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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

仏教の思想2『存在の分析〈アビダルマ〉』櫻部建・上山春平著 角川ソフィア文庫

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仏教の思想2『存在の分析〈アビダルマ〉櫻部建・上山春平著 角川ソフィア文庫

■諸学派のうち、おそらく最も多数のアビダルマ論書を生み、そしてその多くを今日にのこしたのが、西北インドに大きな勢力をもっていたとみられるサルヴァースティ・ヴァーディン学派である。その名は、文字どおりには、「すべてがあると主張する者」を意味し、ふつうには完訳名「説一切有部」、略して単に「有部」で知られている。この奇妙な呼称の由来は、やがてその教義学説を述べることによって、おのずから読者に了解されることであろう。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(19頁)

■そこで、現に他の自然界に生存している「有情(サットヴァ)」であってやがてこの自然界が成立したらそこに生まれてくるであろうものがあるはずである。そのものの「業(カルマン)」の力によって、この自然界は成立せしめられるというのである。

サットヴァ・カルマンによって自然界が創り出される。それは、すべての有情が、もっと直接的にいえば、すべての人間が、生き行為すること――泣き笑い、喜び怒り、善悪の行為をなすこと――それが、全体として、一つの宇宙を創り出す結果を生む、という考えにほかならない。宇宙を生成するエネルギーと、一個体が、一人間が、生き行為すし動作する力とは、根源的に同一であるとする考え方であると言ってもよいかもしれない。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(27頁)

■しかしいずれにしても行為は行為は必然に報われるのである。これが第一の原則である。

次に、その報いはまた厳格に個人的である、というもう一つの原則がある。業の問題はわれ一人の問題である。一個の行為的主体の問題である。他人のした善行の好ましい結果を自分が横取りすることも、自分のした悪行の好ましからぬ結果を他人に肩代わりさせることもできない。アーガマは言う――「罪を犯したのはおまえである。罰せられるのはおまえなのだ」。いわゆる自業自得である。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(47~48頁)

■しかし迷いの世界は人間のあるべき姿ではない。三界・五(六)趣・四生に生死する輪廻の連鎖は断ち切られねばならない。人間はその平常的生の世界から抜け出して、すねわち業と煩悩に支配される迷いの世界から超出して、究極的真実なる〈さとり〉の領域に至らねばならない。迷いの世界からさとりの領域に向う道は、知恵によって心を煩悩の拘束から解き放つ無漏(むろ)の道であり、その実践道を進む者は「貴い人(聖者)」と呼ばれる。すべての仏教がそれを説くのであり、アビダルマもまたもとよりその例外ではない。ただ説一切有部アブダルマの場合、それを説き明かす基礎に独得な理論をもっており、それを明らかにしないでは、この学派が提示しようとする実践道も理解されないことになる。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(51頁)

■「すべては無常である」「苦である」「無我である」という主張は、アーガマ経典の中で、そのように三つ並列されて述べられてもいるが、また、「すべては無常である、無常なものは苦である。苦であるものは無我である」と、無常が苦・無我を根拠づける関係に述べられていることも多い。⑴すべては時とともに変転し隆替してして常の無いものである。⑵それを正しくそうと理解せず、いつまでも変わらぬものと考えて、そのことに執着するところに、苦と感受されるゆえんがある。⑶そのようにすべてが無常であり苦であるところに常住不変なわれという生存の主体を考えうるはずがない、という論理がそこにある。

それでは、「すべてが無常である」という最初の命題自体は何によって根拠づけられるであろうか。経典はそれについてあまり明瞭に語っていないようにみえる。ただ「どんなものでもみな無常なものを原因として生じている。無常なものを原因としているものがどうして常住不変でありえようか」というのは、なにかトートロジー(類語反復)のようにも聞こえるけれども、これはけっして無意味な言い方ではない。そこには、「すべては無常である」という命題の根拠となっているのが「すべては因果関係の上に生ずる」という考え方である、ということが示されているからである。すべては独自に自足的に存在しているのでなく、さなざまな原因の造り出した結果としてのみありえている。原因が消滅すれば結果も消滅する。すべての存在は、それをあらしめている原因のいかんに依存しているという点で、常住不変ではありえない、すなわち、無常である、というのである。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(52~53頁)

