岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

画中日記 画中日記(2022年)

画中日記(2022年)

投稿日:2022-02-14 更新日:

画中日記(2022年)

『画中日記』2022.01.01【新年に】

 新しい年を迎えた。パソコンに向かっている。時間は7時45分、朝の光が眼に入ってくる。眩しいが、幸せな気分だ。

 今年の干支は寅で、私は今年の3月で76歳になる。ここ数年、世界は、相転移が起こっている。世界の相転移を正しく認識し、正しく行動すれば、日本人は何も心配することはないのだ。自分に与えられた仕事をキッチリとこなしていけば、どの分野でも、フェイクや、暴力や、隠し金でなりったっている国に負けることはないのだ。

 以下の文章は、過去3年間の新年の画中日記の文章をペーストしたものですが、今年も同じ気持ちで過ごしたいと思います。

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 今日のこの時を迎えられるのは、実存の煩悩に振り廻され、迷い道に何度も入り込んでも、美への信仰心の強さとベクトル(進む方向)が正しかったという証拠だろう。

 仏教用語に八正道という修行の実践の徳目がある。正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定(しょうじょう)の8つ、すべて正という字が頭に付いている。行き先も方向も決めないで、ブラブラ歩いても、せいぜい自分の身の周りをぐるぐる廻るだけでどこにも行き着けない。地図や海図と、磁石や羅針盤無しに、なんとかなるだろうとガムシャラに進んでも道に迷う。

 世界は、「正」という文字を頭に付けると全ての物事がキッチリと見えてくる。それは、正しいのか間違っているのか、だ。行き先は正しいのか間違っているのか、持っている地図は正しいのか、持っていく物は正しいのか(余計な持ち物は反って邪魔になる)。

 この先、日本はますます世界中から尊敬される国になるだろう。どうしてかというと、仏教的『全元論』の世界観を、仏教の伝来する以前から持ち続け、その世界観を国民一人一人が持ち、生きていて、間違いを国民全体で正して現成している、昔から現成していた、奇蹟のような国だから。日本人の世界観が、世界の存在の法(ダルマ)を、身の内に持って生きているから、つまり、地図と、磁石が正しいから。

 新年から明るいね、今年も頑張るぞ。

『画中日記』2022.01.01【正月のお酒】

 今朝の、お雑煮のお屠蘇は、燗をするので、スーパーで買ったパックの、キクマサのピンで飲んだ。夕食は、暮れの到来物の、「松美酉』のしぼりたてをオンザロックで。しぼりたての日本酒は、出荷前に火入れして、発酵を止めていないので、毎回、栓を開ける時に、ポンと音がして、フルーティーな香りがする。その分、発酵が進むので、味が変わっていくだろうが、すぐに飲んでしまうので心配御無用。この後は、『極聖(ごくひじり)』があるので、今年の新春は贅沢だ。

 週に一回行く手賀沼の日帰り温泉では、冬は昼食にお酒を1合燗をして、定食類を食べるが、去年の12月、その時の小皿にニシンの飯寿司が一時出ていた。北海道にいた頃は、アパートのベランダで、知り合いのサポートで作ったこともある。これが、美味しいんだ。北海道の外は気温が低いので、発酵が進まず、一緒に漬けた切り込んだ野菜類も半冷凍状態で、それを、ストーブで暖かい室内でサッポロの黒ラベルを飲むのは、「パラダイス & ランチ」だった。ニシンの他に、ハタハタでも作るが、「ハタハタの飯寿司」が暮れの団地のスーパーに出ていて買った。それを、おせち料理の一品として、先ほど食べた。今は流通の温度管理がいいので、期待どうりの味だった。こいつぁ、春から縁起がいいヤ。

『画中日記』2022.02.14【もう2月の中頃か】

 昨年の5月、島根県の断魚渓でイーゼルを立ててから後、イーゼル画はずっと描いていない。私にとって、イーゼル画は坐禅のような存在なので、なんとかつづけたい。画家にとって、事件は眼で起こっているので、対象を目の前においてイーゼルを立て、直接描画することは、眼の鍛錬に欠かせない修行の一つだ。

 今年は、春に伊豆大島、秋に長崎県の的山(あづち)大島に描きにいく予定を立てていたのだが、2週間前くらいから、とりたてて原因のない腰痛に悩まされた。2020年の故郷の玉野では、登りの山道ではもう無理かなと、感じていたのだが、今は、ズッと回復して良くなったのだが、重いジュリアンボックスを背負って、イーゼルポイントまで歩くのは、緩やかな道でも無理だろう。完璧に回復しても、すでに後期高齢者の年齢で長年の身体の経年劣化で、厳しい条件下の風景画はもう諦めなければならないかぁ。

 そんななかでも、老いたりとはいえ歴戦の勇士は、当面の立ちはだかる前線の迂回路を思いつく。以前描きに通ったことのある、柏にある画材屋のヌード教室の固定ポーズの時間を調べて、通ってみようか。それはそれで、楽しそうだ。

『画中日記』2022.02.15【町は変わり、私も老いる】

 今日は、週に一回の、手賀沼の日帰り温泉に行く日で、ついでに、我孫子から柏にまわって、先日来の用事を3っつ済ませて、アトリエに帰ってきた。こんな簡単な用事は、一年前なら、何でもなかったのだが、腰の不調で、温泉での脱ぎ着(特に靴下と下着)、バスの乗り降り、歩きと一大事だ。

 まずは、スイカを紛失したので(いくら探しても出てこない)、我孫子駅の自動販売機で購入。いつもは、日帰り温泉で食事をするのだが、この日は、柏で何か食べようとおもい、先日ユーチューブで見て美味しそうだった、ロースカツバーガーとポテトとコーラを決めて入ろうとしたが、5、6人並んでいるのが外から見えたので、諦める。柏の「てんや」と、「蕎麦久」は両店とも今はないので、回転寿司の「大江戸寿司」にしようとしたら、向かいの「吉野家」のウインドウにすき焼き鍋のポスターが見えたので、そちらに入った。外食産業は食べ慣れると、一人で気楽に入れて、安価なので便利がいいのだが、折角決めた、メニューがドンドン変わるので、年寄りには不満だ。牛丼は嫌いではないのだが、ビールが飲めないので、吉野家はすき焼き鍋がある時にだけ入る。たまに食べるマックは、50年以上、チーズバーガーとポテトとコーラが定番だ。「吉野家」でもビールは缶だけになっている。

 2つ目の用は、ストーブの注油ポンプを買うこと。これはスーパーにも売っていたので助かった。先日、注油ポンプが割れて、電動のポンプをネットで注文したのだが、電池は別売りで、おまけに、今の石油ストーブの着脱式タンク用なので、昔の石油ストーブでは、油面のストッパーがすぐにかかり、石油が少ししか入らない。注油口を手に持って注意深く入れれば何とかなるが、毎日こんなことはしていられない。今日から、この小さなトラブルはクリアーした。

 3つ目は、キャノンのプリンターのカラーインクを買った。その時に、動画撮影用のゴープロの下見をしたが、今の腰の状態なら、そもそも絵を描きに外に出られないので、今回は、スルーした。でも見ると欲しくなるなあ。

 4つ目は、柏の画材屋に、ヌード教室の固定ポーズの予定を聞きにいった。もう、やっていないという。教えていた芸大の後輩のM氏も、近くヌード教室から油絵教室に変わったが、それも近く閉じるという。今、ヌードが描けるのは、日暮里の太平洋美術研究所だと教えてもらった。太平洋美術研究所は歴史のある美術研究所で、私が芸大生の頃にはもう何十年の歴史を重ねていた。私は一度もいったことがないので、見学がてらいってみようかな。

『画中日記』2022.02.24【写真を使う】

 腰は、アトリエでの動きには問題なくなった。しかし、外でイーゼルを立てるのは、短い距離や、アップダウンのない場所でしか無理だろう。

 西洋の描写絵画の歴史において、写真の出現は大きな変革をもたらした。まず、画家の大きな収入源であった、肖像画の注文が写真によって激減する。このへんのところは、拙著『芸術の哲学』に書いてあるので、一読ください。

 今後、外でイーゼルを立てるのが無理になったら、風景画はどうするのか、ということで、過去の写真から絵を描いてみた。やはり、〈物感〉と〈立ち位置〉が減じ、画面が図的、イラスト的になるが、その反面、ダイレクトに画家の描画意図が表わせて解りやすい絵になる。

 フェースブックには完成した作品の写真と、絵に使った過去に撮った写真と、イーゼル画で描いた過去の作品の写真をアップします。

『画中日記』2022.03.02【啓蟄】

昨日は私の誕生日だが、今まで自分の誕生日を意識したり祝ったりしたことがない。誕生会やクリスマスが、故郷の町で流行り出したのは私の小学5年生の頃だった。まず、女子がやりはじめ、男子で初めて誕生日会に呼ばれたのは5年生の時で、同じクラスのS君だった。男の子の誕生日に立ち会ったのは、それ一度きりで、今でも意識することはない。ただ、フェイスブックに誕生日のお祝いメッセージが入るので、近年は否応なく意識せざるを得ない。

昨日は、大変な1日だった。前々日のダン箱作りのせいか、腰の痛みがぶり返し、昨日は1日中、寝て過ごした。トイレや着替えにも苦労した。たまに使う私の秘密兵器の光線治療機をかけ、6時頃寝る前にアスピリンを飲んで寝ると、アスピリンが効いたのか、今日はずいぶんと良くなり、昨日行けなかった、日帰り温泉に今日行ってきた。昨日は、これからの老人の一人暮らしに、暗澹たるおもいだったが、今日は、もう少し延びそうで、そうなったらそうなった時に考えればいいや。

今年の啓蟄は3月5日だが、今日は暖かかったので、日帰り温泉の行き帰りに、いつも観察するアリの巣を見ると、寒い時は出入り口を塞いで冬籠りしていたアリが、動きも活発に、巣の近くで、動いている。行きは、日当たりの良い南斜面のブロックの隙間だから、温度が高くなって当然だとおもったが、帰りのバス停の近くは、道路脇の平地の土の上なのでどうかとおもったが、こちらのアリも入り口付近に、多数働いている。アリは私に見せるために働いているのではないが、腰が良くなり、日帰り温泉に入ってサッパリした私には、明るい瑞兆に思える。世界には〈真・善・美〉もあるが〈嘘・悪・醜〉もある。残り時間が少ない身には、いやなモノはいまさら見たくもない。

画家は、美しいものを世界に現成し、観る人を元気にしなければならない。

『画中日記』2022.03.6【喉元過ぎれば】

2月の中頃からの腰の不調は、やっと回復した。何らかの原因での患部の炎症での痛みは、よく寝たので自然治癒もあるだろうが、私の風邪用の常備薬のアスピリンが効いたのだろうか。なんであれ、当人は治れば問題はない。

体に問題がなくなれば、やりたいことは再び、山ほど抱えている。最新作は毎日描き続けているし、今は、7月の田島英昭遺作展のための、予告動画をつくっている。近日中にユーチューブにアップできるだろう。私は昔から、資料は揃えているので、簡単に調べはつくのだが、他人の資料は、集めることから時間がかかり、その確認作業も面倒だが、それも山は越えた。先日私の倉庫の、作品の探し物の中のから、偶然田島の作品が3点出てきた。昔彼から買った作品だ。動画の素データが少ないので、これも貴重なデータになる。

