岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『パラダイムとは何か』 野家啓一著 講談社学術文庫

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■科学がもともと「分化の学」ないしは「百科の学」を意味する言葉として使われ始めた事実を踏まえるならば、「科学」は知識を表わすサイエンスの訳語ではなく、個別諸科学を表わす複数形のサイエンシーズ(sciences)の訳語だと言わねばならない。先に、科学はサイエンスの訳語に非ずと述べたゆえんである。(38頁)

■クーンの「パラダイム」という概念は、まさにサイエンスからサイエンシーズへの知識体系の変化、すなわち科学の専門分化と密接に関わっている。クーンによれば、個々の専門分野は「パラダイム」、すなわちその領域の研究活動を特徴づける模範例となる科学的業績を獲得することによって初めて、「科学」として自己を確立するのである。したがって、ある研究分野が「科学」であるかどうかを判定する基準は、そこに「パラダイム」が見いだせるかどうかにかかっている。クーンが「何が科学であるか」という質問に答えを出せなかったのも、個々の研究分野ににおいていつの時点で「パラダイム」が成立したかを確認するには、綿密な歴史的考察を必要とするからである。また、社会科学に「何かあやしげな感じがつきまとっている」のも、この分野における「パラダイム」の存在がいまだ不明確だからにほかならない。(38頁)

■すなわち、明治期にわが国に輸入されたのは、自然哲学を背景とした統一的な知の体系(コスモロジー)としての科学であるよりは、すでに専門分化して哲学やコスモロジーから切り離された個別諸科学であり、さらには科学とテクノロジーとが融合して産業政策に組み込まれた「産業化科学」(ラベッツ)であった。このことは日本の近代化(=工業化)を推進する大きな力となると同時に、多面で基礎科学を軽視し応用化学を重視する一般的風潮を生んだ。大学の中に「工学部」を設置したのはわが国が世界最初であった(1886)ことや、現在でも理学部と工学部学生数の比率は1対7と著しく偏っている(アメルカではほぼ1対1)という事実が、それを端的に物語っている(村上陽一郎『文明のなかの科学』1994による)。われわれにとってはありふれた「科学技術」という言い方そのものが、他の西欧語に対応する語を見つけるのが難しい日本語特有の言葉であり、わが国の科学受容のあり方が生み出した概念なのである。(40頁)

■現在では「コスモロジー」という言葉は、二つの異なった意味で使われている。一つは物理化学が探求の対象とする「宇宙論」であり、もう一つは文化人類学的な意味でのコスモロジーである。後者は大は宇宙像から小は儀礼、タブー、祭りなどわれわれの生活様式を秩序づける慣習や習俗をも含んだ、人間の生き方を統御する包括的な図式であり、むしろ「世界観」と呼ぶのがふさわしい。(45頁)

■16、17世紀に起こった大文字の科学革命は、コイレが指摘するように、この古代・中世的コスモスの大規模な解体過程であった。そのきっかけを作ったのが、天文学における地球中心説(天動説)から太陽中心説(地動説)への理論転換である。しかし、それは単なる科学理論の交代には留まらなかった。地球が宇宙の不動の中心(大地)から太陽の周りを回転する惑星となったことは、まさに「驚天動地」の出来事であり、既成の「認識の秩序」を揺るがすと同時に人々の「生存の秩序」を根底から脅かすものだったのである。

まず、地球が惑星に、月がその衛星になったことは、月上界と月下界、すなわち天上と地上の区別がなくなったことを意味する。次に、神や天使の住まう場所と考えられていた最高天球が消滅して無限の宇宙となったことは、「神―天使―人間―動物―植物―無生物」という存在のヒエラルヒー(位階秩序)の成立基盤が失われたことを意味している。さらに、アリストテレス的世界像のもとでは、地上の物体を形作る四元素にはそれぞれの故郷ともいうべき「自然な(本来の)場所」が定められていた。この自然な場所へ戻ろうとする傾向生こそ物体の自然運動(上下運動)の根拠なのである。

しかし、大地を基準に立てられた上下方向という価値の座標軸が無意味となることによって、自然な場所という概念もまた意味を失う。地上の物体は帰るべき場所とともに運動の根拠をも失ったのである(この点に、近代物理学において第一に「慣性の法則」が要請されざるをえない理由が存する。物体の等速直線運動に理由は要らないことを主張するのがこの法則だからである)。「コスモスの解体」とは、それゆえ「階層的に秩序づけられた有限の世界構造という観念、すなわち質的および存在論的に差異化された世界という観念の崩壊」(コイレ、前掲論文)にほかならない。

要するに、科学革命を通じて宇宙は質的差異のない等方等質の茫漠たる空間となったのであり、同時にそれは空間が数学(幾何学)によって記述可能な抽象的対象となったことを意味する。これがコイレの言う科学革命の第二の特質「空間の幾何学化」である。あるいは、宇宙は人間的な意味や価値によって秩序づけられた「コスモス」から、天上と地上とが物理法則によって統一された無限空間、すなわち「ユニバース」へと大きく変貌したと言うこともできる。「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」(『パンセ』206)というパスカルの有名な言葉は、コスモスを前にした人間の実存的なおののきを表白したものであろう。おそらくそれは、人類が二足歩行を開始して初めて天空を振り仰いだときに感じたよるべなき不安に比すべきものであった。(45~48頁)

■この科学理論上の方向転換は、アリストテレス的な「質的秩序」からガリレオ的な「数学的秩序」への眼差しの向け変えと言うことができる。少なくともアリストテレス主義の伝統のなかでは、自然学の対象に数学を適用することは方法論上の錯誤にほかならなかった。その意味で、科学革命によってもたらされた「空間の幾何学化」は、「自然の数学化」と表裏一体をなすものなのである。近代科学の成立期にあって、その自然の数学化を強力に押し進めたのは、ほかならぬガリレオ・ガリレイであった。

哲学は、われわれの眼前にいつも開かれているこの壮大な書物(つまり宇宙です

)のなかに記されているのです。けれども、そこに書いてある言葉を学び、文字を

習得しておかなければ、理解することはできません。空しく迷宮の闇のなかをさ

まようばかりです。(『黄金計量者』第6、青木靖三訳)

これは「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」と簡略化してしられているガリレオの言葉である。冒頭の「哲学」はむしろ自然哲学、今日で言えば自然科学を意味する。明らかにここでは、宇宙が数学的秩序を持つのみならず、その秩序は数学を媒介としなければ人間には理解できないことが主張されている。ウィトゲンシュタイン流に言えば、ガリレオはここで数学的言語を用いた自然科学という新たな「言語ゲーム」の確立を宣言しているのである。コイレは先の論文において、この点を捉えてガリレオをプラトン主義者と見なし、彼の試みを「プラトン主義の実験的証明」と呼んだ。アリストテレス–スコラの伝統によって葬りさられたピュタゴラス–プラトンの伝統こそは、宇宙に内在する「数学的秩序」の存在を確信していたからである。(49~50頁)

