岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『正法眼蔵(7)』増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

投稿日:2020-12-02 更新日:

『正法眼蔵(7)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

転 法 輪(てんぽうりん)

■先師なる天童如浄古仏は、法堂(はっとう)にいでまして仰せられた。

「示す。世尊は、一人が真(しん)を発して源(みなもと)に帰すれば、十方(じっぽう)の虚空はことごとく消えて見えなくなる、と仰せられた。わしの師匠は、それについて、これはすでに世尊の説きたまうところであるから、きっと滅多にないことをお考えなのであろうとの仰せであった。だが、天童(わし)はそうは思わない。一人が真を発して源に帰すれば、乞食も飯椀を叩きわってしまうだろうわい」

また、五祖山(ごそざん)の法演(えん)和尚は仰せられた。

「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、がちゃんとぶっつかるであろう」

また、仏性法泰(ほうたい)和尚は仰せられた。

「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、ただこれ十方の虚空である」

また、か夾山(かっさん)の圜悟禅師は仰せられた。

「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、錦上に花を添えるであろう」

また、わたくし大仏寺(じ)の道元はいう。

「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空もまた、真を発して源に帰するであろう」

いま挙げて示すところの「一人真を発し源に帰すれば、十方の虚空はことごとく消えて見えなくなる」という句は、『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』のなかに見えることばである。その句は、これまで幾人かの仏祖が、ひとしく挙げて示したまうところである。かくて、いまやこの句は、まことに仏祖の骨髄であり、仏祖の眼睛(ぜい)であると申さねばならない。(20~21頁)

自 証 三 昧(じしょうざんまい)

■〈注解〉為法捨身(いほうしゃしん)・為身求法(いしんぐほう)……;法のために身を捨てることと身の為に法を求めること。それが求法の表であり裏である。(31頁)

■しかるところ、それらすべて、あるいは善知識にしたがい、あるいは経巻にしたがっているにちがいないのであるが、まことは、また、すべて自己にしたがっているのである。その時、その経巻はおのずからにして自己の経巻であり、その善知識はおのずからにして自己の知識なのである。だからして、あまねく天下の知識に参じてまなぶということは、つまり、あまねく自己に参学するということにほかならない。あるいは、百草を拈じてというは自己を拈じてということにほかならず、また、万木をとりてというは自己をとりてということのほかではない。自己というものは、かならずかようにして参学すべきものと知らねばならない。また、このようにしてまなぶことによって、はじめて自己を超えて、ああ自己とはこれかと合点することができるのである。(35~36頁)

■また、いく生涯となく生を重ねて、法を説き法を開くということは、つまり、世々に聞法することである。さらには前生において正伝を受けた法を、さらに今生でもまた聞くのである。それは、またいえば、法のなかに生まれ、法のなかに死するのであるから、この世界のいたるところに法を伝えているのであって、よく生々に法を聞き、そのたびごとにその身に法を修するのである。とすれば、それはいいかえれば、生々に法を実現せしめ、いずれの身にも法をあらしめるのであるから、極小の世界から極大の世界にいたるまで、一切の世界をして法を証(あか)しせしむるものということをうるであろう。

であるからして、東のほとりにして一句を聞くことをえたならば、西のほとりにいたって一人のために説くがよろしい。それはとりもなおさず、一つの自己をもって、聞くことと説くことの二つを、ともにいとなむことにほかならないのであり、東の自己も西の自己も、ともにおなじく修行するのである。ともあれ、なんとしてでも、仏法・祖道にわが身心を近づけてそれを実践すること、それをのぞみとし、それを喜びとし、それをこころざしとするがよい。それを一時(ひととき)からはじめて一日におよび、さらに一年から一生におよぶ営みとするがよい。仏法をわが魂としてたえず思いめぐらすがよい。それが、生々をむなしく過ごさないということである。

それなのに、まだ悟りを得ないで他人に説くべきではないと思うのはまちがいである。悟る時をまったのでは、いつまで経ってもその時は来るものではない。たとい人間界の仏を悟ることができても、さらに天界の仏をも知らねばならない。たとい山のこころを悟ることができても、なお水のこころも知らねばならない。たとい因果関係によって生ずるものを知りつくしても、さらに因果によらずして生ずるものも知らねばなるまい。また、仏祖のほとりのことまでは知りえたとしても、さらに仏祖の彼方をも知らねばなるまい。それらのことを一生のうちに明らかになしおわって、そののち他人のために説こうなどとというのは、よい工夫というものではない。また、よき男子の考え方でもなく、仏教をまなぶものの思うべきことでもない。(41~42頁)

■この一段の物語を点検してみると、湛堂はなお宗杲(そうこう)を許さなかったことがわかる。宗杲は、たびたび開悟しようとしながら、どうしても一つの事だけが欠けていたのである。その一つの事がどうしても身につかなかった。その一つの事がどうしても超えられなかった。そのまえには、道微和尚が嗣書のことをしりぞけて、なんじはなお足らざるところがあるぞと勧告したが、道微和尚の機を見るまなこが明らかであったことも、よく判るではないか。彼じしんは、「まさしくわたくし宗杲の疑問としていたところでございます」といっておるが、それを究めいたらず、それを超越もせず、打ち破ることもせず、大いに疑うこともなく、その疑いに躓(つまず)いてはっと気がつくということもなかった。また、その以前には、みだりに嗣書をお願いしたりしたが、それはこの道を参学するものの軽率というものである。無道心のいたりである。古(いにしえ)にまなぶということをまったく知らざるものである。あるいは、無遠慮というものである。この道の器ではないといわねばならない。学に疎きことはなはだしいのである。名を貪(むさぼ)り、利を愛することによって、仏祖の奥ふかきところを犯さんとするのである。可愛そうに、まるで仏祖のことばなどは知ってもいないのである。

思うに、古を稽(かんが)えるということは自証にほかならない。あるいは、万代をあさり歩くということは自悟にほかならない。そのことをまなばず、理解しないから、このようなよからぬこととなり、自己矛盾におちいるのである。そんな具合であったから、宗杲(こう)禅師の門下には、結局、一人も半人もとるに足る本物はなく、たいてい、似せもの、仮りのものばかりである。仏法を会得するかしないかは、こんなものである。いまの雲水もまた、かならず事つまびらかにまなびいたるがよろしい。けっしていい加減にしてはならない。(54~55頁)

〈注解〉これ以下のかなり長文にわたる部分は、すべて大慧宗杲(だいえそうこう、1163寂、寿74)に対する道元の批判である。彼は、圜悟克勤(えんごこくごん)の法嗣で、径山(きんざん)に住し、大慧禅師の賜号を得た人であるが、それに対する道元の批判はかなり手きびしいものがある。それというのも、仏祖の大道は自証自悟の道にほかならないのであるが、その自証自悟というはまことに微妙な機微に属する。その真相をあかさんがための、かくは長文におよぶ宗杲の批判となったものと知られる。そして、この一段では、まず、『大慧普覚禅師宗門武庫』によって、数おおくの引用がなされ、彼が圜悟克勤(こくごん)に投ずるまでの参学の過程が語られ、その批判がなされているのである。(55頁)

■だからして、宗杲禅師は師の才のなかばにも及ばない方だと知るがよい。ただ、わずかに『華厳経』や『楞厳(りょうごん)経』などの文句を暗誦して、それを伝え説くのみであって、いまだ仏祖の骨髄を得た方ではなかった。また、宗杲の考え方によると、彼は、大小の隠者たちがふと草や木にやどる精霊にひかれて保持するところの見解が、それが仏法であると思っている。仏法をそんなものと思っていることでも、彼がまだまだ仏祖の大道をまなびいたっていないということがよく判るはずだ。しかるに彼は、圜悟に参じて以後は、もはやさらに他を遊歴して、善知識をたずねることもしなかった。それでも、なおみだりに大寺の主となって、雲水を指導していた。だが、そののこした語句をみると、まだまだ大法のほとりに及ばずと申さねばなるまい。

それなのに、そういうことを知らない人々を、宗杲(こう)禅師はむかしの仏祖をくらべても恥じない方だと思っている。だが、よく判ったいる人々は、ちゃんと、彼はまだまだ本当には悟っていないのだと知っている。まさしく、ついに大法をあきらめるにいたらず、ただいたずらにべちゃくちゃ喋っていただけのことである。だからして、また、洞(とう)山の道微(どうび)和尚は、そこを誤らずして、後世の鑑(かがみ)となられたのだと知られる。それなのに、宗杲禅師に参学した人々は、いまもなお道微和尚を嫉視してやまない。道微禅師はただ印可を与えなかっただけのことである。また、文準和尚が彼に許しを与えなかったことは、道微和尚よりももっと厳しかった。相見(まみ)ゆるたびごとに叱られるばかりであった。だが、彼は文準和尚をすこしも恨みはしなかった。それを、その後のものやいまのものが嫉むなどということは、それこそよっぽど恥ずかしいことでなければなるまい。(61~62頁)

■知るがよい。仏祖より仏祖へと、西天ならびに東地において正伝されていた嗣書は、青原山のながれを汲むものが正伝である。そして、青原行思以後は、やがて洞(とう)山が正伝するところとなった。それは、その他の諸方の長老たちのまったく知らざるところである。知っているのは、ただ洞山のながれを汲むものだけであって、そのほまれは雲水たちにもほどこされている。宗杲禅師ごときは、その生けるころには、なお自証自得ということばをすら知らなかった。ましてや、その他の公案については、とても徹底してまなびいたっていたとは思われない。また、ましていわんや、宗杲よりも後進のものは、誰が自証などということばを知っていようぞ。

ともあれ、こういう具合であるから、仏祖の語られたいろいろのことばには、かならず仏祖の身心がやどり、仏祖の眼睛がそなわっている。つまり、それは仏祖の骨髄なのであるから、並々のものではその皮を得ることもできるところではない。(62~63頁)

〈注解〉青原山;青原行思は吉州青原山の静居寺(じょうこじ)に住した。(63頁)

大 修 行(だいしゅぎょう)

■また、老人は、それよりのちは五百生のあいだ野狐の身に堕したというが、いったい、その野狐の身に堕するとはどういうことであろうか。それは、以前から野狐があって、それがさきなる百丈を招きよせて堕(お)とさせるというわけではあるまい。むろん、さきなる百丈山の住持が野狐であろうはずはあるまい。また、さきなる百丈山の住持の精魂がでてきて、それが野狐の身体のなかに入りこんだのだといえば、それは外道の考え方というものである。むろん、野狐がやってきてさきなる百丈山を呑みこんでしまったというはずもあるまい。もしそのようにして、さきなる百丈山がすっかり野狐になってしまったというならば、その時には、どこかにさきの百丈山の脱殻があって、それではじめて野狐の身に堕ちるはずであろう。だからといって、百丈山と野狐の身とを取り換えたというわけでもあるまい。

因果というものは、けっして、そんなものであろうはずはないのである。因果は、本有(ほんぬ)すなわちもとより有るものでもなく、また、始起(しき)すなわちある時始めておこるものでもなく、あるいはまた、なにかしら因果というものがあって、それが人を待ちうけているわけでもない。だから、たとい「因果に落ちない」と答えたその答え方が間違っていたとしても、かならずしも野狐の身に堕ちるときまっているわけではない。もしも修行者の問いに対して間違った答えをすれば、その業を因としてかならず野狐の身に堕(だ)するということであれば、近来の臨済や徳山や、その門人たちは、もう幾千たび幾万たびとなく野狐に堕ちたことであろう。そのほか、ここ二、三百年来のいい加減な長老など、どれだけ野狐になったか判らないほどであろう。だがしかし、一向にそんな話も聞かない。たくさんあるならば、見聞きすることもあろうと思われるのに、一向にそんな話も聞かないのは、みんな正しい答え方をしているのであろうと、そういいたいところであるが、実のところは、いまの「因果に落ちず」よりも、もっとひどいいい加減な答えのみがああく、仏法の近くにもおけないようなものばかりである。そこは、ほんとうにこの道をまなぶ眼があって判るところであって、まだその眼がそなわらずしては、なかなか判らないのである。

だからして判るではないか。答え方がわるくて野狐の身となるのでもなく、答え方がよくて野狐の身とならないわけでもないのである。ただ、この物語のなかには、野狐の身を脱してのち、かの人はどうなったか、それについてはなにごともいっていない。きっとそこには、なにか大事なことが蔵せられているにちがいあるまい。(75~76頁)

〈注解〉後漢永平;永平は後漢の年号であって、その十一年(68)に仏教が伝来したとの伝説が、古来からよく知られている。

     梁代普通;普通は梁の年号であって、その元年(520)に達磨は、海路を通って中国に到着した。

■それなのに、まだまるで仏法を知らない連中がみんないっておる。野狐の身を抜けだしてしまうと、こんどは本覚(がく)の性(しょう)海に帰入するのだ。これまではしばらく迷妄によって野狐の身に堕(お)ちていたけれども、ひとたび大悟すれば、野狐の身もすでに本性に帰するのである、と。これは、外道がいうところの本我に帰るということであって、けっして仏法ではない。もしの、野狐には本性というものはない、本覚ということはありえないというならば、それは仏法ではない。あるいは、大悟すれば、それで野狐の身をはなれるの、捨てるのというならば、それは野狐の大悟ではない。そんなのはいい加減な野狐であろう。そんないい方をしてはいけない。(82頁)

■仏祖の流れを汲むものとしては、ひたすら仏祖の法式を重んずべきである。百丈のように人に乞われるままにまかせてはてはならない。仏祖の法式は、一事一法といえども、容易に遇(あ)いがたいものである。世俗にひかれ、人情にひかれて、それを曲げてはならない。殊(こと)に、この日本のようなところでは、仏祖のさだめる法式には、なかなか遇いがたく、聞くこともむつかしかったのである。それが、いまでは、稀に聞くことがあり、見ることができるようになったのである。とするならば、そのような時には、それを髻中(けいちゅう)の珠よりも厚く尊崇するがよろしかろう。しかるに、善業によって植えた福徳の果報のない連中は、それを尊崇する信心がうすい。可哀そうなものである。それは、つまり、事の軽さと重きをまったく知らないからであり、あるいは、五百年、一千年のさきまでも見通す智慧がないからである。(86頁)