■無常なものを無常であると、無我のものを無我であると、〝ありのままに知り見る〟のが正しい知恵である。ところが平常の人間は、無知ゆえに、無常なものの上につい常住性を期待する。その期待が裏切られたとき、失望や怒りがある。無我なものの上につい『われ」を意識し「わがもの」を意識する。その意識のゆえに欲求、渇望を生じて苦悩するのである。この場合、無知は煩悩の代表である。期待すべきでないものを期待し、意識すべきでないものを意識するところに、煩悩による業がある。その結果は苦である。無知を離れて無常を無常と知り無我を無我と知る正しい知恵を得ることによって、人間は煩悩の拘束から解放される。それは凡夫の平常底を打破してさとりの領域に入ることである。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(55頁)

■「ダルマ」とはなんであるか。この語はふつう「法」と訳されているが、広くインド思想一般においても、とくに仏教の場合に限ってみても、ずいぶん多様な意味に用いられている。「ささえる」「たもつ」という意味の語源から出て、一般に秩序・定め・法則・規範などの意を表わし、さらに道徳・正義・習慣・習性・性質、真実・最高の実在などをも意味する。仏教語としては、とくに〈ほとけ〉の教えた真理、あるいは〈ほとけ〉の教えそのもの、をさしてダルマ(法)と呼ぶのが、最も広く見られる用例であろう。仏法とか、仏・法・僧とか法師・説法・法悦・法要など、国語でも多くこの意味で「法」の語が用いられている。

だが、それと別に、仏教語として独自な、そして重要な用例がもう一つある。それは、この法(ダルマ)の語が広くもの、事物、存在を意味する場合である。おそらく、あらゆるものが、法則・規範にしたがって存在している、というところから、そのようなことばづかいが出てきたのであろう。「すべてのものは無我である」ということを「すべてのダルマは無我である(諸法無我)」という言い方でいうような場合がそれにあたる。そしていま、「ダルマの理論」におけるダルマの語も、もとはこの意味の用例から出発して、やがて説一切有部哲学に独得な述語として使われるようになったものである。

そこでダルマとはもはや単なるもの、存在、それ自体ではなくて、寄り集まって存在を構成するところの「存在の要素」とでもいうべきものとして考えられている。経験的世界の中にあるすべてのもの、存在、事物、現象は、複雑な因果関係による無数のダルマの離合集散によって流動的に構成されている、というのが「ダルマの理論」の基本的な考え方である。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(56~57頁)

■過去のダルマも現在のダルマも未来のダルマもすべてがある、というのが「一切有(う)」ということの意味である。そういう、過去・現在・未来の三世(三つの時)のいずれにおいてもあるところの、すなわちいわゆるところの、存在の要素としてのダルマを考えることは、「諸行無常」を否定するどころではない。逆に、そのようなダルマを考えなければ、「諸行無常」の事実を明らかに説明することはできないではないか、というのが説一切有部の立場である。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(72頁)

■説一切有部によれば、有為のダルマのすべてに共通する性質はおおよそ二つ考えられる。その一つは瞬間生であり、もう一つは右に述べた〝三世に実有〟性である。この二つの性質は一見まったく矛盾してようであるし、事実、それは矛盾ではないかと他学派からはげしく攻撃されている。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(73頁)

■ダルマは生起するやいなや次の瞬間には消滅するというけれども、厳密には、その間に⑴生起し、⑵生起したその状態を保ち、⑶その状態が変異し、⑷消滅するという4つの推移がある。その4つの推移を、すべての有為のダルマは、一瞬のうちに経るのであるという。

