岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

画中日記

『画中日記』2011年

投稿日:2020-04-30 更新日:

『画中日記』2011年

 2011.01.09 【『善の研究』を読む】

 新年最初の「画中日記」です。

 昨年の最後の【読書ノート】に載せた『善の研究』(西田幾多郎著 全注釈小坂国継 講談社学術文庫)は途中で読み進めるのを断念しかかったのだが、2009年8月24日の【読書ノート】に載せた『ペンローズの〈量子脳〉理論』(ロジャー・ペンローズ著 竹内薫・茂木健一郎訳・解説 ちくま学芸文庫)で出会った、「物の世界」、「心の世界」、「プラトン的イデア界」を三位一体とするペンローズの説と同じではないかと驚き、その構造で読み進めると論旨が矛盾なく頭のなかに入って来て驚いた。西田哲学のすばらしさはもっと世界にアピールすべきだし、その東洋的世界観の正しさを日本人はもっと誇ってもいいと思う。物理、数学畑のペンローズの理論と、倫理、宗教、哲学畑の西田の理論と、芸術畑の私の世界観が、歩んできた道は違ってもほとんど同じところに行き着くのは何故だろうか。その理由は簡単なこと、世界はそうなっているから、世界はそのように存在しているから、私はそう確信している。

 以下の文章は2010年12月26日の【読書ノート】に載せた『善の研究』(西田幾多郎著 全注釈小坂国継 講談社学術文庫)の、私の考えを含めた抜き書きの一部です。

■我々は意識現象と物体現象と2種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ1種あるのみである。すなわち、意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有するものを抽象したのにすぎない(注2)。

 (注2)いわゆる物体という実体が存在するのではなく、通常、われわれが物体と呼んでいるのは、意識現象の内で比較的に客観的で不変的な関係を有する部分を抽出して、それに名称を与えたものにすぎない。西田の考えは明らかに唯名論的である。(142頁)

【私(岡野)の考え;私の考えは実在論的で、このあたりからこの本を読み進めるのに、気がおもくなる】

■また、普通には、意識の外にある定まった性質を具えた物の本体が独立に存在し、意識現象はこれにもとづいて起こる現象にすぎないと考えられている。しかし、意識外に独立固定せる物とはいかなるものであるか。厳密に意識現象を離れて物そのものの性質を想像することはできぬ。単にある一定の現象を起こす不知的の或者というより外にない(注1)。(142~143頁)

 (注1)西田は意識現象を唯一の実在と考える。したがって、意識現象から独立した物とか物の性質とかいったものの存在をみとめない。もしそのようなもの、例えばわれわれが感覚している個々の「リンゴ」ではなく、いわば「リンゴ」そのものとか「リンゴ」自体とかいったようなものが存在するとしたら、それは時間・空間という枠(直観形式)の下では、またすべてのものは因果法則に従って生ずるという前提条件の下では、われわれの感官に「赤い」とか「丸い」とか「硬い」とか「甘い」とか感じられる、しかしそれ自身はまったく不可知的な或者としかいいようがないというわけである。西田自身、直截に「我々が実際に感覚しているもの、それが物自身である」と考えている。(143~144頁)

【私(岡野)の考え;同じく、だんだん私の世界観とくい違いこの本を読み進めるのに、気がおもくなる】

■いわゆる唯物論者なる者は、物の存在ということをうたがいのない直接自明の事実であるかのように考えて、これをもって精神現象をも説明しようとしている。しかし、少しく考えてみると、こは本末を転倒しているのである(注2)。(143頁)

 (注2)本来、純粋経験説は主客未分の「純粋経験」を唯一の実在と考えるたちばであるから、唯物論でも唯心論でもなく、そのような二元論を超越した立場であるが、この箇所に見られるように、『善の研究』には、唯心論に親近感を示す表現が散見される。例えば、本編第9章では「実在は精神において始めて完全なる実在となる」と述べられ、また第4編第3章では「物体によりて精神を説明しようとするのはその本末を顛倒したものといわねばならぬ」と述べられている。(144頁)

【私(岡野)の考え;人間の外側の物の世界は、人間に無関係に実存に超越して在るのだけれども、人間に写り込む形で人間の身体に内在すると考える】

――ここで私はこれ以上読み進めるのを一旦断念したのだが、全注釈を書いた編者の小坂国継氏の補論「『善の研究』について」を読んで、そのなかで「内在的超越主義」(ということは、私が外在的に超越と措定していた存在を、以前読み、この【読書ノート】の2009年8月29日のページにも記した「物の世界」、「心の世界」、「プラトン的イデア界」を三位一体とするペンローズの説と同じではないかと驚く)という言葉にであい、あらためて読み進めることにする。本のページの順序とは違いますが、私が読んだ順にしたがって以下を記していきます――

