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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『道元「永平広録・頌古」』大谷哲夫 全訳注 講談社学術文庫

投稿日:2020-11-29 更新日:

『道元「永平広録・頌古」』大谷哲夫 全訳注 講談社学術文庫

はじめに

■『永平広録』(十巻)は『正法眼蔵』と双璧をなす道元禅師の主著です。『正法眼蔵』の各巻の示衆(じしゅ)が、仏法参学者たちへの「信」にもとづく言語による仏法の知的「説得」の教科書とすれば、『永平広録』、とくにその「上堂」は、その仏法の本質を具現化する、知にもとづくさとりへの実践の場、「信」にもとづく「行」への転化、魂の救済の場、いのりの場で、道元が参学者たちに語り示した言(ごん)句を「語録」として文章にとどめたものです。ですから、道元の仏法は『正法眼蔵』と『永平広録』とによって完結する、といえるのです。

本書は、その『永平広録』の第九巻に収められた「頌古」九十則を分かりやすく現代語に訳し、語釈・解説をほどこすものです。

「頌古」とは、「古則を頌(じゅ)す」ことを意味します。古則というのは、とくに禅門ではそれを古則・公案と併称する場合が多いのですが、仏祖といわれる卓越した禅僧たちがさとりに至った因縁として語り伝えられてきた語話、あるいは、師資(しし、師と弟子)が相(しょう)見したときの様子やその際の問答の機縁を示すものをいいます。そして、古則・公案のいずれにしても、それらは後の修行者たちの手本や規範として、長らく伝えられてきたものです。

つまり、「頌古」というのは、そうした古則・公案を拈提(ねんてい、拈(と)りあげて学人に提示すること)し、あおのあとに、「偈頌(げじゅ)」とよばれる漢詩を添えることによって、その古則の真意を、さとりの境地を自分自身の内に判然とさせ、かつ、その古則に自身の宗意(宗教的安心)を盛り込んで歌のかたちで吐露する、言ってみれば、非言語の世界を言語によって表現することをいうのです。(3~4頁)

■なお「玄和尚」とは、道元の諱(いみな)、希玄にちなんだものです。(4頁)

1 世尊妙心附嘱 ( せそんみょうしんふしょく )

■〈現代語訳〉

釈尊は、霊鷲山(りょうじゅせん)で多くの人びとを前にして、一枝の金波羅華(こんぱらげ、優曇華、うどんげ)を御手に拈(と)られて瞬きをされた。その深意をさとった摩訶迦葉は、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。

釈尊は、眼前の人びとに告げた。

「私の無上の正法の功徳とその真髄とを、すべて摩訶迦葉に付嘱した。この大法を将来に流布し、断絶してはならない」

そして、その証として、金糸で刺繍されたお袈裟を摩訶迦葉に与えた。

うららかな春のうたた寝からさめて、はじめて花の香りをかぎ分けるように、

その正法の真意を広く人天に示すのは摩訶迦葉のみ。

釈尊の正法眼蔵涅槃妙心とは、山に降る雨が、すべてを洗いすすぎ、雪のように清らかに、

峰にかかっていた雲が飛び散り、すべては霜のように輝く、あるがままのすがただ。

仏法を身にまとった色とりどりの魚たちが水面を波立たせ、

花が咲き乱れ鳥が断腸の想いで鳴いているのに、

霊鷲山の誰もが、その真意をはかりかねて、虚しく釈尊を仰ぐばかり、

頭陀第一の摩訶迦葉のみ、このさとりの芳香を知り、悦びとした。(18~19頁)

〈語義〉

○正法眼蔵 正法は釈尊の正しい教法。仏法の真髄。眼蔵の眼はすべてのものをうつし、蔵はすべてのものを包むの意味。したがって、「正法眼蔵」とはあらゆるものを映しだし、あらゆるものをつつむ無上の正法の功徳・仏法の真髄をいう。

○涅槃妙心 涅槃はさとりのすがたに入った安楽なすがた、妙心は言語を超越した玄妙な心のことで、ともに仏心のこと。

○迸散(ほうさん) ほとばしり散る。飛び散る。

2 仏言三界唯心( ぶつごんさんがいゆいしん )

■〈現代語訳〉

三界はただ一心のみ

山や川をたとえ雲がさえぎり、本来のすがたが見えなくても、

すべては無心なのに、それを海の砂粒をかぞえるようにして人智でわかろうとする。

その世界をわかろうと魚が三段の滝を飛び越えると龍に化すような波を待つことなどない。

釈尊が霊鷲山で示された一枝の金波羅華(こんぱらげ)がさとりの真髄を示しているではないか。

〈語義〉

○三界唯心 三界唯一心のことをいう。三界は教学的には、欲界・色界・無色界の意味で、それがすべて一心によること。

○龍門三級 兎三級浪とも。山西省黄河の上流で、瀑布をなすのを龍門という。瀑水は三段に分かれ険にしてして船を通ぜず、これを龍門三級という。江海の大魚数千その下に集まるが、それ以上上がれず、上がれば龍になるという。愚人は夜中、その魚が龍に化したのも知らずに魚を求めまわることから、禅門では、師家の拈提の落処を智解分別して方角違いをすることに用いる。(22~24頁)

5 居士覓罪懺罪( こじべきざいさんざい )

■〈現代語訳〉

二祖神光慧可大師の会下に居士(後の三祖僧璨、そうさん)がいて、二祖に尋ねて言った。

「私の身体には、病気のように罪過がまとわりついています。この罪過は何かの罪障によると思いますが、どうか和尚、その原因となった私の罪を清めてください」

二祖は答えて言った。

「その君の罪とやらをここにもってくれば、君のために罪過を浄めてあげよう」

居士はしばらくして、言った。

「罪を求めても得られず、ここにもってこられません」

二祖は答えて言った。

「私の、君のための懺悔(さんげ)は終わった。今後、この罪障は求めて得られないものであることを示す仏法僧の三宝に帰依し、生きなさい」

罪犯は天に満ちるほどに溢れているが、それを求めてみても求められるものでなく、その天に満ち溢れる罪犯こそが、仏道に入る好因縁となる。

罪犯は忽然としてさとりと重なり合って現れ、

一筋の仏道の清風がさわやかに吹き渡るとき、罪犯は消え去る。

〈語義〉

○二祖大師 中国禅宗二祖、神光慧可(487-594)。菩提達磨の法嗣(ほっす)。

○居士 三粗大師僧璨(?ー606)のこと。三祖は、四十歳まで俗人であったとされる。

○風恙(ふうよう) 風も恙も病気・やまいのこと。また、恙については、古昔、草居の時代、よく人を噛む虫のことをツツガといい、その毒を被る人が多かったところから、人に会うときは、まずツツガの憂いがあるかないかを尋ねたことから、憂いまた疾病の意味に転化したという。この場合の風恙に纏(まつら)われるというのは、とくに煩悩・罪過に纏わりつかれているという意味合いが強い。(33~34頁)

7 大満三撃三簸( だいまんさんげきさんは)

■〈現代語訳〉

中国禅宗第五祖大満弘忍禅師は、夜中、密かに米ゆき部屋を訪ねて、後の第六祖となる慧能居士に尋ねて言った。

「米が白くなるように、君の修行はすべてをぬぐい去って究極に至ったかな」

慧能は言った。

「米は白くはなったのですが、まだ糠だらけで篩(ふるい)にかけて最後の仕上げをしていません」

大満禅師は、杖で碓(うす)を三回打った。慧能は、即座に米から糠を取り除くために、米を三回篩にかけてから、大満禅師の居室に入り法を嗣いだ。

夜更けの碓坊で真実の眼を見開いて、慧能は五祖を見た、

五祖である仏は、まさに釈尊・達磨の嗣子であり、

その五祖の獅子のごとき威神力こそが、弟子慧能を仏祖の位に投げあげ、

後の慧能の象王のごとき行処には、小さな狐どものような修行者がたちどころに獅子となった。

〈語義〉

○大満禅師 中国禅宗五祖弘忍(601-674)。四祖道信(580-651)の法嗣(ほっす)。

○能居士 中国禅宗六祖慧能(638-713)のこと。本頌古の故事以降、五祖弘忍の法を衣とともに嗣いで、後に出家して諸方遍歴し、やがて曹渓山に住す。会下に青原行思(?-740)、南嶽懐譲(677-744)の二神足を出して南宗禅を形成する。

〈解説〉

(前略)この碓坊での問答に至る経緯は、『六祖壇経』や『景徳伝灯録』巻五が詳しく伝えるので今、翻案してみよう。

咸亨(かんこう)年代(670-674)、波頭山に一居士がいて、名を慧能といった。蘄(き)州から大満禅師に参じたとき、次のような問答が交わされた。

「どこから来たのか」「嶺南です」「何を求めてきたのか」「仏になるためです」「嶺南地方の人は無知蒙昧で仏にはなりえないと言われている」

すると、慧能は言った。

「確かに、人には南や北という出身地はあるでしょう。しかし、仏性に南北はないでしょう」

それを聞いた大満は慧能の非凡の才を見抜き、碓坊に行けと命じ、慧能はその言に随い、碓坊に昼夜休まず八ヵ月の間働き通した。

大満は自身の寿命と付授の時を知り、大衆に「随意に一偈(げ)を述べよ」と命ずる。すると、会下(えか)の七百余の上座であった神(じん)秀(?-706)が、大衆の期待を背負って廊壁に「身は是れ菩提樹、心は明鏡の台(うてな)の如し、時時に勤めて払拭す、遺って塵埃(じんあい)有ることなし(我が身こそがさとりの樹、こころは明鏡の台のようなもの、常に勤めて磨き上げる、ゆえに塵埃などつきようもない)」と、一偈を書した。

その偈を、大満が深く嘆賞したことを聞いた慧能は、夜になって密かに一童子に告げて神秀の偈の横に次のような一偈を書かせた。

「菩提本樹に非ず、心鏡亦台に非ず、本来無一物、何ぞ仮るて塵埃を払わん(さとりは樹ではない、心鏡も台ではない、本来なにものもないのに、塵埃など払う必要はない)」

その偈頌を見た大満は、大衆の前では「まだ本性を見せてはいない」と言明しながらも、その夜、密かに人を使わして慧能を召して告げた。

「諸仏の出世は一大事の為のゆえに、機の大小に随ってこれを引導する。(中略)釈尊の仏法は二十八世代を経て達磨に至り中国に至った。そして慧可大師を得て吾に至る。今、法宝および所伝の袈裟を汝に付す。善く自ら保ち護って断絶せしむることなかれ」

そこで、慧能はその夜半、南に逃れ、五祖大満弘忍の命を護り四年の間猟師の家に隠れ、儀鳳元年(676)三十九歳の時、南海(広東省)の法性寺(「六祖風幡心動」参照)に至り印宗について出家し具足戒を受けたと伝は伝える。

『正法眼蔵』「恁麼」の巻(岩波・上430)には次のような示衆がある。

恁麼人なるがゆゑに、六祖も発明せり。つひにすなはち黄梅山に参じて、大満禅師を拝するに、行堂に投下せしむ。尽夜に米を碓(つく)こと、わずかに八箇月をふるほどに、あるとき夜ふかく更たけて、大満みづからひそかに碓房にいりて六祖にとふ、米白也未と。六祖いはく、白也、未有篩在と。大満つゑにて臼をうつこと三下するに、六祖箕(み)にいれる米をみたび篩(ひる)、このとき師資の道あひかなふといふ。みづからもしらず、他も不会なりといへども伝法伝衣、まさしく恁麼の正当時節なり。(41~43頁)

9 古人明明百草( こじんめいめいひゃくそう)

 

古人云く「明明百草頭、明明祖師意」と。

結ばんと欲(ほっ)するに留(とど)まらず千万里、門内に処して未だ他明を待たず、情(こころ)無くしては失い易し動容の路、病耳(じ)猶(なお)悲しむ夜雨の声。

■〈現代語訳〉

古人は言った。

「眼前に、はっきりとある百草(森羅万象)のすがた、そこにこそ明白に祖師西来の仏法が現れている」

煩悩は結びとめようと思っても、千里も万里もはてしなく駆けめぐり、

そのすべては、常に仏法の内にあるから、その外では解決の光明をみいだせず、

怠惰なる心では、祖師西来の仏祖意すら見失いかねない。

迷妄の中にただよう耳には、夜の雨の音すらもただ悲しくのみ聞こえるのだ。

〈語義〉

○古人 龐蘊(ほうおん、?ー808)のこと。馬祖道一(709ー788)下の居士(在家の禅者)。字(あざな)は道玄。一般に龐居士と呼ばれ、その身は一生僧形は執らず居士で終わったが、独自の悟境を熟成し、震旦(しんたん、中国)の維摩居士と称される。(48~49頁)

10 船子蔵身莫蔵( せんすぞうしんまくぞう)

〈解説〉

(前略)船子徳誠は薬山に侍すること三十年にしてその法を嗣いだ。が、彼は生来山水を好み、華亭で船頭をしながら縁に随(したが)い機に応じて法を説いたところから、時の人は華亭の船子和尚と呼んだ。しかし、彼には師の薬山の法に報いるべき弟子ができない。そこで兄弟子の雲巌や道吾にたのんでいたがついに道吾円智(769-835)の慫慂(しょうよう)により、夾山善会(かっさんぜんね、805-881)を得た。そこで彼を舟に乗せ、舟から突き落とし、相対を絶し、自他の分別を超えた自在無碍(むげ)の境地すなはち没蹤跡(もっしょうせき)に徹する行履(あんり)を説き、その法を確実に伝えて後、自ら舟を踏翻(とうはん)して煙波に没したという故事である。(後略)

『正法眼蔵』「山水経」巻(岩波・上228)には、この故事をとりあげ次のような示衆がある。

むかし徳誠(じょう)和尚、たちまちに薬山をはなれて江心にすみし、すなはち華亭江(かていこう)の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠なり、徳誠の人を接するは、人にあふなり。世界に水ありといふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあらず、雲中にも有情世界あり、風中にも有情世界あり、火中にも有情世界あり、地中にも有情世界あり、法界中にも有情世界あり、一茎草中にも有情世界あり、一拄杖中にも有情世界あり、有情世界あるがごときは、そのところかならず仏祖世界あり、かくのごとくの道理、よくよく参学すべし。(54~55頁)

11 大安牧牛領旨( だいあんぼくぎゅうりょうし)

■〈現代語訳〉

大安禅師が、その師である百丈に質問した。

「私は、仏を知りたいと強く思っておりますが、何が仏なのでしょうか」

百丈は答えた。

「それは、牛に乗っていながら牛を探し求めるように、本来、自分に仏性がありながらそれを他に求めるようなものだよ」

大安が言った。

「そうとわかったら、その後はどうなのでしょう」

百丈は言った。

「人が牛に乗って、家に帰るようなものだよ」

大安は言った。

「まだよくわからないのですが、さとり得たそのさとりをどのように守り、どのように保っていけばよいのでしょうか」

百丈は言った。

「牛を飼う人が、杖で、植えたばかりの苗を食い荒らされないように牛を監視するごとく、仏知見の杖で己の本来のすがたを注視することだ」

大安は、この問答の後、仏道修行のありようを会得したのである。

朝霞の中を歩めば霧が深くなくても衣服が濡れるように、大安はおのずと百丈の仏法に感化され、

夕陽が沈み、山々が遠くにかすみ、安穏に一日が暮れるように自在なる安心の境を得た。

その大安と百丈の師資証契(しししょうかい)のすがたは、『雪月』や『梅化』の曲を口ずさみながら、

牧童が夕日のなかに家に帰る安穏な風景そのものを見事に描きだした絵のようだ。

〈語義〉

○大安禅師 大安頼安(793-883)。幼い時に黄檗山(おうばくさん)に出家し、百丈懐海(749-814)の法嗣(ほっす)となり、潙山霊祐(771-853)の法席を嗣ぎ、福州の長慶禅院に入り、二十余年にわたり化をしき、咸(かん)通十四年(873)に紫衣ならびに延聖大師号を賜わる。

○騎牛覓(べき)牛 さとりのなかにありながら、さとりをもとめるたとえ。

○騎牛至家 さとりを得て本来の自己のすがたに帰ること。

〈解説〉

(前略)牛と牧童を素材として、修行の階梯を物語化する『十牛図』が、道元の在世時には、梁山廓庵(りょうざんかくあん、生没年不詳)によって大成されていた。(55~58頁)

12 雲巌豎起掃帚( うんがんじゅきそうそう)

■〈現代語訳〉

雲巌が地を掃いていた時、潙山が言った。

「一生懸命なされてご苦労さま」

雲巌は言った。

「一生懸命でないものもいますよ」

潙山が言った。

「そうであれば、つまり、天空に二つの月があるように、己の中に一生懸命なものとそうでないものが二つあるということではないか」

雲巌は、二つに分かれた自分などないことを示すため一本の箒(ほうき)を立てて言った。

「それでは、この箒は、第幾番目の月だというのだ」

一体誰が、地を掃いていて、一生懸命な自分とそうでない自分などと人格の二面性など考えるのか、

月を持ち出して、人格が二つだの一つだのと言う議論も無駄ではないが、

何千何百という観念の上の月に、さらに月を積み重ね、

たとえ第二月などと言っても、己の真実のすがたはただ一つである。

〈語義〉

○雲巌 雲巌曇晟(うんがんどんじょう)(782-841)。幼時に石門に出家し、百丈懐海(749-814)に参学すること二十年、後に薬山惟儼(やくさんいげん)(751-834)に参じてその法を嗣ぎ、雲巌山に宗風を挙げた。門下に洞山良价(とうざんりょうかい)(807-869)がいる。

