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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『クリティカル・パス』 バックミンスター・フラー著 白陽社

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『クリティカル・パス』 バックミンスター・フラー著 白陽社

■同様にギリシャやエジプトの幾何学者、たとえば紀元前300年ごろのユークリッドは、バビロニヤの多次元的な有限のシステム、ツマリ経験によって喚起された時間を含む次元から、2次元の平面幾何学と、その無限平面を面分割して形成される「正方形」の単位にしか関心をもたなくなっていった。その結果、個の平らな2次元の基盤に重ね合わせて、ギリシャやエジプトの幾何学者たちは無時間、無重力、無温度の3次元的な立方体の座標システムを発展させたのである。(90頁)

■ユークリッド幾何学派のギリシャ人たちによる幾何学的な証明はどれも、3次元的形態や、温度、重力、時間のかかわった四次元の実在からではなく、2次元の平面幾何学から始めなければならなかったのである。(90頁)

■キリストの死、そして彼の弟子たちの布教活動の結果、信ずる者は救われるという考え方は、それまでなかったほどに人気を博していった。宗教と軍事力がいっしょになった皇帝権力は、権威によって定式化された信条(credo’「私は信ずる」という意味)が、紀元前のギリシャの科学者たちの完全に異端の考え方や発見によってオビヤカされることに気がついた。2000年後、ジェイムズ・ジーンズ(訳注 英国の物理・天文・数学者。1877−1946)が言ったように、「科学とは、経験した事実を秩序だてようとする真剣な試みなのである」。科学的な思考は、非科学的に権威づけられた間違った考え方に対して、実験による証拠を突きつけてきた。皇帝=教皇は自らのどんな臣民にも、「経験した事実を秩序だてようとする試み」をしてほしくなかったのである。(100頁)

■テクノロジーは、宇宙の見えない出来事の全量域を包括するために、現実の世界を999倍に拡大した。これらは、以前は不思議とか、迷信じみた神秘と思われていたことであった。いまやこれらのものは自然科学や応用化学においては現実の出来事となった。無数の未解決の問題とともに、こうした99%の目に見えないものを包括して、日常の厳密な感覚的現実に加えると、波長を合わせる(tuning-in)とか、波長を外す(tuning-out)という、無線によってもたらされた概念が生じてくる。過去の2つの宇宙、つまり⑴この世と⑵あの世、という考え方であり、われわれは物をもつか、もたないかであった。物質と空間。「生」と「死」。いまやわれわれは合わせる(tuning-in)か、外す(tuning-out)かである。「波長を外す」ということは死を意味しているのではない。誰かが2つの宇宙の必要性に対してそう言わない限り、この世の中とそれをとりまく広大な不思議なものとが一体であるということが認識されたときに、人類が2つの宇宙「現世」と「来世」とを求める必要性はしだいに薄れ始めたのである。(117頁)

■球に対する垂線はどれ一つとして互いに平行なものはない。地球の大気圏内を重力によって地球に密着して最初に一周した飛行士たちは、半周ほど回ったときにも「逆さま」だとは感じなかった。彼らは自分の経験を正確に表現するために、他の言葉を用いる必要があった。そこで飛行士たちは着陸することを「降りる」ではなく「内方へ向う(Coming-in)」、同様に「上がる」の代わりに「外方へ行く(Coming-out)」、という言葉をつくり出した。内方(in)、外方(out)は現在、科学的に認知された言葉なのである。私たちは、内方(in)か外方(out)そして周方向(around)にのみ進むことができる。(119頁)

■われわれにはこの宇宙に於ける二つの基本的な現実がある。それはフィジカルなものとメタフィジカルなものである。物理学者たちは、すべての物理的現象をエネルギーの限定された現れであると定義している。つまり物質として結合したエネルギーか、電磁気的反応の放射として分離したエネルギーのどちらかであると。これらの二つのエネルギー状態は互いに転換可能である。これらのエネルギーの発生と消滅のどちらも実験に基づいた証明はなされていないことから、世界の科学者・哲学者たちはいまのところ、宇宙は永遠に再生的であるとはっきりと認めている。