 2011.01.10 【Kさんへのメール】

 今年も食品を送ってくれたそうでありがとう。

 正月は、念顏だった海から昇る初日の出を見ました。太陽の光は太陽から自分の眼球の網膜までダイレクトにとどいていることをおもうと、キャンバスに太陽が描写できると、太陽から画家の立ち位置までの空間が描写されたことになります。そう大な空間と光でそのうちに描こうとおもっています。3月からは年金がもらえるので、伊豆の家賃分がでます。そのお金がアテにできるので再来年には借家を富士山の近くに引っ越して富士山に挑戦しようとおもっています。すべて、天が自分にオファーしてくれている、と解釈して、今年もこの先もずっと、死ぬまでガツガツと貪欲に走り続けようとおもいます。

 2011.01.28 【あやうく遭難】

 じつは、先週片瀬に着いた日の午後、要害山の尾根に取り付き、箒木山の風車まで行って帰ろうと思って登ったのだが、下山で2度も道を迷い、危うく遭難しそうになった。結局、遠回りになるのだが、下ってきた道を息を切らしながら登って風車のゲートまで戻り、舗装した道を下り、帰り着いたのは夜の7時少し前で、かろうじて人に迷惑を掛けないですんだ。自然はナメてかかると恐ろしい。

 帰ってから、ゆっくり地図を見て反省すると道に迷ってからの判断は正しかったことがわかった。尾根に取り付く道と尾根道との合流点を、下りに尾根道の踏み跡に誘導されて気付かずそのまま迷い道にまぎれ込んでしまったのだ。迷ってからは焦ってしまい、地図を調べる余裕もなくしてしまった。以下に、今回のことの反省点を箇条書きにする。

(1)時間の余裕をもった計画をたてる。

 夕方、暗くなると急激に心細くなり、パニクって心の余裕がなくなり、正常な判断ができなくなる。

(2)地図上の自分の位置をつねに正確に把握しておく。

 迷ってしまうと、今の自分の位置が何処に居るのかがわからないし、迷っていることに気付く前は目的地点に向かっていると信じきっている。

(3)迷いやすい分岐点はタフテープ等で自分用の印をつけて登る。

 下りの尾根道の取り付き道との分岐点は特に見逃しやすい。

 これらのことは、芸術や人生にもあてはまることで、反省して気を付けようとおもう。(口惜しいから、もう一度挑戦します)

  2011.02.11 【順光と逆光】

 先日、東伊豆の借家の裏で、紙にアクリル絵具で風景を2点描いた。いつもの油彩と勝手が違い、1枚めはてこずったが、2枚めに方向を変え逆光の浅間山を描いていて描画上の重要なコツをみつけた。

 油彩のように不透明な画材は、すでに塗られた明度の暗いパートも、チタニウムホワイトを混色することによって乾かした上に塗れば、光量を加算することが出来るが、水墨画や紙に透明水彩等透過する画材で描く場合は、光を加算できないので明度の明るい方のパートを、暗い方で塗り残すように描かなければ、画面の光量がおちてしまう。だから、透明な画材で描く場合は逆光で描いた方が描きやすい。つまり、大雑把にいうと不透明な画材は順光、透明な画材は逆光の描写に向いている。印象派の画家達を含め、順光で対象を認識する画家(不透明な画材が得意)逆光で対象を認識する画家(墨や透明水彩が得意)と作品の傾向が分かれるのはそのためだろう。

 横山大観の朦朧体の水墨画や、長谷川等伯の松林図が、スクリーンや障子に映る物の影の調子とよく似ているのは、なにも塗っていない紙の白さが逆光の光に変換されているからだ。順光と逆光を組み合わせて同時にモチーフの描写に使ったのがセザンヌで、順光と逆光の接点が輪郭線のズレやキャンバスの塗り残しを生んだのではないだろうか。

 2011.03.12 【東北地方大地震(1)】

 11日は午前、毎週書いている【片瀬白田だより】をHPにアップした後、去年お亡くなりになった三栖右嗣さんの遺品の多量の巻きキャンバスと木枠と新品の絵具を川口額装の川口君に前日とりにいってもらい、当日アトリエに届けてもらった(このことについては、後日書くつもりです)。午後3時前に「東北地方太平洋地震」があった。今まで生きて来た65年間、地震で外に出ることはなかったが、今回はあまりに揺れるので2度外に出た。さいわい、アトリエでは食器が2、3個割れた程度で被害はなにもない。テレビもラジオもつけていなかったので、こんな大災害になっていると思っていなかったので、郵便局にいったり、『かめやま』で宅急便をだしたり、『伊勢角』に買い物にいったりと日常と変わらぬ行動をしていると、なんだか周りの空気と自分の態度がズレている感じがして、帰ってからブラウン管のアナログテレビでやっと事態の重大さを知った。

 2011.03.13 【東北地方大地震(2)】

 東北地方太平洋地震のような圧倒的な自然の猛威に襲われると、日本人の一人々の世界観がテンセグリティー構造で繋がりあって成り立っている社会のすばらしさを随所に感じる。日本人がこの世界観、国家観を持ちつづけるかぎり、裸の個人では絶望して諦めるしかない状況も、すべてのトラブルを解決して、個々の不幸を乗りこえ、全体としていつのまにか復興することだろう。

