岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『釈尊のことば』増谷文雄+奈良康明  放送ライブラリー7

投稿日:2020-11-30 更新日:

『釈尊のことば』増谷文雄+奈良康明  放送ライブラリー7

■ちゃんとその基本の公式、いまのわれわれのことばで申しますれば公式ですね、ものの考え方のいわゆる思惟方法と申しますか、そういうものがちゃんとあるのですね。お釈迦様はどういうぐあいに考えられていつもこういう種々様々な説法をやったかというー私どもはやはり近代人でございますから、つい公式といったようなことばを使うわけなのですが、昔のひとはそれをむずかしいことばで言っておりますね。「軌持」という言い方です。(増谷)(14頁)

■『唯識論』に、「法を軌持と名づく』とかいった文句が出てまいりますね。(増谷)(14頁)

■その法を定義いたしまして、『唯識論』のなかでは、法を軌持となすとか、名づけるとか、そういう言い方をしておりますね。軌持なんていう熟語はちょっとふつうには出てこないことばでございますが、『倶舎光記』というのは、これは注釈本でございますよね。このなかにはそれを注釈いたしまして「能持自性、軌生勝解」という。このばがよく知られておるわけですね。これは定義を注解したわけですね。注解したことばでございます。その注解を申し上げれば、軌持という意味はわかりますね。

どういうことかと申しますと、そんな変なことを言わないでもいいだろうと思うように考えられますが、「能く自性を持し」というのは、自分自身は自分の本性を保ち持って変わらない。だから「「能く自性を持し」でございます。それが軌となってー軌というのは軌範、いまのことばでレールですな、それがレールとなって「勝解を生ず」、よき理解を生ずる。「勝解」というのは、いいかげんにわかるのじゃなくて、学問的にとか、思想的にわかるといいったときに使うことばなのでございます。すなわち、それ自身はまったくかわらないで、それがレールになって、もののよきよき理解を生ずるという、そういうことばですね。(増谷)(15頁)

■大徳よ、人々は私を暴悪である、乱暴者であるというが、いったいひとはいかなる員によって暴悪となるのでありましょうか。世には、柔和といわれるひともありますが、いったい人はいかなる因によって柔和となるのでありましょうか。

これにたいして釈尊の答えでありますが、

村の長よ、もし人がいまだ貪欲を捨てなかったならば、彼はそれによって他人を怒らしめ、他人の怒りに遭うて、みずからも怒るであろう。

そのとき、彼は暴悪と呼ばれるだろう。(奈良)(22頁)

■そうするとお釈迦さまがそれにたいして答えておるのは、これはだれが見てもすぐわかるように、「これあればかれあり、これ生ずればかれ生ず」、この公式でそれに答えておられます。これはもう私が注釈する必要も何もない、いま読んでもらいましたのを私がもう一度申し上げればいいわけですな。「村の長よ、もし人がいまだ貪欲を捨てなかったならば、彼はそれによって他人を怒らしめ、他人の怒りに遭うて、みずからも怒るであろう」、そうするときみは乱暴者と呼ばれることになるのじゃないかと、こう言っておるのですから、「これあればかれあり」ですな。貪欲あれば乱暴者と呼ばれることになるのじゃないかと、こう言っておるのですね。それからさらにお釈迦さまはそこで貧(どん)につづいて瞋(しん)と痴、むさぼりと怒りと愚かさとその三つを挙げて、乱暴者と呼ばれる原因はそれぞれそこにあるのだということをまず説いていわゆる有因(ういん)の法をそこで明らかにしておいて、そしてそれをひょっとひるがえして、それではその貧をなくした場合にはどうなるか、さらにその瞋をなくした場合にはどうなるか、さらにその痴をなくした場合にはどうなるか、それはもうくどいと思われるでしょうけれども、「これなければかれなし」ですね。汝の貪・瞋・痴がなければ汝は暴悪といわれない、そのときは柔和だといわれるであろう、と。(増谷)(23頁)

■増谷–だいたい「阿含」ということばを見ただけでは、いったい何を意味しているかということがわかりません。じつはわからないはずでございまして、これはもともと彼の地インドのことば、むこうのことばですね。サンスクリットやパーリーで両方ともアーガマという。その音をそのまま写したことばでございます。

奈良–音写語でございますね。翻訳ではないはずですね。なるほど。

増谷–その意味を申しますと、これは先生のほうがよくご存じのとおり、「伝来」とか「伝承」とかいうことばでございます。きょうの題目が「説法の伝承」となっておりましたね。たいへんぴったりした題目だと思います。釈尊が法を説かれた、だから説法です。「説法」というのはだいたい仏教にしかないことばでございます。とくにお釈迦さまのはまさしく説法ですな。そのお釈迦さまの説かれた説法がいかにして今日にまで伝わってきているかというと、それは結局この阿含部の経典ですね、「阿含経」という題目でございますが、もっとわかりやすくいうと阿含部のいろいとな経典のことでございますね。(32頁)

■耕田

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、マガダの国の南山なるエーカサーラという婆羅門村に住しておられた。その時、耕田と称されれるバーラドヴァージャ姓の婆羅門は、種蒔きの時期にあたって、五百の鋤を準備していた。

