岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『素数の音楽』マーカス・デュ・ソートイ  新潮文庫

投稿日:2020-11-30 更新日:

『素数の音楽』マーカス・デュ・ソートイ  新潮文庫

第1章 億万長者になりたい人は?

■数学において、なぜ素数が重要なのか。それは、素数を使えばほかのあらゆる数が作れるからだ。素数でない数はすべて、素数をいくつかかけることで作りだせる。物質界にある分子はすべて、化学元素の周期表にある原子を使って作ることができる。素数の表は、いわば数学者の周期表であり、2や3や5といった素数は、数学者の実験室の水素やヘリウムやリチウムなのだ。数の構成要素であるこれら素数をとことん知り尽くすことができれば、広大で複雑な数学の世界をどう進んでいけばよいのか、その進路を定める新たな方法が見つかるかもしれない。(20~21頁)

■しかし素数は、基本的で単純そうに見えるにもかかわらず、数学者の研究対象のなかでももっとも謎めいた存在でありつづけている。パターンと秩序を見つけることをもっぱらとする数学という学問において、素数は究極の挑戦課題なのだ。素数の表を見てみると、どうやら次の素数がいつ現れるかは予想不可能であるらしい。素数の表はまるで秩序がなくでたらめで、次の数がどうやって決まるのか、皆目見当がつかない。そすうの表が数学の心臓の鼓動だとすると、その脈拍は、強力なカフェインを摂取したかのように乱れきっている。(21頁)

■数学者にすれば、自然が素数を定める方法に説明が付かないということは絶対に認められない。数学に構造がないとしたら、数学が美しく単純でなかったとしたら、そんなものは研究するに値しない。余暇にホワイトノイズに耳を傾けて楽しむなど、とうてい考えられないことだ。フランスの数学者アンリ・ポアンカレが記したように、「科学者が自然を研究するのは、自然が有益だからではない。喜びをもたらしてくれるから研究するのであり、なぜ喜びをもたらすかというと、自然が美しいからだ。自然が美しくなければ、そんなものは知るに値せず、自然が知るに値しないものだとすれば、人生も生きるにあたいしないものなのだ」。(22頁)

■しかも素数はこれほどでたらめに見えるにもかかわらず、数学が継承してきたほかのなによりも普遍的で、時空をも超越している。素数は、人類が素数を素数と認識できるようになる前から存在していたのだ。ケンブリッジの数学者G・Hハーディーが有名な著書『ある数学者の弁明』(邦題は『ある数学者の生涯と弁明』)で述べているように「317は、われわれが素数だと考えるから素数なのでなく、われわれの精神の形成とは無関係に、素数だから素数なのだ。数学的実在は、そのように作られているもの」なのである。(24頁)

■哲学者のなかには、人間存在を超えたところに絶対で永遠な現実が存在するというこのようなプラトン的な世界観に異議を唱える人々もいる。しかし思うに、それこそ説学者の哲学者たるゆえんで、数学者は違う。ポンピエリのメールに登場した数学者アラン・コンヌと神経生理学者のジャン=ピエール・シャンジューが、『考える物質』という本のなかで興味深い対話をしている。数学者であるコンヌが、数学は人間の精神の外にそんざいすると主張するのに対して、神経生理学者であるシャンジューが断固として異議を唱える場面で、コンヌとシャンジューの間の緊張が一気に高まる。コンヌが「不変で生の数学的実在は、人間の精神とは独立に存在する」といい、その数学世界の中心には不変の素数列があると言い張ると、シャンジューはいらだちとともに、「それならなぜ、空中に“π=3,1416”と金文字で書かれているのをこの目で見ることができないのだ?なぜ”6.02×10(23乗)”(訳注;化学で登場するアボガドロ数という定義を指す)という文字が水晶球に浮かび上がっているのを見ることができないのだ?」と迫る。コンヌによれば、「数学が唯一の不変的言語であることは否定できない!」のであって、宇宙の反対側にまったく別の生物学や化学が存在するするというのなら想像できるが、素数はどの銀河系にいっても素数なのだ。」(24~25頁)

■リーマンは、いってみれば数学の鏡を見つけ、それを通して素数をのぞき見ることでこの洞察を得た。『鏡の国のアリス』では、鏡のなかに踏み込んだとたん、世界がさかさまになる。これに対して、リーマンの鏡の向こうに広がる不思議な数学の世界では、素数の混乱状態が数学者の望みうるもっとも強固な秩序に変わる。リーマンは、鏡の向こうに果てしなく広がる世界をどこまで進んでも、この秩序が崩れることはないと考えた。鏡の向こう側にこのような秩序があるからこそ、素数はあれほど混沌として見えるのだ。ほとんどの数学者が、リーマンの鏡によって混乱が秩序へと変わる様子はまさに奇跡といってよい、と考えている。そしてリーマンは、自分が予想した秩序が実際に存在することの証明を数学界への課題として残した。(29頁)

■リーマンの残した課題の結果如何で、非常に多くの成果の当否が決まることから、英語でこの問いを指すときには、単なる「予想」という言葉ではなく「仮説」という言葉が使われている(訳注;日本語では以前から「リーマン予想」と呼ばれているので、ここでは前例に従った)。「仮説」という言葉を使うと、数学者が理論をうち立てるときに必要に迫られて作る作業仮説であることが強調される。これに対して「予想」というと、世界のしくみがどのようなものであるかをただ予測したものでしかなくなる。自分にはリーマンの謎は解けないという事実を受け入れたうえで、この予想を作業仮説として採用してきた人は多い。この「仮説」を「定理」にできたなら、これらすべての成果が正しいといえるのだ。(31頁)

■インターネット上のあらゆる商取引のセキュリティーが、100桁以上の素数にかかっている。インターネットの役割が拡大すれば、やがてひとりひとりに特定の素数が割り当てられ、身元確認に使われるようになるだろう。(33頁)

第2章 算術を構成する原子

■ケレスの軌跡に関して華々しい成功を収めはしたが、ガウスのほんとうの情熱を傾けていたのは、数の世界のパターンを見つけることだった。数の宇宙はガウスに向かって、ほかの人々の目には混沌しか見えないところに構造と秩序を見つけよ、という究極の課題を突きつけていた。(49頁)

■まだ若かったガウスの数額への最大の貢献のひとつに、時計計算機の発明がある。これは、実際に動く機械ではなくひとつの考え方であって、この考え方によって、それまで桁(けた)が大きすぎて手に負えないと思われていた数を計算できるようになった。時計計算機の原理は、ごく普通の時計とまったく変わらない。かりに時計が9時を指しているとして、そこに4時間を加えると時計の針は1時を指す。同様に、ガウスの時計計算機もこの足し算の答えとして、13ではなくて1を指す。さらに、7かける7のような計算をすると、時計計算機は7×7=49を12で割った余りを示す。したがって、この答えも1になる。(50頁)

■貧しい家庭に生まれたガウスは、運良く数学の才能を生かすチャンスに恵まれることとなった。当時はまだ、数学をしたければ、宮廷やパトロンの援助という特権を得るか、あるいはピエール・ド・フェルマーのようにアマチュアとして余暇にやしなむしかなかった。(51~52頁)

■ここに、ガウスが好んで「数学の女王」と呼んだ「数論」という分野が誕生したのである。ガウスにすれば、長年数学者を魅了し悩ませてきた素数こそが、この女王が戴(いただ)く冠の宝石だった。(52頁)

■今、15個の豆があるとして、これを5個ずつ3列に並べると長方形ができる。ところが17個の豆で長方形を作ろうとすると、17個をずらりと1列に並べるしかない。(53頁)

■ギリシャ人は、事物を構成している要素は火と空気と水と大地であると信じていた。この信念は的はずれだったが、算術の最小不可分な要素、つまり算術の原子についてのギリシャ人の考えは正鵠を射ていた。化学者たちは何百年にもわたって、自分たちの扱っている物体を構成する基本要素を特定しようと努力を重ねてきた。そしてついに、ギリシャ人の洞察はドミトリー・メンデレレーエフの周期表となって実を結び、化学元素を漏らさず数え上げた表が完成した。ところが数学の世界では、ギリシャ人が幸先よく計算の基本要素を突き止めたにもかかわらず、いまだに素数の表を理解しようと悪戦苦闘している。(54頁)

■素数表をはじめて作ったのは、アレクサンドリアにあった古代ギリシャの巨大な研究者の司書、エラトステネスだとされている。紀元前3世紀、エラトステネスは、たとえば1から1000までの数のうちのどの数が素数かを調べるわりと楽な手順を発見した。エラトステネスはまず、1から1000までの数をすべて書き出した。次に、最初の素数である2に注目し、そこから表の数をひとつおきに消していった。これらの数はすべて2で割り切れるから、素数ではない。次に、消されていない次の数、つまりこの場合でいう3に移り、表の数を今度は2つおきに消していく。これらの数もすべて3で割り切れるから、素数ではない。こうして、表に残っている次の数に移っては、その数で割り切れる数をすべて消すという作業を延々と繰り返すことで、エラトステネスは素数の表を作り上げた。この手法は後に「エラトステネスのふるい」と呼ばれるようになる。(54~55頁)