ところで、ダルマが生起するというも、無からしょうずるのではなく、消滅するというも無に帰するのではない。ここに生起とはダルマが未来から現在に現れ出ることであり、消滅とはそれが現在から過去に去ることである。現在に現れる以前のは未来の領域にある。現在から去って以後のダルマは過去の領域にある。未来の領域から現れて過去の領域に去るあいだの一瞬においてダルマは現在にある。未来においてもあり、現在においてもあり、過去においてもある。三世のいずれにおいても、ダルマはそれ自体の変わらぬ特性をもっており、すなわち〝三世に実有〟であるという。これが有為のダルマのすべてに共通する第2の性質である。(74頁)

■はじめのリールは、ダルマの経過する三世の中の未来の領域にあたり、ランプによって照らされる瞬間は現在にあたり、あとのリールは過去の領域にあたる。フィルムの一こま一こまがすなわちダルマ、厳密にいえば、ともに生起する無数のダルマの集合、である。そして、スクリーンに映し出された映像の活動変化によって織り成される物語は、まさしく現実の経験的世界すなわち「諸行無常」の世界に相当する。リールからリールへとフィルムが流れるように、ダルマの時間は横に、空間的にひろがっている。スクリーンに映し出される物語の経過のように、経験的時間はそれを縦に貫く。その2種の時間の交点は絶待の現在ともいうべく、われわれ経験的世界に生きる者はいつもそこに立っているのである。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(75~76頁)

■仏教で説く四つの真理、いわゆる「四諦」、すなわち⑴人生のすべては苦である、⑵その苦は煩悩に由来する、⑶煩悩の止滅が苦の止滅である、⑷それに至るは道の実践による、というこの四つの真理と、三つの宝、いわゆる「三宝」、すなわち〈ほとけ〉とその教えとその僧団の三つの宝と、業とその報いとの因果生、の三つとに対する確信とも解釈される。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(113~114頁)

■身・語の表業から起こる無表業のほかに、「三昧」から起こる無表業が説かれている。三昧とは古来インドで重んじられた精神修練の方法であり、姿勢を正しく不動に保ち、呼吸を整えて心を一点に集中する行である。仏教においても最も重要な修道の方法として採用されている。アビダルマの場合もその修道論の中で三昧が重要な地位を占めていることは後述のとおりで、それは、〝蛇が竹筒の中に入れば曲がることなしに進むように、心が三昧に入ることによって修道者は正しく進む〟とたとえられている。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(124~125頁)

■無貧・無瞋・無痴(貧・瞋・痴)を三善(不善)根、すなわち三つの善(悪)の根本、とするのはすでにアーガマに見られるところであって、アビダルマはそれを継承した。痴は別の言い方では「無明」という。すなわち無知であって真理に対する無自覚である。しかしインド的表現がしばしばそうであるようにそれは単に覚知の欠如した状態にとどまるものではない。むしろ人間存在の内なる昏(くら)さそのものといってよかろう。その内なる痴が外に向ってはたらくとき貧と瞋となって現われる。心にかなう対象に対する欲求と心にかなわない対象に対する憎悪である。この二つが内に昏さをもつ人間の外界に対する根本的な態度である。ときには、この外界に対する根本的な態度は、積極的な前者の側だけで代表される。その場合は「渇愛」、すなわち渇きのごとく飽くことなき欲望、という語をそれにあて、さきにあげた「無明』とあい対する。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(129~130頁)

■見所断(けんしょだん)の煩悩は「四諦」と呼ばれる四つの真理を観知することによって断ち切られるのであるから、いわば理知の面での煩悩である。それに対して情・意の面での煩悩は、「修所断(しゅしょだん)」であるという。「修」とは三昧を修めて真理の観知をくり返しくり返し行うことである。三昧によって〝花の香が衣に移るように〟相続に徳の香が薫じつけられる。そして〝油を十分にそそがれた灯火が風の来ない場所に置かれるとき、ゆらがず明るく燃えるように〟、知恵は三昧の中で妨げることなく、いきいきとはたらくから、この三昧を修めて真理の観知をくり返すことによって、執拗な情・意の面での煩悩もついに断ち切られるのである。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(137頁)