虚 空(こくう)

■「ここはいったい、いかなるところであるか」という。それは坐禅する蒲団のうえである。その道が実現すれば、そこには仏祖がなる。仏祖の道が成就すれば、おのずからして嫡々相承して仏祖の皮肉骨髄なる渾身は、虚空にかかって存する。その虚空とは、諸法皆空の理をかたって二十空を立つるの類(たぐい)ではない。いったい、空といえばただに二十空どころか、八万四千の空がある。いや、さらにそれ以上である。(100頁)

〈注解〉まず冒頭に主題の趣きが語られる。それは、仏祖の皮肉骨髄なる渾身は虚空に掛るということである。さらにいうなれば、そのような表現は、まもなくこの巻の文中に現われてくる先師天童如浄和尚の偈によるものであると知られる。

■おおよそ、この世界には、どこにも、虚空を容れるほどの隙間はないけれども、ともあれ、この一段の物語は、久しき昔より今日にいたるまで轟きわたっている。石鞏や西堂よりのちにも、五家の宗匠と称する方々はたくさんいるけれども、なおよく虚空を見聞し、あるいは推測したものは稀である。また、石鞏(しゃっきょう)や西(せい)堂の前後には、虚空を弄(もてあそ)ぼうとしたものもすくなくなかったが、なおよく手をつけることのできたものはすくない。ただ、石鞏はよく虚空をつまむことができた。また、西堂はよく覗い見ることができなかった。そこで、ひとつ、わたくし道元も、石鞏にむかって一言を呈するならば、いまもいうように、かつてそなたは西堂の鼻をつまんだというが、それが虚空を捉えるのだというならば、さて他(ひと)の鼻をつままずとも、自分で自分の鼻をつまんだらよいではないか。ここはさらにひとつ、指さきで指さきをつまむことを知るもよろしい。だがしかし、石鞏はいささか虚空の捉え方を知っていたのである。だが、また、たとい虚空を捉える名人上手であろうとも、なおよく虚空の内外をまなぶがよく、虚空の活殺をまなぶがよく、また虚空の軽重を知らねばならない。もろもろの仏祖たちが、功夫弁道し、発心修証し、あるいは語りあるいは問う。それこそとりもなおさず虚空を捉えることだと承知するがよいのである。

かって、先師なる天童如浄古仏は、偈をなして仰せられた。

「全身口に似て、虚空にかかれり」

それであきらかに判るではないか。虚空の全身は虚空にかかっているのである。(106~107頁)

■洪州西山の亮座主(ざす)は、馬祖に参じてまなんだ人であるが、ある時、馬祖は問うていった。

「そなたは、いかなる経を講ずるのか」

亮座主はいった。

「心経(ぎょう)でございます」

馬祖はいった。

「なにをもって講ずるのか」

亮座主はいった。

「心をもって講ずるのでございます」

馬祖はいった。

「心は役者のようなものである。また、意はその脇役のようなものだし、六つのにんしきはそのつれのようなものである。それが、どうして経を講ずることができようか」

そこで、亮座主はいった。

「心がすでに講じえないとするならば、いったい、虚空でも講ずることができるというのでございますか」

馬祖はいった。

「さよう、虚空が講ずることができるのだ」

亮座主は、それを聞いて、袖を払ってその座を立った。 馬祖はうしろから、「座主よ」と声をかけた。亮座主が首をめぐらせると、馬祖はいった。

「生まれてから老いにいたるまで、ただこれ虚空なのだ」

亮座主は、それを聞いて省(かえりみ)るところがあり、やがて西山に隠れて、その後はなんの消息もなかったという。

ということであって、仏祖はすべて経を講ずる者である。その経を講ずるにあたっては、かならず虚空をもってする。虚空によらずしては、一経をも講ずることはできない。たとい、心経を講ずるにも、あるいは身経を講ずるにも、いずれも虚空をもって講ずるのである。虚空をもって思量を実現し、不思量をも実現するのである。あるいは、有師の智を成就し、無師独悟の智をも成就するのである。あるいはまた、生まれながらの知をなし、まなんで得る知をなすにも、ともに虚空によるのである。さらにいうなれば、仏となるも祖となるも、おなじく虚空によるのであろう。(111~112頁)

〈注解〉洪州西山亮座主;その伝は、『景徳伝灯録』巻八にみえているが、それによるも、馬祖道一の法嗣であったこと、もと蜀の人であったこと、経論を講ずることをよくしたことのほかは、「遂に西山に隠れ」て消息を絶ったため、なにごとも知られていない。

婆修盤頭;“Vasubanndhu”を音写してかくいう。訳すれば、世親もしくは天親となす。有名な論師であるが、また禅門では、西天第二十一祖となす。(113~114頁)

鉢 盂(はちう)

■開 題

この一巻は、寛元五年(1245)三月十二日、新寺なる大仏寺において衆に示された。大仏寺において開示された二本目の『正法眼蔵』である。

それは、ごく短い一篇であり、その内容もいたって簡単であるが、そのなかにも、なにかひしひし感ぜられるものは、いまや道元は、新しき寺における新発意(しんばち)の雲水たちの修行に、ひたむきに心を傾けていられるのだなあということである。

ー中略ー

つまり、それは、比丘のもちうる食器である。それについて、わたしのまず思い出すことは、かの三衣一鉢ということばであり、ついで思い出すのは「衣鉢(えはつ)を嗣ぐ」ということである。その前者は、比丘の所持すべきものをいったのであり、その後者は、袈裟・鉢盂を伝持することが、とりもなおさず、正法眼蔵・涅槃妙心を伝持することにほかならずというのである。そして、いま、道元がこの巻において開示しようとするものも、またその間の消息についてのほかではないのである。(116~117頁)

■思えば、それは、七仏よりももっと以前から七仏に正伝し、七仏にいたってからは、つぎつぎに七仏に正伝し、すべての七仏の正伝しおわって、さらに七仏から二十八代を正伝してきたものである。さらにまた、その第二十八代の祖師である菩提達磨高祖は、みずから中国にいたって、二祖正宗普覚大師(しょうしゅうふがくだいし)に正伝し、さらに六代につたわって曹谿にいたった。東と西をあわせて、すべてで五十一伝であるが、それが、とりもなおさず正法眼蔵であり、涅槃妙心であり、また、袈裟であり、鉢盂である。それを、いずれの仏もみな先仏が正伝してきたとおりに頂戴し、保持して、肌身を離さず、そのようにして仏祖から仏祖へと正伝してきたのである。

それななのに、それぞれ仏祖にいたってまなび、その皮肉骨髄、もしくは、その拳頭・眼睛をつぐことをえた人々は、おのおのその機に応じて独特の表現をなさっておる。たとえば、あるいは、鉢盂はこれ仏祖の身心なりと、そのように参学したというものもある。あるいは、鉢盂はこれ仏祖の眼睛であると、そのようにまなんできたというものもある。あるいは、鉢盂はすなわち仏祖の光明であると、そのようにまなんできたというものもある。あるいは、鉢盂はすなわち仏祖の真実実体であると、そのようにまなんできたというものもある。あるいは、鉢盂はすなわち仏祖の正法眼蔵・涅槃妙心であると、そのようにまなんできたというものもある。あるいはまた、鉢盂はすなわち仏祖が身を転じたもうところであると、そのようにまなんできたというものもある。あるいは、仏祖は鉢盂の縁(ふち)であり底であると、そのように受けとっているものもある。それらのともがらの受けとり方は、すでにさまざまの表現の仕方がこころみられているが、さらになお、いろいろの受けとり方もあろうというものである。(118~119頁)

〈注解〉正宗普覚大師;神光慧可(しんこうえか)である。正宗普覚大師とは、唐の太宗によりおくられた諡号(しごう)である。

■先師なる天童如浄古仏は、大宗の宝慶(ほうきょう)元年、天童山景徳寺に住するの日、法堂(はっとう)にのぼって示していった。

「わたしが記憶しているところによると、ある時、一人の僧が、百丈禅師に問うていったことがある。

『いったい、奇特(きどく)のことと申しますのは、どのようなことでございましょうか』

すると、百丈禅師は答えて仰せられた。

『それはなあ、百丈山が、たった一人がどかっと坐っていることだよ。それはもう、誰にも動かすことはできまい。だから、しばらく其奴(そやつ)をじっと坐らせておくよりほかはあるまいて』

ところで、今日は、ひょっくり一人の僧があって、このわたしにむかって問うたとしよう。

『いったい、奇特(どく)のことというのは、どういうことでありましょうか』

すると、わしは、彼にむかって、ただ『なんで奇特のことなんぞあるものか』と答えるのほかはないわい。そりゃ、いったいどうしたということじゃ。それはなあ、浄慈禅師の鉢盂が、いま天童山に移ってきて、飯をくっているだけのことだからである」

知るがよい。奇特のことは、まさしく、奇特の人にしてはじめてありうるものであり、また、奇特のことには、かならず奇特の道具だてがなくてはならないものがある。つまり、それらのことが揃ってはじめて奇特のことがなるのである。だからして、奇特のことが実現するところには、またかならず奇特なる鉢盂があるはずである。そういうことであるからして、仏教においては、鉢盂は、四天王(のう)をして護持せしめ、あるいは、龍王たちをして擁護せしめるというのが、奥ふかいさだまりとなっておる。そのようにして、これを仏祖にたてまつり、また仏祖から仏祖へと伝えられるのである。(122~123頁)

■いま、雲水たちが伝えて持っている鉢盂は、とりもなおさず四天王の奉献したもうた鉢盂である。鉢盂というものは、もし四天王が奉献しなかったならば実現しないのである。また、いま諸方にあって仏の正法眼蔵を伝えている仏祖の正伝した鉢盂も、それも古だの今だのということをとおく超越した鉢盂なのである。ということであるから、いまこの鉢盂は、鉄だの木だのといった計らいに拘束されないのである。瓦だ石だのといった考え方を超越しているのである。だから、石だ瓦だといってはならない、木だ株だといってはいけないと、そのように承(うけたまわ)ってきたものである。(124~125頁)

〈注解〉四天王;いわゆる護世の四天王であって、帝釈の外将であるという。持国・増長・広目・多聞の諸天がそれである。なお四天王が鉢盂を奉献し、あるいは護持したというのは、仏陀の故事にいずるものであろう。(126頁)

安 居(あんご)

■開 題

ー中略ー ご覧のように、この「安居」の巻も、それらの巻とおなじように、かなり長大なる一巻である。しかも、その内容の大部分をなすものは、安居の期間のことだとか、安居結制の時には、どのような行事を行うとか、また、安居を終わる時には、どのような作法があるとか、それらのことに関する、まことに綿密なる叙述なのである。なぜであるかというなれば、それらのことの高古綿密なる実現こそ、この道にほかならないというほかはあるまい。(129頁)

■黄龍(おうりゅう)の死心(ししん)和尚はいった。

「わしは行脚すること、すでに三十余年であるが、いつも九十日をもって夏案居(げあんご)となしている。一日も増やすこともできないし、また一日を減ずることもできない」

ということであって、和尚が三十余年の行脚によってひらくことをえた眼は、わずかに九十日をもって一回の夏安居となすということを見徹(みとお)しただけであった。たとえば、それを一日のばそうとすれば、もう九十日の安居のほうが先をあらそってやってくるし、また、たとい一日でも減じようとすれば、もう九十日の安居のほうが先にやってきているといったところで、どうしても九十日という定めを跳び出ることができない。そこを跳びこすには、九十日の定まりを手足ととして飛躍してみるよりほかはない。つまり、九十日をもって一安居となすのは、わが仏祖の家の定めではあるけれども、それはけっして仏祖じしんがはじめて定めたことではないのであって、仏祖から仏祖へと、正しい嗣ぎ手が正伝して今日にいたったのである。(134頁)

■世尊は、摩竭阿(まがだ)の国にあって、衆のために法を説いておられた。その時、いまから安居に入りたいと思って、阿難に仰せられた。

「もろもろの大弟子から、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷にいたるまで、わたしがつねに法を説いても、いっこうに敬仰の心を生じないようである。わたしはいまから因陀羅窟に入って、九十日の安居をいとなむであろう。もしその間に人がやってきて法を問うたならば、そなたはわたしに代わって、その人のために法を説くがよろしい。一切の法は不生にしてかつ不滅である、と」

そういいおわると、室を閉じて坐したもうた。

そういいおわると、室を閉じて坐したもうた。

そういうことがあってからこのかた、すでに二千一百九十四年(日本の寛元三年にあたる)の歳月をけいした。しかるに、いまだ仏法の奥ふかいところを知らない仏教者たちは、たいていこの摩竭陀の国で世尊が閉居せられたことを、ことばなくして説きたもうたことの一つの証拠とするのである。つまり、よこしまの考え方をする人々は、いま世尊が閉居して安居をいとなまれた心を推しはかって、そもそも言語をもちいることはすべてが真実なわけではなく、ただ方便にしかすぎないものであり、ぎりぎりの道理というものは、むしろ、ことばの道もたえ、心のいとなみも及ばぬところにある。だからして、無言無心がかえってぎりぎりの道理にかない、ことばをもちい、思念をはたらかせるのは道理にはずれている。それでこそ世尊は、室を閉ざし、安居九十日のあいだ、まったく外界との接触を断たれたのだと、もっぱらそのように主張するのである。そのような連中のいうところは、たいへん世尊の御意にそむいたものなのである。