■1、2、6、10、15……

1、1、2、3、5、8、13……

1、2、3、7、11、15、22、30……

最初の列は3角数と呼ばれる数の列だ。たとえばこの列の10番目の列の10番目の数は、最初の列には1個の豆、2列目には2個の豆というように、次々に豆の数を増やしながら豆を並べていき、最後に10個の豆を並べて10段の3角形を作ったときの豆の総数になっている。(56~57頁)

■2番目の数列、1、1、2、3、5、8、13……は、いわゆるフィナボッチ数からなっている。この列の裏には、直前の2つの数を足すと新しい数になるという規則が潜んでいる。(59頁)

■さて、3つ目は1、2、3、7、11、15、22、30……という数列だが、これはひとまず後のお楽しみにとっておくことにしよう。20世紀のもっとも興味深い数学者のひとりシュリヴァーサ・ラマヌジャンは、この数列の性質に関する考察で名声を確立した。ラマヌジャンは、ほかの数学者たちがパターンをみつけようとしては失敗していた分野で新たなパターンや公式を見つける特異な才能を持っていた。(61頁)

■数学者は、数学の世界に存在するパターンや構造を発見したら、今度はそのパターンがいつまでも続くことを「証明」しなくてはならない。(64頁)

■数学におけるこのような推測や予想を、数学者は「予想」とか「仮説」と呼ぶ。(64頁)

■一方、先程述べた2Nを使った素数判別テストは、1819年に問題外だとして葬り去られることになった。このテストを使うと、340までのすべての数について正しい結果が得られて、その次の数341は素数だという結論が出る。しかし、341=11×31だから、この判定は間違いだ。この判例が見つかったのは、盤面が341時間のガウスの時計計算機を使って2341のような数が簡単に分析できるようになってからのことだった。通常の計算機では、2341は100桁を超えてしまう。(66頁)

■ハーディーによれば、

「(数学の世界を観察する人には)Aはくっきりと見えているが、Bは一瞬ちらりとしか見えない。観察者はついにAからはじまる稜を見つけ、その稜を最後までたどると最高点Bに達することに気づく。この観察者がほかの人にもBを見せたいと思ったなら、直接Bを指し示すか、自分自身がたどったように、Bへと続く稜をたどっていってBを指し示すことになる。その頂が相手に見えたとき、その研究と議論と証明は完了する。

証明とは、苦難に満ちた旅の物語であり、その旅程の緯度経度を記した地図であり、数学者の航海日誌である。証明を読むことで、その証明を成し遂げた人物と同じ世界が見えてくる。しかも、頂への道がわかるだけでなく、その先どんなことが起ころうとも、この新しいルートが崩れ去ることはないと確信できる。証明の細かい部分は省略されていることが多い。証明は、あくまでもその旅がどのようなものかを述べているのであって、必ずしも旅の一歩一歩を再現しているわけではない。数学者は証明を、読み手の心の中に激しい流れを引き起こすように組み立てる。ハーディーは数学者の証明についてこう述べている。それは、わたしとリトルウッドがガスと呼ぶもの、数々の心を揺さぶるように仕組まれた華やかなレトリックであり、講義における黒板の上の図であり、学生の想像力を刺激するための装置なのだ」(67~68頁)

■科学のほかの分野では、ほんとうに信頼できるのは実験で得られた証拠である、という態度が支配的だが、数学者には、いかなる数値データも証明なしには信用すべからず、という姿勢が染みついている。

あるいは、精神の産物である数学には形がないので、数学者たちは証明によって数学の世界にある種の現実感を与えようとしているのかもしれない。(69頁)

■他の分野では、ある世界像が何十年か後には崩れ去っているという可能性がある。しかし数学では、証明のおかげで、たとえば素数に関する事実は、将来なにが見つかろうと決して変わらないことが100パーセント保証されている。数学では、いわばピラミッドのような存在で、それぞれの世代が前の世代の業績の上に立って、足下が崩れる心配をせずに業績を積み上げていくことができる。数学者にすれば、この頑強さがクセになる。古代ギリシャ人のうち立てた業績が今でも正しいといえる科学の分野は、数学以外にない。(71頁)

■大学のほかの学部の人々は、数学者が証明によって手にする確信をあざけると同時に、うらやましくも思っている。ひとつの事象は証明によって永久不変のものとなり、ハーディーも触れた正真正銘の不朽の名声へとつながっていく。だからこそ、不確かな世界に暮らす人々が数学に引かれるのだ。数学は、現実の世界にうまく対処できずにいる若い頭脳に再三再四、逃避の場を提供してきた。(71頁)

■絶対的な証明にたどり着けると信じるなど、傲岸不遜にすぎるのではないか? 原子は不可分であるとする理論やニュートン力学の理論のように、あらゆる数が素数から作られているという証明も、覆(くつがえ)されるおそれがあるとは考えられないのか。しかしほとんどの数学者は、この先いくら詮索したところで、数に関して自明の真実とみなされてる公理は崩れないと信じている。そして、これらの基礎の上に数学を構築する際に用いられてきた論理法則を正しく使いさえすれば、数に関する言明は証明できる。さらに、新たな洞察が得られたとしても、その証明は決して崩れ去ることはないというのだ。哲学としては素朴かもしれないが、これが数学の中心をなす信条なのである。(72頁)

■数学とは、はたして想像するものなのか。それとも、発見するものなのか。数学者の多くは、自分がなにかを創り出しているという感じと、科学の絶対的真理を見出しているという感じの間を揺れている。数学的な着想は、個人に深く根ざしていて創造的な頭があるからこそ生まれたと感じられることが多い。そかしその一方で、数学者は論理的なものであって、数学者はみな不変の真実に満ちた同じひとつの数学的世界に暮らしているとも信じられている。真実は、ただそこで発見されるのを待っているだけであって、いかに創造的な思考をもってしても、真実を崩すことはできない。(73頁)

■すべての数学者にないざいするこの創造と発見のあいだの緊張を、ハーディーはみごとに捉えてみせた。「思うに、数学的な実在はわれわれの外にある。それを発見し、観察することがわれわれのつとめであって、われわれが証明し、自分たちが『創り出した』と大言壮語する定理もその観察発見に過ぎないのだ」とはいえふだんの彼は、一連の数学的研究をもっと芸術的に述べることを好んでいた。(73~74頁)

(岡野記;芸術も同じで、存在の法を超えるものは、そもそもあり得ない。偽や醜や悪は、時間の軌持によって必ず撓められる)

■たとえば、あらゆる数を素数の積で表せるということを証明するために、まず140という具体的な数の列を考える。今仮に、140以下の数がすべて素数あるいは素数の積になっていることまでは確認済みだとしよう。では、140そのものはどうであろう。この差ううが素数でなく、素数の積でもないはみ出しものだという可能性はあるだろうか。まず、この数が素数でないことがわかる。どうして? もっと小さな数の積になっているからだ。140は、たとえば4×35と書ける。これでもうだいじょうぶ。問題の140という数より小さな4や35が素数の積で表せることは、すでに確認済みだ。4は2×2となり、35は5×7になる。これらをまとめると、140は2×2×5×7と書くことができて、結局はみ出しものでなかったことがわかる。

ギリシャ人は、このような具体例をすべての数で成り立つ一般的な議論に読み替えるにはどうすればよいかを知っていた。とはいっても妙なことに、ギリシャ人たちは、素数でもなければ素数の積で表すこともできないはみ出しものの数が存在すると仮定することから議論を始めている。かりにそのような例外的な数があるとすれば、あらゆる数をずらりと並べたときに、最初に出てくるはみ出しものがあるはずだ。そこでそれをNとする。Nは素数ではないから、もっと小さな二つの数A、Bの積で表せるはずだ。そうでなければ、Nは素数になってしまう。

さて、AとBはいずれもNより小さいから、素数の積で表せるはずだ。そこで、Aを素数の積として表したものとBを素数の積として表したものをすべて掛け合わせると、元の数Nになる。つまり、N自体も素数の積で表せたことになるが、これは元々のNの選び方に反する。ということは、そもそも例外的な数Nが存在すると仮定したことが間違いだったわけで、すべての数は素数であるか、素数の積として表せるかのどちらかなのだ。(76~77頁)

■エウクレイデスは、「原論」のなかほどで数の性質を取り上げている。多くの人々が世界初のすばらしい数学的推論とするものが載っているのも、この部分である。エウクレイデスは命題20で、素数に関する単純だが奥深い真理を述べている。いわく、素数は無数にある。エウクレイデスは、素数をかければどのような数も得られるという事実から出発した。そして、証明を次のように構成した。どのような数もこれらの素数から作られているとして、このような要素が有限個しかないことがありえるだろうか。2003年現在メンデレーエフの作った化学元素周期表には、109の原子が載っていて(訳注 2013年現在、承認されている元素は114、承認待ちを含めると、118種にのぼる)、あらゆる物質はこれらの原子から作り上げることができる。はたして素数でも同じことがいえるのだろうか。数学界のメンデレーエフが、109の素数からなる表をエウクレイデスに見せて、この表から漏れている素数があることを証明せよと迫ったらどうなるのか。

たとえば、2と3と5と7をいろいろと組み合わせてかければあらゆる数が作り出せる、というようなことはありえないのか。エウクレイデスは、これらの素数から作り出せない数を見つけるにはどうすればよいか、考えた。「そんなのは簡単じゃないか。その次の素数11を持ってくればいいだろう」という人がいるかもしれない。なるほど、確かに2と3と5と7をどうかけても11にはならない。だが、このようなやり方は早晩破綻する。なぜなら今日に至るまで、次の素数がどこにあるかを保証する術(すべ)は、いっさいわかっていないから。となると、素数の表がどんなに長くてもうまくいくような、別の方針を試すしかない。