■道に志を起こした者は、まず戒(修行者の生活上の自律)を守ってその生活を正しく、節度あり、きよらかに保つよう努めるところから出発する。次には、好い教えを聞くこと、みずから思索すること、三昧を修めることによって、、知恵(有漏ではあるが善である知恵)をみがく。そのためには、衆人の中にまじわり住むことを避け、善からぬ心の動くのを避けねばならぬ。もし修行者が欲望の旺盛でない、みずから足るを知る人であったなら、そのような生き方を持することが容易であろう、と論書は教える。こうして修行者は〝法の器〟となる。次に、彼がもし肉体的欲望の強い人であったら「不浄観」を修めるべきであるし、もし心の動揺の多い人であったら「持息念」を修めるべきである。「不浄観」とは、死屍がしだいに腐散してついに白骨化するまでのすがたを心中に観想することである。性的欲望――異性の顔色や肌の色の美しさ、容貌の美しさ、はだざわりの快さ、起居動作の美しさ、などに対する欲望――を制するためである。「持息念」とは呼吸法の修練である。出入のいきを数え、呼吸を無理なく自然にし、心をおのれの鼻の尖端や眉間にとめて身内のいきを観想し、さらに広くすべてのものを心中に観想することによって、しだいにいっそう高い精神的境地にみずからを導くのである。

つぎには、「四念住」の修行に進む。「四念住」とは、身体は不浄である、感受は苦である、心は無常である、すべての事物は無我である、という四つを観念する(心に思い浮かべる)修練である。はじめはその四項をそれぞれ別に観念し、次にはそれらを一つにして、身体・感受・心・すべての事物は不浄である、また苦である、無常である、無我である、というふうに観念する。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(144~145頁)

■〔服部〕これが後にだんだんと五道輪廻とか六道輪廻というようにまとまってゆくわけです。櫻部さんが書いておられるように、天国も輪廻の一環ですから、そこに生まれてもまた次には人間になったり畜生になったりするのです。そこで、この天国も含めた輪廻の世界から解脱しようという欲求が生まれてきます。(第2部 インド思想とアビダルマ)(224頁)

■〔服部〕宇宙の根本原理となるのはブラフマン(梵)です。これは元来ヴェーダの祭詞・呪詞を意味したのですが、祭式万能主義を背景にして神々に対しても強制力をもつ神秘的な呪力になり、それが宇宙の最高原理にまで高められるのです。一方、生命の本質はいろいろに考察されますが、もともとはいき――気息を意味したアートマンが生命の本質とされます。このアートマンが一つの生から次の生へと輪廻してゆくと考えられるのです。そこで、宇宙の最高原理を瞑想してアートマンをそれに合一させることに、もはや輪廻しない解脱の境地がもとめられるわけです。(第2部 インド思想とアビダルマ)(225頁)

■〔櫻部〕さきに、仏教の解脱への道はほかとどうちがうかというおはなしでしたけれども、わたしは戒・定・慧という言い方がいちばん仏教の行き方を特徴的に示していると思います。

戒は、これをこうしちゃいかんというような項目が定められてあって、それを守らなきゃならぬ、それが戒だというふうに思われやすいけれども、いまここでいう戒とは、平たいことばでいえば生活上の良い習慣、正しい暮らしぶりといったほどの意味だと思います。生活のしぶり、それは生活のしぶり、それは生活をしていく上に、人間の心にまかせておくと人間の心はあらぬ方向に逸脱するから、生活の上に一つのたてまえを設けて、いつも心を引き締めて暮らす、そういう生き方を戒というんだと思います。ですから他律的なものでなくて、自律的な、自分の生活のしぶりを引き締める心の持ち方を戒というのだと考えていい。そういう行き方にありつつ、次に定(じょう)、これはつまりメディテーション(瞑想)ですが、それが一つの手段なんです。メディテーションをやると、心がふらふら外界の刺激や誘惑に負けて動くということがなくなる。それは、三昧に入っているあいだは雑念を去ってきれいな心になっておっても、出るとまたもとに戻ってしまいますけれども、しかし修練を重ねていくことによってやがてそういうメディテーションにはいっていない場合でも、すなわち、ただ平常心のままであってしかも、心の浮動が少ないようになる、あるいは全くないようになる、というふうに考えたんだと思います。生活のしぶりをみずから規正し、メディテーションの修練を重ねて正しい知恵が心の中に養われる、それによって解脱を得るんだという、そのたてまえでしょう。これがアーガマ以来、アビダルマに至るまで変わっていないんですね。(第2部 インド思想とアビダルマ)(229頁)