もし、いうがごとく言語の道もたえ、心のいとなみも及ばぬといえば、一切のこの世のいとなみもみな、言語の道もたえ、心のいとなみも及ばないところである。一切の言語もみな言語道断ならざるはなく、一切の心のいとなみもすべて心行処滅にあらざるはない。だがしかしこの物語は、むろん無言をたっとぶようにというのではない。仏法の心とするところは、この身を挺してどんな世界にもはいりこんで、あくまで法を説いて人をすくい、あるいは法を転じて物を助けるにある。しかるを、もしも仏教者と称するものが、夏案居の九十日をまったく物いわずとするならば、それじゃあ、わたしに九十日の夏案居を返してもらおうかというところである。(139~140頁)

■また、世尊は阿難に仰せられて、「そなたはわたしに代わって法を説くがよろしい。一切の法は不生にして、かつ不滅である、と」命ぜられた。この仏のなされたことを、うっかり見過ごしてはならない。いったい、室を閉じての安居だからとて、どうしてひとことも物仰せのなかろうはずはない。たとえば、もし阿難だって、その時世尊にこう申しあげるとよかった、「一切の法は不生にして、かつ不滅であると仰せでございますが、それをどのようにすればよいのでございましょうか」と。そのように申しあげて、そこで世尊のおことばを拝聴すればよかったというところである。(140~141頁)

〈注解〉梵網経;鳩摩羅什訳、2巻。また菩薩戒経ともいう。大乗律部におさめられ、大乗菩薩戒の根本聖典として古来重んぜられている。(142頁)

■それなのに、けしからぬ連中は、大乗の見解をもつことこそ欠くべからざることで、夏安居(げあんご)などは小乗の徒のすることである、かならずしも行わなくってもよいなどという。そんなことをいう連中は、まだかって仏法を見たことも聞いたこともないのである。最高無上の智慧(岡野注;阿耨多羅三藐三菩提、無上等正覚)というのは、とりもなおさず九十日の夏安居のことである。たとい大乗と小乗にはそれぞれに至極となすところがあろうとも、それはこの九十日の安居の枝葉であり、あるいは花であり果であるにすぎないのである。(147頁)

■このことは、とおいとおい昔から、もっとも大事なことである。仏祖の重んじたたもうことは、ただこれのみである。外道・天魔も乱すこと能わぬは、ただこれのみである。印度・中国・日本のあいだ、仏祖の流れを汲むものにして、いまだ一人もこれを行わないものはない。外道はまだこのことを知らない。これはただ仏祖の一大事の本懐だからである。仏道をさとってより涅槃に入るまで、その説くところはただこの安居のこころにみである。印度には五部の律蔵があって、僧たちの奉ずるところも異なっていたが、それでもなお九十日の夏安居は、これを護持してかならず修したものである。中国でもその九宗の僧たちは、たれ一人として夏安居のさだめを破ったものはない。その生けるあいだに、もしも九十日の夏安居を修しなかったならば、仏弟子でもない、比丘僧ともいえない。ただいまだ仏位にいたらぬころの修行であるのみではなく、また仏位にいたってからも修すべきものである。だから、すでに大覚を成就なされた世尊は、一代のあいだ、一夏も欠くことなく修したもうた。それでも、仏位にいたってからも修すべきものだということが、よく判るではないか。

それなのに、九十日の夏安居は修しないけれども、なおわれは仏祖の児孫であろうなどというのは、笑うべきことである。いや、笑うにもたえざる愚かものである。そんなことをいう連中のことばを聞いてはならない。ともに語ってはならない。同座してもいけない、ひとつ道も歩まないがよろしい、仏法においては、梵壇(ぼんだん)という法があって、それで悪人を治すことになっているからである。(180~181頁)

〈注解〉梵壇;“brahuma-danda”のおんしゃである。また黙擯とも訳す。衆僧が黙してその人と話をしないこと。戒律の一つの治罰法である。(186頁)

■だからしてわたしはいうのである、安居をみるものは仏をみるものであり、安居を証するのは仏を証するのであり、安居を行ずることは仏を行ずることであり、あるいは、安居のことを聞くは仏を聞くことであり、あるいはまた、安居をならうは仏をならうことである、と。(182頁)

■世尊は、円覚(がく)菩薩および、もろもろの大衆や一切の衆生に告げて仰せられた。

「もし夏のはじめから三月の安居をいとなもうとするならば、まさに清浄(しょうじょう)なる菩薩として止住するがよい。心は人の声を離れ、人々に関せざるがよい。安居の日にいたったならば、すなわち仏前において、このように申しのべるがよい。――わたくし比丘もしくは比丘尼、もしくは優婆塞もしくは優婆夷なにがしは、菩薩の教えによって、無為寂静の行を修し、ともに清浄なる実相に入って住し、大いなる仏の悟りをもって、わが伽藍となして、身心ともに安居したいと思う。さすれば、仏の悟りは普遍なものであり、涅槃はわが本来具有するものにして、もはやなんの関わるところはございません。かくていまわたしはつつしんで乞い願いあげます。願わくは、われは他の人の声によることなく、らだ十方の如来および大菩薩とともに三月の安居をいたしたいものである、と。また願わくは、わたしは、菩薩として最高の悟りの因縁を修したいのであるから、もはや人々には関わりたくないのである、と。――善男子よ、これを名づけて菩薩の示現する安居とはいうのである」

だからして、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は、かならず安居三月(みつき)のいたるたびに、十方の如来および大菩薩とともに、最高の悟りの因縁を修するのである。そして、優婆塞・優婆夷もまた安居すべきものと知られるのである。(183~184頁)

■ある時、世尊は、あるところにおいて九十日の安居をなされた。すると、自恣(じし)の日すなわち安居の最後の日にいたって、急に文殊がやってきて、その集会に加わった。そこで、迦葉が文殊に問うていった。

「今夏はいずれのところで安居なされたのか」

文殊はいった。

「今夏は三つのところにおいて安居しました」

そこで迦葉は、衆をあつめ、槌を鳴らして、その事を告げ、文殊を擯斥しようとした。しかるに、彼がわずかにその槌をとりあげた途端に、たちまち数かぎりない寺々が現れて、そのいちいちの仏のまえに、どこにもここにも文殊があり、また迦葉がおって、槌をとりあげて文殊を擯斥しようとしておった。そこで、世尊は仰せられた。

「そなたは、いまいずれの文殊を擯斥しようというのか」

時に、迦葉はただ茫然たるのみであった。(184頁)

■ということで、つまるところは、世尊は一とところで安居なさり、文殊は三ところで安居であったけれども、いずれもけっして安居しなかったわけではないのである。もしもそれが安居でなかったならば、仏にあらず菩薩でもない。仏祖の児孫たるものに、安居しないものはない。安居するものは、仏祖の児孫だとしるがよい。安居するものは、仏祖の身心であり、仏祖の眼睛であり、仏祖の命根(みょうこん)である。安居しないものは、仏祖の児孫でもなく、仏祖でもないのである。いまわれらが安居すれば、泥や木でつくった仏・菩薩も、絹や金でできた仏・菩薩も、あるいは七宝の仏・菩薩も、みなわれらとともに安居三月の夏坐をなされるであろう。これがとりもなおさず仏・法・僧の三宝を住持する昔からの作法というものである、仏の訓(おし)えというものである。

すべて仏祖の家にあるものは、かならず安居三月の夏坐をつとめるがよいのである。(185~186頁)

他 心 通(たしんつう)

■西京の光宅寺の慧(え)忠国師は、越州の諸曁(しょき)の人である。姓を冉(せん)氏という。六祖慧能の心印を受けてよりのちは、南陽の白崖山党子谷(はくがいさんとうしこく)に入りて、住すること四十余年、山門を下らずという。その道の修行のことは帝都にも聞こえて、唐の粛宗の上元二年(761)、中使の孫朝進なるものに勅して、詔(みことのり)をもたせ、京師に来ることを促し、待つに師にたいする礼をもってして、勅して千福(ぷく)寺の西禅院におらしめた。また、代宗はみずから臨御(りんぎょ)におよんで、迎えて光宅寺におらしめ、そこに止まること十六年におよんで、機にしたがって法を説いた。

そのころ、西の方天竺より来れる大耳三蔵なるものがあり、京師にやってきて、他心通なる通力を得たということであった。そこで帝は、国師と会わせて彼を試さしめた。

三蔵は、ちらりと国師をみて、すみやかに礼拝して、その右のあたりに立った。そこで国師が問うていった。

「そなたは他心通を得たというが、そうであるか」

三蔵は答えた。

「いや、たいしたものではありません」

国師はいった。

「では、いってみるがよろしい。老僧はいまどこにいるであろうか」

三蔵はいった。

「和尚は一国の師であられるのに、おやまあ、西川(せいせん)においでで、競艇を見ておいでじゃ」

「では、いってみるがよろしい。老僧はいまどこにいるであろうか」

三蔵はいった。

「和尚は一国の師であられるのに、なんとまあ、天津橋(てんしんばし)のうえで、猿まわしを見ておいでじゃ」

師は三たび問うていった。

「では、いってみるがよろしい。老僧はいまいったい、どこにいるであろうか」

今度は、しばらく経っても、三蔵はどうしても答えることができなかった。そこで、師はいった。

「この野狐精(ぜい)めが。そなたの他心通はいったいどこへ行った」

それでも、三蔵はなんの答うるところまなかった。

ひとりの僧があって、趙州(じょうしゅう)に問うていった。

「大耳三蔵はどうして、三度目のときには国師の所在が判らなかったのでありましょうか。いったい、国師はどこにいたのでしょう」

趙州はいった。

「三蔵の鼻の孔のうえにいたのだよ」

ひとりの僧があって、玄沙に問うていった。

「あんまり近かったからだなあ」

またひとりの僧があって、仰山(きょうざん)に問うていった。

「大耳三蔵が、三度目にはどうしても国師のありかがわからなかったというのは、いったい、どうしてでありましょうか」

仰山はいった。

「はじめの二度は、あれはただ対象にかかわる心のうごきだったが、あとでは、自受用三昧にはいってしもうた。それでわからなかったのだなあ」

海会(え)寺の守端(しゅたん)はいった。

「国師がもし三蔵の鼻孔のうえにいたならば、なんの見えないことがあるものか。それは、きっと、国師が三蔵の眼睛(ぜい)のなかにいることをしらなかったのであろう」

また、玄沙は、三蔵をなじっていった。

「ではそなたは、さきの両度はほんとうに見たというのか」

また、雪竇山(せっちょうざん)の明覚重顕(みょうかくじゅうけん)禅師はいった。

「敗けじゃ、敗けじゃ」

この大証国師慧忠が大耳三蔵をためした物語は、ふるくからそれに対して所見をかたり、あるいはなんらかの言及をなした方々がすくなくないが、なかでもこの五人の御老師がよく知られている。だがしかし、この五人の長老たちは、それぞれ道理あることを語ってはおいでだけれども、なお国師のなされたことの真相を見抜いているとはいえない。何故かというと、それらの長老たちはみな、どうやら、はじめの両度は、三蔵はあやまたずに国師の所在を知りえたと思っていたらしい。それが、とりもなおさず、この先徳たちの大きな落度である。後進のものはそれを知らなければいけない。いまその五人の長老たちをおかしいと思う点をあげると二つある。その一つは、国師がその三蔵をためした本意を知らないことであり、二つには、国師の身心そのものを知らないことである。(194~197頁)

〈注解〉まず冒頭に、『景徳伝燈録』巻五、慧忠(けいちゅう)伝がしるすところの、大証国師こと南陽慧忠と大耳三蔵なるものとの他心通についての問答が引用せられ、かつ、その問答についての五人の先徳の評釈があげられる。その五人の先徳というのは、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)、玄沙師備、仰山慧寂(きょうざんえじゃく)、海会守端(かいえしゅたん)、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)と、みな錚々たる方々ばかりであるが、いま道元は、それらの先徳の批評にはすべて大きな欠点があるとして、以下その欠点を指摘し、その問答の正しい解釈を樹立しようとするのである。

野狐精;人を欺きたぶらかす者というほどの意。

自受用三昧;自受用とは他受用の対、自己の功徳をみずから受用して、その楽しみを味わうことをいい、そのような境地にひたりきっているのを自受用三昧というのである。(197~198頁)

■そういうことであったのに、先徳たちはみな、国師が三蔵を叱ったのは、さきの両度には国師の所在を知りえたが、三度目には、知りえなかった、見ることができなかったから、国師に叱られたのだと思っている。これは大きな誤りである。国師が三蔵を叱ったのは、そもそも三蔵がはじめからまるで仏法を知らなかったことを叱咤したのである。さきの二度は知っていたが、三度目には知りえなかったのを叱ったのではないのである。そもそも、他心通を得たと自称しながら、他人の心を知らないことを叱ったのである。

つまり、国師は先ず、仏法に他心通というものがあるかと問うて試験したのである。三蔵はそれに答えて、「いやたいしたものではございませんが」というたのは、あるといったものと受け取られる。だが、そこで国師が思ったことは、たとい仏法に他心通というものがあるというても、もし仏法に他心通というものがあれば、こんな具合であると、そのいうところにちゃんと論拠がなくては、それは仏法とはいえないということであった。だから、だから、三蔵がたとい第三度目にも、なんとかいったとしても、それがさきの二度のようであったならば、それはとても論拠のあることばではないのであって、やはり、すべて叱られるところであった。それをいま国師が、二度までもこころみに問うたのは、三蔵がもしかしたら国師の問うたところの意味を解することもあろうかと、たびたび重ねて三番までも問いをこころみたのである。(201~202頁)