二十余年にわたり化をしき、咸(かん)通十四年(873)に紫衣ならびに延聖大師号を賜わる。

○潙山 潙山霊祐(771-853)。十五歳で出家し、杭州の龍興寺で経律を学び、百丈懐海に参学しその法を嗣いだ。同じ会下(えか)に黄檗希運(生没年不詳)がいて、ともに唐代の禅界に名を馳せるが、とくに霊祐は大潙山に止住し宗風を挙揚し、仰山慧寂(きょうざんえじゃく)(807-883)ら多くの龍象を世に送り出し、その法系は潙仰宗(いぎょうしゅう)と言われる。(59~61頁)

14 石霜充米頭縁( せきそうじゅうべいじゅうえん)

■〈現代語訳〉

石霜が、まだ潙山のもとで米を掌(つかさど)る役職に当てられていたときのことである。ある日、米を管理する部屋で米を篩(ふる)っていると、潙山が言った。

「施主からの供養米をまき散らして粗末にしてはならないぞ」

石霜は答えた。

「まき散らしたりして、粗末にしておりません」

すると潙山は地面から一粒の米を拾って言った。

「君は、まき散らし、粗末にしていないと言うが、この一粒はどこからやって来たのか」

石霜が答えに窮すると、潙山が、また言った。

「これはたったの一粒ではあるが、見過ごしてはいけない。この一粒から百千の米粒が生まれるのだ」

すると、石霜が言った。

「百千という米粒が、この一粒から生まれることはわかるのですが、私には、この一粒がどこから生まれたのかわかりません」

大潙は、呵々大笑して方丈に帰り、夕刻の上堂で言った。

「修行僧諸君よ、米つき部屋に大した虫(やつ)がいるぞ」

潙山は、一体どこから、あの一粒を見つけたのだろう、

あの一粒を見つけ出すように、まだ石霜のために何も説きもしないのに素晴らしい人材を得た。

もはや百千万の米粒を捜して、その中に逸材を求めることはないのだ、

ここに、すべての米粒を食い尽くすように、仏法の要諦を極めた石霜という大虫がいるのであるから。

〈語義〉

○石霜 石霜慶諸(せきそうけいしょ)(807-888)。道吾円智(769-835)の法嗣。十三歳のとき西山昭鑑に得度。二十三歳、嵩山(すうざん)で受具、戒律を学び、後に道吾に参学、その法を嗣ぐ。石霜山に止住すること二十年、修行僧とともに坐禅し横臥することがなく、そのすがたが切り株のようであったところから、世人は枯木衆(こぼくしゅ)と呼んだという。唐の光啓四年(888)示寂(じじゃく)。

○大潙 大潙(潙山)霊祐(771-853)。

○米頭(べいじゅう) 典座下で衆僧の粥飯(しゅくはん)の米を掌(つかさど)る役。(65~68頁)

15 雪峰鼇山成道( せっぽうごうさんじょうどう)

■〈現代語訳〉

雪峰と巌(がん)頭が、かって二人でともに仏道修行の途中に鼇山(ごうさん)に来たが、行く道を大雪に阻(はば)まれて滞在したときのことである。

雪峰は法兄の巌頭に質問した。

「どうしたらよいのでしょう」

巌頭は言った。

「将来、もし釈尊の仏法を宣揚しようと思うならば、一つ一つ、ことごとくが他者からの受け売りではなく、自己の胸の中から真実にほとばしり流れ出て、そのすべてが天地いっぱいに広がるものでなければならぬ」

雪峰は、この言葉を聞いて直(じき)に大悟して、すぐに巌頭に礼拝し終わるや繰り返し大声で叫んだ。

「今日、はじめて、鼇山(ごうさん)にさとったぞ。今日はじめて、鼇山(ごうさん)ににさとったぞ」

昨夜、法兄の巌頭に、弁道のすがたがまるで深村の土地神のようだと言われて、

奇岩や怪石を見てもただ怨恨のすがたにしか見えなかった理由をつかみ得、

そして、今日、あるがままの鼇山(ごうさん)と同じ心境となり、仏法を成就した。

が、それでもなお、一つの魔が亡(ほろ)んでもまた一つの魔が生ずるように、仏道修行はなお続くのだ。

〈語義〉

○雪峰 雪峰義存(せっぽうぎそん)(822-908)。徳山宣鑑(とくさんせんかん)(782?-865)の法嗣。十二歳のとき父とともに玉潤寺(ぎょくじゅんじ)の慶玄律師に参じ、一七歳で剃髪。二十四歳のとき会昌(かいしょう)(841-846)の破仏に遭い、俗服をまとい芙蓉霊訓(ふようれいくん)に学び、さらに洞(とう)山良价(807-869)の門に入り、その指示により徳山に参学してその法を嗣いだ。

○巌頭 巌頭全カツ(大に歳)(828-887)。徳山宣鑑の法嗣。霊泉寺の義公の下で出家、長安の西明寺で具戒。初め教宗に学び、後に雪峰・欽山と交友、仰(きょう)山慧寂(807-883)に参学し、徳山の会下に参じて、その法を嗣いだが、唐の光啓三年(887)四月八日、賊刃に倒れた。

○土地 土地は土地神。(69~72頁)

16 法眼不知親切( ほうげんふちしんせつ)

■〈現代語訳〉

法眼文(もん)益禅師が、かって羅漢桂琛(ちん)禅師に参じたときのこと、桂琛が法眼に尋ねた。

「君は、これからどこへいくのか」

法眼は答えた。

「前々から続けている行脚をするだけです」

桂琛が聞いた。

「行脚とは何か」

法眼が答えた。

「知りません」

すると、桂琛が言った。

「その知らないということこそが、仏法を最も切実にとらえる肝心要(かなめ)のところである」

その言葉を聞くや、法眼は豁然(かつねん)と大悟した。

きままに、そしてまた気ままに、ゆったりと、

自在な行脚がどうして種々さまざまな規準などにしばられよう、

が、しかしその不知なる行脚の世界にほんの少しでも理屈が入り込めば、

仏道の真実の知はたったの二、三升に過ぎないことになる。

〈語義〉

○法眼禅師 法眼文益(ほうげんもんえき)(885-958)。羅漢桂琛(らかんけいちん)の法嗣。法眼宗の祖。

○琛禅師 青原下。羅漢桂琛(867-928)。玄沙師備(835-908)の法嗣。羅漢桂琛は常山(じょうさん)万歳寺の無相大師に師事し、後に雲居(ご)道庸(よう)や雪峰義存(822-908)に参学し、玄沙師備の会下に参じその法を嗣いだ。後に、西石山の地蔵院、章州の羅漢院に住して宗風を振るったため地蔵桂琛あるいは羅漢桂琛と呼ばれた。天成三年(928)秋、六十二歳で示(じ)寂。

〈解説〉

道元は本語話を取り上げた後、「若し、是、興聖ならば、地蔵和尚に向かって道(い)うべし。不知、是、最親切、知るもまた、最親切なる。親切は一任ばあれ、最親切なりとも、且(しばら)く地蔵に問う、親切とは、甚麼ぞ」と説示している。つまり、行脚についての様々な束縛を一切はなれて、行脚していることすら不知となって仏道を行ずる、それが最親切なのである。だが、道元は、自分だったら、桂琛(ちん)禅師に「不知は、確かに最も切実にとらえていますが、知るということも最も切実にとらえることだと思います。親切、最親切のことですが、親切の実態はどういうことでしょうか」と質問したであろう、と拈提(ねんてい)している。(73~76頁)

17 投子呑却両三( とうすどんきゃくりょうさん)

■〈現代語訳〉

投子(す)大同に、ある時、僧が質問した。

「月がまだ円(まる)くならないときの状況は、どのように表現できますか」

投子が答えた。

「月が月を三つほど呑み込んだようなものだ」

僧が質問した。

「それでは月が円くなったときはいかがですか」

投子が答えた。

「月が月を七、八個はき出したようなものだ」

仏道は、瓦を磨き、鏡をも磨き、さらに天空をも磨くようにして、

さらに人間(じんかん)を遥かに超脱して修行するのだが、それでもいまだ円成(じょう)しない。

それにつけても想うのは、秋になったから中秋の名月があるのではなく、

月が存在するから中秋となるのが、本来のすがたであるということである。

円かろうと欠けていようと月は月、

それゆえ、月はよる輝く明珠であるなどということはない。

月が月を二、三個呑んだとか、七、八個吐き出したとか、そのようなことはどうでもよい。

ただ言えるのは、天空に晧々として円く輝く月の光は火炉の炎とはちがうということだ。

〈語義〉

○投子 投子大同(819-914)。翠微無学(すいびむがく)(生没年不詳)の法嗣。投子大同は幼時に出家し、初め『華厳経』を学び、翠微に参じて玄旨をさとり、後に周遊して桐城県で、趙州と問答し投子山に隠棲し、投子山に在ること三十余年、無畏の弁をもって徃来激発、衆僧常に室に満つといわれた。乾化(けんか)四年(914)四月六日、九十六歳にて示(じ)寂。

〈解説〉

『正法眼蔵』「都機」巻に、この公案を引いて以下のような示衆がある。

いま参求するところは、未円なり、円後なり。ともにそれ月の造次なり。月に三箇四箇あるなかに、未円の一枚あり。呑却は三箇四箇なり、このとき月未円時の見成なり。吐却は七箇八箇なり、このとき円後の見成なり。月の月を呑却するに、三箇四箇なり。呑却に月ありて現成す、月は呑却の見成なり。月の月を吐却するに七箇八箇あり、吐却に月ありて現成す、月は吐却の見成なり。このゆゑに呑却尽なり、吐却尽なり、尽地尽天吐却なり、蓋天蓋地呑却なり。呑自呑他すべし、吐自吐他すべし。(76~80頁)

18 青原拈靠払子( せいげんねんこうほっす)

〈語義〉

○青原 青原行思(?-740)。六祖慧能(638-713)の法嗣。青原は幼時に出家し、六祖慧能の法を嗣ぎ、南嶽懐譲(677-744)とともに二大弟子と称せられた。江西省の青原山静居(じょうご)寺に住して宗風をあげ、その門下から雲門宗・曹洞宗・法眼宗の法系が育つことになる。開元二十八年(740)十一月示(じ)寂。

○石頭 石頭希遷(700-790)。六祖慧能に得度するが、慧能の示(じ)寂にともない青原に参じて師事す。天宝年代(742-756)初め衡山(こうざん)の南寺に行き、寺東の石上に庵を結び常に坐禅していたために石頭和尚と呼ばれたが、広徳二年(764)梁端(りょうたん)に下り宗風を宣揚し、薬山惟儼(やくさんいげん)に法を付す。貞元六年(790)十二月示寂、九十一歳。

○承当 会得・会取、合点すること。(84~85頁)

19 青原聖諦不為( せいげんしょうたいふい)

〈語義〉

○器 道器。仏法をさとりうる力量をもった人物。

○地軸 大地を支えていると想像された心棒。地下には大地を支える地軸が一万里に三千六百軸あるといわれる。転じて大地の奥底。

○天関 天帝の宮殿。北斗七星とも。

〈解説〉

「青原聖諦不為」の「青原」は、青原行思。「聖諦不為」の「聖諦」は、聖人のさとった真理、それにすら「不為」つまり執着しないこと。この語話は古来より「聖諦不為の則:ともいわれる青原と六祖慧能との修証についての有名な公案で「青原階級」ともいわれる。元来、大乗仏教では五十二位の修行の階級があり、そこには聖諦もあったが、そこを超えた絶対境地には聖諦も俗諦も五十二位もない、真実の仏道は、そうした段階(階級)を超越し、無階級の自由を獲得するのが本来で、その分別判断を止揚し絶対の行を示したものとされる。(87~88頁)

20 薬山何不早道( やくさんかふそうどう)

〈語義〉

○薬山 薬山惟儼(748-828)。薬山は十七歳のとき、広東省の西山慧照(せいざんえしょう)に得度、二十九歳で衡岳寺(こうがくじ)帰澡(きそう)に受具、後に石頭帰遷(きせん)(700-790)に参じ、大悟してその法を嗣ぐ。石頭に侍すること十三年にして薬山(芍薬山)に住したときには四、五十人が参集したという。太和二年(828)十二月示寂。八十四歳。薬山に著作はないが、広く経論に通じ、戒律を厳守し、その端的な接化の家風は、よく一句をもって禅仏法を道破するにあり、後に弟子の雲巌・道吾の法系が栄えるにいたる。

○雲巌 雲巌曇晟(どんじょう)(782-841)。門下に洞山(とうざん)良价がいる。(90~91頁)

21 趙州東門西門( じょうしゅうとうもんせいもん)

■〈現代語訳〉

ある僧が趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)に尋ねた。

「趙州とは何ですか」

趙州は答えた。

「趙州には、東門があり、西門があり、南門があり、北門がある」

僧が言った。

「そのようなことを聞いているのではありません」

すると趙州が答えた。

「君は、趙州のことを聞いたではないか!」

ある僧が縁あって趙州に尋ねたことがあるのだが、

趙州はその境涯を趙州城の東・西・南・北の門を借りて答えとした。

四つの門があるというのは、趙州が四つの門で構成されているようだが

ではどの門が最初の門かなどいうのは趙州の本質を知らないからである。

〈語義〉

○趙州 趙州従諗(778-897)。南嶽下。趙州は南泉(784-834)に参学して開、黄檗、宝寿、塩官、夾山(かっさん)に歴参したが、真定帥王の請により、趙州(河北省西部の都市9の観音院に住し、四十年間江南の禅風とは異なる『趙州録』に見られる独自で機知に富んだ宗風を挙揚した。なお、住した地である趙州は趙州城ともいわれ、西は太行山脈を背負い前方には河北平野が広がり、南北は中国全土に通ずる大道に沿い、古くから軍事的要地とされ、随唐時代以前は覇王の地として知られたところである。趙州には示衆や問答で公案として伝えられるものが多く、趙州従諗によって河北の地にも南宗禅が盛んになったといわれる。

○乾元(けんげん) 天の道、天徳のはじめのもの。乾は天、元は大。東西南北に『易』の元亨利貞の四徳を配する、東は乾元になるところから、四方の初をいう。(92~94頁)

22 夾山水中大悟( かつさんすいちゅうだいご)

■〈現代語訳〉

華亭の船子徳誠(せんすとくじょう)和尚が言った。

「千尺も糸を垂れている意図は、深淵にあるもの、つまり、君、夾山を釣り上げるところにある。さて、釣り糸の先につけられた鉤針(かぎばり)はわずか三寸目先にある。さあ、そこで、私の言葉に囚われない君自身の真実を突き詰めた独創の一句を言ってみよ。さあ、言え。さあ、言え」

ところが、夾山が口を開こうとしたその途端、船子は持っていた竿で、夾山を突き落とした。

その瞬間、夾山は大悟(だいご)した。

京口()きょうこうの竹林寺に住した夾山の説教は、ありのままを説いてよく知られていたのだが、

それを聞いた道吾円智に失笑され、華亭の船子に投じた夾山は、言語を超脱するその宗風の難しさに翻弄され、もの言うことも憚られた。

ところがどうだ、波頭のおどるところが収まるように言語を超絶すると金鱗が飛び跳ねた。

船子の奏した魚歌一曲はなんと深みのある曲か、夾山は三度も頷いたではないか。

〈語義〉

○華亭船子徳誠 船子徳誠(生没年不詳・唐代の人)。薬山惟儼(745-828)の法嗣。

〈解説〉

「夾山水中大悟」の「夾山」は、華亭船子和尚と言われた船子徳誠の法嗣となった夾山善会(かつさんぜんね、805-881)。「水中大悟」とは、船子とその弟子夾山との開悟嗣法の因縁である。船子は薬山惟儼の法を嗣いだが、生来山水を好むために、華亭の呉江にあって一小船を浮かべ、徃来の人に時に従い縁に随(したが)って法を説いていた。しかし、薬山の恩に報いるべき嗣法の弟子ができない。そこで兄弟子の道吾円智(769-835)・雲巌曇晟(782-841)に委嘱したところ、道吾によって夾山善会を得、本文に見られる船上の問答教示の結果、夾山を大悟せしめ印可嗣(し)法して後、自らは舟を踏翻(とうほん)して煙波の中に没したという。(95~98頁)

23 玄沙脚指出血( げんしゃきゃくししゅっけつ)