■〔服部〕たとえば、人間の生活機能としての呼吸を、宇宙的な神格としての風神として崇拝する――二つを等置するのです。個体としての自分を普遍的なアートマン、あるいは宇宙の最高原理ブラフマンと知ることです。ですから、瞑想によって得られるのは神秘的直感で、精神を安定させる定とは性格が違っているのです。(第2部 インド思想とアビダルマ)(230頁)

■〔服部〕それに対して、ヴァイシェーシカ学派の場合のように、実体などという原理を知ることによって解脱があるというのは、世界に対するかかわり方が客観的――つまり自分自身の存在の根拠を問題にするのではなくて、自分はここにすわったままで、自分の外にある何かを見ているという立場だと思うのです。

〔上山〕私の感じでは、仏教思想には理論的傾向の強いものと実践的な傾向の強いものがあって、ここで問題になっているアビダルマは、理論的傾向の強いほうの一つの極を示しているように思うのですが。

〔服部〕アビダルマの場合にいちばん客観的に見る態度が強くなっていると思います。櫻部さんが「法体恒有(ほったいごうう)」ということを、映画のフィルムがこちらのリールから向こうのリールに移っていくという喩えで説明しておられますが、それは法(ダルマ)の世界の外に自分を置いている立場だと思うのです。大乗になるとその立場が批判されるのです。自分は、向こう側の世界に起こっているできごとを、こちらから見ているのではない――観客席にいてフィルムの映像をながめているのではなくて、自分自身がスクリーンに映っている画面の中で主人公の一人として活動しているのです。その立場に立つと、一巻のフィルムが右のリールから左のリールへ移って行くというような見方はできない。そこに大乗の中観・唯識などが、哲学的に問題にしているところがあると思います。(第2部 インド思想とアビダルマ)(232~233頁)

■〔上山〕輪廻とか解脱ということが共通のテーマであり、それを業で説明するところまでは共通だけれども、業を運んでいく基体があるかどうかという点で意見が分かれ、仏教は基体がないという立場で独自な論理を展開した。その独自性というのは、「諸行無常」とか「諸法無我」という仏教思想の特徴を示す基本的な命題に帰着するわけですね。(第2部 インド思想とアビダルマ)(239頁)

■〔櫻部〕いろんな説明をするんですが、アビダルマの正統派の説として認められるのは、ソロバンの玉みたいなんだというのです。同じものを一の位に置けば一だけれども、十のくらいに置けば十、百の位に置けば百だというように。何をそうたとえているかというと、過去・現在・未来のダルマです。ダルマ自体は過去・現在・未来を通じて存在しているけれども、現実の世界にはダルマはただ現在の位ととしてあらわれる。つまり未来の位から現在の位にあらわれてくる。そして、その現在というのもただ一瞬間にすぎず、次にはすぐに過去の位に去ってしまう。あらゆる有為のダルマがみんなそういう経過をとるんだ。ダルマが現在の位にとどまるのは一瞬間だけであってそれがつぎつぎに交替して現実の現象世界を形成していくんだから。瞬間滅な現在のダルマの連続として、諸行は無常なんだ。しかしダルマ自体は、かっては未来の位にあり、そして現在の位に出てき、やがて過去の位に去る。未来の位にあろうと現在の位にあろうとダルマのスヴァバーヴァは同じなんだ。一の位にあろうと十の位にあろうと百の位にあろうと同じソロバンの玉であるように。だからダルマは三世(過去・現在・未来)に実有である、というのです。(第2部 インド思想とアビダルマ)(250~251頁)