物理学者たちは、エネルギーは反作用的な力や振動する波によって、つねに電磁気的に、重力的に、化学的に組織化されたてこであることを発見した。メタフィジカルなものは無重量、無次元の抽象的な思考と数学的原理だけで成り立っており、計器の文字盤上のフィジカルな針をてこで動かすことはできない。エネルギーはどんな状態であってもフィジカルなものであって、資本金勘定帳に記帳されうるものなのである。(195頁)

■宇宙的原価計算だけが、地球の生物学的進化と宇宙の相互変換的再生の、互いに完全に依存しあう電気化学的、生態学的な関係を一般的に説明する。そのうえ宇宙的原価計算は、われわれのちっぽけな惑星の地球とちっぽけな恒星である太陽が相互に機能する自然界の神秘的な機能に潜む全体性から、重力的かつ放射的に機能する部分を説明する。宇宙的原価計算は、地球に乗りこんでいる人類によってうやうやしくも演じられている利己的で恐ろしいほどに人為的な「財産」ゲームを、まったくばかげたものと気づかせる。

幸いにも、太陽は全宇宙的構造のなかで放射として地球上に運ばれる全エネルギーに対して何の支払いも要求しない。それは、われわれの抗しがたい無知と恐れにもかかわらず、人類が成功するように促しているのである。人類が目ざめ、繁栄し、あらかじめデザインされたということに対して意識的に重要な宇宙的責任を引き受けるように、恒星たちは伝えようとしている。その責任に基づく認識と遂行には、宇宙における人類のとるに足らない筋肉とマインドの宇宙的な成長による進化論的な発見を伴うので、地球上にまかれた人類という種は実を結ばないかもしれない。(209頁)

■1900年以前の平均的地球人は全生涯に5万キロメートルを移動したにすぎないが、それは現在まで私が移動した距離の合計のわずか1%にすぎない。(224頁)

■まったく現実的な意味で私は決して「家を離れない」。私の裏庭はしだいによりおおきく、より球状になり、いまでは世界全体が私の球体化した裏庭である。「あなたはどこに住んでいますか」と「あなたはどんな方ですか」という質問はだんだんと意味のない質問になってきている。

「現在、私は宇宙船地球号の乗客」であり、そして「私は自分が何物なのかわからない。教養高く専門化した人種でないことはわかっている。私は物、すなわち名詞ではない。私は肉体そのものではない。私は85歳だが、これまで1000トン以上もの空気、食物、水を吸収し、それらは一時的に私の肉体となり、そしてしだいに私から解離していった。あなたも私も動詞、すなわち進化するプロセスであるように思われる。私たちは宇宙を構成する一部分の機能ではないだろうか」。(225頁)

■私の新しい1927年の決意で一つの基本的な信条は、すでに述べたように、誰かのために成し遂げなければならないことは何であれ、別の誰かを犠牲にして行なってはならないということだった。ロビンフッドは――その物語は私が幼いころ、亡くなる少し前の父が大きな声で読んでくれたものだが――幼年期にもっとも影響を受けた伝説上のヒーローだった。それは、私の「第一の人生」に、困っているとか危ない目に遭っているとわかったひとびとのために、すぐに良心的で空想的な正義をもたらそうとする即興的行動様式が備わっていたことを意味した。愚かにも「第一の人生」では、自らへの過信から、しばしば自分が履行できる肉体的、金銭的または法的手段を超えて、考えもなく責任を引き受けようとした。この向こう見ずのせいで私は複雑なジレンマに陥った。というのは、法的責任を引き受けつづけようと試みることで、不注意にも何も知らない家族を捲き込み、ばかげた金銭的犠牲を強いてしまったのである。

新しい人生を開始するにあたって、私はロビンフッドから大弓と棍棒、そして小切手帳を取り去り、ただ、科学の教科書、顕微鏡、計算機、測量用トランシット、そして一般的な産業用の工作機械設備一式を与えた。私は彼に方向転換させ、生物の改革の代わりに新しい非生物の形成へと向わせた。私はロビンに、「宣伝」したり、「売りこみをしたりする」広報専門化やマネージャーや代理人をいっさい認めなかった。もし、「新生」ロビンフッドが開発した新しい器具類が人類に正当な利益の増加をもたらすことができるなら、その器具類は連続して起こる冷酷な経済的非常事態を通じて、必然的に社会に取り入れられるだろう――それは進化にとって適切な再生的懐胎期間の決定を指示する――ということは明瞭だと思われた。(228~229頁)

■大きな問題が残った。生活するための、仕事をする原料や工具を手に入れるためのお金はどうやって得るのか?