■他心通は、西の方天竺の土地のならわしとして、これを修得する連中が時々ある。だが、それは、菩提心をおこしてというのでもなく、大乗の正しい考え方によるものでもない。また、他心通を得た人々が、その他心通のちからで、仏法を悟り究めたなどということも、いまだかって聞かないところである。他心通を修得してからだって、さらに普通の人のように発心して修行すれば、おのずから仏道に入り、仏道を悟ることもうるであろう。だが、もしも他心通のちからでもって仏道を知見することをうるのだったら、先聖(しょう)もみな、まず他心通を修得して、そのちからでもって仏の境地にもいたたであろう。しかし、そんなことは、おおくの仏祖たちの出世にも、いまだかってその例をみないところである。すでに仏祖の歩かれた跡も知られないというのでは、どうしようもないではないか。仏道には役に立たないとしなければなるまい。他心通を得たものも、他心通を得ない普通の人も、ただおなじことである。仏性を保持するということでは、他心通を得たものも普通の人も、まったくおなじことであろう。仏法をまなぶものは、けっして、外道や小乗のいう五通とか六通とかを、一般の人よりもすぐれているなどと思ってはいけない。ただ道心があって、仏法をまなぼうとするものこそ、五通や六通よりもすぐれているのである。それは、ちょうど、迦陵頻伽(かりょうびんか)すなわちヒマーラヤの郭公(かっこう)は、なお卵のなかにある時から、その声はもろもろの鳥にすぐれているようなものである。いわんや、いま西の方天竺において他心通というのは、むしろ、他念通といった方が適当であろう。念すなわち心作用のおこるについては、なんとか関するところもあろうが、いまだ心作用のおこらぬ以前の心そのものについては、まったく何事もしることはできない。笑うべきことである。ましていわんや、心はかならずしも念ではなく、念はまたかならずしも心ではないのである。その心がうごいて念とならんとする時、それはとても他心通の知りうるところではない。また、その念がおさまって心となるとき、それもとうてい他心通の知りうるところではないのである。

だからして、つまるところは、西の方天竺の五通とか六通とかいうものは、この国の農夫の仕事にさえもおよばないもの、まったく用のないものである。そのゆえに、中国から東では、先徳たちには誰も五通・六通をこのんで修するものはない。その必要がないからである。世間では、大いなる璧(たま)はなお必要であろう。だが、五通・六通は必要がないのである。仏教では、その大いなる璧もなお宝ではない。むしろ、寸陰こそ大事なものなのである。しかるに、その寸陰を重んずる人にして、なお五通・六通を修習するもの誰があろう。そもそも他心通のちからなど、とうてい仏智のそばにも及ばないものである。そこの道理をよくよくはっきりとしておくがよろしい。(205~206頁)

〈注解〉十聖・三賢;菩薩四十二位の四十一位を等覚という。正覚(がく)にひとしいとの意である。もはやそこまで到れば、やがて仏の位につくがゆえに補処という。

念起・未念;念起とは、つぎにいう「心の念ならんととき」すなわち、心がうごいて念とならんとする時である。未念とは、心のいまだ動いて念とならない時である。(207頁)

■だが、これまでの方々がいうところは、すべて国師の本意でもなく、また仏法の道理にかなったものでもない。あの長老のいうことも、この長老の説くところも、みんな間違っていたのであるから、可哀そうなことではある。いま、もし仏法のなかにも他心通がるというならば、またまさに他心通もあってもよく、多拳頭通もあってもよく、あるいは他眼睛(ぜい)通もあってもよいはずである。あるいはまた、そういうことであるならば、まさに自心通もあってもよく、自身通もあってもよいはずである。そして、もしそういうことであるとするならば、自分で自分の心をとりあげてみる、それこそまさしく自心通というものであろう。また、もしそういういい方が成立するならば、それがおのずから他心通というものであろう。

「では、それを他心通というのがよいか、それとも、それを自心通といったがよいか、さて、どうじゃ、どうじゃ」

それはしばらくさておいて、汝はわが髄を得たりといえば、これはまさしく他心通でござる。(220~221頁)

王 索 仙 陀 婆(おうさくせんだば)

■開 題

ー中略ー 仙陀婆とは、“saindhava” の音写なのであって、塩・器・水・馬の四つの意味をもったことばであるが、むかし大王が「仙陀婆」ともとめると、智慧のある臣は、それがなにを意味するかをすぐ知ることができたという。たとえば、王が手を洗いたいと思っている時には、即坐に水を奉(たてまつ)る。もし王が食事の時に仙陀婆といえば、すぐ塩を奉る。もしまた食事を終わって飲みものがほしいと思っている時には、すぐさま器をさしあげる。またもし王が出遊したいと思っているならば、ただちに馬を奉るといった具合であった。そのような智慧ある臣は、よく大王の蜜語を解するというものだと、そのように世尊は説かれたというのである。(224頁)

■有といい無というは、藤のごとく樹のごとくである。あるいは驢馬を飼い馬を飼うがごとく、あるいはまた水を透り雲を透るがごとくである。すでにそのようであるから、『大般(はつ)涅槃経(ぎょう)』のなかにおいて、世尊も仰せられたことがある。

「それは、たとえば、大王がもろもろの臣(おみ)たちに告げて『仙陀婆をもちきたれ』というがごとくである。仙陀婆とは、そのなは一つにして、その内容は四つである。一つには塩、二つには器、三つには水、四つには馬である。そのような四つの物が、ともにおなじく一つ名である。だが、智慧ある臣はよくその別を知ることができるのである。もし王が手を洗おうとする時、仙陀婆ををともとむれば、即座に水を奉る。もし王が食事の時に仙陀婆をもとむれば、すぐさま塩を奉る。もしまた王が食事が終わって飲みものをとろうとするときに、仙陀婆をといえば、すぐさま器を奉る。もしまた王が出遊しようとおもって仙陀婆をともとむれば、ただちに馬を奉るのである。そのように、よく智慧ある臣は、大王のことばの四つの隠れた意味を知りわけるのである」

この王が仙陀婆をもとめ、臣が仙陀婆と奉るという話は、すでに伝えきたること久しく、かの法服(ぶく)とともにふるいのである。世尊もすでにこのようにそれをとり挙げて語っているのであるから、その流れを汲んでおなじ修行をしてきたものは、つまりはこの仙陀婆を範として履(ふ)みおこなってきたのである。もしも世尊とおなじ修行ではないというならば、さらに草鞋を買って行脚し、もう一歩を進めてはじめてその境地を得るであろう。そして、この仏祖の家における仙陀婆は、いつのまにか漏れ聞こえて、大王の家にもまた仙陀婆のことがあることとなったのである。(226~227頁)

〈注解〉蜜語;秘せられたる意味のあることば。(228頁)

■先師なる如淨古仏は、上堂なさったとき、いつも宏智(わんし)古仏と仰せられていた。だがしかし、この宏智古仏を古仏として相見(あいまみ)ええたものは、ただひとり先師なる如浄古仏のみであった。その宏智のころ、径山(きんざん)に大慧禅師宗杲(そうごう)というものがあった。南嶽の流れを汲むものであるという。しかるに、大宋国の人々は、たいてい、その大慧を宏智にひとしいであろうと思っている。いやいや、そのうえ、宏智よりもすぐれた人物だと思っているものすらある。こういう誤りも、もとをただせば、大宋国の出家も在家も、ともにまなぶこと疎(うと)くして、いまだ仏法をみる眼もさだかでなく、また人を知る明眼もひらかれていず、己を知る力も具わっていないからなのである。(230頁)

〈注解〉宏智古仏;宏智正覚(わんししょうがく、1157寂、寿67)。丹霞子淳の法嗣(ほっす)。かって天童山景徳寺に住持としてあり、如浄古仏に「宏智古仏に相見」との語がある。

趙州;趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん、897寂、寿120)。南泉普願の法嗣。真際大師と諡(おくりな)せらる。

雪竇;雪竇重顕(1052寂、寿73)。智門光祚(ちもんこうそ)の法嗣、雪竇山資聖寺に住し、明覚禅師の号を与えられた。

老倶胝;唐代に倶胝和尚なるものがあり、人の問うものあれば、つねに一指をたてて答えとしたという。

大慧禅師宗杲;大慧宗杲(だいえそうごう、1163寂、寿75)。圜悟克勤(えんごこくごん)の法嗣。径山(きんざん)に住した。(231頁)

■それなのに、いま大宋国の諸山にあって長老と称する連中は、仙陀婆などということはまるで夢にもまだ見たことがないらしい。困ったものである。仏祖の道のおとろえというものである。ここは身を苦しめてまなばねばならぬところであり、なにとぞして仏祖の命脈を絶やさぬようにしなければなるまい。たとえば、「いかんがこれ仏」と問えば、「すなわち心これ仏」というが、その意味はどうであるか。これもまた仙陀婆のほかではあるまい。では、「すなわち心これ仏」というのは、いったい誰のことだと、よくよく考えてみるがよろしい。すると、そこには仙陀婆と仙陀婆とが、額(ひたい)を鉢合わせしているのだが、それを知るものは誰であろうか。(238頁)

八 大 人 覚(はちだいにんがく)

■開 題

この一巻の制作されたのは、建長五年(1253)正月六日であった。奥書の記すところである。と申せば、なんでもないことのようであるが、道元その人はその年の八月二十八日、京都においてなくなられたのであって、この巻はまた、はからずも、道元の生涯における最後の制作となった。やがて、この一巻をつつしんで書写せしめた懐奘は、その巻末に、さらにつぎのように記しとどめている。いささか長文であるが、まずそれを現代語訳して、御覧に供したい。

「ただいま建長七年乙卯七月十五日、夏安居の制を解く前日にあたり、義演書記をしてこれを書写せしめ終わり、さらにこれを校正したところである。この一本は、先師の最後の御病中の制作であった。

仰いで惟(おも)んみれば、先師は、さきに御撰述の仮名がき『正法眼蔵』などはみな書き改め、さらにそれに新稿をも加えて、すべてで一百巻の撰述をと仰せであられた。そして、すでに書きはじめられて、この巻はちょうどその第十二巻目にあたっていた。しかるに、そののち御病気はだんだん重くなられて、ために新稿を草されることもできなくなり、かくてこの御制作が先師の最後の御教えとなった。

かくて、わたくしどもは不幸にして、かの一百巻の御制作を拝見することができなくなってしまった。それはわたしどものもっとも遺憾ととするところである。だが、もしかの先師をお慕い申すならば、せめて、かならずこの巻を書写して、これを護持されるがよろしい。けだし、この巻は、釈尊の最後の御教えであるとともに、また、先師の最後の遺教(ゆいきょう)でもあるからである。

懐奘これを記す」

それは、さすがに道元門下の第一人者たる懐奘が、心をこめ、涙をためて記した後記だけあって、まさしく人の心をゆりうごかすに足るものを蔵しているとともに、また、まったく至り尽せるものであって、もはやわたくしには、なんの冗舌を加うる余地もないように思われる。

だが、わたくしには、ただ一つだけ、いささか他を顧みながら、申しておきたいと思う。それは、この巻の大部分をしめる経典からの引用文のことである。

それは、一読すでにそれと気がついていられる人もすくなくあるまいが、全分かの『仏垂般(ぶっしはつ)涅槃略説教 誡経(かいきょう)』すなわち、一般にいうところの『仏遺教 経(ぶつゆいきょうぎょう)』からの引用である。その『仏遺教』とは、その経名の示すがごとく、仏の遺された教誡をしるした経である。すでに沙羅双樹のもとに臥して入滅をとりたまわんとする釈尊が、その弟子たちを顧みて、わが滅度ののちには、よく戒律をまもり、五根を制し、放免に流れずして、八大人覚(がく)を修するがよいと教えるのである。

しかるところ、いま道元は、その教誡の中心たる八大人覚のすすめの部分の全分をここに引用して、「如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる」がよく、「これを修習せず、しらざらんは、仏弟子にあらず」と、ひたすらその修習をすすめているのである。ひそかにその心事を推測すれば、そのころすでにこの師には、わが終わりのもはや遠からざるを御覚悟あられてのうえのこの「病中の御草」であったのであろうか。痛ましきかぎりではある。(260~262頁)

■一つには少欲である。いまだ得ざる五欲の対象についても、なおひろく追い求めないのを、名づけて少欲というのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに知るがよい。多欲の人は、利を求めることが多いゆえに、苦悩もまたおのずから多い。それに反して、少欲の人は、求めることがなく、欲がないから、おのずからその患(うれ)えがない。されば、ただ少欲ということだけでも習い修むるに足るのであるが、ましていわんや、少欲はまたよくもろもろの功徳を生ずるにおいておやである。たとえば、少欲の人は、またおのずからにして、人にこび諂(へつら)ってその意をむかえようとすることがなく、また、いろいろの対象にその心を奪われることもない。あるいはまた、よく少欲を行ずる者は、心おのずからに平らかにして、憂え恐るるところがなく、事に触れていつも余裕があり、けっして足らざることがない。詮ずるところ、少欲をうちに蔵すれば、おのずからにして平和な心境がある。これを名づけて少欲というのである」(263~264頁)

■二つには知足である。すでに得たるもののなかにおいてすら、それを受容するには限度をもってする。これを称して知足というのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに知るがよい。もしもろもろの苦悩を脱しようと思うならば、まさに知足を観ずるがよろしい。けだし、知足ということは、まさしく楽しみゆたかにして心やすらけきところなのである。すなわち、足るを知れる人は、たとい地上に臥(ふ)すといえども、なお安楽でである。それに反して、足るを知らざる者は、たとい天界の殿堂にありといえども、なお心満ることをえないであろう。あるいは、足るを知らざる者は、たとい富めりといえども、しかも貧しい。それに反して、足るを知る人は、たとい貧しくとも、しかも富んでいるのである。あるいはまた、足るを知らざる者は、いつもさまざまの欲望のために振りまわされていて、ひそかに知足の者のために憐憫せられるのである。これを名づけて知足というのである」(265~266頁)