そこに世尊は、早朝に、衣を着け、鉢を執(と)って、耕田なるパーラドヴァージャ姓の婆羅門の仕事場に現れた。その時、その婆羅門はちょうど人々に食物の分配をしているところであった。だから、世尊は、ちょうどその食物の分配のところにいたって、その傍らに立ったわけである。

耕田なるパーラドヴァージャ婆羅門は、世尊がそこに托鉢のために立ちたまえるのを見た。見て、彼は世尊にいった。

「沙門よ、われは、田を耕し、種を蒔いて、食を得る。沙門よ、汝もまた、田を耕し、種を蒔いて、食を得るがよろしい」

「婆羅門よ、われも田を耕し、種を蒔く。耕し、種を蒔いて、食を得ている」

「だが、沙門よ、わたしどもは、まだ誰も、あなたが田を耕したり、牛を追ったりするところを見たものはない。それなのに、いったい、あなたはどうして、自分もも耕し、種をまいて、食を得ているというのであるか」

その時、耕田なるパーラドヴァージャ婆羅門は、また、偈をもって世尊にもうしていった。

「汝は農夫であるというも われらは汝の耕すのを見たものはない われは汝に問う、語るがよい いかにしてわれら汝の耕すのを知らん」

世尊はいった。

「信はわが蒔く種子にして 智慧はわが耕す鋤である

身口意において悪業をのぞくは わが田における草とりである

精進はわがひく牛にして 行(つ)いて退くことなく

おこないて悲しむことなく われを安らけき境地に運ぶ

かくのごときがわが耕田にして その収穫を甘露の果となす

人はかかる耕田をおこないて 一切の苦を解脱するのである」(50~51頁)

■自己の依り処は自己のみである。ほかにいかなる依り処があろうや。

自己のよく調御せられたるとき、人は得がたい依り処を得るであろう。

増谷–ここにまいりまして、なんだか少しジーンとするような気がいたしますが、仏教というのは福音を説く宗教でもない、あるいは予言を説く宗教でもないですね。

奈良–もし、予言あるいはおまじない的なものであるならば、みずからに依る必要はないわけでございますね。

増谷–そうなのでございます。あるいは何か摩訶不思議なことを示現する宗教でもないですね。それはある意味においてきわめてわかりやすい教えですね。まさに如来は道を教えるものであるという、その道はいかなる道であるかというと、人間が自己自身を開発していく。その開発されたものこそ、ほんとうにそこに依ることのできる自己というものをつくり上げていくのである。人間開発ということがこちらにあり、こちらに自己調御ということがあるあるわけですね。その二つでどうやら私は仏教というものの性格をつかむことができたような気持ちになっております。結局努めねばならんのは自分自身である。

奈良–また同時に、努めさえすればそこに安穏の境地が誰にでも得られる可能性があるのだということでございましょう。(65頁)

■羅陀ー「大徳よ、悪魔悪魔と説くは、いかなることをか悪魔となすや。」

釈尊ー「羅陀よ、色(受想行識)は悪魔である。羅陀よ、そのように観じて、有聞の聖弟子は、色(受想行色)において厭い離れるゆえに解脱する。」(78頁)

■羅陀ー「大徳よ、願わくば略してわがために法を説きたまえ……」

釈尊ー「羅陀よ、悪魔において欲を断つがよい。羅陀よ、悪魔とは何であろうか。羅陀よ、色(受想行識)は悪魔であるから、そこにおいて欲を断つがよいのである。」(79頁)

■比丘よ、執着するときは、すなわち悪魔に縛せられる。執着しないときは、すなわち悪しきものより解脱する。(79頁)

■雪山を化して黄金となし、

さらにそれを二倍にしても、

よく一人の欲を満たすことを得ず。

かく知りて、人々よ正しくおこなえ。

■縁起

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジュータ林なるアナータビンディカの園にましましました。

その時、世尊は、かように仰せられた。

「比丘たちよ、わたしは汝らのために、縁起および縁生の法について説こうと思う。汝らは、それを聞いて、よく考えてみるがよろしい。では、わたしは説こう」

「大徳よ、かしこまりました」

と、彼ら比丘たちは世尊に答えた。世尊はつぎのように説いた。

「比丘たちよ、生によって老死がある、という。このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである。法として定まり、法として確立しているのである。それは相依性のものである。如来は、これを証(さと)り、これを知ったのである。これを証 り、これを知って、これを教え示し、宣布し、詳説し。開顕し、分別し、明らかにして、しこうして『汝らも、見よ』というのである」(90~91頁)

■奈良–そうしますと、いま三つの内容がここからひき出せるのではないでしょうか。第一が理法としての性格。それからもう一つが、相依性といういわば内容からみていく面。

増谷–そして第三番目は、それに対する私自身、すなわちお釈迦さまですね。お釈迦さまの役割は何であるかというと、それは、それを悟り、それを知り、そしてそれをはっきりと吟味いたしまして、それを宣布することであると、そういう言い方をなさっておられます。ずばりと申しますと、私はそれの証得者であり、そして説法者であると、こう言っておられると受け取ることができるのでございます。