■ところで、こうしたガリレオの方向転換に対して、20世紀に入ってから最も鋭い批判の矢を放ったのは、コイレの師でもある現象学の創始者フッサールであった。彼は最晩年の著書『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下『危機』と略す)のなかで、「ガリレオによる自然の数学化」に一節を割いて詳しい論評を行なっている。

―中略―

フッサールによれば、科学の意味基底として存在する生活世界、すなわち「われわれの全生活が実際にそこで営まれているところの、現実に直視され、現実に経験され、また経験されうるこの世界」(『危機』第9節)を数学的シンボルと式からなるりねんの衣で覆い尽くした張本人こそガリレオにほかならなかった。ガリレオが幾何学的言語の導入によってもたらした新たな科学的経験(数量的認識)は、直接的・現実的な生活世界的経験を見失わせ、それをベールで覆い隠す役割を果たしたというのである。その何よりの証左は、われわれが色や匂いに満ちた知覚的世界を「主観的」世界として貶(おとし)め、無色無味無臭の物理的世界こそ「客観的」世界と考えることのなかに見ることができる。フッサールはそれを本末転倒として指弾する。「理念化された自然を科学以前の直感的自然にすりかえることは、ガリレオと同時に始まった」(『危機』第9節)と言われるゆえんである。(51~53頁)

■通常、われわれは高校の「世界史」の授業などで、近代の出発点は14、15世紀のイタリア・ルネッサンスおよび16世紀初頭の宗教改革にあると教えられる。バターフィールドはこの通説に対して異を立て、近代世界および近代精神のせい立を17世紀の「科学革命」に求める。なぜなら、ルネッサンス(「再生」や「復活」を意味する)はその名のとおり古代のギリシャ・ローマ分化の復興運動であり、宗教改革は原始キリスト教の精神への回帰運動であったように、両者はともに古代を模範とする復古運動にすぎないからである。それらは中世キリスト教世界を批判する運動ではあっても、古代以来のアリストテレス的世界像を否定するにはいたらなかった。それを覆したところにこそ近代世界の面目があるとすれば、その出発点は17世紀の「科学革命」まで下らなければならない。これがバターフィールドの提案である。

―中略― この科学革命を成就することによって、その後西欧諸国は世界史における覇権を確立し、近代史における「西欧の優位」はゆるがぬものとなった。日本を含むアジア・アフリカ地域の諸国にとって、「近代化」がすなわち「西欧化」にほかならなかったゆえんである。(55~56頁)

■クーンはアリストテレスの著作を読み進むうちに、そこに「質的変化一般」の記述という近代以後とまったく異なる自然の見方があることに気づいたことを回想しながら、「この種の変化は、その後すぐにハーバード・バターフィールドによって『思考の帽子のかぶり替え』として記述されることとなり、この点に関する疑問から私は即座にゲシュタルト心理学や関連する分野の書物へと向うことになった」(『本質的緊張』「自伝的序文」)と述べている。後に彼が『科学革命の構造』のなかで科学理論のパラダイム転換を知覚上の「ゲシュタルト・チェンジ」、すなわち反転図形やだまし絵に見られる図柄の変換になぞらえていうことからも、その影響の大きさを窺うことができる。バターフィールドの示唆とは、次のようなものであった。

およそ天体の物理学であれ地上の物理学であれ―この両者は科学革命全体を通じ

て戦略上の拠点となったものであるが―その改革をもたらしたのは新しい観測と

か、新事実の発見とかではなく、科学者の精神の内部に起こった意識の変化なの

であった。(中略)あらゆる精神活動の中で最もやりにくいこと、まだ柔軟性を

失っていないと考えられる若い頭脳にとってすらきわめて困難なこと、それは、

従来と同じ一連のデータを用いながら、しかもそれらに別の枠組みを当てはめて

相互の関係を新しい体系に組み替えることであると言えよう。それはつまり、い

わば別の種類の思考の帽子をかぶって今までとはまったく違った見方をしてみる

ことである。(『近代科学の誕生』第一章)

通常われわれは、コペルニクスは優れた天文学者であり、彼が収集した正確な観測データや新たな観測事実の発見こそが天動説から地動説への理論転換をもたらしたのだ、と考えがちである。しかし、当時のコペルニクスが手にしていた観測データは、プトレマイオスのそれとほとんど代わるところはなかった。天体観測の技術に関する限り、コペルニクスよりは約二世代下のティコ=ブラーエの方がはるかに優秀な天文学者であったと言ってよい。にもかかわらず、ティコ=ブラーエはコペ

ルニクス説を拒否し、地球中心説に固執したまま天動説と地動説の折衷案を提起したに留まったのである。

このコペルニクスとティコ=ブラーエの関係ほど、バターフィールドの言う「思考の帽子(thinking-cap)のかぶり替え」を如実に例証しているものはない。コペルニクスは「従来と同じ一連のデータ」を使いながら、それを「別の枠組み(a different framework)」に当てはめることによって、太陽中心説という、「新しい体系」を組み立てたのである。それに対してティコ=ブラーエは、新たな観測上の発見をなし(新星の発見や彗星の位置が月より高いこと)、火星の精密な観測データを蒐集したにもかかわらず、新たな思考の帽子をかぶることができなかった(彼の観測データは弟子のケプラーに譲り渡され、前述の「ケプラーの3法則」発見の基礎となった)。コペルニクスの場合、彼に新たな思考の帽子をもたらしたものが、彼が深く傾倒していた新プラトン主義ないしはヘルメス主義に由来する「太陽崇拝」の思想であったことは、多くの科学史家が明らかにしているところである。(57~59頁)

■通常われわれは「科学」の起源を古代ギリシャの幾何学や物理学、さらにはバビロニアの天文学にまで遡るけれども、現代的な意味での「科学」、すなわち個別諸科学とその社会的制度化が完成するのは、前章で述べたように19世紀中葉のことである。この時期にようやく科学は哲学の一分野(自然哲学)という軛から離脱し、新しい〈知〉としての自己を確立した。それゆえ、17世紀の二度にわたる科学革命は、いわば〈知〉の領域における「市民革命」と言うべき出来事であった。革命によって成立した新政権は、当然にも当然にも旧政権からおのれを区別するとともに、その正統性を外に向って明らかにせねばならない。

科学が哲学、神学、法学、歴史といった〈知〉の旧体制(アンシャン・レジーム)に対抗し、それを凌駕するためには、まずみずからの来歴を語る系図を作成し、さらにその方法論上の優位を証明してみせる必要があった。そのような使命を担って登場したのが「科学史」であり「科学哲学」にほかならない。(66頁)

