岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『セザンヌ』 アンリ・ペルショ著 みすず書房

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『セザンヌ』 アンリ・ペルショ著 みすず書房

■人を、その到達すべき目標にまで連れて行くことの出来るのは、ただ根本の力、即ち、気質だけである。セザンヌ「シャルル・カモワンへの手紙」1903年2月22日付(115頁)

■ブールギニョン・ド・ファーブルグールの蒐集(コレクション)の油画を見ながら、例えばモネが一心にしているようなあの戸外での制作という試みについて、考えずにはいられなかった。これら昔の巨匠の絵は、「自然が与える真の、特に独自の様相」に欠けている。そのことは疑い得ない。そうだ。事は明白だ。アトリエの絵は、決して戸外の絵には及ばないであろう。「外の光景を描き現わす時、大地の上のそれぞれの物の姿の対照は実に驚くべきものがあり、また風景は素晴らしい。すべてのものが素晴らしいものに見える……」とセザンヌは思う。(147頁)

■ギュメはかってコローの弟子だったので、彼はしばしばセザンヌに、この偉大な風景画家のことを話した。しかしセザンヌは、ほとんどコローをアングル以上には評価してはいなかった。「君のコロー先生は、ちょっと気質(タンペランマント)に欠けているとは思わないかい?」と彼に言ったかと思うと、突然、断乎とした調子で、自分のヴァラブレーグの肖像について語り出し、「鼻の先の光った点、それは純粋の朱(ヴエルミオン)だ!」と叫ぶのだった。(148頁)

■愛国心は、パティニョールの全ての画家を、このような同じ情熱で燃え立たせたわけではなかった。セザンヌがエスタックにいたように、モネもまたロンドンに逃避し、そこで、ドービニィやピサロに遭った。また彼は、ロンドン滞在中に、新しい絵画に興味を持っているデュラン・リュエルという画商とも知り合った。(180頁)

■数カ月前から、オルタンスはみごもっていた。彼は絆でしばられた。しばられたのだ!だが彼は本当にそれを欲していたのだろうか?彼は本当にこの夫婦生活を望んでいたのだろうか?殆んどそれと知らぬ間に、事物はひとりでに結ばれて行くのだ。「人生は恐ろしい!」(181頁)

■セザンヌは、このポントワーズで、最良の雰囲気に恵まれた。ピサロは、すでに40歳を過ぎ、セザンヌに対して、真に、先輩の役目を果たしてくれた。(セザンヌは、この時33歳であった。)しかも、彼は、まことに親切で、優しい心遣いに満ちた先輩であった。ピサロは、実に驚く程よくセザンヌの性格を呑み込み、実に見事に、彼らの仲を、スムースにする術を知っていた。しかも彼は、ほとんど、そのために努力する必要もなかった。彼の生まれながらの謙虚さと気だてのよさだけで、このエクスの人間の気難しい疑い深さを解くのに充分であった。セザンヌは、エルミタ-ジュ街のピサロの簡素な家に行く度に、心の安まる思いがした。そこには、控え目で、しかも、夫に劣らず親切なピサロ夫人が、せっせと立ち働いていた。(185頁)

■ピサロは、セザンヌ二、風景の前に身をおいて、彼が見るものを、ただ極く素直に、極く平凡に述べるよう、網膜に受ける印象をどんな風にであれ理解しようなどとはせずに、ただ素直に翻訳するようにと忠告した、すなわち、「自己」から逃れ、ただ、外的実在の、注意深く、細心綿密な観察者でのみあるようにと、勧めるのである。セザンヌは、ピサロの言うことに耳を傾け、この方法の卓越さを認め、それに従った。(186頁)

■また、彼らは、新しい一派を立てようとしているのだと見られるのを甚だしく怖れるあまり、ルノワールなどは、ドガがこのグループに提案した「ラ・カピュシーヌ」というおとなしい呼び名さえ、はねつけるにいたった。そして、出品者はただ、「画家、彫刻家、版画家、等協同組合」という、全然無色な名前で、公衆の前に姿をあらわすことになった。

 遂に、計画は、少しずつはっきりして来た。「カプシーヌ」という名を、ドガが思いついたのは、写真家のナダルが、カプシーヌ大通り35番地の、ドヌー通りとの角にある大きな店を使っていたが、そこから移転することになって「組合」にこの店を貸すことに同意したからだった。(198~199頁)

