岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ 著 今枝由郎 訳 岩波文庫

投稿日:2020-11-30 更新日:

『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ 著 今枝由郎 訳 岩波文庫

第1章 仏教的な心のあり方

■「カーラーマたちよ、あなたたちが疑い、戸惑うのは当然である。なぜなら、あなたたちは疑わしい事柄に疑いを抱いたのであるから、カーラーマたちよ、伝聞、伝統、風雪に惑わされてはならない。聖典の権威、単なる論理や推理、外観、思弁、うわべ上の可能性、「これが私たちの師である」といった考えに惑わされてはならない。そうではなく、カーラーマたちよ、あなたたちが自分自身で、忌まわしく、間違っており、悪いと判断したならば、それを棄てなさい。あなたたちが自分自身で、正しく、よいと判断したならば、それに従いなさい」

ブッダはさらに、修行者は、自らが師事する人の真価を十分に得心するために、ブッダ自身のことさえも吟味すべきである、と言っている。(29頁)

■すべての悪の根源は無知であり、誤解である。疑問、戸惑い、ためらいがある限り、進歩できないのは否定できない事実である。そしてまた、ものごとが理解できず、明晰に見えない限り、疑問が残るのは当然である。それゆえに本当に進歩するためには、疑問をなくすことが絶対に不可欠である。そして疑問をなくすためには、ものごとを明晰に見ることが必要である。(30頁)

■ブッダはたえず疑問をなくすことを心がけた。死の直前になっても、ブッダは弟子たちに向かって、あとになって疑問が晴らせなかったことを悔いることがないように、今まで自分が教えたことに関して何か疑問があるかどうかを質(ただ)した。しかし、弟子たちは黙して答えなかった。そのときのブッダのことばは感動的である。

「弟子たちよ、そなたたちはもしかしたら、師への敬意ゆえに質問しないのかもしれない。もしそうなら、それはよくないことだ。友人に問いかけるように質問するがいい」(31頁)

■ニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ・マハーヴィーラ)はブッダと同時代の人であったが、カルマに関してブッダと意見を異にしていた。あるとき彼は、弟子の一人で裕福な在家信者であったウパーリをナーランダにいたブッダの許に使わし、論戦を挑ませた。ところがまったく予想に反して、論戦の末にウパーリはブッダの意見が正しく、自分の師の説が間違っていることを確信した。そこで彼は、ブッダに弟子入りを願い出た。ところがブッダは「あなたのように知られた人にとって、慎重に検討することはいいことだから」と言って、急いで決断せず、もう一度考え直すように促した。ウパーリが再度弟子入りを乞うと、ブッダは彼に、今まで師事した先生たちを従来通り尊敬し、支持するように促した。(31~32頁)

■彼は真実を見たのである。薬が良ければ、病は治る。薬を調合した人が誰であるか、薬がどこからもたらされたかを知る必要はないのである。(40頁)

■信仰は、ものごとが見えていない――「見える」ということばのすべての意味において――場合に生じるものである。ものごとが見えた瞬間、信仰はなくなる。もし私が「私は掌の中に宝石を隠しもっている」と言ったら、あなたはそれが見えない以上、私が言ったことが本当かどうか、私のことばを信じるかどうか、という問題が生じる。しかし、私が掌を開き宝石を見せれば、あなたはそれを自分で見ることになり、信じるかどうかという問題は起こらない。それゆえに、古い経典には、こう記してある。

「掌の中の宝石(あるいはミロバラン〔訶梨勒、かりろく〕の果実)を見るように、真実を見よ」(41~42頁)

■ 訳注(10)

◯アラハント――欲望、憎しみ、悪意、無知、傲慢、うぬぼれといった汚れや不純さから解放された人。ニルヴァーナに至る第四段階すなわち最終段階に達した人で、叡智、慈悲といった高貴な資質に満ちたひと。〔訳注。漢訳仏典では阿羅漢〕ブックサーティは、アナガーミ(後戻りしない人)と呼ばれる第三段階に達した人であった。第二段階はサカダーガーミ(一度後戻りする人)、第一段階はソーターバンナ(修行の過程に入った人)と呼ばれる。(41頁)

■「汚れと不純さの消滅は、ものごとを知り、ものごとが見える人にとってのみ可能なことであり、ものごとを知らず、ものごとが見えない人には不可能である」

常に問題なのは、知ることと見ることであり、信じることではない。ブッダの教えは、「エーヒ・バッシカ」、すなわち「来て、見るように」という誘いであり、「来て、信じるように」ということではない。

経典のいたるところで、真理の実現は「汚れることなく、錆びることがないダルマの日が生じた」、「彼はダルマを見、ダルマに到達し、疑念を乗り超え、ためらうことがない」、「彼は正しい叡智でもって、ものごとをありのままに見る」などと表現されている。ブッダは自らの「目覚め」に関して、「目が生まれ、知識が生まれ、叡智が生まれ、知性が生まれた」と述べている。肝心なのは、知識あるいは叡智を通じて見ることであり、信心を通じて信じることではない。(42~43頁)

■「信仰のある人が、〈これは私の信仰です〉と述べる限りにおいて、彼は真実を保持している。しかし、そこから一歩進んで〈これのみが真実であり、他はすべて偽りである〉と断言することはできない。

言い換えれば、人は自分の好きなことを信じる権利があり、〈私はこう信じます〉と述べて差しさわりはない。その限りにおいて、彼は真実を尊重している。しかし自らの信仰から、自分が信じていることのみが真実で、他のすべては偽りであると主張することは許されない。

ある一つの見解に固執し、他の見解を見下すこと、賢者はそれを囚われと呼ぶ」(岡野注;全元論では当然)(45頁)

■「弟子たちよ、この見解は純粋で明晰である。しかしあなたたちがそれに固執し、思い入れ、尊び、拘(こだわ)るならば、教えは流れを渡るために乗る筏(いかだ)に似たものであり、保有するものではない、ということを理解していない」

教えは流れを渡るために必要な筏のようなものであり、保持して背中に負い運ぶものではない、というこの有名な譬えを、ブッダはいたるところで説明している。(46頁)

■弟子たちよ、私の教えは筏と同じである。それは、流れを渡るためのもので、持ち歩くためのものではない。あなたがたは、私の教えは筏に似たものであると理解したならば、よき教えすら棄てなければならない。ましてや悪しき教えを棄てるのは、言うまでもないことである」(47頁)

■ブッダは智的好奇心を満足させるために説いたのではない。ブッダは実践を教える師であり、人を平安と幸福に導く上で役立つ教えのみを説いた。(48頁)

■ブッダは、単なる推測にしか過ぎない想像上の不毛な形而上学的問題を論議する気はなかった。ブッダはそうしたテーマを「思想の荒野」と見なした。弟子の中には、ブッダのこうした態度を喜ばなかった者たちもいた。その一人であるマールンキャプッタ(岡野注:マールンクヤ)は、よく知られた古典的形而上学的問題に質問し、回答を求めた。

「ある日、午後の瞑想を終えてから、マールンキャプッタはブッダの許へ行き、師に挨拶をして、その傍に坐り尋ねた。

「師よ、私は瞑想中に、以下の疑問を抱きました。

⑴宇宙は永遠か、⑵否か、

⑶宇宙は有限か、⑷無限か、

⑸魂と肉体は同一か、⑹否か、

⑺ブッダは死後、存在するか、⑻否か、

⑼ブッダは死後、(同時に)存在もし、存在もしないか、

⑽それともブッダは死後、(同時に)存在もせず、存在しないことこともしないか。

◯訳注(12)

⑼、⑽は肯定・否定が同時に成立する、一般の論理上は有り得ない事であり、インド的な思弁法。(岡野注;アンティノミー)

しかしブッダは、私の疑問に答えて下さらず、なおざりにされます。私は、師の態度が意に満ちませんし、よいとは思いません。ブッダがこれらの問題を説明して下さるのなら、私は師の許で修行を続けます。説明していただけないのなら、私は別な師を求めて去ります。もし師が、宇宙は永遠である、とご存じなら、私にそう説明して下さい。もし師が、宇宙は永遠ではない、とご存じなら、私にそうおっしゃって下さい。もし師が、宇宙は永遠なのかそうでないのかをご存じないのなら、〈私は知らない、私にはわからない〉とはっきりとおっしゃって下さい」」

マールンキャプッタに対して、ブッダは以下のように答えたが、この答えは形而上学的問題を前に、貴重な時間を無駄に費やし、不必要に心の静逸を乱している何百万という現代人にとってきわめて有益である。

「マールンキャプッタよ、私は今までに「私の許で修行をしなさい。こうした問題を説明してあげよう」と言ったことがあるか」

「師よ、ありません」

「ではマールンキャプッタよ、そなたは今までに「ブッダよ、私は師の許で修行をします。師よ、こうした問題を説明して下さい」と言ったことがあるか」

「師よ、ありません」

「マールンキャプッタよ、今でも私は「私の許で修行をしなさい。こうした問題を説明してあげよう」とは言わない。そなたも「ブッダよ、私は師の許で修行をします。師よ、こうした問題を説明して下さい」と私には言っていない。だとすれば、誰が誰を拒否するのか。

マールンキャプッタよ、もし誰かが「私は、ブッダがこうした問題を説明して下さらなければ、ブッダの許で修行しません」と言うならば、彼は問題を説明してもらえずに死ぬことになるだろう」

毒矢の譬え

「マールンキャプッタよ、ここに毒矢に射られた一人の人がいるとしよう。そのとき、彼の友だちや親族が彼を医者の許に連れて行った。ところが彼が「私を射ったのは誰か? カーストは何で、どんな家系で、身長はどれくらいか? どんな弓と弦で射ったのか、矢羽根、矢尻はどんなものか? それがわからない間は、この矢を抜いてはならない」と言い張ったら、どうなるだろう。彼はその答えを得る前に死んでしまうだろう。

マールンキャプッタよ、それと同じく、もしある人が「私は、ブッダが宇宙は永遠か否か、といった問題を説明して下さるまでは、ブッダの許で修行しません」と言ったら、彼は問題の解決を得る前に死ぬであろう」

そこでブッダはマールンキャプッタに、そうした問題は修行とは無関係であることを説明した。

「宇宙が有限であるか無限であるかという問題にかかわらず、人生には病、老い、死、悲しみ、愁い、痛み、失望といった苦しみがある。私が教えているのは、この生におけるそうした苦しみの「消滅」である。

それゆえにマールンキャプッタよ、私が説明したことは説明されたこととして、説明しなかったことは説明されなかったこととして受け止めるがよい。

マールンキャプッタよ、私は、宇宙が有限か無限か、といった問題は説明しなかった。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明しなかったのかというと、それは無益であり、修行に関わる本質的問題ではなく、人生における苦しみの消滅に繫がらないからである。それゆえに私は説明しなかったのである」

