岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

画中日記(2014年)

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画中日記(2014年)

 2014.02.18 【私のフェイスブックより】

現在、私のフェイスブックには『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』(中村元訳 岩波文庫)の抜き書きを投稿しているのだが(サイト内の【読書ノート】に載せています)、2月10日に載せた文章と、それに対する質問と、私の応答を下記に転載します。

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『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』中村元訳 岩波文庫(114)

第16章 愛 す る も の

212)愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213)愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば、憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

214)快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生ずる。快楽を離れたならば、憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

215)欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生ずる。欲情を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。

216)妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生ずる。妄執を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。

(岡野注:ブッダの言う愛は、愛執というような意味で、自己愛の延長線上のものであります。ギリシャ哲学では愛にエロスとアガペーの2種類がありますが、自己愛を捨てても残る愛(アガペー)を否定しているものではありません)

M,M;キリスト教では 愛には色んな種類があると認めているのに、仏教では愛は執着に繋がって超越出来ないから必要ないというのですか?。向上心は執着ではないのですか?超越と独善とはどこが違うのでしょうか?未熟ですいません。

岡野岬石;諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂淨」を3法印といいます。世界は時間的には無常だし、空間的には無我(無実体)です。無常、無我を、常在るもの、実体あるものと誤って執著することが人生の苦しみと不幸の原因だとおもいます。

手にした喜びとそれを失う不幸、手に入らない不幸とそれを手にした喜び、喜びも不幸もそれに執著すると「一切皆苦」です。「諸行無常」、「諸法無我」と悟れば「涅槃寂淨」の幸せな世界が開けています。

超越(実存を越えたモノ、真・善・美)に対する向上心を持てば、実存内の執着心(欲望)はむしろ消えていきますし、逆に、実存内の執着心(欲望)は、超越に向う向上心の妨げとなります。

超越と独善、天才と狂人、はハッキリと違います。袋を現実世界に例えると、下に突き破るのが狂人で、横に突き破るのが変人、上(天の方向)に突き破るのが天才です。

超越は歴史のフィルターにかからず、いつまでも存在し続け(普遍)ます。そして、超越は世界や自己と分れて別に在るのではなくて、今(而今)、ここ、自己、全存在にフラクタルに現成しています。つまり、「存在」が超越なのです。

 2014.04.17 【御殿場線の車窓から】

相方の都合で、小田急線の秦野から車で山中湖まで行けない時は、柏から千代田線で代々木上原、代々木上原から小田急線で新松田、フォームを出て松田から御殿場線で御殿場、御殿場から富士急の路線バスで山中湖一の橋バス停と乗り継いで行く。途中のすべての車窓からの眺めは見飽きることがない。特に御殿場線の山北駅、谷峨駅、駿河小山駅の区間は、日本人の優れた技術力と、信仰に近い職業モラルの高さが、随処に見られ、この世界観を一人一人の日本人が引き継ぎ、持ち続けるかぎり日本国の未来は大丈夫だと安心する。

明治22年から昭和9年の丹那トンネルの開通による熱海経由の路線変更まで、御殿場線は、国の東西の物流の大動脈の東海道本線の一部分だった。今は単線だが、かっての複線だった時に使われていたトンネルも特に塞がれていないようなので歩いてみたいものだ。トンネルや橋梁をつくり、鉄路を敷設し、あの大きな鉄のカタマリのSLを、しかもそれを石炭で湧かした湯気(水蒸気)で動かして運転してギリギリ可能な勾配を上り下りするんだよ。その、仕事への責任感と日日やり遂げる誇りと喜びは沿線の風景の端々に今も生き続け美しい。そして、無名の鉄道マンにかぎらず、無名の他の職業の一人一人の男の職業モラルの集積で現在の風景が現成しているのだ。その無名の男達が、新たな大動脈の東名高速道路も一般道の道路も難事業をこともなげに成し遂げたのだ。「フーテンの寅」のような人物をバカにして笑っても、カッコいいとおもい憧れるような大人の男は私の子供時代はいなかった。やはり、団塊の世代の齟齬が、最近ネットで散見するマスコミの時代錯誤の言動を生むのかな。

 2014.04.18 【「御殿場線の車窓から」のコメント返し】

昨日の【画中日記】を私のFBに転載すると、今朝画家の住谷美知江さんからコメントが入っていた。簡単なコメントを返そうとパソコンに向ったのだが、いつもの通り、話がどんどん深みに入り込んでしまった。コメント返しにしては、手間ひまがかかりいい文章が書けたので、ここにコピーして転載します。