■『城邑(じょうおう)』にみる

増谷–それはじつは縁起というのは古道である、前からあったのだということでございますね。ただ、森のなかにあってその古い道が途絶えてしまっておったのを人が行ってみつけたといったようなものだ、その人が行って、そこにりっぱな町がある、すばらしい所があるということをみつけ出して、それを帰ってきて王様に報告をし、王よ、あそこをひとつ開発なされよといっておすすめした。そこで王様がそのとおりにしたら、そこがすばらしい都市になったという。そういうたとえを引いておられるのですね。

奈良–そうしますと、釈尊のお悟りの内容は、けっして天や予言者の声を聞いたものでもなければ、まして釈尊自身がつくり出したなどというものでは絶対にない。釈尊が世に出ようと出まいとかかわりなしに、大昔から存在しているものである。だからこそ理法だ、ということでしょうか。

増谷–理法ということばはおそらく釈尊以前にはなかったのじゃないですか。あるいは理法なる考え方はなかったとおもうのです。それから法ということばで思い出すのですが、昔の人は法ということばを説くのにひじょうに苦労しておりますね。法とは何であるかというと、「法は軌持なり」と前にここでいっしょにお話しをしたことがあるのですが、わたしはまだ若いころ「法は軌持なり」ということばに会いましてびっくりしたことがあるのですが、それがレールになってほかのいっさいのものがわかるのだという、そういうものが法ですね。そういう法則性とか理法とかいうこと、いまお互いに話をしながらこれは理法だといえば、お互いにああそうだとすぐわかるのですが、あの時代の人たちにはそういうわけにはいかなかったのでしょう。

奈良–そうした普遍的な法というものを、つくられたのではなくて、見出されたところに当時の釈尊の新しさがあったかと思います。(98~99頁)

■識と名色で説く相依性

友よ、しからばたとえを説こう。識者はそのたとえによりて、所説の義をしるであろう。

友よ、たとえば二つの芦束はたがいに相依りて立つつであろう。

友よ、それと同じく、名色(みょうしき)によりて識あり、識によりて名色あり…。

友よ、もしそれらの芦束のうち一つを取り去ったならば、一つは倒れるであろう。他を取り去ったならば、他もまた倒れるであろう。

友よ、それと同じく名色の滅によりて識の滅あり。識の滅によりて名色の滅あり…。(岡野注;サーリープッタ)

ーーーーーーーーー

友舎利弗よ、稀有である。友舎利弗よ。未曾有である。これは尊者舎利弗によりてよく説かれた。(岡野注;マハーコティタ)(101頁)

■無常

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティ(舎衛城)のジュータ林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

そのとき、世尊は、比丘たちを呼んで、「比丘たちよ」と仰せられた。比丘たちは、「大徳よ」と世尊に答えた。

世尊は、つぎのように仰せられた。

「もろもろの比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であればすなわち苦である。苦であればすなわち無我である。無我であればすなわち、それは我所にあらず、それは我にあらずと、そのように正しい智慧をもって、あるがままに感ずるがよい。

受(感覚)は……。

想(表象)は……。

行(意志)は……。

識(意識)は無常である。無常であればすなわち苦である。苦であればすなわち無我である。むがであればすなわち、それは我所にあれざ、それは我体にあらずと、

そのように正しい智慧をもって、あるがままに感ずるがよいのである。(110~111頁)

■年取って出家した弟子だということででしたが、羅陀(ラーダ)というのが、大徳よ、苦、苦というが、苦というのは何でございますかといって聞いておりました。そのときにお釈迦さまは、いまのような形で苦をちゃんと説いておられます。それでも羅陀はどうもぴったりこなかったのかもしれないと思うのですが、その羅陀がどこかでまた聞いておるのですよ。舎利弗に聞いておるのです。舎利弗は、苦とはいったい何かといわれまして、ずばりと三つの項目を挙げて答えております。前にちょっと申したことがあるのですが、それはまず第一番に苦苦ですね。というのを挙げております。これはテロップがございませんから申し上げますと、苦しいから苦だというのですね。(増谷)(116頁)

■おなかがすいた、ここが痛いというのもいらいらしますよね。あるいは耐えられないということになるわけです。これを苦というのはよくわかる。それから第二番目に壊苦(えく)というのが出てまいります。いまのことばで申しますと、壊れていく苦ですね。(増谷)(116頁)

■よき状態から転落していく苦でございますね。第三番目に、これが大事だと思うのですが、不思議な苦が出てくるのです。それは行苦というものです。この行というのは意志や何かではございません。ここは全然違う。サンサーラ、あのことばなのでございまして、ここの行というのは移ろふということですね。いっさいがうつろふ、無常であることですね。無常であることが苦であると、こういっておりますね。(増谷)(116~117頁)

■無我というのは、これも漢訳のことばでございますけれども、どう読んだって「無我」は「我を無くする」とは読めないと思いますね。「我無し」ですね。我無しというのは何かというと、それは我所なし、我体なしだということだとお釈迦さまはいつも繰り返し繰り返し言っておられるところですね。(増谷)(120~121頁)