四聖諦

「ではマールンキャプッタよ、私は何を説明したのか。私は、

⑴ドゥッカの本質

⑵ドゥッカの生起

⑶ドゥッカの消滅

⑷ドゥッカの消滅に至る道

を説明した。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明したのかというと、それは有益であり、修行に本質的に関わる問題であり、人生における苦しみの消滅に繫がるからである。私はそれゆえに説明したのである」(49~54頁)

第2章 第一聖諦 ドゥッカの本質

■四つの真理(四聖諦、ししょうたい)(55頁)

■四つの真理とは、

⑴ドゥッカの本質

⑵ドゥッカの生起

⑶ドゥッカの消滅

⑷ドゥッカの消滅に至る道

である。(55~56頁)

■ブッダは、人類の病いに対する賢明にして科学的な医者である。(57頁)

■確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。(58頁)

■同じく五部経典の一つである中部経典の一つのスッタ〔経〕では、瞑想の精神的幸せを賞賛したあと、ブッダは、

「それらは無常で、ドゥッカで、移ろうものである」

と述べている。ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることである。普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのである。(59頁)

■ドゥッカの三面

ドゥッカの概念は、

⑴普通の意味での苦しみ

⑵ものごとの移ろいによる苦しみ

⑶条件付けられた生起としての苦しみ

の三面から考察することができる。

老い、病い、死、嫌な人やものごとの出会い、愛しい人や楽しいこととの別れ、欲しい物が入手できないこと、悲痛、悲嘆、心痛といった、人生におけるあらゆる種類の苦しみは、普通の意味での苦しみである。

人生における幸福観、幸せな境遇は、永遠ではなく、永続しない。それらは、遅かれ早かれ移ろう。そしてものごとが移ろうときに、痛み、苦しみ、不幸が生じる。この浮き沈みは、移ろいによって生じる苦しみとしてドゥッカに含まれる。

以上の二種類の苦しみは容易に理解でき、誰にも異論がないだろう。第一の真理である「ドゥッカの本質」のこの点は容易に理解できるので、一般によく知られている。それは、誰しもが日常生活で体験することである。(62頁)

■「条件付けられた生起(2)」としての苦しみ

しかし、第三の「条件付けられた生起」としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。

仏教的観点からすれば、私たちが一般に存在、個人あるいは「私」と見なしているものは、たえず移ろい変化する肉体的、精神的エネルギーの結合にしか過ぎず、それらは五集合要素から構成されている。そしてブッダは、

「これら執着の五集合要素はドゥッカである」

と述べている。また他の箇所では、「ドゥッカとは五集合要素はである」とはっきりと定義している。

「弟子たちよ、ドゥッカとは何か。それは執着の五集合要素はである」

ドゥッカと五集合要素は二つの異なるものでなく、五集合要素そのものがドゥッカである、とはっきり理解する必要がある。

◯訳注(2)

漢訳仏典では「縁起」。本訳書では、現在の日本語の縁起ということばに付随している概念を抜きに、著者の論考を明らかにするために、あえてこのことばを用いなかった。(63~64頁)

■意識は対象を認知しない、という点をはっきり理解せねばならない。それは、対象が存在するということに気付く、感知の一種に過ぎない。目が色――たとえば青――と接触すると、視覚意識が生じるが、それは単に色がそこに存在するということに気付くだけで、青であるとは認知しない。それが青であると認知するのは、識別作用(三番目の集合要素)である。「視覚意識」は、一般にいう「見る」ということを意味する哲学用語である。「見る」ことは、識別することではない。他(聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の意識に関しても同様である。(68~69頁)

■ブッダは、意識は物質、感覚、識別、意志に依存しているのであって、それらから独立しては存在しえない、と明白に述べている。

「意識は、物質を手段とし、物質を対象とし、物質に依拠して生起し、喜びを求めて成長し、増大し、発展する。物質の代わりに、感覚、認識、意志に関しても同様である。

ある人が、「物質、感覚、識別、意志と無関係に、意識が生起し、去来し、成長し、増大し、発展するのをお見せしよう」と言ったとしたら、彼は何か実在しないもののことを語っているのである」(72頁)

■すべては移ろう

要するに、存在するのは五つの集合要素である。私たちが存在、個人あるいは「私」と呼んであるのは、この五つの集合要素の結合に対する便宜上の名称に過ぎない。それらはすべて無常であり、絶えず移ろうものである。「無常なものはすべてドゥッカである」というのが、「要するに、執着の五集合要素はドゥッカである」というブッダのことばの真意である。二つの連続する瞬間を通じて、同一であり続けるものは何一つとしてない。すべては、一瞬ごとに生起し、一瞬ごとに消滅し、流転を続けている。ブッダはラッタオア=ラにこう言っている。

「バラモンよ、それはあたかも、すべてを流し去り、遠くまで流れゆく山間の急流のようなものである。流れが止むことは、一瞬、一時、一秒たりともない。流れ続けるだけである。

バラモンよ、人の命はこの山間の流れのようなものである。世間は絶えず流動し、無常である(注6)」

因果律に従って、一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その過程で、変わらないものは何一つとしてない。そのなかで、持続的「自己」、「個人」、あるいは「私」と呼べるようなものは存在しない。物質、感覚、識別、意志、意識の中で、一つとして本当に「私」と呼びうるものがないというのは、誰もが合意するであろう。ところが、相互に依存し合うこれら五つの肉体的、心的集合要素が、肉体的、心的機械として結合して機能するとき、「私」という概念が生まれる。しかし、それは間違った考えであり、四番目の集合要素の意志の項で言及した五二の意図的行為の一つに過ぎない。(72~74頁)

◯訳注(6)

ブッダは、この見解をアラカという名の、欲望から解放された古(いにしえ)の師に帰している。〔ギリシャの思想家〕ヘラクレイトス(紀元前五世紀)〔訳注。最新の研究では、紀元前540年頃ー480年頃とされる〕は、万物は流転すると考え、「人は同じ河に二度と入ることはできない。なぜなら、その水はたえず新しいから」という有名なことばを残しているが、両者を比較してみるのは興味深いことである(73頁)

■一般に「存在」と呼ばれる、この五つの集合要素の全体はドゥッカそのものである。ドゥッカを体験するするこれら五集合要素の背後には、「存在」も「私」もない。ブッダゴーサはこう述べている。

「苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない。

行為は存在するが、行為主体は存在しない」

移ろいの背後には、自らは移ろうことがない移ろいの主体はいない。ただ単に移ろいがあるだけである。人生は移ろうというのは間違っていて、人生は移ろいそのものである。人生と移ろいは二つの異なったものではない。言い換えれば、思考の背後に思考者はいない。思考そのものが思考者である。仮に思考を取り除いてみても、その背後に思考者は見出せない。仏教的思考は、デカルトの「われ思う。ゆえにわれあり」という立場とはまっこうから対立するものであることがわかる。(74~75頁)

■生命には始まりも終わりもない

さてここで、生命には始まりがあるかどうかという問題を検討してみよう。ブッダの教えによれば、生きものの生命の始まりは考えられない。「神」による生命の創造を信じる人たちにとって、この考えは信じられないであろう。しかしもし「神の信者」に「神の始まりは何か?」と尋ねたら、彼はためらうことなく「神に始まりはない」と答え、自分の答えに驚きはしない。

ブッダはこう言っている。

「弟子たちよ、この輪廻の周期には目に見える終わりがない。そして、この無知に包まれ、渇望の足枷に束縛された彷徨も、いつから始まったのかわからない」

輪廻の最大の原因である無知に関して、ブッダはさらにこう述べている。

「無知の始まりは、この時点以前には無知はなかったというように理解されるものではない」

そうしてみると、この時点以前には生命はなかったということは不可能である。

突き詰めると、これがドゥッカと、これがの真理の意味である。この第一の真理を明確に理解することは、非常に大切である。なぜなら、ブッダが言っているように、

「ドゥッカ「を見るものは、ドゥッカの生起を見、ドゥッカの消滅を見、ドゥッカの消滅に至る道を見る」

からである。(74~76頁)

■仏教徒は幸せ

ここから言えることは、仏教徒にとっては人生はけっして憂鬱なものでも、悲痛なものでもない。ある人たちがそう思っているのは、誤解である。実際はその逆で、本当の仏教徒ほど幸せな存在はない。仏教徒には、恐れも不安もない。仏教徒は、ものごとをあるがままに見るがゆえに、どんなときでも穏やかで、安らかで、変化や災害によって動揺し、うろたえることがない。ブッダが、憂鬱、あるいは沈鬱だったことはけっしてない。同時代人も「ブッダはたえず微笑みを湛えていた」と伝えている。仏教絵画や彫刻でも、ブッダはいつも幸せで、静逸で、充足し、慈しみ深く表現されており、苦しみ、不安、苦痛の片鱗さえも窺えない(注10)。仏教芸術、建築、寺院には、陰鬱、悲嘆といった趣がなく、いつも平安で静逸な雰囲気が醸し出されている。

◯訳注(10)

ガンダーラおよび中国の福建でつくられた各々一体の仏像では、ゴータマは肋骨が露わになり憔悴した苦行者の姿をしている。これは、彼が「目覚め」に至る前に、激しい苦行を行っていたときのものであり、ブッダとなってからの彼はこうした苦行を弾劾した。

確かに人生には苦しみがあるが、仏教徒はそれに対して陰鬱になったり、立腹したり、いらだってはならない。仏教的観点からして、人生における主要な悪の一つは、嫌悪あるいは憎しみである。嫌悪は「他の生きものに対する悪意、苦しみおよび苦しみに対する邪な気持であり、不幸および悪事を生む原因になる」と定義されている。それゆえに、苦しみに対していらだつことは間違っている。苦しみに対していらだったり、立腹しても、苦しみはなくならない。その逆に、さらに問題をふやし、すでに不愉快な状況をいっそう深刻なものにし、悪化させる。必要なのは、怒ったりいらだったりすることではなく、苦しみという問題を正しく理解することである。苦しみがいかに生起し、それをいかにして取り除くかを見極め、心棒強く、賢く、決意をもって、努力することである。

初期の仏教経典に『テーラーガーター〔仏弟子の告白〕』と『テーリーガーター〔尼僧の告白〕』という二つの作品があるが、それらはブッダの教えによって人生に平安と幸福を見出した男性・女性の弟子たちによる、その喜びの表現をまとめたものである。コーサラ国王はかってブッダに向かって、他の教師の弟子たちが憔悴し、粗野で、血の気がなく、やせ細り、魅力がないのとは違い、ブッダの弟子たちは「楽しく元気で喜びに沸き、意気揚々として精神生活を喜び、健やかで、不安がなく、落ち着き、心安らかで、「鹿の心」で生きている、すなわち心軽やかである」と述べた。王はさらに、「こうした尊敬すべき弟子たちが心健やかにいるのは、必ずやブッダの偉大なる教えの精髄を理解したがゆえであると思う」と述べている。