今の時間は、その動画をつくっているのだが、昨夜、結城君から私の故郷の大仙山に佐々木君、関藤君の3人で登った写真のメールが届いた。同級生の元気な様子は、私の気持ちも明るくなるし、私のフェイスブックを毎日訪問してくれているみたいだから、画中日記を急いで書いて、この写真をアップします。

〔今朝のつづき〕

結城君から、別便のメールで、2月22日の山陽新聞の玉野版の写真が送られてきていた。私が登った2018年に比べて、道に手が入って、登りやすくなっているようだ。私の『瀬戸内百景』の展覧会や、本の出版も、地元の人たちの刺激になったようで嬉しい。

山陽新聞の紙面と、大仙山を描いた、当日の『玉野だより』をコピーしてアップします。

『画中日記』2022.03.7【田島英昭遺作展】

昨日、「田島英昭遺作展」の動画を、ユーチューブにアップした。今朝チェックしてみると、15の視聴回数と、グッドマークが2、カウントされている。その中で、当然私の入れたカウントも入っているが、大海の中の、小さな微々たる情報も、そのコンテンツがゴミでなければ、少しづつ広がって、結果として、彼の作品を世界は残していくだろう。

二人とも芸大卒業後、どこの会派にも、画壇にも、教職にもつかず、絵だけを描いて生きてきた。いい絵を描くことに向かうこことを羅針盤にして、それを信じて生きてきた。その一生の刻印としての二人の作品が、ゴミになるはずがないし、世界存在は作品を、ゴミにするはずがない。

 

『画中日記』2022.03.10【マリン ホテルでのスケッチブック】

先日、倉庫の中から、何冊かのスケッチブックが出てきた。昔は、データをデジカメで簡単には撮れなかったので、まだ倉庫には眠っている作品が沢山ある。徐々に、写真を撮って、『岡野岬石の資料蔵』に集蔵しようとおもう。

1982年に泊まった、玉野市のマリンホテルは、もうない(建物だけは他の施設になってまだある)が、その前の日の出海岸で、2018年に描いた『日の出海岸の松』の作品と、その日の「玉野だより」のテキストと、翌日に近くで描いた『瀬戸内朝陽』の作品を別にアップします。

『画中日記』2022.03.12【私の最初の写真】

昔は、写真は高価なもので、自分で撮って写真屋で現像密着する人がボチボチと出てきたのは、私の小学4、5年生の頃だったか。それ以前は、写真は写真屋さんが撮るもので、だから、気軽なスナップなどなく、写真はすべて記念写真だった。

アップした写真は、私の姉が持っていたもので、去年の父の墓参りの時に、借りてきて、今日、スキャンしてパソコンに保存したものです。写した日は、私が幼稚園以前の頃だから、1950年頃のお正月だった。私の後ろに2重露出で写っているのは、たぶん、写真屋さんが、直前に写した、同じ社宅に住んでいた同級生の大下俊子さんでしょう。この後、白砂川(しらさがわ)に架かっていた玉園橋(たまそのばし)の上での私の写真も持っていたのだが、なくしてしまった。

若い時は、写真などぞんざいに扱うが、田島と私との写真のように、周りの情景や衣服(私の着ているダブルのスーツは一張羅で、この後の写真に何度も出てくる)や時間を含めて、沢山の情報が詰まっている。『岡野岬石の資料蔵』に、【アルバム】のカテゴーリーを追加保存します。

『画中日記』2022.03.13【巨岩の上の写真】

この、2枚の写真は、奥玉の親戚(母の姉)に、父と私と弟で、遊びに行った時の写真です。私の兄と年齢の近い、越智家の3兄弟の末っ子幹夫さんが、カメラを買ったので、近くの巨岩の上で撮ってもらったものです。

巨岩は、いくつもの岩が集まって、子供が立って入れる洞窟状になっていて、奥玉に行くと、弟とよく遊んだものだった。

2019年に玉の小島地(こしまじ、地名)に絵を描きにいったとき、空いた時間にデジカメを持って、その巨岩の写真を撮りにいった。越智の家の、すぐそばなのに、周りがすっかり変わり場所はもちろん、今は、イノシシの柵があって、入り口も分からない。諦めかけたが、越智の裏に同級生の田上君が、当時住んでいたので電話すると、玉原(地名)から来てくれて案内してもらった。

巨岩は、昔のままにあったが、周りの木が大きくなって、写真が引きで撮れない。巨岩が組み合わさってできた穴も、こんなに小さかったのか。穴の前には、当時はなかった、四国八十八ヶ所の観音菩薩像がおいてある。この菩薩像は、大仙山の登山道に祀ってあったものに似ている。

  昔見し

  松は老木(おいき)になりにけり

  わが年経(へ)たる

  ほども知られて(西行)

『画中日記』2022.03.16【母の写真】

 母は写真ぎらいなのか、私や家族と写っている写真は、前にアップした一家の記念写真1枚きりだ。それは、亡くなるまで変わらなかった。

 この写真は、母の持っていた、アルバムから私が切り取って持っていたもので、母が看護婦養成所に学んでいた時に、そこでの友達と写真屋で撮った写真だ。ちなみに、母は看護実習で、現実の血を見て気分が悪くなり、看護婦になるのを諦める。その後、呉の海軍工廠に出向勤務していた父と見合で結婚、結婚した年は何年なのか、長兄が私の一回り上だから、昭和9年(1934年)より、前だろう。新婚旅行で撮った鷲羽山(倉敷市)での二人の写真があったのを憶えている。

 私の3歳下に弟が生まれたので、私のその後の養育は父が引き受け、父と比べて母との思い出す出来事はあまりない。

 父の写真は、明日アップします。

『画中日記』2022.03.18【父の写真】

 父の写真2の裏に父が記したメモから、この船の名前は、ヘレネ メルクスという。私の記憶している船名はクイーン メルクスで、名前が違うので写真を写した時が違うが、私が小学6年生の時の三井造船所の、私の記憶しているタンカー、クイーン メルクスの進水式の様子を書く。進水式は何度も見にいったので、記憶が交ざってもいるだろうが、進水式内で父を確認したのは一度だけだ。

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『進水式の父』①

 前日の夕飯時、父から「コウジ、明日の進水式にけえ(来い)」と言われた。私は「うん」と答えたが、父から進水式に来いと言われたのは初めてだ。

 数年前から、造船所は世界のエネルギー事情の変化からタンカー船の受注で、造船国日本に世界から受注は集まった。三井造船所も、ブラジルのメルクス社から、何隻かのタンカーを受注していた。今までの、小さな貨客船と違って、タンカー船は巨大で、鉄板も多く使う。まだその頃は、鉄板と鉄板を継いでいくのに、リベットを使っていた。騒音がでるが、その音を迷惑がる人はいない。むしろ、活気があって、その景気に生活の恩恵を受けている社員の家族も町の人にも、むしろ頼もしく、明るい気分が満ちていた。外が暗くなると、残業のリベットの火花が花火のようだ。小6の同じクラスの、赤松君は、社宅が白砂川(しらさがわ)沿いにあったので、2階の窓から、タンカーの絵を描き、その絵が教室に張り出された。その絵柄も私の記憶にある。(2022年3月18日)

『進水式の父』②

 進水式の日は、何曜日だったか、写真の裏の父が記した日にちをネットで調べると、大安の日なので、そして、進水の時間は、満潮の時間なので、船によって曜日も時間も違うようだ。タンカー船クイーン メルクスの進水式には、お昼ごろ一人で行った。時間を合わせて行った訳ではないので、進水式のセレモニーの時間にはまだ早く観客は、まだ空(す)いている。多くの職工はそれぞれの受け持ちエリアで受け持った仕事に立ち働いている。

 造船所での仕事がどんなものか、小学校6年生の私は知らないので、父親を見つけることができるとはおもわなかったが、観客席の一番前にいた私の前を、偶然父親が小太りの同僚と二人で船首の方に通りかかった。おもわず「父ちゃん」と声をかけると、「やぁ、きとるんかぁ、よお見ていけーよ」と言っただけでそのまま二人で通り過ぎる。

 式典の当事者たちは、一時の暇もなく、急がしく立ち振るまうが、観客の待ち時間はかなりある。だから、時間つぶしに色々観察する。船は満艦飾で、船首から船尾まで万国旗で飾られている。ブラジルの国旗の緑色と地球儀のデザインが目立つ(ネットで調べると、地球儀だとおもっていたのは、星座だった)。メルクス社のタンカーの造船で、ブラジル国旗は当時の玉ではすっかり馴染みだ。船首には大きなくす玉がついている。地上から見上げると、船台の上の、鉄でできた船はとにかく巨大だ。こんな、船底の平でない巨大で重い物体が、うまく海に進水するのか。タンカー船で、急激に大きくなった船を設計し、造り、そして今日進水させるのも、造船所の職工たちのチームワークで自らが考え、実行に移すのだ。どうやるのか、子供の私は興味津々(しんしん)で見ていた。(2022年3月19日)

『進水式の父』③

 船のクライアントと造船所のエライさんの席も船首近くに、櫓を組んで、紅白の幕で飾られて用意されている。

 式が始まれば、流れるようにアッという間に進んでいく。まず、クレーンに吊るされたブランコに、父と同僚の二人が乗って、船首近くに引き上げられる。命綱やガードの網もない裸のブランコなので、下から見るだけで恐ろしい。クライアントの中年の着飾った外人女性が、式典用の銀色の手斧で台の上の綱を一叩きで切ると、ぶら下がったシャンペンの瓶が、船首に当たり割れて、同時にくす玉が割れる。

 それを確認すると、ブランコの上の父が笛(ホイッスル)を吹いた。その合図で、何箇所も船台に固定していた、ジャッキに使ったパッキンの材木をハンマーで叩いて外すと、スルスルと船台のレールを滑り下りて、入水した。巨大な船は、そのままでは前の島にぶち当たってしまう。船首に厚いゴムを、船の左右の舷に古タイヤをクッションにしたタグボートが何隻かで、進水した船を押して引き止める。タグボートの中には、奥玉の母方の従兄弟の、三兄弟のうちの二人が乗っているはずだ。

 この一連の進行が、私の目の前を流れるように過ぎてゆく。固くて巨大な鉄の船は、スルスルというよりも、ヌルリと、まるで水に毛皮を濡らした海獣が入水する時のように、角(かど)のない、丸やかな動きで海に進水したのだった。このときの、船とレールの間の滑り材に使った大量のロウの入った混合物は、小船(櫓で漕ぐ和船)を持っている港の子供が、海上から拾っている。

 タンカー船の受注から、船の設計、造船、進水まで、全ての工程をミスなくやりとげていく日本の労働者の、自分の仕事へのモラルの高さと誇りと能力は、他の分野でもおなじだろう。

 だけど、今や、三井造船所玉野工場も他の会社に買収されてなくなり、クイーン メルクスの進水式も、憶え知っている人は私一人だろうなぁ。

 その日のことは、特に父とは話したことはない。父が生きているうちに、この文章を書いて読ませたかったが、それは所詮無理。私自身が後期高齢者になって、父親が子供に見せたかった、見てもらいたかった気持ちが痛いように分かる年齢になってきたからで、セラヴィ(玉にあった、上級船員向けのバーの名前)それが人生さ。(おわり)(2022年3月20日)