 今日の読売新聞のパソコン版のヨミウリオンラインには、人生相談や発言小町が載っていなかったが、当然のことで、こういう状況の時は、女子供の論理では日常では考えられない高さのハードルは乗りこえられない。災害現場では、私の父親のような、明治時代的な家父長的仕事師がもっとも頼りになるのだ。

 2011.03.17 【東北地方大地震(3)】

 私にとって東北地方太平洋地震は、阪神・淡路大震災などの過去の大地震に比べてずいぶん異なる印象をうける。身に応えるのだ。鬱々とし、そして65歳になっても、子供の時の感情に退行してしまう。原因は簡単なことで、自分に関係ない人ごとではないからだ。被災地が近いので自分の写りこんでいる世界観の一部を喪失し、世界観の組み替えを余儀なくされる。当然、直接被災した人たちの、身体内部に育て上げてきた震災前の世界観に、ぽっかりとあいた失った大きな空虚と、震災後のその世界観の再生と充填の困難さは、自分の身におきかえるとぞっとする。アメリカの画家アーシル・ゴーキーは44歳のときアトリエの火事で自作を焼失し、直腸癌にかかり手術をうけ、45歳で父を亡くし(ゴーキーはアルメニア生まれで4歳の時父親はアメリカに渡り、12歳のとき姉2人がアメリカに渡り、16歳の時前年母を亡くしたゴーキーと妹はアルメニアの移民たちといっしょにアメリカに渡る)46歳のとき、6月自動車事故で首の骨を折り右手が麻痺、7月妻子と離別、7月21日首吊り自殺する。

 もちろん、もし直接被災したとしても、アトリエと作品が海に流されたくらいでは自殺など考えもしないが、災害前と同じような、つまり超越的な美に向かって同じような態度でキャンバスに向かうことができるだろうか。

 セザンヌの口癖だった「人生はおそろしい」という言葉を実感する。 

 2011.03.18 【東北地方大地震(4)】 

 天災や戦争のような、個人の実存の上を、人間の都合にお構いなく吹き抜ける厄災は「超越」を内在している人には、転向や脱落をためされる踏み絵になる。森鴎外の『護持院原の敵討』のなかの、仇討ちから脱落してしまう三右衛門の伜宇兵のように、自分のなかで言い訳をつくってしまうのだ。「こんなときに絵なんか描いている場合ではない。自分が生きるためなら仕方がない、自分の家族のためなら仕方がない」。個人の実存を超越した「仇討ち」という超越的使命を完遂した九郎右衛門やりよの行動はその時代の日本人の感動を呼び評判になり、その史実をもとにした鴎外の作品も美しい。また、自分の人生や家族の人生を投げうって造った天主堂は同じように美しい。「美」という超越に人生を賭けた画家は、昨日と同じ絵を描く努力をするしかないし、描くしかないし、描くべきである。

 2011.03.19 【東北地方大地震(5)】

 晩年のセザンヌの口癖だった「人生は恐ろしい」とか「ひっかけられてたまるか」という言葉の意味を考えてみる。

 恐ろしいのは、地上で生き凌いでいくという困難さとそれに向かう欲望の強さとそれを失うことへの恐怖心が、超越を行動の優先順位のトップに措定した人を洗脳する機会を、その人が生きているあいだじゅう狙っているということだろう。地上的な自己意識にとらわれているかぎり人生の「四苦八苦」から逃れることはできない。「超越」に向かう方向を地上の「自己」に転向させようとする踏み絵や罠に、人はいたるところで出会うのだ。こういう大災害がおこった時の自分の行動の判断基準は、他人事でないエリアの人たちにとっては、人生の軸や方向を問われるし試される。

 2011.03.20 【東北地方大地震(6)】

 アトリエにいるかぎり携帯電話は必要がないので、今まで持っていなかったのだが、東伊豆にいったり地震があったりすると、やはりあったほうが便利だとおもい一昨日柏に「らくらくホン」を買いにでかけた。帰りに、バス停の上のダブルデッキから、高校生2、3人の声で震災の義援金を呼びかける声が聞こえてきた。こういう時に、自分も何かをしたいという気持は貴重だが、私がその高校生たちの先生ならば、やめるように説得するだろう。理由の第1は、義援金を「呼びかける」という行為は「人のふんどしで相撲をとる」という行為であること。第2はこういう時は、直接的なボランティア活動や義援金を送ることよりも、本来の自分の仕事で社会のお役に立てるように一人一人が努力すること。学生は今は勉強して一人前の自立した大人になるように努力するのが本分で、自分は親の脛をかじっているくせに、自分の頭の蝿も追えないくせに、他人の役に立とうという行為はまだまだ家賃が高い。漁師は一人前以上の高度な操船技術を持っていなければ助け舟をだすことはできないのだから。各種団体も、義援金の呼びかけをやめてほしい。災害から復興するのにお金は絶待に必要なので、それには「西郷札」や「戦時国債」のように「災害国債」を国で発行すればよい。それを20歳以上の大人にひとくち1万円で半強制的に買わせるのだ。それは国債といってもお金に換えられない感謝状のようなもので、横山大観の富士山の絵に天皇陛下のサインを印刷すればお宝としてだれもが喜んで買うだろうし、また気持はあっても、どう表わしていいのか分らず義援金の呼びかけのたびに、出さないことに引け目を感じている人にも納得がいくだろう。その財源の一部で、放射能への不安とたたかいながら原子力発電所の災害現場で作業をしている人たちへの報奨金や、自衛隊の人たちへの感謝の慰労金を支払えばいいのだ。