■事実、展覧会が開かれるや否や、最もはげしい敵意、嘲笑と非難の爆発の口火が切られた。観客の群がナダルの店を一ぱいにし、壁にかけられた作品の前で、あるいは威嚇し、あるいは哄笑しながら、押し合いへし合いした。ドガの期待していたところとは反対に、公衆は、かなり普通の手法で描かれた絵は、ほとんど決まったように無視して、「非妥協派」の作品の前でのみたちどまった。(199~200頁)

■1870年来、父の代わって、エクスの美術館とデッサン学校の指導にあたっていたオノレ・ジベールが、ある日セザンヌに、アトリエに伺いたいと申し込んで来た。ジベールは、「印象主義者」についての記事を読んで、「絵画の危機が、どの辺りまですすんでいるかを、自分の目で見」たいと思ったのであろう。セザンヌは、とても上機嫌だったので、すぐにこの申出に応じたが、ジベールにあらかじめ、皮肉たっぷりに、こう告げておきはした。私の「作品」を調べても「病毒の進行」を正しく判断するわけには行かないでしょう。そうするためには「パリの大犯罪者たちの絵を見る」ことが必要でしょう、と。(207頁)

■彼はピサロに説明している。「ここはまるでトランプのカードのようです。青い海の上の赤い屋根……太陽は極めて強烈で、そのため私には、事物のシルエットは単に白あるいは黒ではなく、青、赤、褐色、菫色に浮き出ると思われるほどです。私はまちがっているかもしれませんが、これはかたどり(モドレ)の正反対だと私には思われます。」(220頁)

■彼らは次第に光のために一切を犠牲にするようになった。彼らは空間の表現――ルネッサンス以来これまでのすべての絵画の本質的な関心事であり、遠近法と明暗法がその特徴的な方法であった空間の表現を、多かれ少なかれ放棄した。同様に彼らは物のヴォリュームと素材の現実そのものを表現することを多かれ少なかれ放棄した。ところが、セザンヌはこれを認めることができなかった。自然のさまざまな要素のうちの或るものを、ただ1つの要素のためにないがしろにすることを、彼は認めることができなかった。(230頁)

■彼が画家として捉えたいのは現実であり――なに1つ棄てることなくその全体を彼は捉えたいのである。光の印象主義的分析は彼に多くのことを教えてくれたが、彼はそれを超えて、現実のもののさまざまの要素が同じ1つの全体として融合しているような綜合、光の投射をも綿の空間的配置や物の形やその物質性をも考慮にいれるような綜合をめざすのである。(230頁)

■且つまた、知性にもその言い分がある。詩人のようなよろこびをもって、印象主義者たちは、自然から与えられる感覚を、新鮮な姿でそのまま記録することで満足している。ところがセザンヌは、なんの努力もせず、単に感覚の所与を迎えるだけ、というようなことは一層認めることができない。「芸術家は小鳥が歌うように自分の感動を記録するのではない、彼は構成するのだ」と彼は言う。セザンヌが求めている統一は、厳密さと意志によってのみ、知的禁欲によってのみ得られるのだ。感覚は高められて様式に変らなければならない。絵の目的は単に世界をその表面的過渡的な姿で映すことだけではあり得ない。それはまた世界の内的構造をあらわれさせ、物の表面の混乱からその隠れた秩序をひきださなければならない。(230~231頁)

■アトリエで、彼は静物を描き、自画像を描く。が、同時に彼は、水浴の男たち及び女たちを描くことによって、構成的画面を――古典的芸術のあの成果を試みる。彼は人体の形を見出すために以前のクロッキーを用い、モデルは使わずに仕事をした。というのは、モデルはどうしても駄目!彼にはとうていモデルを頼みに行けない。ある日、彼は専門のモデルに来てもらった。しかし、その女が衣服を脱ぎ、裸になって自分の前に立つのを見た時、彼は狼狽した。「先生は慄えていらっしゃるようですわ……」とそのモデルはやさしく彼に言った。この言葉もほとんど彼を落着かせるのに役立たなかった。は絵筆をもつことができず、モデルを帰さざるを得なかった。「人生は怖ろしい!」(247~248頁)