『画中日記』2022.03.27【1986年の小豆島でのイーゼル画】

この絵が、思いがけず出てきた。

この時、描いたスケッチブックの作品は全部廃棄したとおもっていた。忘れていたが、この一点だけスケッチブックから切り離して、保存しておいたのだ。よくぞ、その埋もれていた作品が、今出てきてくれたものだ。

その時の小豆島行の思い出もよみがえるし、その旅行で、かかえていた絵画上の問題、命題も思い出す。それは、別に書こうとおもう。

なにしろ、それはハードな旅だった。アトリエの近所の自転車屋で、キャンピング用自転車のミヤタ ルマンを買い、4つ付けられるサイドバックに、キャンプ道具ではなく、画材(油絵は無理で、パステルとガッシュとワットマンのスケッチブック)をつめて、泊まる処は行き当たりばったりで1週間一周した。

この絵が出てきたので、改めてその時の事は別に書きます。

港24×33パステルガッシュ1986港24×33パステルガッシュ1986年

『画中日記』2022.03.28【紙の作品】

 『岡野岬石の資料蔵』の中の、油絵の作品の整理はほぼ終わったが、先日来、紙の作品の整理を始めた。紙の作品は、完成作の前の膨大な試行錯誤の道程なので多くのクロッキーブックやスケッチブックは捨ててしまった。その中でも数点は切り離して保存してあったので、今出して整理している。サインもまちまちで、制作年代も分からないものが多い。面倒だが、その一連の過程で、一点一点の作品の描いた当時の生活の状況や、絵画上の問題、命題の思い出がよみがえり、それはそれで楽しい。

 先日撮った作品を、全部アップします。『岡野岬石の資料蔵』には整理分類して集蔵しますが、フェイスブックではランダムです。個々の作品のキャプションは、後でアップします。

『画中日記』2022.03.31【クリフォード・ブラウンのローラ】

 https://www.youtube.com/watch?v=PowkFM1tcQE

 今日、どうしても辿りつけなかった、先日来の記憶の音楽にヒットした。

『画中日記』2022.04.25【そろそろイーゼル画を】

 昨年の、熱川で伊豆大島の絵を描いて以来、イーゼル画は描いていない。その間今年に入って、腰痛に悩まされ、もう重い絵具箱を背負ってのイーゼル画は無理かと諦めていたが、腰もなんとか回復して、気候も暖かくなってきた。外ではツバメも飛び回っている。

 この歳になると、いつもラストチャンスだと思うのだが、5月23日~28日まで伊豆大島のホテルに予約した。その時の様子は、ゴープロを買って、動画で投稿するつもりだが、そこで描いた作品を、今年の『イーゼル画会』展に出品する予定だ。ずっとアトリエで抽象画を描いていたので、自転車で、手賀沼近郊の絵を描きに、出ようと思っている。写真は、手賀沼の日帰り温泉の帰りに先週と先々週に、イーゼルを立てるポイントの下見に写真を撮ってきたものです。

『画中日記』2022.05.05【オン ペーパーの作品の整理】

 今日、和紙の上に、墨で描いた過去の作品の撮影と整理が終わった。下記は、今日のフェイスブックにアップした文章です。

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先日、撮影した過去のオンペーパーの最後の作品です。

墨の作品が思いのほか多かったので、近々全部まとめて、動画にしてユーチューブにアップします。

オンペーパーの作品はまだ、たくさんあるので、続いて、大きさ別に(保存している箱の関係で)フェイスブックにアップして、全部終えれば、『岡野岬石の資料蔵』に年度別に分けて保存していきます。

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 過去の作品の資料の整理は楽しい。保存は面倒で大変だったけれど、この歳になってみると、描いた当時のリアルな問題に全力で取り組んでいることが浮かび上がってきて、絵画上で後悔すべきことは何もない。むしろその後の現在からみても、その過去の作品から、刺激を受け、発展させて新しい作品ができるかもしれない。

 今日、3点エスキースを描いたが、いい作品ができた。明日は、紙では大きな作品に描く。作品の大きさは重大で、これは2010年からのイーゼル画の勉強で、画面の大きさを決める根拠は、はっきりと理解している。マチスも言っているが、1センチ平方の色と、1メートル平方の色は、まったく別物なのだ。

『画中日記』2022.05.15【水張りの正しい方法】

 先日、画用紙の水張りの正しい方法に気づいた。もう、何十年もパネルに水張りをやってきているのに、先日まで気づかなかった。紙の四隅のシワが、時たま出るのは避けられないとおもっていた。若い時から教わり、また本に書いてあった方法が、間違っていたのだ。この先、実際に水張りをする時に、動画にとってユーチューブにアップします。

 すべての現象に、因果の法則が超越的に通徹してしていることを、つくづく感じる。根拠(エビデンス)のない事象は、世界には存在しないのだ。

『画中日記』2022.05.17【伊豆大島にイーゼル画を】

 来週、23日から28日まで伊豆大島にイーゼル画を描きに行く。イーゼル画を描いたのは、2021年1月19日の東伊豆以来だ。その間、ずっとアトリエでアトリエ画を描いていたので、ウズウズしていた。来週の日曜日のさるびあ丸で行こうと思っている。もちろん年金生活者は、2等で充分、昭和生まれの、貧乏旅行で日本全国を取材してまわった、そして人生の上でも歴戦のホーボーは、無駄なお金は極力ケチる。いや、ただお金がないだけなのだけれども。お金の余裕があれば、以前のように、借家を借りて、柏のアトリエと行ったり来たりしたいけれど。でも、イーゼル画を決断して、東伊豆から御殿場、山中湖と借家を借りて描きまくった時も、お金に余裕があったわけではなく、年金のお金を家賃にまわして乗り切ったのだから、今後も、天は私を見捨てないだろう。

 画材を、前もってホテルに送るのに、明日荷造りして送る準備をする。うれしいなぁ。

『画中日記』2022.05.28【伊豆大島からアトリエに今帰った】

 現在5月28日の午後4時。今朝、大島温泉ホテルを9時のホテルの送迎車で、岡田港まで、大島発10時30分のジェット船に乗り、12時15分に竹芝桟橋に着く。行きは、浜松町駅から歩いたが、竹芝桟橋の目の前に、ゆりかもめの竹芝駅があるので、初めて乗る。ゆりかもめの竹芝駅から、新橋駅まで行き、新橋駅からJRで柏駅、柏に着いて、最近知って凝っている、モスバーガーのロースカツサンドとオニポテとコーラ(コーラがビールだったら完璧なんだがなぁ)で遅い昼食、ホテルでの量が多く、重いご馳走料理に飽きていたので、選択はピッタシだった。スーパー京北で明日の朝食の買い物をして、冒頭の4時に帰り着いた。

 明日からは、大島での毎日を、イーゼル画で描いた絵と風景の写真と共に、『伊豆大島だより』の題名でのテキストをアップします。

『画中日記』2022.05.29【伊豆大島だより①2022–5-23】

 5月23日(月)、竹芝桟橋から14時15分発の東海汽船のジェット船で伊豆大島の元町港に16時に着く。揺れも少なく、あっという間だ。昭和世代には、甲板に出ることもできないし、自由席や個室の席の選択の楽しみもなく、シートベルトで予約で決められた席でなんだか味気ないが、これが時代だろう。乗り慣れると、船も飛行機も新幹線も、通勤通学の移動手段と変わらない、単なるツールに過ぎなくなって、老画家のロマンや感傷を考慮したりしてくれないし、また今、そのようなロマンや感傷を味わおうとすれば、コストや時間の負担が大きいのだ。私は、窓際の席で外が見えれば、なんの問題はありません。

 写真には写っていないが、光る海をバックに海鳥が水面近くを飛んでいる。黒いシャープな形の鳥(帰ってからパソコンで調べてみよう)で、水面の小魚をハントしているのだろう。イーゼル画では描けないが、写真を組み合わせれば昔の私ならば1枚の絵にするだろう。いや、描いてみようかな。

 港に着いて、路線バスの時間を見て、なければタクシーで、と思って歩いていると、港の端に大島温泉ホテルのバンが駐車している。急いで乗り込むと、他の宿泊客が何人も乗っている。今の旅行客は、自分で電話予約して、自分でコースを考え、自分で移動手段を調べ、行動するということは時代遅れということか。そんなことなら、予約の電話を入れたときに、フロントがひとこと、私に迎車の用意のあることを伝えてくれていればいいのに、とにかく、山の上のホテルまで、無事に着いた。なんだか、はるばると離島にきたのに、呆気ないなぁ。

『画中日記』2022.05.30【伊豆大島だより②2022–5-24の1】

 この文章は5月30日の『画中日記』に挿入して書いているのだが、その時に、デジカメで撮ったの写真の日付と時間の記録がおおいに助けになる。

 5月24日(火)、5時半に起床。若い時は、カシオの腕時計のアラームをセットしておかなければ起きられなかったが、いつのまにか、セットしておいてもその時間の前に起きるようになり、今では、なにもしなくても起きるようになり、腕時計は旅行用のリュックの小物入れのポケットに何年も入れたままだ。

 写真のように天気は快晴、7時の朝食まで、室の窓からや、ホテルの屋上から三原山の写真を撮る。朝食後、8時過ぎに三原山登山口まで行こうとホテル前のバス停の時刻表をみると、今の時期は、金(午後だけ)土日だけの運行とでている。

 タクシーを呼んでもらおうと、すぐにフロントに戻ると、近いのでホテルの車で送ってあげますといわれた。帰りのタクシーでわかるのだが、島のタクシーは観光客だけなのか、貸切料金プラスメーター料金で近い距離なのに約3000円なのだ。ホテルのフロントの親切に助かった。

『画中日記』2022.05.31【伊豆大島だより②2022–5-24の2】

 最初の写真は、三原山頂口の三原山登山コースの入り口の展望所からのもの。右下方に少し見えるのがその登山道。私が今日行くのは、この道ではない。ここから少し下ると、表砂漠との分岐がある。それを右に、外輪山の下の道を雨後だけに出現する幻の池まで、30分くらい歩くのだ。

 赤ダレという名の、赤い崖はそこから山頂方向と外輪山に沿った道に分岐、20分くらい上がったところの進行方向右端にある。標識はないし赤ダレは道からは見えないし、初めての道なので、外輪山の端っこという右方向にいつ入るかということに確信が持てない。

 写真を撮りながら重い絵具箱を背負い、キャンバスを持って、外輪山からの獣道に時々さそわれながら、やっと、それらしき表砂漠の端っこにある幻の池の分岐点に着く。表砂漠といっても、噴火後の年月で草と黒いスコリアがマダラ模様だ。幻の池は、表面が白っぽい。

 初めての道で、斜度はゆるいとはいえここからは上りで、赤ダレを探しながら外輪山の尾根を歩くのは体力的に限界と判断、キャンバスと絵具箱を岩の上にデポして赤ダレの確認に向かった。

『画中日記』2022.06.01【伊豆大島だより②2022–5-24の3】

 重いジュリアンボックスとキャンバスをデポすれば、赤ダレには行けるだろう。時間はまだたっぷりあるが、今日は場所の確認をするだけにしても、持ってきた画材で、途中のビュウポイントで1点はイーゼル画を描こうと、当初のプランを変更したので、ゆっくりはしていられない。イーゼル画は、描き終えるまでは、忙しいのだ。