仏教は、心が陰鬱で、沈痛で、後悔しているような重苦しい態度は真理の実現にとっての障害と見なし、その対極の立場を採る。仏教では、喜びはニルヴァーナの実現のために養育すべき必須な七つの資質、すなわち「目覚めの七要素」の一つと見なされているが、これはけっして偶然ではなく興味深い。(76~79頁)

第3章 第二聖諦 ドゥッカの生起

■それゆえに、渇望はドゥッカの生起の第一の、あるいは惟一の原因ではない。しかしそれはもっとも明白な直接的原因であり、主因あるいは支配的要因である。それゆえに、いくつかのパーリ語原典におけるドゥッカの生起の定義には、渇望が第一に挙げられているが、それ以外の汚れたもの、不浄なものも記されている。ここでは紙幅の制約から、この渇望は、主として無知から来る誤った自己の考えに起因していると述べるだけで十分である。(82頁)

■ここでいう渇望は、単に感覚的喜び、富、権力に対する欲望、あるいは執着を指すだけでなく、アイデア、考え、意見、理論、概念、信仰に対する欲望、あるいは執着を意味する。ブッダの分析によれば、この世における問題や係争は、家庭内の小さな個人的喧嘩から、国家間の大戦争に至るまで、すべては利己的な渇望から生じる。この観点からすれば、経済的、政治的、社会的問題はすべて、この利己的な渇望に根付いている。国際間の係争の解決や戦争と平和に関して、経済的、政治的な事柄だけを問題にする政治家は、表面的であり、問題の核心に深く踏み込めない。ブッダはラッタパーラにこう説いている。

「世界は物質に欠乏し、物質を欲しがり、渇望の奴隷と化している」(82~83頁)

■生存および生存の継続

生存および生存の継続には、原因あるいは条件という意味で四つの「栄養素」がある。

⑴普通の物質的な食べ物

⑵(心を含めた)感覚器官と外的世界との接触

⑶意識

⑷心的意図あるいは意志

である。

このうちの最後の心的意図が、生き、存在し、再存在し、継続し、増大しようとする意志である。それが、善悪の行為を行なうことにより、存在、継続の根源を生み出す。それが意図である。先に見たように、ブッダ自身『意図はカルマである」と定義している。今しがた触れた心的意図に関して、ブッダは「心的意図の栄養素を理解すれば、渇望の三つのかたちが理解できる」と述べている。こうして、渇望、意図、心的意図、カルマは同一のものを指している。それは、欲望であり、生存し、存在し、再存在し、増大し、一層蓄積しようという意志である。これが、ドゥッカの生起の原因であり、存在を構成する五集合要素の一つである意志のうちに含まれる。(83~84頁)

■それゆえに、ドゥッカの原因、芽は、ドゥッカ自身の中にあり、外にあるのではないということを、はっきりと、注意深く理解し、認識しなければならない。同様に、ドゥッカの消滅、破壊の原因、芽も同じくドゥッカのうちにあり、外にあるのではない、ということをよく認識する必要がある。これが「生起する性質のものは、消滅する性質のものである」という、有名なパーリ語定言の意味である。存在、ものごと、システムは、うちに生起の性質をもっていれば、同様にそのうちに消滅、破壊の原因、芽をもっている。こうしてドゥッカ(すなわち五集合要素)は、自らのうちに生起の性質をもっており、同じく自らのうちに消滅の性質をもっている。(84~85頁)

■カルマは、行為行ないを意味する。しかし仏教のカルマの理論では、カルマには特別の意味がある。それは、すべての行為を指すものではなく、意図的行為のみを指す。また多くの人は、カルマをその結果を意味することばとして用いているが、それは誤りである。仏教ではカルマは、けっしてその結果を意味しない。カルマの結果は、カルマの果実あるいは結実として〔カルマそのものとは区別して〕認識される。(85~86頁)

■私たちが生と呼ぶものは、繰り返し述べてきたように、肉体的、心的エネルギーのコンビネーション、五集合要素のコンビネーションである。これらは絶えず変化しており、連続する二つの瞬間において同一のままであることはない。毎瞬間、生まれ、死ぬ。

「弟子たちよ、集合要素が生起し、朽ち、死ぬとき、あなたがたは生まれ、朽ち、死ぬ」

こうして、この今の生においても、各瞬間ごとに私たちは生まれ死んでいるが、それでも私たちは継続する。自己とか魂といった永続的、不変的実体なしで、私たちが今この生を継続しているということが理解できたなら、こうした力が、身体の機能が停止したあとも、あとに残された自己や魂なしで継続できる、ということが理解できるだろう。(88頁)

■死後のエネルギーの継続

この肉体的身体が機能しなくなっても、それとともにエネルギーは死なない。それは何か別なかたち、姿をとって継続するが、それが再生と呼ばれる。子供の肉体的、心的、知的能力は幼くて弱いが、成人となる可能性を秘めている。存在を継続する肉体的、心的エネルギーは、自らのうちに新たなかたちをとり、次第に成長し、成熟する力を内在している。

永続的、不変的実体が存在しない以上、ある瞬間から次の瞬間に継続するものは何もない。それゆえに、ある生から次の生へと生まれまわる永続的、不変的なものは何もないことは明らかかである。途切れなく継続するのは連鎖であるが、それは一瞬一瞬変化する。連鎖とは、実際のところ運動に他ならない。それは夜通し燃え続ける炎のようなものである。それは、夜を通して同じものでもなく、また別なものでもない。子供は六〇歳にまで成長する。六〇歳の大人は、六〇年前の子供と同じではないが、かといって別人でもない。同様に、ここで死に、別なところに生まれかわった人の場合、同一人でもなければ、別人でもない。それは、同じ連鎖の継続である。死と生の区別は、思考瞬間の違いだけである。この生の最後の思考瞬間が、いわゆる次の生の最初の思考瞬間を条件付ける。この生においても、ある思考瞬間が次の思考瞬間を条件付ける。それゆえに、仏教的観点からすれば、死後の生は、神秘でもなんでもない。仏教徒はこの問題にけっして煩わされることがない。

この存在しよう、生成しようという渇望がある限り、継続の輪(すなわち輪廻)は続く、それが止むのは、現実、真理、ニルヴァーナを見る叡智によって、その原動力である渇望が断たれるときである。((89~90頁)

第4章 第三聖諦 ドゥッカの消滅

■第三の聖諦は、ドゥッカの継続から解放され、自由になることができる、という真理である。これは「ドゥッカの消滅すなわちニルヴァーナの真理」として知られる。

ドゥッカを完全に消滅させるには、その主な根源――すなわち、先に見られたように渇望――を消滅させねばならない。それゆえに、ニルヴァーナはまた「渇望の消滅」とも呼ばれる。(91頁)

■「それは、かの渇望の完全な消滅である。それを諦め、放棄し、それから解放され、それに囚われないことである」

「あらゆる条件付けられたものの沈静、あらゆる不浄の放棄、渇望の消滅、無執着、停止、ニルヴァーナ」

「ビックたちよ、絶対とは何か。ビックたちよ、それは欲望の消滅、憎しみの消滅、幻惑の消滅である。ビックよ、これが絶対と呼ばれるものである」

「ラーダよ、渇望の消滅がニルヴァーナである」

「ビックたちよ、条件付けられたものであれ、条件付けられていないものであれ、すべてのなかで最高なのは、無執著である。すなわち、うぬぼれからの自由、渇望の破壊、執着の根絶、継続の切断、渇望の消滅、無執著、停止、それがである」

ある修行者からの「ニルヴァーナとは何か」という単刀直入な質問に対し、ブッダの一番弟子であるシャーリプトラは、先に見た絶対に関するブッダの答えと同じく「欲望の消滅、憎しみの消滅、幻惑の消滅である」と答えている。(94頁)

■このように、ニルヴァーナは否定的なことばで表現されるので、多くの人はは否定的なものであり、自己否定だと誤解している。しかし、そもそも否定すべき自己そのものがないのであるから、はけっして自己否定ではない。否定すべきものがあるとすれば、それは自己に関する誤った概念、幻覚である。

ニルヴァーナが肯定的であるとか、否定的であるとか言うのは正しくない。肯定的、否定的というのは相対的なものであり、二元論の世界での話である。こうした用語は、二元論、相対性を超えたニルヴァーナ、絶対真理には適用できない。(96頁)

■自由が否定的だと言う者は、一人もいないだろう。しかし自由にも否定的側面がある。自由はたえず何か邪魔なもの、悪魔的なもの、否定的なものからの解放である。しかし自由は否定的ではない。それゆえに、ニルヴァーナ、絶対自由を意味するムッティあるいはヴィムッティは、悪からの自由であり、渇望、憎しみ、無知からの自由、二元性、相対性、時間、空間からの自由である。(97頁)

■他の箇所では、ブッダはニルヴァーナの代りにまぎれもなく真理ということばを用いている。

「私はあなたたちに真理および真理に至る道を教えよう」

この場合、真理とは確実にニルヴァーナを指している(岡野注;真・善・美、全存在)。

では、絶対真理とは何か? 仏教でいう絶対真理とは、世界には絶対的なものはなく、変わることなく、永続する絶対的な自己、魂、あるいはアートマンといったものは内にも外にもない、ということである。これが絶対真理である。否定的真理といった一般的表現があるが、真理はけっして否定的ではない。ものごとをあるがままに見る、というこの真理は、渇望の消滅であり、ドゥッカの消滅であり、ニルヴァーナである。(99~100頁)

■ニルヴァーナは結果ではない

渇望の消滅の自然な結果がニルヴァーナだと考えるのは間違っている。ニルヴァーナは、何かの消滅の結果ではない。もし結果であるとすれば、何らかの原因によって生み出されたものである。そうならば、それは「創造されたもの」であり「条件付けられたもの」である。ニルヴァーナは原因でも結果でもなく、それを超えたものである。真理は原因でも結果でもない。それは、瞑想のような創造された神秘的、精神的、心的な状態ではない。真実は実在し、ニルヴァーナは実在する。人ができる惟一のことは、それを見、それを体現することである。ニルヴァーナの達成に至る道がある。しかし、ニルヴァーナはこの道の結果ではない。道を辿って山頂にたどり着けるが、山頂は道の結果ではない。光を見ることはできるが、光は視覚の結果ではない。(100~101頁)