■1885年、春、ジャ・ド・ブーファンの邸には、ファニィという女中がいた。

 健康でみずみずしく、頑丈で陽気で大胆な逞しい娘であった。どんな重い荷物にもびくともしなかった。「ジャの女中がどんなに美しいか、まあ1度見て下さい。まるで男の子のようです」とセザンヌは誰かに言ったことがある。(276頁)

■セザンヌは、もう自分で自分のしていることが解らない。アトリエの中でデッサンの1つを取り上げ、その裏にファニィへの下書きを始めた。

 「貴女を見、貴女が私に接吻を許してくれたその時から、僕の心はひどく乱れて、止みそうにもありません。不安に悩まされている1人の友(注1)が、貴女に手紙を差し上げるときをどうかお許し下さい。貴女がこれをどう思われるか僕には解りません。多分大へん失礼だと思われるでしょうが、僕を締めつけるこの重苦しさの下に、これ以上我慢していられるでしょうか。この気持を隠しているよりも、いっそ、言ってしまう方がいいのではないでしょうか。お前の苦痛をなしているものをどうして黙っているのだ?と僕は自分に言いました。言ってしまえば苦悶も少し軽くなるのではないだろうか?肉体的な苦痛は、呻いたり、叫んだりしてそれを訴えることによって、少しは楽になるようですから、心の悲しみもまた、愛する人に告白することによって、安らぎを見出そうとするのは当然のことではないでしょうか?……勿論、向こう見ずに尚早に、今こんな手紙を出すことは、不謹慎であることも、充分承知してはいるのですが、でもこの手紙は、ただ貴女への誠意の……(注2)」

(注1)おそらく「1人の友」ではなく、「1個の魂」と解読するべきであろう。

(注2)この手紙の下書きのつづきは発見されていない。(277頁)

■オルタンスは、セザンヌと自分との間には、1人の子供と、、16年共に暮らした惨めな日々の生活以外には、何の絆もないことを、誰よりもよく知っていたので、彼女の安全を脅かされることを厳しく拒んだ。彼女はいつの間にか、彼女を軽蔑しているマリーと組になった。内縁関係、私生児、そして絵を描く事、これだけでもセザンヌは既に途方もないことを沢山しているではないか。その上にまたこの下女とのこの不名誉な恋愛をめぐるばかばかしいスキャンダル。そんなことが、あってよいものか。彼は早くオルタンスと結婚すべきだ。それは早ければ早い程よい、と彼女達は考えた。(278頁)

■マリ(岡野注;セザンヌの妹)は、先ずこの美しい女中に大急ぎで暇を出したらしい(注1)。

(注1)多くの点でこのアヴァンチュールはまだ不明なところが多い。(278頁)

■彼は、ファニィへの愛に絶望的に縋りつき、どうしても放すまいとし、マリとオルタンスに挟まれてじたばたし、追い込められたもののごとくに感じて、気も狂わんばかりであった。恐怖に襲われ、彼はついに、最後の手段に訴えることを決心する。攻撃を避けて逃げ出すのである。6月半ば、パリ地方へ到着、ラ・ローシュ・ド・ギュイョンのルノワールのもとへ避難した。

 こうして彼は妹とはなれることには成功したが、オルタンスが、小さなポールを連れて、彼に従いてくるのを妨げることは出来なかった独立独行のオルタンスは、いつものように、彼が好きなところへ行くのに委せた。彼女はセザンヌの長い留守のも、また緩んだ夫婦の絆にも慣れて平気でいた。だが今は、自分はその子の父から少しでも離れてはいけない。セザンヌが非常に愛しているこの子供だけが、結局は彼女の最も確かなチャンスではなかろうか。(279頁)

■エミール君  1886年4月4日 ガルダンヌにて

  君が送って下さった「制作」只今受け取りました。僕は、ルーゴン・マカール叢書の作者に、この楽しい思い出の記録を感謝し、昔の日々を想いつつ彼に握手します。

  流れ去った時の感動をもって    敬具

ポール・セザンヌ(293頁)

■その後3週間たった4月28日、セザンヌはエクスの役場にオルタンスとの結婚を届けた。式はほんの形式に過ぎず、列席者には食事を出すだけにとどめた。(294頁)

