岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『森鴎外』ちくま日本文学 筑摩書房

投稿日:

『森鴎外』ちくま日本文学 筑摩書房

■あるこういう夜の事であった。哲学の本を読んでみようと思い立って、夜の開けるのを待ちかねて、Hartmann(ハルトマン)の無意識哲学を買いに行った。これが哲学というものを覗いてみた初めで、なぜハルトマンにしたかというと、その頃19世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを齎したと云った位、最新の大系統として賛否の声が喧しかったからである。

自分に哲学の有難みを感ぜさせたのは錯命の三期であった。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証するために、錯命の三期を立てている。第一期では人間が現世で福(さいわい)を得ようと思う。少壮、健康、友誼、恋愛、名誉というように数えて、一々その錯迷を破っている。恋なんぞも主に苦である。福は性欲の根を断つに在る。人間はこの福を犠牲にして、わずかに世界の進歩を翼成している。第二期では福を死後に求める。それには個人としての不滅を前提にしなくてはならない。ところが個人の意識は死と共に滅する。神経の幹はここに断たれてしまう。第三期では福を世界過程の未来に求める。これは世界の発展進化を前提とする。ところが世界はどんなに進化しても、老病困厄は絶えない。神経が鋭敏になるから、それをいっそう切実に感ずる。初中後の三期を閲しつくしても、幸福は永遠に得られないのである。(『妄想』)(56~57頁)

■謎は解けないと知って、解こうとしてあせらないようにはなったが、自分はそれを打ち棄てて顧みずにはいられない。宴会嫌いで世に謂う道楽というものがなく、碁も打たず、将棋も差さず、球も撞かない自分は、自然科学の為事場を出て、手に試験管を持たなくなってから、まれに画や彫刻を見たり、音楽を聴いたりする外には、境遇の与える日の要求を果した間々に、本を読むことを余儀なくせられた。

ハルトマンは人間のあらゆる福を錯迷として打破して行く間に、こんな意味の事を言っていた。大抵人の福と思っている物に、酒の二日酔いをさせるように跡腹の病めないものは無い。それの無いのは、ただ芸術と学問の二つだけだと云うのである。自分はちょうどこの二つの外にはする事がなくなった。それは利害上に打算して、跡腹の病めない事をするのではない。跡腹の病める、あらゆる福を生得好かないのである。(『妄想』)(69頁)

■綾小路は卓(テエブル)の所へ歩いて行って、開けてある本の表紙を引っ繰り返してみた。

「ジイ・フィロゾフィイ・デス・アルス・オップか。妙な標題だなあ。」

――中略――

「コム・シイさ。かのようにとでも云ったら好いのだろう。妙な所を押さえて、考えを押し広めて行ったものだが、不思議に僕の立場そのままを説明してくれるようで、愉快で溜らないから、とうとうゆうべは3時まで読んでいた。」(『かのように』)(141頁)

■「まあ待ちたまえ。そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのというものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁も線にはなっていない。角も点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シイだね。自然科学はどうだ。物質というものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられているという。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志というものの存在しないのも、とっくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、近世になっては大抵世界を相待に見て、絶待の存在しないことを認めてはいるが、それでも絶待があるかのように考えている。宗教でも、もう大ぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのように考えると云っている。孔子もずっと古く祭るに在(いま)すが如くすと云っている。先祖の霊があるかのように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさておき、宗教でもなんでも、その根本を調べてみると、事実として証拠立てられないある物を建立している。すなわちかのようにが土台に横たわっているのだね。」(『かのように』)(143~144頁)

■「――略――そうすると、詰まり事実と事実がごろごろ転がっていてもしようがない。その土台が例のかのようにと云うのだね。――後略――」(『かのように』)(145頁)

■「そうは行かないよ。書き始めるには、どうしても神話を別にしなくてはならないのだ。別にすると、なぜ別にする、なぜごちゃごちゃにしておかないかと云う疑問が起こる。どうしても歴史は、画のように一刹那を捉えてやっているわけには行かないのだ。」

「それでは僕の描く画には怪物が隠れているから好い。君の書く歴史には怪物が現れて来るからいけないと云うのだね。

「まあ、そうだ」(『かのように』)(146頁)