■三つには寂静を楽しむことである。もろもろの騒々しさを離れて、ひとり空閑処(くうげんじょ)に居する。これを寂静を楽しむと称する。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、寂静にして自然なる安楽を得たいと思うならば、まさに雑踏をはなれて、ひとり閑(しず)かに居するがよい。静処にある人は、帝(たい)釈その他もろもろの天神も、また敬重するであろう。されば、まさに、自己につながる人々をも、つながらぬ人々をも捨てて、ひとり空閑処に居して、苦の根本を無くすることを思うがよろしい。もし衆とちもにあることを楽しむならば、またおのずからにして、もろもろの苦悩をも受けねばならぬであろう。たとえば、大樹にもろもろの鳥があつまれば、おのずからまた枯れたり折れたりの煩(わずら)いがあるようなものである。世間のことに縛られては、もろもろの苦しみに没するばかりである。たとえば、老いたる象が泥中に溺れて、みずから脱出すること能わざるがごとくである。これを名づけて遠離(おんり)という」(266~267頁)

〈注解〉空閑;空閑処(くうげんじょ)である。もと“aranya”を音写して阿蘭如となし、それを意訳して空閑処としたのである。聚落を去ること三百乃至六百歩、閑静にして比丘たちの修行に適した場所をいうとの定めがある。一本に空間とあるは、空閑でなくてはならないであろう。

己衆・他衆;自己につながる人々と、そうではない人々というほどの意であろう。

遠離;衆を遠ざかること。それがすなわち楽寂静にほかならない。(267頁)

■四つには精進を勤めることである。もろもろの善きことにおいて、勤め修めて絶ゆることなし。故に精進というのである。精にしてまじり気がなく、進んで退くことがないのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もしよく精進を勤むれば、事おのずからにして難きことはないであろう。だから、なんじらはまさに精進を勤めるがよい。たとえば、少しばかりの水であってもつねに流るれば、ついによく石を穿(うが)つであろう。それに反して、もし行者の心が、しばしば怠りすさむようでは、たとえば、火を鑚(き)ろうとするのに、まだ熱してこないのに止(や)めるようなものである。それでは、火を得たいと思っても、とても火を得ることはできないであろう。これを名づけて精進というのである」(268~269頁)

■五つには不忘念、すなわち常に思念して忘れざることである。それはまた正念を守るともいう。よく教法を守って失われないのである。これを名づけて正念といい、また不忘念というのである。仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、善知識を求め、善き助けを求めようとするであろうが、それには不忘念にまさるものはないであろう。もしよく不忘念を抱くならば、もろもろの煩悩の賊も、ついに入ることを得ないであろう。だから、なんじらはつねに、よく念をおさめて心におくがよろしい。もしその念を失するようなことがあれば、たちまち、もろもろの功徳もまた失われるであろう。それに反して、もし念の力がつよくかつ堅固であれば、五欲の賊たちのなかに入れば、おのずから恐るるところがないようなものである。これを名づけて不忘念というのである」(269~270頁)

■六つには禅定を修することである。法に住して乱れない。これを名づけて禅定というのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もし心を内に摂(おさ)むれば、心はおのずから定(じょう)にあるであろう。心が定(じょう)にあるがゆえに、よくこの世間の生滅する存在のありようを知ることができる。だからなんじらは、つねにまさに精進して、もろもろの定を修め習うがよい。もし定を得ることができれば、心はおのずからにして散乱せず。そのさまは、たとえば、よく葺(ふ)かれた家のごとく、あるいは、よく築かれた堤防のごとくであろう。そして、この道を行ずる者もまたおなじである。智慧の水のために、よく禅定を修めて、漏らさないようにするのがよいのである。これを名づけて定となすのである」(271頁)

〈注解〉摂心;「心をおさむる」と読む。心を散乱せしめざることである。

;ここでは、この定を訳すわけにはゆかない。それを説明しているのだからである。しいていえば、心を一境に専注して、散動せしめざることである。(271~272頁)

■七つには智慧を修することである。聞(もん)・思・修(しゅ)ならびに証を起す。これを智慧というのである。

私は仰せられた。

「なんじら比丘は、もし智慧あれば、おのずから貪り執著(じゃく)することがないであろう。だから、つねにみずから省察して、智慧を失わないようにするがよい。さすれば、おのずから、わが教えのなかにおいて、解脱を得るであろう。もしそうでなかったならば、その人はすでにこの道の人ではない。とともに、またただの俗人でもなく、いったい、なんといったらよいであろうか。まことに智慧は、とりもなおさず、この老・病・死の海を渡る堅牢なる船である。あるいは、無智黒闇の夜における大いなる燈明である。あるいはまた、すべての病める者の良薬であり、煩悩の樹を伐る利(と)き斧(おの)といっていってもよい。されば、なんじらは、よく聞(もん)・思・修(しゅ)の智慧をもって、みずから利益(やく)するがよろしい。もし人、よく智慧のかがやきあらば、たといその眼は肉眼であっても、しかもなお明眼の人ということをうるであろう。これを名づけて智慧というのである」

〈注解〉聞・思・修・証;また聞思修慧ともいう。教法を聴聞して得る智慧があり、これを思量して得る智慧があり、また、それを実践し修行して得る智慧がある。よって、聞・思・修ということばがあり、あるいは、聞思修慧ということばがあるが、さらにここでは慧を証に代えて、聞思修証といっておる。証は、いうまでもなく、悟りをひらくことである。(272~273頁)

■八つには不戯論ということである。悟りをひらいて、分別を離れる。これを不戯論と名づける。一切のあるがままの姿を究めつくす。それがとりもなおさず不戯論なのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もしいろいろとたわむれの論議にふけるならば、その心おのずからにして乱るるであろう。また出家したからとて、なお解脱を得ることはでまい。だから、比丘たるものは、まさにいそいで、心を乱してたわむれの論議にふけることを離れるがよい。もしなんじが空々寂々のたのしみを得たいと思うならば、ただまさに、たわむれの論議のわざわいをなくするがよい。これを名づけて不戯論というのである」(274頁)

■これが八つの大人覚(だいにんがく)である。その一つ一つがまたそれぞれ八つを具えているので、とりもなおさず六十四である。さらにそれを拡げていえば、数かぎりないこととなるが、それを略すれば六十四ということとなる。

それは、大師なる釈尊の最後にお説きになったことで、大乗の所説の至極である。二月十五日の夜半の最後のことばであって、これよりのちには、もはやなんの説法もあらせられず、ついに大いなる死をとりたもうたのである。

私は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに一心に勤めて、出離の道を求めるがよい。一切の世間は、動くものも動かざるものも、みな壊れゆくもの、安きことなきものである。では、なんじらしばらく沈黙せよ、物をいってはならない。時まさに至らんとしておる。わたしは逝(ゆ)くであろう。これがわたしの最後の教えである」

この故をもって、如来の弟子たるものは、かならずこれを習学したてまつる。これをまなばず、これを知らなかったならば、それは仏弟子ではない。これこそ如来の正法眼蔵であり、涅槃妙心である。(276~277頁)

三 時 業(さんじごう)

■〈注解〉旃陀羅;印度の種姓の一で、その最下の階級。だが、ここではただ賤しいという意味に訳しておいた。

■このようなのを、悪業の順現報受すなわち現報によりて受くるものと名づける。いったい、恩を受けては、それに報いんことをこころざさねばならない。他に恩をほどこしては、報(むくい)をもとめてはならない。いまのような、恩ある人に逆(さか)しまに害を加えようとするような悪業は、かならずその報を受けねばならない。だから、人はけっしていまの樵人のような心をおこしてはならない。彼は、林の外にでて別れを告げる時には、どうしてこの恩に報いたらよいかといっていたのに、山の麓(ふもと)で猟師たちに逢うた時には、もう三分の二の肉をよこせなどと貪っていた。つまり、貪欲にひかれて、大恩あるものを害したのである。在家も出家も、けっしてこのような恩しらずの心をおこしてはならない。悪業の力のはたらくところ、両手を断つこと、刀剣をもってきるよりも速やかであった。(293頁)

■第二に、順次生受の業とは、いわく、もし業がこの生においていとなみ、それが生長して、つぎの第二生においていろいろの果を受ける。これを順次生受の業と名づけるのである。

つまり、もし人があって、この生において五つの無間業(むげんごう)をつくったならば、かならず順次生には地獄におちるのである。順次生とはこの生のつぎの生である。その生の罪は、順次生に地獄におちる場合もあり、また、順後次受すなわち後の次生に受けるということであれば、順次生には地獄におちず、順次業となることもある。だがしかし、この五つの無間(げん)業は、かならず順次生受業として地獄におちるのである。順次生は、また第二生ともいう。

その五つの無間業というのは、

一、父を殺すこと。

二、母を殺すこと。

三、阿羅漢を殺すこと。

四、仏身より血をいだすこと。

五、仏教僧伽(ぎゃ)を破ること。

これを五無間業と名づける。また五逆罪ともいう。そのはじめの三つは殺生(せっしょう)である。第四は殺生の手段である。なるほど如来は人に殺されるようなことはないので、ただその身の血をいだすのを逆罪とするのである。天寿を全うせず中途にして死することのないものは、もはや他の生を受けることのない菩薩と、兜率天(とそつてん)にある一生補処の菩薩と、北洲の人と、樹提伽(じゅだいか)長者と、仏医耆婆(ざば)であるという。第五仏教僧伽を破ることは、虚誑語(こおうご)すなわちでたらめの虚言をつくることである。

この五逆罪をつくるものは、かならず次の生において地獄におちるのである。たとえば提婆達多(だいばだった)は、この五つの無間業の三つをつくった。その第一には、彼は蓮華色比丘尼を打ち殺したが、この比丘尼は大阿羅漢であった。だからこのことは阿羅漢を殺すことにあたるのである。

第二には、彼は大いなる岩をなげて、世尊をうち殺そうとした。だが、その岩はその時山の神のさえぎるところとなって砕けた。その破片がとんで、世尊の足の指にあたった。そのために、世尊の足指がやぶれて血がほとばしり出た。これは仏身より血をいだすことにあたるのである。

また、彼は、初学にしてなお愚かなる比丘たち五百人をかたろうて、伽耶山(がやさん)の頂にいって、別の僧団をつくった。これは仏教僧伽を破ることにあたるのである。この三つの逆罪によって、彼は無間地獄におちた。そして、いまもなお間断なき苦しみを受けている。なお、四仏にそれぞれ提婆達多がるというが、それらの提婆達多もまた無間地獄にあるという。

また、倶伽離比丘(くかりびく)は、この生において、舎利弗(ほつ)と目犍連(もっけんれん)をけなした。それは無根のいつわりを語るもので、婆羅夷罪をおかすものだと、世尊みずから誡められ、また梵天王(のう)がきたって制したけれども、どうしても止めなかった。そして、かの二人の尊者を謗じたことによって、地獄におちた。

また、四禅比丘なるものは、命終の時に臨んで仏を謗じたことによって、無間地獄におちた。このようなのをすべて順次生受業というのである。(296~298頁)

〈注解〉無間業;五逆罪の異称。この業をいとなむものは必ず無間地獄の果を受けるからである。無間地獄とは、また阿鼻地獄といい、そこでは苦を受けること間断なきをもって無間というのである。

中夭;寿を全うせずして、中途にして死すること。

樹提伽;舎衞城の長者。仏弟子。母胎にあるころ、死せる母とともに火中に投ぜられたが、なお生きて出生したという。

仏医;釈尊のころの名医“Jivaka”(耆婆、ぎば)のことであろう。

倶伽離;“Kokalika”の音写で、また瞿伽離とも写す。提婆達多の弟子であって、また仏の化導を妨げた。

四禅比丘;四禅定を得て、それですでに仏果を得たのだとうぬぼれていた比丘である。くわしくは「四禅比丘」の巻を参照されたい。

■むかし、舎衞城(しゃえいじょう)にふたりの人があった。その一人はつねに善を修していたが、もう一人はいつも悪ばかりを作っていった。また、その善行の人は、その一身のなかにおいても、つねに善行を修して、いまだかって悪をいとなんだことはなかった。それに反して、その悪行の人は、その一身のなかにおいても、つねに悪行をいとなんで、いまだかって善を修したこともなかった。しかるに、その善行を修するものは、命終の時にのぞんで、順後次受の悪行のせいのゆえに、たちまちにして地獄における中有(ちゅうう)のすがたが目のまえに現出した。そこで彼はこう思ったのである。――わたしはこの生涯のうち、つねに善行を修して、いまだかつて悪をいとなんだことはない。まさに天国に生まれるべきである。それなのに、いったい、いかなる理由があってこの地獄の中有が目のまえに現れてきたのであろうか――と。だが、彼はそこでまたこう考えてみた、――これはきっと、わたしにもまた順後次受の業があって、それがいま熟してきて、この地獄の中有となって現出したのであろう――と。そこで彼は、また、自分がこの一身を得てから以後ずっと修してきた善業をじっと思いうかべて、深いよろこびにひたった。すると、そのすぐれた善き思いが現れてきたことによって、その地獄の中有のすがたは、たちまちにして消え失せてしまい、それに代わって、天国における中有すがたが、忽然として目のまえに現れてきた。それによって、まもなく命終わるとともに、天上に生まれることをえた。

このつねに善行を修めてきたひとは、順後次受の果をどうしても受けねばならぬ理由が、ちゃんとわが身にあったのだと思ったのみならず、さらにすすんで、だがこの生涯における修善の果も、またきっと後生に受けるはずだと思った。彼がふかい歓びにひたったというのは、それによるのである。しかも、その思いうかべたことは、まさに真実であったからして、たちまち地獄の中有は消え失せて、天国における中有が目のまえに出現し、命終ののちには天上に生まれたのである。だが、もしこの人が悪人であったなら、命終の時にのぞんで地獄の中有が目のまえに出現したならば、その人はきっと思うであろう。――わたしが一生に修めた善は、なんの功徳もない。もし善悪の果というものがあるならば、どうしてこのわたしが地獄の中有をみる道理があろうか――と。そういって、彼は因果を否定し、仏法僧の三宝をけなすであろう。もしそういうことになれば、当然彼は命終わって地獄におちるであろう。人は、そういうことにならない時、はじめて天上に生まれることができるのである。そこの道理を、はっきりと知るがよいのである。(303~305頁)