■〔服部〕アビダルマの立場はあくまでも悟性的な分析の立場です。それに対して、悟性的な思惟のはらんでいる自家撞着を徹底的に指摘して、主体の立場の恢復をはかったのがナーガールジュナ(龍樹)の空の哲学だったわけです。そのあとで、唯織思想家が、空の立場を根底としながら、アビダルマの伝統を生かした体系をつくったのです。

〔櫻部〕それは、事実、アビダルマの理論の中でいちばん精彩を放っているのは、こういう諸行無常を合理的に説明しようとするアビダルマの理論の部分であって、いちばんおかしいと思われるのは実践論ですから。実践論はきわめて形式的であって、形式としてはたいへんよく整っているように見えるけれども、現実に生きた人間がそこに動いていない感じですね。それは私、よほど強く感じるのです。

〔上山〕仏教思想は、につづいて、大乗仏教という形で唯織などを中心にして展開するわけですが、日本ではそれが実践オンリーの形になってしまって、仏教の理論体系はどこかに飛んでしまったわけです。仏教の理論体系というものを再把握するためには、あらためて悟性的な立場に戻って、仏教思想の中に鋭い論理的な問題意識をとりもどす必要があるのではないか。その点で、『倶舍論』というのは再評価されてよいと思う。

〔櫻部〕それが、奇妙に聞こえるかもしれませんが、日本の仏教でも、昔からずいぶん『倶舍論』は勉強されてきておるのですよ。少なくとも明治までは伝統的な仏教教団の中で、各宗の学林と呼ばれるような研究機関の中では、『倶舍論』の学習は、ある宗派に限られるというのではなくていろんな宗派で、ずいぶん行われておりました。普通に倶舎学とか性相(しょうそう)学とかいわれますが、そういう学問の伝統ができていた。

それは仏教の基礎学であって、仏教をほんとうに理解するにはまずこれを勉強しておく必要があるというふうに認められ、常識化されておったんです。なにしろ唯織三年倶舎八年というくらいですから、実際に『倶舍論』全部をよく読んで勉強した人はそう多くなかったでしょうけれども、少なくとも仏教を本格的に勉強する者はそういうアビダルマ学をやる必要がある、たとえ天台宗の人であろうと真宗の人であろうと、日蓮宗であろうと真言であろうと、みんなやる必要がある、ということが一つの常識になっていたようです。そういう常識はどうも明治以後うちこわされたのです。たとえば、『往生要集』の著者源信が一面アビダルマの学者であったといえば、今日では意外に聞こえるのではないでしょうか。(第2部 インド思想とアビダルマ)(254~256頁)

■嵐のただ中にある舟人を想定しよう。彼にとって最も切実なのは、どうすれば当面の危機を脱することができるかという問題であり、周囲の海水がどんな成分から成っているのか、嵐はなぜ起こるのか、等々といったことはほとんど問題になるまい。

ある北欧の哲学者は、この舟人のような危機意識に立つ実践的認識を、「実存的」と呼び、実存的な認識における真理を、「主体的」な真理として特徴づけた。

私たちにとって、「実存的」とか「主体的」ということばは、すでに手垢にまみれた常套語になり下がってしまっているが、あの北欧の哲学者が、彼自身の強烈な個性と彼の属する時代――それは産業革命を契機とする生活形態と価値観の巨大な変革の波がヨーロッパ社会をゆすぶった時代であった――の要求にもとづく切実な問題意識に立って“existentia”とか“subjectio”といった伝統的哲学用語に由来する「実存的」とか「主体的」ということばに、新しい意味を吹きこんだとき、そこには、宗教的認識の最も核心的な、しかも普遍的な特質が、的確に語られていたように思う。彼はつぎのように語っている。

