私はカッコつけてビーフストロガノフとビールで食事をした。田舎から出できた両親はそのていどの料理でも東京のレストランで初めて食べる料理に、そして、年若い息子が気圧された様子もなく(こういう時の、内心のドキドキを表情に出さないために、男児はメンコやビー玉を賭けてポーカーをやるべきだ)振舞っているので、料理の味よりも連れられた息子の態度に安心満足して料理を堪能した。(つづく)

 2012.11.13 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-1)

 父の祖父は岡野弥三郎という人で、岡山県の児島で回船業をやっていた。「興福丸」という船を持って裕福に暮らしていたそうだが、その身代を、父の父親の岡野岩太郎という人がファンキーな人で、潰してしまった。

 父は、高等小学校を卒業するとすぐに神戸か大阪の小企業の鉄工所に丁稚奉公をし、そして、三井造船所が岡山県の玉野市に出来たときに、造船所に就職した。そこで、工員の現場から最終的にはブルーカラー400人を部下に持つ、職場長にまで叩き上げていった。定年後に移った千葉工場では、勲六等旭日瑞宝章の勲章を貰い、大学生(1年と2年の間の春休みだった)だった私が皇居の中まで、都会と受勲を心細がった両親に付き添って行ったことも懐かしい。

 私のネクタイを買うために東京駅の八重洲側に降り、駅の売店の吊るしの比較的ジミなネクタイを買って丸の内側に廻り、田舎から出て来た借り物のモーニングを着た父と、黒っぽい着物(留袖というのか)の母と、1着しかない背広に初めて絞めたネクタイ姿の、都会で下宿している息子の3人が、東京駅の連絡通路を歩く後ろ姿は映画のワンシーンになるネ)、皇居には3人で歩いて行った。もちろん皇居内は初めてで、両親が昭和天皇と集団で謁見の間、付添人は屋外の東屋のようなところで待っているのだが、付添人のなかでは一番若い私は、叱られそうもない範圍で附近をブラブラしながら待っていた。

 天気がよくて、大きな石の城壁の内堀は、鯉か鮒が産卵のため岸辺でバチャバチャしているし、野鳥の声も聞こえる。大都会の真ん中で、異次元の世界が昨日も、今日も、明日も、明後日も存在し続けている。まるで、白昼夢のような世界だ。(つづく)

 2012.11.14 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-2)

 陛下(昭和天皇)への謁見が終り、勲賞の授与は役所の小ホールのような部屋で、宮内省の役人の取り仕切りでおこなわれた。壁際に付添人が立ち、各受勲者は名を呼ばれると前へ出て賞状と勲賞をおし頂く、それをカメラマンがバチバチ写真を撮る(カメラマンの動きが目立ったが、このとき撮った写真は、後で注文の申し込みが郵送され、有料でしかも高価なので、父は余裕のお金がないため1枚も注文しなかった)。まだ二十歳前の付添一人と心細げにしている老夫婦の家族は、ハレの舞台で上気している他の家族に比べ、いかにもひそやかで頼りなさげだ。

 勲賞の授与は人数の多いせいか、盛り上がりもなく事務的に、淡々ととり行なわれた(映画なら、父親に受勲の瞬間、壁の隅に立っている息子が両親の耳に届くように突然パチパチと大きな拍手をするシーンなんていいなァ)。(つづく)

 2012.11.15 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-3)

 恩賜されたものは、七宝焼の勲賞と賞状とカン入りのタバコ(ゲルベゾルテという名の切り口が楕円形の匂いの強いタバコ)ひとカン、その包みを持って、3人はまた東京駅まで歩く。時間はまだ午前11時頃だろうか。東京駅の丸の内側に着くと、まだ時間はタップリあるし、せっかく東京まで出て来たのだから、三井造船の本社の◯◯さんに挨拶をしてから千葉の家に帰ろう、と父親が言い出した。予定したことではなくて、本社の住所も電話番号も知らないし、アポイントもとっていない。東京の大学生のお前が頼りなのだから連れていってくれ、というのだ。父親のおぼろげな記憶で、たしか三越本店の裏のピルだった、という手がかりだけで、3人は東京駅から日本橋三越まで歩いていく。よく歩く。タクシーはお金の問題もあるが、乗り馴れていないので予定を変更してサッさと気軽に使えないし、そもそも選択肢のひとつに浮んで来ない、バスや都電は複雑でよく知らないので、とにかく、大した距離ではないだろうと東京駅の、朝一度通った北口連絡通路を八重洲側に廻り、3人は日本橋三越まで歩きだした。(つづく)    

