『哲学は人生の役に立つのか』木田 元著 PHP新書
■ギリシャの哲学者は、ソクラテスにしても、プラトンにしても体力はすごくありました。プラトンは、少年時代にレスリングの試合に出たと言われています。プラトンというのは「広い」という意味の形容詞で、肩幅が広いので、体操の先生がつけた綽名なんですね。本名はアリストクレースというのですが、「ひろし」とでもいう綽名で歴史に残ったわけです。(岡野;浩二の「浩」はおおきい、ひろい、という意味)(93頁)
■このあたりは、アメリカの文芸評論家のジョージ・スタイナーの請け売りなのですが(ジョージ・スタイナー『マルティン・ハイデガー』生松敬三訳、岩波現代文庫所収)、「黙示録」というのは、ユダヤ教やキリスト教で、現世の終末と来たるべき新しい世界についての神の秘密の教えを告知する文書のことです。(122~123頁)
■しかし、『存在と時間』が当時一般にそう思われていたようないわゆる実存哲学の本でないことだけははっきりしてきました。ハイデガー自身が、ここでおこなっている人間存在の分析は、本論である「存在一般の意味の究明」をおこなうための準備作業であって、それがこの本の本来の意図ではないと行っているのはそのとおりだと思いました。
実存哲学というのは、自分にとってかけがえのない自分自身の存在と向き合い、それをいかに引き受けていくかということを主題とする哲学なのですが、『存在と時間』はそうしたことを企てているわけではない。たしかに、そうした角度から人間存在を分析してはいくのですが、ハイデガーのやり方はかなり形式的で、たとえばキルケゴールのような切実さはありません。私も、自分がこの本に「わが身一つをいかにすべきか」という問いの答を求めたのは、どうやら間違いだったということに気づきはじめてはいたのです。(166頁)
■72年(岡野注;1972年)と言えば、いわゆる学園闘争が一段落したころです。。あの闘争の最中に、大学院の学生たちが、「もう欧米の哲学書を原書で読んで満足している時代ではない、自分たちの言葉で自分たちの思索を展開すべきだ」などと言い出して、自主ゼミなるものをはじめました。なにをするのかなと思って見ていると、ルカーチの『歴史と階級意識』を翻訳で、それも途中を飛ばしながら読むだけなのです。要するに外国語の読解でいじめられるのはもうゴメンだ、ということだったのでしょう。
「自分で考える」などと言っても、そう簡単にできるものではありません。深く考えるにも、深く感じるにも、それなりの訓練が必要なのです。深く感じることができるようになるためには、深く感じることができた詩人や作家の作品を読んで、その感じ方に共感し、学びとる必要があります。深く考えることができるようになるためにも、よく考えて書かれた本を、はじめの一行から最後の一行まで丹念に読んで、その思考を追いかけながら学びとる訓練をしなければならないのです。だまって眼をつぶれば、ひとりでに思考が湧いてくるというものではありません。(187~188頁)
2009年10月21日