 2011.03.22 【東北地方大地震(7)】

 震災後のこんな時に、政争すべきでないのと同じように、こんな時に原発反対運動や自衛隊への国民からの信頼の高まりにたいしての批判的言動など、災害復興のブレーキになるような行動は慎まなければならない。そして、どんな時でも本来の自分の仕事をキッチリとこなしていれば、まわりまわって社会の復興に役に立っているのだから、ボランティア活動や義援金や原発反対運動への誘いの不参加に引け目を感じることは少しもないのだ。今はただ、私の身の周りも社会も、Ⅰ日もはやい正常化を祈るばかりだ。

 晩年のセザンヌの口癖だった「人生は恐ろしい」とか「ひっかけられてたまるか」という言葉の意味を噛みしめて、私は今日もこれから絵を描きます。 

 2011.07.24 【クレーへの反論】

 美術雑誌『美術の窓』の7月号の「視点」に私の「イーゼル絵画の復興」という題名の文章が掲載され、送られて来た掲載誌のなかに、今の私にはとても容認できないパウル・クレーの言葉が載っていた。

   抽象とは何か。画家として抽象的であるとは、自然である対象を比較の方法を抽象化することではなく、こうした可能な比較の形式から離れて、絵画的に純粋な関係を抽出するところに基礎をおくことである。……絵画的に純粋な関係とは、つまり明と暗、色と明暗、色と色、長と短、幅の大小、鈍角と鋭角、左と右、上と下、前後、丸と4角と3角の関係である。(バウハウス時代、教授用ノート)(2011年『美術の窓』7月号64頁)

 そもそも、クレーの絵は作品の中の図象が記号であり、眼前の対象(世界存在)との視線による交感がない。イーゼル絵画の原則、つまり「モチーフと自分の立ち位置とキャンバスの3角形を、書き初めから完成までくずさずに描画を進める」のなかの1つの点、眼前のモチーフが欠けている。クレーの対象世界は彼の脳のなかのイメージだ。

 画家は世界と裸眼で向き合い、味が舌の上で現象するように、画家の目のなかで現象する。「事件は常に現場(目)で起こっている」。

 2011.07.25 【イーゼル絵画とアトリエ絵画の絵画空間の違い】(1)

 私がイーゼル絵画を60歳を過ぎてからやりはじめた原因は、イーゼル絵画とアトリエ絵画の絵画空間の違いをはっきりと認識したからなのです。坂本繁二郎のいう絵のなかの「物感」の意味や、ファインアートとイラストやデザインの、どちらも美しいのだが香りや風味や趣きの違いを考え続けているときに、タイミングよく開催されていた横浜美術館の『セザンヌ主義』展(2008年11月~2009年1月)を観ていて気付きました。

 会場で、セザンヌと他の画家達の絵の違いは当然ですが、セザンヌ当人の絵でも現実のモチーフを描写しない、つまりイーゼル絵画でない作品(例えば『ドラクロア讃』)は晩年の『サント・ヴィクトワール』に比べて明らかに何かが足りない感じがしたのでした。(この続きは近日中に…)

 2011.07.30 【イーゼル絵画とアトリエ絵画の絵画空間の違い】(2)

 アトリエ絵画は、目の前に対象物をもたないので、キャンバス上の形象は写真や下絵や資料などの平面か、あるいは自分の頭のなかのイメージである。そのために、キャンバス上の物はキャンバス上の絵画空間の中に存在しているという「物感」にどうしても欠ける。例、アングル『泉』。

 アトリエ絵画は、資料や写真の組み合わさったキャンバス上の継ぎ目、前後の空間(奥行きの空間)の間に穴があく。例、ルノワールの『ダイアナ』(1867)、アンドリュー・ワイエス『踏まれる草』。

 アトリエ絵画は元の対象(モチーフ)がそもそも平面やイメージであるために、キャンバス上で地と図が差別され、固定化されやすい。例、カンディンスキーの作品。

 アトリエ絵画は、鑑賞者は画家の脳や手(制作意図やイメージや造形力)にシンクロするのに対し、イーゼル絵画は画家の目そのものにシンクロする。

 アトリエ絵画は画面の絵画空間は画面の表面から奥になり、つまり絵画空間の最前面はキャンバスの表面であるのに対し、イーゼル絵画は画家の目にシンクロするために、鑑賞者の網膜が絵画空間の最前面になる。