■「ふん、どうしてお父うさんを納得させようと云うのだ。」

「僕の思想が危険思想でもなんでもないということを言って聞かせさえすれば好いのだが。」(『かのように』)(147頁)

■「――前略――神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認められずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を瀆(けが)す。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。行為はもちろん、思想まで、そういう危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。そうするには大学も何も潰してしまって、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首(けんしゅ)を愚にしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。」(『かのように』)(149~150頁)

■「――前略――人に僕のかいた裸体画を1枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往かずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。(岡野注;綾小路の言)」(『かのように』)(151頁)

■贈鄰女(りんじょにおくる)

羞日遮羅袖(ひをはじらいてしゅうをさえぎり)。

愁春懶起粧(はるをうれいてたちてよそおうにものうし)。

易求無価宝(むかのたからをもとむはやすく)。

難得有心郎(こころあるろうをえるはかたし)。

枕上潜垂涙(まくらのうえにひそかになみだをたれ)。

花間暗断腸(はなのあいだにひそかにはらわたをたつ)。

自能窺宋玉(みずからよくそうぎょくをうかがう)。

何必恨王昌(なんぞかならずしもおうしょうをうらみん)。

〈となりの女におくる〉日がまばゆいとてきぬのそでをかざし、春のなやましさに起き上がって化粧するもけだるい。/価値のつけようもないほど貴い宝を求めるのはたやすいことだが、情を解するおとこを手に入れるのはむずかしい。/枕の上にそっと涙を落とし、花の間で人知れぬつらい思いをする。/自分から宋玉のようなあのひとに心をよせたのだから、王昌ともいえるあのひとを恨むことはいらない。(魚玄機)(311~312頁)

■全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じ事である。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着な人である。

次に著意(ちゃくい)して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事を抛(なげう)つこともあれば、日々の務めは怠らずに、断えず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教に入っても同じ事である。こういう人が深く入り込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。約(つづ)めて言えばこれは皆道を求める人である。

この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればといって自ら進んで道を求めるでもなく、じぶんをば道に疎遠な人だと締念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して云ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。(寒山拾得)(377~378頁)

■しかしこの説明は功を奏せなかった。子供には昔の寒山が文殊であったのがわからぬと同じく、今の宮崎さんがメッシアスであるのがわからなかった。私は一つの関に出逢ったように思った。そしてとうとうこう云った。「実はパパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みにこないのだよ。」(寒山拾得)(388頁)

■げに東(ひんがし)に還(かえ)る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなほ心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変わり易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。(舞姫)(419頁)

 

2010年5月16日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

執筆者:

関連記事

『尼僧の告白(テーリーガーター)』中村 元訳 岩波文庫

『尼僧の告白(テーリーガーター)』中村 元訳 岩波文庫 ■ あらゆる生きとし生ける者どもの最上者よ。雄々しき人よ。ブッダよ。わたしと他の多くの人人を、苦しみから解き放つあなたに、敬礼します。 □ わた …

『道元「永平広録 真賛•自賛•偈頌」』大谷哲夫 全訳注 講談社学術文庫

『道元「永平広録 真賛•自賛•偈頌」』大谷哲夫 全訳注 講談社学術文庫 はじめに ■日本では中国の詩文芸としての絶句や律詩などの漢詩文を一般に漢詩といいます。偈頌は形態的にはこの漢詩形によりますが、そ …

no image

『腕一本・巴里の横顔』藤田嗣治より

■お若いからこれから先遊んでおいでの時間もたんまりおありだが、私みたいな年寄りは遊んでる時間に月日をとられては、もう生きてる時間がなくなる。誘わないで下さい。お相手しないのはその為です。(243㌻) …

no image

『鏡のなかの世界』朝永振一郎著 みすず書房

■個々の定理の証明などは一つ一つわかっても、全体系を作り上げるのに、なぜその一つ一つの定理がそういう順序でつみ上げられねばならないか、そういう点までわからないと、その勉強は結局ものにならないようである …

彫刻作品

  トルソー/真鍮/2005年 トルソー/真鍮/2005年 スパイラルトルソー/ブロンズ/2005年 スパイラルトルソー/真鍮/2005年 スパイラルフォーム/真鍮/2005年 スパイラルフ …