はたしてそれがエウクレイデス自身の着想なのか、あるいはアレクサンドリアのほかの誰かが思いついたものを記録しただけなのかは定かでないが、いずれにしてもエウクレイデスは、与えられた有限個の素数だけでは作れない素数を作る方法を示して見せた。素数2と3と5と7の例で考えよう。まずこれらすべての数を掛け合わせて、2×3×5×7=210を得る。そして、ここがエウクレイデスの天才たるゆえんなのだが、この積に1を足して211にした。この211という数は2、3、5、7のどれでも割り切れない。1を加えてあるため、どの素数で割っても必ず1余るのだ。

さて、エウクレイデスはあらゆる数が素数の積で表せることを知っていた。では、211はどうだろう。2、3、5、7では割り切れないのだから、他の素数があって211を割り切るはずだ。特にこの例では、211自体が素数になっている。しかしエウクレイデスは、こうして作った数が常に素数になると主張しているわけではない。できた数が数学界のメンデレーエフが提供したリストに載っていない素数で作られている、といっているだけなのだ。(78~80頁)

■たとえば誰かが、2、3、5、7、11、13という限られた素数を掛け合わせればすべての数を作り出せる、といったとする。これらの素数からエウクレイデスのように数を作ると、2×3×5×7×11×13=30031になる。しかし30031はそすうではない。エウクレイデスはあくまでも、有限個の素数の表を与えられたよきに、その表に素数だけでは作れない数を作ることができる、といっているにすぎない。今の例でいえば、30031を作るには、59と509の二つの素数が必要だ。しかしエウクレイデスにも、この新しい素数の正確な値を求める一般的な方法はわからなかった。そのような素数が存在することを知っていただけなのだ。(80~81頁)

■エウクレイデスのこの証明により、あらゆる素数を網羅した周期表を作るという望みは絶たれ、何十億という素数にコードをつけた素数ゲノムを発見する望みも潰えた。蝶を収集するようにただ素数を集めただけでは、素数を理解することはできないのだ。数学者たちを待ち受けていたのは、限られた武器を手に無限の広がりを持つ素数に切り込むという究極の課題だった。はたしてこんなめちゃくちゃな風景のなかに、道をつけることができるのだろうか。素数の行動を予測できるパターンをみつけることは可能なのだろうか。(81頁)

■そのころエカテリーナ女帝は、フランスの高名な哲学者にして無神論者であるドニ・ディドロを客人として招き、もてなしていた。ディドロはつねづね数学を酷評するきらいがあり、数学は経験になにものをも加味せず、せいぜい人間と自然とのあいだに帳(とばり)をかけるくらいのことしかできまいといってはばからなかった。だがエカテリーナ女帝は、じきにこの客人を厄介者扱いしはじめた。ディドロが数学を蔑(さげす)んだからではなく、廷臣たちの宗教心を揺るがそうとしたからだ。すぐにオイラーが宮廷に呼ばれて、このしゃくに障(さわ)る無神論者の口を封じたいので手を貸してほしいといわれた。オイラーはエカテリーナの庇護にたいする感謝の気持ちを表すべく、並み居る宮廷人の面前で大まじめな顔をしてディドロにいった。「お客人、(a +bn=x であるからして、神は存在するのです。さあ、あなたのお考えはいかに」この数学からの猛攻を前にして、ディドロはさっさと退却したといわれている。(88頁)

■科学の他の分野でなら、このような醜い数も決して珍しくはない。しかし数学の世界では、常にできる限り美的な構成が追求される。今から見ていくリーマン予想も、「醜い世界と美しい世界のどちらかひとつを選ぶとしたら、自然は常に美しい世界を選ぶ」という、数学者が広く共有する哲学の一例と見ることができる。数学者たちは、このような数学の美しさにいつも驚嘆し、うっとりするのだ。(110頁)

第3章 リーマンの架空の鏡

■ナポレオンにとって、教育は旧体制(アンシャンレジーム)の陋習(ろうしゅう)を撲滅するはずのものだった。教育こそが、新生フランスを作り上げる際の背骨である。そう考えたナポレオンは、パリにいくつかの研究所を創設した。今日まで名をとどろかせているこれらの研究所は、あらゆる階層の学生を受け入れる実力主義の単科大学で、教育や科学は社会に奉仕すべし、という教育哲学を特に重んじた。フランス革命当時の1794年には、ひとりの地方役人が大学教授に宛てて、「共和国の算術について」の講座を開設するよう求め、次のような手紙をしたためている。「拝啓。革命によってわれわれのモラルが高められ、われわれの、さらには来る世代の幸福への道が平坦になっただけではない。革命により、科学の進歩を妨げていた足かせもまたはずされたのである」(121頁)

■X2=–1という方程式の解となる数をどこからともなくひねり出すなんて、まるでいんちきのように思える。なぜ、この方程式には解がないという事実を受け入れないのだろう。たしかにそのような道もある。しかし、数学者はもっと楽観的でありたいと思うものなのだ。新しい数があるという考えを受け入れさえすれば、方程式が解ける。はじめは不安でも、このような創造的なステップにはためらいを押し切るだけの長所があって、いったん名前を付けてしまえば、その数が存在することは必然のように思われてくる。もはや人工的に作り出された数ではなく、ずっと前からそこに存在していたにもかかわらず、正しい問いかけをしなかったために見つからなかった数になるのである。一八世紀の数学者は、このような数があり得ることを認めまいとした。しかし一九世紀の数学者たちは勇敢にも、従来受け入れられてきた数学の規範に楯突くこの新たな思考様式は正しい、と信じることにした。(136~137頁)

■ありていにいうと、マイナス1の平方根は、2の平方根と同じくらい抽象的な概念だ。どちらも方程式の解として定義されているにすぎない。となると、新しい方程式が登場するたびに、新しい数を作り出さなければならないのだろうか。X2=–1という方程式が解きたくなったら、どうすればいい? 新たな解を表すために、次から次へと文字を使い続けなければならないのだろうか。そのような不安に終止符を打ったのが、1799年のガウスの博士論文だった。ガウスはこの論文で、これ以上新たな数が不要であることを証明した。i という数を使えば、どのような方程式でも解くことができる。方程式の解はすべて、通常の実数(分数や無理数)と新しい数 i で構成された数になっているのである。(137頁)

■ガウスの証明の鍵は、数直線上に実数が並んでいるという周知の図を拡張するところにあった。数直線は東西に伸びる直線で、その上のひとつひとつの点が数を表している。これらの数は、すべてギリシャ時代からなじみのある実数だ。しかしこの線上には虚数という新たな数、たとえばマイナス1の平方根の居場所がない。そこでガウスは、新しい方向を作り出したらどうなるかと考えた。1を、数直線から北に1単位長さいった点で表したらどうだろう? 方程式を解くのに必要な数は、たとえば1+2iのように、どれもiと普通の数を組み合わせた形になっている。ガウスは、あらゆる数をこの二次元の地図上の点で表せることに気づいた。つまり、虚数をこの地図上の座標と考えることができて、たとえば1+2iは、東に1単位いき、北に2単位いった点で表されるのだ。

ガウスは、虚数がこの想像上の世界の地図における方向の組みを表していると解釈することにした。虚数A+Biと虚数C+Diを加えるというのは、この二つの方向に続けて移動することで、たとえば6+3iに1+2iを加えると、7+5iに達する。(137~138頁)

■17世紀のデカルトは、幾何学の研究を数学と方程式に関する純粋な言明にしようとした。「感覚による理解は、感覚による欺(あざむ)きである」というのが、デカルトのモットーだった、居心地のよいシュマルフスの読書室でデカルトの著書を読んでいたリーマンは、こんなふうに物理的な図をはねつけるのは嫌だと思った。(139頁)

■ガウスは、虚数を表す自分の地図が当時の数学者たちに毛嫌いされることを知っていて、この図を証明からはずした。数は加えたりかけたりするものであって、図に描くものではない。ガウスが博士論文で使ったこの足場のことを白状したのは、40年ほど後のことだった。(140頁)

■関数は、いわばある数を入れると計算が行われて別の数が出てくるコンピュータプログラムのようなものだ。(141頁)

■このような波を作り出す関数をサイン関数という。サイン関数のグラフは、よく見かけるくり返しのある曲線で、360度ごとに同じ形が現れる。今日では、サイン関数はさまざまな日常の計算に利用されている。たとえば、角度を利用して地上からビルのてっぺんまでの高さを測るのにはサイン関数を使う。楽音を再生するときにもこのサイン波が鍵となるという事実が明らかになったのも、オイラーの時代のことだった。ピアノの調律に使う音叉を叩いたときに出るイ音のような純音は、このような波で表されるのだ。(142頁)

■オイラーが2xという関数に虚数を入れると、ある特定の音を表す波が姿を現した。オイラーは、ひとつひとつの音の特徴がそれに対応する虚数の係数によって決まることを示した。係数が大きくなって、虚数の地図の北にいけばいくほど音は高くなる。地図の東にいけばいくほど、音は大きくなる。オイラーの発見によって、虚数が数学の風景に予想外の道を切り開く可能性が、はじめて明らかになったのだった。数学者たちは、オイラーに続けとばかりにこの虚数の世界を旅しはじめ、新たな関係を発見しようという動きが伝染病のように広まった。(142~143頁)