■無我と我

さればアーナンダよ、なんじらはここに自己を洲とし、自己を依り処として、他人を依り処とせず、法を依り処として、他を依り処とせずして住するがよい。(122頁)

■友たちよ、わたしが〝我あり〟というのは、この肉体(色)が我であるというのではない。またこの感覚(受)や意識(識)を指していうのでもない。あるいはそれをはなれてなお別に我があるというのでもない……。

友たちよ、それはたとえば花の香りの如きものである。もし人ありて、弁に香りがあるといったら正しいだろうか。茎に香りがあるといったら正しいだろうか。あるいは蕋(しべ)に香りがあるといっても正しくないであろう。

そこはやはり花に香りがあるといわねばならない。

それと同じく、肉体(色)や、感覚(受)や、意識(識)が我であるというのは正しくない。あるいは、それを離れてなお別に我の本質があるというのも正しくない。わたしは、その統一体において〝我あり〟というのである。(124頁)

■「六所相応」にみる

わたしは汝らのために、一切について語ろうと思う。これを聞くがよい。

比丘たちよ、

一切とは何であろうか。

眼と色とである。耳と声とである。鼻と香りとである。舌と味とである。身と蝕とである。意(こころ)と法である。

これを名づけて、一切というのである。ー

比丘たちよ、

もし人が〝わたしはこの一切を棄てて他の一切を教えよう〟などと、

そのようなことをいう者があるならば、その人はただ言葉を弄しているだけであって、他の人の問いに逢えばもはや答えることもできず、たださらに困るばかりであろう。

それは何の故であろうか。

比丘たちよ、

それはちょうど、見もせず聞きもしたことのない世界について語るようなものだからである。(138頁)

◾️これは仏教の立場を、他のいろいろな宗教的な行者や何かが不思議なことを言う、それと比べまして、仏教における一切はこれだ、これ以上の神秘なこと、空想的なこと、あるいは虚妄なことは仏教にはならないんだという、これがお釈迦さまの宗教の世界で、これをわれわれは昔から「諸法実相」といっております。この世のあるがままの姿をこそ仏教は対象にするのだというのです。(増谷)(139頁)

■「根本五十品」にみる

比丘たちよ、

眼は無常である。およそ無常なるもの、それは苦である。およそ苦なるもの、それは無我である。およそ苦なるもの、それは無我である。およそ無我なるもの、そは〝これわがものにあらず、これわれにあらず、これわが本質にあらず〟と、そのように正しき智恵をもってこれを如実に見るべきである。

耳は無常である……

鼻は無常である……

舌は…………………

以下同じ文章がつづくわけでございます。これは「相応部経典」のなかの「無常・内」と名づけられたお経でございますね。(140~141頁)

◾️比丘たちよ、

色は無常である。およそ無常なるもの、それは苦である。およそ苦なるもの、それは無我である。およそ苦なるもの、それは無我である。およそ無我なるもの、そは〝これわがものにあらず、これわれにあらず、これわが本質にあらず………………

……………………

声は無常である……

舌は無常である……

味は…………………

奈良–これは「無常・外」と名づけられております。いま読みました「外」と、前に読みました「内」とはまったく同じ文章で、ただ違うのは、眼と色がいれかわっているだけでございますね。というのは、眼で見る対象、物でございますね。そうすると、なるほど一切は内と外、つまり眼と物とで縁起している。それがすべてで、無常である、ということでしょうか。(141頁)

■「苦」の問答

それで舎利弗のところに行ってまた聞いておるなどという場合があるのです。そうすると、舎利弗はそれには3つある、苦苦、壊苦(えく)、行苦がそれであると言っておりますね、苦苦というのは、苦が苦しいのですね。苦しいことというと、痛い、ひもじい、寒い、いろいろあります。(144ページ)

■増谷–いちばん思いのままにならないのは何であるかというと、移ろふがゆえにという考え方が仏教には多いようでございますね。行苦が仏教の苦の中心だと、そういうぐあいに考えていきますと、無常なるがゆえに苦なりということが、ズバッとくるんですな。(144頁)

■奈良–三法印ないし四法印ということばがございまして、仏教の旗じるしといいます。そこには諸行無常、諸法無我、一切皆苦という句があるわけですが、これはそうしますと、お釈迦さんの説き方とすれば、順番がかなり狂っていると申しますか、考慮なしにただ並べられているにすぎないということになりますね。やはりお釈迦さんにはまず無常があり、それから苦があり、それから無我があると、はっきりした順番があった……。(145頁)

■耕田

比丘たちよ、陽のいずるにあたっては、まず東の空が明るくなってくる。すなわち、東の空が明るくなるのは、陽ののぼるきざしであり、その先駆である。

比丘たちよ、それと同様に、なんじらが聖なる八支の道を起こすときにも、その先駆があり、そのきざしがある。それは善き友をもつということである。

比丘たちよ、だから善き友をもった比丘は、彼がやがて聖なる八支の道をならい修め、ついに成就するであろうことを、期して俟(ま)つことができるのである。(159頁)