■〈現代語訳〉

玄沙師備は、その師雪峰義存のように雲水行脚し尋師訪道するために嶺を越えようとしたのだが、嶺についた途端につまずき足の指から血が出た。その時忽然(こつねん)として自らのあり方についてさとるに至った。そして雪峰義存の会下に帰り、以後諸方に他の師を求めて行雲流水することはなかった。

師の雪峰のように遍参(ざん)を思いつき、せわしく嶺に至ったが石に躓(つまず)き脚指を傷つけ、

その血は流れしたたり大地を染めた、その時自己の存在を確実に知り、

水の根源を求めるような、雲を穿(うが)つような遍参の空しさを知り

象骨山の真師雪峰の下に帰り真の遍参に徹した。

〈語義〉

○玄沙 玄沙師備(835-908)。雪峰義存(822-908)の法嗣、青原下。幼年より釣りを好む。咸通(かんつう)初年の一日たちまち発心し、芙蓉山の霊訓(れいくん)に参じて出家。同五年(864)春、開元寺の道玄律師に依って具足戒を受けた。同年秋、故郷に帰り修行に勤め、同七ねんには霊訓の師、雪峰義存に参じてその法を嗣ぐ。雪峰の会下にあっては、その持戒厳格なるが故に備頭陀(びずだ)と尊称され、また、謝家の三男であるところから謝三郎ともいう。

〈解説〉

『正法眼蔵』「一顆明珠」巻の冒頭には、玄沙の経歴を述べたあとに次のような示衆がある。

あるとき、あまねく諸方を参徹せんため、嚢をたづさえて出嶺するちなみに、脚指を石に築着して、流血し痛楚(つうそ)するに、忽然として猛省していはく、是身非有、痛自何来。すなはち雪峰にかへる。雪峰とふ那箇是備頭陀。玄沙いはく、終不敢誑於人。このことばを、雪峰ことに愛していはく、たれかこのことばをもたざらん、たれかこのことばを道得せん。雪峰さらにとふ、備頭陀なんぞ遍参せざる。師いはく、達磨不来東土、二祖不徃西天といふに、雪峰ことにほめき。(中略)衣は布をもちゐ、ひとつをかへざりければ、ももつづりにつづれりけり。はだへには紙衣をもちゐけり、艾草をもきけり。雪峰に参ずるほかは、自余の知識をとぶらはざりけり。しかあれども、まさに師の法を嗣(し)するちから弁取せりき。(98~101頁)

25 宏智去来山中( わんしきょらいさんちゅう)

■〈現代語訳〉

宏智禅師が頌して言われた。

仏道に徹底して生きる山中の人々は、

識(し)っている、青山が自分の身体のひとつであることを、

青山が自分自身であり、その自分自身のほかに我という存在はない。

であるならば、感覚的な迷いなど一体どこに着くのか。

師(道元)はこの頌の韻を引き継がれた。

山中の人は山を愛する人である。(山中人可愛山人)

仏道に徹底して生きる山中の人は、(去去来来山是身)

山は自分自身でありながら、自分自身はいまだ我という存在ではない。(山是身兮身未我)

であるならば、一体どこに感覚的な迷いなどを尋ねもとめようや。(更尋何処一根塵)

〈語義〉

○宏智 宏智正覚(わんししょうがく)(1091-1157)。丹霞子淳(1064-1117)の法嗣。天童山に三十年住山し、正伝の仏法を挙揚したゆえ、天童中興の祖と称される。宏智の禅は世に黙照禅・宏智禅とされ、また文辞に巧みで、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)(980-1052)と並んで孔門の子遊・子夏、詩壇の李白・杜甫に比せされ、禅門にあっては臨済宗の大慧宗杲(?ー1232)とともに二大甘露門とも称せされる。

〈解説〉

『正法眼蔵』「山水経」巻には、「青山常運歩」について次のような示衆がある。

青山の運歩は其疾如風よりすみやかなれども、山中人は不覚不知也。山中とは世界裏の華開なり。山外人は不覚不知なり。山をみる眼目あらざる人は、不覚、不知、不見、不聞、這箇道理なり。もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり。自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしらざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに最山の運歩をもしるべきなり。(105ー108頁)

26 南泉養得水( なんせんようとくすいこ)

〈語義〉

○南泉 南泉普願(748-834)。大歴十二年(777)、齢三十にして嵩(すう)岳会善寺の高律師によって受具す。はじめは唯識・具舎・三論を学んだが、禅の真実は経論の外にあることをさとり、ついに馬祖道一(ばそどういつ)(709-788)の法を嗣ぐ。貞元十一年(795)、普願の行脚中に南泉寺にとどまり、自らの俗姓にちなみ王老師と称し、禅院を構築、蓑笠を付け牛を飼育し、山に入って木を切り、田を耕しながら禅道を挙揚した。弟子に趙州従諗・子湖利蹤(しこりしょう)・長沙景岑(ちょうしゃけいしん)等々がいる。(110頁)

27 国師試験三蔵 (こくししけんさんぞう)

〈現代語訳〉

インドの大耳三蔵という僧が中国の都長安に来て自慢げに言った。

「私は、人の心を見抜く眼を具えている」

時の代宗皇帝は、南陽慧忠国師に大耳三蔵を試験することを命じた。

試験の場で、三蔵は、ちらっと国師を見ると礼拝して、国師の前に立った。

国師が言った。

「君は、他心通を得ているのか」

三蔵が答えた。

「いえいえ、どういたしまして」

国師が言った。

「では言ってみるがよい。老僧(わたし)は、今、どこにいるか」

三蔵が言った。

「和尚は、一国の師匠であります。それが、どうして西川で舟の競走をご覧になっておられるのでしょうか」

国師が再び聞いた。

「では言ってみるがよい。老僧(わたし)は、今、どこにいるか」

三蔵が言った。

「和尚は、一国の師匠であります。どうして、天津橋の上で猿廻しをご覧になっておられるのでしょうか」

国師は、三度目も全く同じ質問をした。

その質問に対して三蔵は、しばらく黙っていたが、今度は国師の居場所を答えることができなかった。すると、国師は叱責して言った。

「この、エセ仏者め。他心通などどこにあるというのか」

三蔵は、答えることがなかった。

琴の名手伯牙(はくが)は、その音を真に理解する知己鐘子期(しょうしき)が来ないのを恨みに思うように、国師は三蔵に真の仏法の理解を期待したのだが……。

善財童子が探し得なかった徳雲和尚は、未明から妙峰山(みょうほうざん)で善財を待っていたのに会えなかった。

それらは、あちらの谷もこちらの谷も一つのはずなのに、心の通ずる路が絶えているのに似ていて、

そうなると、気の毒にも仏の神通は狐の通力ではないか。

〈語義〉

○他心通 六神通の一。他人の心念を自由に知ることができる神通力。他は神(じん)足・天眼(げん)・天耳(じ)・宿命(みょう)・漏尽通(ろじんずう)。

○慧忠国師 南陽慧忠(?ー775)。六祖慧能(638-713)の法嗣(ほっす)。慧忠は青原行思・南嶽懐譲(えじょう)・荷沢神会(かたくじんね)・永嘉玄覚(ようかげんかく)等とともに慧能門下の五大宗匠で、禅風こそ異なるが、神会と同じく北方に禅風を挙げ、道一等が南方で唱道する禅を批判したという。その禅風は身心一如・即心是仏を主旨として無情説法を初めて唱えた。

〈解説〉

道元の同公案に対する解釈の特質すべき点は、過去の五尊宿は概ね、大耳三蔵が前二問ででは的確に南陽慧忠の在処を言い当て、第三問だけ言い当てずに慧忠国師に叱責されたと解釈するが、道元は、『正法眼蔵』「他心通」巻の末尾近くで、初めからそうした他心通はないと指摘し、仏法の心の現成として他心通を次のように示衆している。

第一度より第三度にいたるまで、おなじことばにて問著するなり。(中略)この道理をしらず、あきらめずして、国師よりのち数百歳のあひだ、諸方の長老、みだりに下語説道理するなり。(中略)いま仏法のなかに、もし他心通ありといはば、まさに他身通あるべし、他拳頭通あるべし、他眼精通あるべし。すでに恁麼ならば、まさに自心通あるべし、自身通あるべし。すでにかくのごとくならんには、自心の自拈、いまし自心通なるべし。かくのごとく道取現成せん。おのづから、心づからの他心通ならん。(111ー116頁)

28 船子垂糸千尺 (せんしすいしせんじゃく)

〈語義〉

○船子和尚 船子徳誠(せんすとくじょう、生没年不詳)。(111ー116頁)

29 長慶巻簾大悟( ちょうけいけんれんだいご)

 

孰(たれ)か磨(ま)する去りし日顔(かお)玉(たま)の如し、一たび老いて回(かえ)る時鬢(びん)霜(しも)に似たり、簾(れん)を巻破(けんぱ)して縦(たと)え月の色を偸(ぬす)むとも、我(わ)が纓(えい)且(しばらく)滄浪(そうろう)に濯(あろ)うべし。

〈現代語訳〉

長慶が霊雲に尋ねた。

「どのようなことが仏法の大意ですか」

霊雲は答えた。

「あれも、そしてこれもだよ」

長慶はこのようにして雪峰義存と玄沙師備のあいだを徃来していたが、三十年の間、仏法の大意をあきらかにできなかった。

ところが、ある日、いつものように何気なく簾を巻き上げた瞬間、忽然と大悟した。

去りし日の顔は。誰が磨いたわけでもないのに玉のように輝いていたのに、

一度(ひとたび)老いて振り返ってみれば三十年、鬢(びん)はすでに霜のように白くなり、

いつものように簾を巻きあげた時、玲瓏(れいろう)な月の光にも似たさとりを得ても、

冠の紐を洗うという滄浪(そうろう)のたとえのごとく、弁道に限りがないゆえに、さらに仏道に励まねばならぬ。

〈語義〉

○霊雲 霊雲志勤(れいうんしごん、生没年不詳)。唐代の人。南嶽下。潙山霊祐の下にあって一見桃華によって悟道し、偈(げ)を述べたことで有名。(120~122頁)

30 巌頭移取盧山 (がんとういしゅろざん)

〈解説〉

「巌頭移取盧山」の「巌頭」は巌頭全豁(がんとうぜんかつ)。「移取盧山」とは、ある僧が巌頭に「祖師意」とは何かという質問をしたのに対して「盧山を移してこい」と言うのだが、盧山が移動するはずがない。盧山は不動不著(じゃく)のすがたを示し、達磨が西(せい)来しようがしましが、中国にやって来ようが来まいが、真実の仏法の端的は対境の如何にかかわらず常に、各人の脚下にあることを示している。

(中略)

道元はその頌(じゅ)において「青山運歩」の語を用いる。これは青山は運歩しているという意味だが、この青山は不動の実態を表し、運歩は随縁の功徳を表すと去れ、不動の兀坐の無所得無所悟がそのまま偉大なる活動である意であることを示している。(126頁)

33 投子了然開悟( とうすりょうねんかいご)

 

〈現代語訳〉

投子義青和尚が、太陽警玄(たいようけいげん)に仕えて三年たったある日のこと、太陽は義青に質問した。

「仏法を信じない者が、釈尊に『仏法の真実は、言語をもって説法するのか、言葉ではしないのか』と言った。すると、釈尊はしばし無言でおられたのだが、さて、君はそれをどう思うか」

義青が答えようとする、その途端、太陽は義青の口をふさぎ何も言わせなかったその瞬間、義青ははっきりと言葉では表現し得ない仏法の真実をさとって礼拝した。

太陽が言った。

「君は、奥深い仏法のはたらきをさとったか」

義青が言った。

「たとえそのようなことがあっても、すべて吐き出してしまうことが必要です」

時に、資という侍者が傍(かたわ)らにいて言った。

「青華厳とも崇められたお人が、今日はまるで病気になって汗をかいているようだ」

そのように言われた義青は振りむいて言った。

「わかりもしないのに余計なことを言うな、口を閉じよ!」

たとえ太陽が義青の口を覆って言葉では表現できない真実のあることに導いたのは良いが、鼻までは覆えなかったように蜜語には及ぶまい。

いまだ仏法の真実を呑み込んでいなくても、口を開き言葉に出すことはわけはない。

弟子義青は師太陽に口を覆われ、仏道の究極は言葉では表現できないという真実をしらされた、そのような関係があればこそ、その流れが永く続き、今後も続くであろう。

そのさまは、晴天に雷が轟き、その雷光が仏法を象徴する旗となって激しくはためいているようだ。

〈語義〉

○投子 投子義青(とうすぎせい、1032-1083)。七歳で妙相寺にて出家、十五歳にて得度し『百度論』を修学、『華厳経』を聴く。後に聖巌寺(しょうがんじ)の浮山法遠(円鑑)(ふざんほうおん、991-1067)に参じ、その会下で頭角を現し、青華厳(せいけごん)と尊称された。(133~136頁)

35 夾山耳目不到( かつさんじもくふとう)

 

夾山云く「目前無法、意在目前、是(これ)、目前の法に不(あら)ず。耳目の所到(しょとう)に非(あら)ず」と。

眼睛(がんぜい)を突出す千万箇、翳(かげ)南北飛んで根締(こんてい)を絶す、

一朝(ちょう)に落ちて再び提撕(ていぜい)す、樹(き)に満てる鷓鴣(しゃこ)日裏(にちり)に啼(な)く。

〈現代語訳〉

夾山善会(かつさんぜんね)が言った。

「仏法は目の前にあって見えるというものではない。が、そのはたらきは目の前にある。仏法というのは、目や耳の感覚によって会得できるものではない」

船子(せんす)によって大悟徹底した夾山のもののとらえ方は幾万の眼をもつように多様化し、

また、世の状況も影があちこちに移動するように千変万化し、根が生えてそこにとどまるわけではない。

そのように現実は常に変動して止まないから、当然のように今日も法を説く、

それは、いつものように、樹に鈴なりになって、鷓鴣(しゃこ)が日の光のなかで鳴いているのと同じで、そうした当たり前の情景こそが仏法そのものだからなのだ。

〈語義〉

○夾山 夾山善会(805-881)。船子徳誠(せんすとくじょう)の法嗣。

36 翠微遮竿那竿( すいびしゃかんなかん)

 

氷を増し水を積む二つ始めに非(あら)ず、日月(にちげつ)歳時各(おのおの)余に似たり、

陌上(はくじょう)の茴香(ういきょう)多少(いくばく)の味(あじ)ぞ、西川(せいせん)の附子(ふす)自(じ)心虚(しんきょ)なり。

〈現代語訳〉

清平(せいへい)が師の翠微無学に尋ねた。

「達磨大師がインドからこの中国にやって来た、その真実の意図とは何でしょうか」

翠微が言った。

「人がいなくなるのを待て。そうしたら君のために説こう」

清平はしばらく黙っていてから言った。

「人はいません。お願いです。師よ、お説きください」

翠微は禅床から下り、清平を連れて竹林に入った。すると、清平はまた言った。

「人はいません。お願いです。師よ、法を説いてください」

翠微は竹を指さして言った。

「この竹はこのように長く、あの竹はあれほどに短い」

年々氷が厚さを増し、それが溶けて水かさが増し満々たる流れにすがたを変えるが、その最初のすがたは知るよしもなく、

日月歳時のまさにその通りで、何のはからいもなく、

畦道の茴香の味は、どのような味なのか、

西川のトリカブトも、自身が薬であるか毒であるかなどは不明なことなのだ。

〈解説〉

つまり対待(たいだい)(人智のはからいである。迷・悟、善・悪など二法が対立する、という意味)のない仏法世界である竹林で、ありとあらゆる存在はあるがままに仏法のすがたそのものであることを示したのである。(144~147頁)

37 臥龍真実人体( がりゅうしんじつにんたい)

 

〈現代語訳〉

臥龍が了院主(りょういんじゅ)に尋ねた。

「先師玄沙師備は『ありとあらゆるすべての世界に、そのありとあらゆる処、あらゆる時に真実の仏法が生き生きと現れている』と言われた。院主よ、君は僧堂にもそれを見るか」

院主が答えた。

「和尚、迷いごとを言ってはなりません」

臥龍が言った。

「先師は亡くなったが、真実の仏法は正確に受け嗣がれ、あたかもその肉体はなお暖かく生きておられるのです」

春が来たとか来ないとか観念的なことより花が咲き誇る現実に眼を向ければ春の香りがするではないか、

眼の裏に映ずるすがたは二つや三つなどというものではない。

冷たいのも暖かいのも、それはそれで、水は時節によって霜にも梅雨にも変化するものだし、

臥龍から院主へと親しく密々と伝えられた境涯は、言ってみれば流れる水と静かにとどまる水と表現を変えたようなものだ。

〈解説〉

中国禅宗では、さとりは自分で実践し体認するもの、つまり水を飲んだときに初めて冷たいか暖かいかが、その人にわかるという「冷暖自知」という言葉が使われた。が、道元は、仏法のありようとはおのおの独立でありながら普遍的なものであるとして、『正法眼蔵』「法性(ほっしょう)」巻で次のように示衆している。