■リーマンがゲッティンゲンでどうにか親交を結ぶことができた教授のひとりに、高名な物理学者ヴォルヘルム・ヴェーバーがいた。ヴェーバーは、ゲッティンゲンでガウスと一緒に数多くのプロジェクトを行っていた。科学界のシャーロック・ホームズとワトソン博士とでもいおうか、ガウスが理論的な支えを提供し、ヴェーバーがそれを実行する。なかでももっとも有名なのが、電磁気を使えば離れた場所のあいだで通信ができるという事実を検証する実験だった。ふたりはガウスの観測所とヴェーバーの研究室とを電信線でつなぎ、それを通してメッセージをやりとりした。

ガウスがこれを単なる物珍しい発見にすぎないと考えていたのに対し、ヴェーバーは、この発見からなにが始まるかをきちんと見据えていた。「地球が鉄道と電信線の網で覆われたとき」とヴェーバーは記している。「その網は、交通の手段として、また考えや感情を高速で伝播(でんぱ)するしゅだんとして、人間の体における神経システムにも匹敵する役割を果たすことになるだろう」電信機が急速に普及し、ガウスの発明した時計計算機が後にコンピュータセキュリティーの実現に寄与したことを考えれば、ガウスとヴェーバーはいわばイージービジネスとインターネットの祖父といえよう。ふたりの協力関係を永遠に称えるべく、ゲッティンゲン市にはふたりの彫像が立てられている。(145~146頁)

■リーマンは、ヴェーバーの助手をしながら幾何学や物理学について考えるうちに、物理学の根本的な問いは、すべて数学だけをつかって解くことができると確信するようになった。リーマンの数学に寄せるこの信頼は、やがて物理学のその後の発展によって裏付けられることになる。今では多くの人々が、リーマンの幾何学理論は科学に対するリーマンの最大の貢献のひとつだと考えており、実際のこの理論は、アインシュタインが20世紀初頭に科学に革命を引き起こす際の土台の一部になった。(147頁)

■数学者がこの無限和に関心を持ったきっかけは音楽にあり、元をたどるとギリシャ人の発見に行き着く、数学と音楽の基本的な関係にはじめて気がついたのは、ピタゴラスだった。ピタゴラスは、水を入れた壺を槌で叩いて音を立てた。次に水を半分に減らして壺を叩くと、音は1オクターブあがった。さらに水を減らし、3分の1、4分の1にして叩くと、最初の音と調和する音がした。これ以外の水量で音を立てても、元の音と調和しない。どうやらこれらの分数は、美しく聞こえることと関係しているようだった。1、2分の1、3分の1、4分の1……が調和するということに気づいたピタゴラスは宇宙全体を音楽が統べていると信じるようになり、「天空の音楽」という言葉を作った。(152頁)

■ライプニッツの言葉を借りれば、「音楽は、人間の頭脳が知らず知らずに数えることによって経験する喜び」なのである。(153頁)

■数学では美に重きがおかれていて、美しい証明とかエレガントな解法という話をよく耳にする。美に対する特別な感受性をもつ者だけが、数学的事実を発見できるのだ。数学者が望んでやまない解法の瞬間は、ピアノの鍵盤を強打しているうちに突然ほかの和音とは異なる調和を秘めた組み合わせが見つかる、あの瞬間にも似ている。(153頁)

■数学や音楽には記号という専門の言語があって、これを使えば、自分が創り出したり発見したパターンを表現することができる。譜面に書かれている2分音符や8分音符だけでは音楽にならないように、数学で使われる記号も、それに基づいて頭のなかで数学が奏でられたときにはじめて生き生きとしたものとなる。(154頁)

■バイオリンの弦の振動によって出る音が、基音とあらゆる倍数をすべて加えた無限和になっていることから、数学者たちは、数学の世界のこれと似た無限和に注目し始めた。こうして、1+1/2+1/3+1/4+1/5……という無限和は調和級数と呼ばれるようになった。この無限和はまた、ゼータ関数にx=1を入れたときの値でもある。次々に項を足していっても、この和はごくゆっくりと増えるだけだが、それでも14世紀には、最終的にこの和が無限大にふくれあがることが知られていた。

つまり、ゼータ関数にx=1を入れると、値は無限になる。だがx=1を入れではなく1より大きな数を入れると、もはや値は無限にはならない。たとえばx=2とすると、

1/12+1/22+1/32+1/42+1/52……=1+1/4+1/9+1/16+……

となって、調和級数の各項の二乗を加えることになる。すると、x=1の時より小さくなる。オイラーは、この場合の答えが無限ではなく、ある特定の値になることを知っていた。(155頁)

■見慣れたものを新しい言葉で表してみると、それまで見えなかったなにかが見えてくる場合がある。ディリクレはオイラーによる再公式化に触発されて、時計計算機に素数を入れると無限回1時を指すというフェルマータの予想を、ゼータ関数を使って証明しようと考えた。素数が無限にあるというエウクレイデスの議論だけでは、フェルマーの直感を確認することができなかったのだ。ところがオイラーの証明のおかげで、時計計算機で、1時を指しそうな素数だけを数えればよくなった。この証明は成功し、ディリクレは、素数に関する発見にオイラーのアイデアを活用した最初の人物となった(訳注;ディリクレは、ゼータ関数の形を少し変えたL関数という関数を作り、オイラーの論法を利用して、この事実「算術級数定理」を証明した)。これは、素数というユニークな数の理解に向けた大きな一歩だったが、素数生成の謎の解明には、まだまだ遠かった。(160頁)

■リーマンは、自分が素数をまったく新しい視点から見ていることに気づいた。ゼータ関数が、突然素数の秘密を明らかにするかもしれない音楽を奏ではじめたののである。(161頁)

■リーマンはゼータ関数のおかげで、素数を変身させる鏡を手に入れた。数学者たちはリーマンの論文に導かれ、不思議の国のアリスがウサギの穴を通るように、なじみの深い数の世界から直観に反することの多い新たな数学の世界に引き込まれていった。(162頁)

■この10ページの論文には視覚的なところがあったが、同時にひじょうにいららたしい著作であった。リーマンはガウスのように、論文をまとめるにあたって足跡を消すことが多かった。次々に結果を並べておきながら、その証明を述べる段になると、一応証明できたのだが自分の目からするとまだ発表するところまでいっていない、というじれったい言葉だけを書き残している。この論文にいくつかの欠陥があったことを思うと、リーマンが素数に関する論文を書きあげたこと自体が奇蹟といってよかった。論文作成をぐずぐずと先延ばしにしていたら、本人が証明はできないが正しいと考えていたあの予想も、この世に現れることはなかったはずだ。この10ページの文書のなかにほとんど気づかれることもなくひっそりと隠れていたのが、現在100万ドルの値がついている問題、リーマン予想だったのである。(163頁)

第4章 リーマン予想 でたらめな素数から秩序だったゼロ点へ

■ガウスがリーマンの学位論文にあれほど深い印象を受けたのも、この若き数学者が関数に虚数を入れる際に発揮する強烈な幾何学的直感力を目(ま)の当たりにしたからだ。(167頁)

■コーシーにとって、関数はあくまでも方程式で定義されるものだった。しかしリーマンはそこに、たとえ方程式から出発したとしても、ほんとうに重要なのは方程式によってていぎされたグラフの幾何学である。という見方を付け加えた。(168頁)

■虚数の地面全体を覆う完璧な風景を手にしたリーマンは、さらに考えを進めた。リーマンは博士課程に在籍中、この風景に関する重要で直観に反する事実をふたつ発見していた。まず、この風景の形状は非常に厳格で、この風景を拡張する方法はたったひとつしかない。西側の風景は、オイラーが描いた東側の風景によって完全に決められていて、好き勝手なところに丘を作ることはできない。すこしでも変更を加えようものなら、二つの風景の継ぎ目が裂けてしまうのだ。

この風景にまったく柔軟性がないというのは、すばらしい発見だった。この風景のほんのわずかな部分を地図にできさえすれば、残りも再現できることになる。リーマンは、ひとつひとつの丘や谷に、風景全体の地形に関する情報が含まれていることに気づいた。これはまったく直観に反している。現実世界の地図を作る場合に、オクスフォード近郊の地図ができたとたんにブリテン島全体の風景が決まるなんて、とうていありえない。

しかもリーマンは、この新しい奇妙な数学を巡って、もう一つ重要な発見をした。この風景のDNAともいうべきものを明らかにしたのである。この風景が二次元の虚数の地図のどこで海抜ゼロになっているか、その点がつきとめられれば、風景全体のすべてを再現できる。海抜ゼロの点を記した地図は、いわば虚の風景の宝の地図なのだ。これは驚くべき発見だった。現実世界では、世界中の海抜ゼロの地点の座標がすべてわかったからといって、アルプスを再現できるわけではない。だがこの虚数の風景では、ゼータ関数のゼロ点と呼ばれるこれらの点の位置さえわかればすべてがわかる。(173~174頁)