■増谷–「善友」というのは、あとでひょっと気がついてみますると、のちの仏教のなかにもしばしば言及されておりますね。その場合は「ぜんぬ」という穏便でいう読み方をしております。そのほか、すぐれたという意味で「善友」という訳をつけておる場合もありますし、それから「友」ということばが軽いとでも思ったのでしょうか、「知識」という字をあてはめております。「善知識」というのは、じつは「善友」ということばそのものを訳したもので、同じ原語の訳でございますね。(160頁)

■それは、これから実践論に入ってまいりますと、当然申さなければならないだいじなことでございますが、仏教の実践でいちばん根本項目というのは、これは八正道でございますね。それを「聖なる八支の道」、「八支の聖なる道」、それから「八支聖道」とか、そういう言い方がされておるわけであります。それだから仏教の実践というものを言うときには、聖なる八支の道ということば、われわれのことばでは八正道ということばがしょっちゅう使われるわけですね。(増谷)(160頁)

■八正道が成るか成らんか、成るときには、その前兆がちゃんとあるのだ、その前駆があるのだ、それは何かというと、善き友をもつことだ、善き友とともにあることだ、と。(増谷)(161頁)

■「大徳よ、わたしどもが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、すでに聖なる修行のなかばに成就したに同じだと思われます。」

「アーナンダよ、そういう言い方は正しくない。

アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、この聖なる修行のすべてなのである。

アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間とともにある比丘においては、彼が聖なる八支の道を習い修め、ついに成就するであろうことを期して俟(ま)つことができる。

アーナンダよ、これをみてもわかるではないか。人々は、わたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより解脱することができる。病まねばならぬ身にして病いより解脱することができる。また死なねばならぬ身にして死より解脱することができる。

アーナンダよ、このことを考えてみても、善き友をもち、善き仲間とともにあることが、この聖なる修行のすべてであるという意味がわかるではないか。」(162頁)

■増谷–それなんですよね。結局善友がだいじだということは、言いかえますと。精舎の生活がいちばんだいじだということでございますが、あなたは道元禅師の徒でございますが、道元禅師は叢林の生活に徹するということをひじょうにだいじにして説かれておりますね。そこの精神をあなたにお聞きしたいと思って出てきたのでございますが、それとまったく同じだと私思うのでございます。(164頁)

■「正覚涅槃に資せず」

……その故に摩羅迦(マールンクヤ)よ、ここに予によりて説かれざることは、説かれざるがままに授持するがよい。また予によりて説かれしことは、説かれしままに授持するがよい。では摩羅迦よ予によりて説かれざることとは何か。いわく世界は常住なりとは予によりて説かれなかった。また、世界は無常なりとは予によって説かれなかった。……では摩羅迦よ、それらは何故に予によって説かれなかったのであろうか。

摩羅迦よ、実にそれらは、道理の把握に役立たず、正道の実践に役立たず、厭離、離貧、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たぬからである。その故に予はそれらのことを説かないのである。(181~182頁)

■……摩羅迦よ、しからば予によりて説かれたことは何であろうか。いわく〝こは苦なり〟と予は説いた。〝こは苦の原因なり〟と予は説いた。〝こは苦の滅尽なり〟と予は説いた。〝こは苦の滅尽にいたる道なり〟と予は説いた。

では、摩羅迦よ、それらは何故に予によって説かれたのであろうか。

摩羅迦よ、実にそれらは道理の把握をもたらし、正道の実践に基礎をあたえ、厭離、離貧、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立つからである。その故に、予はそれらのことを説いたのである。

摩羅迦よ、その故に、予の説かないことは、説かないままに受持するがよいのである。(182頁)

■増谷–じつは矢のたとえというのは、お釈迦さまの説法をいろいろとみますと、たびたび出てまいりますね。これは明らかにすぐわかりますように、矢のたとえそのものは、ほかのところに出てくるときも、人間にあたってそれが苦であるという形をいつもとっておりますが、それで死にそうになっているときに、なおほかのことを一生懸命夢中になって知りたいというのはおかしいじゃないかと、こう言っておるのでございます。(183頁)

■しかし思想家であるという言い方ではお釈迦さまを覆いつくすこともできない。よくよく考えてみますると、お釈迦さまが思想的なことばかりといたのでは、とてもあのデリケートな問題は一般の人々にはわかってもらえなかったと思う。説法のことに苦労なさいましたときなんかも、実践の問題こそだいじであるというところに注目しておられるところが、お釈迦さまのひじょうにだいじなところではないかと私は思うのです。(増谷)(184頁)

■苦諦ー四苦八苦

増谷–それの漢訳がいいですから、漢訳で申し上げてみますると、まず第一番には愛別離苦でございますね。これは、愛するものに別れねばならんのも苦しいことであるということでございます。第2番めには怨憎(おんぞう)ーいまはエンゾウと読んでもかまわないと思いますが、怨憎会苦、いやなやつに会わねばならんのも苦しいことである、こういうことですな。(186頁)