その答えは「プリセッション」だった。「プリセッション」がなんであり、どうしてそれが答なのかは説明を必要とする。

水の詰まった柔軟なゴム製のチューブの端にしっかりふたをして、両端を互いに反対方向に引っ張ると、チューブ全体の中央部分は、引っ張る方向に垂直(直角)な断面が同心円状に徐々に中心に向って収縮していく。

同じく、水の詰まった柔軟なゴム製のチューブの端にしっかりふたをして、端を両側から押すと、チューブの中央部分は押される方向に対して垂直(直角)な断面が同心円状に外側に向って最大限に膨張しようとする。

水に石を落とすと、石の落下方向に対して垂直(直角)な平面上に外側に向って進む円形の波が発生する。外側に拡張していく円形の波は(90度の角度で)垂直な波を発生させ、今度はその波が水平に外側に広がっていく次の波を生み出す、というようにつづく。

これらすべての直角効果は、プリセッショナルな効果をもたらす。は、運動中の物体が他の運動中の物体に及ぼす効果である。太陽と地球はともに運動している。運動中の太陽は運動中の地球に180度の方向の引力を及ぼしているにもかかわらず、地球はプリセッションによって、太陽が地球に及ぼす引力の方向に対して90度の、つまり直角の方向に軌道を描いて回っている。

われわれの惑星地球上で、生命の成長の再生に成功することは、つねに生物学的な種の染色体にあらかじめプログラムされた個体生存の的な――直角の――「副次的作用」としてのみ生態学的に達成されることである。ミツバチは、蜜を求めて花弁に入っていくように染色体にプログラムされている。これによって、ハチは偶然のように(しかし実質的にはプリセッション的に)ブンブン音を立てる尻尾を(それぞれのハチの左右対称軸と飛行経路に対してそれぞれ90度の角度で)花粉にまみれさせる。そして、ハチは他の花に夢中で入っていき、意識せずにハチの動作軸に対して直角に(プリセッション的に)、それらの花に花粉を落とし、受粉させ、交配させる。そのようにして、地球上のすべての移動する動物が、さまざまなプリセッション的な(直角の)意図的ではない方法で、異なった場所に根をおろしているすべての植物を交雑受粉させるのである。(237~238頁)

■自然は明らかに、永遠に再生する宇宙の完全性を人間がうまく維持するよう意図していたので、もし私が、人類にとってずっと好ましい物理的環境を産出する人工物の開発を引き受けたなら、実際それは全人類の発展が成功する可能性を高めることで、自然が私の努力を支えてくれるということは十分可能だと思われた。ただし、私がそうするためにはもっとも効果的な技術的方法をうまく選択しつづけることが必要なのである。自然は明らかに相補的なエコロジーの再生作業を自分自身で支えていた。それゆえ、私ハ自然に身を委ね、私が発明した環境に寄与する人工物を実現する物理的法則を自然が授けてくれることに頼らなければならなかった。私は、水素が機能しているような独特な仕方で行動することが認められる前に、自然は水素に対し、「生活費を稼ぐ」ことを要求していないことに気づいた。自然はその相補的な構成員の誰に対しても、「生活費を稼ぐ」ことを要求しない。(241頁)

■したがって、もし私が次のように事を進めるなら、自然は知識をあたえてくれると結論づけたのである。

(A)私自身、妻、そして幼い娘が、きわめて明白ではあるが未だ実行されてい

ない、人間の環境に利益をもたらすように適応させる人工物のデザイン、制作そ

してデモンストレーションといったフィジカルな進化論的仕事に直接的に専心

し、そして、

(B)人間社会において確立された経済機構のなかで「生活費を稼ぐ」ということに関心をもたず、さらに、

(C)私の家族、そして私自身の生活に必要なものが、一見したところ純粋な偶然のように、しかもいつも「ちょうどよいとき」にのみ、強く要求しないのに与えられていることを知り、また、