 今は、あまり人の通らない、外輪山の峠状の凹みに向かってのだらだら坂を登って、崖の尾根につき、そこから、写真を撮りながら赤ダレのランドマークの尖った石を目標にして尾根を歩く。そのランドマークを、事前にユーチューブで見ていたことに安心感がある。それを知らないでウロウロと探しながら歩くと、辿りつけるかどうかの不安と焦りとで、疲労は倍増するだろう。

 峠の近くに、祠が祀ってある。三原山は山自体が神様で、今回の滞在中は行けなかったが三原神社が山頂下にある。

『画中日記』2022.06.02【伊豆大島だより②2022–5-24の4】

 祠から少し上がったところに、コンクリートの台座の跡がある。廃墟や廃道など人工物が、自然に還っていく姿には、いつも心が惹かれるが、ネアカな私には、絵にするには暗いので写真は撮らなかった。後でホテルにあったので読んだ『大島町史』で、ここの外輪山の斜面に以前滑り台があったらしい。あんこ姿の女性が二人並んで滑っているモノクロの写真も載っている。かなり長い距離、滑り下りてから、また歩いて上るのは大変だったろうなぁ。私の故郷の渋川海水浴場でも一時海岸の崖に滑り台を作って、直接当たる皮膚が摩擦熱でやけどをしたり、その後キャンバス地のシートに乗せて滑らせたりしたが、結局短期間に使われなくなったりした。奥の細道の立石寺でも滑り台の遺跡を「やまいが」のサイトのレポートでみたこともあるので、そのころ日本全国で滑り台が観光客向けのセールスポイントになっていたのだろう。

 このコンクリートの台座が、滑り台のスタート地点の台座だと事前に知っていれば、今はデジカメなので、バチバチ撮って後で削除すればいいことで、手間を惜しんだことに、この文章を書いていて反省するが、身体の疲れも多少あったのだろう。

『画中日記』2022.06.03【伊豆大島だより②2022–5-24の5】

 滑走台跡から赤ダレまでは尾根道だが草だけのスコリアの砂漠なので迷うことはない。ダラダラとした上りを崖にそって写真を撮りながら歩いた。途中、赤くはないが2つの小規模の崖の谷があり、この谷も充分絵になるポイントだ。しかし、この規模の谷で崖の色が赤いだけなら、期待値のポイントは下がる。赤ダレは、思っていた距離よりも遠く、ランドマークの尖った石が見えた時はホッとした。今回の、大島に絵を描きにきた目的の場所だ。

いいぞ!

 天気がいいので、崖の陰影はクッキリとしている。東京から日帰りで来れるような場所に、地球の存在の、先端の切り口のような風景が、ヒッソリと眼前に展開している。その存在を見て認識している人間は、〈今〉〈ここ〉に私一人しかいない。この風景は画家として描かずにはいられない。この場所で絵を描くことは、画家冥利につきる。2010年64歳の時に、イーゼル画をやろうとした決心は正しかったし、その結果は幸せだ。明日は、絵具箱とキャンバスを持って、ここで絵を描こう。

 この場所の絵を描くことは、天からの、私に対するオファーだ。

『画中日記』2022.06.04【伊豆大島だより②2022–5-24の6】

 赤い崖の写真を数枚撮って、一服していると、朝ホテルで見かけた写真学校の生徒らしい若者が7、8人やってきて、赤い崖を撮影している。私がイーゼルを立てて描いているポイントはたいてい一人だが、たまたま同じ風景を対象にしている場に出会うと、同じビジュアル関係の同志感がわいて嬉しい。この視角は有名ではなく、遊歩道コースから外れて来るのも大変だけど、「知る人ぞ知る」のだ。いい時代になったなぁ。私がここに来れたのも、ユーチューブで、大島の単身赴任の教師のドローンでの映像がアップされていたからなのだ。

 デポしていた画材を背負って、来た道の途中で出会ったポイントにイーゼルを立てたのが11時半、12時42分に描き終える。帰り道は、コルセットのおかげか腰の痛みはないが、股関節の痛みが少しあるヨレヨレの歩みで三原山登山口に2件あった、『御神火茶屋』にたどりつくが営業していない。もう一軒の『歌乃茶屋』がやっていて、ガランとした大きな食堂の窓際の座席でやっと、人心地つく。

 ビールだ!、やっとビールが飲める。

『画中日記』2022.06.05【伊豆大島だより②2022–5-24の7】

 ホテルに帰ってもイーゼル画は仕事が残っている。現場で描いた絵の隙間、キャンバスクリップの痕やキャンバス受けで描けなったところを埋める。それが終わってその写真を撮ったのが16時24分、パレットナイフとウェス(切ったボロ布)でパレットを掃除、筆を石油で洗った後、石鹸で3度洗い、筆先の毛にリンスをつけて洗い流して、これで、今日の画家の一日は終わった。

 明日は、いよいよ、今回の大島行の主目的の赤ダレで、赤い崖の絵を描くのだ。

大島風景(三原山)P15号2022年

『画中日記』2022.06.06【伊豆大島だより③2022–5-25の1】

 朝早く目がさめる。若い時は低血圧で、宵っ張りの朝寝坊だったが、いつのころからか、最近では、空が明るくなると目が自然にさめる。アトリエでもホテルでも同じだ。

 ホテルの、7時からの朝食前にイーゼル画の準備をする。ジュリアンボックスを、柏の登山用品の店で見つけたサイズがピッタリの登山用のリュックに納め、キャンバスはF15号を2枚キャンバスクリップで合わせて用意した。水分は、昨日、自動販売機で買った、紅茶のアルミ缶にホテルのお茶を入れ、室内の冷蔵庫で準備していたのに入れ忘れてしまった。ついでに、毎日、お茶道具と一緒に用意されている、大島のお菓子も、描き終えた後に、お茶と一緒に食べようとおもっていたのに、これも忘れてしまった。外で描く時は、描き終えての、お茶とお茶菓子、そして、その後のタバコが、イーゼル画家の至福の一時なのだが、現地で描き終えるまでそれに気がつかなかた。

 8時に、ホテルのフロントの好意で、昨日の大島登山口入口まで車で送ってもらう。

『画中日記』2022.06.07【伊豆大島だより③2022–5-25の2】

 8時にホテルを出て、10時に現場で描き始めているので、重い画材を背負って1時間半近く歩いたことになる。覚悟はしていたが、この日もつらかった。しかし、現場に着けば、気力はみなぎる。問題は描き終えての帰り道なのだが、描く前はこれから描く絵の期待で、自発製ドーパミンが駆け巡っているので、キャンバスをセットすれば、気分は♪勇気りんりん瑠璃の色♪~。マラソンランナーはランナーズハイというものがあるそうだが、イーゼル画家が美しいモチーフを目の前にすると、ペインターズハイという幸福感が自然に湧いてくる。

 8時にホテルを出発し、現場で10時に描き始め、11時24分に1枚目の絵を描き、すぐに、2枚目の絵をセットし12時40分に描き終えた。休憩なし、小休止もなしだ。

 フー、終わった…! 

 これから石に腰掛けて、お茶と、お菓子の後、タバコを一服だとおもったら、バカバカバカ、昨日から用意していたのに、ホテルに忘れてきた。タバコはすったが、水分と甘いものの後でないのが、画竜点睛を欠く。

 こういうちょっとしたミスが、重い画材を背負った帰り道のつらさを増すのだ。

『画中日記』2022.06.08【伊豆大島だより③2022–5-25の3】

 やはり、帰り道はツラかった。

 吹上のサンド斜面下の道の上に、私の故郷の玉野の山道でよく見かけたハンミョウと違う種類のハンミョウと、同種の小型のハンミョウがたくさんいる。玉野のハンミョウは羽がハデハデしいが、ここのハンミョウは地味だ。帰ってネットで検索してみよう(検索の結果は、ニワハンミョウとコニワハンミョウ)。その近くには、白い小さな巻貝の殻が散らばっている。海洋生の巻貝の殻がなんで、こんなところにあるのだろう。古代の地層が風で吹き飛ばされて表面に出てきたのだろうか。こうやって立ち止まって休み、気を紛らわせながら、茶屋の直前の急坂を上りきって、昨日の『歌乃茶屋』にたどり着く。

 今日のビールは一番搾りの大瓶にする。札幌に住んでいた頃は、サッポロ黒ラベルだったが、市原、柏ではキリン一番搾りを愛飲していた。やはり缶ビールより瓶ビールの方がウマい。昼食代りのつまみは、ホテルの食事の量が多いので昨日と同じオデンにする。

 昨日と同じく、お店の人にタクシーを呼んでもらおうとすると、タクシーは今出払っているとのこと。それならば、お客は他にいないので、近いので送ってあげますといわれ、ホテルまで車で送ってもらった。昨日のタクシー代は、貸切料金を上乗せされて3000円だったので、同額をダッシュボードの上に置いてお礼をいった。多すぎますと2000円返そうとして、ホテル入口の自動扉の前まで追いかけてきたが、私は車の運転ができないので、取材時の移動のお金は最初から覚悟をしている。助かったのは私の方だ、『歌乃茶屋』の人、ありがとう。

 今日の仕事は、まだ残っている。2枚の絵に、手を入れ、後片付けをして今回の大島行のメインの一日は順調に終わった。時間は17時7分、一枚目の横位置のキャンバスの絵の写真は撮り忘れた。

大島風景(赤い崖)F15号2022年

大島風景(赤い崖)F15号2022年

『画中日記』2022.06.09【伊豆大島だより④2022–5-26の1】

 今日も、三原山山上は晴れている。メインの絵は2枚、昨日、順調にこなした。残りのキャンバスはあと3枚だから、今日は1枚描くだけにしよう。送り迎えは昨日の送りの車中で頼んでおいたので、8時にホテルを出発、三原山登山口に着いた。昨日も、時間を指定されれば迎えも来てあげますよ、といわれたが、昨日は2枚描く予定だったので時間が確定できなかったが、今日は1枚なので、時間の余裕を持って、1時に来てくださいとお願いした。

 描く場所は入口から近いので、8時29分から描き始めた。描き終えた写真を撮り忘れたので、時間は分からないが、『歌乃茶屋』からの写真が12時5分なので、11時45分頃描き終えたのだろう。描き終えた写真を撮り忘れた原因は、茶屋が近いので、お茶とお菓子とその後のタバコの一服は、茶屋でビールとオデンとコーヒーの後とおもいそれを持ってこず、描き終えてすぐに、ビールとタバコの欲望(大袈裟だが)が、頭の中を占領したので失念したのだろう。何事にも根拠、原因があるということだ。まだ、修行が足りない。

『画中日記』2022.06.10【伊豆大島だより④2022–5-26の2】

 昨日の『歌乃茶屋』での写真は間違いでした。あの写真は、食べ終わって荷物を茶屋に置かせてもらい、12時頃から1時の迎えの時間まで付近を歩き回っていた時の写真で、だから、描き終わった時間は、10時45分頃だろう。

 『歌乃茶屋』で昼食代わりのビールとオデンとコーヒーの後、店の前の灰皿の前で一服、荷物を置かせてもらい、デジカメをもって付近を歩いた。あわよくば、明日の、イーゼルポイントを探す目的もある。

