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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『わが生涯の芸術家たち』ブラッサイ(岩佐鉄男訳)リブロポート

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『わが生涯の芸術家たち』ブラッサイ(岩佐鉄男訳)リブロポート

■(岡野注;ジョルジュ・ブラックが、セザンヌの絵にワニスをかけたことについて言ったこと)「(中略)あんなにワニスを嫌っていた彼なのに!ぎらぎら輝きもせず、くすんでもいない健全な絵があるとすれば、それはまさしく彼の絵だったのに!彼の絵は絵の具がしっかりと均一につやけしで塗られていて、フレスコ画みたいなんだ。それにワニスを塗るなんて、冒涜もいいところだ!時間がたてばワニスで色がくもるし、古くなれば絵が黄ばんでしまう恐れだってある。取り除いてしまわなくては!」

「セザンヌの絵のような健全な油絵は、どんな保護もワニスも必要としないんだ」(21頁)

■(ブラック)「なんと強く、つりあいのとれた画家なんだ、サザンヌというのは!すばらしい個性だ!私は絵と同じくらい彼の人物に感心している。みごとなお手本だ!彼にはまったく深く感謝している……」

(ブラッサイ)「それでも彼はふしあわせでした。セザンヌのたったひとりの《生徒》、唯一の《親友》が、彼の意図も絵もぜんぜん理解しなかったのですからね」と私は言った。「エミール・ベルナールのことです。たしかに彼は頭はいいし、才能もありました。しかし神秘思想にかぶれ、中世にとりつかれてしまっていたために、セザンヌの対極に立つことになってしまいました。モティーフにつきすぎる、自然を模倣するといって、彼はたえずセザンヌを批判したのではないでしょうか?彼に言わせれば、画家は自分のカンヴァスを発明し、そこで《霊性》を表現すべきでした。セザンヌにむかって、あなたは創作者ではない。俗悪な模倣者だ、と繰り返すことで、彼はこの老人を《打ちのめした》のです。それでもまったく運のいいことに、エミール・ベルナールはその反感と無理解ににもかかわらず、巨匠の言葉をとても忠実に伝えてくれています」(21~22頁)

■(ブラッサイ)「そしてある日、画家になる決心をした」

(ブラック)「いや、決心なんてなんにもしていない!何かが私をそっちの方へ押しやったんだ。それがたぶん、人のいう天命というものだろう。意志よりももっと深いところから噴きあげてくる衝動があって、それについてはほとんど意識しない……。そもそも私の絵というのがそんなふうに生まれている。あっちではなくこっちをやるようにと、何かが私を押しやるんだ。だから、ピカソと私とで《キュビスム》を始めたと言う人がいるけれど、それはまったくのでたらめだ。大変動を惹き起こそうと意図的に考えたことなんて、全然ない。カンヴァスは実はわれわれの霊気の発散なんだ。根底にはひとつの神秘がある。人生の神秘と同じものが……」(24~26頁)

■(ブラッサイ)「しかしピカソの気質から考えると、彼はどうしてそんなにも長い間、そのような規律に従っていられたのでしょう?造形作家ではなく写真をやっているといって、彼が私を非難したことがあります。彼の考えでは、写真は個性の完全な放棄を必要とするものなのですね。そのとき私はこう答えてやりました。あなただって何年にもわたってキュビスムのきびしい教義に従っていたじゃないですか、と」(27頁)

■(ブラッサイ)「彼(岡野注;マイヨール)は心の動揺のために死んだのですね。トルストイと少し似ています。ヤースナヤ・ポリャーナの家を逃れたトルストイは、そこへ連れ戻そうとしたときに、興奮のあまり死んでしまったのです」(57頁)

■(ジャコメッティー)「シュルレアリストたちと私の間には、誤解による溝ができていた。彼らは私の彫刻をひとつの成果と見なしていたんだ。でも私にとって、それは生成にすぎなかった。袋小路に入りこんでしまっていた。だから私は身を引いて、戦争前の最後のグループ展にも参加しなかったんだ」

アルベルト(岡野注;ジャコメッティー)の精神には何が起こったのであろうか?彼はまったく単純に、平凡とも思える事実を発見したのである。つまり、彫刻にとっての大問題とは、常に変わらず人間を、動かぬにせよ、動いているにせよ、人間の姿を表彰することにある、ということである。彼はまた同時に、古代の芸術原理をも発見する。それは模倣である。そのために彼は自然にもとづいてのモデリングを再び始める。それはブールデルのアトリエ以来放棄していたものだが、この誇張した修辞的表現を弄する巨匠が彼のうちにかきたてたのは――反動としての――禁欲的なはぎとりでしかなかった。(65頁)