「真理を問うものは実存する精神であるから、問うものが実存するということが、真理における二つの契機を区別し、反省は真理に対する二つの関係を示す。客観的反省と主観的反省とがそれである。客観的反省にとっては、真理は客体的なもの、すなわち対象となる。主体が自己自身から眼をそらすことが必要である。主観的反省にとっては、真理は習得、内面性、主体的となる。主体が実存しつつ自己の主体性に沈潜することが必要となる」

「主体的問題は主体性そのものにかんすることであって、事象にかんする問題ではない。つまり、問題は決断ということにあり、すべて決断は主体性の中にあるから、そこには客体的には事象のあとかたさえない。なぜなら、事象が問題になると、主体性は決断の苦痛と危機からいくらか眼をそらせ、問題をいくらか客観的にすることになり、それにともなって決断が延期されることになるからだ」(キルケゴール『哲学の断片への後書』)

このように、真理にたいする主体的ないし実存的なかかわり方と、客体的もしくは客観的なか変わり方との、二者択一性、非両立性を強調するとき、キルケゴール(1813-55)の念頭にあったのは、ヨーロッパ伝来の学問の道とキリスト教の信仰の道との非妥協的な対決の必要であった。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(258~259頁)

■私は、学問的な真理と宗教的な真理のあり方、二つの真理の認識のしかたが根本的にちがうというキルケゴールの指摘に、深い共感をおぼえざるをえない。そして、その指摘が、19世紀半ばのヨーロッパにおいてなされたという事実に注目したい。

そのころ、ヨーロッパ社会はフランス革命以来の数次の政治変革にゆすぶられていた。その背後に、古代農業文明の成立に匹敵する人類文明史上の巨大な変革を条件づける産業革命が進行しつつあり、この革命の本質的な要因をなす化学的思考法が、農業文明の成立以来積み上げられてきた宗教や学問の考え方を根底からゆるがしかじめていた。

こうした過程のなかで、ヨーロッパ社会の非ヨーロッパ社会にたいする植民地化の動きが急速に進行するのであるが、そのいとなみを通して、ヨーロッパの学問や宗教とまったく異質な学問・宗教の存在が、ヨーロッパの知識人たちの視野のなかにはいってくるようになった。

ヨーロッパの内部からは、キリスト教や伝統的な哲学と立場を異にする自然哲学という名の新たな学問が巨姿をあらわし、外部からも、ヨーロッパの学問や宗教とはまったく縁のない独自な学問や宗教の姿が紹介されると言った状況のもとで、学問的な認識と宗教的な認識の特質が根本から問いなおされたという事実に、私は注目したいのである。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(260頁)

■要するに、以上の二つの引用文によって、ブッダの教えの要点が人びとを輪廻の苦界から救出するにあったこと、そして、人びとが輪廻の苦界に漂うのは煩悩のためであり、したがって人びとをその苦界から救出するには煩悩をしずめるのが先決であるが、煩悩をしずめるための最もすぐれた方法は、「択法(たくほう)」すなわち「ダルマを正しく吟味弁別すること」にほかならないこと、が明らかにされているわけである。

もともと、「アビダルマ abidharma」というのは、ダルマについての考察をさし、「択法」の指針を提供するためのものであった。その指針は、すでにブッダ自身のことばにも示されていたわけであるが、「処々に散説」されていたにすぎないのを集大成したのが、世親の『アビダルマ・コーシャ』(『倶舍論』)にほかならなかった。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(266~267頁)

■まず、第一に指摘しておきたいのは、「有情の業」が、『倶舍論』の体系の中核にすえられている、という点である。

「有情」というのは、サットヴァ sattva の訳語で、「衆生」とも訳され、「薩埵(さった)」という音訳もあるが、要するに、生命(いのち)あるもの一般をさし、「業」というのは、カルマ karman の訳語で、さまざまな解釈があるが、一応、広義の行為を意味すると解しておいて、⑴行為の準備段階としての意志の発動(「思」)と、⑵外に表れた行為(「表業」)と、⑶行為の残存効果(「無表業」)とを含むことを確認しておけばよい。

