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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『哲学入門』バートランド・ラッセル(高村夏輝訳)ちくま学芸文庫

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■こうした色の違いが実生活で重要になることはほとんどないが、画家にとってはなによりも重要である。常識的に物の「本当の」色だと言われる色を、物は持つように見える、そう考える習慣を私たちは持っている。しかし画家はこの習慣を脱ぎ捨て、見えるがままに物を見る習慣を身につけなければならない。ここで私たちは、最大の哲学的問題の一つの原因になる、ある区別をし始めている。「現象 appearance」と「実在 reality」の区別、つまり物がどのように見えるかと、どのようであるかの区別である。画家が知りたいのは物がどのように見えるかだが、いわゆる現実的な人や哲学者は、物がどのようであるかを知りたいと思う。(11㌻)

■つまり色は、テーブルそのものに属するのではなく、テーブルと観察者、そしてテーブルへの光の当たり方に依存するのである。テーブルのその色についてふだん話しているときには、正常な観察者が普通の視点から、通常の光の条件下で見る色を意味しているにすぎない。しかし他の条件下で見える色にも何もおかしいところはなく、本当だとみなされる資格がある。それゆえ、えこひいきを避けるためには、テーブルが、それ自体としてある特定の色をしていることを否定しなければならなくなる。(12㌻)

■もし本当にテーブルが存在するのだとしても、それは直接経験されるものと同じではなく、見たり聞いたりできないことが明らかになる。実在のテーブルが存在したとしたとしても、それはけっして直接には知られず、直接知られるものから推論されなければならないのだ。ここから、非常に難しい二つの問題が同時に生じてくる。(1)そもそも実在のテーブルはあるか。(2)もしあるなら、それはどんな対象でありうるか。(14㌻)

■実在のテーブルが存在するとして、それを「物的対象」と呼ぼう。よって考察すべきなのは、物的対象とセンスデーターとの関係である。すべての物的対象をひとくくりにして「物質」と呼ぼう。それゆえ先ほどの二つの問題は、次のように言いなおせる。(1)そもそも物質のようなものがあるか。(2)もしあるのだとしたら、その本性は何か。(15㌻)

■かなり多くの哲学者たち―恐らくは多数派といえるだろう―が、心と観念以外には何も実在しないと主張してきた。このような哲学者たちは「観念論者」と呼ばれている。彼らの物質を説明する段になると、バークリーのように、物質は実は観念の集まりにほかならないと言ったり、ライプニッツ(1646-1716)のように、物質のように見えるものも、実は多少発達していないところのある心の集まりだとしたりする。(18㌻)

■事実ほとんどすべての哲学者が、実在のテーブルがあることに同意するように思われる。つまり「色、形、なめらかさなど、どれほど多くのセンスデーターが私たちに依存するとしても、それらが生じていることは、私たちから独立な何かが存在するとしても、それらが生じていることは、私たちから独立な何かが存在するしるしである。そしてそれはセンスデーターとはまったく異なるのだが、しかし実在のテーブルと私たちが適切な関係にあるときには、いつでもセンスデーターの原因になると見なされているものである」ということは同意されるのである。(19㌻)

■ある内在的な本性を持ったテーブルが存在し、見ていないときにも存在し続けているのか。それとも想像の産物にすぎず、長い夢のテーブルでしかないのか。これはとてつもなく重要な問題である。なぜなら、対象が[私たちが知覚することから]独立して存在すると確信できないなら、他者の身体についても確信できなくなる。さらには、その身体を観察する以外に、他者に心があると信じる理由はまったくないため、他者の心についてはなおさら確信できなくなるからだ。(22㌻)

■センスデーターに対応する対象があるという本能的信念は一向に弱まりはしない。この信念は何の問題ももたらさないばかりか、かえって経験の説明を単純かつ体系的にするので、それを拒否すべきだとするまともな理由はないと思われる。それゆえ、わずかに夢に基づく疑いが残るものの、外界は本当に存在し、知覚され続けることにはまったく依存せず存在し続けると認めてよいのである。(31㌻)