大道は、如人飲水冷暖自知(人が水を飲んでその冷暖を自ら知るごとき)の道理にはあらざるなり。一切諸仏、および一切菩薩、一切衆生は、みな生知のちからにて、一切法性の大道をあきらむるなり。経巻知識にしたがひて、法性の大道をおきらむるを、みずから法性をあきらむるとす。(148~151頁)

38 南嶽磨作鏡( なんがくませんさきょう)

 

〈現代語訳〉

南嶽懐譲がその弟子馬祖道一に尋ねた。

「君は、何のために坐禅をしているのかね」

馬祖が言った。

「仏になるためです」

すると、南嶽は一つの塼(かわら)を取り、馬祖の庵(いおり)の前の石の上で磨き始めた。馬祖はそれを見ていたが、ついに尋ねた。

「お師匠さま、何をしておいでですか」

南嶽が言った。

「磨いて鏡にするのだ」

馬祖が言った。

「塼を磨いて、どうして鏡にすることができましょう」

南嶽が言った。

「坐禅して、どうして仏となることができよう」

馬祖が言った。

「それでは、どうすればよろしいのでしょう」

南嶽が言った。

「人が牛車(ぎっしゃ)に乗っているようなものだ。車が動かなくなったとき、車を打てば動くのか、牛を打てば動くのか」

馬祖は答えることができなかった。

すると、また南嶽が示して言った。

「君は、坐禅を学ぶといいながら、坐仏を学んでいるのだ。もし、坐禅を学んでいるのなら、そのときの禅とは坐ったり寝そべったりではないということだ。もし、坐仏を学ぶならば、そのときの仏は、一定のすがたに固執したものではない。だからこそ、融通無碍の法のもとで、仏であるとかないとか、あれこれと取捨選択してはならない。君が、もし、坐禅をして仏になろうとするなら、仏を殺すことになるから仏に執着してはならない。もし、坐禅の端坐のすがたにこだわっているのならば、仏道の真の境涯に達することはできない」

ばすは、この教えを聞いて、仏法の最高の醍醐の味を味わったのである。

塼を磨いて鏡とすることを真の功夫(くふう)という、

鏡を取り上げて塼とすることなどは分別の世界の人が思いつくことではない。

南嶽と馬祖とは奥深い真実を互いに点検し、それを明白にし、

四角い鏡、丸い鏡とすがたは違っても、師と資(弟子)一枚となっての法の相続なのだ。

たとえ、仏法と一体となり鉄のような意志を持つ人間であろうと、どうして塼を鏡にすることができようか、

仏になったという意識を消し去るには学人の坐禅功夫を超えねばならぬ、

それには坐禅し座臥し経行(きんひん)するというあたりまえのことを行ずるばかり、

南山に雲が起これば、西江(せいこう)に雨が降る、それが仏法のならいなのである。

〈語義〉

○南嶽 南嶽懐譲(677-744)。六祖慧能(638-713)の法嗣。

○馬祖 馬祖道一(709-788)。南嶽懐譲の法嗣。

〈解説〉

この公案は坐禅の根本義を明確にしたもので、その眼目は「不図作仏」であるとされる。この「磨塼作鏡」は単なる徒労無駄骨を言うのではなく、坐禅が有所得であってはならぬ、無所得・無所悟でなければならない実態を如実に示すものである。

この一段の大事、むかしより数百歳のあひだ、人おほくおもへらくは、南嶽ひとへに馬祖を勧励(かんれい)せしむると。いまだかならずしもしかあらず、大聖もし磨塼の法なくが、いかでか為人の方便あらん。為人のちからは仏祖の骨髄なり。(『正法眼蔵』「古鏡」巻)(151~159頁)

39 山生仏無性( いさんしょうぶつむしょう)

 

潙山云(いわ)く「一切衆生無仏性」。

〈語義〉

○潙山 潙山霊祐(771-853)。百丈懐海(749-814)の法嗣。南嶽下。弟子の仰山慧寂(きょうざんえじゃく、807-883)とともに大いに禅風を挙揚し、その法系は潙仰(ぎょう)宗といわれる。

〈解説〉

「潙山生仏無性」の「潙山」は、潙山霊祐。「生仏無性」とは、潙山の言った「一切衆生無仏性」のことである。この場合の「無仏性」というのは、言葉のうえでは「一切衆生悉有仏性」の対句ではあるが、字義通りに「仏性が無い」、仏になる可能性がないというのはなく、有とか無とかという対立する概念を超越したもの、つまり仏性をそなえないものは一物も存在せず、しかもそれは仏性という言葉も必要なく、そうした固定化したものでもないことを言う。(157~159頁)

41 玄沙一箇明珠( げんしゃいっこみょうじゅ)

 

〈現代語訳〉

玄沙の言う一箇の明珠は、時空を超えて今も昔もあまねく照らしているのだが、

こうした事実には根拠があるとは言い切れぬので、その実態は容易に知りがたい、

それは四角とか円とか長短などという単位でははかりきれず、またその辺際もなく、

さらにそのはたらきは内とか外とか中間とかの境もないのである。

〈語義〉

○玄沙 玄沙師備(835-908)。雪峰義存(822-908)の法嗣。(163~165頁)

44 黄檗従上宗乗( おうばくじゅうじょうしゅうじょう)

 

黄檗、嘗(かつ)て百丈に問う「従上の宗乗、如何(いかん)が人に指示する」と。百丈拠坐(こざ)す。檗(ばく)曰(いわ)く「後代(こうだい)の児孫、何を将(も)ってか伝授する」と。百丈云(いわ)く「我、将為(おもえ)らく、你(なんじ)は是、箇人」と。便(すなわ)ち方丈に帰る。

証し去り伝え来(きた)る従上の祖、一生の参学事何ぞ空(むな)しからん、

破顔せる面目霊山(りょうぜん)の昔、温至(し)得髄す少室の中(うち)。(173頁)

45 趙州庭前柏樹( じょうしゅうていぜんはくじゅ)

 

趙州(じょうしゅう)、因(ちな)みに僧問う「如何(いか)なるか是、祖師西(せい)来意」と。趙州云く「庭前の栢樹子」と。僧曰(いわ)く「和尚、境(きょう)を以(も)って人を示すこと莫(なか)れ」と。趙州云(いわ)く「吾(われ)、境(きょう)を以(も)って人を示さず」と。僧曰く「如何なるか是、祖師西(せい)来意」と。趙州云く「庭前の栢樹子」と。

無根の柏樹虚空に掛かり、祖意西来何の後前ぞ、

古仏株を守って枝葉(しよう)落ちぬ、他に代わる一語天然に至る。

兀地(ごつち)何を図(と)してか年歳積もれる、雪霜一骨庭前に在り、

趙州道(い)うこと莫(なか)れ西来意と、古節中才豈(あに)自然(じねん)ならんや。

僧有って道(みち)を趙州老に問う、只(ただ)道(い)う庭前の栢樹子、

端的の言は是妙なりと雖(いえど)も、但(ただ)恨む祖師の来意遅きことを。

〈現代語訳〉

趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)に、ある時、ある僧が尋ねた。

「達磨大師が、インドから中国にやって来られた真意はどこにあるのでしょうか」

趙州が答えた。

「庭前の柏の樹さ」

僧が言った。

「庭前の柏の樹などと、目の前の事物で示されるのではなく、もっと意味のある言葉で教えてください」

「いや、私は、何も目の前の事物で示したのではない」

すると、その僧が、また聞いた。

「達磨大師が、インドから中国にやって来られた真意はどこにあるのでしょうか」

趙州は答えた。

「庭前の柏の樹さ」

〈語義〉

○祖師西来意 祖師西来意というのは「中国禅宗の祖師である菩提達磨大師がインドから中国にやって来た真意とは何か」というのが原意である。が、それはしばしば「仏法の大意・真義・奥義・真髄とは何か」という禅の根底を問う意味に使われる。(176~180頁)

46 瑯揶清浄本然(ろうやしょうじょうほんねん)

 

僧、瑯揶(てへんではなくおうへん)に問う「清(しょう)浄本然ならんには、如何(いかん)が山(せん)河大地を忽生(こつしょう)する」と。云く「清浄本然なり、如何が山河大地を忽生せん」と。

春松秋菊時節に順(したが)う、蓋(がい)地蓋天現鏡空し、

竹影(ちくえい)掃除すれば塵(ちり)転(うた)た積る、月潭水(たんすい)を穿(うが)って各(おのおの)融通す。

〈現代語訳〉

瑯揶(てへんがおうへん)慧覚(ろうやえかく)に、弟子の長水子璿(ちょうすいしせん)が尋ねた。

「山河大地というのは、そのままが清浄無垢であるのに、なぜ分別取捨憎愛の対象としての山河大地が生まれるのでしょうか」

瑯揶が答えた。

「山河大地というのは、そのままが清浄無垢であるのに、なぜ分別取捨憎愛の対象としての山河大地が生まれるのか」

春になると常緑の松でさえ青々と冴えわたり、秋には満開の菊の香が高く薫り、その存在を示すのは時節にしたがう、

そのように世界のすべての事象は、そのあるがままのすがたが現実に鏡に映し出されるように展開している。

風にそよぐ竹影は、あたかも地上を掃除しているようだが、地上の塵は積ったままであり、

清浄な月の光は深遠な水底にもとどくが、その痕跡もとどめずに流れゆく。

〈語義〉

○僧 長水子璿(ちょうすいしせん、?ー1038)。瑯揶(おうへん)慧覚(ろうやえかく)   の法嗣。教禅一致論者として知られる。

○瑯揶 瑯揶慧覚(生没年不詳)。宋代の人。汾(ふん)陽善昭(947-1024)の法嗣で臨済の宗義を挙揚した。

〈解説〉

『正法眼蔵』「谿声山色」巻には次のような示衆がある。

長沙岑禅師にある僧とふ、いかにしてか山河大地くぉ転じて自己に帰せしめん。師いはく、いかにしてか自己を転じて山河大地に帰せしめん。いまの道取は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに初帰に罣礙すべきにあらず。瑯揶の広昭大師慧覚和尚は、南嶽の遠孫なり。あるとき教家の講師子璿(しせん)とふ、清浄本然、云何忽生山河大地。かくのごとくとふに、和尚しめすにいはく、清浄本然、云何忽生山河大地。ここにしりぬ、清浄本然なる山河大地を、山河大地とあやまるべきにあらず。しかあるを経師、かつてゆめにもきかざれば、山河大地を山河大地としらざるなり。(181~184頁)

47 米胡還仮悟否(べいこげんけごひ)

 

〈語義〉

○第二頭 第二義門のこと。第一義門は言語や思惟を超えた仏法の究極の宗義を言い、第二義門はその第一義門の最奥の宗義を離れて種々の手段で衆生の迷妄を断じて成仏得悟の道を示すことを言う。「第二頭に落第」とは、宗乗の第一義から逸脱したこと。『正法眼蔵』「大悟」の巻に「落第二頭」について、「しかあるを、さとりといふは、第二頭におつるをいかんがすべきといひつれば、第二頭もさとりといふなり。第二頭といふは、さとりになりぬるといひや、さとりをうといひや、さとりきたれりといはんがごとし。なりぬといふも、きたれりといふも、さとりなりといふなり。しかあれば第二頭におつることをいたみながら、第二頭をなからしむるがごとし。さとりのなれらん第二頭は、またまことの第二頭なりともおぼゆ。しかあれば、たとえ第二頭なりとも、たとひ百千頭なりとも、さとりなるべし。第二頭あれば、これよりかみに第一頭のあるを、のこせるにはあらぬなり。たとへば昨日のわれをわれとすれども、昨日はけふを第二人といはんがごとし。而今のさとり、昨日にあらずとはいはず、いまはじめたるにあらず、かくのごとく参取するなり。しかあれば大悟頭黒なり、大悟頭白なり」と詳述されるように、第二頭も第一頭に即応することが示されている。

○将錯就錯(しょうしゃくじゅしゃく) 間違ったしまったことをその状況に応じて処理し、問題を巧妙有利に解決すること。『正法眼蔵』「即心是仏」巻には「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり、学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯さざるゆゑに、おほく外道に零落す」と示されている。また、将錯就錯するところにさとりの道が開けるゆえに古聖(しょう)先徳も将錯就錯して道を成じたことを、慧忠国師と大耳三蔵との故事を引いて「このゆゑに、いま仏道の心不可得をきかしむるなり。この一法を通ずることをえざらんともがら、自余の法を通ぜりといはんこと信じがたしといへども、古先もかくのごとく将錯就錯ありとしるべし」とはっきりと示している。

〈解説〉

「米胡還仮悟否」の「米胡」は、京兆米胡(けいちょうべいこ)。「還仮(げんけ)悟否とは、米胡がある僧をして兄弟弟子の仰(きょう)山慧寂に「今の世の人たちはさとりにいたるのか否か」と質問させたことに対して、仰山は「さとりは現実に確かにあるが、第二頭(主觀と客観の対立するところ、対象として求められるもの)に落ちて困る」と答えた。人はすぐにさとりを求めるが、求めて得られるものは対象として得たものであって、さとりはあくまでも無所得・無所悟そのものでなければならないことを示した語話である。(184~188頁)

49 青原又恁去(せいげんゆういんもこ)

 

〈語義〉

○祖師西(せい)来意 直接には「達磨がインドから中国に来た真意」だが、仏法の真髄を問う命題でもある。「仏仏の真髄」とか「仏法的的の大意」と同意。

50 洞山仏向上事(とうざんぶつこうじょうじ)

 

〈語義〉

○洞山 直接には洞山良价(807-869)。雲巌曇晟(782-841)の法嗣。青原下。南泉や潙山に参じ、雲巌に学び、再遊の時に水を過ぎんとして悟り、雲巌に嗣ぐ。後に中国曹洞宗の高祖と称される。

〈解説〉

「物向上事」とは、仏以上のことをいうのではなく、仏の真実のすがたの意味で、それを具現することが仏道修行であり、それは物向上事を体得して初めて知りうることである、と洞山が僧に教示した語話である。(195~197頁)

51 臨済悟黄檗棒(りんざいごおうばくぼう)

 

臨済、黄檗の会中(えちゅう)に在(あ)って三年、行業(ぎょうごう)純一なり。首座(そ)、勧励して仏法的的の大意を問わしむ。三度(たび)到問するに、三度喫棒(きつぼう)す。徃(ゆ)きて大愚(だいぐ)に有過無過(うかむか)を問う。愚云(いわ)く「黄檗、恁麼老婆、汝が為に得徹困(とくてつこん)なり。更に這裏(しゃり)に来(きた)って有過無過を問わんや」と。済、言下(ごんか)に大悟して曰く「元来、黄檗仏法多子無し」と。大愚、撮り住(とど)めて云(いわ)く「這尿(しゃにょう)牀子(じょうす)、適来(せきらい)言うには、有過無過と道(い)う。如今(にょこん)、却(また)、黄檗仏法多子無し、と道(い)う。你(なんじ)、什麼(いか)なる道理を見る。速道速道」と。済(さい)、大愚(だいぐ)の脇下(きょうか)に於いて、築(つ)くこと三築(ちく)す。大愚、拓開(たくかい)して云(いわ)く「你(なんじ)、黄檗を師とすべし。我(わ)が事に干(あず)かるに非(あら)ず」と。済、大愚を辞して、却(また)、黄檗に廻(かえ)る。

棒頭の明眼(げん)強いて相見(そうけん)す、脇下(きょうか)に児(こ)を憐れむ塊(つちくれ)未(いま)だ銷(しょう)せず、

汝が為に老婆心切切なり、風顚(てん)じ水逆(げき)して幾(いくば)くか迢迢(ちょうちょう)たる。

〈現代語訳〉

臨済義玄(りんざいぎげん)は、かって黄檗の弟子としてその会下にあって修行をつむこと三年であった。その修行態度が極めて純粋かつ綿密であったので、時の首座が臨済を督励し、仏法の根本義を師の黄檗に尋ねさせた。ところが、臨済は三度尋ねても三度とも、黄檗から同じように痛棒を喫した。そこで、臨済は、高安大愚のところに行き、自分の質問が間違っているのかどうかを尋ねると、大愚が言った。

「黄檗は、そのように、老婆のように親切に君に接して、本当に疲れてしまったろうよ。それなのに、ここに来て、まだそれが間違っているかどうかなどと、よく言うぞ」

そう言われて、臨済はたちどころに大悟して言った。

「もともと、黄檗の仏法は、それほど複雑なものではなかったのだ」

その言葉を聞くや、大愚は臨済をとっつかまえ脇の下に挟み込んで言った。

「この小便小僧めが、さっきは間違っているかどうかを聞いたのに、今度は、黄檗の仏法など複雑なものではないなどとほざく。お前に、一体何がわかったというのだ。言えるものなら、言ってみよ、さあ早く言え、早く言え」