(D)「ただ偶然に」与えられつづけ、さらに、

(E)こうして「偶然で」、予算を組むことができず、しかも現実的な支えというものが持続することを知り、そして、

(F)私が自発的に、当面の問題と関連した人工物を開発する仕事に何のためらいもなく専心しつづける場合にのみ、支えが存在しており、もし私が、

(G)人類に、その習慣と考えを変えるよう説得しようとしたりせず、誰かに私の言うことを聞くように要求したりせず、他人が要求したしたときだけ情報を提供するならば、そしてもし私が、

(H)他人が開発している人工物の制作を競合的に始めたりせず、ほかの誰もやろうとしないものだけに従事するなら……

そうしたなら、ひとまず私は次の二つの仮定が正当であるとけつろんすることができる。

(1)自然は本質的な宇宙的再生の「主流」の実現化に仕える人間の活動を経済的に支えるであろう。その実現とは、いままでただ染色体に焦点を当てられた生物の、「直角に」見える副次的作用によってのみ達成されたものである。そして、(2)プリセッショナルな行動の法則化された物理法則は、アクセラレーションとエフェメラリゼーションの法則化された原理がなすように、社会経済的な行動を支配する。(242~243頁)

■環境を制御する人工物による社会経済のプリセッションは、明らかに以下のことを通じてのみ働きだせる戦略的進路だった。すなわち、われわれの直観的な感性を最大限信じること、頻繁に取り組み姿勢を決定し軌道修正すること、さらには、われわれの責任において発展的に生まれる思考に確実に参加すること、絶えず経験から生まれてくる進化する事象がすべて集合した現象の相対的重要度に対する新たな洞察、である。それにはすべての判断の間違いを迅速に認め、修正することも含まれた。そこではつねに「包括的な塾考」が求められた。(244頁)

■自分の生活パターンの厳格な方向づけをしてきたこの52年間の前半を通じて、――その過程で私は仕事をつづけていくために必要不可欠な材料、道具、そして資金の提供を生態学的なプリセッションに全面的に依拠する一方、家族と自分のために「生活費を稼ぐ」という考えを永遠に捨て去る決心をしたのだが――私の友人、家族、そして妻の家族や友人達からは、私が「生活費を稼ごう」としないのは妻と娘の信頼をひどく裏切る行為であると言われつづけた。そういったことに駆り立てられて、私はときどき友人から提供された仕事を引き受け、その間は友人たちも家族も安心し、とても喜んだ。しかし、そのたびに私の主要な戦略は棚上げになり、状況は悪化した。そしてついに、私はどうしたわけか再び向こう見ずになり、最先端の化学的そして技術的方法でつくられた、環境を変える人工物によって問題解決を図るための、財源なしの包括的オウログラムに再び戻ってしまうのである。そうするとすべてが再び円滑に運ぶようになった。(250頁)

■私が何よりも最優先させてきたまだ言及されていない一つの誓約がある。それは、すでに列挙したすべての規律を発展し誓約をする以前に、とりわけプリセッションの原理に対して立てたものである。それによって私は家族と自分のために生活費を稼ぐという発想から完全に解放され、同時にすべての人工物の発明を日々実際に物理的に実行し、そしてそれらを物理的証明へと還元することができたのである。

私はこの非常に重要な誓約を慎重に守り通してきた。もしもこの誓約を、人生の行動パターンを決める最初の段階で立てていなかったならば、私はきっと、互いに相補的なすべての解決策と自己規律につながる洞察力をもてなかっただろう。(251頁)

■1930年、「ミスターサイエンス」、誰もが知るアインシュタインは『宇宙的な宗教意識――非擬人化された神の概念』を出版した。アインシュタインはそのなかで、ローマ・カトリック教会が「異端者」として破門したケプラーやガリレオのような偉大な科学者たちは、宇宙の秩序に対する絶対的なしんねんから、非擬人化された宇宙的神に身を委ねており、その信念の深さは形式的宗教組織を率いる人たちをはるかに上回っていたと述べた。

1927以来、私は眠りにつくときはいつも「絶えず再考する神への誓い」と呼んでいるいることに思考を集中することにしている。「主への祈り」は明らかに、私たちがその名を決して知ることのない心から誠実で思慮深い多くの人々によって、案出されてきたものである。以下に私の最近の再考を述べる。