■それから求不得苦、求めて得ざるも苦なりですね。この世の中は求めて得ざることばかりでございますが。そして略説するに、最後に五陰盛苦(ごおんじょうく)というのが出てまいります。五陰というのは、これは旧訳(くやく)ですね。五蘊(ごうん)ということばでよくいわれているあのことばであります。五蘊ということばで人間存在のすべてをいうことばでありますね。それで五蘊盛苦というと、略説すれば、人間存在はすべて苦がこんなになっているという、そういうことばでございますね。初めが四つで、あとが四つで、合わせて八つなものですから、四苦八苦という。この内容を知らない方でも、四苦八苦ということばはしょちゅうお使いになるわけでございます。(増谷)(186頁)

■滅諦ー苦の滅尽

増谷–それでは第三諦をひとつ読んでいただけますか。

比丘たちよ、苦の滅尽の聖諦とはこれである。

いわく、この渇愛をあますところなく滅尽し、棄て去り、棄て切って、解脱して執着なきに至るのである。(189頁)

■第四諦もある意味においては簡単でございます。

比丘たちよ、苦の滅に至る道の聖諦とはこれである。

いわく、八支の聖道なり。

いわく、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定がそれである。(189頁)

■実践の本体は八正道でどざいます。(増谷)(190頁)

■つまり、先ほどたい伺ったかぎりでは、人間には苦というものがつきまとっている。その苦は人間の渇愛、欲望の高ぶりによって引き起こされているという。こうした発想からスタートしているとすると、やはりこれは一種の欲望論とでも言っていいような感じなのですが……。(奈良)

増谷–四諦八正道、ここにお釈迦さまの説法の全重量がずっとのしかかってきておると思うのです。それほどだいじな説法であるが、その内容を見ると、いま読んでいただきました第一諦は、苦というものの現実、第二諦は、その原因は何か、渇愛だといっております。第三番めは何であるかというと、渇愛滅するとき苦もまた滅する。そして第四番めには八正道とこうくるわけですね。つまり第一諦から第二諦に移り、二諦から三諦に移る。そこは結局人間の欲望の問題が語られておりますね。私は、仏教徒いうのは欲望論ではないか、これを中心にして仏教の実践があるのではないかと、そう思うのです。(増谷)(190~191頁)

■増谷–本能ででしょう。ところが、ひょっと気をつけてみますると、もっと詳しく言わないといかんのですけれども、お釈迦さま自身は、欲望をなくせよとは言っておられないのですよ。渇愛をなくせよと言っておられますね。

奈良–ということは、欲望そのものをなくするのではなくて、欲望の高ぶりといいますか、欲望の燃えさかるものをなくせよということでございますか。

増谷–それです。それでたとえば無欲ということば、あるいは離欲ということばはじつは出てこないのです。何と出てくるかというと、離貪と出てくる。

奈良–むさぼりを離れる。

増谷–ええ。渇愛といったことばは、のちには貧ということばに置きかえられますが、貪りを離れるという形で出てくるのです。(191頁)

■道諦ー教理の実践とは

いままでは、「人間の真実」を釈迦がどういうふうにとらえられ、お説きになってきたのか、いわば「法」というものを中心におきながらいろいろと考えてきたわけでございます。とくに前回におきましては、そうした人間の真実、法を実際の瀬尾かつのうえにどう具現していくかという、実践の問題に焦点をしぼりまして、いりいろとお話を伺ったわけです。前回、問題になりましたのは、「四諦、四つの真理」ということでした。ごく簡単に要約をいたしておきますと、まず、人生、つまり、私どもの毎日の生活のなかには、さまざまな苦しみ、不安、苦悩というものがある。これはもう動かすべからざる真理ではないか、というのが「苦悩ー苦の真理」といわれているものでした。それではその苦はどうして起こるのか、その原因追求の真理が一つございまして、しょせんそれは人間の欲望から起こることである、という結論が「集諦(じったい)ー苦の原因の真理」といわれています。しかし三番めに、人生は苦に満ちているというだけではなくて、その不安、苦悩をほんとうに根本から解決し、克服した境涯があるわけで、それが「滅諦(めつたい)」でありますし、それに到達するには、結局、実践、修行が必要なのであって、それが「道諦」といわれるものである。こういうことを前回見てきたわけですが、今回はその道諦、つまり具体的な実践に焦点をしぼりながら考えてみたいと思うわけでございます。(奈良)(200頁)

■それから、よくよく仏教のものを読んでみますと、少なくともお釈迦さまは、たとえば不思議ということ、あるいは稀有、滅多にないこと、あるいは神通といったようなこと、そういうことはあまりお好みみにならなかったように思われます。それでは、そのような仏教の実践をお釈迦さまが総体的におっしゃる場合に何といわれたかというと、それはやはり中(ちゅう)まんなかでございます。それから「中道」というあのことばで代表せしむべきものではないかと、私はそう思うのでございます。(増谷)(201頁)

■ソーナの問いかけ

ヴァイシャ(吠舎)とあるヴァイシャ、庶民の出でございますけれども、じつは長者の家でございまして、これは初めは若者ですが、この若者はたいへん美男子だったらしくて、ソーナという名前は「黄金」という意味です。注釈ものなんかを見ますと、黄金のような肌をしておったなどということですが、そのころチャンパを併合いたしましたマガダ(摩掲陀)の国王ビンビサーラの目につきまして、経典のことばでいうと、位高き侍者となっておったということです。