■ニルヴァーナの先には何もない

しばしば、こう質問される。ニルヴァーナの先には何があるのか? この質問はありえない。というのはニルヴァーナは究極真理だから。究極である以上、その先には何もない。もしの先になにかがあるとすれば、ニルヴァーナは究極真理ではない。ラーダという弟子が、別なかたちでブッダに質問した。「な何のためのものですか?」この質問は、ニルヴァーナの目的を問題にしている以上、ニルヴァーナの先に何かがあることを前提にしている。それゆえにブッダはこう答えた。「ラーダよ、この質問は的外れである。人は聖なる生を、ニルヴァーナを最終ゴール、目標、究極終着点として生きる」(101~102頁)

■ニルヴァーナは死ではない

一般に「ブッダは死後(あるいはパリニルヴァーナ)に入った」といわれるが、それは誤りである。しかしこの誤りから、ニルヴァーナに関して多くの想像的な推測がなされるようになった。「ブッダはニルヴァーナ(あるいはパリニルヴァーナ)に入った」という表現を耳にすると、ニルヴァーナは一般的存在の一つの形態と理解される。一般的に「ニルヴァーナに入る」といわれるが、この表現は原典には見当たらない。「死後ニルヴァーナに入る」ということはない。パリニルヴァーナということばは、ブッダあるいはニルヴァーナを体現したアラハントの死を指すが、「ニルヴァーナに入る」という意味ではない。パリニルヴァーナは、文字通りには「完全に逝った」「完全に消された」「完全に消滅した」を意味するが、それはブッダあるいはアラハントは死後存在することがないからである。(102~103頁)

■死後のアラハントは、薪がなくなった火、芯と油がなくなった炎に譬えられる。ここではっきりとさせておかねばならないのは、火あるいは炎に譬えられるのは、ニルヴァーナではなく、ニルヴァーナを体現した、五集合要素から構成された存在(アラハント)である。このことは強調しておかねばならない。なぜなら、多くの人たち――大学者でも――は、この譬えを誤ってニルヴァーナに当てはめているからである。ニルヴァーナは、けっして消えた火、あるいは炎に譬えられることはない。(104頁)

■ニルヴァーナを体現する主体

それゆえに、生起の芽も、消滅の芽も、共に五集合要素のうちに含まれている。「この背丈大の身体に、世界、世界の生起、世界の消滅、世界の消滅に至る道のすべてがある」というブッダの有名なことばの真意はこれである。ということは、四聖諦のすべては五集合要素、すなわち私たちの内にある、ということである。(105頁)

■ニルヴァーナは今の生で体現するもの

ほとんどのすべての宗教においては、最高善は死後にしか到達できない。しかしかこの今の生で実現することができ、到達するのに死を待つ必要はない。

真実、ニルヴァーナを体現した人は、世界でもっとも幸せな人である。その人は、他の人たちを悩ませている、あらゆる煩わしさ、強迫観念、心配、問題から解放される。彼は心的に完全に健康である。過去を悔やまず、未来を思い悩まない。彼は、今というときを全力で生きる。それゆえに、彼は肩肘張ることなく、もっとも純粋な意味でものごとを味わい、享受する。彼は喜びに溢れ、意気揚々とし、純粋な生を楽しみ、五感は心地よく、不安がなく、晴朗で安らかである。あらゆる利己的な欲望、憎しみ、無知、うぬぼれ、奢り、汚れから解放され、純粋で、やさしく、博愛、慈しみ、正直さ、同情、理解、寛容に富んでいる。彼は自己という概念をもっていないので、他人への奉仕はまさに純粋である。彼は自己という幻想、生成の渇望から解放されているがゆえに、精神的なことも含め、何一つ得ないし、集積しない。(106頁)

■ニルヴァーナは、二元論、相対的なことばを超えたものである。私たちの一般的な善悪、正邪、存在と非存在という概念を超えている。(107頁)

■シャーリプトラが言った。「友よ!ニルヴァーナは幸せなり、ニルヴァーナは幸せなり」

ウダーイが尋ねた。「友シャーリプトラよ、感覚がないのなら、幸せとはどんなものですか」

この問いに対するシャーリプトラの答えは、非常に哲学的で、普通の理解領域を超えている。

「感覚がないということ自体が幸せである」(107頁)

■ニルヴァーナは「賢者が自らの内に体現すべきものである」。もし私たちが、八正道を根気よく熱心に歩み、自らを修練し、浄化し、必要な精神的発展を遂げれば、高尚な、わけのわからないことばを操ることなく、ある日ニルヴァーナを内に体現できるであろう。(107~108頁)

第5章 第四聖諦 ドゥッカの消滅に至る道

■第四の聖諦は、「ドゥッカの消滅に至る道」であるが、このこの道は二つの極端な道を避けるがゆえに、「中道」と呼ばれる。二つの極端な道の一方は、感覚的な快楽を通じて幸福を求める道で、それは「低俗で、通俗的で、無益な、凡人の道」である。もう一方は、さまざまな禁欲的行為によって自らを苦しめることにより幸福を求める道で、「苦痛を伴い、無価値で、無益である」。自らこの二つの極端な道を経験し、それらがともに無益であることを理解した上で、ブッダは自らの経験から静逸、洞察、目覚め、ニルヴァーナに至る「中道」を見出した。(109頁)

■八正道

それは八項目から構成されているので、一般的に「八正道」と呼ばれる。すなわち、

⑴正しい理解

⑵正しい思考

⑶正しいことば

⑷正しい行ない

⑸正しい生活

⑹正しい努力

⑺正しい注意

⑻正しい精神統一

ブッダが四五年間にわたって説いた教えは、実質的にはこの八正道に凝縮される。ブッダは、弟子の発展段階、理解能力、実践能力に応じて、さまざまな場所で、さまざまなかたちでこれを説明した。ブッダの何千という教えのエッセンスは、この八正道に集約されている。(109~110頁)

■この八項目(正道)は、右に列挙した順に一つずつ実践していくものと思ってはならない。それらは、各人の能力に応じて、すべてを同時に実践しなくてはならない。八つは各々繫がっており、一つの実践が他の実践に役立つ。(110頁)

■これらの八項目は、仏教的修練と規律における三つの基本を増進し完成することを目的としている。三つとは、

•倫理的行動

•心的規律

•叡智(岡野注;貪・瞋・癡の対極)

である。それゆえに、これら八項目は三つの部類に分けて考察するのが妥当である。(110~111頁)

■倫理的行動

「正しいことば」とは、①嘘をつかない、②人びとや集団の間に憎悪や敵意、不一致や不調和をもたらすような蔭口、中傷、噂話を慎む、③荒々しく、粗暴で、無作法なことばや悪意を含むことば、罵(ののし)りのことばを慎む、そして④無用で役にたたない馬鹿げたおしゃべりや雑談をやめることである。

これらの誤った有害なことばをやめると、人は自然に真実をかたり、友好的で慈悲深いことば、快く優しいことば、そして意味深い、役に立つことばを使うようになる。軽率に話してはならず、発言は正しいときと場を心得たものでなければならない。もし、何か有益なことが言えない場合は「尊い沈黙」を守るべきである。(112頁)

■「正しい行ない」とは、道徳的で、尊敬に値し、安らかな行動を促進することを指す。命を傷つけたり、盗みを働いたり、不誠実であったり、邪(よこしま)な性的関係をもったりすることを慎むと同時に、他の人たちが正しく、安らかで、尊敬に値する生活を送るのを助けなくてはならない。(113頁)

■「正しい生活」とは、武器や兵器、酒、毒物の取引、屠殺、詐欺といった、他者を害することで生計を立てることを慎み、他者を傷つけることがなく、他者から批難されることがなく、尊敬される職業に就くことである。仏教は、武器や兵器の取引は邪悪で正しくない生計であると見なしていることから、仏教はいかなるかたちの戦争にも強く反対していることが明らかである。(113頁)

■八正道のこの三つの項目(「正しいことば」「正しい行ない」「正しい生活」)が倫理的行動を形成する。仏教の倫理的、道徳的行動は、個人および社会にとっての幸せで調和のとれた生活を促進することを目的としている。道徳的行動は、すべての高度な精神的達成にとって不可欠な基礎と見なされている。この道徳的基盤をなくして、いかなる精神的発達も不可欠である。(113頁)

■心的規律

次の「心的規律」には、八正道のうちの三つの項目が含まれる。すなわち、正しい努力、正しい注意、そして正しい精神統一である。

「正しい努力」とは、①邪で不健全な気持が起きるのを防ぎ、②すでに起きた邪で不健全な気持を取り除き、③正しく健全な心を起こし、④すでに起きた正しく健全な心を完成に導くことである。

「正しい注意」とは、①身体の活動、②感覚や感じ、③心の動き、④考え、思考、概念とものごとに関しては、はっきり意識し、気を遣い、注意することである。

身体に関しては、呼吸に注意することは精神的発達のためのよく知られた訓練の一つである。同じく身体に関連した事柄では、瞑想など他にも精神的発達を促す方法がある。(114頁)

■心的規律の三番目で最後の項目が、一般にトランスあるいは瞑想と訳されるジャーナ(注)で、四段階の「正しい精神統一」である。

◯訳注

漢訳仏典では「禅那」と音写され、現在日本語で、一般に用いられている「禅」の訳語。(115頁)

■ジャーナの第一段階では、感覚的欲望、悪意、物憂さ、不安、落ち着きのなさ、猜疑心といった情欲と不健全な考えが取り除かれ、ある種の心的活動に際して喜びと幸せの感情が伴う。

第二段階では、すべての知的活動は抑圧され、平静と心の「一点集中」状態が発達し、喜びと幸せの感情が保たれる。

第三段階では、アクティブな感覚である喜びの感情はなくなり、幸せの感情は残り、心の平静が加わる。

第四段階では、幸・不幸・喜び・悲しみといったすべての感覚がなくなり、ただ純粋な、平静と自覚だけが残る。

こうして、正しい努力、正しい注意、正しい精神統一によって心は訓練され、律せられ、啓発される。(115~116頁)

■叡智

残りの二つの項目、すなはち正しい理解と正しい思考が「叡智」を構成する。

「正しい思考」とは、すべての生きものに対する無私無欲な放棄あるいは無執着、愛の思い、非暴力の思いである。この無私無欲な無執着、愛、非暴力が叡智と併記されるのは興味深く重要である。このことからはっきりわかるのは、叡智にはこうした高貴な要素が具わっているということである。個人的であれ、社会的、政治的であれ、人生における利己主義的な欲望、悪意、憎しみ、暴力といった考えは、叡智に欠けていることの結果に他ならない。(116~117頁)

■仏教では、二種類の理解がある。私たちが一般に理解と呼んでいるのは、知識、すなわちある種のデータに基づいた、ある事柄の知的把握である。これは、「ものごとに准じた知識」と呼ばれるが、深いものではない。本当の深い理解は「透視」と呼ばれ、ものごとの本質を、名前や名称なしで見抜くことである。この「透視」は、心に一切の汚れがなくなり、心が瞑想によって完全に啓発されたときに初めて可能である。(117頁)