科学は神の存在の可能性をすべて無効にするというロシア人たちの仮定とは反対に、私の以下につづく宣言は、科学的な細心の注意を払った、直接的な経験に基づく〈神〉の証明から成り、明確に論証されたものであることを確信している。(略)(253頁)

■これはまた、あるシステムにおける線分の長さは、その表面積が2乗の割合で、そして体積が3乗の割合で増大するのに対して、1乗の割合で増大するという数学的原理を含んでいる。最初の長さが1.8メートルで直径が5センチメートル、つまり縦横比が36対1の「細長い」鉄製の針は、長さが7.2センチメートルで直径が0.2センチメートルの針に縮尺できる。1.8メートルの長さの針は水に沈む。7.2センチメートルの長さの針は水に浮かぶ。その体積、すなわちその重量が水の表面の分子幕をつくっている原子間の相互引力によって維持される重量よりもはるかに小さくなって、重量が無視できるくらい微小なものになり、その表面積が水の表面張力だけに関係するようになったのである。(264頁)

■明らかに、全原理におけるあらゆるシナジー(岡野注;相乗効果)作用をさらに統合していくシナジーの完全無欠性は、非同時的で、ただ部分的に重なり合って影響する、複合体の永続的な再生の原理を純粋な原理のなかで維持するために、それ自身の包括的な妥当性を絶え間なく試しつづけ、純粋な原理によってすべての挑戦を調整しているのである。

上述のことが真実であるという理解は、次のことを人類に知らせることになるだろう。すなわち、純粋な原理で、純粋な原理によるマインドにより機能するとともに、永続的原理のいくつかを純粋な原理によって理解し、客観的に使用できるマインドを備えた人類が宇宙に登場したのは、宇宙システムへの人類の登場と、永続的な原理のいくつか――すべてではない――にアクセスし利用する人類のマインドとによって引き起こされる知識の分裂にもかかわらず、宇宙の永遠に再生的な完全無欠性の原理が乱されずに存続できるかどうかを発見するために、神が果敢にも企てたことなのだということを。これは、ただすべての原理の知識だけを求めてシナジー的に増加していく英知に接近しようとはしない――すなわち、永続的に再生的な完全無欠性を損ないかねない――人間の観念に固有な、しばしば頑迷で自己中心的で利己的で欺瞞的な独善生に、原理のシナジー作用におけるシナジーが十分対処できるかどうかを、純粋な原理のなかで試すための純粋な原理における実験なのであった。それは、神という完全無欠性が知る必要のあること、それも実験による証明によって知る必要のあることかもしれない。(266頁)

■(A)日々の知的現実の最前線が人々に完全に見えないせいで生じる理解することの難しさと、(B)「生きることとは何か」を人々が理解し把握することを妨げる専門化――もし人類がこのわれわれの惑星上に存続していくつもりなら、1980年代にはA、Bに対する障害を効率よく克服しなければならない――に加えて、われわれはいままた1990年までに克服しなければならないもう一つのやっかいな障害に直面している。その障害(C)とは、人間が非常に限られた速さの動きしか「見る」ことができないということである。人間は人間の身体全体が成長する場合も、また一部の組織が成長する場面も見ることはできない。人間は時計の針の長針・短針の動きや木々が物理的に生長する動きを見ることができない。人間は服がもはや合わなくなったということから、回顧的に成長に気づくのである。人間は去年の景色が遮られてはじめて、樹木の生長に気づく。人間が包括的に「見る」ことができるものの99,9%は、すでに起こってしまったことの遅れて現れる余波である。(270頁)

■富は、(物質や放射という)フィジカルなエネルギーが、メタフィジカルな目的意識と技術知識(ノウハウ)に結びついてできる。科学者たちは、宇宙のどんなフィジカルなエネルギーも失われることはないことを明らかにした――つまり、宇宙全体として見れば、富を物理的に構成しているものは減らないのである。われわれは、目的意識(ノウワット)と技術的知識(ノウハウ)というメタフィジカルな富を使うごとに、さらに多くを学ぶことを経験から知っている。経験は増す一方である――ゆえに、富を構成するメタフィジカルな部分は増加する一方であり、したがって統合された富全体もやはり増加の一途をたどることになる。(317頁)