すると、臨済は、ことばに置き換えることのできない、その瞬間に得た境地を、大愚の脇の下を三度突くということによって示した。

大愚は、臨済のその所作により、彼のさとるところを了解し押さえつけていた臨済を離して言った。

「お前の師匠は黄檗である。私に関わることではない」

そうして、臨済は、師資証契(しししょうかい)の機縁の重大さを感知し、大愚のところを辞して黄檗のもとに帰ったのである。

黄檗は、痛棒を加えることによって、臨済の迷妄に滞る眼を開かせ、

大愚は、臨済の未だ解けぬ迷妄のかたまりが残っているのを憐れみ巧みに接化(け)した。

臨済よ、君のための、黄檗の痛棒や大愚の接化は、老婆のそれのようにまことに親切きわまるもので、

黄檗の法を嗣いだ臨済の流れに逆らうような激しい法統はいまだ衰えを知らぬ。

〈語義〉

○大愚 高安大愚(生没年不詳)。唐代の人。馬祖門下の帰宗智常(きすちじょう、生没年不詳)の法嗣で、臨済義玄を接化した人として知られる。(198~201頁)

52 洞山無情説法(とうざんむじょうせつぽう)

 

無情説法無情会(え)す、牆壁(しょうへき)草木(そうもく)を教(し)て春ならしむこと莫(なか)れ、

凡聖(しょう)含霊己分(こぶん)に非ず、山(せん)河日月及び星辰(せいしん)。

〈現代語訳〉

無情の説法は、無情にしてはじめて理解することができるのだ、

土や壁のあるよう、草や木のいとなみは、春という時節にかかわらず仏法を説く、

凡も聖(しょう)も衆生もすべて同根で自己の裁量などの計算は無用のこと、

山(せん)河星辰すべてのいとなみが無情説法で、仏法そのものなのだ。

適丁東了適丁東(てきちょうとうりょうてきちょうとう)(202~205頁)

58 天童渾身似口(てんどうこんしんじく)

 

天童和尚云く「渾身口に似て虚(こ)空に掛かれり。問わず、東西南北の風。一等に他と般若を談ず。適丁東了適丁東(てきちょうとうりょうてきちょうとう)」と。

渾身是(これ)口虚空を判ず、居起(きょき)東西南北の風、

一等に玲瓏(れいろう)して己語(こご)を談ず、適丁東了適丁東(てきちょうとうりょうてきちょうとう)。

〈現代語訳〉

天童如淨和尚は、風鈴を頌(じゅ)して言った。

全身を口にして、虚空に掛かり、

東西南北どのような風にも対応し、

あらゆるところに般若の智慧を説く、

ちりりんちりりんちりりんりん。

風鈴を逆さにして、全身を口にして仏法を説く、

東西南北あらゆるところ無辺際にあらゆるところに、

何の分け隔てもなく、すべての真実を説く、

チチ、チン、トウ、リョウ、チチ、チン、トウ。

〈語義〉

○天童 天童如淨(1163-1228)。唐代の人。足庵智鑑(そくあんちかん、1105ー92)の法嗣。道元の本師。十九歳の時、教学を捨て雪寶山(せつちょうざん)の足庵智鑑に参じ、智鑑の痛棒下に庭前の栢樹子の話に悟道し、淨頭として修行したとされる。嘉定十七年(1224)、勅命により太白山天童景徳寺に住す。道元の著述には、その厳格な風貌等を伝えるが、僧伝等には不詳な面が多い。

〈解説〉

なお、道元の在宋記録でもある『宝慶記』には、道元がこの「風鈴の頌」を、

和尚の風鈴の頌は最好中の最上なり。諸方の長老は、縦(たとい)、三祇劫を経とも、亦及ぶこと能らざらむ。(中略)道元何の幸いありてか今見聞するを得て、歓喜踊躍し、感涙衣を湿(うる)ほし、昼夜叩頭(こうとう)して頂載す。然る所以は、端直にして而も曲調あればなり。

と、それは如浄がまさに輿(こし)に乗らんとする時であったが、最大限の賛辞をもって話しかけると、如浄は笑いながら、

你(なんじ)の道(い)ふこと深く抜群の気宇あり。我、清涼に在りて這箇の風鈴の頌をつくれり。諸方讃歎すと雖(いえども)、而も未だ嘗(かつ)て説き来つて斯の如きならず。我、天童老僧、你、頌をつくらむと要せば、須(すべ)く恁地につくるべし。

と答えた、といかにも楽しげに記している。(226~228頁)

59 南嶽一物不中(なんがくいちもつふちゅう)

 

南嶽譲(じょう)禅師(じ)、六祖に参ず。祖問うて云く「什麼(いずれ)の処(ところ)従(よ)りか来(きた)てり」と。祖云く「是、什麼物、与麼来」と。譲、措(お)くこと罔(な)し。是(ここ)に於いて執侍(しつじ)すること八年。方(まさ)に前(さき)の話(わ)を省(あき)らむ。乃(すなわ)ち祖に告げて曰(いわ)く「懐(え)譲、当初(そのかみ)、来(きた)りし時、和尚、某甲(それがし)を接せし、是什麼物与麼来を会得す」と。祖云く「你(なんじ)、作麼生(そもさん)か会(え)す」と。譲云く「説似(じ)一物即不中」と。祖云く「還(また)、修(しゅ)証を仮(か)るや、否や」と。譲云く「修(しゅ)証は即(すなわ)ち無きに不(あら)ず。染汚(ぜんな)することは即ち得じ」と。祖云く「祗(ただ)、此の不染汚、是(これ)、諸仏の護念する所。汝も亦(また)、是(かく)の如(ごと)し。吾(われ)も亦、是の如し。乃至、西天の初祖も亦、是の如し」と。

物子(ぶつし)を料理し来る、一等の箇(これ)南嶽。

風(かぜ)生(しょう)なることを弄(ろう)し雲の起るを見る、虎嘯(こしょう)を味わい龍吟(ぎん)を愛す。

一向功夫(くふう)し、八年金を練(ね)る、脱体(だつたい)脱体、委悉(いしつ)すや也(また)未(いま)だしや。

恁来恁生(さん)何物か是、父母(ぶも)未生已前(いぜん)の心。

直(じき)に如今(にょこん)に至って妙を得(う)と雖(いえど)も、毘婆尸仏(びばしぶつ)早く心を留(とど)む。

〈現代語訳〉

南嶽懐譲禅師が六祖に参じた時、六祖が尋ねて言った。

「どこから来たのか」

懐譲は答えた。

「嵩山(すうざん)の安国師(あんこくし)の所より参りました」

六祖が言った。

「何者がこのようにして来ているのか」

懐譲は答えられなかった。

そこで、以來八年間、懐譲は六祖の下で修行を励み、師の問いに対する答えを得ることができ、六祖に告げた。

「私、懐譲は、かつてこの山に来た時、師は私に課題を与えられました。その『何者がこのようにして来ているのか』との問いの意味がわかりました」

六祖が言った。

「君は、何がどのようにして意味がわかったのか」

懐譲は言った。

「そのものを言葉で表現しても表現しきれるものではなく、何を言っても、すぐさまに的はずれになってしまいます」

六祖は言った。

「それは修行した結果としてさとりえてわかったことなのか」

懐譲は言った。

「修行やさとりがないとは言いませんが、修行とさとりを個別にみるとそれぞれを汚すことになります」

六祖が言った。

「その不染汚のところこそを諸仏が護持してきたのであり、自分もまたその通りであり、君もまたその通りであり、そしてインドの祖師方もその通りなのである」

南嶽懐譲は自己を究明するために六祖のもとにやって来た。

それが龍が吟じて雲起こり、虎の嘶(いなな)くを聞いて風の生じるその風情を楽しむ六祖の情識を超越した禅風を求めたからだ。

懐譲は、その六祖の膝下でひたすらに八年、自己を練りに練った。

脱落したか、そのすべてに脱落したか、

何者がどのようにここに存在しているのか、ということについて、

この六祖の問いは、父母の未生以前の真実を問われたのだ。

懐譲は、六祖のもとで、その真意を会得したが、

それは、すでに遠い昔の毘婆尸仏(びばしぶつ)の時代に得られていた事実であったのだ。

〈語義〉

○南嶽 南嶽懐譲(677-744)。六祖慧能(638ー713)に侍すること十五年にしてその法を嗣ぐ。青原とともに六祖の二大弟子とされ、その宗風は中国禅宗の主流となった。

61 道吾智不到処(どうごちふとうしょ)

 

太陽の光の下では、小さな灯火の光がその光を失うように、

壺の中から宇宙を見るような視点は、薬山(さん)の仏法の前に全く光りを失ったのだ。

〈語義〉

○道吾 道吾円智(769-835)。薬山惟儼(745ー828)の法嗣。青原下。幼いときに、涅槃和尚について出家し、薬山惟儼に参学して法を嗣ぎ、諸山を遍歴の後、道吾山にて禅風を振るう。唐の太和九年(835)示(じ)寂。世寿六十七。

○雲巌 雲巌曇晟(782-841)。薬山惟儼の法嗣。青原下。幼いときに、石門について出家し、百丈懐海(749-814)に随侍すること二十年。後に薬山惟儼に参学して法を嗣ぐ。雲巌山に宗風を挙げ、弟子に洞(とう)山良价(807-869)を出す。会昌元年(一説に太和三年〈829〉)示寂。世寿六十。

○薬山 薬山惟儼。石頭希遷(700ー790)の法嗣。青原下。

○切忌(せつき) 絶対に…してはならない。

○道著(どうじゃく) 言葉で言いきること。

○智頭陀(ちずだ) 道吾円智が衣食住に厳格で簡素な生活をする(頭陀)ところからそのように呼ばれたのであろう。

62 香厳撃竹大悟(きょうげんげきちくだいご)

 

香厳、因(ちな)みに潙山云く「汝、生下(しょうげ)して嬰児と為(な)りし時、未だ東西南北を弁(わきま)えず。此の時に当たって、吾(わ)が為に説け、看(み)ん」と。厳、下語(あぎょ)し、并(なら)びに道理を説くに、並(なら)びに相(あい)契(かな)わず。便(すなわ)ち武当山に入って、忠国師の旧庵の基(もと)に卓庵(たくあん)す。一日(じつ)、道路を併淨(へいじょう)す。因(ちな)みに、棄礫(きれき)、竹を撃って響かす。時に、忽然と大(だい)悟す。

終日虚心にして鳳(ほう)の臻(いた)るを待つ、村(そん)僧一道却(かえ)って隣(りん)を成す、

龍吟鳳唱聞くに拍(はく)無し、瓦礫(がりゃく)言(ことば)を伝(つた)う枯木人(こぼくじん)。

〈現代語訳〉

香厳智鑑が、かって潙山霊祐に参学した時のことである。

潙山が言った。

「君が、生まれたての赤子の時には、まだ東西南北もわからなかったであろう。その時の状況を、私のために説明してみよ」

そう言われて、香厳は、言葉で道理を説こうとしたが、どれも師の潙山の意に契(かな)うような言葉がでてこなかった。そこで、武当山に入って、南陽慧忠国師が住んでいた庵の跡に自分の庵を建てて住んだ。ある日、道路を掃除していた時、掃き捨てた石ころが竹に当たった。その響くのを聞いて忽然と大悟した。

竹叢の庵の中で、香厳は虚心純一に弁道し、鳳凰の飛来する好事を待っていた、

訪れるもの一人としてなく、香厳の隣人は弁道一筋そのものであった、

舞い降りた鳳(おおとり)が吟じ、鳳が歌っても手拍子すらなかったのに、

ただ、石ころのみが竹を打って響き、枯木の人である香厳にさとりの言葉を伝えた。

〈語義〉

○香厳 香厳智閑(きょうげんちかん、?-896)。潙山霊祐の法嗣。南嶽下。

○潙山 潙山霊祐(771-853)。南嶽下。潙仰宗(いぎょうしゅう)の祖。

〈解説〉

「香厳撃竹大悟」の「香厳」は、香厳智閑。「撃竹大悟」とは、香厳智閑の開悟の語話である。香厳は、百丈懐海について出家し、後に潙山霊祐に参じてその会下(えか)にあっては多聞博記であった。が、潙山から「君の所説は、すべてが学問的な語句の中で学んだものに過ぎない。そうではなく父母(ぶも)未生已前の一句を道取せよ」と詰問されてそれに真の答えを得られず、仏道の真実は学問による文字知識の及ぶところではないことに気づき、自分の所持していた書籍を全部焼き捨て、武当山の慧忠国師の遺跡に庵居する。そして、一日、庭を掃除していたとき、箒(ほうき)にとばされた石ころが竹にぶつかる音を聞いて忽然大悟した因縁である。

『正法眼蔵』「渓声山色」巻には、次のようにまことに詳しい示衆がある。

また香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。香厳いはんことをもとむること、数番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋(ひじん)するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず、われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ、ただ行粥飯僧とならん、といひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり、このくにの陪饌役送のごときなり。かくのごとくして大潙にまうす、智閑は身心昏眛にして道不得なり、和尚わがためにいふべし。大潙のいはく、われなんぢのためにいはんことを辞せず、おそらくはのちに、なんぢわれをうらみん。かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡(しょうせき)をたづねて、武当山にいりて、国師の庵(いおり)のあとに、くさをむすびて為庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき道路を併淨するちなみに、かはらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。沐浴し潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。つひに偈をつくりていはく、一撃亡所知、更不自修治、動容揚古路、不堕悄然機、処処無蹤跡、声色外威儀、諸方達道者、咸言上上機(一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず、道容を古路に揚げ、悄然の機に堕せず、処処に蹤跡無し、声色外の威儀、諸方達道の者は、咸(み)な上上の機と言ふべし)。この偈を大潙に呈す。大潙いはく、此子徹也。

また『永平広録』巻六ー上堂457、巻八ー法語2、巻九ー頌古87「香厳千尺懸崖」参照。『三百則』上・17参考。(243~247頁)

63 南泉修行無力(なんせんしゅぎょうむりょく)

 

〈語義〉

○南泉 南泉普願(748-834)。馬祖道一(709-788)の法嗣。南嶽下。

65 長沙莫妄想縁(ちょうさまくもうぞうえん)

 

〈現代語訳〉

仏性を論じようとすると、分別が先立つかた、あるなしの二つが働きだす。

身体を構成するエネルギーが消滅すれば、身体は寒(ひえ)きり、そこに真実があらわれる。

生死はあるのだが、それを支配するものなどありはしないのだ。

そのように根拠のないものなどについて、いたずらに言葉で説明するなどせぬがよい。(258頁)

66 仰山高処高平(きょうざんこうじょこうへい)

 

仰山(きょうざん)、一日(じつ)、潙山に随(したが)って開田す。仰山問うて曰く「遮頭(しゃとう)は恁麼に低きことを得たり、那頭は恁麼に高きことを得たり」と。潙云(いわ)く「水、能(よ)く物を平(たいら)ぐ、但(ただ)、水を以(も)って平ぐべし」と。仰(きょう)云く「水も也(また)、憑(たの)み無し。和尚、但(ただ)、高処(じょ)高平、低処(じょ)低平なるべし」と。潙山、之(これ)を然(しか)りとす。

山前(さんぜん)一片の閑田地、上下高低草料(そうりょう)に任(まか)す、

方円を算(かず)え曲直を料(はか)らんと欲(おも)わば、東西南北一青苗(せいびょう)。

〈現代語訳〉

仰山慧寂が、ある日、師の潙山霊祐にお供して田で作務をした時のこと、仰山が師に尋ねて言った。

「ここは低く、あそこは高いですね」

潙山は答えて言った。

「水はいつも水平だから、水を入れればその高低はなくなるよ」

仰山は言った。

「水はいつも水平とおっしゃいますが、水など入れるまでもなく、高い所は高いままで、低い所は低いまま、それでよろしいのではありませんか」

潙山はそのように言う弟子の仰山の境涯を認めた。

大潙山の麓の誰の所有地でもない田畑、

土地の上下高低あるがままそのままに耕してそれなりに税を納める、

そこが四角か丸かなどと物差しで調べたところで、

結局のところは、東西南北どこからどこまでも植えるのは青い苗である。

〈語義〉

○仰山 仰山慧寂(807-883)。潙山霊祐の法嗣。

○潙山 潙山霊祐(771-853)。南嶽下。潙仰(いぎょう)宗の祖。

〈解説〉

『正法眼蔵』「阿羅漢」巻には次のような示衆がある。

尽諸有結は、尽十方界不曾蔵なり。心得自在の形段、これを高処自高平、低処自邸平なりと参究す。このゆゑに墻壁瓦礫(しょうへきがりゃく)あり。自在といふは、心也全機現なり。(260~263頁)

69 大潙左脇五字(だいいさきょうごじ)

 

〈語義〉

○大潙 潙山霊祐(771-853)。南嶽下。潙仰(いぎょう)宗の祖。

○水牯牛 去勢した水牛。その意から転じて本来の面目を行じる仏道修行者の意にも用いる。(271頁)

70 深明見人牽網(しんめいけんじんけんもう)

 