 2011.08.07 【【小澤俊樹氏に写真集をいただいたお礼】】

 小澤様

写真集〈パステルカラーの旅 5〉~哀愁のポーランド~をお送りいただき、ありがとうございました。いつもながらの若々しい行動力に、こちらもエネルギーを注入されます。

 表紙の写真は特に凄いですね。逆光の風景なのに影の中につぶれたところが一ヶ所も無く、影の中の階調がキッチリと捉えられているのに、白トビするはずの空の雲と、陽の当たった石畳も階調が美しい。画面の中に情報がオールオーヴァーにつまっているので、まるで名画を見ているようです。右下の若いカップル、左下の3人の親子、建物の影の中の男(逆光の光に当たった髪の毛がまたいい)、2人乗りの自転車の少女。刻々とうつろう世界の時空の一瞬を鮮やかに切り取ったすばらしい写真です。良く切れる刀で、手練の腕の持ち主だからこそ時空の切断面が鮮やかで美しいのでしょう。こういう、作品を観ると、自分も頑張っていい絵を描かなくては、と元気がでます。

岡野

 2011.08.21 【『アルベルト・アインシュタインの言葉』から】

 “All that ever has been,or ever shall be,is in the now.”

すべてこれまでに存在したもの、また今後、存在するであろうものは、現在の中に在る。

 これは、アルベルト・アインシュタインの言葉です。この言葉を前提にして世界存在を考えると、世界は特異点を持たないことになります。世界存在の時間を直線的に過去にたどっていくと「第1原因」、未来に向かうと「究極目的」という2つの特異点が出てきます。この二律背反の命題を「すべてこれまでに存在したもの、また今後、存在するであろうものは、現在の中に在る」という命題に解消するためには、どう考えればいいのか。

 私達の存在するこの宇宙が1個しかなければ、生成と消滅はどうしても特異点になってしまう。その矛盾を解消するには、無数の宇宙が生成と消滅をいたるところで繰り返していると考えるならば、2つの特異点が現在の中にも在るというアンチノミー(二律背反)が説明できそうだ。

「すべてこれまでに存在したもの、また今後、存在するであろうものは、現在の中に在る」のなら、「私」の存在も宇宙存在と同様に特別の1個と考えると、誕生と死が特異点になってしまう。自分の存在を特別の1個と考えると、死後の霊魂不滅説になるのは当然だが、個々の霊魂は消え去っても、無数の霊魂が生成と消滅を繰り返していると考えると、すんなりと矛盾がない。

 球は表面上の点に特異点はない。円錐の頂点は円錐の表面上の他の点とは違って特異点である。「第1原因」と「究極目的」、「生成」と「消滅」、「超越」と「実存」など、多くの特異点を持ちながら、全体としては特異点を持たない、ということは、表面がツルツルではない、尖った特異点におおわれた球を考えればいいのではないだろうか。

 世界存在のゲシュタルト(形態)は時間も空間も、ミクロもマクロも、マンデルブロー集合になっているようだ。  

 2011.09.10 【ピカソと坂本繁二郎の絵画感の違い】

 「絵画とは感性の問題ではない。権力を奪取しなければならないのだ。自然に取って代わらなければならず、自然が提供する情報に左右されてはならない。」(ピカソの言葉)

 印象派においてはなお従来の伝統の余勢が絵をつくっているけれども、セザンヌをこえて、一段と分解がすすんでゆけば、もはや多元世界は本来の統一の靱帯とほとんど無縁のところまで分裂する。そこからいかに人工統一、知的綜合をこころみても、もはや失われた生命を吹きこむことは不可能であろう。人造人間はたとえ驚嘆するほど精巧に構成されているとしても、なお一匹の虫に流れる自然の生命の大きさに及ぶまい。ピカソの個展をみた坂本氏の感想は、その才能には感心したが、結局新時代の標本とその説明を見せられたばかりで、人間的な感銘とはまったく別のものだったという。そこにあったものは「露骨なる理智的意志であり、真のピカソが別に何処かで澄ました顔をして居るやうで何だかだまされたやうな思で会場を出た」と氏はかいている。(『青木繁と坂本繁二郎』河北倫明著 125~126頁)

 パリの画廊街は、われながら実にたんねんに見て回りました。売れっ子はピカソでした。私より一つ年上だと知りましたが、あふれるような器用な感覚と技法を持ち合わせ、腕にまかせて描いているのだなと思いました。過去の作家のよさを絶えずとり入れ、構成にしろ、色の調子にしろ要領よく煮つめて〝見せ場〟をつくる才には感心しましたが、では絵の中にどこにほんとのピカソがあるのか、と開き直ってみると、当の本人はどこかソッポを向いてこちらがだまされたような感じがします。絵を見て、自分以上の人にはただ頭が下がるのですが、ピカソには、うまいと思っても頭が下がるところを見いだせませんでした。