 写真の順番に、11時42分の写真は大きな駐車場の柵から、11時54分の写真はトイレの横の階段を上がった、今はあまり利用されていない展望所から、ここは三原山が正面に、登山道が真ん中に見えるので明日はここで描こうかとおもう。まだ1時間あるので、茶屋の横の道に入る。「もく星号遭難者慰霊碑」の標識があった。私は、この事故のことは知らないが、石碑類は興味がある。柏に帰ってからネットで調べてみよう。石碑類に記された名前や出来事は忘れ去られても、関係者の遺族や物や情報は消え去らないのだ。現に、この時何の関係もない私と出遭って、私が写真を撮り、フェイスブックにこの写真を載せ、それを偶然見る人がいるのだ。

 下記の俳句は、私が以前鹿児島に取材旅行した時に、坊津(ぼうのつ)で梅崎春生の『幻花』の碑を探し、見つけた時の句。『幻花』の建碑式には東京から名の知れた文学者も来賓し、地元の新聞にも大きく載ったということだが、地元の人に聞いても、知っている人はいなかった。

 誰の碑か 海辺の丘に 苔むして (岬石)2004年10月22日

 ホテルで、2時6分現場の作品に手を入れて、今日の仕事は終わった。

大島風景15F2022

『画中日記』2022.06.11【伊豆大島だより⑤2022–5-27の1】

 昨日、ホテルの人から、今日は車で送り迎えはできない、その代わりに、今日は金曜日なので11時頃にバスが運行している、帰りは2時頃のバスがある、と連絡が入る。そのつもりで、1点は登山口バス停の近くの展望台から、もう1点はホテルに帰ってから、部屋のすぐ前にイーゼルを立てて、残りのP15号のキャンバスを描ききろうと予定していた。

 しかし、昨夜から強い風雨がつづき、今朝も三原山は雲の中。明日は、午前中に帰るので、今日しか描けない。予定を変更して、絵具箱と、キャンバスを梱包して、柏に宅急便で送ることにする。

 お昼頃から、風雨は止み、空は明るくなり、2時頃には晴れてきた。アア、このぶんなら、宿泊を1日延長すればよかったのか、その選択肢が頭に浮かばなかった自分に反省。しかし、頭に浮かんだとしても、その決定をいつするのかという問題が新たに出てくる。軍隊を率いる隊長の決断の責任は、大変なものだなぁ。

『画中日記』2022.06.12【伊豆大島だより⑤2022–5-27の2】

 以前から、取材旅行中に雨に降られると、何もすることがなく宿の部屋に閉じ込められるので、逃げ場のない旅愁におそわれ苦しんだ。そんな時のために、いつも本を用意しているのだが、近年は新潮文庫の『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ)を用意してきている。数学の〈真理〉が、個別の時空の歴史を超えて、存在の軌持(レール)が通徹している、ということに、若き日の実存の懊悩や、ノスタルジーの穴倉に入り込もうとする老いの憂愁から解放されるのだ。

 この時は、すでにメインの目的の赤ダレの絵は描き終えているので、旅の初期に出会う雨と違って気が楽だ。午前中アトリエに送る画材の梱包、宅急便の発送をフロントに頼み、ロビー近くにあった書棚から『大島町史』4巻本の中の、文化、自然の巻を部屋に持ち帰り読んだ。人間も歴史もその土地の自然も、知識量が増えれば増えるほど、興味も体験のおもしろさも増すのだ。「大島温泉ホテル」の歴史、「歌乃茶屋」の歴史、「与那国馬」の大島での歴史、「もく星号遭難」、三原山の火山活動が活発な時期に火口に飛び込み自殺者が多数いたこと、ボランティアでその自殺を止める人のこと、外輪山の斜面に距離の長い滑り台があったこと等、時間つぶしにのつもりだったが、たいへん面白く為になった。この本を読んだことで、もう一度大島に来るかも知れない。

『画中日記』2022.06.13【伊豆大島だより⑤2022–5-27の3】

 午後2時頃温泉に入り、すっかり天気は晴れたので、ホテルの外に写真を撮りに散歩をする。ホテルの横から、4本ある三原山登山コースの1本があるので、それを、途中まで歩く。この時は、画材なしの空身なので文字通りの散歩だった。今回は、行かなかった裏砂漠に、このコースから行けそうなので、次回来る時は、そちらを描いてみよう。途中に出会った「大島つつじ園」も、ホテルから近いので天気のわるい時の、エスケープポイントとして使える。

 トンネル状になっている低木の下を、雨上がりのスコリアの黒い道が一本道で通っている。スコリアの道は、水はけがよいので歩きやすいが、こういう場所は、ヤブ蚊を含めて、小さな吸血昆虫が怖い。私はアレルギー体質で、虫に刺された跡が固定蕁麻疹になるので、次回大島に来るときには、蚊取り線香を忘れず持ってこよう。

 歩いていると、白い花が道の上にたくさん落ちていて、あたりに花の香りらしい、いい匂いがする。山中湖村でよく見た、花が白く群れて咲いていたウノハナに似ているが、この木の花は一輪ずつが離れている。帰ったらパソコンで調べてみよう。その木の写真を撮って、引き返した。

『画中日記』2022.06.13【ダリア】

 昨日、一度描いてみたかった赤紫色のダリアが手に入ったので、今日は朝からF6号とF4号の2点のキャンバスで手をつけた。明日、F4号で、角度を変えて描こうとおもう。

『画中日記』2022.06.14【伊豆大島だより⑤2022–5-27の4】

 夕食まで時間もあるので、道の途中にあったつつじ園に入ってみた、低木で、南向きの日当たりいい順回路で、気持ちがいい。私の故郷の玉野の山に似ている。

 大きな椿の木のツヤのある葉が、太陽の光の反射で白い花のように見える。せっかく大島に来たのだから絵には描かないが、ここの風景はイーゼルを立てたいポイントがあちこちにある。ホテルから近いので、天候で三原山周辺にイーゼルが立てられない時の、エスケープポイントになるので大島に再訪の気持ちも高まる。

 道の横に、サルトリイバラの葉を見つける。故郷の玉野では、子供の頃はこの葉っぱで作ったものが柏餅だった。たしか、おいしくはないが青い実がなって、食べた思い出もあるが、どうだったか。サルトリイバラは玉野ではガメと言ったとおもう。私の家では、この葉を2枚使って1個の柏餅を作っていた。

 こんなことも、大島再訪のポイントを上げる。

『画中日記』2022.06.15【伊豆大島だより⑥2022–5-28の1(最終回)】

 今日は柏に帰る日、天気は晴れ。【伊豆大島だより⑤2022-5-27-1】で書いた、宿泊延長の選択肢は、アトリエに帰ることに、気持ちはもう充たされているので少しも浮かんでこない。朝食前に、ホテルの屋上で写真を撮り、7時の朝食後チェックアウトをすませ朝食後9時のホテルから港への送迎車の時間まで、ぶらぶら外で写真を撮って過ごす。ジェット船の出港時刻は10時半で、今日は岡田(おかた)港、乗船まで、港の周りの写真を撮って待ち時間を過ごす。

 これで、下記の、2022年5月28日の『画中日記』の文章につづき、【伊豆大島だより】は終わりです。(終わり)

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『画中日記』2022.05.28【伊豆大島からアトリエに今帰った】

 現在5月28日の午後4時。今朝、大島温泉ホテルを9時のホテルの送迎車で、岡田港まで、大島発10時30分のジェット船に乗り、12時15分に竹芝桟橋に着く。行きは、浜松町駅から歩いたが、竹芝桟橋の目の前に、ゆりかもめの竹芝駅があるので、初めて乗る。ゆりかもめの竹芝駅から、新橋駅まで行き、新橋駅からJRで柏駅、柏に着いて、最近知って凝っている、モスバーガーのロースカツサンドとオニポテとコーラ(コーラがビールだったら完璧なんだがなぁ)で遅い昼食、ホテルでの量が多く、重いご馳走料理に飽きていたので、選択はピッタシだった。スーパー京北で明日の朝食の買い物をして、冒頭の4時に帰り着いた。

『画中日記』2022.07.05【人生は恐ろしい】

 伊豆大島で描いた絵は描き終わり、6月13日に描き始めたダリアの絵3点も、今朝描き終えた。今日は、週一のルーティンの日帰り温泉日で、食後の一服後、2階の展望室で帰りのバスの時間まで、横になるつもりで窓辺に座布団を2枚敷いて窓の外を見る。窓の下はナシの果樹園で、その先は手賀沼と、対岸の我孫子と、見晴らしがよい。春に白い花が咲いていた今年のナシも、実っていて、8月の中頃には、道路沿いの売店で、美味しい幸水、後半の豊水ナシが売られ、帰りに買って食べられるだろう。

 世界のさまざまな場所で、今も、さまざまな事件が起こり、事件前と事件後では状況と世界がガラリと変わる、まさに世界は諸行無常だ。

 ナシ園の青い防虫ネットの上に、スズメだろうか巣立ち前の幼鳥が巣から落ちている。親鳥はいないので、自分で巣から落ちたのか。この鳥の人生は、これで終わりか。歴史の彼方から、この鳥まで営々と引き継いできた過去の命のラインは、未来に引き延ばすことなく、突然の何らかの行き違いでここで終わる。

 人生は恐ろしい。だからこそ、絵だけ描いてこの歳まで生きてこられた幸運を全っとうしなければ。

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『画中日記』2022.07.06【愛自転車だったミヤタ ルマンをフェイスブック友達の太田氏に貰ってもらう-①】

 下記のテキストと写真は、太田氏のフェイスブックからコピペしたものです。私のこの自転車に関する文章は、今後すこしづつ書いていこうとおもっています。年寄りは思い出が多すぎる。でも、思い出の長話しを、いやがられずに聞いてくれるだけで嬉しく、幸せなのです。ご期待を、とはいいませんが、読んだ印に、グッドボタンをクリックしてください。張り合いがでます。

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画家の岡野岬石先生からランドナーを譲っていただきました。

1986年に購入され、画材を積んで旅をされたそうです。

元のかがやきを取り戻すべく、早速ですが、一旦バラして綺麗に清掃していこうと思います。

最初フレームはくすんでいて分からなかったのですが、この通り非常にきれいない色でした。

金属パーツも磨いていきます。アルミにアルマイト処理なんでしょうか?白っぽい金属が多く使われていて綺麗です。

メッキは磨くと剥がれちゃうので嫌なのですが、メッキはかなり少ない気がします。

サドルは味があるので、このままにして、オイルを塗っていく予定。革の張りを調整するため工具を探し中。

リアにダイナモがついていて、そこから電線を取り回し、ライトがつくようです。フェンダー取り外しのため、いったん線は切ったのですが、電気も復活させてみたい。

ややサビの出ているキャリア(前後とも付属)は、クエン酸につけて、ピカピカになるんじゃないかって予想してます。

先生ありがとうございました。

I got a Randonneur from Japanese painter, Koseki Okano. I heard he bought it in 1986 and traveled with painting materials on the bicycle around the Shodoshima. 

First of all, I will disassemble it and clean each part. The beautiful crimson of its original color have been retrieved after cleaning the frame. I have been fascinated with this old vintage bike and hope to ride it soon.