日本の産業遺構はどれも技術の高さ、美意識、優しさがディテールまで充満しています。それは、大きく概念を拡げれば、世界を主觀と客観とに分け、歴史を弁証法的に捉える近代西洋進歩史観(つまり、自分の周りに対してけんか腰で生きてゆく)とはことなる、仏教的世界観を国民の一人一人が持ち続けていたからでしょう。この仏教的世界観歴史観は、夏目漱石のように日本人の西洋人に対して恥ずべきところと考えるのではなく、むしろ誇るべき美点としてとらえるべきです。誇り高く、つつましく、良い仕事をすれば、そしてそういう国で生きられる幸せ(周りの人がけんか腰の人ばかりの社会で生きてゆく不幸を想像してみてください)は、しっかりと自分の仕事の結果、画家の場合作品で伝承していかなければなりません。

 2014.06.29 【道元】

最近読んでいる本は、「菅江真澄」関係と「道元」関係の本にしぼられている。山中湖行の電車の中は菅江真澄の『菅江真澄遊覧記(1~5)』、寝る前のベッドのなかでは道元。『正法眼蔵』(岩波文庫、1~4)は読み終えているが、今読んでいる『道元集』(日本の思想2、筑摩書房)は現代語訳が付いているので読みやすい。

私のサイト内の【読書ノート】にアップする予定の本が何冊もたまっているので、今読んでいる本もいつパソコンに打ち込めるか分からない。先になって取り紛れないように、メモ及び忘備録代わりにココに記しておきます。

■直下承当(ちょっかじょうとう、岡野注;古文では、じきげじょうとう)

そもそも、人はみな身心があります。その作(はたらき)には強い、弱いがあります。勇敢なのと、にぶくて劣っているのとです。あるいは動き、あるいは要儀をなすところ、この身心をもって直接に仏を実証する、これが承当(じょうとう)です。よく言われる、従来(これまで)の身心をどこへどう廻転(めぐら)すこともなく、ただ身心が真実を実証するに随ってゆくのを直下(ちょっか)と名づけ、承当と名づけるのです。ただ身心の真実に随ってゆくのです、ですから、古くからもっていた見解ではありません。ただその真実をそっくり承当(うけとつ)てゆくだけです、ですから、新しくもぐりこむ巣のようなものではないのです。(89頁)

■現成公按

「現成公按(げんじょうこうあん)」の「現成」とは、絶対の真実が今目の前に実現していることである。「公按」の「公」は平等、「按」は「分を守る」ことである(『正法眼蔵抄』の解釈による)。つまり「現成公按」とは、絶対の真実が現前していることであり、それはあらゆるものごとが平等に分を守っていることである。これが「諸法が仏法である」ということである。大乗仏教でよく言われる本来成仏ということも、つまりは一切が本来仏であったということである。

そして、この「一切が仏である」という事実は、人間のはからいと一切関係ない。このわたしではない。それが「万法われにあらざる」ということである。ここから、概念の世界をそのままにして、生きている身体をもってする修行が行なわれる。「仏道もとより豊険より超出す」とはこのことである。(135頁)

 2014.07.25 【道元の全元論】

先日、9月に展覧する第9回『視惟展』のDMを届けに事務局の綾氏と写真家の足立氏がアトリエに来訪した。事務的な話を早々に済ませて、あとは何時もの通り、芸術、哲学の話になった。綾氏と1時間、綾氏が帰ってから足立氏と5時間、休憩なしに、ほとんど私が一方的にしゃべりまくった。こういう話になると私は嬉しくて止まらなくなり、聞いてくれる人の顔色など眼中に入らない。話の内容は、道元の「全元論(私の造語、道元及び仏教的世界観のキーワード)」に終始した。録音したので、近く何回かに分けて、ユーチューブにアップします。道元とセザンヌについては本にまとめたいけれど、とりあえず、自己流の編集で簡単にユーチューブに投稿できるので、いまやパソコンは、発信一方の、話を聞いてもらいたい老人にはたまらないツールになっている。

下記の文章は、2005年に出版した『芸術の杣径』の「まえがき」の文章の一部で、今もまったく変わっていません。

僕には弱点がある。僕は落語『寝床』の大家を自認している。大家の義太夫好きと同じように僕に芸術論や哲学の話をさせたら、嬉しくて嬉しくてもう止まらないのだ。他の分野の事にはほとんど話題はないのだけれど、日常生活の90%の時間は画家として過ごしているのだから、当然その事について他人に話したいことが山ほど溜まってくる。僕を知らない人は一度か二度は聞いてくれる。しかし三度目位からはあきらかにへきえきとした様子で帰りたがる。そんな時はアトリエの鍵を掛けても帰したくない。丁度、蔵に逃げ込んだ番頭を追いかけて外から鍵を掛けて閉じ込め、蔵の小さな窓から義太夫を唸り込んだ大家の気持ちが痛いほど良く分る。もう周りには、僕の話を聞いてくれる人はいないのだ。歳をとるるごとにその傾向は増して今では他の画家や友人に至るまで酒肴を用意しても聞いてくれる人はいないのだ。