■リーマンは、この探索の出発点を忘れてはいなかった。このゼータ関数の風景は、オイラーの素数を使ったオイラー積によるゼータ関数の再公式化という一大転機(ビックバン)から生まれたのだった。同じ風景を作るのに、素数とゼロ点の両方が一役買っているのだから、ふたつのあいだにはなにか関係があるはずだ。リーマンはそう考えた。一つのものが二通りの方法で作られているという事実から、これらふたつが実は同じ式の二つの側面であることをつきとめられたのは、リーマンに非凡な才能があればこそだった。(174頁)

■つまりフーリエは、膨大な数の音叉を同時に鳴らせば、ひとつのオーケストラ全体の音を作り出せることを証明したのである。目隠しをした人間の耳には、どちらが本物のオーケストラでどちえあが何千という音叉なのか、区別がつかないはずだ。これは、CDの音の符号化の元になる原理で、オーディオ機器のスピーカーは、CDの指示に従って振動し、音色を構成するすべての正弦波を耳にした人は、オーケストラやバンドが居間で生演奏しているような不思議な感じを抱くことになる。(186頁)

■振動数の異なる純粋な正弦波を加えあわせることで再生できるのは、楽器の音だけでない。たとえば、周波数を合わせていないラジオやきちんと閉めていない蛇口から聞こえてくる意味のないホワイトノイズやテープを早回しにしたときの音は、正弦波の無限和で表される。オーケストラの音を再生するときには、互いの振動数をはっきり識別できるいくつかの波が必要なのに対して、ホワイトノイズはあらゆる振動数の波を含んでいる。(186頁)

■フーリエの革命的な洞察は、音の再生に留まらなかった。音以外の物理現象や数学現象を表すグラフを正弦波を使って描く方法がわかりはじめたのだ。当時は、正弦波のような単純なグラフを元にしてオーケストラの音色や蛇口から滴る水の音のような複雑なグラフを作り上げられるかずがない、と疑いの目を向ける人が多かった。実際、フランス数学界の長老の大半が、声を大にしてフーリエの考えに異を唱えた。しかし、ナポレオンという後ろ盾を得たフーリエは、ためらうことなく権威にたてつき、正弦波の振動数の選び方しだいでどのような複雑なグラフでも作れることを示してみせた。CDで、音叉の純音を組み合わせれば複雑な楽音が再生できるように、正弦波の高さを加えることによって、複雑なグラフの形を作ることができるのだ。(187頁)

■リーマンがあの10ページの論文で成し遂げたのは、まさにこれだった。フーリエとまったく同じように、ゼータ関数の作り出す風景のなかのゼロ点から導いた波動関数の高さを加えることで、素数の個数を表す階段状のグラフを再生したのである。したがってもしフーリエが生きていたなら、素数の個数に関するリーマンの式を、素数の音色を作り上げている基本的な音の発見と捉えたはずだ。素数が奏でる複雑な音は、階段状のグラフで表わされており、一方、リーマンがゼータ関数の風景のゼロ点から作り出した波は、いわば音叉の音のような純音で、基本となるこれらの音をいっせいに奏でたときに、素数の音色が再生されるのだ。では、リーマンが再生した素数の音楽はどんな調べだったのだろう。オーケストラの響きに似ているのだろうか。あるいは、蛇口から聞こえてくるホワイトノイズに似ているのか。リーマンの音にあらゆる振動数が含まれれていれば、素数はホワイトノイズを発する。だが孤立した振動数であれば、素数の音はオーケストラの響きに似ているはずだ。(187~188頁)

■したがって、素数が奏でる音はホワイトノイズではない。つまりゼロ点はそれぞれが独立していて、別々の音をだしている。自然は素数のなかに、音楽のオーケストラともいえる音楽を隠していたのだ。(188頁)

■リーマンの秘密の小道がいかに重要であるかは、後に数学者たちがこの線を「臨界線(クリティカルライン)」と呼ぶようになったことからもわかる。(192頁)

■リーマンは、自然がゼロ点を整頓するにあたっても、この対称軸を利用したにちがいないと考えた。(192頁)

第5章 数学のリレー競走 リーマンの革命が現実のものとなる

■リーマンが数学の大海にもたらした変化の意味を当時誰よりも正しく認識していたのは、どうやらヒルベルトだったらしい。リーマンは、公式や長々とした計算に集中するよりも、数学世界を支える構造やパターンを理解するほうが実り多いということをはっきりと理解していた。(208頁)

■自身が1897年に記しているように、ヒルベルトは「証明は計算によってではなく思考のみによって推し進められるべきだとするリーマンの原則」を実践したいと考えていた。(208頁)

■数学の抽象力を深く信じるヒルベルトにとって、対象が実在するかどうかはどうでもよかった。ヒルベルトは、これらの新しい幾何学の基礎となっている抽象的な構造や関係を研究しはじめた。重要なのは、対象物のあいだの関係だった。(212頁)

■「数学のあらゆる問題は解決できるというこの信念は数学者にとって大きな励ましであり刺激である。われわれの心の内には、次のような呼び声が響き続けている。『ここに問題がある。その解を求めよ。純粋な理性さえあれば、解は見つかる。なぜならば、数学に無知は存在しないのだから』」(ヒルベルト)(219~220頁)

■ヒルベルトはあるとき人に尋ねられて、リーマン予想は「数学の世界だけでなく、絶対的な意味で」もっとも重要な問題だと思う、と答えている。(222頁)

■一度、ヒルベルトをして、もうじきリーマン予想が解けると思わせる出来事があったといわれている。ある学生から、リーマン予想を解いたという手紙を受け取ったのだ。ヒルベルトはすぐにその証明に欠陥があるのに気づいたが、手法には感心した。いたましいことに、その学生は一年後に死亡し、ヒルベルトはその墓の前で弔辞を読んでほしいといわれた。そこでヒルベルトは学生の着想を称賛し、やがていつの日か、これらの着想に触発されてこの偉大な予想が証明される日が来ることを心待ちにしている、と述べた。そして「今かりに虚数上で定義された関数を考えると……」という言葉を皮切りに、いかにも現実社会から隔絶した数学者らしく、葬式の場にまるで似つかわしくない脱線をはじめた。学生の証明の欠陥について、詳細にまくし立てたのである。真偽のほどはさておき、いかにもありそうな話ではある。数学者は時として、視野狭笮を起こすものなのだ。(224頁)

■ハーディーはリーマン予想を証明した。ゼロ点は無限にあって、無数のゼロ点がリーマンの線上にあることをハーディーが証明したのだから、目的は達せられたはずだ。そうだろう?

残念ながら、無限はじつにつかみどころのない存在だ。(233頁)

■フェローになるには、ケンブリッジ大学が求める厳しい試験を次々にこなさなければならなかった。ハーディーは後になって、わざとらしい技巧的な問題や数学パズルを解くことに力点が置かれた試験制度のせいで、数学の学位を取った人間のほとんどが実は数学がどういうものなのかを知らずにいる、という事実にきづいた。1904年にはゲッティンゲンのある教授が、イギリスの学生に出される問題を皮肉って次のようなパロディーを作っている。「弾力性のある橋の上に、質量を無視できるような象がいる。その鼻の上に、質量mの蚊がいる。今、この象が鼻を回して蚊を動かしたときの、橋の振動を算出せよ」学生たちには、聖書のようにニュートンの『プリンピア』を引用することが求められた。内容を知っているといっても、その結果がどのような意味を持っているかを知っているのではなく、それが本の何ページに出ているかを知っているにすぎなかった。ハーディーは、イギリスの数学が荒廃したのはこのような制度のせいだと考えた。イギリスの数学者たちは、最終的にどれほど美しい音楽を奏でられるかも知らされぬまま、ひたすら音階を速くさらう稽古をさせられているようなものだった。(238~239頁)

■今やリーマン予想は、数学の殿堂を作るのに欠かせない構成要素になろうとしていた。(251頁)

■線から外れたゼロ点が見つかってリーマン予想の上に立てたすべての構造物が崩壊するかもしれないという危険は常につきまとっているのだから、数学者にも覚悟が必要だ。(251頁)

■素数はその本性を数の宇宙の奥底深く隠していて、人間の計算能力をはるか超えたところまで探りを入れなければ、その本性を目にすることはできない。素数のほんとうの振る舞いは、抽象的な証明という鋭い目を通してしか見えてこないのである。

リトルウッドの照明はまた、数学は本質的にほかの科学と異なると主張する人々にとってまたとない武器となった。数学者たちはもはや、最低限の計算を追って理論が進むという一七世紀や一八世紀風の経験主義では満足できなくなっていた。経験主義は、もはや数学の世界を進むのにふさわしい手段ではなかった。科学のほかの分野では、何百万ものデータがあれば十分な証拠になるかもしれない。しかしリトルウッドの手で、数学ではそんなものは薄氷に過ぎないことが示された。ここから先は証明がすべてなのだ。なにによらず、断固たる証拠なしには信用することができない。(252頁)

■神の考えを表すものでないかぎり、わたしにとって方程式は何の意味も持たない。 シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(254頁)

■若い科学者の生涯には、必ず将来の成長の鍵となる転回点がある。(256頁)

■ふたりは、世にも奇妙なこの無限和が、ラマヌジャンが再発見したリーマンのゼータ関数の風景の失われた部分の定義方法であることに気づいた。ラマヌジャンの公式を読み解くには、2という数を1/(2-1)と書き直せばよい(2-1は1/2の別の書き方)。ハーディーとリトルウッドは、ラマヌジャンの公式の無限和のすべての数をこのように書き直した。