『画中日記』2022.07.08【愛自転車だったミヤタ ルマンをフェイスブック友達の太田氏に貰ってもらう-②】

 先日、長年取材に愛用していた、キャンピング用自転車のミヤタ ルマンをフェイスブック友達の太田氏に貰ってもらった。1986年に購入したその自転車の、4つあるサイドバックに画材を入れて小豆島を周るのが動機だった。当時はフットワークというダックスフンドのマークの運送屋だけが、梱包なしで自転車が送れた。フットワークは全国展開していた運送業者だった。途中、何泊かした小豆島の、池田町の岬にある国民宿舎は、居心地が良かったので、その後に泊まったこともある。

 ググってみると、人間の細胞数はおおよそ60兆個だそうである。その一個一個の細胞に血液は入り出ている。そしてその血液も細胞である。細胞は膜を通して、人体外とも繋がっていて、出入りは途切れない。これは、脳細胞も同じである。また、有機体ではない情報も、敷衍拡大すればすべての存在は外部と出入りしている。諸行は無常なのである。常ある存在も、状態も世界には存在しないのである。

 昨年、私の故郷の玉の町で、車の入れない坂道の古家を土地ごと貰ってくれという話が、私にまいこんだ。東南向きの明るい、持ち主の良き歴史のつまった家も、再び、住めるように復活させるには、私には余裕がない。それに、車の入れない道は、今後の歳を重ねる私には、ますます負担になるだろう。心が動いたが、その話は途中でことわった。その家は、貰ってくれる人がいなければ、今後朽ち果てていくだけだろう。

 私の愛自転車だったルマンも、歳をとってこのまま乗らずに廃棄するには忍びない。私の、ささやかな歴史を刻んだ自転車を、再利用してくれる人を探していた。

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『安倍元総理が銃撃され心肺停止』

この事件の早い段階で、心肺停止の情報を、誰が何処で取材し、流したのだろうか。それに、犯人は40代の元海上自衛官、という報道も、裏の大きな闇を感じる。ケネディ暗殺のオズワルドと似ている。日本人の発想には浮かばない、終戦後に昭和の世界を覆っていた、松本清張の小説的な事件だ。今は、その時と時代が違う。悪因悪果で、犯した罪の結果は、大きくそれを企んだ勢力の上に、落ちていくだろう。

安倍さん、命だけはとりとめてください。貴方の存在は、もう少し日本には必要です。生きていることだけでも、日本の力になります。(午後4時半、フェイスブックに投稿)

『画中日記』2022.07.09【今日も太陽(ひ)は上(のぼ)る①】

 作日、安倍元首相が凶弾に撃たれ、お亡くなりになった。

 子供のころから、自分の身の回りで出遭う体験で、良き幸せな出来事は元気になるが、理不尽な邪悪な出来事に出逢うと、子供ながら、ああこうやってこの先も生きて行かないといけないのか、と、暗く憂鬱になってため息がでたものだった。それでも、時間が経てばいつの間にか状況は回復して、あるべき姿に戻り、生きることに肯定的になり、元気になったものだ。そんな体験を繰り返した漠然とした世界で、子供心にできてきた世界観は、日常生活や個々人の人生の下に、真善美の超越的構造があり、それがいつどこでも流れているという感じか。その世界観に至る、一つ一つの子供のころの体験は、すでに何度か文章に書き、また何度か話してきた。そして、2018年には『全元論』という本を自費出版した。

 世界には、日本の中にも、自分の外側に、宗教や超越(真善美)を持たない人たちがいる。外側に超越を持たない人の生きる目的は、自分の欲望しかない。欲望で人生を送り、欲望を満たすためには、どんなことでもするということだ。もともと超越をもたないのだから、真理をもっていないのだから、嘘はつくという恥の意識ををもたないで嘘をつくし、善ももっていないのだから、悪という罪の意識もなく悪事をおかす。超越をもたないのだから、美を超越とおもっていないのだから、醜悪な作品や、周りを不快にさせても自分が満足すれば平気なのだ。

 世界中で起こっている紛争の下部構造は、自我の欲望のベクトルで生きる人たちと、宗教や超越をもって自分の外側の軌持(レール)のベクトルで生きる人の争いだ。(この文章は、明日につづきます)

『画中日記』2022.07.10【今日も太陽(ひ)は上(のぼ)る②】

 私は1971年の日本橋画廊での最初の個展の前年、個展のための画のモチーフ探しに、伊予鉄の四国八十八ヶ所バス巡りツアーに参加した。私の目的は参拝ではないが、一行の参拝行事に付き合ううちに、自然に般若心経も覚えてしまった。朝、バスの中の読経に「十善戒」がある。

 弟子某甲(でしむこう) 尽未来際(じんみらいさい)

 不殺生(ふせっしょう) 不偸盗(ふちゅうとう) 不邪淫(ふじゃいん) 不妄語(ふもうご) 不綺語(ふきご) 不悪口(ふあっく) 不両舌(ふりょうぜつ) 不慳貧(ふけんどん) 不瞋恚(ふしんに) 不邪見(ふじゃけん) 

(十の善き戒め 仏さまの弟子となった私は、いつまでも殺生をしません。ものを盗みません。ふしだらな行為をしません。うそいつわりを言いません。心にもない綺麗ごとをいいません。悪口を言いません。信用を失うことを言いません。ものを慳(おし)み欲ばったりしません。いかり憎むことをしません。間違った考え方をしません)

 当時の私の生き方のイズムは実存主義で、こんなあたりまえのモラルに縛られたくなく、むしろ反発していた。しかし、この十善戒を犯すと、恥ずかしさや、罪の意識に悩まされるのは何故なのか、という説明は私の実存主義ではできなかった。

『画中日記』2022.07.15【愛自転車だったミヤタ ルマンをフェイスブック友達の太田氏に貰ってもらう-③】

 イーゼル画会展の会期中で気が回らず、このミヤタ ルマンの文章も途切れたままだが、太田氏の改装、復活はみごとに進行している。廃墟間近の古民家がみごとに息を吹き返し、新たな持ち主と新たな歴史を重ねていくように、この自転車も喜んでいるだろう。新しい持ち主と美しく改装された自転車のこれから刻む新たな歴史は、当然良き歴史となるだろう。嬉しいことだ。

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Naotoshi Ota

710 8:23

 

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プライバシー設定: Naotoshi Otaさんの友達

ランドナーの我流レストア、マイペースでやっております。

ほとんどのパーツはサビ落とし完了したので、グリスアップしながら組んでいきます。

ただひとつ、工具を探し中。

ロックリングが、今の規格とちょっと違うサイズだったりする。

バーテープは新しく巻き直すため一旦剥がしました。

タイヤも新調するかも知れません。

『画中日記』2022.08.03【第7回イーゼル画会展に向けて】

 第6回イーゼル画会展が終わったばかりだが、会期中に来年2月に平塚の『元麻布ギャラリー平塚』での私の個展と、来年6~8月の新宿『ギャラリー絵夢』での第7回イーゼル画会展が決まった。正しい方向と、正しい修行にベストをつくせば、道はおのずか開けてくるものなのだ。

 ギャラリー絵夢は会場が広いので、次回の第7回イーゼル画会展から出品作のしばりを変更する。その文面を今朝作った。これを事務局の住谷さんからメンバーに送ってもらう。

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第7回イーゼル画会展に向けて

第6回イーゼル画会展は、銀座から平塚に会場が移ったにかかわらず、盛況のうちに終わりました。メンバー全員の真摯なイーゼル画への取り組みによっての、充実したコンテンツがその根拠だとおもいます。薄い毎日の世界存在の描写の努力が少しずつ積み重なって、振り返ってみれば、思わぬ高さまで自分の力がついていることを、自覚されたことでしょう。

会期中に、第7回イーゼル画会展の話が持ち上がりまして、来年の6、7、8月の間に、新宿のギャラリー絵夢で開催予定です。正式に会期が決まりましたら、住谷美知江さんから出品依頼の書類を送ります。

イーゼル画は現場では30号が限度で、大作には、多くの画家がその問題を乗り越える苦労や工夫をしてきました。それは、各自にまかせますが、下記に、次回のイーゼル画会展より、出品作品のしばりを変更します。ギャラリー絵夢は会場が広いので、大作を出品してもらいたいためです。

1、10号以上の純粋なイーゼル画1点。

2、30号以上の大作1点。これは、一切のしばりなく、自由に制作してください。抽象画でもかまいません。

3、このほかの出品作も、点数、大きさの一切のしばりがなく、自由に制作してください。

ただし、相撲取りが日ごろの稽古が欠かせないように、実在の光と空間の描写力をイーゼル画で磨き、高めていってください。

2022年8月3日  岡野岬石

『画中日記』2022.08.13【北海道に】

 室蘭にイタンキ浜という海浜がある。このところ、その浜を中心に、室蘭のユーチューブをネットサーフィンしていたのだが、いよいよ昨日、来月の1日から15日まで、現地でイーゼル画を描くことに決め、宿泊と、飛行機の予約をした。

 宿泊は、イタンキ浜の上の丘にあるユースホステルで、おあつらえ向きの場所にある。ユースホステルの宿泊は若い時に、飛び込みで数回あるが、今回は予約をした。ネットでアップされているので、だいたいの様子がわかり、安心して電話した。北海道には、礼文島で見、ホステラーの一行とも海岸ですれ違った桃岩ユースホステルのような、私の苦手のユースホテルがあるので、ネットの情報は大変助かる。

 交通手段は、東北新幹線で新函館経由で室蘭に行きたかったのだが、新函館から室蘭へ、噴火湾沿に直接行く長距離バスにヒットしなかったので、新千歳空港に着く飛行機にした。ネットで買えば、安いキップも予約できるので、行きも帰りもネットで予約した。いい時代になったねぇ。私がパソコンを使いはじめ、電話回線も光に変えてネットを使いはじめる以前は、旅行の情報収集と、各種予約は大変手間のかかる作業だった。そのため、決断をすれば一切をはぶいて、行き当たりばったりの旅行をしていたのだが、これはこれで若くなければできない、大変な体験であった。

 まあ、人生はいつも同じで、これが最後かなあとおもった伊豆大島のイーゼル画を乗り切ったので、この旅行が浮かんできた。重い画材を背負ってのイーゼル画はこれが最後かなぁ、と今回もおもい、歴戦の老兵は昨日唐突に決断した。宿泊期間も一週間あればと思ったが、もう二度と現場にイーゼルを立てる時はないだろうから、余裕をみて二週間にした。戦場の、現場での決断は、いつの時代もこういうものだ。

『画中日記』2022.08.25【時は常に過ぎゆく】

 8月13日に、室蘭のイタンキ浜に描きに行くことを決断し、時は過ぎて、来週は北海道でイーゼルを立てる。その準備のために、今日はキャンバスを10枚張り、荷造りをした。明日は、もう一つの荷物の、絵具箱と生活雑貨を荷造りして、近く同時に発送する。

 こうやって、一週間後に室蘭に行き、室蘭の初めての場所にイーゼルを立て、10枚のキャンバスを描き切り、9月15日にアトリエに帰ってくる。

 芸大卒業以来半世紀、ずっとこうやって生きてきたんだなぁ。未来の時は、確実に来るのだけれど、いつもいつの間にか目の前に来て、そしてすぐに通り過ぎていく。そして、画家には通り過ぎた時間の上にその時に描いた作品が残る。さて、今度はどんな作品が出来るのだろうか。