■このホイッグ史観に反旗を翻し、科学史研究の水準を一挙に高めたのは、クーンが「他のどの科学史家にもまして私の師と呼ぶにふさわしい人物」(『本質的緊張』第二章)と語った先のアレクサンドル・コイレであった。彼は過去の事績を現在の高みから「後知恵」によって裁断することを排し、過去の科学者たちが直面した問題を彼ら自身が用いた概念を通じてりかいし、それを一次資料に即してあらゆる角度から内在的に再構成するという「内的科学史(internal history)」の方法論を洗練させた。内的科学史を研究する上での指針を、クーンは次のように述べている。

科学史家は、彼の知っている今日の科学をできる限り考慮の外に置くというこ

とである。彼は、彼が研究しようとしている時代の教科書や定期刊行物から、科

学を学ばなければならない。そして彼は、それとそれらが繰り広げる固有の伝統

とに精通してから、発見や発明によって科学発達の方向を変えることになる革新

者に取り組むべきである。革新者たちを扱う際には、彼は革新者たちが考えたの

と同じように考えるよう試みなければならない。(『本質的緊張』第五章)(74~

75頁)

■ヒューエルの科学哲学の特質は、ハーシェルのそれが一貫して経験主義的であるのに対し、カント哲学の影響を濃厚に受けて、事実を統括するアプリオリな概念の働きを強調するところにある。ヒューエルによれば、感覚的経験から得られた事実を概念で結びつけることを通じて、われわれは真理を獲得する。その際に行なわれる手続きが「帰納」、すなはち仮説の形成である。真理の発見にいたるまでには、おびただしい数の仮説が提起され、また淘汰される。彼は科学史上の事例を考察しながら、その過程を「言葉で表現される以上の数多くの推測が彼ら[科学者]の心を通りすぎ、諸概念のできる限り多くの結合が形作られては、まもなく却下される」(第11巻第4章)と描写している。つまり、帰納の過程ですでにさまざまな試行錯誤がなされるのである。その結果、「一連の仮説が呼び出されては素早く吟味にかけられ、やがて多様な集団のなかから仮説の選択を行なう決定がくだされる」(同前)ことになる。次に来るのは、その選択された仮説を検証する過程である。この検証をめぐるヒューエルの考察は、仮説の予測的機能を明らかにしていて興味深い。(81頁)

■ヒルベルトの見解は、19世紀も終わろうとする1899年に刊行された『幾何学の基礎』において初めて体系的に提示された。かれはユークリッド幾何学を公理主義的に再構成するというささやかな企図から出発しながらも、結果として幾何学を「空間の学」から「抽象数学」へと変貌させ、現代数学へと至るパラダイム転換をなしとげたのである。ヒルベルトはまず点、線、面、などユークリッドが定義を与えた幾何学の基本概念を「無定義述語」としてそれを空間直観から切り離し、公理をそれらの無定義述語の間の関係を定める「仮説」あるいは任意に取り決めのできる「規約」として特徴づけた。それによって、点、線、面、などの概念は実在との関係を断ち切られて一群の公理系を満足する「あるもの」にすぎなくなり、また公理系は「自明の直観的真理」ではなく、無矛盾性、完全性、独立性などの形式的性質を満足する一連の「無証明命題」となった。「点、線、面の代わりにテーブル、椅子、ビールジョッキと言い換えても幾何学ができる」というヒルベルトの言葉は、彼の幾何学観を端的に表明したものである。

明きらかに、ヒルベルトにとっては、幾何学的公理は空間直観に照らして真理性を保証されるべきものではなく、任意に選択できる仮説にすぎない。しかし、システムとしての「公理系」については、その無矛盾性が証明されなければならないのである。それに対してフレーゲは、「公理が真であることから、それらが互いに矛盾していないことが帰結します。それゆえ、さらなる証明は不必要です」と主張する。つまり、ヒルベルトにとって証明すべき無矛盾性は、フレーゲにとっては証明不要の自明な事柄であり、逆にフレーゲにとって絶対必要な公理の真理性を、ヒルベルトはまったく問題にしないのである。両者の間には、何が幾何学の「問題」であるかについて、そもそも「共通の尺度」、すなわち通約可能性が存在していない。二つの異なるパラダイム(科学研究の前提事項)の間では同じ用語を使いながらもコミュニケーションの行き違いが生じるという、クーンの言う「通約不可能性」にとって、これほど好都合な事例はまたとないであろう。ここで争われているのは、すでに真偽の問題ではなく、どちらの幾何学パラダイムを受け入れるという態度決定の問題なのである。(88~89頁)

《私(岡野)は通約は可能であると思う。世界は超越論的に実在しているのだから》

■もう一つ注目しておかねばならないのは、ヒルベルトの問題提起を通じて数学的真理の身分について根本的な考え方の変更が起こったことである。ヒルベルトがフレーゲ宛の書翰で語った言葉によれば、「任意に措定された公理がすべての帰結に関して相互に矛盾しないのであれば、その公理は真であり、それらによって定義されたものは存在する」のである。したがって、幾何学的命題は「規約」として任意に選ばれた公理系から純粋に論理的手続きのみによって導出された帰結、すなわち「条件付きの真理」にほかならない。ピタゴラスの定理といえども、公理系の選択を抜きにその真偽を論ずることはできない。「真理」という言葉は、それが属する体系的文脈(パラダイム)に依存するのである。

この真理のパラダイム依存性こそ、後にクーンのパラダイム論をめぐって非難が集中した点である。クーンが「〈科学〉殺人事件」の法廷に引き出されたのも、主たる理由は「真理の相対主義」の主唱者と目されたからであった。しかし、ヒルベルトの主張は、別に奇矯なものではない。数学的真理は、それを証明すべき形式的言語の体系に依存するということにすぎない。つまり、前提や推論規則が異なれば、証明される真理もまた異ならざるをえないということである。クーンのパラダイム論も、実質的にはこのヒルベルトの主張と変わるところはない。ただ、それを自然科学に適用したところから、科学的実在論者の強力な反発を招いたのである。(89~90頁)

《私(岡野)は科学的実在論者の意見の方に組する》

■アインシャタインが1905年にはっぴょうした論文「運動物体の電気力学」は「すべての物理法則は、いかなる慣性系を基準にとろうと同一である」という相対性原理をようせいすることによって、絶対静止系のような特別な基準系は存在しないことを明らかにした。これはニュートンの言う絶対空間が存在しないことを意味する。また彼は「真空中を伝播する光の速度は、光源の運動状態と無関係に一定値Cをとる」という光速度不変の原理を要請することによって、「同時刻」という概念が観測者の座標系に相対的であることを示した。これは「絶対時間」という概念を無意味にするとともに、空間を瞬時に伝わる万有引力のような「遠隔作用」の存在を否定するものであった。さらにアインシャタインは物体に固有の不変量と考えられてきた質量が、物体の運動速度に伴って変化するものであることを明らかにした。これら絶対空間、絶対時間、質量、遠隔作用などニュートン力学の基本概念に根本的な変更を加えたことは、古典物理学的世界像への信頼を根底から打ち砕くものであった。