1+2+3+……+n+……=1+1/2-1+1/3-1……1/n-1……=-(1/12)

  ふたりの目の前にあるのは、ゼータ関数にマイナス1を入れたときの値をどう計算するか、という問題に対するリーマンの答えだった。

■年を重ねるにつれ、ハーディーは気鬱に悩まされるようになった。ハーディーは、自分は常に若いと考えるタイプだった。老いた自分の顔を見るのが嫌で、部屋にはいるときには、必ずすべての鏡を裏返しにした。年とともに数学の能力が落ちることを忌みきらっており、『ある数学者の弁明』は、数学者としてのキャリアの終わりにさしかかった人間の手になる忘れがたい心情の吐露となっている。数学者が数学をしようと思ったら、「年を取りすぎてはだめなのだ。数学では、観察や熟考ではなく創造性が重要だ。創造する力や創造しようという意欲を失った者は、数学からさしたる慰めを得られない。しかも数学者は、創造力をかなり早くに失うことが多いのである」。

ハーディーもラマヌジャン同様、自分の命を絶とうとした。電車に飛び込むのではなく錠剤を飲んだ。しかし錠剤を吐いてしまい、結局評判を落としただけに終わった。C・P・スノーは病床のハーディーを見舞ったときのことを、こう回想している。「ハーディーは自虐的になっていた。自分はへまをしたのだ。これほど大きなへまをした人間が、かつていただろうか」『ある数学者の弁明』によれば、ハーディーにとってはマヌジャンが慰めだったという。「落ち込み、尊大で退屈な人々のいうことに耳を傾けなければならなくなると、今でも自分に言い聞かせる。『わたしは、余人には決してできないことをひとつした。リトルウッドやラマヌジャンと、対等といってもいいような形で共同研究をしたのだから』」(283~284頁)

■ヒルベルトが思索者と呼んだ人物は、実は計算の達人だった。リーマンは、集めた証拠のなかからパターンを見つけ、これらの計算の上に立って世界の概念図を作り上げていたのである。(295頁)

■数学の定理のなかには、いったん大まかな方向性が得られると、ごく自然に展開していくものがある。難しいのは、とっかかりからしばらくのルートを見つけることなのだ。それでも、セルバーグの評価を超えるのは容易なことではなかった。証明には非常に繊細な分析が必要で、ひとつの大きな着想で事が決まるのではなく、最後まで見通すにはおびただしい忍耐が要求される。ルートの至るところに罠がしかけられていて、一歩間違えればゼロより大きいはずの数が負になってしまう。一歩一歩非常に注意深く進まねばならず、容易に間違いが忍び込んでくるのである。(334頁)

■2003年現在、ゼロ点の割合の記録保持者は、オクラホマ州立大学のブライアン・コンリーである。コンリーは、1987年にゼロ点の40パーセントが線上にあることを示した。さらに評価を上げるためのアイデアがあるにはあるが、評価をあと数パーセント上げるのに必要な膨大な作業を考えるとそこまでしようとは思わない、とのことだ。「これが、50パーセントを超すところまで評価を上げられるのなら、やってみてもいいと思う。そうなれば、すべてとはいわないまでも、過半数のゼロ点が線上にあるといえるのだから」(335~336頁)

■エルデシュは、素数定理の初等的な証明が誰のものかを巡る議論で深く傷ついたが、それでも生涯を通じて数多くの成果を生みだし、老化や数学における燃え尽き症候群の神話などどこえやらといった勢いだった。プリンストンの研究所の常勤研究員になり損なうと、遍歴の数学者として生きることに決めた。家も仕事もなく、世界中にあまたいる友人の誰かの家を突然訪れ、そこで大好きな共同研究にふけり、何週間も滞在したかと思うと突然立ち去る、といった具合だった。エルデシュは、素数定理の最初の証明からちょうど100年後の1996年に死んだ。83歳になっても、あいかわらず共同論文を執筆し続け、死ぬ直前には、「素数を理解するには、少なくとも後100万年はかかるだろう」といった。(336頁)

■セルバーグはかって大戦後にコペンハーゲンで行った講演のなかで、リーマン予想が正しいと確信するだけの証拠はないのではないか、とこの予想に疑問を投げかけたことがあった。証拠があるというのは、希望的観測に過ぎないのではないか。しかし今やセルバーグの見方は変わった。戦後50年で明らかになった証拠は、それほど圧倒的だった。そしてその圧倒的な証拠を探り出したのは、第2次大戦のおかげ、わけてもプレッチリー・パークの暗号解読者のおかげで開発された機械だった。コンピューターである。(337~338頁)

■ゲーデルは子どもの頃、のべつ幕なしに質問を浴びせることから「どうして君」と呼ばれていた。(347頁)

■当時物理学者たちは、ヴェルナー・ハイゼンベルグの不確定性原理から、自分たちの知識に限度があるということを学んでいる最中だった。一方ゲーデルの証明は、数学者たちも自分たちの不確かさを受け入れていかなくてはならないということを示すものだった。ひょっとすると、突然数学そのものが幻想だと判明するかもしれない。数学者のほとんどは、まだ幻想だということになっていないのだから、これからもそうはならないだろうと考えて納得している。実際、無矛盾であるという根拠になりそうなモデルは存在する。しかし、そのモデルは無限に広がっていて、途中で公理と矛盾することが絶対にないとはいいきれない。それに、すでに見てきたような無邪気そうなものでさえ、数の宇宙のはるかかなたに実験や観察では遭遇するはずもない驚くべき事実を隠している場合がある。(350~351頁)

■しかもこれだけではなかった。ゲーデルは、博士論文にもうひとつ爆弾をしかけていた。かりに数学のある公理群が無矛盾だとすると、数に関する言明のなかに、常に成り立つにもかかわらずそれらの公理からは形式的に証明することができないものが存在するはずだ、というのである。これは、古代ギリシャの時代からの数学の精神そのものに反する主張だった。証明こそが数学における真理への道筋とされてきたのに、ゲーデルは、証明の力にたいするその信頼をもののみごとに吹き飛ばしたのだ。新しい公理を付け加えれば、数学の殿堂を繕うことができるだろうと考える者もいた。しかしゲーデルは、そのような努力が無駄であることを示した。数学の基礎にどれほどたくさんの公理を付け加えようと、必ず証明できない真の言明が残るのだ。(351頁)

■これが、ゲーデルの不完全性定理と呼ばれるものである。無矛盾な小売体系はすべて、それらの公理から演繹できない正しい言明が存在するという意味で、必然的に不完全なのだ。数学に対するこのテロ行為に、ゲーデルはほかでもない素数を援用した。数学の言明それぞれにゲーデル数と呼ばれる素数のコード番号を付け、これらの数を分析することによって、どのような公理群を選んできても、それらの公理からは証明できない正しい言明が必ず存在することを示したのである。(351頁)

■しかし、ゲーデルの成果を大げさに考えることは慎むべきだろう。数学の息の根が止められたわけではないのだから。ゲーデルの業績によって、これまで証明されてきたことが否定されたわけでもない。ゲーデルの定理が示しているのは、数学には公理から定理への演繹のほかにも実体が存在しているという事実なのだ。数学はただのチェスゲームではない。したがって、数学の上に殿堂を築き上げる作業が形式張っているのにたいして、基礎を展開する作業では、数学の世界について語るのに最適な公理はどのようなものかといったことが問題になり、数学者の直観に負う部分が大きくなる。(353頁)

■ニューマンは、ヒルベルトのプログラムが1930年にゲーデルによって根底から覆されたのを知ると、ゲーデルの複雑なアイデアを詳しく調べはじめた。そして5年後、ゲーデルの不完全性定理が理解できたと確信すると、連続講義を行った。この講義を聴いたチューリングは、ゲーデルの証明のみごとなひねりや展開にただただ呆然としていた。ニューマンは講義の最後を、チューリングの想像力に火をつけることになるひとつの問いでしめくくった。証明を付けられる言明と付けられない言明を峻別する方法ははたして存在するのか。ヒルベルトはこの問いを、「決定問題」と呼んでいた。(357頁)

■マンチェスターに移ると、チューリングにも、ブレッチリーでの暗号解読で身につけた専門的な技術を活用する時間がとれるようになった(もっとも、戦時下のチューリングの活動は長らく機密あつかいだったのだが)。そこでチューリングは、戦前夢中になっていたアイデアに立ち戻ることにした。機械を使ってリーマンの風景を使ってリーマンの風景を調べ、リーマン予想の反証、つまり臨界線からはずれているゼロ点を見つけようというのだ。ただし今回は、問題の特性を反映した構造の機械ではなく、ニューマンとともにブラウン管と磁気ドラムを使ってユニバーサルコンピュータを作り、さらにそのコンピュータで実行可能なプログラムをつくるつもりだった。(331~372頁)

■当然のことながら、理論上の機械はまったく問題なくスムーズに動く。しかし、チューリングもブレッチリー・パークで気づいたのだが、実際の機械ははるかに気まぐれだった。それでも1950年には新しい機械が完成し、ゼータ関数の風景に踏み込む準備が整った。戦前、リーマンの線上に載っているゼロ点の個数の最高記録を樹立していたのは、ハーディーの下で学んだこともあるテッド・ティッチマーシュだった。ティッチマーシュは最初の1041個のゼロ点がリーマン予想を満たすことを確認していたが、チューリングは自作の機械でこの記録を伸ばし、最初の1104個のゼロ点が線上にあることを確認した。しかし、チューリング自身も書いているように、「残念ながら、その時点で機械が壊れた」。壊れかけていたのは、機械だけではなかった。(372頁)