そんな僕に越智氏と原田さんが涎のでそうな提案をしてきた。二人を前にして僕が思う存分話し、それをテープに取って文章に起こし、その文章を基にして僕がもう一度パソコンのワードでリライトしたらどうでしょう、というものだ。ワードでのリライトは憂鬱だが、二人を前に思う存分義太夫を語れる誘惑には『寝床』の大家には抗し難いものがある。おまけに、二人は煽て上手ときている。気がついたら僕は義太夫を唸っていた。

というわけで、この本は2004年の11月から2005年の5月まで合計四回二人がアトリエに来てテープに取った僕の発言を原田さんが文章に起こし、僕がもう一度リライトしたものです。調子に乗って舌禍したところも度々ありますがあえて頑固爺で押し切ります。また直接公開を問わず、僕の独断的芸術論に対しての反論も大歓迎です。ディベートも大好きですので。

思い返せば、僕の画業にとってマチスの『画家のノート』(みすず書房)はどれだけ役に立ったか計り知れない。僕がマチスの本に助けられ、励まされたように、この本がこれから孤独で厳しい芸術の道を歩もうと志している若い画家の人達に少しでも参考になれば法外の幸せです。そして、この本を読んだ若い絵描きがアトリエに僕の芸術論を聞きに訪ねて来てくれることを「寝床」の大家は独り首を長くして待っています。

(2005年10月22日 アトリエにて)

 2014.08.08 【『道元の全元論』のコメント返し】

今日、山中湖から帰ってきてパソコンを開いたら先日ユーチューブに投稿した足立氏との対談の動画に、画家の住谷美知江さんからコメントが入っていた。

(自分が無になって、身体が自然に動き世界が描けるようになる事が理想です。現実には、なかなか難しいですが、少しでも持続するには、日常生活を大切に、描きつづけるしかありません。でも描きつづける事は幸せな事です。)

コメントを読んでから、【山中湖村だより】を書いたのだが、30年以上前に、文房堂のジュリアンボックスを買って、初めてイーゼル画を描きに、自転車で近くの公園に行った時のことを思い出す。写真や資料やスケッチやイメージから絵を描くのと、現場で視線ごとの交換でタッチを重ねていく方法論の違いに気付かず、何をしていいのかまったく手も足もでなかったのだ。その後、小豆島や三陸海岸に何度かスケッチ旅行でトライしたのだが、やはり惨憺たるありさまだった。

それが、今日の【山中湖村だより】のように、どんな条件や状況であろうとも、目と手が、停滞なく自動的に動く、西田哲学の言う「行為的直感」で画面を埋めるスキルが身についてきた。やるもんだなぁ、2010年に、腹を括って東伊豆で家を借りてイーゼル絵画に取り組み、今年で4年間、ここまで来たんだね。

達磨が武帝と交わした問答で出てくる言葉、「廓然無聖(かくねんむしょう)」の畢竟地(ひっきょうち)の幸福感だよ、これは。(廓然無聖や畢竟地はグーグルで調べてください)

 2014.10.14 【『ビル エバンス】

私は、高校3年生の時から、50台以降の超越的実在論者になる前(今は道元の全元論者)まで「実存主義」を世界観にして生きていた。1950年~1960年代パリのセーヌ左岸の実存主義者達の間に、アメリカの黒人から生まれたジャズがもてはやされたように、私の芸大生時代の日本でもモダンジャズブームが沸騰していた。その頃のビル エバンスはジョン コルトレーン等のハードでファンキーな、いかにも実存主義的な黒人ミュージシャンに比べ、リリカルで美しく、白人のあまい音楽と見られていたようだ。現に、私がなけなしのお金で、秋葉原のイシマル電気などで、LPレコードを買う時にはエバンスのLPは1枚も買わなかった。

1980年代の中頃、CDプレイヤーを買い、その時にリバーサイド・イヤーズのビル エバンス全吹き込み147曲を収録した12枚組ボックスセットを3万6千円で買ったのが、まとめて彼の曲を聴いた最初の体験だった。時代の変化と、私自身の世界観の変転のせいで、実存主義の表現主義的(自己表現)な臭いが鼻についてきていた頃なので、一気にエバンスの美しさにのめり込んでしまった。