 セザンヌはあまりに合理的で組織的で、淡彩のなかには、東洋的に近いものがあるのですが、理屈っぽさが先にきて、ゴッホの理屈なしのよさと対照して私には不満でした。またミレーの絵にも東洋のにおいといいますか、芭蕉、蕪村の句に近いものを感じましたが、日本人の私にとってはそれは普通の世界に過ぎません。

 その点コローには頭が下がりました。目に見えた道具だてをせず、風景、とりわけ人物の方でありのままの認識をこめて、自然そのものをにじみ出させています。コローを平凡とみる人もいるのですが、私は過去から多くの人がやってきた壁にぶち当たった場合、新奇な道を切り開くことより、その壁に正面から取り組み、一歩でも踏み出すことの方が偉大であもあり、新しくもあると思っています。その意味でコローはあらゆる近代思想を超越した新しさとクラシックの味を見せてくれました。フランスでの収穫は、コローの作品に接したことだといまでも信じているほどです。(『私の絵私の心』坂本繁二郎 日本経済新聞社 75~76頁)

(私の意見は近日中に画中日記に書くつもりです)

 2011.10.15 【セザンヌとベルナールの絵画感の違い】

 「要するにセザンヌは、自然をモデルとする印象派の美学から離れずに、立ち戻ろうとしたというべきだろう。エミール・ベルナールはセザンヌに、古典派の画家たちのタブローでは、輪郭でオブジェをくまどりし、光を構成し、配分する必要があったことを指摘した。するとセザンヌは、「彼らはタブローを作ろうとしていた。私は自然の断片を作ろうとしている」と応じる。巨匠たちについて、「彼らは現実を想像力と、想像力に伴う抽象で置き換えようとする」が、自然とは「その前に膝をおるべきものなのだ」と指摘する。「すべては自然の方から訪れてくる。そしてわたしたちは自然によって生きているのだ。ほかのことはすべて忘れよう」と。彼は印象主義を「なにか博物館の芸術のように確固としたもの」にしたかったと宣言する。セザンヌの絵は、1つの矛盾だろう。感覚を捨てずに、自然の導きの糸をじかにえられた印象以外に求めず、輪郭を限らず、デッサンによって色に枠組みをつけようとせず、遠近法も、タブローも構成しようとせずに、現実を模索するのである。」(『メルロ=ポンティ・コレクション』 中山元編訳 ちくま学芸文庫247頁)

「だがベルナールは執拗に自己を主張し、理論を展開した。老画家はついにある日かっとなって叫んだ。「儂が全ての理論を空しいものと考えているのが解らんか!それから儂は絶待に誰にも爪をたてられたくないことを覚えておき給え!」と。そして、彼は、ベルナールを1度ならず、路上におきざりにして、行ってしまった。「真理は自然の中にある。儂が、それを証明しよう」という言葉を投げかけながら。」(『セザンヌ』 アンリ・ペルショ著 みすず書房)(405~406頁)

「長く沈滞していた私の画境も北海道以来堰を破る奔流の様に力強く闊達とした世界が開けてきたことを我ながら身に感じます。個性を捨て我執を越え、技法に捕われない悠久、神厳な生命に満ちた芸術境が、目の前に展開しつヽあることを強く感じます。」(『児島善三郎が大久保泰氏へ宛てた葉書の文章』)

「或る時「調子の變移(パッサージ・ドウ・トン)とは元々ルフレに始まるもので、すべての物象はそれに隣接する境の蔭を基點としている。」〔注:Pour moi, le passage du ton a son origine dans le reflet; tout objet parsicipe sur ses bords ombreux de son voisin. こうである。いま影、日向、色彩等悉く物體が生ずる光線の効果をルフレと考えてみるなら、ふつう譯す反映或いは反射よりも内容が明らかになるかもしれない。〕という卑見を陳べたらば、その定義を尤とされた。「君の見解は正しい、だからまだ進歩する。」と評された。自分はすこしずつでも翁を理解し得たと思い滿足を感じた。印象派の畫家に關して「ピサロは自然に肉薄した。ルノワァルは巴里の女性を創った。モネェは一種のヴィジオンを與えてくれた、外には取立てて云うほどの者はいない。」特にゴォガンに就いてはその感化の恐るべきを酷く嫌われた。「ゴォガンは大變貴方の繪を愛し、又努めて倣おうとしていました。――と云うと、――そうかね、ではてんで私を理解していなかったのだ。――と聲を勵まして、――私は決して圓味(モドウレエ)や、調階(グラデエシヨン)が全然無視されている作品を押賣利されようと思わない。彼は無視覺な男の一人だ。手に油繪の筆を持っていた畫家ではない、ただ支那式の形像(イマーデュ)を描いたと云うに過ぎない。」かくて形體(フオルム)にし、色彩に關し、藝術に關し、藝術家にし、翁の理想とする所を説明された。」(『回想のセザンヌ』エミル・ベルナール著 有島生馬訳 岩波文庫)(31~32頁)