 2012.11.16 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-4)

 広い日本橋の交差点を渡り、橋の欄干に青銅の高欄を付けた広く大きな石造りの橋を渡って百メートルくらい歩くと三越本店だ。当時は車も少なく、周囲のビルの高さも低いので、迷わず三越に着いた。皇居から日本橋三越まではかなりの距離があるが、昔の人にとって、また若い私にとっては歩くのはなんでもない。三井造船所の本社のあるビルを少し探したが外からは見付けられず、両親を道端に待たせてビルの裏口にいた守衛に聞いてみると、その聞いた当のビルだという。おまけに、事情を話すと守衛室から電話を入れてくれて、両親はエレベーターで面会に向った。私は外(道路)で待っていた。

 ほどなく、両親は下りて来て、これから役員と会食することになり、私も同席して3人の昼食をご馳走してくれるという。近くのレストランに歩いていくのかとおもったら、タクシーに分乗して(あれェ、5人乗ったのだから、ハイヤーだったのかな。もっとも、当時はタクシーとハイヤーの違いも知らなかったが)、たしか朝、皇居に歩いていった時にその前を通ったホテルの玄関に横付けした。(つづく)

 2012.11.17 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-5)

 人数は5人で、私の家族3人と、私も子供の時に玉野で何度か会ったことがあるKさんと、もう一人は、父もあまり懇意でないような、Kさんと会社での上下関係が不明な人(今この文章を書いていて想像するのに、予定外の会食の費用を会社から出させるための員数合わせだったのだろう)。5人はホテルのフロントを通り、エレベーターに乗って最上階の展望の良いレストランに向った。

 じつは、私は、前日実家に泊まり今日父母に付き添って、帰りは途中の市川駅で別れ、間借り先に帰ろうとおもっていた。だから、母が用意した食料品や洗濯した下着などを詰めたカバンを持っている。エレベーターのドアが開いて、5人はレストランに向う。持っているカバンはどうすればいいのだ。

 するとK氏は場馴れしたようすで、カバンはクロークに預けなさいという。クロークの女性に、大きさのワリに食料品でズシリと重くみすぼらしいカバンを手渡したとき、この同年輩の女性の視線で、彼女の目の中に写ったこの5人の集団の構造が分かる。

 つまり、田舎者の両親とその祝い事に付き添ってきた息子の3人が、会社のお偉方に連れてきてもらっている。おまけに、息子はおそらく初めてのホテルのレストランにアガってドギマギしている、というシーンだ。

 さて、そのような構造のもとに、今回のパラダイス・アンド・ランチのテーブルにやっとたどり着きました。(つづく)

 2012.11.18 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-6)

 テーブルは予約され、皇居の見える窓のそばに、すでに5人分席がセットされていて、そこに案内される。父とKさんが席の上下(かみしも)のことでちょっとやりとりがあったが、今日はお祝いということで私たち3人が窓側を背にして座った。

 椅子に座ろうとすると、ボーイが椅子を引いてくれるし、テーブルの上にはお皿、グラス、ナイフ、フォーク、などが整然と置かれている。私たち家族3人は、生れて初めての場の雰囲気に気圧(けお)されて、気持がすっかり萎縮してしまった。おまけに、これから始まる食事の進行の行程や、テーブルマナーも知らない(今では考えられないが、当時のテーブルマナーはこっけいなくらい食べ方に正式な型を要求され、そのためそれを知らない人は周囲にひんしゅくを買い、ホテルや高級レストランは入るのに敷居が高かった)。美しく折られて鎮座まします目の前のナプキンは、いつ拡げて膝の上に置けばいいのか、メニューはどう選べばいいのか皆目分からない。おまけに、父母はもっと分からなくて萎縮している。そういう場に遭遇した時、私はどうすればいいのか、どういう態度でこの先の進行に臨めばいいのか、一瞬のうちにさまざまな思いが渦巻いた。(つづく)

