岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『アンリ・マティス(ヘンリ・クリフォードへの手紙、1948年2月14日ヴァンス)』

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■クリフォード様

私の展覧会の件では大変なご苦労をおかけしており、深く感謝しております。あなたのご努力にふさわしい展覧会となってくれるように心から願っております。

しかし、これだけ大がかりな準備をして開かれるこの展覧会ですので、大きな反響をよびおこすことも考えられ、そのために私としては、それが若い画家たちに、多かれ少なかれ、好ましくない影響を与えるかもしれないことを恐れております。私の絵やデッサンの全貌を、ごく短時間に、上っ面だけで見た場合、私の作品が一見きわめて容易そうな外観をもっているだけに、彼らはそれをどんなふうに解釈することでしょうか。

私はつねに自分の苦心を隠そうとしてきました。私がどれだけきびしい労働を費やさねばならなかったなどということはだれ一人考えもしないように、作品が春の軽やかさと歓びをもつよう願ってきました。それゆえ、若い画家たちが私の作品の中に単に表面的な容易さ、デッサンの手軽さだけを見てとり、これを必要不可欠なある種の努力をおこたる口実に使うようになりはしないかと恐れるのです。

最近、2、3年のあいだに私が見る機会のあったいくつかの展覧会の印象からすると、若い画家たちは、色彩だけで構成すると称する現代画家の教育にとっては不可欠の、ゆっくりした,苦しみ多い修行というものを、避けているのではないでしょうか。

この、ゆっくりした苦しみ多い仕事は、避けて通るわけにはいかないものです。実際、正しい時季に耕しかえさなかったら、庭はたちまちひからびてしまいます。季節ごとに、土地は除草し、耕さねばならないはずです。

最後に出来上がった作品とはほとんど似ても似つかないような出発点の作品、そういう作品によって、のびざかりの時期に修行することを知らないような画家は、先の見込みはありません。また、「出来あがった」画家でも、時々地面にじかにたちかえる必要を感じなくなった場合には、自己模倣におちいってどうどうめぐりをはじめ、このくりかえしそのものによって、新鮮な好奇心をすっかり失ってしまうのです。

画家は「自然」を所有しなければなりません。彼は自然のリズムと一体にならねばなりません。そこで費やされる努力によって、技術が習得され、やがてそれが、自分自身の言葉で自己を表現することを可能にしてくれるのです。

未来の画家は、自分の発展にとって何が有益なのか―デッサンであれ、彫刻でさえもーを感じとらねばなりません。彼の感情をふるいたたせる事物ーつまり、私のいう「自然」ーの中に突きすすむことによって、彼を「自然」と合一させ一体にさせるあらゆるものを感じとるのです。私はデッサンによる勉強が最も肝要だと思います。デッサンが「精神」,色彩が「感覚」からくるものならば、まずデッサンすること、精神を耕すことによって、色彩を精神の小径にまで導き入れることが必要でしょう。私は声を大にしてこのことを叫びたいのです。わけても、若者にとって、絵画はもはや冒険ではなく、名声の道への第一歩である個展をしゃにむに開こうとするのが目標であるような事態を見るだけに、そのことを強調したいのです。

若い画家は、長い修業の期間を経たのち、色彩に手をつけるべきだすー単なる描写の色彩のことではありません。そうではなくて、内的表現の手段としての色彩のことです。それをやれば、彼は自分の描くあらゆる影像、いや、あらゆる象徴さえも、事物に対する彼の愛の反映となることを期待できるでしょう。彼が純粋に、自己をいつわることなく修業してきたならば、彼はこのことについて自信をもっていいのです。そのときには、彼ははっきりした認識をもって色彩を用いるでしょう。彼は色彩を、彼の感情から直接溢れ出る、未分化の、完全に隠されていた、自然の意図に沿って、画面に配置するでしょう。これこそトゥールーズ=ロートレックをして、その生涯の終わりにのぞんで「とうとう、私はこれ以上どうデッサンしたらいいかわからなくなってしまった。」と叫ばせたののなのです。

かけだしのがかは、自分がハートで描いていると思います。完成の域に達した画家も、同様、自分がハートで描くと思います。正しいのは後者だけです。というのも、彼は訓練と規律によって、衝動を受けとめ、それを、少なくとも部分的には、隠すことができるからです。

私はえらそうなことを言うつもりはありません。私の展覧会が、これから始めようとしている人々にまちがった解釈を与えないよう願っているだけです。私は人々に、色彩に近づくのは納屋の戸口から入るのとわけがちがうということを知ってもらいたいのです。それはそれにふさわしいきびしい準備が必要だと言いたいのです。しかし、何よりもまず明らかなことは、歌い手がいい声を、必要とするように、画家は色に対する素質をもたねばなりません。この素質なしには、どうにもならないのです。だれでもがコレッジオのように「吾もまた画家」と宣言するわけにはいかないのです。色彩画家(コロリスト)というものは単なる木炭デッサンでも、はっきりとその姿をあらわすのです。

クリフォードさん、これで手紙を終えます。あなたがしてくださっているご努力に対する謝意を述べつつ、筆のおもむくままに、デッサン、色彩、ならびに画家の修業における規律の重要性についての私の考えを開陳いたしました。もしこれらの考えがだれかにとって有益であるとお思いでしたら、この手紙をご自由に利用くださって結構です。

敬具

『アンリ・マティス(ヘンリ・クリフォードへの手紙、1948年2月14日ヴァンス)』大岡 信 訳 2007年7月18日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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