■高校時代にやったことがもう一つあった。それは問題や定理を発明することだ。つまりどうせ数学をやっている以上は、これを利用できるような実際例を考えだすのである。僕は直角三角形に関する問題をひと組発明したが、このうち第三辺の長さを求める問題では、二辺の長さがわかっていることにする代わり、二辺の差がわかっていることにした。この典型的な例をあげると、まず旗竿があって、そのてっぺんから綱が下がっている。この綱を垂直に下ろすと旗竿よりも3フィート長い。今度は綱がたるまないよいに横に引っぱってみると、竿の根元から5フィート離れたところまで来るものとする。この旗竿の高さは何フィートあるか?(18~19頁)
■MIT時代、僕はいろいろないたずらをするのが好きだった。あるとき製図のクラスで、一人の学生が雲形定規(変てこな波形で、曲線を描くのに使うプラスチックの定規)を取りあげて、「この曲線に何か特別な公式でもあるのかな?」と言った。僕はちょっと考えてから「むろんだよ。その曲線は特別な曲線なんだから。そらこの通り」と雲形定規をとりあげて、ゆっくり回しはじめた。「雲形定規って奴は、どういう風に回しても、各曲線の最低点では、接線が水平になるようにできてるんだよ。」
こうなるとクラスの連中が、一人残らず自分の定規をいろいろな角度に持ち、この一番低い点に鉛筆をあてて回しはじめた。そして確かに接線が水平だということにはじめて気がついたのである。みんなこの「発見」に沸き立ったが、誰もがとっくにかなり進んだところまで微積分をやっていて、「どんな曲線についても、極小点(最低点)での導関数(接線)はゼロ(つまり水平)である」ということは知りぬいているはずなのだ。ただそれを実際に当てはめてみることができなかっただけだ。言うなれば、自分の「知っている」ことすら知らなかったということになる。(43~44頁)
■人はよく僕のことをふざけた奴だと思っているらしいが、僕はだいたい正直なのだ。ただ正直であるその在り方が人と違うおかげで、信じてもらえないことがしょっちゅうなのだ。(52頁)
■催眠術をかけられるというのはなかなか面白いものだ。僕たちは「できるけどやらないだけのことさ」といつも自分に言いきかせているわけだが、これは「できない」というのを別な言葉で言っているだけのことなのだ。(104頁)
■高等学術研究所が僕という男をそれほど買いかぶったって、それは僕の罪ではない。そんな期待に沿うなど、どだい無理な話だ。明らかにまちがいだ。向こうがまちがっていることだってありうるのだと思いついたとたんに、僕はこの考えがそっくりそのまま、職の話を持ちかけてきたほかのところにも当てはまるのに気がついた。今勤めているこの大学ですら然りだ。自分は自分以外の何者でもない。他の連中が僕をすばらしいと考えて金をくれようとしたって、それは向こうの不運というものだ。(308頁)
■僕はまた他のことも考えはじめた。前にはあんなに物理をやるのが楽しかったというのに、今はいささか食傷気味だ。なぜ昔は楽しめたのだろう? そうだ、以前は僕は物理で遊んだのだった。いつもやりたいと思ったことをやったまでで、それが核物理の発展のために重要であろうがなかろうが、そんなことは知ったことではなかった。ただ僕が面白く遊べるかどうかが決め手だったのだ。高校時代など、蛇口から出る水がだんだん先細りになっていくのを見て、そのカーブが何によって決まるのかを考え出すことができるかなと思ったことがある。これをやるのは簡単だった。僕が別にそれをやらなくたって痛くも痒くもない。もう誰かがとうにやってしまったことだし、別に科学の未来に役立つこともことでも何でもないが、そんなことはどうでもよかった。僕はただ自分で楽しむためにいろんなことを発明したり、いろいろ作ったりして遊んだだけの話だ。(309頁)
■今でも覚えているが、ハンス・ベーテのところに行って「おいハンス、面白いことに気がついたぞ。皿がこういう風に回るだろう? それでこれが2対1だという理由はだ……」とばかり僕は彼に加速の計算をして見せた。
するとハンスは「なかなか面白いじゃないか。だがそれは何の役に立つんだね? 何のためにそんな計算をやったんだい?」ときいた。
「なに別に何の役にも立たないよ。面白いからやってるだけさ。」僕は物理学を楽しむだけのために好きなことをやるんだと決心していたから、このときのベーテの反応はちっとも気にならなかった。
ー中略ー
こうなると努力なんぞというものはぜんぜん要らなかった。こういうものを相手に遊ぶのは実に楽なのだ。びんのコルク栓でも抜いたようなもので、すべてがすらすらと流れ出しはじめた。この流れを止められるものなら止めてみよと思ったぐらいだ。そのときは何の重要性もなかったことだが、結果としては非常に大切なことを僕はやっていたのだ。後でノーベル賞をもらうもとになったダイアグラム(ファインマン・ダイヤグラム)も何もかも、僕がぐらぐらする皿を見て遊び半分にやりはじめた計算がそもそもの発端だったのである。
『ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)』 R.P.ファインマン著 大貫昌子訳
岩波現代文庫 2008年11月2日