■以上ざっと見てきたところからわかるように、八正道とは、一人ひとりが、自らの人生において、歩み、実践し、開発する道である。それは、身口意の自己規律であり、自己啓発であり、自己浄化である。それは、信仰、崇拝、儀礼とは無関係である。この意味において、それは一般的に「宗教的」といわれるものとは無縁である。それは道徳的、精神的、知的完成を通じての究極の実存、完全な自由、幸せ、平和に至る道である。

■まとめ

四聖諦に関連して、われわれがなすべきことは以下のとおりである。

第一聖諦はドゥッカの本質で、人生の本質は苦しみ、悲しみ、楽しさ、不完全さ、不本意さ、無常さである、ということである。これに関連してわれわれがすべきことは、それを事実として明瞭に、完全に理解することである。

第二聖諦はドゥッカの生起である。すなわちもろもろの欲情、汚れ、不純さを伴った渇望、欲望の生起である。このことをただ理解するだけでは不十分であり、われわれがすべきことは、この渇望を退け、除き、破壊し、根絶することである。

第三聖諦はドゥッカの消滅、すなわちニルヴァーナ、絶対真理、究極実存である。われわれがすべきことは、それを体現することである。

第四聖諦はドゥッカの消滅に至る道、すなわちニルヴァーナの実現に至る道である。どれだけ完璧にこの道を知ろうと、単なる知識では不十分である。この場合われわれがすべきことは、それを辿り、歩むことである。(118~119頁)

第六章 無 我(アナッタ)

■我の概念の否定

この魂、自己、アートマンの 存在を否定するという点で、仏教は人類の思想史の中でユニークである。ブッダの教えによれば、自己という概念は実体に該当しない想像上の誤った考えである。それは、「私」、「私の物」、利己主義的欲望、渇望、執着、憎しみ、悪意、うぬぼれ、傲慢、エゴイズム、不純さ、その他、さまざまな問題を生み出す、それは、個人的いざこざから国家間の戦争に至るまで、世界のあらゆる問題の源である。突き詰めていえば、世界における諸悪の根源はこの誤った考えに辿り着く。(122頁)

■ブッダには、このことがよくわかっていた。彼は、自分の教えは「世の潮流に逆らう」、人間の利己主義的な欲望に逆らうものだと言っている。「目覚め」の四週間後、菩提樹の下に坐って、ブッダはこうつぶやいた。

「私が体現したこの真実は、見がたく、理解しがたく、賢者にしか把握されない。潮流に逆らい、高遠で、深く、微妙で、難解なこの真理は、欲情に打ち負かされ、闇に包まれた者たちにには見えない」(123頁)

■「条件付けられた生起」

アートマンのことを論じる前に、「条件付けられた生起」に関して見てみることが有益である。この教えの要点は、次の四行詩で明らかである。

「これが存在するとき、あれが存在する。

これが生起するとき、あれが生起する。

これが存在しないとき、あれが存在しない。

これが消滅するとき、あれが消滅する」(124~125頁)

■十二項目〔因縁〕

この条件性、相対性、相互依存性の原理に基づいて、すべての生の存在、継続そして消滅が、十二項目からなる「Aを条件として、Bが生起する」という定式によって説明される。

⑴無知を条件として、意図的行為あるいはカルマが生起する。

⑵意図的行為あるいはカルマ条件として、意識が生起する。

⑷精神的、肉体的現象を条件として、六器官が生起する。

⑸六器官を条件として、接触が生起する。

⑹接触条件として、感知が生起する。

⑺感知を条件として、渇望が生起する。

⑻渇望を条件として、執着が生起する。

⑼執着を条件として、生成が生起する。

⑽生成を条件として、誕生が生起する。

⑾誕生を条件として、⑿老い、死、悲嘆、痛みなどが生起する。

こうして生が生起し、存在し、継続する。

これを逆の順序でたどれば、消滅の過程となる。無知の完全な消滅から、意図的行為あるいはカルマが消滅し、意図的行為あるいはカルマの消滅から、意識が消滅し、……、誕生の消滅から、老い、死、悲嘆、痛みなどが消滅する。

はっきりと理解しなくてはならないのは、これらの一つひとつの要素は、〔他を〕条件付けると同時に、〔他により〕条件付けられているという点である。それゆえに、すべては相対的であり、相互に関連しており、何一つとして絶対ではなく、独立していない。それゆえに、先に述べたように、仏教では何かが絶対的主因であるとは見なさない。条件生起は、〔完結する閉じた〕輪と見なすべきであり、〔完結しない単なる〕連鎖とみなすべきではない(注)。

◯注

紙幅の制約から、この最も重要な教義をここでは精細に論じられない。仏教哲学に関する別の本でこのテーマに関する批判的比較研究を行なう予定である。〔訳注。この本は、訳者の知る限り刊行されていない〕〔岡野注;存在の中に、完結する閉じた輪の存在を認めるならば、禅宗の空の理論とは矛盾する。特異点があることになる。弦理論や数字、素数の存在とも関係ありそうだ〕(125~126頁)

■自由意志も条件付けられている

西洋思想・哲学では、自由意志の問題が重要な位置を占めてきた。しかし「条件付けられた生起」を現則とする仏教では、この問題は存在しないし、存在しようがない。すべてが相対的で、条件付けられて、相互依存してる以上、どうして意志だけが自由でありえようか。他のあらゆる思いと同じく、意志も条件付けられている。いわゆる「自由」自体も条件付けられており、相対的である。条件付けられてなかで相対的〔傍点は訳者による。次も同じ〕に自由な意志は否定されないが、すべてが相互依存的であり、相対的である以上、絶対的に自由なものは、肉体的なものであれ、心的なものであれ、何も散在しない。もしも自由意志を条件から、あるいは因果律から独立したものとするなら、そのようなものは存在しない。すべての存在が、条件付けられ、相対的であり、因果律に律せられている以上、意志が、あるいは別の何かが、条件なしに、因果律から独立して生起することはありえない。ここでまたしても、自由意志とという概念は、神、魂、正義、報賞、罰則という概念と結びついている。いわゆる自由意志そのものばかりか、自由意志という考え自体が、条件から解放されたものではない。

「条件付けられた生起」の理論、および存在の五集合要素の分析から、人間の内あるいは外に、アートマン、「我」、魂、自己、あるいはエゴといった不変、不死なるものを想定するのは、誤っており、単なる心的投射に過ぎない。これが、仏教のアナッタ、無魂、無我の教理である。(127~128頁)

■アートマン

―前略ー

人びとは、アートマンに関するブッダの教えによって、彼らが想像していた自己が破壊されることになると思い、神経質になった。ブッダにはそれがわかっていた。

あるとき弟子が尋ねた。

「師よ! 内なる永遠のものが見つからないとき、人は苛(さいな)まれるということがありますか?」

「弟子よ、それはある。ある人がこう考えたとしよう。

「宇宙はかのアートマンであり、私は死後、永遠で、不変で、永続的で、不易なそれとなろう。そして私は永遠にそのようにあろう」

その彼が、ブッダあるいはその弟子が、渇望の消滅を目指して、また執着を離れたを目指して、〔自分の〕推測的な見解を完全に打破する教えを説くのを聞いたとしよう。彼は、

「私は無に帰される。私は破壊される。もはや私は存在しない」

と思うだろう。そして彼は嘆き、心配し、泣き、胸を叩き、打ちのめされるだろう。こうして、内なる永遠のものが見つからないと、人はさいなまれることがある」

また他の箇所で、ブッダはこういっている。

「弟子たちよ、私は存在しないかもしれない、私は所有しないかもしれない、と思うと、一般の人は恐怖心に襲われる」(130~131頁)

■第一に、ブッダは、人間の内であれ外であれ、あるいは宇宙のどこであれ、アートマン、魂、エゴの存在については断固として、明瞭に、一度ならず否定している。いくつかの例を検証してみよう。(132頁)

■最初の二句は、

「条件付けられたものはすべて無常である」

「条件付けられたものはすべてドゥッカである」

第三の句は、

「すべてのものごと(ダルマ)は、無我である」

ここで注意しなくてはならないのは、最初の二句では「条件付けられたもの」ということばが用いられ、第三句では、その代わりに「ものごと(ダルマ)」ということばが使われていることである。どうして第三句では、最初の二句と同じように、「条件付けられたもの」ということばがもちいられずに、その代わりに、「ものごと」ということばが使われているのだろうか。すべての鍵はここにある。

「条件付けられたもの」ということばは、物質的であれ心的であれ、すべて条件付けられ、相互依存し、相対的な五集合要素およびその状態のすべてを指す。第三句が「すべての条件付けられたものは、無我である」であったなら、人は、条件つけられたものは無我であるが、条件つけられていないもの、すなわち五集合要素以外のものには我がある、と思うであろう。こうした誤解が生じないために、第三句では「ものごと」ということばが用いられているのである。

仏教用語としての「ものごと」ということばは、「条件付けられたもの」ということばよりもずっと広い意味をもっている。「ものごと」は、ただ単に条件付けられたものとその状態を指すだけはでなく、絶対とかニルヴァーナといった条件つけられていないものをも含む。宇宙の内であれ外であれ、善悪を問わず、条件付けられている・いないを問わず、相対的・絶対的を問わず、このことばにふくまれないものは何もない、それゆえに、「すべてのものごと(ダルマ)は、無我である」という句によれば、五集合要素の内に限らず、その外であれ、どこであれ、自己はなく、アートマンはない、ということは明らかである。(132~134頁)

■中部経典の「アラガッドゥパナ・スッタ」の中で、ブッダは弟子たちにこう言っている。

「弟子たちよ! 嘆き、悲しみ、心痛、辛苦のない魂理論があれば、それを受け入れよ。しかし弟子たちよ、嘆き、悲しみ、心痛、辛苦のない魂理論が、どこにあるのか?」

「師よ、どこにも見当たりません」

「弟子たちよ、その通りである、私自身も、嘆き、悲しみ、苦しみ、心痛、辛苦のない魂理論は、どこにも見出せない」

もしブッダが受け入れた魂理論があったのなら、ブッダはここでそれを説明したであろう。なぜなら、ブッダは弟子たちに、苦しみを生起しない魂理論を受け入れるようにと言っているのだから。しかしブッダからすれば、そんな魂理論はなく、いかに緻密で優れたものであれ、すべての魂理論は誤っており、想像的なものにしか過ぎず、嘆き、悲しみ、苦しみ、心痛、辛苦を生起するものである。