(ブラック)「なんと強く、つりあいのとれた画家なんだ、サザンヌというのは!すばらしい個性だ!私は絵と同じくらい彼の人物に感心している。みごとなお手本だ!彼にはまったく深く感謝している……」

(ブラッサイ)「それでも彼はふしあわせでした。セザンヌのたったひとりの《生徒》、唯一の《親友》が、彼の意図も絵もぜんぜん理解しなかったのですからね」と私は言った。「エミール・ベルナールのことです。たしかに彼は頭はいいし、才能もありました。しかし神秘思想にかぶれ、中世にとりつかれてしまっていたために、セザンヌの対極に立つことになってしまいました。モティーフにつきすぎる、自然を模倣するといって、彼はたえずセザンヌを批判したのではないでしょうか?彼に言わせれば、画家は自分のカンヴァスを発明し、そこで《霊性》を表現すべきでした。セザンヌにむかって、あなたは創作者ではない。俗悪な模倣者だ、と繰り返すことで、彼はこの老人を《打ちのめした》のです。それでもまったく運のいいことに、エミール・ベルナールはその反感と無理解ににもかかわらず、巨匠の言葉をとても忠実に伝えてくれています」(『わが生涯の芸術家たち』ブラッサイ(岩佐鉄男訳)リブロポート)(21~22頁)

228 エミール・ベルナールへ (エクス) 1906年9月21日

 近ごろ頭の工合が悪く、ひどく混乱することもあって、一時は私の頼りない理性が失われてしまうのではないかと危ぶんだほどでした。先日までの恐ろしい暑さのあと、ようやくより穏やかな温度にかえって、心にも多少の落着きを取りもどしましたが、この時候の訪れも決して早すぎはしません。今は前よりよく物事がわかるようになり、より正しい方向に仕事を進められると思います。あれほど長く探し、追究してきた目的に私は到達するでしょうか。そうありたいものです。この目的が達せられないかぎりある漠然とした不快感が続き、これは私が目的の岸に達した後でしか消えないことでしょう。目的を達するとはつまり、過去における以上によく発展し、それによって理論をも立証するような何らかの作品を実現することです。理論そのものはつねに容易なのですから。問題は頭で考えていることの証拠を出すことで、これが実に困難な障害を課するのです。そこで私は仕事を続けるわけです。

 あなたのお手紙を読みなおしましたが、私の答え方は的をはずれていますね。どうかお許しください。達成すべき目的が常に私の心を占拠していること、これがその原因なのです。

 私はつねに自然に即して仕事をしており、ゆるやかな進歩を実現しているようです。傍らにあなたがおいでならよいのに、と思います。いつも孤独が少し重すぎるからです。しかし私は年老い、また病気です。五官の衰えにひきずられる老人たちをおびやかすあの忌むべき耄碌状態に落ちこむよりは、むしろ絵を描きながら死のうと自分に誓いました。

 もしまたお会いできることがあれば、私たちは肉声でよりよく説明しあえます。いつも同じことの繰りかえしになるのはお許しねがうとして、私は自然に即して私たちが見たり感じたりするものの論理的発展の存在を信じます。手法に取組むのがその次になるのは止むをえません。われわれにとって、それは単に、われわれ自身が感じることを大衆に感じさせ、われわれを受け入れさせるための手段にすぎないのですから。われわれの嘆賞する偉人たちもこれを実行したにすぎないのにちがいありません。

 年老いた頑固者の思い出をお受けとりください。ねんごろな握手を送ります(註1)。

(註1)エミール・ベルナールは『メルキュール・ド・フランス』の247、248号(1907年10月の前半号と後半号)に発表した文章を1912年に単行本として刊行する。この限定500部のうちの1冊(第274番)を当時パリにあった島崎藤村が求め、先に帰国する小山内薫に託して有島生馬のもとへ届けさせる。有島はこれを翻訳して大正2年11月から翌年5月まで『白樺』に『回想のセザンヌ』と題して連載した後、大正9年に叢文閣から一本として上程する。本書は昭和3年に岩波文庫に収められ、昭和27年には三たび体裁を改めて美術出版社から刊行される。有島生馬は1907年のサロン・ドトンヌにおけるセザンヌの大回顧展を実見しており、日本に初めてセザンヌの芸術を紹介した功績は彼に帰せられる。

(『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド篇 池上忠治訳 美術公論社)(261~262頁)

 2011.10.29 【イーゼル絵画とアトリエ絵画の絵画空間の違い】(3)

 先日(10月27日)の【片瀬白田だより】に書いたように、イーゼル絵画における近景の問題を考えているうちに、絵画上重要なポイントに気付いた。アトリエ絵画には抽象画も含めて〝近景〟がない、アトリエ絵画の弱点は画面から鑑賞者の網膜までの空間に穴があくことだ。逆に、最近おろそかになっている、私の抽象作品の制作も、近景の問題をクリアーできれば、また大きく進展する可能性がでてきた。