『画中日記』2022.08.31【明日は室蘭】

 今朝は、最新作をフェイスブックにアップし、日帰り温泉に行って、今帰ってこの文章を書いている(14時10分)。明日からは室蘭のイタンキ浜の、室蘭ユースホステルに15日まで連泊し、15日の夕方柏に帰る。その間、毎日ルーティンでアップしていたフェイスブックは休みます。16日から、「室蘭(イタンキの丘)だより」で、現地で描いたイーゼル画の完成途中の作品、フォトデータと文章で再開アップします。

 ちょうど50年前の1972年から、1975年まで、札幌市の手稲山のふもとに住んで、北海道全土の風景を描いてまわったが、室蘭という都会のすぐ近くに、こんな風景があったとは知らなかった。昔と違って、データが簡単に入手できるユーチューブのおかげです。イーゼルを立てる予定のポイントは、すでに何箇所かはチェックしている。ほとんどは、近くまで車で行けるので、画材を背負って歩く距離は短いだろうから、老画家にはおあつらえ向きだ。

 この歳になると、毎回これがイーゼル画のラストチャンスかなぁ、と思うのだが、乗り切ると、次のモチーフが浮かんでくる。今回も、急に浮かんできた室蘭行で、明日からが楽しみだ。

 今、15時10分。これから明日の旅行の準備をします。

『画中日記』2022.09.01【これから出発】

 今朝は、いつも通りに起床し、いつも通りにルーティンをこなして、9時にアトリエを出発する予定だ。室蘭から帰ってきてから、フェイスブックの投稿を再開します。「室蘭(イタンキの丘)だより」を“乞うご期待!”(昔の映画の予告編によく使われていた文章)。

『画中日記』2022.09.15【先ほど室蘭からアトリエに帰る】

 先ほど、アトリエに帰りました。作品は、送った15号のキャンバス10枚と室蘭で買い足した、張りキャンバスF10号2点の計12点描きました。充実した毎日でした。明日は、日帰り温泉で旅先の疲れをほぐし、明後日の午前中にむこうで描いた作品が配送されてくるので、それらの作品を完成させる日々が待っています。【室蘭(イタンキの丘)だより】は1日の情報量が多いので、徐々に投稿していきます。歳をとるほど、やることが増えていく…幸せな老画家ですね。

『画中日記』2022.09.17【柏のアトリエでのルーティンに戻る①】

 先ほど、『読書ノート』に一文をキーボードで打ち込み、フェイスブックにアップした。これはアトリエでの毎日の朝のルーティンで、歯磨きや、朝の体操と同じく一日の始まりで身体も脳もウォーミングアップされる。

 今日は、室蘭での荷物が宅急便で配送されてくるので、それまで、室蘭ユースホステルの藤当さんの撮った、イタンキの浜と丘の写真の動画をつくるかな。

 今日は、室蘭での荷物が宅急便で配送されてくるので、それまで、室蘭ユースホステルの藤当さんの撮った、イタンキの浜と丘の写真の動画をつくるかな。

 午後1時45分、室蘭の荷解きも終わり、藤当さんの動画もアップし終わり、いよいよ、室蘭での作品を完成にまでもっていく。それと同時に、【室蘭(イタンキの丘)だより】をユーチューブにアップし始める。ユーチューブにアップする時系列は柏に帰ってから、室蘭での出来事を思い出しながら書くので、『岡野岬石の資料蔵』に保存する時には、実際の時系列に直して保存し、加えて完成作もアップします。

『画中日記』2022.09.18【柏のアトリエでのルーティンに戻る②】

 今日は、今まで室蘭で描いた地球岬の灯台の絵を完成に向かって進めた。ほぼメドがついたので明日には完成するだろう。

 2010年にイーゼル画を始めた頃は、いったいこの絵は完成するのだろうか、つまり、道に迷って目的地にたどりつけるのだろうか、という不安が、現場で描いている時から襲われていた。本来、ネアカな私だが、勇気をもってチャレンジするもんだねぇ。完成までの、必ず完成できる、という数々のスキルを身につけると、途中の、画面の中のあちこちにある数値の狂いは、後で直せばいいのだ。つまり、正確な地図を持って、その地図が読めて、自分の位置を正確にプロットし、正確な方向に道を進んで行けば、目的地に最短距離で到達できるというワケだ。

 仏教の八正道だね。若い絵描き志望の皆さん、老画家のいうことはすなおに聞くもんだよ。

『画中日記』2022.09.22【画家を志す人へのアドバイス】

 人間の一生の間の、選択肢に出遭った時、全て正解を選ぶということは不可能です。これは、ユーチューブの色々ある情報で明らかでしょう。自分個人の都合もあるし、自分を含む、家庭、国家、世界の状況も変化します。

私のことをいえば、私は絵の世界では全ての判断は正しかったと思っています。しかし、他の判断は全て、間違いました。間違ったというよりも、私の判断の間違いで、周りの人に迷惑をかけたというべきでしょう。

私は、後期高齢者で年金暮らしの独居老人です。私は、画家を志し、画家一筋で生きてきたことに満足し、天の配剤に感謝します。そして、私の人生の判断基準の方向が〈美〉という超越に向かっていたからこそ、つまり、つまり、〈美〉という北極星(羅針盤)が身の内に持てていたから、画家として今まで生きてこられたのだとおもいます。

貴方は、生きて行く中心の方向を決めるべきです。その中心の方向で、出遭った選択肢を判断すればいいのです。それで間違っても、それは自己責任で甘んじて受け入れればいいのです。生きて行く中心の方向を一歩一歩進んでいく人生は、幸せだし、意味もありますし、自分の人生も世界存在も全肯定になります。

『画中日記』2022.10.22【本額が解決】

 長い間、絵の額装は、自分でデザインした額縁を、川口額装で作っていたが、絵の値段を下げたのと、額縁代の値上げで、本額の額装が無理になっていた。展覧会の出品作や、個展には自分で仮枠を作って展覧したし、保管のためのダン箱も自分で作った。こうやって、自分で全てやっていかないと、絵を描いて生きていけない。なにしろ、芸術はハイリスク ノーリターンの世界なのだから。

 画家人生の後半、情報発信や広報をパソコンやネットを自分でやりだし、ユーチューブの動画も自分でつくり、アップするようになった。最後に残ったのは、画商行為で、これも、ギャラリー仁家が大倉山の画廊を閉めたとき、ふたりで数年前ネットギャラリーを立ち上げた。

 私の本の編集や校正をしてもらった原田さんを、ネット立ち上げのアドバイスをたのみ、その後、ネットでの問合せの応接をお願いし、今は、私、小沼氏、原田さんの3人で運営している。これも、全て自分たちでやっていれば、出費は微々たるものだ。売却代金を、按分すれば、微々たるお金を、私が負担すればふたりには、売れなければ給料ナシだが、もし売れれば、高額商品なのでそれなりのリターンがあるだろう。

 といっても、私の世代は情報弱者で、パソコンが使えない。今までにネットで売れたのは1点だけだ。売れないことは、最初から覚悟をしていたので、1点売れた時は嬉しかった。

 画廊やデパートでの個展で、1点目の絵が売れたときは「片目が開く」、2点目は「両目が開いた」といって、その後の売れ行きの瑞兆として喜んだものだ。その2点目が先日売れたのだ。そして、その直前、以前玉野の関藤氏が買った絵につける本額のリクエストで、手頃な値段の市販の額縁が手に入ったのだ。その額に、私が塗装を加えて、満足する額ができた。写真の額がアクリル付き10号で20790円、借り枠(ガラス無し)は私の自作で無料です。そして、ギャラリー仁家のサイトに写真をアップした。

https://ギャラリー仁家.com

『画中日記』2022.10.24【ガラスの器】

 ネットサーフィンしていて、見ていたユーチューブの動画の概要欄に、私の通っていた高校の近くの街で、今は寂れた商店街の、古くからある陶器店がでていた。

モチーフの花瓶類は、山中湖の仮アトリエをを引きあげる時に、すべてあげてしまったので、先日ダリアを描いた時には、あらためて苦労した。たまたま、この店の品物は、当時物だということで、サイトでガラスのピッチャーと、ガラスのグラスを3点、店の直接の通販で買った。ピッチャーは、今後コスモスやシオンを描く時があれば、花瓶として使おうとおもう。バカラのグラスに似た小ぶりなグラスは、ウイスキーやブランデーのオンザロックに使おうと思う。あとの2点は、小さな野の花の花瓶として使おうとおもう。

歳なので、物は増やしたくないのだが、絵のモチーフは、見るとどうしても欲しくなる。

松尾陶器店のURL

https://matsuyatouki.official.ec

『画中日記』2022.10.26【アトリエ画を描きはじめる】

 来年発表予定の大作のためのエスキース作品、崖上風景M20号を描き始めました。大作は、イーゼル画の現場では描けないため、室蘭で描いたイーゼル画の作品を組み合わせて、柏のアトリエで、先々日描き始めました。これから数点、アトリエで手をつける予定です。

『画中日記』2022.10.27【「蓬莱門朝陽」下描き】

 室蘭の外海岸に蓬莱門という窓岩がある。この岩をユーチューブで見たのが、今回の室蘭行のきっかけだ。ここは、画材を背負って、現場にイーゼルを立てることは今の私には無理なので、アトリエで描くしかない。アトリエで描くのなら、理想的な状況を設定できる。蓬莱門の窓に、ちょうど朝の太陽がピッタリと入った瞬間の絵を描き始めた。ネットで写真はそろわなかったが、動画で一本、そのような状況の動画にヒットし、参考にした。

『画中日記』2022.11.02【コスモスを】

 今日コスモスをF10号で描き始めた。10月24日にガラスの水差しを手にいれたので、それを花瓶にして、コスモスやシオンを投げ入れて絵を描こうと思っていた。そのコスモスが昨日手に入ったので、今朝から、描き始める。完成すれば、2月の平塚での個展に出品しようとおもう。

完成作

『画中日記』2022.11.23【「蓬莱門朝陽」完成】

 『蓬莱門朝陽』F20号が完成した。一度完成して、フェイスブックにアップしたが、あとで、ディテールを数箇所手直しをして、数日前に完成した。小さな、微妙な手直しなので、写真を見比べても、他人には、プロの画家でさえも修正箇所はわからないだろう。高校生時代の石膏デッサンの時から、手直し、修正すべき画面上の場所を、見つけることができるたびに、自分の描写技術の上達に満足したものだ。手直しすべきところがみつかりさえすれば、あとはそこをどう直すかとということを考えればいいのだ。つまり、ちょっと変だなとおもっても、直さなければなければならない場所が分からないということと、その場所が分かっても、どう直すかそのスキルを自分が身につけていなければ、絵はいつまでも完成しない。

 これは、全ての人間の手による生産物や、医学、政治、経済にもいえることで、おまけに、経年による劣化と時代の変化が加わる。

 まさに、世界は「全元論」だね。全元論的世界観をもって個々の人生を送り、国家の歴史をきざんできた国は日本しかない。むしろ、その世界観を個々の国民が持ち続けてきたからこそ、外国からみれば奇跡的に存在しつづけたのだ。そして、時代のフェーズが変わっても、宇宙全体、地球全体、人類全体、個人全体は世界の内存在なのだから、世界存在の法(ダルマ、真・善・美)、超越の外には出られないのだから、いずれ、より善き、美しき、正しき方向に収束していくことだろう。日本人は心配することはありません。