クーンはこれを明白な「科学革命」の一例とかんがえる。ニュートン力学と相対性理論の間には、基本概念をめぐる「意味変化」が生じているからである。この概念上の意味変化をクーンが「通訳不可能性」として特徴づけたことから、大きな論議が巻き起こったのであるが、その詳細は第4章の叙述にゆだねよう。さらに、「エーテルに対する地球の相対速度」といった物理学の中心問題が消滅したことも「科学革命」の特徴と言える。パラダイム転換は何が解決されるべき「問題」であるかに関する共通了解を根本的に変更するものだからである。(93~94頁)

《私(岡野)は、基本概念をめぐる「意味変化」と捉えない。世界のゲシュタルトの空間と時間の量の変化による、B・フラーのテンセグリティのテンションの紐の組み替えだと思う》

■それと同時にノイラートとカルナップが作成してシュリックに捧げたウィーン学団の綱領文書『科学的世界把握―ウィーン学団』が刊行された。これは学団の成立過程やその哲学的主張を高らかに謳い上げた宣言文であり、末尾には「科学的世界把握の指導的代表者」としてアインシャタイン、ラッセル、ウィトゲンシュタインの名前が掲げられている。それぞれ物理学、論理学、哲学の分野に新たな期を画した3人を先達と仰いでいるところに、彼らの目指すべき方向が端的にしめされている。その一節を見てみることにしよう。

科学には「深層」といったものは存在しない。存在しているものは、すべて表

象である。複雑で常にすべてを見通すことができず、しばしば個的な形でしか理

解できない網を構成しているものは、すべて体験である。すべてのものが人間に

とって近づきうる。人間はあらゆるものの尺度である。(中略)科学的世界把握

は、解くことができない謎はないことを認める。伝統的哲学の問題を明晰にする

こと、その結果一部では、それは疑似問題としてその正体が明らかにされ、また

一部では経験的問題へと変形させられ、そうして経験科学の判断にゆだねられる

ことになる。このような問題と言明の明晰化に哲学の仕事の課題が存するのであ

り、固有な「哲学的」言明を打ち立てることにその課題があるのではない。明晰

化の方法とは論理分析の方法のことである。(Wissenshaftliche Weltauf-fassung 

: Der Wiener Kreis,寺中平治訳)(98~99頁)

■論理学は19世紀後半にフレーゲの『概念記法』(1879)が出現することによって飛躍的な発展をとげた。すなわち、アリストテレス以来の名辞を単位とする伝統的論理学に代わって、命題を単位とし、その内部構造を解析する記号論理学が登場したにのである。その体系はホワイトヘッドとラッセルの『数学原理』全3巻(1910-13)によって形式的に整備され、さらにウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(1922)によった哲学的意味を与えられた。ウィーン学団の指導的代表者としてラッセルとウィトゲンシュタインの名が挙げられていたのは、こうした理由による。彼らが研ぎ上げた記号論理学という剣は、旧来の形而上学に立ち向かう何よりの武器となったのである。

ウィーン学団は彼らの科学哲学を「科学論理学(Wissenshaftslogik)」と呼んだ。(100頁)

■仮説演繹法を非合理な当て推量であると神秘的に解釈することは、発見の文脈と正当化の文脈とを混同することから生まれる。物事を発見するという行為は、論理的分析のできない事柄であり、天才の創造的機能に代置しうるような〈発見機械〉を論理規則にのっとって製作することは不可能なのである。しかし、この科学的発見を説明することは、論理学者の仕事ではない。論理学者のなしうるすべては、ある事実を説明しうると称される理論と、その与えられた事実との関係を分析することである。言い換えれば、論理学は正当化の文脈のみを取り扱うのである。(ライヘンバッハ『科学哲学の形成』市井三郎訳)(101頁)

■仮説演繹法のプロセスを簡単にまとめておけば以下のようになる。

⑴ 観察による科学的データの収集

⑵ 帰納法に基づく仮説の提起

⑶ 仮説からのテスト可能命題の演繹

⑷ 実験によるテスト可能命題の検証および反証

⑸ 検証された仮説に基づく理論の形成

このうち⑵の仮説の提起が発見の文脈に、また⑶の論理的演繹および⑷の検証と反証の過程が正当化の文脈にそれぞれ対応する。それゆえ、正当化の手続きは科学的仮説の論理分析とテスト可能命題の経験的実証とからなる。科学哲学の役割を正当化の文脈に限定したウィーン学団の思想が「論理実証主義」と呼ばれるゆえんである。(102頁)

■論理実証主義の今一つの目標は、科学理論の耕造を公理に基づく演繹的体系として論理的に整備するとともに、すべての経験科学を唯一の理論言語によって統一することであった。これが「統一科学」のりねんである。統一科学の構想そのものは、マッハの要素一元論にまで遡る。彼はこの世界を構成する基本要素は原子や分子ではなく「色、音、熱、圧、時間、空間……」などの感性的諸要素であると考え、これら諸要素の関数的依属関係を「思考経済の法則」に則って縮約的に記述することが科学の目標であると主張した。それゆえ、物理学と心理学の違いは、物と心という研究対象の違いではなく、諸要素の関連態を記述する視点の違いにすぎない。すべての科学は、諸要素の関数関係の記述に帰着するのであり、その観点から統一されるべきなのである。

ウィーン学団はこの統一科学の構想を引き継ぎ、マッハが科学の存在論的統一を目指したとすれば、その言語論的統一を目指したのである。それは、すべての科学を唯一の理論言語によって記述することに帰着する。その理論言語のモデルとなったのは、基本的には物理学の言語であった。物理学こそは実在の耕造を厳密な概念構成によって法則的に記述する「科学のなかの科学」と考えられたからである。したがって、社会学は心理学へ、心理学は生物学へ、生物学は科学へと順次論理分析を通じて還元されていくことになる。自然科学のみならず社会科学の基本概念と法則もまた、それが科学である以上、最終的には物理学の基本概念と法則によって定義され、定式化されねばならないのである。「ただ一つのかがくのなかに、すべての認識は根本的に同じ種類の認識として自己の位置を見いだす」(カルナップ)という統一科学の理念は、その意味で物理学的還元主義の別名であった。(105~106頁)

《私(岡野)の考え:物理学的還元主義は美術では、ミニマルアートになるので私のコンセプトと違うけれど、科学が物の還元主義だとしたら物理学は関係の還元主義だといえて、その点はおおいに認めるべきものがある。いずれにしても還元主義は対概念であるフラーのいうシナジェティクスを欠いているので、美術家としては方法論として一部認めても、全面的には容認できない》

