■「私」からの逃走と伝統の革新を標榜するエリオット的詩学とは逆行し、詩に「私」を発見した詩人達である。ロバート・ローウェル、ジョン・ベリマン、シルビア・プラース、アン・セクストン。これらの詩人達の「私」の切実さは、おそらく極私的と称することも可能で、それゆえに「告白派(コンフェッショナリスト)」とも、「究極主義者(エクストリーミスト)」とも称されるにいたったのである。エリオット的な特色の一部分、複雑な韻律、アイロニーの痛み、先行各学への言及、典雅なアフォリズムなどを保持しつつ、それらをすべて赤裸な「私」を語ることに費やしたが、結局、各自がそれぞれの方法で自殺してしまった「自殺派」とも呼びうる詩人たちだ。(116㌻)
■「我々は自分の知っていることを書くのだが、問題なのは、人生の初期に、自分が何でも知っていると考えることだ。分りやすく言えば、我々は、自分の無知の構造、無知の領域を知らないということ。…知っている事を書く、それに加えて、さらに自分の無知に親しまねばならない。良き物語を破滅させる力を持つかもしれぬ無知に。(トマス・ピンチョン)」(154㌻)
■いい会社に就職して、いいマンションに住んで、いい愛人(異性とは限らない)と交際して、いいクレジットカードをポケットに忘れずに入れて、いいクルマに乗って、渋滞の高速道路から美しい青空をながめつづけていたい。いや、そうしていたいわけではないのだが、なぜか、ほかにしたいことを思いつくことができない。(170㌻)
『アイロンをかける青年』千石英世より2006年7月24日