したがって、「有情の業」を中核にすえるということは、要するに、生きものの行為を中核にすえることを意味する。ところで、『倶舍論』によれば、世界は、この生きものの行為の所産にほかならない。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(276頁)

■櫻部氏によるサンスクリット・テキストからの界品の訳(中央公論社「世界の名著」第二巻)によれば、「有為」は「因果関係の上にあるダルマ」、「有漏」は「煩悩あるダルマ」と訳され、「無為」は「因果関係をはなれているダルマ」、「無漏」は「煩悩なきダルマ」と訳されている。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(277頁)

■ダルマとは、すこぶる多義的なことばであるが、本巻第一部(四章)の考察にしたがって、ここでは、「存在の要素」という意味に用いることにする。近代仏教の見地からするアビダルマ研究の開拓者の一人である木村泰賢博士は、アビダルマ関係の著作やその注訳書の用例をふまえて、「万有の組織及び活動において、これを分析解剖し一定の特質を有する認識されるものに還源して得られたもの」(木村泰賢全集第五巻『小乗仏教思想論』第二巻第二章)という定義を与えているが、これも要約すれば「存在の要素」ということになろう。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(284~285頁)

■要するに、七十五のダルマは、業によって作られる有為と、業とはかかわりのない無為とに分けられるのであり、なんといっても、これが最も基本的なダルマの分類なのである。そして、有為のダルマは「諸行無常」として、無為のダルマは「涅槃寂静」としてとらえられる。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(287頁)

■大乗経典としての『涅槃経』が、ブッダの思想をその原型に近い姿でとらえる手がかりとしては不適当だと思う人には、アーガマ(『雑阿含経』「歓喜園」)のなかに、つぎのような偈のあることを示しておこう。

諸行はまことに常なることなし

生滅をもってその性となすゆえなり

生じたるものはまたかならず滅す

その生滅の静まれるこそ楽しけれ(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(303頁)

■「我々の常識においては、一杯のコップの水は、一時間前の水も今の水も少しも変化が無いように考えているが、有部の宗義としては刹那滅であって、時々刻々に変化していると見る。換言すれば、前刹那の水と次の刹那の水とは別物である。これを有部では法体(ほったい)が異なるという。しからば、後の刹那においては前の刹那にあった水の法体ではどうなってしまったかというと、過去に落謝して(過去世に去って)其処において現に実在していると説く。又後の刹那の水の法体は何処から顕われて来たかというと、それは未来において現に実在していたものが、因縁和合して現在へ出て来たのであって、これも次の刹那には又過去へ落謝すべき運命のものである。かくのごとく、一の法の上に時間的に無数の法体を立てて、その一々の法体が三世にわたって恒有であることを〝三世実有、法体恒有〟というのである」(『業の研究』375ページ)(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(305~306頁)

■近年は、仏教学の基礎学としてのアビダルマ思想の重要性を主張する人が増えてきたようだ。その理由の一つは、日本仏教の歴史の反省にあると思われる。奈良・平安の仏教にあっては倶舍の学問(宗)つまりアビダルマ思想は仏教の基礎学として重視されてきた。しかし、法然、親鸞の浄土教は世界の構造に関する知の体系や、世界の状況に全体的に関わることを放棄してしまった。道元の禅の立場もほぼ同様であって、実践過程の心理学的、生理学的な分析を試みることを放棄し、世界の構造と状況に関する知の体系を構築しようとする意欲も捨ててしまった。このような態度はその後の日本仏教のあり方に大きな影響を与えてきた。また元来、理論的分析や構築の苦手な日本人にはそのような仏教の受容の仕方が適していたともいえよう。(解説 立川武蔵)

2010年6月20日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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