岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『フラーとカウフマンの世界』 井口和基著 太陽書房

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■フラーのプリセッション概念の意味 ~アカデミズムの真の理解~

フラーのクリティカル・パス(岡野注・フラーの著書の題名)は面白い。その中で、1827年にフラーが人生で破たんし自殺の直前まで追い詰められた時、つまりフラーが「自分には身を投げるか、あるいは考えるかしかなかった。」と考えた時、フラーはやることも無く、金も無く、できることと言えば、後は自分の頭の中で考えることくらいしかなかったのである。この時、彼が何をどう考えたのかという話が、第4章の「バックミンスター・フラーの自己規律」というものに描かれているのである。大分前に私がフランクリンの自己規律というのを話題にしたことがあったのであるが、フラーの自己規律も実に示唆的であり、実にユニークである。だから、この章にもいわゆる「ためになる教訓」に満ち満ちているように感じるのである。その中でも、私が非常に気に入ったものは、フラーが言うところの「プリセッション」(物理の日本語では、歳差運動と訳されているが、ここでの内容はもっと広い。)という概念の発見である。

フラーの言うプリセッションとは、次のような物理現象のことを意味している。例えば、水を円柱形の袋に入れて底面と頂点面を同時に圧縮する(引っ張る)と逆に側面の中央部は膨張する(収縮する)というような物理的な運動のことを言うのである。あるいは、太陽と地球の引力と円運動の関係のように、太陽から地球への引力は動径(半径)方向に働くが、円運動はそれとは垂直に行われる現象である。あるいは、上から下にあがるというような現象である。こういうように、一つの運動に対してそれとは直角の方向へ運動が起こる物理現象をフラーはプリセッションと考えたのである。もちろんこの意味では普通の物理で言うコマの歳差運動もプリセッションの一つである。つまり、重力によってコマが横に倒れようとするが、運動はそれとは垂直に行なわれてコマはぐるぐる歳差運動をして回るのであるから、フラーのプリセッションの一つであると考えられるわけである。こういった自然現象のプリセッションは力の方向に垂直に行なわれるのである。この場合、仕事は行われずエネルギーは保存する。力の方向に進めば摩擦も働き、エネルギーが減少するが、直角方向の運動は摩擦なく永遠に運動可能である。まさしく、磁場中の電子はこの原理によって永久運動するのである。太陽系の中の地球もこうして太陽の周りを回っているのである。そこで30代のフラーは考えた。果して人間社会のプリセッションとは何であるのか? 確かに,人間界においても社会の人間に力が働く方向(つまり、政治力や経済力と呼ぶものが働く方向)があるのである。人は名誉に突き進み、お金にむらがろうとするものである。当然、弱い人は強い人の周りを回って生活している。これは、自然界の力の構造と同じではないだろうか? だとすれば、それと直角に、つまり90度で運動するということも可能ではないだろうか?

さらにフラーは考えた。これは人間社会ではどういうことを意味するのだろうか? 多くの人間、普通の人間は家族のために生きる。あるいは会社や自分の置かれた組織のために生きるのである。つまり、これは力の場に沿った運動である。この方向では、力に引き付けられればそれは社会の流れに沿った方向であり、反発すればそれは社会に反する方向への運動にすぎないのである。もしそうであるならば、力に90度の生き方があるのなら、それはそうしたものではないはずである。つまり、だれもしないこと。言い換えれば、地球人全体のことを考えることではないだろうか? 誰か特有の個人、組織、国,民族のためではない、そんな方向がプリセッション運動ではないだろうかとフラーは考えた。

驚くべきことに、若いフラーはこのプリセッションの効果を証明するために「自殺するのではなく、自分のエゴを殺した。」のである。そして、以後50数年に渡ってこれを実証してきたのである。そのために、多くの友人や家族や親戚から無責任な人間と非難され続けたと言う。時には忠告に従って家族のために仕事をしたこともあった。だが、そんな時は自分の計画がとん挫し、すべてがうまく行かなくなったようである。そんな時は意固地になって自分の計画を推進したのである。しかし、不思議なことに、自分が必要とする時に必要なことが決まって現れ、自分の味方をしてくれたのである。そして、今日まで生き抜いてこれたのであるとフラーは言っているのである。

フラーはこの話をみつばちの話にして例えているのである。みつばちは花の蜜を見つけると、仲間にそのことをお尻を90度に振りながら8の字歩きをして伝える。これはあくまで自分の仲間のために行う利他的な行為である。しかし、実はこれが花に花粉を付けて受粉させる働きを持つのである。こうして、みつばちは知らず知らずのうちに植物の生育を助けているのである。

人間社会もそのようになっているのではないか。これは現在我々が「共生」と呼ぶ現象の本質を突いているいるように私は思うのである。もし花と共生するためにみつばちが何か花のためになることを自ら選んで仕事するとすれば、きっとみつばちたちは疲れ切ってしまうのではないだろうか? 花から見れば一見自分勝手に見えるのかも知れないが、みつばちはみつばちの世界のために利他的に行動しているのである。この行動が実はもっとも花を助ける行動に繋がるのである。そうやって自然はうまく両者を共生させてくれるわけである。だから、決してみつばちは花の奴隷でもなく、また花もみつばちの奴隷ではないのである。(114頁~116頁)

■包括的思考力、これが21世紀のキーワード

昨年末からフラー、カウフマンとずっと彼らの著作を見てきたが、私はだんだん物事の本質が理解できたと思うのである。つまり、我々の世界で今何が失われたかが分かってきたのである。それはフラーが言う「包括的思考力」、そして「感じる力」(感性を磨くこととも言える)が、既存の学校システム、科学教育システムにはまったくないということである。フラーやカウフマンはともに自分の感性と包括的思考に基づいて自分の世界を作り、この現実世界の謎に挑んできたのである。