〈現代語訳〉

奉先深と清涼明の二人の修行者が、淮河にたどり着いたとき、漁師が網を牽いていて、その網から鯉が飛び出るのを見た。

すると奉先深が言った。

「明禅兄、あの鯉は実に機敏に、網という煩悩から飛び出して、自在無碍な淮水の世界に行きましたね。まるで禅僧みたいではありませんか」

清涼明は言った。

「確かに、それはそうだが、それならはじめから網に掛からなければよいではないか」

奉先深が言った。

「明禅兄、そう言っては、あなたは、真実を見る目に欠けると思います」

そう言われた清涼明は悩み、真夜中に至ってさとるところがあった。

淮水の流れが仏法の流れとなって、深・明二人の修行者のもとに至ったところ、

網という煩悩(まよい)を飛び出した鯉の生命がきらめいた。

その生命の躍動がなければ、

二人は、ただ悄然と淮河の流れを見るばかりであったろう。(274頁)

71 庵主渓深杓長(あんじゅけいしんしゃくちょう)

 

雪峰山(ざん)の畔(ほとり)に一僧有って卓庵す。多年、剃頭せず。自(みずか)ら、一柄(ぺい)の木杓(もくしゃく)を作って、渓辺(けいへん)に去(ゆ)きて水をく(爫曰)んで喫(きつ)す。時に僧有(あ)って問う「如何なるか是、祖師西(せい)来意」と。庵主(じゅ)曰(いわ)く「渓(たに)深くしては杓柄(しゃくへい)長し」と。僧、帰って雪峰に挙似(こじ)す。峰(ほう)云(いわ)く「也(また)、甚(はなはだ)奇怪なり。然(しか)も是(かく)の如くなりと雖(いえど)も、須(すべから)く是、老僧、勘過(かんか)して始得(しとく)ならん」と。峰、一日(じつ)、侍者と同じく剃刀(ていとう)を将(も)って去(ゆ)きて他(かれ)を訪(とぶら)う。纔(わず)かに相見(しょうけん)して、便(すなわ)ち問う「道得せば、即(すなわ)ち汝が頭を剃らじ」と。庵主(じゅ)、便(すなわ)ち、水を将(も)って洗頭(せんず)す。峰、便ち、他(かれ)の与(ため)に剃却(ていきゃく)す。

人有って西来意を問著(もんじゃく)す、木杓(もくしゃく)柄(へい)長くして渓(たに)転(うた)た深し、

箇中無限の意(こころ)を識(し)らんと欲(おも)わば、松風(しょうふう)一たび弄(ろう)す没絃(もつげん)の琴。

〈現代語訳〉

雪峰山(せっぽうざん)のほとりで、ある僧が庵を結び修行していた。彼は長い間剃髪しなかったが、その修行ぶりは、自分で一本の木杓を作り、渓に下りては水を汲むというように極めて簡素であった。

ある時、その評判を聞いた雪峰の侍者が質問した。

「祖師西来意とは、どういうことか」

すると、その庵主(じゅ)は答えた。

「渓(たに)が深ければ、柄杓の柄の長いものよ」

そのように答えられた侍者は、すぐに帰って雪峰義存にそのことを伝えると、雪峰は言った。

「それはまた、怪しいまでに素晴らしい言葉だ。ではあるが、私が直接、その僧に会ってその真偽を判断しよう」

ある日、雪峰は侍者に剃刀(かみそり)を持たせ、その庵主を訪問し、彼に会うやいなや言った。

「仏法の事実を十分に言い得れば、君の頭を剃ることはしない」

すると、庵主は、仏法の深奥の真実は言語をもっては示し得ないところを、水を持ってきて頭を洗い清めるという事実をもって示したので、雪峰は彼のために剃髪した。

ある僧が、長髪の僧に祖師西来意の真意について質問した。

その答えは、渓が深ければ、その水を汲む柄杓の柄も長いものだ、というものだった。

この言葉に秘められた無限の意旨を知ろうと思うならば、

かつて、陶淵明が琴の音を聞いたように、無為に仏法を説く松風の無限の音を聞かねばならぬ。

〈語義〉

○雪峰 雪峰義存(822-908)。徳山宣鑑(782-865)の法嗣。

○祖師西来意 語義的には「達磨大師がインドから中国にやってきた真意とは何か」ということだが、この語はしばしば仏法の大意を問う語として使われる。(276~278頁)

72 霊雲見桃悟道(れいうんけんとうごどう)

 

霊雲、因(ちな)みに桃華を見て悟道す。有頌(うじゅ)して云(いわ)く「三十年来尋剣(じんけん)の客なり。幾廻(いくたび)か葉落ち又枝を推(ぬ)きんずる、一たび桃華を見て自従(よ)り後、直(じき)に如今(にょこん)に至って更に不疑なり」と。潙山に挙似(こじ)す。山云く「縁より入(い)る者は、永(なが)く退失せず。汝、善く護持すべし」と。玄沙、聞いて云く「諦当(ていとう)、甚諦当、敢保(かんぽ)すらくは、老兄(ひん)、未だ徹せざること在り」と。

古曾(むかし)悞(あやま)って桃源に入(い)りし客、両眼(げん)華(はな)を看て一たび枝を動ず、

更に歩んで都(すべ)て忘る那畔(なはん)の事(じ)、何を将(も)ってか酬答(しゅうとう)大家(け)の疑い。

艶陽(えんよう)たる桃李(とうり)藍朱(らんしゅ)の色、百世春の時同じく本枝(ほんし)なり、

賤近(せんきん)愚(ぐ)ならずば須(すべから)く遠きを貴(たっと)ぶべし、目を軽んじて耳を重くして痴疑(ちぎ)すること莫(なか)れ。

〈現代語訳〉

霊雲志勤(れいうんしごん)は、桃の花の咲いているのを見てさとり、頌(じゅ)して言った。

三十年、なんと愚かに無駄に過ごしてきたことか、

その間幾度となく、花は咲き葉が落ち枝から芽も出ていたのに……、

しかし、今、桃の花の咲くのを見て、

真実をさとり、何の迷いもない。

これを師の潙山霊祐に示すと、師は言った。

「縁のはたらきによって、その境に至った者は、永久にそれを失うことはない。君は、それを護持するがよい」

それより一世代後の玄沙師備が言った。

「霊雲禅師の頌は、確かに良いことを言っていて真にその通りfrはあるが、あえて言わせてもらえば、まだ徹底しているとは言い難い」

昔、桃源郷に迷い込んだ人が、

両目で確実に桃の花が咲いている事実を認め、その爛漫たる桃花を歓楽したが、

故郷には、そこで見たすべてを忘却して帰った。

確かに、桃花爛漫と咲き誇る境の風光を問われても、答えることはない、その風光の痕跡もないのだから……。

晩春の候、桃李の葉が緑に、花が紅に艶(えん)を競うように彩をなし、

それは百世の昔より、春になれば繰り返す当然のことなのだ。

身近なことを軽んじ、手の届かない遠くにあるものを貴ぶのが人の習いであるが、

目の前の現実を見ずに、耳に聞こえる言葉のみを重んじ、理論にたよって変に疑いをもってはならぬ。

〈語義〉

○霊雲 霊雲志勤(生没年不詳。唐代の人)。潙山霊祐(771-853)の法嗣。南嶽下。

○尋剣客 楚の人が、舟で河を渡るとき、剣を落とし、船端に目印をつけて「ここが、私の剣の落ちた場所である」と言い、舟が止まったときに、その目印のところを探したが剣はなかったという「刻舟求剣」の故事に因み、愚かなことをする人を尋剣の客という。(281~284頁)

73 趙州狗子仏性(じょうしゅうくすぶっしょう)

 

趙州、因(ちな)みに僧問う「狗子に還(また)、仏性有りや、也(また)、無しや」と。州云く「有り」と。僧曰(いわ)く「既(すで)に有り。什麼(なん)と為(し)てか、却(また)、這箇(しゃこ)の皮袋に撞入(とうにゅう)する」と。州云く「他(かれ)、知って故(ことさ)らに犯(おか)すが為(ため)なり」と。僧有って問う「狗子(くす)に還(また)、仏性有りや、也(また)、無しや」。州云く「無し」と。僧曰(いわ)く「一切衆生、皆(みな)、仏性有り」、狗子、什麼(なん)と為(し)てか、「却、無し」と。州云く「伊(かれ)に業識(ごっしき)有ること在(あ)るが為なり」と。

全身狗子全身仏、箇裏に論じ難し有りや也(また)無しや、

一等に売り来って還(また)自(みずか)ら買う、憂(うれ)うること莫(なか)れ折本(せっぽん)と又偏枯と。

有無の二仏性、衆生の命に造(いた)らず、

酪(らく)の蘇(そ)と成るに似たりと雖(いえど)も、猶(なお)滅尽定(じょう)の如し。

〈現代語訳〉

趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)に、ある僧が尋ねた。

「犬に仏性はありますか」

趙州は答えた。

「ある」

僧は言った。

「あるとおっしゃいますが、それではなぜ、仏性がありながら、どうして犬として目の前にいるのですか」

趙州が言った。

「犬は、仏性を十分に承知の上で、犬として生きているのだ」

別の機会に、ある僧が尋ねた。

「犬に仏性がありますか」

趙州は答えた。

「ない」

僧は言った。

「この世の生きとし生けるもの、ありとあらゆるものに仏性があるといのに、犬にはどうしてないのですか」

趙州は答えた。

「昔から、犬には犬のはたらきがあり、犬として生きているからだ」

犬の全身は、仏の全身である。

そこで、仏性が有るとか無いとか論ずることはできないのだ。

趙州が有るの無いのと言っているのは、自分で売って、自分で買っているように無駄なことをしているようだが、

しかし、何も心配することはない、元手をすって損をするように仏性を示せなくなったわけではなく、有仏性・無仏性にこだわって動きがとれなくなったわけではないのだから。

仏性が有るの無いのと言ったところで、

ありとあらゆる生命には何の関係もない。

有る無いということは、酪と蘇というようなもので、その元は乳であり、味が違うから別物だというのは誤りだ。

思慮分別を絶した滅尽定(じょう)の世界にはそのようなことはない。

〈語義〉

○趙州 趙州従諗(778-897)。南泉普願(748-834)の法嗣。

〈解説〉

「趙州狗子仏性」の「趙州」は、趙州従諗。「狗子仏性」とは、「趙州狗子」「趙州有無」「趙州無字」「趙州仏性」等々と称せさられる公案である。「仏性」とは、釈尊の本性・如来蔵とも同視され、仏となる種子(しゅじ)がすべてのものに具有されている意味で、『大般涅槃経』は「一切衆生悉有仏性」として、すべてのもろもろが平等にこの可能性を有するとした。

この語話で、ある僧が趙州に「犬に仏性があるか」と問うと「有る」と答え、またある僧には「無い」と答えた、その「仏性の有る無し」は、「有り」と「無し」と対立する有無ではなく、有という仏性、無という仏性、つまり存在の実体概念を超越した仏性の存在そのものについての問答である。つまり「一切衆生悉有仏性」にこだわれば有の固執になるのである。

この語話は『永平広録』巻3-上堂226、巻4ー同429にもたびたび説示されている。

道元は、「一切衆生悉有仏性」について、そのような可能性や仏教以外の教説でいう固定した変化の無い実体としての我などを仏性と見ることを避けて、仏性の真義は人間に内在する可能性などではなく、草木国土・日月星辰というすべてが現に仏であると説示する。したがって「一切衆生悉有仏性」も、道元は「一切衆生、悉有は、仏性なり」と読んでいる。(285~290頁)

74 洞山寒熱廻避(とうざんかんねつかいひ)

 

洞山、因(ちな)みに僧問う「時節恁麼熱。甚(いず)れの処(ところ)に向かって廻避せん」と。山云く「寒熱不到の処に向かって廻避すべし」と。僧曰(いわ)く「作麼生(そもさん)か是、寒熱不到の処」と。山云く「寒時は闍梨(じゃり)を寒殺し、熱時は闍梨を熱殺す」と。

寒熱来(きた)る時撒手(さつしゅ)して行(ゆ)く、眉目落尽して新名(めい)を殺す、

太平は本(もと)是(これ)将軍の致(ち)なり、将軍をして太平を見せしむること莫(なか)れ。

〈現代語訳〉

洞山良价(とうざんりょうかい)に、あるとき、ある僧が尋ねた。

「こんなに暑いときは、この暑さをどこに避けたらよいのでしょうか」

洞山は答えた。

「暑さ寒さの至らぬところに避ければよい」

僧が言った。

「暑さ寒さの至らぬところとはどこですか」

洞山が言った。

「寒いときには、君自身が寒さそのものに成りきり、暑いときには、暑さに成りきることだ」

寒いときには寒さに、暑いときには暑さに成りきるがよい。

そこは、自分自身の本来の面目など全くなくなった世界では、そこには寒熱とかの虚名などない。

洞山はその世界を作り出した大将軍としてそこに鎭座しているが、

大将軍たるもの、その平和な世の中に安住し執着しないのだ。

〈語義〉

○洞山 洞山良价(807-869)、雲巌曇晟(782-841)の法嗣。

○将軍…… 将軍は乱にあってこそ、その真の存在理由がある。この場合の将軍は洞山のこと。(292~294頁)

75 馬祖即心即仏(ばそそくしんそくぶつ)

 

馬祖云く「即心即仏」と。

忽(たちま)ちに忘る独歩来時(らいじ)の路(みち)、廻首して那(なん)ぞ能(よ)く此の中に滞(とどこお)らん、

幾度(いくたび)か売り来って還(また)自ら買う、憐むべし山竹清風を引く。

〈現代語訳〉

馬祖が言った。

「心そのものが仏である」

大梅法常は、馬祖の「即心即仏」の語を聞いて仏道の実体を理解し、自分が懸命に精進を重ねた道をたちまちに放棄した。

だが、その言葉がどれはど優れていようと、そこにうろうろと首を振り向けてまでその言葉に滞っていては、自分の仏道の真実の弁道さえも失う。

幾たびも自問自答し、仏道の真実を回光返照せねばならぬ、

山に茂る竹林に真実を伝える涼風が渡っているのであるから……。

〈語義〉

○馬祖 馬祖道一(709-788)。南嶽懐譲(677-744)の法嗣。「南嶽磨塼(せん)」によって心印を得、江西を中心に教線を張り、湖南の石頭希遷(700ー790)と並んで禅界の双璧と称せられる。その禅風は、教典などに拠らない大機大用で、百丈懐海・西堂智蔵・南泉普願等々多士済々たる龍象を輩出し、南嶽下は天下を風靡するに至る。また、南嶽下には馬祖を始めその弟子たちに語録が多く、後世の膨大な語録出現の契機となっている。

〈解説〉

「馬祖即心即仏」の「馬祖」は、馬祖道一。「即心即仏」とは、『馬祖語録』冒頭に記される大梅法常(752-839)と馬祖との問答に出るもので、大機大用の禅風を挙揚(こよう)した「平常心是道」とともに有名な語話であり、後の禅者たちの道標となった古則である。馬祖は、大梅法常の「仏とは何か」との問いに「即心即仏(心こそが仏にほかならない)」と答えた。法常はこの語によって、大梅山中での坐禅三昧の生活に入り、後年、馬祖が「非心非仏」と言っても私は「即心即仏」でよい)」と言って坐を立たなかったと伝えられる。「即心即仏」とは「即心是仏」を強調した言葉で、馬祖はこの言葉で学人を説得してきたが、「即心即仏」の言葉に執着するものが出てきたため、その執着を払底するために「非心非仏」の言葉を用いたので、「即心即仏」と「非心非仏」は異質のものではない。『永平広録』巻4ー上堂319に詳細な上堂がある。(296~298頁)

76 南泉斬却猫児(なんせんざんきゃくみょうに)

 

南泉、一日(じつ)、東西両堂に猫児(みょうに)を争う。泉、見て遂に提起して云く「道得せば即ち斬らず」と。衆(しゅ)、無対(むたい)。泉、猫児を斬却して両段と為す。泉、復(また)、前(さき)の話を挙(こ)して趙州に問う。州、便(すなわ)ち草鞋(そうあい)を脱いで頭上に戴(いただ)いて出ず。泉云く「子(なんじ)、若(も)し在(あらまし)かば、恰(あた)かも猫児を救得(きゅうとく)してん」と。