 2012.11.19 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-7)

 今から考えれば、Kさんにしてもサラリーマンなのだから、会社の接待では使っても、普段日常的にこんなところで食べ慣れているわけではないのだろうと分かるが、そのときは、メニュー選びからテーブルマナーまでさりげないアドバイスがあればその場はもっとリラックスできたのにとおもったので、ホスト側の態度が冷たく映りうらめしい。その時は逆に、こちらのひがみ根性で、都会のエリートサラリーマンが何も知らない田舎者の家族をバカにしたがっている、意地が悪いひとだなあと誤解した。ひがみ根性は恐ろしいネ。

 これまでの成行きは、予定された出来事ではない。突然の状況が待った無しに次々と進んでいく。とにかく、せっかくのご馳走がこのままでは惨たんたる食事になってしまうので、この状況に陥っている原因は気持の萎縮である、これをなんとか解きほぐすことが一番のポイントである、と結論した。心の萎縮を解くためには、縮こまった原因を認めることである。つまり、ひらきなおり。窮鼠猫を噛む、「ハイ、私たちは何も知りません。ソレガナニカ問題デモ・・・」。

 知っていることを奢らず、知らないことを恥ずかしがらない自然体、平常心で対処することがベストな態度だが、それにはまだまだ程遠い。修行が足りない。(つづく)

 2012.11.23 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-8)

 その場に気圧されて、視界が狭くなった状態は変わらないが、自分のこの場での行動のフォームを決めたので少し気持の動揺が落ち着いた。つまり、“初めてのホテルの食事に、何も知らない青年は物怖じするどころか、喜んでハシャイでいる”、という役作りで行動すればいいのだ。

 メニューは銘々の前にあり、父親から順に聞かれたが、母親の横から私が口をはさみ、Kさんにメニューの選択をお願いした。Kさんは、昼食なのでフルコースではなく、それでもアラカルトではない、昼食用のコース料理を5人前オーダーしている。その際、肉料理のコースにするか魚料理のコースにするか父親に聞いてきたが、これも私が横から、両親の食生活から、魚料理にしてほしいと口をはさんだ。パンかライスかは、私一人がパンであと全員はライス、食後の飲み物は、私たち3人が紅茶、Kさんたち2人はコーヒーに決まった。さて、やっとこれからパラダイスランチの始まりである。5人は、目の前の、王冠のように折られて鎭座まします、口を拭くのをためらわれるような白いナプキンを膝の上に拡げて料理を待った。

〈書いているうちにディテールを思い出し、最終回をもう1回延ばします〉

 2012.11.24 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-最終回)

 スープやサラダやパンやライスが、いつどんな順序でテーブルに出たのか憶えていないので略するが、Kさんが選んだ5人前のメインデッシュの料理には驚いた。シェフ(当時はコックさんと言っていたと思うが)と助手の2人が料理用のワゴンをテーブルの脇に引いて来てストッパーをかけ、鉄板の上で調理を見せながら料理をし始めた。5人分の数種類の魚介類の具材を手際よく調理すると、最後に見せ場のフランペで鉄板の上が一瞬炎に包まれた。もちろん、フランペなんて言葉もしらないし見たこともないので、炎の出た瞬間、素直に、そして少しおおげさに「スゲェ~!」と声をだした。シェフは得意げな顔で私に目で頷く。

 パンは私だけだが、ウエイター(当時はボーイさんと言っていた)がやはり見たこともない数種類のフランスパン系のパンのピースを銀のトレイにのせてきた。お好みのパンを選べ、というのだ。私は意識的に「1個だけですか」と聞くとボーイさんは「何個でもお好みで」と答える。最初は3種類くらい選んだだろうか。

 魚の料理が5人のお皿に取り分けられ、パンも一緒にべ食べると、ホテルのパンは小さいのですぐになくなる。ボーイさんは、こちらがたのんだわけではないのにお替わりのパンを、やはり数種類持って来た。パンが美味しいのと、ボーイさんに何度もお替わりに気を使わせるのは気が引けるのとで、これも少し意識的に「ワー、お替わりがきた……全部もらってもいいですか」と聞いた。