■(ジャコメッティー)「(中略)奇妙なことだが、そもそも私は、現代美術の中では、彫刻家のつくった彫刻より、たとえばピカソやマティスといった画家のつくった彫刻の方が好きだ。とくにピカソが木を削ってつくった一連の小像が気にいっている……」(68頁)

■(ジャコメッティー)「ブランクーシは偉大な彫刻家だった。それは確かだ。でも彼はまた、この世でいちばん無常な、いちばん意地悪な人間でもあった。私は彼のことをよく知っている。ロンサン小路の奇妙なアトリエにしょっちゅう行っていたんだ。ある日、ピカソ、ローランス、それに私といっしょに展覧会をやらないかと誘いに行くのを頼まれた。彼がなんと答えたと思う?この私が?こんな連中といっしょに展覧会をするのかい?絶対に御免だね!〟偉大な彫刻家だよ、それはいい!でも、あのポーズ、あの気取りはなんだい!」(74頁)

■(カーンウェイレル)「ローランスの性質には戦闘的なところが全然なかった。彼はすすんで党派や社交界から遠ざかっていたんだ。ところが、誰が何と言おうと、現代においては、ある種のスノビズムは芸術家にとって、けっして精神的・物質的成功と無縁ではない」

(ブラッサイ)「ピカソはそのことがわかっていました。自分の作品の創造のために、あらゆる面での成功がどれほど必要であったかということを、私は何度も聞かされました」(91~92頁)

■(ブラッサイ)「私にはよくわからないのですが、どうしてあなたは30歳にもなって、しつこくアカデミーに入ろうとしたのですか?」

(マティス)「たしかに逆説的に見えるだろうね。でも授業を受けるためじゃなかったんだよ。先生に教わることはなんにもなかったけれどね、実際のところ。でも、アカデミーの生徒になれば、生身のモデルがただか、わずかなお金で使えるだろう。自分だけのためにモデルを雇うことなんて、とてもできなかったからね。ところが、私はモデルなしではやっていけないんだ。モデルを見ることによって私の中に呼び起こされる官能的な喜びは、今でも私にとって必要不可欠なものだ。人間の姿はいつでも私を夢中にさせる。それは風景や静物を前にしても起こらないことなんだ。それにピカソと違って。私はモデルという支えなしでやれるほど、フォルムの記憶力がよくないんだ。だから、私は執拗に美術学校に行こうとしたんだよ」(146頁)

■(マティス)「実のところ、私の芸術全体はたった1語にまとめられる。つまり〈光の探求〉ということだ。どんな地方にもそれぞれ固有の独特の光がある。でもそれは旅をしないかぎり、とらえられないものではないだろうか?比較する手立てがあるだろうか?北フランスの生まれである私にとって、地中海の光の発見はなんとすばらしい出来事だったのだろう!それ以来、私はずっと魅せられつづけている。まずコルス島で、1898年に新婚旅行でアジャクシオに行ったとき、それからサン=トロペ、カシス、コリウール、タンジェ、セビリア、ビスクラ、モロッコ。そしてもちろんニースだ。あは1916年にははじめてあそこで冬を越したときのことを、けっして忘れないだろう。そのおかげで私はそれから毎年そこへ行く病にとりつかれてしまったのだからね。あの銀色の空はとくに冬にはクリスタルの輝きをもつ。ところがアメリカに3度旅行するうちに、それとは違った光、もっと澄みきった光があることがわかった。たとえばニューヨークの空だ!あの空は明澄で、純粋ですばらしい!あれを利用しようとする偉大な画家がひとりもいないなんて、まったく不思議だ。1930年になってようやく、私は熱帯に対する郷愁を満たし、赤道地帯を支配している光を知ることができた。私が行きたかったのはタヒチではなく、ガラパゴス諸島だった。そこには当時、ドイツの男爵夫人が住んでいたんだ。でもパナマからそこへ行く船はなかった。だからタヒチへ行くことになったんだ。ゴーガンのタヒチ、原住民の小屋とパレオをまとったタヒチ女の島にはほとんど興味がなかったけれどね。唯一この島の光だけには私も惹かれた。空と水の透明さにね。アバタキ礁湖の翡翠色の水の中で泳いでいるときに、私は2つの風景を同時に見ていた。ひとつは水面の上の風景で、ヤシと鳥たちがくっきりと浮びあがっていた。もうひとつは明るい海中の風景で、赤や紫のサンゴにイシサンゴ、さまざまな藻や原色の魚たちがベージュ色の地の上を動いていた。私の絵の精神的な光は、私が一生の間に吸収したすべての光から生まれたものなんだ」(150~151頁)

■(ルオー)「(中略)私はいつもセザンヌの言葉を繰り返していた。〝恐ろしいものだ、人生とは〟。どうしたら生きていけるだろうと思ったことさえある。みんなに見離されていたんだ。そして何だって起こるのがいつも遅すぎるんだ。(中略)」(215頁)