■分析には回されなかったが、リンゴがシアン化合物に浸されていたのはまちがいなかった。ディズニー映画「白雪姫」の、魔女が白雪姫を眠らせるために毒リンゴを作るシーンは、チューリングのお気に入りだった。「リンゴを秘薬に浸すのじゃ。永久の眠りが染みこむように」(373頁)

■「今の化学や生物学と違う化学や生物学と違う化学や生物学を想像することはできても、数に関する数学が今のものと異なるなんて、想像もできません。数について証明されたことは、どの宇宙にいっても事実なのです」(ジュリア・ロビンソン、1919-85、米、女性)(381頁)

■ロビンソンは、チューリングマシーンのひとつひとつに固有の方程式があるとする根拠を理解しようと試みた。チューリングマシーンが出力する数列につながるような答えを持つ方程式を捜したのだ。本人も、自分に課したこの問いをおもしろがっていた。「通常、数学では方程式がさきにあって、その答えを求めようとします。ところがここでは、答えが先にあって、それに合う方程式を見つけなくてはならないのです。わたしはこの問いが気に入りました」1948年に突然かき立てられた関心は、時とともに強迫観念になっていった。(383~384頁)

■マティヤセヴィッチとロビンソンは、どちらが証明を成し遂げたかを巡って争うことになった。とはいっても、自分を大きく見せようとしてのことではなかった。逆に、互いに困難な部分を成し遂げた相手だと言い張ったのだ。確かに、ジグソーパズルの最後のはめ終えたのはマティヤセヴィッチで、ヒルベルトの第10問題を解決したのはマティヤセヴィッチといわれることが多い。だがほんとうのことをいえば、ヒルベルトが1900年にこの問題を発表してから解決されるまでの70年のあいだに、大勢の数学者がその長い道のりに力を貸してきたのである。

この問題自体は「否(ノー)」という形で解かれ、方程式に解があるかどうかを判断できるようなプログラムはないということになったが、悪いことばかりではなかった。チューリングマシンの作る数列が方程式で表されるというロビンソンの着想は正しかった。つまり、素数の列を再生できるチューリングマシンが存在することがわかったのだ。ということは、ロビンソンやマティヤセヴィッチの結果からして、理論上、すべての素数を導き出す式が存在するはずだ。

はたして、ほんとうにこのような公式が見つかるのだろうか。マティヤセヴィッチは1971年に、問題の式を導く明確な手法を編み出したが、答えは求めなかった。AからZまでの26の変数を使ったこの素数公式がついにみつかったのは、1976年のことだった。(386~387頁)

■オイラーは、相当数の素数を作り出す方程式を見つけたものの、あらゆる素数を作り出す方程式を見つけたものの、あらゆる素数を作り出す方程式は見つけられそうにないと考えていた。だが、オイラー以降の時代は変わり、数学者はリーマンの精神を尊重するようになった。単に方程式や公式を研究するのではなく、その下に潜む構造や数学世界を流れるテーマを研究することが重要だと考えるようになったのだ。数学世界を探検する人々は、今や新たの世界への通路を地図にするのに大忙しで、この素数方程式の発見は時代錯誤な出来事だった。新しい世代の数学者からみれば、かつて探検されてすでに顧みられなくなった土地の非常に技巧的な調査結果でしかなかった。(389頁)

■分数の集合より大きく、πやルート2や無限小数といった無理数を含む実数の集合より小さい集合が存在するのか。

コーエンが1年後に提示した解を見て、おそらくヒルベルトは墓の中でのたうち回ったにちがいない。そのような集合はあるともいえるし、ないともいえるのだ。コーエンは、このもっとも基本的な問いがゲーデルの証明不可能な命題のひとつであることを証明した。こうして、たいしたことのない問題だけが決定不能であるという望みは潰 (つい)えたのだった。コーエンが証明したのは次のようなことだ。現代数学で使っている公理群から出発したのでは、分数の集合よりもはっきりと大きく、実数の集合よりもはっきりと小さい数の集合が存在することは証明できない。同様に、そのような集合が存在しないことも証明できない。さらにコーエンは、数学の公理群を満たしつつ、しかも一方ではカントールの問いへの答えが「イエス」になり、もう片方では「ノー」になるような、異なる2つの数学世界を実際に構築してみせた。(391頁)

■人によっては、コーエンのこの結果はわたしたちのまわりの現実せかいの幾何学だけでなく別の幾何学があるとするガウスの認識に匹敵するという。確かにそうもいえるだろう。だが、数学者は数という言葉の意味するものについて、しっかりとした感覚を持っているものなのであって、この結論はその感覚に抵触する。確かに、現在数に関する証明で使われている公理を満たす別の「超自然的な」数が存在するかもしれない。しかしほとんどの数学者は、カントールの問いに対する答えはひとつであって、数学の建造物を造る素材となっている数についてはそれが正しいと信じている。コーエンの証明に対する多くの数学者の反応は、ロビンソンがコーエン宛の手紙にしたためた次のような言葉に要約されている。「後生だから!『ほんとうの数論』はひとつしかないのよ!わたしは心からそう信じているの」だがロビンソンは、この手紙を投函する前に、この最後の一文を消したという。(392頁)

■コーエンの独創的な業績は数学の正統性を揺るがすものだったが、コーエンはそれによりフィールズ賞を受賞した。数学の従来の公理ではカントールの問いの答えは決められないという驚くべき事実を発見したコーエンは、引き続き、もっとも挑戦しがいのありそうなヒルベルトの問題に取りかかることにした。リーマン予想である。コーエンのように、この名うてのの難しい問題に取り組んでいることを認める数学者は希である。だが、今のところリーマン予想は、コーエンの攻撃にもびくともしていない。(392頁)

■メルセンヌが考えついたのは、2を幾度もかけておいて1を引いて素数を作るという方法だった。たとえば、2×2×2=7は素数になる。さらにメルセンヌは、2n乗-1が素数でありうるのは、nが素数であるときに限ることに気づいた。だが、メルセンヌ自身もしっていたように、nが素数でありさえすれば必ず2n乗-1が素数になるというわけではない。たとえば、11は素数だが2(11)乗-1は素数ではない。メルセンヌは、257まで

2、3、5、7、13、19、31、67、127、257

の時に限ると予想した。(398~399頁)

■コンピュータのほうが人間より計算がじょうずだというのなら、数学者はご用済みになるのではないのか? 幸いなことに、そうはならない。コンピュータの出現によって数学が終わるどころか、創造性に富んだ芸術家である数学者の存在が、単純な計算をこなすコンピュータとの対比でくっきりと浮かび上がってきている。コンピュータは確かに数学世界を進む数学者の強力な助っ人となり、リーマン山に登頂する際のたくましいシェルパとなる。しかし、絶対に数学者に取って代わることはできない。有限の計算をさせれば数学者に勝るが、無限に広がるイメージを思い浮かべて数学の底に潜む構造やパターンを明らかにする想像力は持っていないのだ。(408頁)

■ザギエが1級の懐疑論者なのに対して、ボンピエリは典型的なリーマン予想の信者だった。1970年代のはじめ、ボンピエリはまだプリンストンに移っておらず、母国イタリアの大学で教授を務めていた。ザギエいわく、「ボンピエリにとって、リーマン予想が正しいというのは絶対的な信条なのだ。リーマン予想がほんとうでなければならないというのは宗教的な信念であって、そうでなければ世界全体が間違っていることになる」。実際、ボンピエリは次のように述べている。「わたしは11年生のときに、数人の中世の哲学者について学んだ。ウィリアム・オブ・オッカムもそのひとりで、オッカムは、2つの説明のうちどちらかを選ばなければならなくなったら、常に単純なほうを選ぶべきだという考えを採用している。『オッカムのかみそり』と呼ばれるこの原則によって、困難は排除され、単純なほうが選ばれる」ボンピエリにとって、線からはずれたゼロ点はオーケストラの「ほかの音をかき消す、不快な」楽器であり、「ウィリアム・オブ・オッカムの信奉者として、わたしはこのような結論を却下し、リーマン予想の正しさを受け入れ」たのだった。(417~418頁)

■ガウスの時計計算機での足し算は、おなじみ12時間時計での時の計算と同じで、9時の4時間後が1時になる。つまり、数を足して答えを12で割った余りを求めるというのが、時計計算機の足し算の原則なのである。約200年前のガウスにならって、これを

4+9=1(modulo12)(訳注「1モデュロ12、あるいは「12を法として1」と読む)

と書くことにしよう。

ガウスの時計計算機でかけ算や数のべきを求めるときも同じで、普通に計算した答えを12で割って余りを求める。

ガウスは、12時間という時間にこだわらなくてもよいことに気づいていた。しかも、ガウスが時計算術の概念を明確に公式化する前に、フェルマーは時計算術について基本的な発見をしていた。素数p時間の時計計算機に関する「フェルマーの小定理」である。それによると、適当な数を選んでこの計算機でp乗すると、常に元の数に戻る。たとえば、5時間時計の場合、2を5乗すると32になるが、32は5時間時計の2時にあたる。どうやら、2をかけるたびに、時計の針が一定のパターンを描いているらしく、針は5回動いたところで元の位置に戻り、ふたたび同じパターンを繰り返す。(453~454頁)