■哲学は、最も強く抱かれている本能的信念から初め、ひとつひとつ取り出してそこから余計な交ざりものをそぎ落としながら、本能的信念の階層構造を示さなければならない。そして最終的に提示される形式では、本能的信念は衝突しあわず、調和した体系をなすことを示さなければならない。他と衝突するということ以外に本能的信念を退ける理由はないのだから。調和した体系をなすことが分かれば、本能的信念の全体は受け入れるに値するものとなる。(32㌻)

■特定の道を何度も通った馬は、別の方向に進ませようとすると抵抗する。いつも餌をくれる人を見ると、家畜は餌がもらえるものと期待する。「いつもと同様のことが起るだろう」と期待しているわけだが、知ってのとおり、こうした幼稚な期待が裏切られる可能性は、非常に高い。ひよこのときから毎日欠かさず餌を与えてきた人も、最後にはかわりにニワトリの首をしめてしまう。ここから分かるように、「自然の斉一性 the uniformity of nature」についてもっと洗練された考えを持っていれば、それはこのニワトリの役に立ったことだろう。

しかし裏切られやすいにもかかわらず、それでも現にこうした期待は抱かれる。あることが何回も生じたという、ただそれだけのことが原因となって、動物も人間も、また同じことが生じるだろうと期待するようになる。このように、私たちは本能を原因として「太陽は明日もまた昇る」と信じるようになるのだが、だからといって、思いがけなくも首をしめられてしまったニワトリよりも私たちがましな立場にあることにはならないのである。それゆえ、「過去の斉一性が未来についての期待の原因である」という事実と、「そのように期待することが妥当かどうかが問われたときに、それを信頼する合理的な根拠があるか」という問題を区別しなければならないのである。(78㌻)

■科学は作業仮説として、「一般的規則のうち、例外がありうる規則は例外のない規則に置きかえることができる」と仮定することを習慣としている。「空中にある支えられていない物体は落下する」という一般的規則には、風船や飛行機など例外がある。しかし運動法則や重力法則は、たいていの物体が落下することだけでなく、風船や飛行機が空を飛べることも説明するので、これらを例外とせずにすむ。

太陽は明日も昇るだろうという信念は、地球が自転を止めてしまうほど巨大な物体と衝突してしまった場合、その間違いが立証される。だがその出来事によっても、運動法則と重力法則が破られることはない。これらの法則のような、私たちの経験のおよぶ限り例外がまったくない斉一性を発見することが科学の仕事なのである。科学はこの探求において、目覚ましい成功をおさめてきた。今までのところは、科学が発見した斉一性は成立していると認めてよい。しかし、私たちはここでまたもや、「それらの斉一性がこれまでいつも成り立っていたことを受け入れるとき、今後とも成り立つと考える理由があるだろうか」という問題へと連れ戻されるのである。(79㌻)

■帰納原理は、経験に基ずくすべての論証が妥当であるために欠かせないものなのだが、しかし帰納原理そのものは経験によって証明できない。にもかかわらず私たちはみな帰納原理を、少なくともそれが具体的に適用される場面では信じている。(87㌻)

■「真なる命題によって含意されることは、すべて真である」または「真なる命題からどのようなことが帰結しようと、それは真である」ということだ。

実は、この原理は――少なくともその具体例は――すべての論証に含まれている。私たちが自分の信念を用いてほかの何かを証明するとき、そして結果として証明されたことを信じるときには、この原理がつねに一役かったいる。「真なる前提に基づき妥当に議論をして得られた帰結をなぜ受け入れなければならないのか」とたずねられたなら、この原理に訴えるよりほかに答えるすべはない。(89㌻)

■(1)同一律「何であろうと、あるものはある」

(2)矛盾律「いかなるものも、ありかつあらぬことはありえない」

(3)排中律『すべてのものは、あるかあらぬかのどちらかでなければならな

い」(90㌻)