南泉道(どう)有り。再三の行(こう)、雲衲(うんのう)の風流霹靂の声、

惜しむべし猫児幾(いくば)くの露命、霜刀(そうとう)当たる処(ところ)に疑情を断ず。

池陽(ちよう)提起すれば猫児道す、道得猫生ずるや否や未だ生ぜらるか、

且(しばら)く道(い)え南泉聴くや也(また)未だしや、両堂の雲衲一雷の声。

〈現代語訳〉

ある日、南泉会下の僧たちが東西に別(わか)れて、猫に仏性が有るか無いかで激論していた。

そこに登場した南泉は、猫をとりあげて言った。

「議論の余地などない仏法の真実を道(い)い得れば、猫を斬らないでおく」

僧たちは一人として答えるものはなかった。

そこで南泉は、猫を一刀両断にした。

後に、南泉は、この話を趙州にし、質(ただ)したところ、趙州は、ただちに草鞋(わらじ)を脱いで頭の上に載せて出ていった。

南泉は言った。

「もし、お前があの時、あそこにおれば猫を救えたものを」

南泉は、「猫に仏性が有るか無いか」について、言葉でどう表現するか三度も示された。

僧たちが、南泉の問いかけに一声も発しなかったのは、まさに霹靂の大音声(おんじょう)なのだ。

なんともはかなき猫の命ではあるが、

しかし、冴えた刀がはかなき命を断ち切ると同時に、また僧たちの疑団を断ち切ったのだ。

南泉は猫をとりあげて言った。

が、仏性の有無を言葉で表現できたところで、猫は生きながらえたのであろうか。

それはそうと、南泉は聞いたであろうか。

両堂の僧たちの、あの無対の、沈黙した、黙したがための、あの一大雷音を……。

〈語義〉

○南泉 南泉普願(748-834)。馬祖道一(709-788)の法嗣。南嶽下。

〈解説〉

「南泉斬却猫児」の「南泉」は、南泉普願。「斬却猫児」とは、「南泉斬猫」として有名な公案である。ある日、雲水たちが東西の両堂に分れて、猫の仏性について論争していた。そこへ登場した南泉は「議論する余地などない仏法の真実を言ってみよ」と猫をとりあげて雲水たちに迫った。雲水たちは、答えることができない。そこで、南泉は本来議論の余地のない仏法の真実を議論するのは誤りであることを猫を切り捨てるという手段によって示した。後に、趙州に「君ならどうする」と問うと、趙州は頭に草鞋を載せて退室するという行動に出た。つまり、趙州は南泉の斬猫の手段すらも、草鞋は本来足に履くものであるのに、頭に草鞋を載せるように無意味なこと、仏法の絶対の真実は些少な有無などにかかわらず日常の現実にそのまま承当することを示したのである。趙州のそうした行為は、南泉によって「お前がその場におれば無益な殺生をせずに済んだものを」と言って、その熟した法味が称賛されたのである。(中略)なお、道元の「南泉斬猫」については、『正法眼蔵随聞記』で、道元と懐弉が、この時の南泉の対応について議論しているのが次のように見えるのが参考となろう。

ある時、弉、師に問ウて云ク、如何ナルカ是レ不眛因果底の道理。師云ク、不動因果ナリ。云ク、なんとしてか脱落せん。師云ク、歴然(ねん)一時見(げん)なり。云く、是ノごとクならば、果、引起すや。師云ク、惣(すべ)て是ノごとクならば、南泉猫児を截(き)ル事、大衆(だいしゅ)已(すで)に道得(いいえ)ず。即(すなわ)チ猫児を斬却シ了(おわ)りぬ。後に趙州草鞋(そうあい)ヲ脱シテ戴(いただ)キ出し、また一段の儀式なり。また云ク、我レ若シ南泉なりせば即チ道(い)フべし、「道(い)ヒ得たりとも即チ斬却せん。道不得なりとも即チ斬却せん。何人(なんびと)か猫児を争ふ、何人(なんびと)か猫児を救ふ。」ト。大衆に代ツて道(い)ハん、「既に道得す。請フ、和尚猫児ヲ斬ラン(ことを)。」ト。また大衆に代ツて道ハん、「南泉ただ一刀両段のみを知ツて一刀一段を知ラず。」ト。弉云ク、如何ナルカ是レ一刀一段。師云ク、大衆道不得、良久不対ナラバ、泉、道フべし、「大衆已に道得す」と云ツて猫児を放下せまし。古人云ク、「大用(ゆう)現前して軌則を存セず。」ト。また云ク、今の斬猫は是レ即チ仏法の大用、あるいは一転語なり。若シ一転語あらずば、山河大地妙淨明心とも云フべからず。また即心是仏とも云フべからず。また即心是仏とも云フべからず。即チこノ一転語ノ言下にて、猫児ガ躰仏身と見、またこの語を聞イて学人も頓(とん)に悟入すべし。また云ク、こノ斬猫即チ是レ仏行なり。喚(よ)ンで何とか道フべき。喚(よ)ンで斬猫とすべし。また云ク、是レ罪相なりや。云ク、罪相なり。何としてか脱落せん。云ク、別。並ビ具ス。云く、別解(げ)脱戒とハ是ノごとキヲ道ふか。云く、然なり。(300~305頁)

77 百丈野狐堕脱(ひゃくじょうやこだだつ)

 

〈現代語訳〉

百丈懐海の説法の席には、きまって一人の老人がいて、常に大衆(だいしゅ)とともに説法を聴き、大衆が退室すれば、老人も一諸に退室した。

ところが、ある日、説法が終わっても退室しなかったので、百丈が尋ねた。

「そこに立っているのは、どなたかな」

老人は言った。

「私は、実は人間ではありません。釈尊は以前の過去七仏の迦葉(かしょう)仏の時には、この百丈山の住職でした。が、そのおり修行僧から『大いに修行しさとった者も因果と関わりがあるのでしょうか、ないのであようか』と聞かれたので、私は、彼のために『因果とは関わりはない』と答えたのです。それからというもの、五百回にわたって狐の身となって生まれることになってしまいました。今こそ、お願いです。和尚様。私に代わり、正しい機縁の言葉を示され、私を狐の身からお救いください」

そのように告白すると老人は尋ねた。

「大いに修行しさとった者も因果と関わりがあるのでしょうか、ないのであようか」

百丈は言った。

「因果の道理はくらますことはできない」

老人は、その言葉を聞いてただちにさとり、礼をして言った。

「私は、すでに狐の身からすくわれました」

 

大いに修行しさとったものは因果に関わりをもたぬ、と答えたばかりに、

前百丈であった老狐の眼前には鬼窟が出現し、あたかも老狐はもとからそこの住人のようだが、そうではない。

なぜなら、その鬼窟の中からでさえも、今百丈の一転語によってそこを抜け出し、

眼前の山河こそが真実の仏法を証明していることを知りえたのであるから。

何と哀れな、過去迦葉仏の時の一尊仏であった前百丈よ、

身を野狐の身に落し五百回もの狐として過ごしてしまった。

だが今は、逆に今百丈の正しき真実の仏法を聞き、

もはや蒙昧な野狐の鳴き声など出さずにすむようになったのだ。

〈語義〉

○百丈 百丈懐海(749-814)。馬祖道一(709-788)の法嗣。

〈解説〉

「百丈野狐堕脱」の「百丈」は、百丈懐海。「野狐堕脱」とは、「百丈堕野狐身の話」とも「不落不眛の話」ともいわれる公案。野狐身に落ちた老僧は、「不落因果」「撥無因果」ともいわれる因果を否定する独断と偏見の境地に堕ちているのである。この「不落因果」「撥無因果」の反対が、「不眛因果」(因果の道理は絶対にくらますことはできない)であり、また「深信因果」(深く因果の道理を信じること)ともいわれる。大自然の法則には、人間の些少な思慮分別などは通用しないのである。それ故に、「不眛因果」の理によって老僧は自己の迷妄を払拭し、野狐身を脱することができたとされるのである。(中略)

『正法眼蔵』(深信因果)巻に、「深信因果」こそが正伝の仏法の真髄であることを、先の百丈と老人の話を引いた後に次のように示衆している。

この一段の因縁、天聖広灯録にあり。しかあるに、参学のともがら、因果の道理をあきらめず、いたずらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して、祖道陵替(りょうたい)せり。不落因果は、まさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に堕す。不眛因果は、あきらかにこれ深信因果なり、これによりてきくもの悪趣を脱す。あやしむべきにあらず、うたがうべきにあらず。近代参禅学道と称するともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか、因果を撥無せりとしる。いはゆる不落と不眛と、一等にしてことならずとおもへり、これによりて、因果を撥無せりとしるなり。(305~310頁)

78 馬祖頭白頭黒(ばそずはくずこく)

 

〈現代語訳〉

馬祖道一に、あるとき僧が質問した。

「言葉で表現するちころ、すべての否定的表現などの極めて厄介な四句百非という弁証的な議論を抜きにして、お願いいたします、師匠、私に達磨大師の真実の仏法をズバリと示してください」

場祖大師が言った。

「わしは今日疲れていて、お前に説くことはできないから、智蔵のところへ尋ねて行くがよい」

僧は、西(せい)堂智蔵に尋ねた。

智蔵は僧に言った。

「どうして、師匠に尋ねないのだ」

僧が言った。

「師匠が、あなたに聞くように言ったのです」

すると智蔵が言った。

「私は、今日、頭が痛いので、お前に説くことはできない。懐海(えかい)師兄(ひん)のところへ尋ねに行きなさい」

僧は、百丈懐海に尋ねた。

「懐海が言った。

「私も、そこのところになると、わからない」

僧は、馬祖大師にそのことを伝えた。

すると、馬祖大師が言った。

「智蔵の頭は白く、懐海の頭は黒い」

仏法は、四句百非という言葉での判断論議を絶している。

ある僧の質問は、極めて精微ではあるのだが、

それに対して、禅堂での修行をした禅僧でなければ、

懐海や智蔵のようにズバリと端的に答えられようか。

〈語義〉

○馬祖 馬祖道一(709-788)。

〈解説〉

「馬祖頭白頭黒」の「馬祖」は、百馬祖道一。「頭白頭黒」とは、馬祖に、ある僧が「西来意」の意味を問うが、馬祖、そしてその弟子の西堂智蔵・百丈懐海が軽率な返答をしなかった語話に出るもので、「馬祖四句百非」あるいは「馬祖黒白」とも称される公案である。「四句」は「四句分別」のことで、インドにおける①肯定、②否定、③一部肯定一部否定、④両者の否定または懐疑、とする四句のことで思慮分別判断の一切のこと。「百非」はすべての言語の実に非ざること、つまり一切の否定のこと。仏教の真実は、「四句百非」という弁証的な論議を超越したものであるところから、四句を離れ百非を絶すという。達磨の真実の仏法の宗旨を問う僧に、馬祖は質問されたからといって答えられる問題ではないので「今日は疲れている」と答えるのである。それに対して西堂智蔵と百丈懐海という二人の馬祖の弟子は、僧に応対しているが、それは馬祖が「いずれが兄か弟か、優劣つけがたい」と賛嘆するほどに、四句を離れ百非を絶した言詮(ごんせん)によって表現できない仏法の真実を提示したものであった。(310~314頁)

79 魯祖見僧面壁(ろそけんそうめんぺき)

 

〈現代語訳〉

魯祖宝雲禅師は、いつも僧が来るのを見ると、面壁し坐禅した。

我が師と仰ぐ魯祖禅師は、天下に比類なく、転身自在の活路を歩まれた。

しばしば僧が来るのを見ては、只管打坐して言詮(ごんせん)を超越された。

そうした魯祖のために、かりそめにも一言でも言葉を発すれば、

面壁に徹した魯祖の功を無としてしまうのである。

〈語義〉

○魯祖 魯祖宝雲(生没年不詳)。中唐時代の人。馬祖道一(709-788)の法嗣。南嶽下。

〈解説〉

「魯祖見僧面壁」の「魯祖」は、魯祖宝雲。「見僧面壁」とは、「魯祖面壁」ともいわれ、魯祖が、面壁によって学人を説得した公案である。魯祖は参来の僧があると面壁して取り合わなかったという。魯祖の面壁はそれがそのまま学人への説得であり、人々が只管打坐の中に魯祖の示す仏法の真実を会取(えしゅ)しなければならないことを示している。が、「魯祖面壁」については、南泉は「面壁ばかりでは何年たっても一人も打出(たしゅつ)できまい」と誹謗し、以下多くの古徳が論評しているが、中でも羅山(らざん)・玄沙などは「我当時もし見ば背上(はいじょう)に五火抄(ごかしょう)を与えん」と言ったことから「古徳火抄」なる語を派生している。(314~316頁)

80 馬祖日面月面(ばそにちめんがちめん)

 

馬祖不安の時、僧有って問う「和尚、近日、尊位(そんい)如何(いかん)」と。祖云く「日面仏、月(がち)面仏」と。

江西(こうざい)曾(かつ)て仏有り、日月(にちげつ)を以(も)って面(おもて)と為(な)す。

何事か未(いま)だ相(あい)備(そな)わらず、囲碁敵手に逢(あ)えり。

〈現代語訳〉

馬祖道一が病床にあった時、ある僧が尋ねた。

「和尚様、このごろお具合はどうですか」

馬祖が言った。

「私は、仏の光明の中にあるよ」

江西には、かって真の古仏がいた。

馬祖は、日月をもって己の本来のすがたとし、四大不調であっても生滅去来を超えていた。

師にとっては、何の不安もなく、円満でないものは何もない。

日月をもって答えとしたのは、囲碁の好敵手に出会ったように、真の仏法を示したのである。

〈語義〉

○馬祖不安…… 馬祖は馬祖道一(709-788)。この語話は「馬祖不安」といわれ、馬祖が病床にあっての接化の公案。日面仏は千八百年の寿命を持つとされる仏、月面仏は一日一夜の寿命しかない仏とされる。仏法に徹し切っている馬祖の、寿命の長短を超越した仏法に証契(しょうかい)せんことを願っての僧への接化である。

○江西 馬祖は、六祖慧能や南嶽懐譲に師事し、多くの禅林に参師問法したが、とくに江西省の開元寺にあって禅風を鼓吹し、江西に人ありと称された。(316~318頁)

83 大随劫火洞然(だいずいごうかとうねん)

 

大随、因(ちな)みに僧問う「劫火(ごうか)洞然(とうねん)、大(だい)千倶壊。此箇(しこ)、還(また)、壊(え)すや、也(また)、無しや」と。随云く「壊(え)す」と。僧曰(いわ)く「恁麼(いんも)ならば、則(すなわ)ち他に随(したが)って去らん」と。随云く「随他去(こ)」と。

被毛(ひもう)戴角(たいかく)他に同じて去(も)てゆく、劫火洞然たれども転頭せず。

枯木(こぼく)死灰(かい)猶(なお)焼尽(しょうじん)す、何の面目有ってか因由(ゆう)を恨む。

〈現代語訳〉

ある時、大随法真禅師に、ある僧が尋ねた。

「とてつもない大火災がおきて、すべての世界が壊滅すると、経にあります。が、そのときには、仏法の本質、仏性もなくなるのですか」

大随は堪えた。

「なくなるさ」

僧が言った。

「劫火とともになくなるのですね」

大随が言った。

「劫火とともになくなる」

劫火がおきれば、毛におおわれたもの、角を懐いたもの、ありとあらゆるものが消え去るのだ。

そのような劫火がすべてを覆い尽くしても、なお、振り返りもしない。

枯木や死灰でさえも焼き尽くしてしまうとき、

どうして、その劫火の因縁や理由などを恨むことがあろうや。

〈語義〉

○大随 大随法真(834-919)。南嶽下。道吾円智(769-835)・雲巌曇晟(782-841)・洞(とう)山良价(かい)(807-869)に参じ、潙山霊祐(771-852)の会下で刻苦修行し、悟道し、後に大安長慶(854-932)の法を嗣ぐ。その家風は篤実で温雅の中にも禅機秀逸なものがあるとされる。(326~328頁)

85 天童祗管打坐(てんどうしかんたざ)

 

天童和尚云く「我が箇裏(こり)、不用焼香・礼拝・念仏・修懴(しゅうさん)・看経(かんきん)。祗管打坐、始得(しとく)」と。

自(みずか)らの手頭(しゅとう)を亀(かが)む不拈(ふねん)に非(あら)ず、之乎(しこ)者也失(やしつ)と得(とく)と、

龍蛇(りゅうだ)混雑して龍蛇に似たり、渾坐(こんざ)蟠身(はんしん)元より羽翼(うよく)。

〈現代語訳〉

天童如浄和尚が示された。

「わが道場では、仏道修行において重要視される焼香・礼拝・念仏・修懴(さん)・看経を必要としない。なぜなら、仏道の究極は只管打坐においてこそ得られるからである」

わが天童和尚は焼香・礼拝・念仏・修懴(さん)・看経などにとらわれることなく、

それらを文章の置き字のようにし、ことさらに論ずることはなかった。

龍と蛇とが混在しているように、迷・悟、凡・聖(しょう)は判じ難い。

ただ打坐するところに大空を無限に飛翔する力がそなわり、自在無碍(げ)なるはたらきがあるのだ。

〈語義〉

○天童 天童如浄(1163-1227)。足庵智鑑の法嗣。道元の本師。

〈解説〉

「天童祗管打坐」の「天童」は天童如浄。「祗管打坐」とは、「只管打坐」で、天童膝下(しっか)では、焼香・礼拝・念仏・修懴(さん)・看経、すなわち、お香を焚いて仏に供養すること、仏祖を礼拝すること、仏を念ずること、仏に罪を懺悔(さんげ)すること、経文を看読するなどは、仏道修行にとって重要なこととされるが、わがこの道場においては必要としない。仏々祖々の家風は、坐禅弁道のみである、と、天童如浄の宣言に示される。

この因縁については『永平広録』巻6-上堂432に次のように拈提(ねんてい)している。なお、『永平広録』巻9ー頌古86「天童身心脱落」も参照。

仏々祖々の家風は、坐禅弁道のみなり。先師天童云く「跏趺坐(かふざ)は、乃(すなわ)ち古仏の法なり。参禅は身心脱落なり。不要、焼香・礼拝・念仏・修懴(さん)・看経。祗管打坐、始めて得。それ坐禅は乃ち、第一に(目ヘンに盍)睡(こうすい)すること莫(な)かれ。是、刹那(せつな)須臾(しゅゆ)なりと雖(いえど)も、猛壮、先と為す」。