■(モレル神父)「でもあなたはアンブロワーズ・ヴォラールとは仲がよかったのでしょう」

(ルオー)「ああ、でも私が彼と知りあったときには、もう46歳になっていたからね。ヴォラールは私にとって天佑であり、不幸なんだ。私は彼のおかげで生きてきたけれど、彼の奴隷になってしまった。22年間にわたって、彼の囚われ人だったんだ。彼が私に接触して来たころ、私は、700点以上の制作中の絵をもっていた。大部分は未完成で、サインモ入っていなかった。ところがヴォラールはそれを全部もっていこうとした。全部かゼロか、なんだ!それが彼のやり方だった。こんな申し出をどうして断れる?私はどうしようもない困難の中でもがいていたんだ。結局、私は譲ることにした。ヴォラールは絵を全部とって、私に高額の小切手をくれた。5万フランだ。当時としては、たいへんな額だよ。絵が完成し、サインが入るまでは売ってはいけない、と私ははっきり行っておいたのに、そんなものは道義的な取り決めにすぎなかったから、ヴォラールが死ぬと、彼の相続人たちはまったくおかまいなしになってしまった。いやいやながら、私は裁判に訴えた。4年間も私の生活はめちゃくちゃになった!イザベル(岡野注;ルオーの娘)がいなかったなら、気が狂っていただろう。イザベルが重荷を背負ってくれたんだ」(217~218頁)

■(ヴォラール)「セザンヌの作品をいくつか買うように私にすすめてくれたのは、モーリス・ドニとエミール・ベルナールでした。そのとき私はこの画家のことを知りませんでした。でも、いっさいがっさいをそっくり画家から直接買いとってしまうように強く押したのは、やはりクレオルのカミーユ・ピサロでした……。〝あれはたいへんな画家だ〟と彼は断言しました。〝絶対いい商売になる……〟。私は半信半疑でした。世紀末のころ、フランス絵画の栄光をになっていたのは、ブーグローであり、ダニャン=ブーヴェレであり、デタイユ、ムンカーチ、メッソニエだったのです……。印象派がようやく売れはじめたころです。セザンヌのような革新者は気違いかペテン師あつかいされ、デュラン=リュエルやベルネムのような前衛的な画商でさえ、彼のことは無視していました。それでも私はセザンヌの探索に出発しました。彼は当時パリ近郊で仕事をしているという話でした。しかし疑い深い彼は、誰にも住所を教えなかったのです。彼を探しに、フォンテーヌブローにも、バルビゾンにも、ブージヴァルにも行きました。でも無駄でした。ついに見つけだした彼の隠れ家は、なんとパリ市内だったのです。それはサン=ポール界隈のデ・リヨン街2番地でした。こうして私は彼から150枚ほどのカンヴァスを買い上げることができました。それは彼の作品のほとんどすべてだったのです……。これはたいへん危険な商売でした。私がもっていたものすべて、私の全財産が、そこに投入されたのです。こんな冒険をしたばかりに身の破滅をまねくのではないかと、私は不安にかられたものです。セザンヌのカンヴァスをきちんと額に入れる金さえ残っていなかったのですからね。大部分は、安物の額に収めててんじするしかなかったのです」(232頁)

■そしてしばしば彼はまちがった。だからこそ、ファン・ゴッホの作品を安い値段でひと山そっくり手に入れ、またラフィット街6番地の新しい店のオープニングに彼の展覧会をやっていながら、その死から9年たった1899年には、売上げに不満で、無分別にも、手持ちのファン・ゴッホをすべて投売りしてしまったりしたのである。もっとも彼はレイモン・エショリエにこう告白している。「ファン・ゴッホに関しては、私は完全にまちがえていた!彼には全然将来性がないと思っていた。それで彼のカンヴァスをただ同然で処分してしまったんだ」。ファン・ゴッホを精神異常と見なしていたセザンヌの影響を彼が受けた、ということもありうる。「まったく、あなたがつくっているのは気違いの絵だ!」と彼はゴッホに言ったのである。(232頁)

■ヴォラールはモディリアーニやユトリロ、そして1904年に展覧会を開いているにもかかわらずアンリ・マティスに関しても、まちがいを犯した。マティスはいつも最大級の軽蔑をこめて、彼について私に語ったものだ。フォランにとってのあの《ずる賢いキツネ》、セザンヌにとってのあの《奴隷商人》は、マティスにとっては《ラフィット街の古着屋》だった。彼はヴォラールの無礼さ、トリック、ばかげたやり口をまったく毛嫌いしていた。(232頁)

2009年7月4日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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