ちょうどそういうことになっていたところにお釈迦さまがお悟りに開かれて、伝道をはじめられ、もう一度王舎城に帰ってこられたときに、ビンビサーラがソーナに、こういう方が王舎城に来られたから、ひとつ行って会ってみなさいといって勧められた、というより遣わされたようですね。それでソーナはお会いいたしまして、たちまちお釈迦さまの魅力にとらえられまして出家をしたという、そういう筋でございます。(増谷)(202頁)

■釈尊の答え

「ソーナよ、この道もまたまさにその通りである。あまりに刻苦精進にすぎれば、心たかぶって静かになることを得ない。

だからと云って、精進がゆるやかにすぎると、また懈怠におもむくであろう。

ここでもまた、汝はその中(ちゅう)をとらねばならない」(奈良)(203頁)

■奈良–ソーナが自分でつくった歌のようですが、

われ極度の努力をなせしとき

この世の最高の師にまします仏は

琴をぞ喩えとして

わがために法を説きたまえり。

それよりわれは教えを楽しみ

最高の理(涅槃)を実現せんがため

ただ三昧の境地にあそんで

ついに仏の教えを成就せり。(203頁)

■『如来所説』にみる中道

もろもろの比丘よ、出家したるものは、一つの極端に親しみ近づいてはならない。その二つとは何であろうか。

諸欲のなかにあって、欲の快楽にふけるは卑しむべき凡人ににして聖ならず。道理のないことに執着しているのである。

また、みずからを苦しめて苦をこととするのは、ただ苦しむだけであって聖ではない。

それもまた道理のないことに執着しているのである。

もろもろの比丘よ、如来はこの二つの極端を捨てて中道を悟った。

これは、眼をひらき、智を生じ、寂静を得せしめ、覚悟を与え、正覚にいたらしめ、涅槃におもむかしめる。

もろもろの比丘よ、では如来が中道を悟り、それが眼をひらき、智を生じ、寂静を得せしめ、覚悟を与え、正覚にいたらしめ、涅槃におもむかしめるとは、どのようなことであろうか。

それは八支の聖道である。いわく正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。

もろもろの比丘よ、これが如来の悟り得た中道であって、これが眼をひらき、智を生じ、寂静を得せしめ、覚悟を与え、正覚にいたらしめ、涅槃におもむかしめるのである。(207頁)

■増谷–いまのお釈迦さまのことばのなかに「二つの極端」ということばが出てまいりましたね。二つの極端というと、古い経典のなかでは二辺といっておる。「辺」というのは一番端っこという児でございますね。ここの机は角が少し丸いんですけれども、この机にもこちらの端っこがあり、そして向こうに端っこがあります。物にはすべて両端があるわけですね。その両端はいかんとこう言っておられるんですね。そして物はまんなかのほうに置きなさいという。中というのはもともとそこからとってきたのでございます。(208頁)

■しかもきょうの初めに先生が解説をしてくださいましたあの四諦の第一、第二、第三、そして第四にまいりましたときに、では、苦を滅するための実践の真理は何であるか、それは八正道であるといういうぐあいにずばりと説いておられますね。そうすると、中は中道であり、中道は八正道であり、八正道はそれが道理だということになるわけですね。道理とはまさに仏教の実践そのもの、道でございます。だから、その仏教の道とは何であるかというと、それはずばりと申しまして八正道を行ずることである、というのですね。(増谷)(209頁)

■正思・正語・正業ー身・口・意の三業

しかまず正見というのは何かというと、それは四諦を知ることなのですね。四諦をしらなければいけない。(増谷)(210~211頁)

■奈良–第2番めは「正思」で「出離・無恚(むい)、無害の思い」要するに世俗のさまざまなことをすてる……出離と申しますから出家のことでしょうが……。

増谷–俗世間を脱け出したいというその思い、それから無恚(岡野注;無恚の恚)というのは、おなかのなかの腹立たしさ。

奈良–怒りの意味ですね。

増谷–怒りがないことですね。それから無害、不害とも申します。アヒンサーですね。生きものを害しない、害しようという心がない。そういう出離の思い、無恚の思い、無害の思い、これが正思だというのですね。正しい思いというのはたくさんあるだろうが、これだけは忘れるなといった分析でございます。なんとも頭が下がります。(211頁)

■奈良–つづきまして「正語」これは「虚誑語(こおうご)、離間語、粗悪語、雑穢語を離れること」だとあります。

増谷–ちょっと見たところはむずかしそうなことばでございますが、虚誑語(こおう)はいつわりですね。離間後、これは人と人との間を仲悪くさせるためのことば。

奈良–いまのことばでいえば中傷ですね。

増谷–それから粗悪語、これは乱暴なことばですね。それから雑穢語、きたないことばです。ことばについてお釈迦さまはなかなかおやかましい方であったと思うのでございますが、これだけのことばを離れることというのを正語となさっておられます。(211頁)