同じ経の中で、ブッダは続けてこうも言っている。

「弟子たちよ、自己も、自己に関連する何ものも本当の意味で、実際に見出せないなら、「宇宙はかのアートマン(魂)であり、私は死後、永遠で、不変で、永続的で、不易なそれとなろう。そして私は永遠にそのようにあろう」という考えは、完全に、完璧に愚かではなかろうか?」

ここでブッダは、アートマン、魂、自己は、実際にはどこにも見当たらず、そんなものがあると信じることは愚かしい、とはっきり断定している。(134~135頁)

■アートマンに関する誤解(一)

ブッダの教えの中に自己を見出そうとする人たちは、いくつかのことばを引用するが、実際にはそれらを誤解し、語訳している。その一つが『ダンマパダ』の「アッター・ヒ・アッタノ・ナート」という有明な一句である。それは、「自己は、自分の主である」という句で、偉大なる「自己」は、小さな「自分」の主であると解釈される。

まず、この解釈は間違っている。「アッター」は、魂の意味での自己を意味しない。パーリ語のアッターは、ことに哲学的に魂理論に言及する限られた場合を除き、一般的には再帰代名詞、あるいは不定代名詞である。『ダンマパダ』のこの句の場合もそうで、「自分自身」「あなた自身」「彼自身」「人」「人自身」を指す。

次に、「ナート」は「主」ではなく、「避難所」「よりどころ」「支援」の意味である。それゆえに「アッター・ヒ・アッタノ・ナート」は、「自分自身が、自分のよりどころである」あるいは「自分自身が、自分の避難所である」という意味である。この句は、形而上学的魂あるいは自己とは何の関係もない。意味するところは単に、他人ではなく、自分自身を頼りにしなくてはならない、ということである。(135~136頁)

■アートマンに関する誤解(二)

ブッダの教えに自己の考えを導入しようとしてよく引用されるもう一つの句は、『マハーパリニッパーナ・スッタ〔大般涅槃経〕』中の有名な「アッタディーバ・ヴィハラタ・アッタサラナー・アナッニャサラナー」である。この句は、「自分自身をよりどころとし、自分自身を避難所とし、他の誰をも避難所とすることなかれ」という意味である。仏教の中に自己という概念を導入しようとする人たちは、この句のアッタディーバとアッタサラナーを、「自己をよりどころとみなす」「自己を避難所と見なす」と解釈している。この句は、ブッダがアーナンダに授けた助言であるが、その背景を理解しない限り、その本当の意味は完全にはわからない。

ブッダはこのときベルヴァという村に滞在していた。死の三カ月前のことであった。ブッダは八〇歳で、重い病いに苦しんでおり、瀕死状態であった。しかしブッダは、親しい弟子たちに別れを告げずに死ぬことはできないと思った。それで勇気と決断をもって痛みをこらえ、病気を克服し、立ち上がった。しかし、体は弱っていた。回復してから、ある日住いの外の木陰に坐っていた。もっとも親しかった弟子のアーナンダがブッダの近くに行き、傍らに坐って言った。

「師よ、私は師の健康を管理し、看病してきました。しかし、師の病いを見るにつけ、世が暗くなり、気分がふさぎます。しかし、一つ気が安らぐことがあります。師はサンガに関する指示を与えないではお亡くなりにならないでしょう」

そこでブッダは、慈悲からそして人情から、もっとも愛しい弟子であるアーナンダに語った。

「サンガは私に何を望むことがあるのか。私は、内外のいかなる区別をすることもなく真理を教えた。教師としてブッダは掌のうちに隠すことは何一つない。「私がサンガを導き、サンガは私の指導を仰がねばならない」と思うものがいたら、彼に彼自身の指示を記させよ。ブッダにはそうした意図はない。それゆえに、どうしてサンガに関する指示を残す必要があろうか。アーナンダよ、私は年老いて、齢八〇である。使い古された車が修理によって動き続けるように、ブッダの身体は修理によって動き続ける。それゆえに、アーナンダよ、

自分自身をよりどころとし、

自分自身を避難所とし、

他の誰をも避難所とすることなかれ

ダルマをよりどころとし、

ダルマを避難所とし、

他の何ものをも避難所とすることなかれ」

ブッダがアーナンダに伝えようとしたことはきわめて明らかである。アーナンダは悲しくて、気落ちしていた。アーナンダは、偉大な師が亡くなったあとは、彼らは全員避難所もなく、師もなく、ひとりぼっちで、途方に暮れると思っていた。そこでブッダは、彼を慰め、勇気づけ、自信をもたせるために、自分自身とブッダの教えを頼りとし、他の誰にも、他の何ものにも頼ってはいけないと言った。この文脈に、形而上学的アートマンを見出すのはまったく場違いである。

さらにブッダはアーナンダに、身体、感覚、心、心の対象に対する正しい思いによって、いかにして自分自身をよりどころあるいは避難所とし、ダルマをよりどころあるいは避難所とするかを説明した。ここではアートマンあるいは自己は一切話題となっていない。(136~139頁)

■アートマンに関する誤解(三)

ブッダの教えの中にアートマンを見出そうとする人たちがよく引用するのが次のレファレンスである。あるときブッダはベナレスからウルヴェーラーに向かう途中の森の中で一本の木の下にいた、その日、三〇人の若い王子たちが若い妃たちを伴って、その森にピクニックに出かけた。そのうちの一人の王子は未婚だったので、娼婦を伴っていた。皆が浮かれている間に、娼婦はいくつかの貴重品を盗み、いなくなった。彼らは森の中で女を捜し回っている間に、木の下に坐っているブッダに出くわしたので、女を見なかったかと訊ねた。ブッダは何が起きたのかと訊ねた。彼らが説明すると、ブッダは言った。「若者たちよ、どう思うか?女を捜すのと、自分を捜すのと、どちらが大切か?」

これも単純で自然な質問であり、ここに形而上学的なアートマンとか自己といったアイデアを導入する正当性はない。若者たちは、自分を探す方が大切であると答えた。

これも単純で自然な質問であり、ここに形而上学的なアートマンとか自己といったアイデアを導入する正当性はない。若者たちは、自分を捜す方が大切であると答えた。そこでブッダは彼らに坐るように促し、ダルマを説明した。知られている原典では、アートマンには一言も触れられていない。(139~140頁)

■ブッダの沈黙

修行者ヴァッチャゴッタに、アートマンは存在するか否かを尋ねたときの、ブッダの沈黙に関して、今までさまざまに論議されてきた。その話は、次のとおりである。

ヴァッチャゴッタがブッダの許にやってきて訊ねた。

「師ゴータマよ、アートマンは存在しますか?」

ブッダは黙していた。

「では、師ゴータマよ、アートマンは存在しないのですか?」

またしてもブッダは黙していた。

ヴァッチャゴッタは立ち上がって、去っていった。

修行者が去ったあと、アーナンダがブッダにどうしてヴァッチャゴッタの質問に答えなかったのかと尋ねた。ブッダは自分の立場をこう説明した。

「アーナンダよ、ヴァッチャゴッタは「自己は存在しますか?」と尋ねた。もし私が「自己は存在する」と答えたなら、私は永遠主義のバラモンの側についたことになる。

またアーナンダよ、ヴァッチャゴッタが「自己は存在しないのですか?」と尋ねたとき、もし私が「自己は存在しない?」と答えたなら、私は虚無主義の修行者やバラモンの側についたことになる。

またアーナンダよ、ヴァッチャゴッタが「自己は存在しますか?」と尋ねたとき、もし私が「自己は存在する」と答えたなら、「もろもろのものごとには自己がない」という私の考えと一致するだろうか」

「師よ、一致しません」

「またアーナンダよ、ヴァッチャゴッタが「自己は存在しないのですか?」と尋ねたとき、もし私が「自己は存在しない?」と答えたなら、すでに(先の問答で)混乱していたヴァッチャゴッタをいっそう困惑させることになっただろう。というのは、彼は、「私は今まで、たしかにアートマンをもっていたのに、もはやもっていない」と思うからである」

なぜブッダが沈黙を保ったかは、今や明らかであろう。しかしその背景およびブッダの質問および質問者への対処の仕方――このことは従来無視されてきた点である――を考慮に入れたら、いっそう明瞭になるであろう。(140~142頁)

■ブッダの対応

(前略)

ある人たちは、「自己」を一般に「心」「意識」と言われているものだと考える。しかしブッダは、普通の人にとっては、心、考え、意識よりは、むしろ自分の身体を「自己」と見なした方がいい、と言っている。なぜなら、心、考え、意識は日夜たえず身体よりも速く変化するもので、身体の方が堅固だからである。

「私は存在する」という曖昧な感覚が、該当する実体がない「自己」という考えを生み出す。この事実がわかることがニルヴァーナを体現することであるが、それは容易なことではない。(144~145頁)

■ケーマカ

(前略)

「ケーマカは、「私は存在する」というのは、物質でも、識別でも、意志でも、意識でもなく、それを離れたものでもないと、と説明した。しかし彼は、五集合要素に関して「私は存在する」という感覚があるが、はっきりと「これが私の存在である」とはわからない、と言う。

かれは、それは花の匂いのようなものであると言う。それは、花弁の匂いでも、色の匂いでも、花粉の匂いでもなく、花の匂いである。

ケーカマは、さらにこう説明した。ある程度の修行レベルに達した人でも、未だに「私は存在する」という感覚をもっている。しかし、修行が進むにつれてこの感覚はすっかりなくなる。あたかも、衣類を洗濯した直後には洗剤の匂いが残るが、収納されている間に消えていくかのように。

この対話は非常に有益であったため、ついにケーカマを含めた全員がアラハントとなり、あらゆる汚れから解放され、「私は存在する」という感覚がなくなった。(145~146頁)

■まとめ

ブッダの教えによれば、「私には自己がない」という考えも、「私は自己をもっている」という考えも、ともに間違っている。なぜなら、両者ともに「私は存在する」という誤った感覚から生起する足枷だからである。アナッタ(無我)の問題に対する正しい見解は、いかなる見解にも見方にも固執せず、心的な投射を行なわずにものごとをありのままに見ようとすることである。私たちが「私」「存在」と呼んでいるものは、各々が独立に、因果律に従い刻一刻と変化する物質的、心的要素の結合に過ぎない。そうした存在には、恒久で、永続し、不易で、永遠なものは何もない。

ここで必然的に一つの質問が出てくる。もしアートマンあるいは自己がないのなら、カルマ(行ない)の結果を享受するのは何なのか? この質問にも、ブッダが誰よりも的確に答えている。一人の修行者がこの質問をしたとき、ブッダはこう答えた。「弟子たちよ、私はあなたがたにすべてのものごとに条件性を見るように教えた」