 父親は、さすが気骨のある明治生れの男で、息子のこのようなやりとりを見て、視界ゼロのホワイトアウトの状態から見事に抜けだした。

 フォークの背にナイフでライスを乗せて食べているKさんたちを真似てぎこちなくごはんを食べていたのだが、ボーイを呼んで「わしラ-(私たちは)ナイフとフォークは食い慣れんケン(食べ慣れないから)箸を持って来てくれんかノー」と頼んだ。その後の食事は、Kさんの自慢話(娘がこのホテルで結婚式を挙げた)を聞きながら、途中のトイレも余裕をもって(席を立つ時ナプキンの置き方なんか気にせずに)すませ終えた。

 ホテルを出ると、私たちの帰りの足に、これも乗るのは初めての黒塗りのハイヤーが用意されていた。初めての東京のハイヤーは、運転手の方がお客の私たちより偉くみえる。途中の市川で私が降り、千葉県の市原まで両親は帰るのだが、この車の中で父が私に向って言った、「ホテルで食事をして、ハイヤーで家まで帰るんカー(帰るのか)。豪勢なもんじゃノー(豪勢なものだなー)」。ハイヤーの運転手の背中が上下に揺れたような気がしたが、これはもう、こちらの田舎者のひがみ根性が消えているので、運転手の「よかったですね」という共感のサインに見えた。(終り)

【パラダイス・アンド・ランチ】(追記)

 両親とはこの出来事について、後に、特に話しをした記憶はないが。父は、「岡野のオッサンの息子自慢・パレスホテル篇」を会社で会う人ごとに吹き捲くり、辟易されているのに当人は気付かず、周囲のヒンシュクを買っていたらしい。

 父の葬式の通夜の席で、私が知らない三井造船所千葉工場の人から、「あんたが、コージさんか」と話かけられた。工場(こうば)内の父の周囲では、〈コージ〉さんは知らない人はいない、という。岡野のオッサンの息子自慢は嫌になるくらい聞かされたが、特に、このパレスホテルでの食事の話は何度も聞かされた、ということだった。若い時の私が、そのことを知ったならば「この先、自分の将来がどうなるか分からないのに、カッコ悪いから、やめてくれ」と父に言っただろうが、受勲当時の父の年齢を越えている、今の私には、微笑ましい話だ。

 その場で、私が「周りの人にご迷惑かけました。聞いてくれて、有難うございました」と言うと、席の周りの人からも「岡野のオッサンの息子自慢」はキカン(聞いていない)人はオラン(いない)」とのことで、通夜の席が、父の思い出話で盛り上がった。

 2012.12.07 【明色を削り出す技法

 先日、御殿場からの帰りに、以前『視惟展』に招待出品していただいた、桑原盛行氏の個展を訪廊した。桑原氏本人とはお会いできなくて直接聞けなかったが、以前とは描画技法が変わった印象を受けた。さいわい、あとで当人のフェイスブックに技法のやりとりがでていたので、横のりしてコメントを入れると、あっさり開示してくれた。

 透明に色を塗り重ね、(絵具は塗り重ねると減算混合するので)明色は何度もサンダーで削り出す作業を繰り返すそうだ。最も不透明なホワイトのチタニウムホワイトを混ぜ、描き加えて明色を出す私の方法と真逆な技法だ。

 桑原氏の技法は、桑原氏だけがなしえたすぐれた、美しいメチュエの技法であるが、若い画家が真似をしてはいけない。以下にその理由を記す。

 ⑴一点の絵の制作に、時間がかかりすぎる。

 ⑵途中でフォルムの変更、絵の直しが利かない。そのため、古キャンは使えない。

 ⑶絵の中のホワイトはキャンバスのホワイトしか使えないので、ホワイトのない、やや暑苦しい感じの色彩の画面になる。

 この技法は、桑原氏のように、描き初めから完成までの方法論と、一生通じてのイズムをキッチリと決めて、そして、それを途中で変更せず不断にやり続けてはじめて為しうることであって、直しの利かない技法を最初に取り入れ、それを、自身の絵画のイズムに措定すると一生そこから抜け出ることができない、オール オア ナッシングの恐ろしい賭けなのだ。以上のような理由でイズムや技法に試行を繰りかえしチャレンジしなければならない若い絵描きが真似をすることの危険な理由なのです。

-画中日記

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