■しかるに、つねに悪行をいとなんできた者は、命終の時にのぞんで、順後次受の善業の力によって、たちまちにして天国における中有のすがたが目のまえに現れてきた。そこで彼はこう思ったのである。――わたしはこの生涯のうち、つねに悪行をいとなんで、いまだかつて善を修したことはない。まさに地獄に生まれるべきである。それなのに、いったい、いかなる理由があってこの天国の天国の中有が現れてきたのであろうか――と。そこで彼は、また邪(よこし)のまの考えをおこして、善悪とか、いろいろの果報とかを否定してしまう。だが、その邪見のせいで、その天国の中有のすがたはやがて消え失せてしまい、代わって、地獄の中有のすがたが忽然として目のまえに現れてきた。それによって、まもなく命終わるとともに、地獄に生まれたという。

この人は、生きているあいだは、つねに悪をいとなんで、さらに一つの善をも修しなかったが、それのみならず、彼は命終の時にのぞんで、天国における中有のすがたが眼前に現れたのをみても、それが順後次受の果であることを知らないでいった。――わたしは一生のあいだ悪ばかりをいとなんできたのに、それでも天国に生まれようとしている。これでも、善悪の因果などというものは、けっしてないことが判るではないか――と。そのような善悪の因果を否定するような邪見のせいで、その天国の中有のすがたはやがて消え失せ、代わって地獄の中有のすがたが忽然として現れ、まもなく命終わるとともに、地獄におちたという。これは邪(よこし)まの考えのために、天国の中有がかくれてしまったのである。だからして、修行者たるものはけっして邪見をいだいてはならない。だからまた、どういうのが邪見であるか、どういうのが正見であるか、それがはっきりするまでまなびおさめるがよいのである。(305~306頁)

■まず、因果を否定し、仏法僧をけなし、あるいは、三世とか解脱とかいうことを否定する。それらはみな邪見である。まさに知るがよい、今生のわが身に、ふたつはない。いたずらに邪見におちて、むなしく悪業の果を身に受けるなど、惜しいことではないか、みずから悪をいとなみながら、あるいはそれを悪にあらずと思い、あるいは悪の報(むく)いなどあるものかと邪まの考えをおこす。だからといって、やっぱり悪の報いをその身に受けないわけにはゆかないのである。(306頁)

〈注解〉室羅筏(しらば)国;“Sravasti”の音写である。舎衞城のことであって、憍薩羅(こうさら)国の都城である。

中有;前の世において死したのち、なおまだ次の生を受けるにいたらない間をいう。また中陰ともいう。

撥無;撥はのぞく。因果を撥無といえば、因果を否定することにほかならない。(306頁)

■世尊は偈(げ)をもって仰せられた。

「たとい百劫を経(ふ)るとも

作(な)すところの業は亡ぶることなし

たまたま因縁に遇うのときには

その報いはおのずからにして来る」

世尊はまた仰せられた。

「なんじらはまさに知るがよい。純然たる悪業には純然たる悪報があり、純然たる善業には純然たる善報がある。またもし善悪わかちがたい雑業には、善悪わかちがたい果報がある。だからして、まさに純然たる悪業および善悪わかちがたい雑業をはなれて、つとめてじゅんぜんたる善業をのみ修めまなぶがよろしい」

その時、もろもろの大衆は、仏の説くところを聞き終わって、よろこんで信じ受けたという。(311頁)

〈注解〉業障;悪業のさわり、悪業をつくって正直を障(そこな)うこと。「ごっしょう」と読みならわす。

本来空;すべての現象はみな仮りの存在(仮有という)であって、本来は本当の存在(実有という)ではないというのである。

二祖大師;中国第二祖の神光慧可(593寂、寿107)。その最後は処刑されて寂した。(306頁)

四 馬(しめ)

■開 題

この一巻は、その奥書には、ただ「建長七年(1255)夏安居日、以御草案書写之畢。懐弉」とみえるのみであって制作の日もさだかでなく、また、示衆のことも知られていない。そもそも、道元がなくなったのが、建長五年(1253)秋八月二十八日のことであったから、その筆写のことも、すでに入寂されてから二年目の夏安居のことなのである。

いったい、この『正法眼蔵』の巻々の筆写のことは、おおむね懐弉の役割のようになっていたようであるが、かの『建撕(ぜい)記』のいうところによれば、その懐弉は、宝治元年(1247)のころから、しばらく永平寺をはなれて、豊後国大分郡に下向していた。大龍山永慶寺の創建のためであったという。その間には、むろん、その筆写のこともとだえていた。

だが、道元は、建長四年(1252)の夏のころから病を得られた。それを知るに及んで、懐弉はいそぎ永平寺に帰ってきた。さきの「三時業」の巻の奥書に、「建長五年(1253)癸(みずのと)丑三月九日、在於永平寺之首座寮書写之。懐弉」とあるのは、そのころ、彼がすでにふたたび永平寺に帰っていたことの証である。

しかるに、彼は、建長五年七月十四日、開山御在世のままで、永平寺の第二代住持職を仰せつかった。また、その年の八月二十八日には、師道元の入滅のことに遇うにいたった。いずれも、懐弉にとっては生涯の大事であった。その前後は、書写のこともしばしば遠ざかっていたが、建長七年の夏案居のころにいたって、また書写のしごとをはじめた。この「四馬(しめ)」の巻もまた、そのころの書写の一つである。

この「四馬」の巻そのものについては、いうべきことは極めてすくない。ごく短小な一巻であって、かってその内容も簡明であるからである。

まず、ある日の仏のことが語られて、それによって、仏の教化が馬の調御(じょうご)に比して説かれる。

そして、それらの結びとして、仏をまた調御丈夫(じょうごじょうぶ)と称することを語って、この巻を終わるのである。調御丈夫とは、人のよく知るとおり、いわゆる仏十号の一つである。(314~315頁)

■ある日のこと、一人の外道が世尊のところに参上して、世尊に問うた。なんぞことばをもっての教えを乞うたわけでもなく、また、ただの無言を問うたわけでもなかった。世尊はその座にあってやや久しゅうした。すると、その外道は世尊を礼拝して、讃歎(さんだん)していった。

「善いかな世尊、世尊はまことに大慈大悲にましまして、わたしの迷雲をはらい、わたしをして得るところあらしめたもうた」

そういって、彼は礼をなして去った。

外道が去ってから、やがて阿難は、世尊に問うていった。

「いったい、かの外道は、なんの得るところがあって、わたしは得るところがありましたと、世尊をほめたたえて去ったのでありましょうか」

「世間でいう良馬というものは、鞭の影を見ただけで走るというが、そんなものであろう」

祖師達磨が印度から来られてからこのかた今日にいたるまで、もろもろの善知識は、よくこの物語をあげて、参学する人々に物語ったものである。すると、そのなかには、ながい年月の間には、時々眼をひらかれて、仏教に信じ入るようなものもあった。これを「外道問仏」の話というのである。それによっても判るように、世尊には聖黙(しょうもく)と聖説(しょうせつ)という二種の方法がおありだった。それによって悟るというのは、みな世間でいう良馬は鞭の影を見て走るというものである。いや、聖黙や聖説ならぬ方法によって悟るのも、またそのようなものである。(317頁)

■また、龍樹祖師はいった。

「人のために一句を説くは、良馬が鞭の影を見て、たちまち正しい路に入るようなものである」

あるいは生滅の教えを聞き、あるいは不生不滅の教えを聞き、またあるいは三乗の教えを聞き、あるいは一乗の教えを聞くなど、いろいろの機会にめぐりあうことは、しばしば邪(よこし)まの路に入ろうとするけれども、しきりに鞭の影が見えるようなものであって、そのおかげで正しい路に入ることができるのである。殊(こと)に、よき師にしたがうことをえたり、よき人に遇うことができたというようなことは、それはもう、すべて一句を説くことをあらざるはなく、いつでも鞭影を見ることにほかならないのである。そして、その場ですぐ鞭の影を見るものも、また、ながいながい時を経てから鞭の影を見るものも、すべてかならず正しい路に入ることができるのである。(318頁)

〈注解〉聖黙・聖説(しょうもく・しょうせつ);仏陀の教化の方法として、古来から、聖なる沈黙と聖なる説法があると称されている。それが丁度いまの有言と無言とに相応するのである。

三乗・一乗の法;あるいは三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の教えを語り、あるいは一乗の教えを説くというところであろう。(319頁)

■『雑阿含経』にいう。

仏は比丘たちに告げていった。

「馬には四種の馬がある。一つには、鞭の影を見ただけで、たちまち驚きおそれて、御者の意にしたがう。二つには、鞭が毛に触るれば、たちまち驚きおそれて、御者の意にしたがう。三つには、鞭が肉に触れて、それではじめて驚く。四つには、鞭が骨に徹して、それでやっと悟る。

はじめの馬は、たとえば、他の村の不幸を聞いて、たちまちよく厭離(えんり)の念を生ずるようなものである。つぎの馬は、自分の村の不幸を聞いて、たちまちよく厭離の念を生ずるようなものである。三番目の馬は、自分の親の不幸にあって、たちまちよくこの世を厭(いと)う心を生ずるようなものである。第四番目の馬は、ちょうど、自己の身の病苦によって、やっとこの世を厭う心を生ずるようなものである」

これを阿含の四馬という。仏法をまなぶ時には、かならずまなぶところである。祖師というものは、真の善知識として世の人々のなかに出現した仏の使いなのであるから、かならずこれをまなび来って、学人のために伝授するのである。これを知らないようなのは、人々の善知識ではない。学人がもしよく善根を植えた人であって、仏道に近いものは、かならずこれを聞くことをうるはずである。だが、仏道に縁のとおいものは、聞くこともなく、したがってしらないであろう。

だからして、師匠たるものは、いそいでこれを説こうと思うがよく、弟子たるものは、いそいでこれを聞かんことを願うがよい。ちなみに、いま、世を厭う心を生ずるというのは、「仏はおなじことばでもって法を説かれるけれども、衆生はそれぞれその類にしたがってそれを理解する。たとえば、あるものは恐怖のの心をおこし、あるものは歓喜の心を生じ、あるものは厭離の念をおこし、あるものは疑惑の念を生ずる」というがごとくである。(321~322頁)

■また『大般(だいはつ)涅槃経(ぎょう)』にいう。

仏は仰せられた。

「また、つぎに、善男子よ、馬を調御(じょうご)する者には、おおよそ四種の仕方がある。一つには、毛に触れることである。二つには、皮に触れることである。三つには、肉に触れることである。四つには、骨に触れることである。それぞれその触るるところにしたがって、御する者の意にしたがわしめるのである。そして、いま如来もまた然るのである。すなわち、四種の方法をもって、よく衆生を調御(じょうご)するのである。一つには、如来が衆生のために生を説きたもうと、衆生はたちまち仏の仰せを受領する。それはあたかも、その毛に触れて御する者の意にしたがわしめるようなものである。二つには、如来が生を説き老を説きたもうと、衆生はたちまち仏の仰せを受領する。それはあたかも、その毛や皮に触れられて、はじめて御する者の意にしたがうようなものである。三つには、如来が生および老病を説きたもうと、衆生はそれで仏の仰せを受領する。それはあたかも、その毛や皮や肉に触れられて、はじめて御する者の意にしたがうようなものである。そして、四つには、如来が生ならびに老病死を説かれるにおよんで、衆生はやっとそれで仏語をの頂載(だい)する。それはちょうど、その毛や皮や肉や骨にまで触れられて、あおれではじめて御する者の意にしたがうようなものである。だから、善男子よ、馬を御する者の馬を調御するにも、なにも定まった仕方があるわけではない。如来なる世尊が衆生を調御されるのにも、きまった仕方はないけれども、なおかならず調御(じょうご)なさるのである。その故をもって、仏をまた調御丈夫(じょうごじょうぶ)とは申しあげるのである」

これを『涅槃経(ぎょう)』の四馬という。学人はかならずこれを習うのであり、もろもろの仏はかならずこれを説かれるのである。だから、学人は、これを仏にしたがって聞くのである。仏にまみえたてまつり、仏を供養したてまつるたびごとに聴聞するのであり、仏は仏法を伝授するたびごとに、衆生のためにこれを説いて、いつの世にも怠りたもうことがないのである。たとい学人がすでに仏の位にいたっても、なおはじめての初発心の時のように、菩薩であろうと、声聞であろうと、誰であろうと、どんな集会(しゅうえ)であろうと、これを説いてやまないのである。だからして、仏・法・僧の三宝の種子はいつの世にも絶えることがないのである。(322~323頁)

〈注解〉調御丈夫;仏十号の一である。一切の丈夫を調御(じょうご)して仏道に入らしめるからである。(324頁)

■こういうことであるからして、もろもろの仏の説くところと菩薩の説くところでは、はるかに異なっている。いまも見るように、馬を調御する者の方法にも、おおよそ四通りある。毛に触れることと、皮に触れることと、肉に触れることと、骨に触れることがそれである。それだけでは、いったいなにを触れるのか、はっきりしないようであるが、法を伝える方々の考え方では、たいてい、それは鞭であろうと解している。だがしかし、馬を調御するには、かならずしもそうとは限らない。鞭をもちいる者もあるし、鞭をもちいないものもある。調馬にはかならず鞭のみとは限らないのである。たとえば、身の丈八尺もある馬があって、これを龍馬(め)というが、よくこの馬を調御(じょうご)するものは、世のなかにはすくない。また千里馬(め)という馬があって、一日のうちに千里をゆくという。この馬は、五百里をゆくあいだは血の汗をながすが、五百里をすぎると気もちとく走る。この馬に乗れるものはすくなく、この馬を調御する方法を知っているものはすくない。この馬は中国にはなく、外国にある。この馬には、しきりに鞭を加えるなどとは記されてはいない。