■しかし、クーンはアリストテレスの『自然学』が彼の理解を拒絶した地点で立ち止まり、考え直した。その理由は別にこみいったものではない。いわば「コロンブスの卵」のようなものである。アリストテレスは生物学の分野では鋭い博物学的観察眼の持ち主であり、また論理学者としては三段論法の体系を集大成した伝統的論理学の創始者であった。さらに、倫理学や政治学におけるアリストテレスの洞察は今日なお生きており、ときには論争の的とすらなっている。このような万学に通じた希有の学者が、物理学の分野だけに限ってとんでもない間違いを犯すなどということがありうるだろうか。クーンはこう考えたのである。

―中略―

忘れられない(非常に暑かった)ある夏の日、突然これらの困惑が消え失せ

た。それかで格闘していたテクストのもう一つの読み方を与える一貫した基本原

理を、私はたちまちのうちに悟ったのである。はじめて私ハ、アリストテレスの

研究テーマは質的変化一般なのであって、石の落下も子供から大人への成長も共

に含むのだという事実に正当な重点を置いた。後に力学になるはずの主題は、彼

の自然学においてはせいぜいのところまだ十分に分離されない特殊事例なので

あった。いっそう重要だったのは、私が次のことに気づいたことであった。それ

は、アリストテレスの宇宙の永久的な構成要素、つまり存在論的に第一に不滅な

諸元素とは、物体というよりも質なのであって、遍在する中性の質量の一部に質

が押しつけられると個々の物体や実体が構成されるということである。(中略)

きわめて不十分で乱暴な言い方ではあるが、アリストテレスの営みに対する私の

新しい理解のこれらの諸側面は、一連のテクストの新しい読み方の発見というこ

とで私が意味していたところを示すに違いない。それを成し遂げて以来、それま

で不自然な比喩と思えていたことがしばしば写実的な描写に見えてきて、見かけ

上の不自然さも消え失せた。その結果として、私はアリストテレス主義者になっ

たというわけではないにせよ、ある程度までは彼らのように考えることを学んだ

のであった。(『本質的緊張』「自伝的序文」)(115~116頁)

■それが同時に、パラダイム論の形成にいたる第一歩でもあったことは言うまでもない。そのことはクーンが「私によるアリストテレスの読み方が明らかにしたとことは、人が自然を見た見方および自然へ言語を適用した仕方における全面的な変化なのであって、それは知識をふかするとか、僅かづつ誤りを正すとかから成るものとして記述することのできない性格のものなのである」と述べていることからも明らかであろう。自然に対する見方の「全面的な変化」こそパラダイム転換、すなわち「科学哲学」にほかならないからである。彼自身が「科学史を発見する一方において、私は私自身の最初の科学革命を発見していた」と述べるゆえんである。(119頁)

■『コペルニクス革命』の冒頭は、「コペルニクス革命は観念上の革命、すなわち宇宙および宇宙に対する人間自身の関係についてわれわれ人間がもっている概念体系の転換であった」という一文で始まっている。この観念や概念を整合的に組織化したものが「概念図式」にほかならない。古代人のそれは、地球と恒星天球という二つの球から成る宇宙というものであった。概念図式は「理論」であると同時に「世界感」でもある。

一方でそれは観測資料の秩序だった要約であり、概念上の「思考経済」すなわち最小限の思考の出費で事実をできるだけ完全に記述することに寄与する。それがなければ、科学は複雑な自然現象についての膨大な情報を蓄積し、それを説明することはできないであろう。他方でそれは「創造された世界における人間の位置を定義し、人間と神との関係に物理的意味を与える」働きをする。その限りで、概念図式は想像力の産物でもある。この二つの側面、すなわち具体的な研究の指針であるとともに知識を組織化する世界観的枠組みでもあるという両義性は、後のパラダイム概念にも引き継がれるものである。(124頁)

■科学理論はその中心をなす主要仮説のみならず、補助仮説や背景的知識をも含んだ複合的な体系であり、その中の単一の命題が反証されたからといって理論全体が直ちに放棄されることはありえない、ということである。したがって、理論転換の問題は、単純な論理的過程に還元することはできない。クーンの言葉を借りれば「論理的矛盾を強調することは本質的問題を覆い隠してしまう」のである。むしろ、究明されるべきは「見かけの一時的な不一致を逃れがたい矛盾へと変えるものは何か。一時代には明晰で柔軟で緻密なものと賞賛された概念図式が、次の時代には単に不明瞭で曖昧で面倒なものとなるのはどうしてなのか。科学者はなぜ不一致にも拘わらず理論にしがみつき、それに固執し続けるのか。科学者はどのような理由で理論を放棄するに至るのか」といった諸問題である。(126~127頁)

■クーンが「科学的信念の解剖学」を転回するに当たって鋭利なメスを入れたのは、伝統と革新のパラドキシカルな関係についてであった。この主題はクーンの科学論を通底する主調低音であり、それがすでに処女作において明瞭な響きをもって奏でられていることは指摘しておくに値する。彼はコペルニクスの『天球回転論』が「革命的なテクストというよりは革命を引き起こしたテクスト」であったことを述べ、さらに次のように続けている。

革命を引き起こす著作は過去の伝統の頂点であると同時に将来の新たな伝統の

源泉でもある。全体として『天球回転論』は、古代の天文学的および宇宙論的伝

統の内部にほとんどすっぽり収まっている。だが、その概して古典的な枠組みの

中には、当の著者すら予見できないような仕方で科学思想の方向を転換する少数

の新奇性が見いだされるのであり、それが古代の伝統との急速で完全な断絶をも

たらしたのである。天文学の歴史が用意する視座から見ると、『天球回転論』は

二重の性格をもっている。それは古代的であると同時に近代的であり、保守的で

あると同時に急進的である。したがって、その著作の意義は、その過去と未来、

すなわちそれを生み出した伝統とそれが生み出した伝統とを同時に見渡すことに

よってのみ見いだすことができる。(第5章)(127~128頁)

■会議の趣旨は、科学的そうぞうせいの基盤となる「逸脱的思考(divergent thinking)」の構造を解明し、それを実現する才能をいかにして見つけ出すかを論ずる、というものであった。逸脱的思考とは、古い解答を拒否して新しい方向へと出発する、基礎科学者に求められる幅広く自由な思考のことである。主催者側はそれを、科学者は「最も(自明な)事実や概念であってもそれを必ずしも受け入れることはなく、逆に最もありそうにない可能性について想像力を発揮するまでに偏見から解放されていなければならない」(セリエ)と特徴づけている。明らかに、ここに揚げられているのは、われわれがアインシュタインなどをモデルに思い描く「理想的科学者像」とでも言うべきものである。(131~131頁)

■それとは逆に、通常研究はその最良のものすらが、科学教育の中で習得され、それに続く専門家集団内での生活の中で補強された安定的合意の上に固く基礎づけられた高度に求心的な活動なのです。典型的には確かに、この求心的で合意によって束縛された研究こそが最終的には革命をもたらすのです。しかし、科学的伝統の革命的転換というものは比較的まれなことであり、求心的研究の長い期間がこの転換に対する必然的な前提となります。以下で示すように、その時代の科学的伝統に固く基礎づけられた研究だけが、その伝統を打ち壊し新しい伝統を招来しうるのです。(『本質的緊張』第9章)(134頁)