 日常生活は、辛いことが多いが、芸術はすばらしい。この歳になっても、まだまだやらねばならない天からのオファーがとびこんでくる。

 2011.11.07 【『生誕100年 ポロック展』を前に】

 諸行は無常である。社会、歴史が時とともに変化するのは当然だが、人の世界観も、それに伴って変ってゆく。前世紀、金と力を背景に世界を覇権してきたアメリカ型の文化、芸術は、バブル後の打捨てられた別荘のような無残な姿をさらす。その時代席巻してきた人間主義、現世主義では人生の意味はない。生きている間も、死んでからも、どうせ死ねば終りである。

 人間は超越を持たなければ生きてはいけない。芸術は「美」に対する信仰である。信仰であるならば、忙しいから信仰をやめるという人はいないし、お金がないから信仰をやめるという人はいないし、家族や他人にやめろと言われたからといって止める人はいない。そんなことで止められるのは、そもそも本当には信じていない人なのである。

 前世紀アメリカ型ポストモダンの美術は、「美」という言葉を死語にしたが、そんな人類の壮大な実験もここに無残な残骸をさらしている。「美」が、人間が自然をはなれてまったく新しく創造したり、偶然にできるということは、「美」を超越と措定してキャンバスに向っている画家には考えられないことだ。「美」を内在だと考えて、画家の内面の表現、人間の行為としてとらえる抽象表現主義と、「美」を超越と措定し世界を描写する私の抽象印象主義は、進む方向が違うのだ。

 超越を措定しなければ、そしてそのように生き、描かなければ、人生も画家の作品も、そのうちに諸行無常の時の流れに呑み込まれてしまうであろう。

 2011.11.26 【セザンヌの絵画空間と日本の風景】(1)

 今、トップに載せている作品は、今年の2月17日の「片瀬白田だより」に載せてある写真の作品で、途中までうまくいっていたのに、その先がどうしていいか分らず、永く描きかけのままでおいておいたものを、先日手を入れたら、Ⅰ日であっという間に完成した。

 光だけで描いていると、セザンヌの画のような複雑に入り組んだ空間のモチーフは、そもそも目に止まらないが、光に空間をプラスして風景を見る訓練を積むと、この作品のような風景が、画の対象としてやっと目に入ってくる。空間の問題は目に引っ掛かりにくく、現場でイーゼルを立てて描く体験を積まなければ、セザンヌの作品の素晴らしさや、絵画空間の美しさやその表現方法も生涯気付かないでおわるだろう。記号には空間が含まれていないし、写真を絵画制作の最初から使うと、写真は2次元平面で空間がもともと抜け落ちているので、ワイエスの画のようにイラストレーターの描いた作品と似かよった空間になってしまう。(続く)

 2011.11.27 【セザンヌの絵画空間と日本の風景】(2)

 かって私はセザンヌのような画を描きたくて、三陸海岸に3度、小豆島にはサイクリング車に画材を積んで行き当りばったりで一周したことがありました。結果は惨憺たるもので、その時の作品は偶然残ったものを除いてすべて廃棄した苦い経験があります。その時は、どうして自分には描けないのか口惜しい思いでいっぱいでしたが、今、ここにきて、ようやくその時の失敗の原因が分りました。

 失敗の原因その1;空間が見えだしてはじめて、その描写スキルも試行錯誤の後に少しづつ身についてくるのだから、私のその頃の眼は光しか追っていないのに、結果だけセザンヌのように空間を描こうしても無理があった。

 失敗の原因その2;日本の風景は空間が平板で、そもそも単純な空間をセザンヌの石切り場の絵のような複雑な空間に作り変えようとしても無理な話である。

 2011.11.28 【セザンヌの絵画空間と日本の風景】(3)

 前日の推論の結論は、――日本でセザンヌのような画を描きたければ、複雑な空間のモチーフを見付けて、光と空間の描写で対象を追って行けばいい。その際間違いやすい分岐は、決して絵作りの方向で画を進めるのではなく、あくまで描写(写真的ではない)の方向に進めていくべきである。逆に、日本の風景を光と空間で描写する場合に、セザンヌの画のような空間にならなくても一向にかまわない。日本の自然の風景の、光と空間を描写すればいいのだ。

 ゴッホは日本の浮世絵に影響を受けたが、浮世絵を作ろうとしたわけではない。ボナールもドガもピカソも写真を使ったが、写真のように描いたわけではない。日本で制作している私が、画のモチーフに人物ならば外人のモデルを、静物ならば外国の果物や調度品を、風景ならばフランスの風景等でなければ絵が描けないとしたら、それは自分の眼が他者のソフトで見ているということで、借り物の自分である。写真のソフトを自分の描画のソフトにすると、これもまた、欠陥がある。結局は自分の裸眼で、一歩一歩歩みを進めるしか道はないのだ。

 自分の生きている世界の中から、無理やり絵にしたり創作するのではなく、自然に出会い生まれでる美の感激を、ハイテンションにならず、自我意識を入れず、淡々と描写に撤する。私の好きな画家は皆そうやって描き、生きてきた。私もそうやって描き、生ききりたい。

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