だがしかし、古徳はいう。――馬を調御するにはかならず鞭を加える。鞭でなくては馬を調御することはできない――と。これが調馬(め)の法というものである。それには、いまもいうように、毛に触れる、皮に触れる、肉に触れる、骨に触れるという四つの方法がある。だが、毛に触れずして皮に触れるということはありえないし、毛や皮に触れないで肉や骨に触れることもできない。だからして、これは鞭を加えるのだなあと判る。それをいまここに説かないのは、経の文字のことば不足というものである。もろもろの経には、そのようなところがすくなくない。

そして、調御丈夫といわれる如来なる世尊ももまたそうなのである。世尊もまた四種の方法をもってあらゆる衆生を調御して、かならず見事に教化なされるのである。すなわち、如来が衆生のために生を説くと、衆生はたちまち仏のことばを頂くのであり、また、生および老死を説けば、それで仏のことばを頂くものもあり、あるいは、生および老病死を説かれるにおよんで、それでやっと仏語を頂戴するものもある。だが、のちの三つを聞くものも、けっしてはじめの一つを離れてのことではない。それはちょうど、世の馬を調御するものが、毛に触れることをはなれて、皮に触れ、肉に触れることがありえないようなものである。また、ここに生老病死を為説するというのは、如来なる世尊が生老病死を衆生のために説くのである。だが、それは、衆生をして生老病死をはなれしめようというのではない。また、生老病死がそのまま道であると説くのでもない。つまり、生老病死がそのまま道であると理解させようというのでもない。それは、ただ、生老病死を衆生のために説いて、それによって、すべての衆生をして最高の智慧の教えを会得せしめようとのためである。そこのところを、「如来世尊、調伏衆生、必定不虚、是故号仏調御丈夫」すなわち、如来なる世尊が衆生を調御なさるのにも、いろいろの仕方があるけれども、なおかならず見事に調御なされる。その故をもって、仏をまた調御丈夫とは申しあげる、というのである。

正法眼蔵 四馬

建長七年夏案居日、御草案をもってこれを書写しおわる。 懐弉(326~328頁)

出 家 功 徳(しゅっけくどく)

■開 題

この一巻もまた、その奥書にはただ「建長七年(1255)乙卯夏安居日」とその書写の日付がみえるのみであって、その制作の日もさだかでなく、また示衆のことの有無も知るよしもない。ただ一つ思いおこされることは、さきの「八大人覚(がく)」の後書に、懐弉がしるしのこしたつぎの一説のことである。そこには、

「仰いで惟(おも)んみれば、前(さき)に撰したまえるよころの仮字正法眼蔵等、みな書き改め、並びに新草具するに、都盧(すべて)一百巻これをよすべし云々、既に始草の御比の巻は、第十二に当れり。此の後、御病漸々に重増したまふ。仍(よ)つて御草案等のことも即ち止みぬ」(原文は漢文体)

つまり、道元は、いつのころからか、これまで書いてきた『正法眼蔵』の草稿等をみな書き改め、それに新草の原稿をも加えて、すべてで一百巻の『正法眼蔵』を計画していた。いや、計画したばかりではなく、すでにそれに著手しておられて、いまの「八大人覚」の巻は、その第十二巻に当っていた。だが、そのころから、病はようやく重く、ためにそのこともそれで終わりとなってしまったという。

それは、悲しい、そして残念なことである。だが、そのような道元の努力は、けっしてそれで空しかったわけではない。それらの加筆もしくは新草の巻々は、なお、今日わたしどもがいうところの『正法眼蔵』の一半を構成し、あるいは、いわゆる「十二巻正法眼蔵」として伝えられている。そして、この「出家功徳」の巻は、その「十二巻正法眼蔵」の第一巻とされていたのである。

なお、念のためにいえば、さきにもいったように、いつも道元の草稿の書写の役をつとめていたかの懐弉が、そのころは、折悪しく豊後(ぶんご)の方に赴(おもむ)いていたため、それらの新草ならびに加筆の巻々は、たいてい、制作もしくは示衆の日付がなく、ただ書写の時をしるすのみであって、しかも、その書写のことも、たいていは没後のこととなったのである。

では、この「出家功徳」の巻の内容はいかにというに、それは、かなり長文のものではあるが、その内容はいたって把握しやすいようである。

まず、最初に、龍樹の『大智度論』からの長い引用があって、いうなれば、出家のすすめが説かれている。

ついで、諸経からの引用が並べられて、いろいろの角度から、出家の功徳が説かれている。

さらに、仏祖の出家の例が、つぎつぎと五つあげられ、その終わりには、出家の生活についての二つの心得があげられて、

「これ仏仏祖祖正伝の、正法眼蔵、涅槃妙心、無上菩提なり」

と結ばれている。

おそらくは、さきに永平寺において衆に示された「出家」の巻の加筆拡大されたものと見てよいのではないかと思われる。(330~331頁)

■龍樹菩薩はいった。

「問うていわく、在家の戒をまもれば、なお天上に生をうけることをえ、菩薩道をみたすことをえ、また涅槃にいたることをうるという。では、また、どうして出家の戒が必要なのであろうか。

答えていわく、いずれも生死の彼岸にわたることをうるのであるが、なおそこには難易の別がある。在家にはいろいろと生業の仕事がある。もし仏法のことに専念しようとすれば、たちまち家業がすたることとなる。またもし専(もっぱ)ら家業のことにいそしもうとするならば、たちまち仏法のことがすたることとなる。そこは取捨おのずから宜しきに応じなければならぬのであるが、それがなかなか難しいのである。しかるに、もし出家するならば、まったく俗事を離れて、いろいろの怒りや惑いからまぬかれ、ただ一意専心に仏道を行ずることができる。これを易しいというのである。またつぎに、在家というものは、多事多端にして、心をみだす雑事もすくなからず、煩悩のおこるもとであり、もろもろの罪のあつまるところである。これをはなはだ難なりというのである。しかるに、もし出家するならば、それはあたかも人なき広野にあるがごとく、その心を一つにして、無念無想なることができる。さすれば、他事もまたことごとく去る。偈(げ)にも説いていうがごとくである。

静かに樹林のあいだに坐すれば

寂然としてもろもろの悪は滅し

恬淡(てんたん)としてただ一心なるを得ん

その楽しみは天上の楽しみにあらず

人は富みかつ貴(たっと)からんことを求め

またよき衣とよき褥(しとね)をもとむ

その楽しみは安穏(あんのん)にあらず

富貴(ふっき)のもとめは厭くことなし

僧衣をまといて托鉢を行ずれば

所作も思念もみだるることなし

ただみずから智慧の眼をもって

万法のあるがままを観ずれば

さまざまの法門もおのずからにして

みなひとしく通人することをう

されば智慧の心はただ寂然として

しかもこの世によく及ぶものなし

これをもっての故に、出家の戒を修する道は、はなはだ易しいというのである。(337~338頁)

■仏の在世のころ、この比丘尼(岡野注;蓮華色比丘尼、ウッパラヴァンナー)は六神通をえた聖者となり、貴人の邸に入って、つねに出家の法をたたえ、もろもろの貴族の婦女に説いていった。

『みなさんも出家なさるがよろしい』

もろもろの貴婦人たちはいった。

『わたくしどもはまだ若く、容色のおとろえもありません。戒をまもることは難しく、きっと戒を破るようなこともありましょう』

比丘尼はいった。

『戒を破るならばお破りなさい。ただ出家なさるがよろしい』

貴婦人たちは問うていった。

『戒を破れば地獄におちるでしょう。どうして破ってよいのですか』

比丘尼は答えていった。

『地獄におちるならば、おちるがよいのです』

すると、貴婦人やちは笑っていった。

「地獄におちれば罪の報いを受けるでしょう。どうしておちてもよいというのですか』

そこで蓮華色比丘尼は、彼女の過去世のことを物語っていった。

『わたしは、自分の過去世の宿業のことを思いおこしてみますと、ある時には遊女となって、いろいろの衣服をまとい、馴染みのことばをもてあそびました。ある時には、比丘尼の衣を身につけて、戯(たわむ)れて笑ったこともありました。それが縁となって、迦葉(かしょう)仏のころには比丘尼となりました。だが、わたしは、自分の家柄と容貌の美しいことを誇り、心に憍慢(たかぶり)をいだいて、ついに戒を破りました。戒を破ったために、地獄におちて、いろいろとその報いを受けました。だが、やがて罪の報いを受け終わりまして、釈迦牟尼仏にお会いすることができ、出家して六神通を身にそなえて、聖者の境地にいたることができました。

それで、わたしは、出家して受戒すれば、また戒を破って罪を犯しても、なお戒の縁によって聖者の境地にいたれるのだと知ったのであります。そしも、ただ悪をなして戒の縁がなかったならば、とても道を得ることはできないでしょう。わたしもまたその昔は、生々世々にわたって地獄におち、地獄よりいでてはまた悪人となり、悪人として死んではまた地獄におち、結局なんの得るところもなかったのです。いまは、これではっきりと知ることができました。出家して受戒するならば、たといまた戒を破ろうとも、その戒の縁によって、ついに仏道のよい果を得ることができるのだということを』(340~341頁)

■そういうことであるから、もし最初から、ひたすら最高の智慧にむかって、けがれのない信心をかためて袈裟を頂戴したならば、その功徳の生(お)い育ちは、かの戯女の功徳のそれよりもずっと速やかであろう。ましていわんや、最高の智慧のために発心し、出家して戒を受けたならば、その功徳はかぎりないことであろう。そもそも、人間の生を受けたものでなくては、この功徳を成就することは稀なのであるが、そのなかにおいても、西の方天竺や東の方中国には、出家や在家の菩薩や祖師などがたくさんおられる。しかも、この龍樹祖師におよぶものはない。しかるにいま、その龍樹祖師は、酔える婆羅門や、戯女などの物語をあげて、ひたすらに衆生の出家し戒を受けんことをすすめているのである。その龍樹祖師は、とりもなおさず、世尊のみずから成仏の予言を与えた方なのである。(345頁)

〈注解〉得度;教化によって生死の彼岸に渡ることを得ること。

十悪;身・口・意の三業によって造られる十種の罪業であり、殺生・妄語・邪見などがあげられる。

六通・三明;六通は六神通である。三明とは、宿命通・天明通・漏尽通であるから、それもまた六通のなかの三つをとりだしていったものである。(346頁)

■世尊はまた仰せられた。

「仏法のなかにおける出家の果報というものは、まことに思いも及ばぬものである。たとえば人ありて、七宝(しっぽう)の塔をたて、その高さ三十三天にまでいたろうとも、それによって得るところの功徳は、とても出家には及ばない。何故であろうか。それは、七宝の塔というものは、なお貪(とん)欲にもえる悪しざまの愚人どもが、これを壊すということもあるのであるが、出家の功徳にいたっては、まったく毀れるということがないからである。だからして、あるいは男女に教え、あるいは奴婢を解放し、あるいは人民の罪を許し、あるいは自分自身もまた、出家して仏道に入るならば、その功徳は無量であろう」

世尊は、その功徳の量をちゃんと知っておられて、このように説いておられる。福増(ふくぞう)という長者は、その時すでに百二十歳の老人であったが、これを聞いて、無理におねがいをして、出家して戒を受け、年少者の席のあとにつらなって修行し、ついに大いなる聖者となったのである。(350~351頁)

〈注解〉ついで、二つの世尊のことばを挙げて、出家の功徳の最勝にして不可思議なることが説かれる。その二つの世尊のことばのうち、その前者は、いまだその出処を詳(つまびら)かにすることをえない。その後者は、『賢愚経』巻四、第二二、出家功徳尸利苾提品(しりびだいぼん)による。尸利苾提とは、その解説の文中にいうところの福増なる長者のことである。

福増;“Srivaddhi”を音写して尸利苾提となし、また意訳して福増と訳する。はなはだ老いてのち出家した人物である。もと王舎城の長者であるという。(353~354頁)

■これは、釈迦如来が、そのむかし太子であった時、夜半に城をいで、日冲(ちゅう)して山に入り、みずからその髪を切った時のことである。その時、天にいます神々がきたって、髪を剃り、袈裟衣をさずけたという。これはもう疑いもなく、如来が世にいでたもうめでたいしるしであり、また、もろもろの仏世尊のさだまれる法なのである。けだし、三世十方のもろもろの仏たちは、みな一仏といえども、在家にして仏となられた方はない。その過去にかならず仏があって、出家しその戒を受けて仏となられたのである。人々の道を得るのも、またかならず出家受戒によるのである。そもそも出家受戒によって仏になるということは、それがもろもろの仏のさだまれる放であるからして、その功徳は量り知れないのである。経典のなかには在家成仏の説をなすものもあるが、それは正伝ではない。また、女身成仏の説もあるが、それも正伝ではない。仏祖の正伝するところは、ただ出家成仏のみである。(372頁)

■第四祖なる優婆毱多(うばきくた)尊者のころ、長者の子にして、提多迦(だいたか)というものがあり、来たって尊者を拝し、出家せんことを求めた。尊者はいった。

「そなたの求めるものは、身の出家であるか、心の出家であるか」

提多迦は答えていった。

「わたしが出家を求めるのは、身や心のためではございません」

尊者はいった。

「身や心のためではないというならば、いったい誰が出家するのであるか」

答えていった。

「そもそも出家というものは、われとかわが物とかいうものはございません。われとかわが物とかいうものがないから、心に生とか滅とかいうものがありません。心に生滅がないからして、それがとりもなおさず恒常であります。だから、もろもろの仏もまた恒常なのであります。心には姿かたちはございません。また、その本質本体といったものもございません」