■つまり、科学者が用いる「力」「質量」「化合物」といった基礎的な用語の定義に関して何らかの一致が存在し、それが通常科学の研究を支えていると考えたのである。

しかし、その試みは見事に失敗に帰した。クーン自身の述懐によれば、「明らかに、私が探していたような合意は存在していなかった」のであり、「1959年の初めになってようやくわかったことは、実際にはこのような合意はまったく必要ないということ」であった。この点に気づいたことこそ、「パラダイム」概念の形成にとって決定的な一歩であったということができる。ウィトゲンシュタインは言語における人間の一致を「それは意見の一致ではなく、生活形式の一致である」(『哲学探究』第1部241節)と述べているが、その言い方を借りるならば「パラダイム」は科学者たちの「意見の一致」ではなく「生活形式の一致」を表現するための概念なのである。(139頁)

■この講演は「生産的な科学者は、ゲームを形作る新しい規則と新しい駒とを発見する成功した革新者であるためには、前もって設定された規則に従って複雑なゲームを楽しむ伝統主義者でなければなりません」と締め括られている。これがウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を下敷きにした発言であることはいうまでもないが、この科学者像は、クーンが処女作においてコペルニクスのなかに見いだしたものであったことは注目されてよい。まさに「伝統と革新の弁証法」を生きる科学というイメージこそは、彼の科学観を貫く一本の赤い糸だからである。これはクーンの主著『科学革命の構造』においても、明瞭な主調低音として鳴り響いている。(142頁)

■『科学革命の構造』を書いた目的を、クーンは「研究活動それ自体の歴史的記録から浮かび上がる、科学のまったく異なった描像を描き出すこと」に求めている。それは、科学の複雑に入り組んだ地層を考古学者の眼差しをもって探求する一種の「科学のアルケオロジー(考古学)」の試みであったと言ってよい。フーコが『言語と物』において目指したのが「人文科学の考古学」であったとすれば、クーンが『科学革命の構造』において目指したのは、いわば「自然科学の考古学」と言うべきものであった。その意味で、フーコの「エスピテーメ」とクーンの「パラダイム」が、ともに〈歴史的アプリオリ〉という性格を共有し、〈知〉の連続的進歩という通念を痛撃したのは単なる偶然の一致に留まるものではない。(142頁)

《私(岡野)の意見:〈知〉すなわち〈解釈〉は連続的に進まないかもしれないが、〈存在(時間を含む)〉は時に分岐はするけれど常に連続的だと思う》

■しかし、すでにN・R・ハンソンが『科学的発見のパターン』(1958)において指摘したように、科学的事実は「理論負荷的」なのであり、理論的背景を離れた「裸の事実」なるものはありえなあい。たとえば、1枚の顕微鏡写真のなかに染色体を見いだし、霧箱写真から素粒子の種類を同定することは高度な理論的作業であり、生物学や物理学の理論を知らない素人にできることではない。観察とは単なる「感覚与件」の受容にとどまるものではなく、理論的文脈のなかで「事実」を構成する作業なのである。

―中略― だが、事実と理論が分離できないとすれば、観察事実は科学理論を検証ないしは反証する際の中立的な基盤ではありえず、事実は理論を打ち倒せないことになろう。そのとおりである。理論を打ち倒すのは事実ではなく、それに代わる新たな理論にほかならない。このことこそ、クーンの「科学革命」あるいは「パラダイム転換」が示唆するものであった。(150頁)

《私(岡野)の意見:〈知〉すなわち〈解釈〉の問題と、肉体に写る外部の〈存在(時間を含む)〉は、つまり目に写った写像は中立的な基盤であると思う》

■ところで、イアン・ハッキングは彼が編集した優れたアンソロジー『科学革命』(オックスフォード大学出版局)の序文において、論理実証主義的科学観の要点を以下の九ヵ条にまとめている。すなはち、⑴科学的実在論、⑵科学と非科学との境界設定、⑶科学的知識の累積生、⑷観察と理論の区別、⑸科学の経験的基盤、⑹科学理論の演繹的構造、⑺科学的概念の厳密性、⑻正当化の文脈と発見の文脈のくべつ、⑼物理学による科学の統一(還元主義)、の九項目である。すでに見たように、クーンが提起した論理実証主義的科学観への疑念は、このうち⑶、⑷および⑻に関わっている。これらの基本テーゼは相互に依存しあっているものであり、とりわけクーンが問題にした⑶と⑷の条項は、論理実証主義的科学観のアキレス腱とも言うべきものであった。クーンがウィーン学団という巨人に向って投げた石は、そのアキレス腱を断ち切ったのである。(152頁)

■科学の歴史のほとんどは「通常科学」の期間であると言ってよい。パラダイム転換が起こるのは、「異常科学」の一時期に属する稀な出来事にすぎない。時代に先駆けた天才の悲劇がしばしば科学史のエピソードを飾るのも、異常科学の才能を持った科学者が折悪しく通常科学の時期に生まれ合わせたという理由によるものであろう。(158頁)

■危機に陥ったパラダイムがたどる道は3通りに分かれる。第一は変則事例が通常科学に吸収されて見かけ上の危機が克服されること、第二は問題が手強すぎるため、その解決が次の世代に委ねられること、そして第三は新たなパラダイム候補が現われ、その受容をめぐる闘いを経て危機が終結へ向かうことである。この第三の場合が、いわゆる「科学革命」あるいは「パラダイム転換」と呼ばれる事態にほかならない。(164頁)

■科学理論上のパラダイム転換という事態を「革命」と名づけたことについて、クーンは科学革命と政治革命との類似性を指摘している。ともに既成の制度が問題を解決しえなくなって機能不全に陥り、危機の感覚が醸成されることから革命が始まるからである。さらにクーンは「対立する政治制度の間の選択と同様に、対立するパラダイムの間の選択は、共同体の生活をめぐる両立不可能な流儀の間の選択にほかならないことがわかる」と述べている。だとすれば、パラダイムの選択の問題は、論理分析や決定実験といった、一義的な基準ではきめられないことになろう。そこからクーンは「政治革命におけると同様に、パラダイムの選択においても、関連する共同体の同意を上回る高い基準は存在しない」と結論するのである。(166頁)