■さらにつづきまして第四が「正業」。(増谷)

奈良–正しいおこない、正しい行為という意味かと思いますが、具体的には「殺生、不与取、非梵行を離れること」。

増谷–殺生は生きものを殺すことでございます。いま無害の思いというものもありましたが。それから不与取というのは、与えられざるものを取ることなかれということであうね。それから非梵行というのは、邪淫を離れること、よこしまを離れることでございますね。これを見ておりますと五戒を思い出しますね。五戒はこのほかに不飲酒戒やら何やら入っておるわけでございますが、殺生、不与取、非梵行、これだけをあげて、これが正業あるとおっしゃっております。お釈迦さまはそれでは五戒に足りないじゃないですかなんて言うわけにもまいりません。これはたとえばじゃなくて、これだけはという、それがこのなかに入っていると思うのです。そして、いまの正思、正語、正業、これで人間の三業が正しくされるわけでございますね。

奈良–いわゆる身口意の三業などといいますですね。からだのおこない、口と心ということでしょう。(211~212頁)

■正命・正精進・正念・正定

増谷–つづきまして五番目が「正命」でございます。

奈良–正命とは「正しい出家の法を守って生きること」だ、とあります。

増谷–この「命(みょう)」というのは、生活の仕方、生き方ということでございます。正しい出家の法を守る。在俗の人の場合には、正しい人間の行き方を守ることでございますね。(212頁)

■奈良–つづきまして第七は「正念」。「己の身心を観察して、貪りと憂いを調伏して住すること」。これは正しい「おもい」ということでしょうが、「おもい」といいましても、さきほどの思い考えるの思いとは違って、念ずるほうででございますね。

増谷–心のおきどころといったらどうでしょうね。心のおきどころを正しくすることだと私は思うのです。それに身心を観察して、貪り、憂いといったもののないありようを実現するのでございますね。(212~213頁)

■そして第八番めに「正定」と出てまいります。(増谷)

奈良–「禅定を修して内心平等なる境地にいたること」この「定」は禅定ということでよろしいのでしょうか。

増谷–はい。これはさきほど出てまいりましたことばで申しますと、サマーディ(三昧)、何々三昧というあれですね。あなたのほうのご宗旨では自受用三昧ということばをよくお使いになるでしょう。道元禅師のお好きなことばですね。

奈良–はい。三昧王三昧といいましたり、自受用三昧といいましたり。

増谷–あれは結局この境地をずっと味わっているときの境地でしょう。こまかいことを申しますれば、禅定は第一禅定から第四禅定にいたるまでだんだん上がっていって、そして最後にはという説明がのちの法相分別(ほうそうふんべつ)の人たちまではこまかく説かれておりますが、そこに行き着いたところは何かというと、それは「内心平等」ということばがここに使ってございますね。もはやいっさいの波立のない心境、心の状態を完全にすることですね。その状態は何かというと平等、平等というのはひらたいことですね。そこにはありとあらゆるものが映ってきます。それを道元禅師は海印三昧なんていって、春の海のごとき心持なんかじゃないですか。そこに到達するのが、最後のところでございましょうね。(213頁)

■実践の道ー八正道

増谷–第一には、ずばりと正は中なりですな。これが仏教の正の特徴だと思います。正が中だというのです。だから、八正道がそのまま中道なのですね。そのほかは、いまおっしゃいましたいわゆる常と無常とをとりちがえないようにといったり、あるいは美と醜をとをとりちがえないようにといったり、いろいろな考え方があります。これは転倒せずですね、不転倒ですね。ひっくり返してはだめなんです。そうしたら正ではないわけですね。第一は、端っこにもっていったらそれは正ではないわけです。第二は、ひっくり返してはいかんのですね。それから第三には、仏教のなかで諸法というものは、結局のところ、あるがままのものだという考え方ですね。「万法露露」ということばも道元禅師のことばですね。

奈良–すべてのものがいや応なしにほんとうの姿そのままにあらわれているじゃないかという見方ですね。

増谷–正というのは結局何かというと、それは「諸法実相」なのでしょう。「諸法実相」とはいったい何かというと、万法露露、いっさいのものはあるがままでしかないんだ、と。あるいは万法露露のことを万法不覆と申しますが、万法はけっしてみずからを隠してはいないというあの考え方なのですね。私どもはここらあたりで何が正しいのか考えてみてもいいのではないかと思いますが、お釈迦さまが、あるいは仏教が説いている正というのは、結局これだと私は考えております。(214~215頁)

■『大般涅槃経』の仏伝

アーナンダよ、わたしは老い衰えた。老齢すでに八十におよんだ。たとえば、アーナンダよ、古い車は革紐のたすけによってやっと動くことができるが、思うに、わたしの身軀もまた、革紐のたすけによって、やっと動いているようなものである。(250頁)

■さればアーナンダよ、みずからを洲となし、みずからを依処となし、他人を依処とせず、法を洲となし、法を依処となして、他を依処とせずして住するがよい。

奈良–よく、自燈明、法燈明といわれている句です。

増谷–あるいは自帰依、法帰依と申しますね。

(2019年8月16日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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