■富とは、汎宇宙的に作用して天体から放射されてくる一定の自然エナルギーの収入だけを、次のように使う人間の組織化された能力と技術的知識(ノウハウ)にほかならない。すなわち、かくも多くの人間がこれから迎える長い日々の生活に、(1)保護、(2)快適さ、(3)滋養をもたらし、(4)人間にまだ利用されていない知的・審美的能力の蓄えをさらに発展させる環境を整備し、(5)一方ではたえず束縛を取り除き、(6)また一方では情報をふやしてくれる経験の幅と深さを増大させることによって予想したとおりに対処していく能力とノウハウ、それこそが富なのである。(318~319頁)

■この時点で、まったく新しい技術との交替によってよって、より少ないものでより多くを生む小型化が結果としてまず発生せざるをえない――巨人ゴリアテの棍棒に勝ったダビデの投石器の石は、巨人の手の届かないところから放たれたのである。

この、より少ないものからより多くをなそうという包括的で容赦のない傾向は、一括して「漸進的エフェメラリゼーション」として知られている。エフェメラリゼーションは完全な無によってすべての最大極限を成し遂げるという傾向に向かい、それはすべてに重さのあるフィジクスはすべてに重さのない知性のメタフィジクスによって支配されるという傾向である。(364~365頁)

■海軍の科学では、科学的に発展させてきた4種の予測技術がある。私なりに「予測する」という意味を定義すれば、そこには主観的なものと客観的なものとがある。主観的とは「私が何もしなければ、これこれのことが起こるであろう」、客観的とは「もし私がそうすれば、これこれのことが起こるだろう」ということである。純粋科学とは、「経験した事実を秩序づけ、もしそれが証明されたときには、それから法則化された原理を導きだすこと」を意味する。応用化学は、「複数の法則化された原理を客観的に利用するための技術的な手段を開発すること」を意味する。技術(アート)とは、「人力で十分だったり人力では難しかったりする特殊な場合(ケース)に応用化学の理論体系を適用してみごとに実現すること」を意味する。(370頁)

■地球という私たちの知る唯一の惑星はシントロピー的にエネルギーを輸入している場所の一つであり、そこではエントロピー的な太陽の放射エネルギーは植物のシントロピー的な光合成によってたえず封じ込められ、ランダムな放射として受取ったエネルギーが美しく整然と配置された分子構造(物質)に変換され、ほかの生物や有機体は順々にその植物が造り出す分子を消費して、それによって自らが物理的にシントロピー的「成長」を遂げるのである。われわれはこの惑星の自然なエコロジーのなかに歴然と現れる、この偉大なシントロピー的に作用するパターンを見いだすのである。(422頁)

■この惑星のあらゆる生命機能はシントロピー的にデザインされている。すなわち、放射エネルギーを閉じ込め保存し、永遠に再生しつづける宇宙のシントロピー的な統合を全体的に維持する過程でさらにシントロピー的な機能をつくり出すためにその放射エネルギーを使うようにデザインされている。多くの人間に見られる傾向、すなわち土を耕したり動物の世話をしたいといった欲求、芸術家の創造への衝動や職人の製作への意欲、そして他人のために時間と困難を軽減するための発明や開発を行う発明家の欲求など、それらすべての人類の性向がシントロピー的にデザインされていることを歴然と示しているのである。人類のそうした寛大で思いやりのある性向は、本来シントロピー的なものである。利己的性向は「エントロピー的」である。自然は人類のそのシントロピー的な機能ゆえに、宇宙の再生的な自然を維持しつづけるためにこの地球上に人類を置いたのである。(423~424頁)

■彼が歩いた後には草木も生えないと思わされるくらい無数の新しいアイデアで埋め尽くされていくと同時に、ひとかけらの「競争心」に燃える若い研究員がひどく打ちのめされていく一方、私は「数学」は「経験」から創り出されていく姿を日々確認できた。(520~521頁)《デザインサイエンス革命とは何か――訳者あとがきにかえて 梶川泰司》

2009年3月14日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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