■しかしながら、基準の通訳不可能性以上のものがそこには含まれている。新しいパラダイムはふつう古いパラダイムからうまれるのだから、新しいパラダイムはふつう、概念的であると操作的であるとを問わず、伝統的パラダイムがこれまで採用してきたパラダイムがこれまで採用してきた語彙や装置の多くを取り入れる。しかし、新しいパラダイムがこれら借用した要素をほかならぬ伝統的な仕方で用いることは稀である。新しいパラダイムの内部では、古い用語、概念および実験はお互いに新たな関係を取り結ぶ。その不可避的結果として、適切な言葉ではないかもしれないが、二つの競合する学派の間の誤解と呼ぶべきものが生ずるのである。(中略)アインシュタインの宇宙に移行するためには、空間、時間、物質、力、等々といった糸からなる概念的織物の全体を作り変え、もう一度自然全体にかぶせ直さねばならない。(『科学革命の構造』第12章)(170頁)

■しかしながら、他方で彼は「パラダイムのようなものが知覚自体の前提条件ではないかと推測される」と述べており、パラダイム概念が日常的知覚の次元にまで拡張可能であるかのように示唆している。そのため、パラダイム転換が科学的世界のみならず日常的世界をも全面的に変化させるかのような誤解を招いたのである。(178頁)

■科学の進歩に関する通俗的イメージは、無限の彼方にある「進歩の殿堂」へ向って、科学者たちが一致協力しあいながら一歩一歩階段を登るように確実に近づいていく、というものであろう。つまり、クーンの要約によれば「自然に関する一つの完全で客観的で真なる説明が存在し、科学的業績の正しい尺度は、それがわれわれをかの究極目標へ近づける度合いにほかならない」という科学像である。これは明らかに、「真理」という究極目標を設定している点において、目的論的な描像と言うことができる。この目的論の背景にあるのは、一種の神学といって悪ければ、パトナムの言う「形而上学的実在論」の信念である。正当化の文脈を発見の文脈から切り離し、科学を完全に合理的な方法論あるいは論理的アルゴリズムに還元しようとした論理実証主義の科学観を支えてきたのは、この根拠なき「形而上学的実在論」の信念であったといってよい。(188~189頁)

《私(岡野)の意見:論理実証主義の限界は、論理をなりたたせる原理そのものと、その道具である記号では、存在の時間性と存在の勾配はとらえきれないというところにあるので、「形而上学的実在論」は正しい信念だと思う》

■クーンが科学革命を政治革命とアナロジカルに捉えていたことも、彼の意図とは別に1960年代末の「正治の季節」と共鳴現象を引き起こすもととなったと言えよう。(196頁)

■以上のような論理実証主義の基本前提に対する批判という点では、ポパーとクーンは問題意識を共有する。しかし、ポパーは「検証可能性」や「帰納主義」を拒絶しながらも、「境界設定の基準」「発見の文脈と正当化の文脈の峻別」および「科学の進歩」を擁護することにおいては論理実証主義と軌を一にしている。クーンと見解が分かれるのはその点である。それゆえクーんは、先のシンポジウムにおける基調報告のなかで、ポパーと自分が科学に関する同じデータを取り上げ、実質的に同じ答えを与えている場合でも、その意図はしばしばまったく異なっていることを指摘する。彼らは同じ論文の同じ行を論じても、そこから描き出される科学像は異なっているのであり、それゆえクーンは「われわれを隔てているのは不一致であるよりも、むしろゲシュタルト変換である」と述べ、「彼がアヒルと呼んでいるものをウサギと見ることもできるということを、どうやって説得したらよいのか」と反問している。ここでクーンがポパーと自分の科学観の違いを「ゲシュタルト変換」になぞらえていることは興味深い。それというのも、彼らの間に戦わされた論争は、まさに旧科学哲学から新科学哲学への「パラダイム転換」をめぐる問題だったからである。(206頁)

■科学者が自分の「誤り」から学ぶことができるのも、何が「誤り」であるかの基準が明示されている通常研究の領域においてでしかない。その点をクーンは次のように説明している。

個人が自分の誤りから学ぶことができる唯一の理由は、実践によってこれらの

規則[論理規則、言語規則、論理や言語と経験との間の関係についての規則]を

体現しているグループが、規則を適用する際に個人が犯す誤りを分離できるから

にほかならない。要するに、カール卿の命法が最も明瞭に当てはまる種類の誤り

は、あらかじめ確立された規則に支配された活動の内部において、個人が犯す理

解や認識の失敗である。科学の中でこのような誤りが最も頻繁に生じるのは、通

常のパズル解き研究の実践の内部においてであり、またおそらくはその内部にお

いてのみである。(『批判と知識の成長』)(208頁)

《私(岡野)の意見:人間は外に向っても、内に向っても世界=内=存在なのだから、世界と自己との関係からダイレクトに自分の誤りを学ぶことができる》

■だがポパーによれば、そのような回避策は科学者が取るべき公正な態度ではない。科学者はすべからく反証例が挙げられれば自説を清く撤回すべきなのである。ポパーはそれゆえにこそ、研究に携わる科学者が順守すべき「規則」あるいは「規範」を確立すべきことを提案する。だとすれば、ポパーが求めているのは、科学的発見の「論理」であるよりは、むしろ「倫理」だと言うべきであろう。(209頁)

■ここにはポパーとクーンの科学像の違いが端的に現われており、興味深い。ポパーが念頭に置いているのは、アインシュタインやハイゼンベルグらが個人の才能のみを頼りにして発見や発明をなしえた20世紀前半の「古きよき時代」の科学である。そこにでは確かに「純粋科学」が成立する余地があった。それに対して、クーンは第二次世界大戦における科学者の戦時動員を体験し、戦後の共同研究による巨大科学のプロジェクトを目の当たりにした世代である。すでに純粋科学と応用科学の境界線は曖昧になり、高価な実験施設を備えるためには、まず膨大な申請書類を書いて予算を獲得せねばならない。科学者はもはや実験室のなかで孤高を保つことはできず、世俗の社会制度のしがらみのなかで研究をすすめざるをえないのである。クーンはそうした科学研究の現状を、いわば文化人類学の眼差しで捉えようとしたにすぎない。そのようにして描かれた科学者が、ポパーの目には「科学の堕落」と映るのである。(216頁)

■しかし彼(岡野注:クーン)は、意味論的真理概念に「絶対的」や「客観的」といった王冠を戴かせ、それを認識論的真理概念とすり替えることを拒否するのである。しかも、ポパーがこの絶対的真理概念に依拠して、科学の目的は「批判的議論の光に照らして、真理により近い理論を見いだすことである」として究極の真理へと向う「科学の進歩」を語るとき、クーンはやはりそれを拒否せざるをえない。それはパトナムの言う『形而上学的実在論」を前提することなしには語りえない事柄だからである。(217~218頁)

■マートンはこの論文で、後に「マートン・テーゼ」と呼ばれることになる2つの命題を提起した。第一は、17世紀イギリスにおける科学研究を方向づけたのは、経済的・技術的要求であったというテーゼである。前者の命題は明らかに、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で提起した基本テーゼを近代化学の起源をめぐる考察に適用したものであることが見てとれる。このマートン・テーゼに対しては否定的議論も少なくなかったが、その後、科学社会学が自立した学問分野として確立されるに当たって、研究上の「模範例」としての役割を果たしていった。いわゆる「マートン学派」が形作られたのである。(264~265頁)