ジャズはこの後、革新的前衛的なフリージャズの方向と、クラシックと融合する方向に分かれてゆくのだが、2014年の今は、フリーの方向(表現の方向)は行き詰まりほとんど耳にしないが、キース・ジャレットや加古隆の方向(美の方向)の音楽をあちこちのBGMでよく耳にする。戦後の日本では、バブルまでの実存主義的時代には、あまり耳にしなかったクラシック音楽やオペラが、最近よく耳にするのも、きっとおなじ時代背景で、これは、美術も同じ。慰安婦捏造問題やヒッピー、アンダーグラウンド、反体制運動とおなじ根(「造反有理」)で、あの時代の世界観の齟齬だったのだろう。

自我を否定する、むしろ自己放下を説く道元の世界観に心粋している、現在の自分にとって、美しいといってもやはりジャズは実存主義的で、ほとんど聞く機会はないが、久しぶりにユーチューブで聞くと、そして映像を見ると、一気に当時の時間と空間が甦る。人生派的な甘酸っぱい感傷で、イカン!イカン!のだが……。

(リバーサイド・イヤーズのビル エバンス全吹き込み147曲を収録した12枚組ボックスセットの中で一番好きだった曲「スパルタカス、愛のテーマ」がユーチューブにアップされていたのでシェアしました)

 2014.10.11 【アゲハチョウの蛹(1)】

前から気付いていたが、柏のアトリエの壁にアゲハの蛹が2匹くっついている。前の家のミカンかユズの葉を食べ、はるばる道を越えてアトリエの壁で蛹になったのは、今年の何らかの条件でそうなったのだろう。先日の台風の大雨にも耐え、この蛹は冬を越して来春羽化する。いっとき、ホームの他の人のタイムラインでキアゲハの幼虫を鳥の被害から守るために、室内で育て羽化させていたが、これは蝶にとっては有難迷惑だったかな。

そもそも、蝶が幼虫、蛹、蝶と完全変態する理由とは何かというと、幼虫は食べるということに特化し、成虫は生殖に特化するために、姿形(すがたかたち)から行動まで変化する。つまり、幼虫の行動様式のまま成虫になると、交尾相手の選択範囲が狭くて種の劣化が免れない。羽化した蝶は飛びまわって交尾の相手に出会い、食草に卵をうむ。

つまり、どんな動物、どんな虫、どんな微生物(どんな物にとっても)も、周りの環境とずれると生きていけないのだ。季節はずれに羽化した蝶は、交尾する相手と、もし交尾できたとしても、産卵する食草と、産卵できたとしても幼虫が育つ食物の量が確保できるかという問題と、そもそも、冬の寒さを越すという問題のすべてをクリアしなければならない。

人間も、動物も、昆虫も、この世界に生まれ、生きていくことは、奇跡的なことなのだ。

 2014.10.21 【アゲハチョウの蛹(2)】

今日の午後、銀行と買い物に自転車で外に出て帰ると、先日のアゲハチョウの2匹の蛹のうちの一匹が死んでいた。中身がなくて外皮に穴があいているので、たぶん、寄生蜂に卵を産みつけられていたのだろう。そういえば、もう一匹の蛹と頭の方の色が違っていたかナ。世界は、どんな隅々も、オールオーバーに「現成公按」している。

(改めて10月11日の写真を見ると、すでに蛹の外皮に穴があいていました)

 2014.11.02 【明後日から個展】

明日は銀座の個展の搬入。すべての準備は終っているので、べつに変りがない。この文章を打ち込み終わったら、足立氏と10月5日に対談した録音の残りを、ユーチューブにアップしようとおもう。

前々回から、私の8年前のiマックで編集した動画がユーチューブにアップできなくなり、パソコンの買い替えも考えたのだが、パソコンについているカメラの動画とiフォンを重ねてアップを試したらアップできたので、前回の【岡野岬石『三界唯一心』を語る】をこの方法でアップした。前回の映像は、個展作品のダン箱を作っている映像だったので、今回は作品を描いている映像を撮ろうとおもう。パソコンの位置にキャンバスを持って来なくてはならないので、いつもとセッティングが違うので描きにくくて見苦しい映像だが、自力でやるにはこれが精一杯だ。

AVには「嵌め撮り」というのがあるので、私の作った今度の動画の予告編のキャッチコピー、

〝本邦初演!画家岡野岬石の“描き撮り”映像付き作品『岡野岬石「自己放下」を語る』 〟を、見逃すな!聴き逃すな!

 

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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