尊者はいった。

「おお、そなたはすでに大悟(だいご)して、心はおのずから自由闊達である。では、とろしく仏道によって、そのすばらしい種子を出家せしめるがよい」

そして、尊者はただちに彼を出家せしめ、戒をさずけた。

いったい、諸仏の教えに遇うことをえて出家するということは、なにごとにも勝(まさ)れるすぐれた果報である。しかるに、その教えは、われのためのものでもなく、わが物のためのものでもなく、また、身心(じん)のためのものでもなく、したがって身心が出家するわけでもない。出家とはわれとかわが物とかいうものではないという意味は、そういうことである。われとかわが物とかいうことでなければ、それはもろもろの仏のことであろう、いや、それはただもろもろの仏のさだまれるなされ方である。そして、もろもろの仏のさだまったなされ方であるからして、われとかわが物とかいうものでもなく、まだ身だ心だというものでもないのである。この世のことは、なに一つとして、比していうべきものはないのである。だからして、出家はつまり最高の法なのである。それは頓(とん)だ漸(ぜん)だというものでもない。常だ無常だというものでもない。来(らい)だ去(こ)だだといういうものでもない。住だ作だというものでもない。広だ狭だというものでもない。大だ小だというものでもない。あるいは、作だ無作だというものでもない。ただ仏法を一人から一人へと正伝してきた祖師は、誰一人として出家して戒を受けないものはなかったのである。そして、いま提多迦が、はじめて優婆毱多尊者にあいたてまつって出家をもとめたのも、またそれであった。かくて彼は、出家して比丘戒をうけ、優婆毱多尊者にあいたてまつって出家をもとめたのも、またそれであった。かくて彼は、出家して比丘戒をうけ、優婆毱多尊者についてまなび、ついに第五の祖師となったのである。(372~374頁)

〈注解〉車匿(しゃのく);釈尊が太子たりしころの従僕で。太子の出城にあたっては、馬を御して従ったという。

盧居士;六祖慧能のなお居士であったころは盧氏であったので、かくいうのである。

龐(ほう)居士;唐代の居士である。石頭希遷や馬祖道一に参じて禅を修し、中国の維摩と称せられた。(376~377頁)

■南嶽山の慧譲禅師は、ある日、みずから歎じていった。

「そもそも出家とは、無生法(しょうほう)のためにするものであって、天上においても、人間世界においても、これにまさるものはありえない」

そのいうところの無生法とは、生滅をはなれて涅槃にいたる教えであって、これこそ如来の正法である。だからして、天上においても、人間世界においても、これにまさるものはないというのである。天上というのは、欲界に六つの天があり、色界に十八の天があり、また無色界にも四種の天があるというのであるが、そのいずれも出家の道におよばないのである。

盤山の宝積(しゃく)禅師はいった。

「大徳よ、このなかで道をまなぶということは、たとえば、大地は山をささえているけれども、その山のひとり峠(そばた)つことしらず、あるいは、石は玉をそのなかにいだいていても、それで玉は瑕(きず)つかないのだとは知らないようなものである。もしそういう具合であれば、それが出家というものである」

仏祖の正法というものは、かならずしも、知ると知らざるにかかわるものではない。そして、出家ということは、仏祖の正法であるからして、その功徳はあらたかなのである。

鎮州臨済院の義玄禅師はいった。

「いったい、出家というものは、ごく平常のことの正しい見方・考え方をはっきりと摑んで、仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、あるいは、凡夫を見分け聖者を見分けことができねばならない。もしそれらのことをよく見分けることができれば、それが真の出家というものである。もしも魔と仏を見分けることができなければ、それはまさに家よりいでてまた家に入るようなものである。それはまだまだ業(ごう)づくりの衆生というものであって、まだほんものの出家とはいえないのである」

いうところの、ごく平常のことの正しい見方・考え方というのは、深く因果の道理を信ずるとか、深く仏法僧の三宝を信ずるなどということである。また、仏を見分けるというのは、仏がその修行中になされたことや、仏となられてからなされたことの素晴らしさを、はっきりと思い念ずることである。つまり、それが本物であるか偽物であるか、あるいは、それが凡夫のわざであるか聖者のいとなみであるかを、はっきりと区別するのである。もしも仏を見分けることがはっきりできなければ、学道をはばみ、学道を転落することとなろう。もしよく悪魔のわざをそれと知って、それをしないようにすれば、よく道を見分けて、転落することはない。それがほんとうの出家の法というものである。しかるに、世のなかには、むやみに悪魔のわざをもってそれが仏法だと思うものがああい。これが近世のいけないところである。この道をまなぶものは、はやく悪魔のわざを見抜き、仏を見分けて修行するがよろしい。(378~380頁)

〈注解〉無生法;生滅をはなれた涅槃をいうことばである。

欲界;淫欲と食欲のつよい人間の住する世界であり、そこには、上には六欲天があり、下には八大地獄があるという。

色界;欲界の上にある天界であって、そこには十八の天があるという。ただし、このことばはもともと、世界が人間欲望の世界であるのに対して、物質のみの世界をいうことばであったと考えられる。

無色界;それは“略”の訳語であって、ずばりといえば叡智の世界というほどのことばである。ふるくは、その世界にも四つの天界をたてて考えていた。(380~381頁)

■如来がなくなられる時、迦葉菩薩は仏に申していった。

「せそんよ、如来は人間のもろもろの可能性を知る力を具えておられたはずでございます。きっとかの善星(しょう)がよき可能性をなくすることも知っておられたでありましょう。それなのに、どういうわけでその出家をお許しになられたのでございましょう」

仏は仰せられた。

「善男子よ、わたしがその昔、はじめて出家した時、わたしの弟の難陀(なんだ)も、いとこの阿難や提婆達多も、またわが子の羅睺羅のようなものまで、みんなわたしに随って、出家して道を修めた。もしわたしが善星の出家を許さなかったならば、彼はつぎの王として王位を継ぐこととなる。そうなれば、その力を自由自在にふるって、きっと仏法を壊すであろう。そんなわけで、わたしは彼の出家修道を許したのである。

善男子よ、もしまた善星比丘が出家しなかったならば、彼はまったく善の可能性を無くしてしまって、いつの世までもけっして救われる時はないであろう。しかるに、いまではすでに出家したのであるから、たといいったんは善の可能性をうしなっても、ねおよく戒を受けて、年老い、経験をつんで、徳ある人々を供養し、ksつ、初禅から四禅までを修習したのである。それは善き果をもたらす因というものである。そのような善き因は、かならず善きことを生む。善きことがすでに生ずれば、かならず仏道を修するであろう。そして、すでに仏道を修するにいたれば、またきっと最高の智慧を得ることができるであろう。だからして、わたしは善星(ぜんしょう)の出家を許したのである。

善男子よ、もしわたしが善星比丘の出家受戒を許さなかったならば、人はわたしをたたえて如来は十力(じゅうりき)を具(そな)えているという訳にはゆくまい。善男子よ、仏は人々がみな善き性質と善からぬ性質を具えていることを知っている。だが、人はそのように二つの性質を具えてはいるものの、ともすれば、一切の善き可能性を無くしてしまうことがある。それはいったいなんの故であるか。それは、そのような人々は、善き友に親しまず、正しい教えを聞かず、善きことを思わず、教えのように行じないからである。そのために、善き可能性をなくして、善からぬ可能性をのみ具えることとなるのである」

これでよく判るではないか。如来にまします世尊は、ちゃんとはっきりと人々が善き可能性を無くすることもあることを知っておられても、なおかつ善き因をさずけようとして、彼らに出家を許したもうたのである。大いなる慈悲というものである。また、どうして人々は善き可能性をうしなうかというと、それは、彼らが善き友に近づかず、正しい教えを聞かなず、善きことを思惟せず、また教えのように行じないからであるという。では、この道をまなぼうとするものは、かならず善き友に親しみ近づくがよろしい。善き友とは、もろもろの仏のましますことを説く人々であり、また罪ということがあり、福(さいわい)ということがあると教えるものなのである。因果を否定しないのが善き友であり、善知識というものである。そのような人々の説くところこそ、正しい教えというものである。また、そのような道理を思うことこそ、善き思惟というものである。そして、そのように行ずることこそが、如法に行ずるということなのであろう。

そういうことであるからして、たとい親しかろうと親しくなかろうと、人々はただ出家して戒を受くべきことを勧めるがよろしい。あるいは修行ができるかできないかなどと心配する要もない。それがまさしく釈尊の正法というものであろう。(384~386頁)

■それで、はっきりと判るではないか。たとい閻魔王であっても、やはり、このように人間世界に生をうけることをねがうのである。ましてや、すでにこの人間世界に生まれたる者は、いそぎ鬢髪をそりおとし、三衣(え)を身にまとうて、仏道をまなぶがよろしい。それが他の世界にすぐれた人間世界の功徳というものである。それなのに、人間世界に生まれながら、いたずらに官途や世間のことを貪り、むなしく国王・大臣などの奴婢として、一生を夢まぼろしのうちに送り、のちの世はまっくら闇の世界に生まれるなど、真の依るべきところを得ないというのは、愚かのいたりであろう。しかるに、わたしどもは、すでに受けがたい人身をうけたのみならず、また遇いがたい仏法に遇うことをえたのである。いそぎあれこれの事どもは振り捨てて、すみやかに出家して仏道をまなぶがよろしい。国王・大臣だとか、妻子眷属(けんぞく)などというものは、どこだって遇えるものである。ただ仏法というものは、優曇華のようにめったに遇えるものではないのである。

いったい、無常のことたちまちにして到る時には、国王・大臣も、親しい者も召使いも、あるいは妻子も財宝も、これを助けるものはなく、ただひとりして黄(こう)泉の国におもむくのほかはない。自分についてゆくのは、ただもう善悪の業などのみである。また、この人身を失う時には、この人身がおしくてならぬであろう。では、まだこの人身のあるあいだに、はやく出家するがよろしい。それがまささく三世もろもろの仏たちの教えというものである。(387~388頁)

〈注解〉善星(ぜんしょう);仏弟子の一人で、また四禅比丘という。よく四禅にまでいたったが、悪友に交わり、ために仏に悪心をいだいて、無間(げん)地獄におちたという。

五結;五つの煩悩、すなわち貧・瞋・慢・嫉・慳がそれである。

五根;五つの能力、すなわち信根・精進根・念根・定根・慧根がそれである。

余趣;趣は赴き生まれるところの意。それに、地獄趣・餓鬼趣・畜生趣・修羅趣・人間趣・天趣の六趣がある。またそれをが六道ともいう。いまは、人間趣をのぞいたその余というのである。

黄(こう)泉;地下の泉。死者の行くところ、冥土である。中国では、血の色を黄に配する。(388~389頁)

■たとい今日このごろは、すでに末世の風のふきまくる時節であろうとも、なおこの叢林なるものは、いうなれば薝蔔(せんぷく)の林ともいうべきであって、ただの草木のおよぶところではない。また、いうところの合水の乳のようなものである。乳をもちいんとする時、もし乳がなくば、せめて水でわった乳をもちいるがよろしい。ほかの物をもちいてはならない。

ということであって、詮ずるところ、三世もろもろの仏たちも、みな出家して仏道を成じたというとおり、これこそもっとも尊いのである。けっして出家しない三世の諸仏などはおわしまさぬ。これこそ、仏祖正伝の正法の眼睛(ぜい)であり、涅槃のたえなる心であり、無常最高の悟りというものである。(394頁)

〈注解〉叢林;叢林とは、禅林であるが、いまはその林の一字を生かして、この文をなしているのである。

蔔(せんぷく);黄色い花で、梔子華(くちなし)のように、その香気は遠くまできこえるという。

合水;水をまぜたの意。和水すなわち水でわったというにおなじ。(395頁)

渓声余韻7(岡野注;増谷文雄のあとがき)

■この人は、もともと文章のことについては、ふかい関心をもっていたらしい。自分はもと幼少のころから学問が好きであったから、いまでもややもすると、外典の美言などが頭に浮かんできたり、『文選(もんぜん)』などを繙(ひもと)いたりすることがある。だが、考えてみると、そんなことはまったく「詮なき事」だから、さらりとやめなければならぬ、といっておる。それは、いうまでもない、仏教者としての自己の文章にたいする反省である。では、いったい、どんな文章を書けばよいのか。

「頌(じゅ)につくらずとも心に思はんことを書出し、文章とゝのはずとも法門をかくべきなり」

それが、その第二の八の一段にいうところであるが、さらに、その第二の十一の一節においては、それが、

「語言文章はいかにもあれ、思ふ儘の理を顆々(かか)と書きたらんは、後来も文はわろしと思ふとも、理だにも聞ゑたらば道のためには大切なり」

と語りいだされておる。「顆々」とは、あまり聞きなれないことばであるが、それは土のかたまりがごろごろしている様をいったことばである。それによっていわんとするところは、文章をととのえ、対句韻声にこだわることもなく、ただ「思ふ儘の理」をごつごつと書く、それこそ仏教者にふさわしい書き方だといっているのである。わたしは、この道元の仏教者としての文章論に、浅からぬ関心をいだいている。では、この反省は、その後の道元の文章に、どのような形をなして現れているのであろうか。(398~399頁)

■それについて、わたしのまず思うことは、道元その人の実践力のことである。この人は、こうと思い、こうと信ずれば、すぐそれが実践に結びついてゆく。たとえば、これもまた『正法眼蔵随聞記』の記しとどめているところであるが、その第四の八の一節には、こんな述懐がのべられている。それは、山門(叡山)をくだってから、建仁寺に身を投ずるまでの間のことであるが、そのころ、彼は、いっこうに正(しょうし)師や善友(ぜんぬ)にあうことができなかった。いろいろ教えてくれる人も、「先づ学問先達にひとしくしてとき人と成り国家にしられ天下に名誉せん事を」などという。だが、『高僧伝』や『続高僧伝』などを披見してみると、かの地の本物の高僧たちのありようは、どうもそんなものではないようである。そんなのは、いわゆる名利というもので、彼らのむしろ「にくむ」ところであったらしい。そして、そうと知ってからの彼には、もはや「此の国の大師等」というものは、「土(つち)瓦(かわら)の如く」に思われるようになったという。(399~400頁)

(2016年9月24日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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