■そのなかで最もよく知られているのは、「マートン・ノルム」と呼ばれる科学者を律する行動規範に関する分析である。彼はそれを『社会理論と社会構造』(1949、邦訳みすず書房)第16章「科学と民主的社会構造」のなかで四つの規範に定式化している。

第一は、「普遍主義」であり、「科学のリストに入ってくる真理要求を受け入れるか拒否するかは、要求主体の個人的、社会的属性に左右されるべきでない」というものである。つまり、科学理論の妥当性の判断はそれを提出した科学者の人種、国籍、宗教などに影響されるべきでなく、その内容が「観察とすでに確認ずみの知識とに一致する」か否かという基準のみによって判断されるべきだ、ということである。この普遍主義は、さらに「学者としての経験は才能ある者に開放されているべきだという要求」と密接に結びついている。

第二は、「公有性」であり、「科学の実質的な知見は社会的恊働の所産であり、共同体に帰属する」という規範である。ここから秘密主義が否定され、研究成果は学会や学術雑誌を通じて公表されねばならない、という公開制の要求が導かれる。またこの規範は科学的知識を「私有財産」とすることを禁じる。科学的発見に対して科学者が受け取る唯一の褒賞は「世間から認められ尊厳を受けること」に尽きるのである。(205~206頁)

■たとえば、飛行機事故が起こったとする。そのときには、直ちに事故調査委員会が組織され、事故(失敗)の原因が徹底的に究明されることであろう。しかし、飛行機が問題なく飛んでいるときには、その順調な飛行(成功)の原因を究明する委員会が組織されることはありえない。それに対して、成功も失敗と同様にその原因が究明されるべきだと主張するのがストロング・プログラムの要点である。したがって、真なる信念や合理性は、偽なる信念や非合理生とまったく同様に、科学社会学によって因果的に説明されるべき事柄だということになる。言い換えれば、普遍妥当的な真理と認められてきた数学や論理学の知識も、科学社会学的説明を免れることはできないのである。(271頁)

■これは近代初頭にベーコンとデカルトによって彼らの科学的方法論の核に据えられた考えであり、知識は疑いえない堅固な基盤の上に築き上げられねばならない、というテーゼを指す。その基盤をデカルトは「アルキメデスノ支点」にたとえている。ただし、ベーコンはその基礎を「経験的なもの」に求め、デカルトはそれを「生得的なもの」に求めた。また、基礎から知識へと上昇する手続きとして、前者は「帰納法」を、後者は「演繹法」を要請した。この基礎づけ主義の二つの流れは、科学的知識の「実証的」側面と「論理的」側面を特徴づけるものとして、伝統的科学哲学(論理実証主義)のなかへと流れ込んだ。すなはち、クーンの言う「経験的基礎づけ主義」と「演繹的正当化主義」とである。(277~278頁)

■伝統的科学哲学が想像したように、理論間の選択に関わるすべての個人が、合理的に同一の証拠のもとでは同一の決定をなすべく強いられると仮定してみましょう。長期間定着していた理論が新しく提示された代替理論によって置き換えられるにはどれほど強力な証拠が必要でしょうか。もし要求が高く設定されれば、新たに提出された理論はその力を立証する余地を与えられないでしょうし、低く設定されれば、既成の理論は新理論の攻撃から身を守る機会を得られないでしょう。独我論的方法は科学の前進の息の根を止めてしまうでしょう。判断による決定的手続きは共同体に、生活形式のいかなる選択にも伴う危険を分散させることを可能にしているのです。(『思想』1986年8月号、佐々木力・羽片俊夫訳)(280頁)

■『科学革命の構造』中山茂訳、みすず書房、1971年(1962)

言うまでもなく、科学史・科学哲学の分野を震撼させたクーンの主著である。初版は全13章からなり、ウィーン=シカゴ学派のメンバーを編集委員とする「統一科学国際百科全書」の第2巻第2号として1962年に刊行された。しかし、本書の役割は、ウィーン学団が築き上げてきた論理実証主義的な科学観を完膚なきまでに打ち砕くことにあった。その意味で本書は、論理実証主義の牙城に送り込まれた「トロイの木馬」にたとえらることができる。それは累積的科学観とホイッグ史観(進歩史観)に対して突きつけられた大胆な挑戦状であった。その結果、20世紀の科学観は大きな「パラダイム転換」を経験したのである。

―中略―

本書が与えた衝撃は、何よりも、科学理論は検証や反証という合理的手続きを通じて客観的知識を確立し、唯一の真理へ向って連続的に進歩する、という従来の常識的な科学観を根本から否定したことにあった。それに代えてクーンは、科学理論パラダイム転換を通じて断続的に転換する、という新たな科学像を提起する。科学研究の具体的指針である「パラダイム」に支えられたルーティン・ワークとしての研究活動をクーンは「通常科学」と呼ぶ。通常科学は、明確な目標とルールをもつことで「パズル解き」に類比される。しかし、通常科学はその枠組みのなかでは解決できない「変則事例」を不可避的に生み出し、その結果パラダイムへの信頼が崩れて「危機」の状況が訪れる。危機の時期には複数の代替パラダイムが競合するが、やがて一つのパラダイムが勝利を収め、新たな通常科学の活動が開始される。以上がクーンの科学革命論の概要である。

このクーンの問題提起は、科学革命期の理論選択に当たっては論理的アルゴリズムが存在しないこと、また新旧のパラダイムの間にはコミュニケーションの断絶をもたらす「通約不可能性」が存在することを主張するに及んで、科学哲学者からの猛烈な反発と批判を招いた。いわゆる「パラダイム論争」である。むろん、専門の哲学者でないクーンの論述には哲学的な杜撰さが各所に見られる。しかし、本書は細部にわたる論理的整合性よりは、全体として描き出された科学像の斬新さによって評価されるべき著作である。われわれはむしろ、クーンが提示する科学史上の具体的な事例分析がもつ説得力にこそ目を向けるべきであろう。(307~309頁)

■『科学革命における本質的緊張』我孫子誠也・佐野正博訳、みすず書房、1998年(1977)

とりわけ、1947年に起こった「回心」体験の叙述は興味深い。クーンは科学史の講義を準備するためアリストテレスの『自然学』に取り組んだが、その運動論の記述は誤謬の集積であった。ある夏の日、アリストテレスの研究テーマは質的変化一般であることに気づき、その困惑は突然消え失せた。それは彼にとってテクストの読み方の「発見」であると同時に、科学史という学問への「開眼」でもあった。この体験を通じて、クーンは「科学革命」の構想をえるのである。

『パラダイムとは何か』 野家啓一著 講談社学術文庫 2008年12月1日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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