『画中日記』2022.12.01【『風者小屋だより』ドーデ 作 の本ツナガリ①】

 『宗教と人生』玉城 康四郎 春秋社の抜書きを11月22日に了え、先日より、フェイスブックにアップも兼ねて、【読書ノート】にドーデの『風者小屋だより』を抜書きしている。

 この本は、中学生の時に読んだのだが、9月の室蘭ユースホステルの談話室の本箱にあったので、帯蘭中に読み終えた。帰柏してネットで購入し、今、フェースブックにその本の中の一編「老人」を全文少しづつアップしている。

 中学生の頃は、国木田独歩が好きで、小学6年生の時の担任の広畑先生は、その頃午前11時のNHKの朗読の番組を、授業中に時々生徒に聴かせていた。たまたま、あるとき、国木田独歩の『春の鳥』を放送、私は学校の図書館にあった、あかね書房、滑川道夫編、少年少女日本文学全集の国木田独歩の「春の鳥」を読んでいたので、いっそう本好きになった。

 この本は後年、芸大生の頃、神田の古本街で手に入れていたのだが、先年処分した。

『画中日記』2022.12.02【『風者小屋だより』ドーデ 作 の本ツナガリ②】

 国木田独歩の影響で、自然主義的というのか、ロマンチックな旅や自然の本を学校の図書館や、玉の町の秀文堂で探した。この頃の本の値段は、他の値段と比較して高かったが、本を買う時は、親は何もいわずにだしてくれた。

 秀文堂では、小学校低学年の時は『漫画王』、小学校高学年の時は『子供の科学』中学校3年の時は『アルプ』という雑誌を定期購読していた。『アルプ』には、色んな情報が載っていて、そのあたりから『風者小屋だより』にたどりついたのだろう。この本を、9月に室蘭に絵を描きにいったときの宿泊先、室蘭ユースホステルの談話室の書棚で再会したのだ。

 私の玉野での同級生の相川養三氏は、京都の私大を出て、東京の出版社の創文社に就職して編集者として活躍したのだが、『アルプ』という雑誌は、創文社で出していたのを、相川君経由で知る。そして『アルプ』の編集者は、当時新入社員の相川君の上司の大洞氏だったという。そのつながりで、私は大洞氏とも知り合い雑誌の『アルプ』はなくなったが、創文社のPR誌の『創文』に文章をたのまれたのだが、その当時は、絵の制作に忙しくそのオファーは果たせなかった。

 とにかく、過去に読んだたった一冊の本が、自分の人生を含めて、他者にも広がり、内部も外部も境界なく、時間も空間も別々にあるのではなく、世界はそういうふうに有るのだネ。

『画中日記』2022.12.03【誤りは直すしか方法はない

 昨日は、週に一度の資源ごみの回収の日なので、注文し着荷したてのダンボールをごみ収集所に出した。このダンボールは、仮額を付けた私の作品を入れるダン箱を作るためのものだ。注文したのは、120×180㎝の品物だったのだが、私のネットでの打ち込みのミスで120×180mmの品100枚が来てしまったのだ。

 すぐに、注文し直したが、1万円弱だった(注文したときはずいぶん安いなあと思ったのだが)この品物は、使い道はないので資源ゴミとしてだすしかないし、行政で処理してくれるところに住んでいなければ、自分で燃やすしかない。

 すべての人間が作る物は、どんなに、労力や時間やお金をかけても、間違いは、間違ったところを正さなければゴミになる。間違ったところを正さなければ、間違いはどんどん拡大し、結果は、結局、間違った本人に返ってくる。

 コ○ナも、○○チンも、太陽光パネルも、マスメディアも、世の中の不正も、ウソも、大は国家から小は個人にかかわらず、そもそもの間違っているところを正さなければ、結局、間違いを知っていてそれを正さず糊塗しつづければ、その結果は、その原因を作った、当の本人や集団や体制に天罰が下されるだろう。〈真善美〉は世界の法(ダルマ)なのでいつ、どこででも通貫している。法(ダルマ)に反する行為は、人間の作った法律では無罪でも、いずれ天罰として天から本人の身の上に下されることだろう。

 善因善果、悪因悪果・善因楽果、悪因苦果である。

下記に、2020年3月28日から2020年5月14日まで10回にわたって『画中日記』に書き、フェイスブックに投稿した文章のURLをコピペします。2022年暮れの現在、私が2年前に言ったとおりになっています。

https://okanokouseki.com/(武漢ウイルス)/

『画中日記』2022.12.05【大作用の下絵にとりかかる

 来年の2月の平塚の、元麻布ギャラリー平塚での個展の作品の目処が付いたので、今日から、来年6月のギャラリー絵夢での第7回イーゼル画会展の出品作にとりかかる。ギャラリー絵夢は会場が広いので、今回は大作の出品をメンバーにお願いしている。私はM60号を出品予定にしているが、大作は、イーゼル画では描くのが困難だ。だから、今回の大作は、イーゼル画(対象の直接描画)のシバリをなくした。アトリエで描くアトリエ画で、画面から画家の眼までの空間と、対象の物感をどう鑑賞者の目に伝えるか、という、スキルが問われる。 

『画中日記』2022.12.12【M60号のキャンバスを張る

 昨日、M60号のキャンバスを張った。張り終えるころ、キャンバス張り器を持つ左手の握力が弱くなったのを自覚する。後期高齢者で、経年劣化は仕方がないが、私にとって、絵を描くことは生きることと同義なので、死ぬまでキャンバスを張りつづけなければならない。ナニクソ!

『画中日記』2022.12.13【M60号のキャンバスに描き始める

 昨日、M60号のキャンバスに『崖上風景』を描き始めた。『崖上風景』か『イタンキ浜二重虹』か、どちらかを描こうと思っていたのだが、遠景だけの『イタンキ浜二重虹』に比べ、近景から遠景まで画面上に空間のある『崖上風景』を描くことに決める。

 昨日、広島の繁田氏から電話があり、2016年に展覧した島根県【今井美術館】『岡野岬石(浩二)展』T・Sコレクションを来年4月に、2回目をやってほしいとのこと。今井美術館での展覧の後、島根県で描いた何点かのイーゼル画で描いた作品が中心になるのだろう。これで来年は、2月に平塚の元麻布ギャラリー平塚での個展、4月に今井美術館での展覧会、6月に新宿の絵夢ギャラリーでの第7回イーゼル画会展と自分の作品を観てもらう機会が続く。若い時から、オンオフ無しの全身画家、趣味は「個展」と周りに言って、この歳まで生きてきたが、後期高齢者になっても、私の作品の展示のオファーが続いていることに感謝します。アリガタイ!アリガタイ! 

『画中日記』2022.12.18【M60号のキャンバス(崖上風景)を完成する

 M60号『崖上風景』を完成する。この作品は、左右のイーゼル画2点を組み合わせてアトリエで描いた。純粋のイーゼル画ではないが、視角の広い風景画の大作はいまのところこの方法しか考えつかない。

 人物画で、大作を描くには、一人の人物をそのまま大きく拡大すると、視角の狭いまま大きくなるので失敗する。だから、何人かの人物を組み合わせて、キャンバスの大きさと、対象の視角を合わせなければならない。

 こんな、答えを聞けば簡単なことも、イーゼル画で日頃から眼を鍛えていなければ、クリヤーすべき問題点が解らないョ。

『画中日記』2022.12.19【今日は、住谷重光氏の個展初日のOギャラリーに

 今日は、住谷重光氏の個展初日のOギャラリー(銀座)に出かける。日頃、外に出るのは、大体週に一回の食料品の買い物と、これも週に一回の気晴らし兼休息の日帰り温泉のほかは、アトリエに篭りっきりだ。

 他の画家の個展にも、行けば、画廊で余計なことを言いそうで、行きたくないのだが、今回は住谷氏の個展は、イーゼル画展のフェイスブックの作品がよかったので、観るのが楽しみだった。12月25日まで開催していますので、いってみてください。

『画中日記』2022.12.26【旧作も

 今年の夏に描いたダリアの作品を、以前私がデザインし額縁屋さんで作った本額に入れ替えようとしたが、絵柄と合わずに止めにする。2010年にイーゼル画を始めてから後の個展では旧作を展示する機会はなかったが、久ぶりにガラス入りの本額に旧作を入れてみると、装飾的にはイーゼル画に引けを取らないので、旧作を入れて2月の元麻布ギャラリーでの個展に出品します。以前作った額なので、売価には額代は入れません。

『画中日記』2022.12.28【年賀状を

 今朝、来年の年賀状をポストに出してきた。これで、今年の仕事納めだけれど、実際は、絵を描くことになるだろう。

 今年は、秋に四国の山中の棚田を描きに行く予定をたてていたのだが、ユーチューブで室蘭の外海岸を観て、急に取材先を変更した。今年描き残した棚田風景は、この先、描けるかどうかはわからない。人も出来事も絵も、一期一会で、過ぎ去った時間は二度と戻らない。後期高齢者になると、一年の終りには、時間が下記のように感じられるのだ。

 (下記は、2019年に出版した『瀬戸内百景』のあとがきの文章です)

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  年たけて 

  また越ゆべしと思ひきや

  命なりけり

  小夜の中山(西行)

  この歌は、2010年に読んだ西田幾多郎の『善の研究』の著者のあとがきの中に出ていて、その後私は忘れていました。ところが、2018年から、私の生まれ故郷で瀬戸内の海と山の風景を描き始め、そこで突然思い出し、キャンバスの前で、何度もこの歌が頭を過(よ)ぎりました。この本の中の何点かは、私の子供時代に見た風景との再会です。子供の時見た風景を、73歳の画家がイーゼルを立て、直接描画する時は、まさに「命なりけり 小夜(さや)の中山」でした。

 1点1点を描き、描き重ねた104点の作品がまとまり、展覧会を開き、そして、この本が上梓される。この過程の全ての瞬間、たった一人で現場で描いている瞬間も例外ではなく、考えてみれば不思議な因と縁の巡り合わせで、1点の作品から展覧会、その結果としてのこの本の上梓が現成出来たのです。

 9年前に出遭った、約800年前の西行との縁も、令和元年10月13日、玉野への7訪目(この時の作品は未完成)の最終日に、児島八十八箇所を巡拝した時に立ち寄り、あらためてトレースしました。玉野市八浜の近くの岡山市郡(こおり)にある西行の句碑の前で、昔西行の見た風景と同じ場所で眼前の風景を見ているのだとおもうと、おまけに同じくらいの年齢だとおもうと、私と西行は身体(からだ)ごと共鳴したのです。

  昔見し 

  松は老木(おいき)になりにけり

  わが年経(へ)たる

  ほども知られて(西行)

 直接動いてくれた周りの人や直接描いた風景、その風景と、画面には入らないがその場所の環境を守り継いでくれているすべての人に感謝いたします。そのすべてがなければこの本を上梓できなかったのですから。

令和元年10月25日 柏のアトリエにて  岡野岬石

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『画中日記』2022.12.29【『蓬莱門朝陽』を

 先月完成した『蓬莱門朝陽(F20号)』がうまくいったので、この作品をF40号の縦と横で描くことに決め、第一工程を午前中に終えた。この2点が、来年の最新作の口開けになるだろう。

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