■哲学における大論争の一つに、「経験論者」と「合理論者」と呼ばれる二つの学派の間の論争がある。経験論者たち――ロック、バークリ、ヒュームといったイギリスの哲学者によってもっともよく代表される――一七世紀のヨーロッパ大陸の哲学者たち、特にデカルトとライプニッツがその代表である――は経験によって知られることに加え、何らかの「生得観念」や「生得原理」が存在し、これは経験とは独立に知られると主張した。いまや、これら対立する両学派のそれぞれどこが正しく、どこが間違っていたのかを、ある程度自身を持って決定できる。まず認めておくべきなのは、私たちは論理的原理を知っているが、それを経験によって証明することはできない、ということだ。なぜならこの原理は、いかなる証明にも前提されるからである。それゆえこの、論争において最も重要な争点にかんしては合理論者が正しかったのである。(92㌻)

■論理学と同じく、純粋数学もすべてアプリオリである。経験論者たちはこれを熱心に否定し、「地理学の知識と同じように、算術の知識もまた経験からうまれる」と主張した。(95㌻)〈私の意見:この意見には、両論納得がいかない。自己の内部世界は自己意識の外側にあらかじめ写りこんでいる。つまり人間(生物も)は,外側の世界に対して世界=内=存在であるが、内部でも自己意識は世界=内=存在であるのだ。世界の存在の形態は、内部と外部の境界が無いマンデルブロー集合のように自己相似形なのだ。そう考えるとアプリオリの問題は、あらかじめそうなっている世界(時間、空間)がすでに自分の内部に写し込まれていてその内部に自己意識(知性)が生まれ育つと考えれば説明できる〉

■カントは物的対象――彼はこれを「物自体」と呼ぶ――を本質的に知りえないものとみなす。知りうるのは経験に現れる対象だけで、カントはそれを「現象phenomenon」と呼ぶ。現象は知覚者と物自体の共同の産物だから、知覚者に由来する特性を確かにもち、それゆえ確かにアプリオリな知識と一致する。よってアプリオリな知識は現実的・可能的な経験のすべてに関して真であるが、しかし経験の外部にも適用されると考えてはならない。したがってアプリオリな知識があるにもかかわらず、物自体について、あるいは現実的・可能的な経験の対象ではないものについては、何も知ることができない。このようにしてカントは合理論者の言い分を経験論者の議論と和解させ、調和させようとした。〈私の意見:自分の内部の自己意識が知りえないのであって、物自体は自己意識に関係なく勝手に写り込んでいる〉

■「関係は心が作る。物自体はまったく関係を持たず、心が考える時にそれらを引き合わせ関係させるのである。そうして心は、物自体がそうした関係を持つと判断するのだ」と主張した。

しかしこの見解に対しては、先にカントに反対したのと同様の反論ができるだろう。思考が「私は自分の部屋の中にいる」という命題を真にするのではないことは、明らかではないだろうか。私の部屋にハサミムシがいることは、たとえ私やハサミムシ、あるいは他の誰もこの真理に気づかなかったとしても、真でありうる。この真理はハサミムシと部屋にだけ関わり、それ以外の何にも左右されないからである。よって関係は、次の章でいっそう十分に確認するように、心的でも物理的でもない世界にあるにちがいない。この世界は哲学にとって――とくにアプリオリな知識の問題にとっては――大変重要だ。(111㌻)

■この意味での記憶という事実がなければ、そもそも過去があったことすら分からず、「過去」という言葉も理解できないにちがいない。それは、生まれつき目の見えない人には「光」という言葉を理解できないのと同じことだ。(142㌻)〈私の意見:ここまで読んできてこれ以上読み続けるのを断念した。この文章には全く同意できない。参照:『芸術の杣径』の中の「夢の中の空間」〉

『哲学入門』 バートランド・ラッセル(高村夏輝訳)ちくま学芸文庫

2007年11月14日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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