しかしこれまでの科学、特に19世紀から20世紀にかけての科学というものは自分の感性を捨て去り、科学的知識と論理(ロジック)だけに基づくという還元主義的な方法で行ってきたのである。科学知識が膨大になればなるほどほじくり返す穴の数もその大きさも増えたのである。それが世に言う専門分野というものである。まあ、海の底に穴作ってそこに住む虫の類いである。そういう連中はもっと強い生き物の餌になる。つまり、体制側に住む連中の手足や餌になるのである。そして、ノーベル賞はその恩恵を賞したものと見ることもできる。

一方、フラーやカウフマン、古くはピタゴラスやソクラテス、近代ではショーペンハウエル、シュタイナー、モンテソーレ、マクレーンなどという人々は、もちろんそれぞれに自分の得意とする専門分野は持っていたのであるが、それ以外に非常に幅広く博識を持ち、包括的思考の大家でもあったのである。

それがどういうわけか、得られた科学知識の方にばかり人々の目が向き、これをもたらした大本の感性やら包括的思考力の方には目が進まなかったのである。要するに、一言で言えば物事が逆転し本末転倒になったのである。その結果、科学は一見進歩したように見えるが本質的なものを少しも解決できないという柔な科学に変質してしまったのである。

太古の昔、カルタゴのアルキメデスは博識と知恵で度重なるローマ軍の攻撃を撃退したという話がある。つまり、科学的思考がそのまま直接人々の生存に影響を与えた時代や命を救った時代があったのである。もちろん今でもそれはあることはあるのであるが、そのほとんどはどうでも良いものに変わってしまったのである。例えばハバードモデルで定理を一つ証明したところでこの世界の安定性にはまったく無関係なのである。数多くの論文が書かれたとしても、それで実生活に変革が行われるかというとそれはない。どうでもいいものであるからである。そういったものはあくまで科学者世界の就職証明書の類いに成り下がったというわけである。論文四つで博士号。論文20で助教授昇進。そういうレベルのお話であるからである。

我々は、この世界の謎を解きたい! 会社の上司のことはどうでもいい。その目的のためには何が必要か? これが問題というわけである。兼好法師も証言したように盛者も必衰の理がある。驕れるものも久しからずというものである。しかし、この目的のためには現代までの教育システムには重大な欠陥がある。それが、この包括的思考力を育む場がまったくないということである。知識は覚えたがばらばらのままである。英語も数学も覚えたがそれらは何の関係も無い。テストを受けたがそれは学校のためであり自分のためにはならない。学校の先生とてばらばらである。英語の先生にとって音楽は無関係である。数学の先生にとって社会学はどうでもいいことなのである。これでは、生徒や子供達は浮かばれない。子供にとって自分の親はどこかの会社の使い捨ての従業員でしかない。その会社を首になればそれでもう他の会社では使い物にならない。そういうことを見ていれば、子供がやる気をなくすのはあたりまえだろう。会社へ入れば学校で学んだことのほんの一部を使って夢の無い仕事をするだけとなれば、それでは、フリーター(=パートタイマー)、プー太郎の方が良く見えるのである。つまり、こういった現象のすべては還元主義に犯された脳の陥る病気なのである。心の隙間ができたかすかすの分断された脳の問題である。脳をいろんな経験で満たすのは実は非常に簡単なことである。それは自分の感性を信じて物事を包括的に考えることなのである。どうせ数学を学ぶなら英語で学んでみる。どうせ生物を理解したいなら物理学の立場で眺める。クロスリンクさせるわけである。

包括的思考を身につけさせるためには、「ゆとり」や「あそび」(遊ぶという意味のあそびではない。ここでは機械のあそびのあそびの意味だ。つまり一種のゆとり、ゆるみ、すきまの意味である)が必要なのである。どうやら世の教育関係者は頭にこの意味の「あそび」がないから文字通りの意味しか理解していないようである。「ゆとり」も「ゆっくりする」という意味であり、「あそび」も同じである。きっちりぎゅうぎゅう詰めになった状態には「ゆとり」も「あそび」もない。いくら授業時間を減らし科目を少なくしたところで、授業がぎゅうぎゅう詰めであったとしたら、「ゆとり」も「あそび」もなく包括的思考は生まれない。どんなギアもどんな精巧な機械もそれなりの「あそび」がなければうまく動かないものなのである。そのために潤滑油をつけるわけである。

フラーやカウフマンのはなしにもたくさんのエピソードが潤滑油になり散らばっている。それが「ゆとり」や「あそび」なのである。日本人の本にはそれがない。だから窮屈になり面白くなくなるというわけである。ノーベル田中さんの良さはここにある。変人ではあっても窮屈な人ではない。あそび心(何度も言うが、遊ぶという意味のあそびではない!)やゆとりの心が散見されるからである。こんな包括的思考を育む学校は生まれるのだろうか? 包括的思考を身に付けた人間しかできない相談だからかなり難しいだろう。しかしこういう人間が育たない限りこの世界の諸問題が解決しないことだけは確かなことである。そらはこの包括的思考力を日本の政治家は身につけていないから党利党則だけにこだわり国民のことまで頭がまわらない還元主義者の団体になってしまうからである。包括的思考力、これが21世紀のキーワードである。(201頁~203頁)

『フラーとカウフマンの世界』 井口和基著 太陽書房 2008年1月21日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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