■「抽象芸術という言葉は意味がない。いつでも何ものかから出発し、その後に現実的な外観をとり去るだけなのだ。しかし心配無用だ。実体のイデーは絶対に消すことの出来ない痕跡を残すから。それは芸術家を示唆して彼のイデーを覚醒させ、エモーションを活動させるのだ。イデーとエモーションは決定的に作品におしこめられて、どんなことをしても絶対に画面から脱れることは出来ない。それらは全面的に場所を占めているのである。たとえまったく判断出来ないほど、表面に現れていなくとも。
好むと好まざるとにかかわらず、人間は自然の道具である。自然の性質と相貌を強要されている。(ピカソ)」(39㌻)
■「私はものと同じように 絵画を扱う。私は窓から外を見るように窓を描く。もし開いているのが気に食わなかったら、実際に部屋でやるようにカーテンを引いてしめてしまうのだ。
実生活のように、じかに絵に処すべきである。もちろん絵には致し方のない絵そのものの約束があり、それを織らなければならないが。(ピカソ)」(40㌻)
■「私はペシミストではない。私は芸術を嫌っていない。なぜなら私は自分の全部の時間をそれにさかないでは生きていられないからである。私は生命の目的のすべてとしてそれを愛する。芸術に関して私のするすべては大きな歓びである。(ピカソ)」(47㌻)
■十九世紀芸術は素朴な科学主義に影響されて、外的世界のみを現実だと思い込み、内的現実の表現を抹殺した。印象派でさえこの観念の虜であった。(78㌻)
■セザンヌがいかに画面を合理化し、フォーヴィストたちが自由な表現を試みたとしても、彼らは結局、対象である自然の約束からは逃れ得なかった。何らかの形において客体を再現し、造形的な立場から自然をぎりぎりのところまで歪曲する、つまりデフォルマシオン(セザンヌ自身の言葉で言えばレアリザシオン)を試みたにとどまる。ところで、一見それと混同されるピカソの立体派芸術は、デフォルマシオンではなく、実はフォルマシオン(成形)なのである。(88㌻)
『青春ピカソ』岡本太郎著、新潮文庫 2007年3月9日