アナッタ、無魂、無自我の教えは、否定的、あるいは虚無的に理解すべきではない。ニルヴァーナと同じく、それは真理、実体であり、実体は否定的ではありえない。否定的なのは、本来存在しない自我を想像上存在すると信じることについてである。アナッタの教えは、誤った信念の闇を除き、叡智の光を生み出す。それは否定的ではない。アサンガの次のことばは的を射ている。

「無自我という真実が存在する」(146~147頁)

第7章 心の修養(バーヴァナ)

■ブッガが言った。

「弟子たちよ、病いには二種類ある。肉体的な病いと心的な病いである。

肉体的な病いは、一年、二年、……100年さらにはそれ以上にわたって、かからない幸せな人がある。

しかし弟子たちよ、心的な汚れから解放された者(すなわちアラハント)たちを除いて、この世の中で心的な病いのない状態を一瞬たりとも享受できる人は稀である」(149頁)

ブッダの瞑想法

(前略)

瞑想ということばは「修養」「啓発」すなはち心的修養、心的啓発を意味する原語バーヴァナーの訳ではあるが、けっして適切ではない。仏教のバーヴァナーは心の修養である。それは心の肉欲、憎しみ、悪意、怠惰、心配、落ち着きのなさ、疑いといった汚れや動揺から浄化し、集中力、気付き、知性、意志、エネルギー、分析力、自信、喜び、静けさといった資質を啓発し、最終的にはものごとをありのままに見、究極の真理、ニルヴァーナを実現する叡智に到達させるものである。(150~151頁)

2種類の瞑想

集中力 瞑想には2種類ある。一つは心の一点集中の啓発のためのものである。経典にはさまざまな方法が記してあるが、「無の領域」や「感受でもなく、無感受でもない領域」といった高度な神秘的段階に至る。ブッダによれば、こうした神秘的段階は、すべて心によって生起し、心によって生み出され、条件付けられたものである。それらは、実存、真理、ニルヴァーナとは何の関係もない。この種類の瞑想は、ブッダ以前に存在した。それゆえに、これは純粋には仏教的ではないが、仏教から除外されはしなかった。しかし、これはニルヴァーナの実現にとっては本質的なものではない。ブッダ自身「目覚め」に至る前に、さまざまな師についてこうしたヨーガを行ない、最高の神秘的境地に達した。しかし、彼は満足できなかった。なぜなら、それらによって完全な解放が得られず、究極実存の透視は得られなかったからである。ブッダは、こうした神秘的境地を「この生における幸せなせいかつ」「平安な生活」とみなしたが、それ以上のものではなかった。(151頁)

ヴィバーヴァナー それゆえに、ブッダはヴィバーヴァナーと呼ばれるもう一つの瞑想、すなはちものごとの本質の「透視」を発見した。これは、究極の真理、ニルヴァーナの実現、心の完全な解放へと導くものである。これこそが、仏教の本質的な瞑想で、仏教の心的修養である。これは、気付き、自覚、注視、観察に基づく分析的な方法である。

■身体的活動に関する心的修養の、重要で、実践的で、有益なもう一つのかたちは、公私を問わず、仕事中であるかどうかを問わず、日常生活ですること、話すことを問わず、日常生活ですること、話すことを十分に意識し注意することである。歩く、立つ、坐る、横たわる、眠る、身体を曲げる、伸ばす、周りを見る、服を着る、話す、沈黙する、食べる、飲む、トイレに行くなど、すべての行ないに対して、それをする瞬間にそれを意識することである。すなわち、今この時点で、今行なうことに集中する、ということである。(155~156頁)

■弟子たちが、一日一食のシンプルで静かな生活を送っていながら、顔色が輝いているのはどうしてかと尋ねられ、ブッダはこう答えた。

「かれらは過去を悔やまず、未来のことを気に病まない。彼らは現在を生きている。だから彼らの顔色は輝いている。愚かな者たちは、未来のことを気に病み、過去を悔やんで、それはまるで青々とした葦が刈り取られ、陽に当たって枯れてしまうようである」(155~156頁)

■気付きあるいは自覚といっても、「私はこれをしている」「私はあれをしている」といつも思い、意識することではない。その逆である。「私はこれをしている」と思う瞬間、あなたには自意識が生まれ、行なっていることにではなく、「私は存在する」という考えに生きている。その結果、行ないはだめになる。あなたは自分を完全に忘れ、今行なっていることに自分を没入しなければならない。たとえば講師に「私はこの聴衆に話している」という自意識が生まれた瞬間、講演は乱れ、思考の流れが途切れる。しかし講演に、そしてテーマに没入しているとき、講師の能力は最大限に発揮され、話もスムーズで、説明もうまく行く。芸術的、詩的、知的、精神的分野における偉大な仕事は、本人が制作に没入し、自分を完全に忘れ、自意識から解放されたときになされる。(158頁)

■私たちの活動に関する気付きあるいは自覚に関してブッダが教えたことは、今の瞬間、今していることに生きることである(これはまた、本質的にはこの教えに基づいた「禅」の教えでもある)。この瞑想法では、気付きあるいは自覚を発達させるのに、ことさら何かを行なう必要はなく、自分が行なうことに絶えず気を遣い、自覚するだけで十分である。「瞑想」に、あなたの貴重な時間を一瞬たりとも費やす必要はない。あなたは、自分の日常生活におけるあらゆる行ないに関して、昼夜たえず気付きあるいは自覚を修養しなければならない。今まで述べた二種類の瞑想は、身体(的活動)に関するものである。(158~159頁)

⑵感覚、感情に関する心的修養

次には、幸せ、不幸せ、そのどちらでもないといった感覚、感情に関する心的修養がある。その一例だけを挙げるとしよう。不幸な、悲しい感覚を経験したとしよう。こうした状況では、あなたの心には雲が立ちこめ、すっきりとせず、気落ちしている。場合によっては、あなたはどうして不幸せなのかがはっきりわからない。まずは不幸せと観じたとき、そのことでさらに不幸せになったり、心配事があるとき、そのことでさらに心配したりすることがないようにすべきである。そして、どうして不幸せ、心配、悲しみという感覚、感情が生まれるのかをはっきりと観察する必要がある。それがどのようにして生起するのか、何が原因なのか、どのようにして消滅するのか、どのようにして止むのかを検討する。科学者が対象を観察するように、外側に立ち、主観的反応を交えずに状況を吟味する。ここでも、主観的に「私の感覚」「私の感情」としてではなく、客観的に「一つの感覚」「一つの感情」として眺める必要がある。そして「私」という誤った概念を棄てなければならない。感覚や感情の本質、それがどのように生起し、消滅するかがわかると、心がそれに左右されなくなり、執着がなくなり、自由になる。これはすべての感覚、感情について当てはまる。(159~160頁)

⑶心に関する心的修養

次には、心を検討しよう。心は、情熱的であったり、超然としていたり、あるいは憎しみ、悪意、嫉妬に打ち負かされていたり、その逆に感情、慈しみに溢れていたり、曇っていたり、あるいは明晰であったり、実にさまざまに変化するが、そのすべてを完全に意識しなければならない。往々にして、私たちは自分の心を直視するのを恐がったり、恥ずかしがったりし、それを避けたがるということを認めなくてはならない。しかし鏡で自分の顔を見るように、勇気をもって、真険に自分の心を直視しなければならない。

正邪、善悪の批判、判断、区別、といった問題ではない。単純に観察し、眺め、検討するだけである。あなたは裁判官ではなく、科学者である。自分の心を観察し、その本当の性質が明らかになると、あなたは情熱、感情、ストレスに対して冷静になれる。そうすると執着がなくなり、自由になり、ものごとがありのままに見えてくる。

一例を挙げてみよう。あなたは本当に立腹しており、怒り、悪意、憎しみが煮えたぎっているとしよう。不思議にも、そして逆説的に、立腹している当人は、自分が立腹していることを本当に意識せず、それに気が付いていない。自分の心の状態に気付き、それを意識し、自分の怒りが見えると、自分が恥ずかしくなり、怒りが静まり始める。怒りの本質、その生起、消滅を吟味しなければならない。ここでも「私は怒っている」とか「私の怒り」ということを思ってはいけない。怒っている状態に気付き、意識するに留めなくてはならない。怒った心をただ客観的に観察し、吟味するだけである。これが、すべての感覚、感情、心の状態に対してとるべき態度である。(160~161頁)

⑷倫理的、精神的、知的事柄に関する心的修養

最後に、倫理的、精神的、知的事柄に関する心的修養がある。私たちの学習、読書、討論、会話、論議はすべて、この心的修養に含まれる。この本を読み、そこで扱われているテーマを深く検討することは、一種の瞑想である。先にニルヴァーナの実現に至った心的修養についてのケーマカと僧侶たちとの会話をみた。

この種類な心的修養では、五つの障害について学習し、考え、討議する必要がある。五つの障害とは①色欲、②悪意、憎しみ、怒り、③もの憂さと無感覚、④落ち着きのなさ、心配、⑤懐疑的な疑いである。この五つは、いかなる明晰な理解、実質的進歩にとっても障害となると見なされる。こうした感情に打ち負かされ、それを取り除くことができないときには、人はものごとの正邪、善悪が判断できない。(161~162頁)

■また「目覚めの七要素」を瞑想することもできる。

⑴気付き。今まで見てきたような、心的および肉体的すべての活動、動きに対する自覚。

⑵教えのさまざまな問題に対する検討と研究。宗教的、倫理的、哲学的学習、読書、研究、討議、対話、そしてこうした事柄に関する講演を聴くこと。

⑶熱意をもって仕事をやり遂げるエネルギー。

⑷喜び。すなわち悲観的、沈鬱でふさぎ込んだ心的態度の正反対の資質。

⑸肉体と心のくつろぎ。肉体的にも心的にも、硬直していてはいけない。

⑹今までみてきたような、集中。

⑺平静。冷静に、落ち着いて、心が乱れることなく、人生の浮き沈みを直視できること。

こうした資質を修養するのに、もっとも本質的なのは、願望、意志、あるいは意向である。テクストの中には、先の七資質の各々を発達させるための物質的・心的条件が説明されている。

また、「存在とは何か」とか「「私」と呼ばれるものは何か」ということを探究するために五集合要素を瞑想したり、四聖諦を瞑想することもできる。こうしたテーマを学習し、探究することは、究極の真理の実現に至る四番目の瞑想にあたる。(162~163頁)

■今まで述べてきたこと以外に、伝統的には四〇に分類されるテーマに関する瞑想がある。その内で特筆すべきは、

⑴「母親が自分の一人子を愛する」ように、すべての生きものに対していっさいの区別なく、無限の普遍的愛と善意を向けること

⑵苦しみや問題を抱え、苛まれているすべての生きものを悲しむこと

⑶他人の成功、安楽、幸せを共に喜ぶこと

⑷人生の浮き沈みに平静であること

である。(163~164頁)