■モンゴメリーが数学者として花開いたのは、1960年代の学校の数学教育における実験的な手法のおかげだった。この教育の狙いは、数学をしているときの数学者の精神そのものを体得させることにあった。周知の結果を、それがどのようにして発見されたかを説明せずに教え込むのはやめよう、それよりも、現役数学者の真の精神に触れさせようというのである。生徒たちは基本公理を習うと、演繹によって自力で結果を出すようにいわれた。できあがった記念碑を旅人のように見物するのででゃなく、演繹の規則だけを手に、自力で数学の殿堂を再構成せよ。こうしてモンゴメリーは数学への第一歩を踏み出した。(600頁)

■ダイソンによると、科学を探究する人には、鳥とカエルの2つのタイプがあるという。鳥はその領域の空高く舞い上がって、風景全体の雄大なつながりを俯瞰することができる。一方カエルは泥の中をぴちゃぴちゃと歩き回り、小さな池を泳いでまわって、そこになじむ。数学という学問は鳥向けで、自分はカエルだと思ったダイソンは、物理学の実際的な問題へと方向転換した。(512~513頁)

■20世紀初頭に浮かびあがってきた原子のイメージは、それ以上分割できない粒子から構成された小さな太陽系のようなものだった。ミニ太陽系の中心にある太陽は原子核と呼ばれ、やがて物理学者は、この原子核が陽子と中性子からできていることを突き止めた。原子核のまわりをまわっている電子は、いわば原子構造の惑星だ。ところが理論や実験が発展すると、物理学者たちはじきにこのモデルを考え直さなければならなくなった。原子の振る舞いが、惑星系よりドラムに似ていたのだ。ドラムを叩いたときの振動は、いくつかの基本的な振動パターンからなっていて、それらの基本的な波動は、それぞれ固有の振動数を持っている。理論上、振動数の種類は無限にあって、ドラムの音はさまざまな振動数の組み合わせになる。バイオリンの弦の和音と違って、ドラムの音はさまざまな振動数の組み合わせになる。バイオリンの弦の和音と違って、ドラムの音には、ドラムの形や皮の張り具合や外部の空気圧などで決まるさまざまな振動数が複雑に混じっている。オーケストラの打楽器の音の多くが似たように聞こえてしまうのは、ドラムが作り出す音の波動パターンが複雑だからなのだ。(516~517頁)

■ここで、ドラムの音を構成する複雑な振動の様子を目で見る方法を紹介しよう。18世紀の科学者エルンスト・クラドニは、ある実験を考案し、ヨーロッパの宮廷で実演してみせた(ナポレオンはとりわけこの実験が気に入って、クラニドに6000フランを与えたという)。クラドニは、ドラムの代わりに真四角な金属板を用意した。金属板を激しく叩くと大きくて耳障りな音がするが、クラドニはバイオリンの弓を使って板をうまく振動させ、その音を構成する振動数の異なる成分を取り出してみせた。板を薄く砂で覆っておくと、板の振動しない部分に砂が集まって奇妙なパターンができ、基本振動数それぞれに応じた振動の様子が実際に目に見えるようになるのだ。クラドニがバイオリンの弓であらためて板を振動させるたびに新たなパターンが現れて、前とは異なる振動数であることがわかる。(517頁)

■ドラムの表面に現れる模様、あるいは波形を説明するために、ひとつの数学理論が展開された。この理論の元をたどると、オイラーの波動方程式に行き着く。波動方程式にドラムの形や皮の張り具合やドラムを取り巻く空気圧といった物理的特徴を入れると、解として可能な波形が得られる。ただし原子の物理学には、ドラムの物理学と違って虚数が含まれている。原子の振る舞いを決定する方程式を解こうとした物理学者たちは、つかみどころのない虚数の世界に入らなければならないことに気づいた。量子物理学が妙に確率論的性質をもつのも、この虚数のせいだった。(519頁)

■量子物理学は、観察者が絡(から)む前の粒子になにが起こっているのかを解明しようとする。ところが、巨視的な世界に暮らすわれわれが量子の世界を観察するまでは、量子の世界は虚数の世界にのみ存在する。そして、われわれの観察からは一見不可解に思える観察結果を説明するのが、この虚数なのだ。たとえば、観察されていない電子は、同時に異なる2ヶ所に存在したり、いくつかのバラバラな振動数のエネルギー準位で振動できるように見える。われわれが量子の世界の出来事を観測する場合、その出来事をありのままに観察しているわけではなく、われわれの「実」世界、実数の世界に映ったその出来事の影をみているいるにすぎない。観察するという行為によって2次元の虚の世界が崩れて、実数の1次元の線になってしまう、といったところだろうか。観察する前の電子は、ドラムのようにいくつかの異なる振動数を組み合わせて振動している。ところが観測したとたんに、あらゆる振動数を同時に探知することは不可能となって、単一の振動数で振動している電子しか観測できなくなる。(520~521頁)

■ヒルベルトは、ハイゼンベルクが電子のエネルギー準位を説明するために展開した振動の数学を使えば、リーマンが作った風景のゼロ点の位置を説明できるのではないかと思いはじめていたが、その着想は、結局展開されることなく終わった。ところがモンゴメリーの発見によって、このヒルベルトのアイデアが、ふたたび取り上げられることになった。リーマンのゼロ点の振る舞いを理解するには、かってボルンとハイゼンベルクがエネルギー準位を説明するために創り出した量子ドラムの数学を使うのが一番だ、というのである。虚数と波動が混じり合って生じるのは、通常のオーケストラの奏でる音ではなく、量子物理学を源とするドラムに固有の波動群だった。それどころか、モンゴメリーがプリンストンでダイソンと話すうちに悟ったように、リーマンのゼロ点の位置にもっとも波長のあう振動数をもっていたのは、量子オーケストラのなかでももっとも複雑な原子だったのである。(521頁)

■どうやらコンヌは、それまでに数学の他の分野の謎を解明するにあたって使ってきたさまざまな強力な技法を用いてリーマン予想に取り組もうとしているようだった。コンヌが作り出した非可換幾何学という分野は、リーマン幾何学の現代版との呼び声が高かった。リーマン幾何学は19世紀数学の流れに多大な影響を与え、アインシュタインが相対性理論への道を前進できたのもリーマンの業績があればこそだったが、コンヌの非可換幾何学もまた、複雑な量子物理学の世界を理解する強力な言語であることが明らかになっていた。(564頁)

■コンヌの理論は抽象的で近寄りがたい感すらあるが、コンヌ自身は7歳のころの少年らしい陽気さを残している。コンヌにとって数学は、なによりも自分を究極の真理という概念に近づけてくれるものだった。コンヌは子どもの頃から数学にその身を捧げ、この目的を嬉々として追及してきたのである。コンヌ自身もいうように、「数学における実在は、空間にも時にも位置づけることができない。それだけに、ほんのちっぽけではあってもその実在を運良く発見できたときには、時空を超えた途方もない喜びがもたらされる」のである。(594~595頁)

■すでに見てきたように、素数のおかげで数学の従来無関係とされていた分野を隔てていた扉が開かれた。数論、幾何学、解析学、論理学、確率論、量子物理学、リーマン予想を解くために、これらすべてが結集した。そして、数学には新たな光が当てられ、数学者たちは、数学の各分野が驚くほど深く関連しあっているのを知って驚嘆することになった。数学は、パターンの学問ではなく、関係の学問になったのだ。(609頁)

■つながっていたのは、数学の分野だけではなかった。かつて素数は、象牙の塔の外ではまったく無意味な究極の抽象概念とみなされていた。G・H・ハーディーに代表されるように、数学者たちは、外の世界とのつながりに煩わされず、対象を一人きりで研究できることに喜びを感じてきたものだった。しかしリーマンなどの時代と違って、もはや素数研究は現実世界の苦悩からの逃避の場所ではなくなった。今や素数はコンピュータセキュリティーの中心に位置しており、量子物理学と響きあうことで、物理的な世界の性質についても語ってくれそうだ。

かりにリーマン予想が証明されたからといって、それですべてが終わるわけではない。たくさんの問いや予想が、出番を待って焦(じ)れている。リーマン予想が証明されなければはじまらないとばかりに、数多くの心躍る新たな数学が待ち構えているのだ。リーマン予想の解決は、いわば地図に載っていない処女地のとば口であり、物事の始まりなのである。アンドリュー・ワイルズによれば、17世紀の冒険家たちが、経度の問題が解決されてはじめて海原にこぎ出せるようになった如く、われわれも、リーマン予想が証明されてはじめて未知の世界にこぎ出せるようになる。(609~610頁)

■それまでは、すべてを理解することはできないにしても、この気まぐれな音楽にうっとりと耳を傾けることにしよう。素数は、常に数学世界を探検する数学者の仲間でありながら、どの数よりも謎に満ちた存在であり続けている。偉大な数学者たちが、この神秘的な音楽の転調や変化を理解しようと最善を尽くしてきたにもかかわらず、その謎は未だに解けずにいる。素数を歌わせた数学者として永遠に名を残すはずの人物の登場が、今なお待たれているのである。(610頁)

(2019年12月9日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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