さらに『正法眼蔵』「弁道話」巻には次のような示衆がある。

いはく、仏法を住持せし諸祖、ならびに諸仏、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり。西天東地、さとりをえし人、その風にしたがえり。これ師資(しし)ひそかに妙術を正伝し、真訣を稟持せしによりてなり。

宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懴(さん)・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。(331~334頁)

87 香厳千尺懸崖(きょうげんせんじゃくけんがい)

 

香厳、一日(じつ)、衆に

喪(そう)身失命(みょう)して

〈現代語訳〉

香厳智閑が、ある時、大衆(だいしゅ)に向かって言われた。

「ある人が、」

仏法のために

〈語義〉

○香厳 香厳智閑(?-896)。道元禅師の本師。潙仰(いぎょう)宗の祖潙山霊祐(771-853)の法嗣。

86 天童身心脱落(てんどうしんじんだつらく)

 

天童和尚云く「参禅は身心脱落」と。

木(もく)杓を弄来(ろうらい)して風波(ふうは)起こる、恩大きに徳深くして報も亦深し、

縦(たと)え海枯れて寒(かん)徹底することを見るとも、身死して心を留(とど)めざらしむこと莫(なか)れ。

〈現代語訳〉

わが師天童如浄和尚は言われた。

「参禅は身心脱落である」

わが師天童和尚は「参禅は身心脱落である」と言う、言ってみれば役にも立たない破木(もく)杓のような境涯で三千大千世界に波乱を起こされた。

が、その恩徳は極めて広大で、その偉大な恩に報いるのはただならぬことなのだ。

たとえ海が枯れ果て底を見通すような徹底した境地になろうとも、

死んで心を残すように、決して身心脱落した痕跡を留めるようなことがあってはならない。

〈語義〉

○天童 天童如浄(1163-1227)。道元禅師の本師。足庵智鑑(1105-92)の法嗣。足庵は、長盧山の真歇(けつ)清了(1089-1151)に参じた後、天童宗玨(そうかつ)(1094-1162)の法を嗣ぎ、紹興二十四年(1154)五十歳で棲真寺(せいしんじ)に初住し、以後、香山、報恩寺、雪寶山(せっちょうざん)にも移住する。(334~336頁)

87 香厳千尺懸崖(きょうげんせんじゃくけんがい)

 

香厳、一日(じつ)、衆(しゅ)に謂(かた)って曰(いわ)く「人の千尺(じゃく)の懸崖に在るが如き、口に樹枝(じゅし)を銜(ふく)み、脚(あし)、蹋(ふ)む所無く、手、攀(よじ)る所無(な)からんに、忽(たちま)ちに人有って問わん『如何が是、西(せい)来意』と。若し口を開いて答えれば喪身失命(みょう)せん。若し答えずば、又、他の所問(しょもん)に違(い)す。当恁麼の時、且(しばら)く、作麼生(そもさん)」と。時に、招(しょう)上座という有って出(いで)て曰く「樹(じゅ)に上(のぼ)る時は即(すなわ)ち問わず。樹に上らずの時、如何(いかん)」と。厳、笑う而已(のみ)なり。

喪(そう)身失命(みょう)して死中に活(かつ)す、猶(かつ)惜しむ嬢(じょう)生(しょう)の両片皮(ぴ)、

他に答えんと擬欲(ぎよく)すれば言(ことば)口に満つ、問来すれば也(また)是口枝を銜(ふく)む。

〈現代語訳〉

香厳智閑が、ある時、大衆(だいしゅ)に向かって言われた。

「ある人が、千尺もの切り立った崖で、手でつかみ足をかけてよじ登るところもなく、口にくわえた木の枝のみで身を支えていた時、突然、『祖師西来意』と仏法の本質を問われたとする。もし、その質問に答えたなら、千尋の谷底に落ちて死ぬであろう。しかし、答えなければ、質問した人の意思に背くことになる。さて、その時、どうすればよいか」

その時、招(しょう)という僧が言った。

「そのような非常事態の時に、そのような質問はしません。地上にある時に質問されたら、どう答えるのですか」

それに対して、香厳はただ笑うのみであった。

仏法のために身命(みょう)を投げ捨て、すべて脱落し、その大死一番のところで自在の境涯となる。

香厳は、そこのところを、自身の口を開いて説くことを惜しんでいるようだ。

尋ねたものに答えてやろうとすると、言葉が口の中にあふれてくるのに……。

だが、しかし、それは尋ねるということ自体が、すでに口に木の枝をくわえているように、祖師西来意の真意を得ているからなのだ。

〈語義〉

○香厳 香厳智閑(?-896)。道元禅師の本師。潙仰(いぎょう)宗の祖潙山霊祐(771-853)の法嗣。香厳は庭前掃除のとき、掃いた小石が竹に当たる音を聞いて忽然大悟したことはよく知られている。

〈解説〉

『正法眼蔵』「祖師西来意」巻には次のような示衆がある。

しかあればしるべし、答生来意する一切の仏祖は、みな上樹口銜樹枝の時節にあひたりて、答来するなり。雪寶(空に買)明覚禅師重顕和尚、樹上道即易、樹上道即難、老僧上樹也、致将一問来。いま致将一問来は、たとひ尽力来すとも、この問きたることおそくして、うらむらくは、答よりものちに問来せることを。あまねく古今の老古錐(こすい)にとふ、香厳呵呵大笑する、これ樹上道なりや、樹下道なりや、答西来意なりや、不答西来意なりや。試道看。(338~341頁)

88 宏智失銭遭罪(わんししっせんそうざい)

 

宏智禅師、初めて丹霞に参ず。霞(か)問う「如何なるか是、空劫已然(いぜんの自己」と。曰く「井底(せいてい)の蝦蟇、月を呑却す。三更に夜明(やみょう)の簾(れん)を借らず」と。霞曰く「未在、更に道(い)え」と。智、疑議す。霞、打つこと一払子(ぼっす)して云く「又、不借(じゃく)と道(い)わんや」と。智、忽(たちま)ちに悟って作礼(さらい)す。霞云く「何ぞ、一句子(くす)を道取せざる」と。智曰く「某甲(それがし)、今日(きょう)、失銭遭罪」と。霞曰く「未だ打つことを得るに暇(いとま)あらず。你(なんじ)、且去(しゃこ)すべし」と。

風流売り尽して人の買わんことを図(はか)る、夜月(やげつ)山を出(いで)て更に窓に到る、

河内(かだい)に失銭して河裏(かり)に覔(もと)む、江(こう)に在って叫ぶ者は休江に歇(けつ)す。

〈現代語訳〉

宏智正覚(わんししょうがく)禅師が、その師となる丹霞子淳にはじめて参じたとき、丹霞が尋ねた。

「空劫という父母も生まれていない、自分が全く存在しない以前の自分とは、一体何であるか」

宏智は答えた。

「井戸の底に棲んでいて他の世界を何も知らない凡愚な蝦蟇が、月を呑み込んだと思っても、月は真夜中の三更にさえ夜明簾など必要とせず、依然として月は天上に輝いているように、自己の存在というのは、そのようにあるものです」

すると、丹霞が言った。

「まだ、まだ、十分ではない。さらに言ってみよ」

宏智が、考えたすえに言おうとすると、その瞬間、丹霞は、払子(ほっす)を一振りして言った。

「お前は、また夜明簾など必要としないと言うのか」

この言葉で、宏智はさとりを得て、丹霞に作礼すると、丹霞が言った。

「わかったのであるならば、なぜ一言言わないのだ」

宏智は言った。

「私は、今日は、仏道の真実を得ましたが、今の心境は、銭を失って罰せられるように、損をした上に損を重ねた心境で、とても言葉で表現することはできません」

丹霞が言った。

「私は、もうお前を打って研鑽させる必要はないから、この場を去るがよい」

丹霞は、仏道修行の究極を風流として専売し、それを買いに来る学人を求めた。

その言葉は、月が山の端(は)を出て、真夜中になって窓に月光が差し込むように、宏智に差し込んだのだ。

河で銭を失ったならば、それを河に求めなければならぬものだし、

河の流れのなかで、喉の渇きを訴えるものは、その流れの水を飲めばよいように、自己の存在を外に求めるのは誤りなのだ。

〈語義〉

○宏智 宏智正覚(1091-1157)。道元禅師の本師。丹霞子淳の法嗣。

○丹霞 宏智の師、丹霞子淳(1064-1117)のこと。丹霞は四川省(剣州)の人で、27歳で受具し、諸師に歴参したのちに、幼くして神仙を学び辟穀(へきこく)の術を得たという大陽山の芙蓉道楷(1043-1118)に師事しその法を嗣ぐ。崇寧三年(1104)南陽の丹霞山に住して禅風を振るい、真歇清了(1089=1151)、宏智正覚などを輩出した。

○夜明簾 水晶・白玉で作った簾で夜中でも明るく輝くという。さとりの境涯にたとえられる。

○擬議 何かを考えて言おうとする。擬は、~をしようとする意。(342~344頁)

89 二祖心不可得(にそしんふかとく)

 

二祖大師、初祖に問う「我心(がしん)、未だ寧(ねい)ならず、乞うらくは、師、安(あん)を与えんことを」と。祖云(いわ)く「心を将(も)って来(きた)れ。汝(なんじ)に安を与えん」と。云く「心を覓(もと)むるに了(つい)に不可得なり」と。祖云く「我、汝に安心を与えオワ(立のしたに見)んむ」と。

了了として了の時了すべき無し、玄玄として玄の処(ところ)是(これ)紛紜(ふんうん)たり、

他を道畔(どうはん)に尋(たず)ぬれば錯(あやま)って己(おのれ)に逢う、水に引かされ来(きた)って稍(やや)雲に歩む。

〈現代語訳〉

二祖大師神光慧可が、かって初祖達磨大師に尋ねた。

「私の心は、まだ安らかではありません。どうか、師よ、私の心を安らかにして下さい」

初祖が言った。

「お前の心とやらを、ここに持ってくれば、その心を安らかにしてやろう」

慧可が言った。

「心を求めましたが、どこにも見つけることはできませんでした」

すると、達磨が言った。

「私は、お前の心を安らかにした」

仏道のすべてを了畢(ひつ)したところには、その上に何かを見解(けんげ)することもない、さとりすらもない。

その境地を玄妙不可思議などと表現する、そのこと自体すらが妄想(ぞう)である。

二祖慧可は、自分自身の心を不安として、初祖達磨に向かって尋ね求めたのだが、他に尋ねて自己を見いだすように、道のほとりのふとしたところで自分自身に出会ったのだ。

それはまさに、水の流れに乗っていると思ったら、いつの間にか雲の上にいる、そのように自在無碍の境地に至ったのである。

〈語義〉

○二祖大師 中国禅宗第二祖神光慧可(487-593)のこと。

○初祖 中国禅宗初祖菩提達磨のこと。

〈解説〉

「二祖心不可得」の「二祖」は、中国禅宗第二祖の神光慧可。「心不可得」とは、慧可がその師達磨との問答で安心(じん)を得た因縁で、「二祖安心」ともいわれる。安心というのは、心を安んずることであるが、心というものは対象としてとらえられるものではない、つまり不可得であり、不可得とは認識の対象ともならない。それゆえに空を体得することこそが安心への道であることを示した公案である。

(中略)

さらに、この「心不可得」という語は『金剛経』に出るものであり、心はとらえることができないものであり、そのとらえることができない実体が心であるが、それは相対するものではなく、目の前に現前している心が思量を超えてはたらいていることを「後心不可得」巻で次のように示衆(じしゅ)している。

心不可得は諸仏なり、みずから阿耨多羅三藐(みゃく)三菩提と保任しきたれり。

金剛経曰、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。

これすなはち諸仏なる心不可得の保任は、諸仏にならはざれば証取(しょうしゅ)せず、諸仏にならはざれば正伝せざるなり。諸仏にならふといふは、丈六身にならひ、一茎草にならふなり。諸祖にならふといふは、皮肉骨髄にならひ、破顔微笑にならふなり。この宗旨は正法眼蔵あきらかに正伝しきたりて、仏仏祖祖の心印、まさに直指(じきし)なること嫡嫡単伝せるに、とぶらひならふに、かならずその骨髄面目つたはれ、身体髪膚うくるなり。仏道をならはず、祖室にいらざらんは、見聞せず会取せず、問取の法におよばず、道取の分ゆめにもいまだみざるところなり。(346~350頁)

90 真歇豁然契悟(しんけつかつねんかいご)

 

真歇禅師、丹霞に参じて入室(にっしつ)す。霞問う「如何なるか是、空劫時の自己」と。喝(けつ)、対(こた)えんと擬(ぎ)す。霞曰く「你(なんじ)、鬧(いそが)わしくこと在り、且(しばら)く去れ」と。一日(じつ)、鉢盂(はつう)峰(ほう)に登るに、豁(あき)らかに契悟(かいご)す。徃帰(おうき)して霞の見(まみ)ゆ。方(まさ)に侍立(じりゅう)する次いでに、霞、掌(しょう)して曰く「将謂(しょうい)すらくは、你(なんじ)、有ることを知れり」と。師、欣然(きんぜん)として之を拝す。

臭悪(しゅうお)を相兼(あいか)ねて虚空を悩ます、地を遮(さえぎ)り天を蓋(おお)って透通(とうつう)を要す、

再び上関に向かって相(あい)架構(かこう)す、元来走馬す鉢盂(はつう)の中。

〈現代語訳〉

真歇清了禅師が、その師となる丹霞子淳に参学し、入室したとき、丹霞が尋ねた。

「空劫という、父母も生まれていない、自分も全く存在しない以前の自分とは、一体なんであるか」

真歇が答えようとすると、すかさず丹霞が言った。

「お前は、分別智がはたらきすぎ気持ちが乱れ、まだわかっていない。まあ、しばらくこの場から立ち去るがよい」

そして、ある日のこと、真歇が丹霞山中の鉢盂峰(はつうほう)に登ったとき、忽然と空劫時の自己について契悟(かいご)し、いそぎ帰って師の丹霞の側に立つと、師は手を打って言った。

「お前は、その時にも存在したことがわかったのだな」

真歇は欣然として、丹霞を礼拝した。

真実なる自己の存在への究明のためとはいえ、そこにはたらく分別智は極めて醜悪で、それは虚空を悩ますほどの大きな誤りなのだ。

真歇の弁道は、地を遮り天を覆うほどの心意気に燃えてのものであったのだが……。

真歇は、丹霞に心が乱れていると言われて、はじめて空劫の玄関に立ち返り、新たな家を造り、そこに安住の地を見いだしたのだ。

だが、しかし、それは鉢盂の中を走る馬のようなもので、鉢盂の中の自分自身と空劫時の自己とは何ら変わりはないのだ。

〈語義〉

○真歇禅師 真歇清了(1089-1151)。11歳で聖果(しょうか)寺の清俊(せいしゅん)について出家、『法華経』を学び、18歳で受具。四川省の大慈寺に入り、『円覚経』『金剛経』を学び、のちに峨嵋山(がびさん)に登り普賢(ふげん)に排し、河南省の丹霞山の子淳(1094-1117)に参じたその法を嗣ぐ。法弟に宏智正覚(わんちしょうがく、1091-1157)がいる。

○鉢盂峰(はつうほう) 丹霞山中にある峰の名前。鉢盂とは、もちろん応量噐のことだが、鉢盂は袈裟とともに禅門においては最も尊重されるものであることから、この場合の鉢盂は天地一宇を象徴するも常見を透脱した境涯をも示している。

○欣然 よろこんで……するさま。

〈解説〉

「真歇豁然契悟」の「真歇」は、真歇清了。「豁然契悟」とは、丹霞子淳に参学した真歇清了に「空劫已前の自己」を質問され、それに窮した真歇が、後日、寺の裏山に登り、丹霞の室にもどり、丹霞との問答によって契悟した因縁である。

空劫時の自己、つまり空劫時の自分の存在は、言葉をもって知ることができるものではなく、本来が不言説であることを示している。つまり、丹霞の質問に、真歇が答えようとするのを間髪を入れずにさえぎったのは、真歇が丹霞に参じた当時、真歇は本来不言説である空劫時の自己について、地をさえぎり天を覆わんほどの心意気に燃えて懸命に弁道していたが、そこには当然、分別妄想の念がしきりにはたらいているのを丹霞が見抜いての「お前は心が乱れている」という指摘である。鉢盂峰から帰った真歇が丹霞の側に黙って侍立(じりゅう)したのは、その不言の処を示しているのである。

「空劫已前の自己」については、『永平広録』「宏智失銭遭罪」に、丹霞子淳が宏智正覚に同じ質問をしていることが見える。つまり、丹霞は、その弟子、真歇清了と宏智正覚に「空劫以前の自己」という命題によって、この二人を悟道に導いたのである。

(2017年4月24日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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