第8章 ブッダの教えと現代

誰にでも開かれた教え

ブッダのおしえは、僧院の僧侶たちだけでなく、家族と一緒に家庭生活を営む普通の男女にも向けられたものである。八正道という仏教の生活規範は、いっさいの区別なく、すべての人に向けられたものである。(165~166頁)

■一般に、ブッダの教えを実践するには実生活から隠遁しなければならない、と思われているが、それは誤解である。それは実践したくない人が、無意識に口にする言い逃れである。仏教経典の中には、普通の生活を送り、家族生活を営みつつも、ブッダの教えをしっかりと実践し、ニルヴァーナを実現した男女への言及が数多くある。修行者ヴァッチャゴッタはブッダに、普通の生活を営む男女で、ブッダの教えを実践して高度な精神的境地に達した者がいるかどうか、単刀直入に尋ねた。ブッダは、一人や二人ではなく、数百人でもなく、さらに多くの男女が、普通の生活を営みながら高度な精神的境地に達した、と答えた。(166~167頁)

■騒音や煩わしさから遠ざかった静な場所での生活を楽しむ人たちもいる。しかし、普通の人たちに交じって、彼らを助けつつ、彼らに役立つかたちで仏教を実践する方が、より価値があり勇敢である。ある人たちにとっては、自らの心と性格を向上させるための予備的な道徳的、精神的、知的訓練として、ある期間引きこもって生活するのは有益で、その後に強くなって普通の生活に戻り、他人を助けることができる。しかし、自らの幸せと解脱のことだけを考え、他の人のことを顧みずに、孤高の生活を営むのは、愛、慈悲、他人への奉仕を基本とするブッダの教えに沿わないものである。(167頁)

■こう質問するひとがあるだろう。普通の生活を営みつつ仏教を実践できるのなら、ブッダはどうしてサンガ、すなわち出家者の集団を設立したのか。サンガは、自分の人生を、ただ自分の精神的、知的成長のためだけではなく、他人への奉仕のために捧げたい人にそうする機会を提供するものである。普通の人は、人生を他人への奉仕にだけ捧げるわけにはいかない。ところが、家族的責任がなく、世間的絆をもたない僧侶は、「多くの人びとのために、多くの人びとの幸福のために」全人生を捧げる立場にある。こうして、仏教寺院は、歴史の歩みとともに、単に精神的中心となったばかりでなく、教育、文化の中心となっていった。(168頁)

仏教徒

(前略)

仏教徒になるのには、入門儀礼(洗礼)は必要ない(しかしサンガの一員となるのには、長期にわたる規律的訓練と教育課程を経なければならない)。ブッダの教えを理解し、その教えが正しい道だと確信し、それに従おうとするなら、その人は仏教徒である。しかし、仏教国での伝統的な慣習では、ブッダ、ダルマ、サンガの三宝をよりどころとし、五戒(バンチャシーラ)――①殺生をしない、②盗まない、③不倫をしない、④嘘をつかない、⑤酒を飲まない――を守ることを、定形句を唱えて誓う者が仏教徒である。(172頁)

経済的基盤――貧困は諸悪の源

『チャッカヴァッティシーハナーダ・スッタ』(長部経典26番)には、貧困は不道徳、盗み、虚言、暴力、憎しみ、残虐行為といった犯罪の原因である、とはっきりと述べられている。

(後略)(174頁)

今生の幸福の四因

かってディーガジャーヌという男がブッダを訪れて尋ねた。

「師よ、私たちは、妻子をもって家族生活を営む、普通の俗人です。私たちが、この世でそしてあの世で幸せになれる教えを授けていただきますか」

ブッダは、この世で人を幸せにする四つの項目があると答えた。

⑴どんな職業に就こうとも、自分の職業を熟知した上で、技術を身に付けており、手際がよく、熱心で、エネルギッシュであること。

⑵まっとうに、汗水たらして得た収入を守ること(盗難に遭わないようにすることの意。当時の社会背景を考慮に入れる必要がある)。

⑶忠実で、徳があり、自由で、頭がよく、悪事を避け、正しい道を歩むように助けてくれるいい友だちをもつこと。

⑷収入に見合うように、多すぎもせず、少なすぎもせず支出すること。言い換えれば、貪欲に富を蓄えたり、派手に浪費しないこと。すなわち、身の丈に沿って生きること。(175~176頁)

来生の幸福の四因

次にブッダは、あの世で人を幸せにする四つの項目を挙げた。

⑴信頼(サッダー)。道徳的、精神的、知的価値を確信すること。

⑵規律(シーラ)。命を害したり、殺(あや)めたりせず、盗みを働かず、嘘をつかず、不倫をせず、酒を飲まないこと。〔訳注;五戒を守ること〕

⑶喜捨(チャーガ)。自らの財産に執着せずに、慈善、施しを行なうこと。

⑷叡智(パンニャー)。苦しみの完全な消滅、すなわちニルヴァーナの実現に至る叡智を発達させること。

ときとしてブッダは、貯蓄と支出に関してさらに細部にわたって述べている。たとえば、シガーら青年には、収入のうち、四分の一は日常の支出に、半分は事業への投資に、そして四分の一は緊急事態のための貯蓄にあてるようにと助言している。(176~177頁)

四種類の幸せ

あるときブッダは、サーヴァッティのジュータ林の精舎を寄進してくれた、最大の支持者の一人であったアナータビンディカ(「孤独な人たちに食べ物を施す長者」を意味する)という金持ちにこう述べた。普通の家庭生活を営む者にとっては四種類の幸せがある。

⑴まっとうな手段で得た十分な富と経済的安定を享受すること。

⑵自分のため、家族のため、友だちと親族のため、そして慈善事業のために自由に支出できること。

⑶借金がないこと。

⑷身口意(しんくい)の悪業を犯さずに過ちのない、清らかな生活を営むこと。

の四つである。この内三つが経済的なことであることは注目すべきことであるが、忘れてはならないのは、ブッダは経済的、物質的幸せは、過ちのない、清らかな生活から生まれる精神的幸せの「一六分の一にも満たない」とも言っていることである。〔訳注;一六分の一はインドでは象徴的な数字で、「一六分の一」は「ごくわずか」の意味〕

以上から、ブッダは経済的福利が人間の幸せに不可欠と見なしていたことがわかる。しかしブッダは、精神的、道徳的基盤のない、ただ単なる物質的な進歩を、本物だとは見なさなかった。仏教は、物質的な進歩を推奨しつつも、幸せで、平和で、充足した社会の実現のために、道徳的、精神的側面の発達に常に重点を置いている。(177~178頁)

現代の国際情勢

(前略)

ブッダは言う

「じつにこの世においては

怨みが、怨みによって消えることは、ついにない。

怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。

これは普遍的真理である。〔「ダンマパダ」5偈〕

「怒りには、怒りを捨てることによってうち勝ち

悪い行いには、善い行ないによってうち勝ち

物惜しみには、施しによってうち勝ち

虚言には、真実によってうち勝て」〔同223偈〕

隣人を征服し、服属させようとする欲望と渇望がある限り、平和と幸せはない。ブッダが言う通り、

「勝者は怨みをかい

敗者は苦しみを味わう。

安らかな人は勝敗を捨て

幸せに生きる」〔同201偈〕

安らぎと幸せをもたらす惟一の勝利は、自己の征服である。

「戦場において

百万の敵に勝つよりも

己一人にうち克つ人こそ

じつに最上の勝者である」〔同103偈〕

(中略)

国、国家は行動せず、行動するのは個人である。個人が思うこと、行なうことが、国、国家が行なうことである。個人に当てはまることは、国、国家にも当てはまる。個人レベルで、憎しみが愛と親切さで静められるのなら、国家レベルでもそれは実現可能である。個人の場合でも、憎しみに対して親切さで応えるのには、とてつもない勇気、決断、道徳の力に対する信頼と確信が必要である。国際間ともなれば、それ以上である。「実践的でない」ということばを、「容易でない」という意味で用いているなら、それは当たっている。仏教的態度を採ることはけっして容易ではない。しかし、それは試してみるべきである。試すのはリスクを伴う、と言われるかもしれない。しかし、核戦争を試してみるよりは、遥かにリスクは小さいであろう。(182~185頁)

アショーカ王

歴史上によく知られた偉大な統治者で、広大な帝国の内政、外交を司るのに、この非暴力、平和、愛の教えを適用する勇気、自信、ヴィジョンをもった人が一人でもいたことは、慰めであり、ものごとを考えるためのインスピレーションを与えてくれる。それは、「神々から愛された者」と称えられたインドの偉大な仏教王アショーカ(紀元前3世紀)である。(185頁)

■彼は最初は父(ビンドゥサーラ王)、祖父(チャンドラグプタ王)を手本として、全インド征服を完成しようとした。カリンガ国を侵略、征服し、併合した。この戦争で何十万人という人びとが、殺され、傷つけられ、拷問され、捕虜となった。しかし後に仏教徒になった彼は、ブッダの教えにより全く別人となった。この王の有名な石碑の一つは現存しており、そのテクストを読むことができるが、カリンガ国征服に関するものである。その中で王は公に「後悔」を表明し、この大虐殺のことを思い起こすのがいかに「心痛」であるかを述べている。王は再び剣を揚げて征服を企てることはなく、「生きとし生けるものに非暴力、自制、穏やかさと優しさの実践」を願った。この「敬虔による征服」は、言うまでもなく「神々から愛された者」アショーカの最大の征服である。彼自身が戦争を放棄したのみならず、「私の子供、孫たちも、〔武力による〕新たな征服が意義あることと考えず、……敬虔による征服のみが価値あるものと考えるように。これが、現世にとっても、来世によってもいいことである」と願った。

勢力の絶頂にあり、さらなる領土の征服を続ける力がありながら、戦争を放棄し、平和と非暴力を志向した征服者は、人類の歴史上、彼が惟一である。(186頁)

結び

仏教は、

自滅的な権力闘争が放棄され、

征服と敗北がなく、平和と平安が持続し、

罪のない人たちに対する迫害が断固として糾弾され、

軍事的、経済的戦争において何百万という人びとを征服する者よりも、自らを制する者の方が尊敬され、

憎しみが親切により、悪が善により征服され、

敵意、嫉妬、悪意、貪欲が人の心を侵食せず、

慈悲が行動の原動力であり、

生きとし生けるものがすべて公正さと配慮と愛情でもって扱われ、

平和で調和のとれた生活が、物質的にも恵まれた状態で、最高の、もっとも高貴な目的すなをち究極の真理であるニルヴァーナに向かって前進する社会を作り上げることを目指している。(187~188頁)

(2019年1月14日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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