『ボナール展』カタログ 1968年 毎日新聞社発行
■ボナールが20歳ごろに絵を描き始めたとき,印象主義者たちが,光線を目指して絵画の革命を行なっていた。セザンヌ,ゴーガン,ドガ,はヴォリュームや線や動感に対する新しい関心のもとに,すでに彼らの作品に,異なった方法を示していた。初期の小品ではコローを想わせるような明確で繊細な画風を示したボナールも,彼の友人のモーリス・ドニ,ポール・セリュジェ,ヴュイヤール,ルーセルたちとともに,印象主義に方向を転じた。彼ら若い芸術家たちの集団的な熱情的デビューはほとんど区別しがたいほどである。とりわけ彼らを瞠目させたのはゴーガンである。〝だがゴーガンは,それにもかかわらず,疑うべからざる巨匠であり,人びとは,彼の奇妙な言行を寄せ集め,ばらまき,その才能,饒舌,風采,肉体の頑健さ,下劣さ,湧き出す想像力,酒の飲みっぷり,ロマンティックな振舞いなどをほめそやしたのだ。彼の神秘な影響力は,ちょうど私たちがまったく教訓的な先例を見出しえなかったときに,非常に明快な一,二の理念をあたえてくれた。彼は,従来の模倣の理念が私たちを解放してくれたのである。彼は,私たちに抒情の権利をあたえたのだ〟とモーリス・ドニは書いている。そしてゴーガン自身も,〝すべてを敢えてなしうる権利〟を,あらゆる画家たちのために確立しようと望んだということを語っている。ボナールの場合,このような影響に加えて,さらにもうひとつの決定的な影響があった。当時,人びとは百貨店で,日本の風俗版画を手に入れることができた。〝私が,縮み紙やもみ紙に驚くべき色彩で描かれた作品を,2スーか3スーで手に入れたのは百貨店でだった。私は,この素朴で色調の甲高い版画で私の部屋の壁を埋めた。ゴーガン,セリュジェは,過去の事実に教訓を求めた。しかし,私の前にあったものは,今でも生きているもの,そして非常に教訓にみちたものであった〟日本の浮世絵版画は,ボナールにとって一つの啓示であった。〝私は,これらの擦りきれた版画によって,肉づけなしに,色彩だけですべてを表現しうることを学んだ。色価の助けを借りなくてもただ色彩のみで,ヴォリュームや光や性格を表現することが可能だと私は思ったのである〟。西欧の絵画が,事実,明暗のたわむれによって肉づけや凸凹の感覚―色価―をあたえようと試みるのに対して,日本の美術は,ヴォリュームの肉づけを,線の指示と,色彩の面によってのみ表出しているのである。それは,凹凸を表現しようともしないし,奥行にも結びつかない。それは,空間の第3次元を再現するのではなく,暗示する。もみ絵の〝素晴しい雑色〟が,もしボナールに,表現の手段としての色彩から描きだしえたものを啓示したとき,この私たちの観念とは全く異なった絵画的表現の観念,ボナールが日本の浮世絵画家に見出した観念は,彼に,ゴーガンに次いで,表現の自由ということをも啓示したのである。人間の才能が,これほどの巧みさをもって表現されたということは,芸術には絶対的な法則が存在せず,芸術家はどのような手段を用いることも自由だということの証明であるのだ。(『ボナール展に寄せて』 アントワーヌ・テラス)
(weblio辞書より:ナビ派;ポン=タヴェン派の一人ポール・セリュジェが中心となって、ゴーギャンの様式を基礎にパリで結成したグループ。ナビという語はヘブライ語の「予言者」を意味する言葉である。理論的リーダーはモーリス・ドニは、主観的状態と客観的形態の交感、すなわち感情の等価物、一種の心理的事実のあらわれとして芸術作品をとらえている。それに加えて、ナビという語に端的にみられるように、彼らはゴーギャンのやり方を一種の宗教的啓示として受けとめており、彼らの作品はいきおい象徴的な要素を秘めている。上記の2人の他ボナール、ヴュイヤールなどが参加し、トゥールーズ・ロートレックやマイヨールも一時期彼らと関係があった。また作曲家ドビュッシーや小説家プルーストらもかかわりをもっていた。彼らの間には、印象主義への反動や、色彩と歪曲した線の装飾的な使用など、共通点があるものの、強いまとまりはなく、1899年のデュラン・リュエル画廊での展覧会以降は、ばらばらに活動した。)
(岡野注;セザンヌとポン=タヴェン派の一人であったエミール・ベルナールの絵画観の分岐から、ベルナールの方向が現代美術の流れになり、その後のアメリカの現代美術に突き進む。このあたりの時代の画家の蹉跌が、今の美術の痩せた魅力のなさの元凶である。セザンヌや坂本繁二郎などのイーゼル絵画による「裸眼のリアリズム」こそがいつの時代にも画家が習熟せねばならないスキルであると私は考える。)
(2012年2月4日)