■またゴーガンは(彼は3年前にそれまでの富裕な生活と縁を切り、証券取引所を去って、勇敢にも画家という不安定な職業に身を投じたのであった。)セザンヌの作品が近き将来、或いは遠き将来に於て必ず非凡にして最も重要なる地位を占めるであろうということを、ますます確信するにいたった。

 彼は非常な貧困にもかかわらず、セザンヌの作品をお金にかえたがっている妻がそのいくつかを売ることには、断乎として反対した。前の年の11月、彼は彼の持っているセザンヌの作品のうちの2点について妻に手紙を書き、「この2点のには特に愛着をもっている。彼はこれほど完成された絵は、少ししかつくらなかったからだ。いつかそれらは非常に高い値になるだろう」と彼は予言した。(298頁)

■タンギー爺さんが、その夏にセザンヌをファン・ゴッホと共に夕食に招待したことがあった。この情熱家のオランダ人は、言うことも為すことも熱狂的であり、彼は、たえまなく動揺する彼の心情のぎりぎりの極致を、絵画の中に客体化しようとしていたが、このゴッホも、セザンヌに1つの大きな驚きをひきおこしただけだった。然しながら彼らにはその情熱において何と多くの共通なものがあったことか。何よりも、彼らは2人とも、ドラクロワを熱烈に愛していた。然しこの2人の人間は非常に違っていた。ファン・ゴッホの冒険に富む生涯は、セザンヌのあの辛抱強く瞑想を続ける労苦とは、全くかけ離れていた。だから、このオランダ人を理解し、彼の言動やその絵、或いは何事につけ彼が示す情熱的な興奮を見て、少々気を悪くしないでいることは、セザンヌにとって、非常に難しかっただろうと推察される。激しい調子で表現された絵をゴッホに見せられて、彼はそれらを好きにはなれなかった。彼の非難の気持が思わず叫んだ。「率直に言いますが、あなたは、気狂いじみた絵を描いておられる。」(299~300頁)

■彼にとって、教会は1つの隠れ家となった。「私はあと4日間はまだこの地上にいるような気がする。それから?その後も私は、生きつづけると思う。だから私は、永遠の中で身を焼かれるような危ない真似はしたくない」と彼は言うのだった。彼は地獄に堕ちたもののように誓いをし、司祭達には心を許さず、宗教を尊敬はしたが、その尊敬には、疑惑と皮肉が混っていた。然し彼は、告白をし、聖体を拝受し、礼拝式に臨んでは、心鎮まり或る安らぎを見出しさえするのであった。(306頁)

■タンギー爺さんのコレクションの競売が7月2日、土曜日、オテル・ドルーオで行なわれた。タンギー婆さんは、夫の忠告に従って、彼らの唯一の財産である絵を、とうとうお金にかえることに決心したのであった。ああ、だが気の毒にも、この競売は、オクターヴ・ミルボーという作家によって企画されたにも拘らず、予定の売上げを得ることはできなかった。

 ただモネの1点の作品にだけ、かなり高価な値がつけられた。3000フランの買手があった。それに引き換えセザンヌの作品は6点全部で合計たった902フランにしかならなかった。1点の値段は、95フランから215フランの間であった。然し、その他の多くの作品にも、セザンヌ以上の値がつけられたわけではなかった。たとえば、ピサロの作品は全部で400フランを少し上まわったが、ゴーガンの作品6点は、平均おのおの100フラン程度、6点のギョーマンは、それぞれ80フランから160フラン、そして人々はスーラーの得を50フランでせり落し、ファン・ゴッホの1枚の絵を30フランで落した。然し、何とか言っても、売上げは全部で14621フランに達した。要するに、これはかなりの額であり、とりわけタンギー家のように一生貧しい暮しをしてきたものにとっては、大したお金ではあった。

 競売の価格査定員は、値が殆んどせり上げられなかったにもかかわらず、買い手の一人が示した「勇気」を、ほめたたえた。この買手こそ、他ならぬ若いアンブロワーズ・ヴォラールで、今セザンヌの6点絵のうち5点迄彼が落札したのであった。然し彼は今、全部を買い取るには、少々お金が足りないものだから、この価格査定員の讃辞に少し当惑しながら、植民地のズーズー弁で、「お金はちょっと待ってくれ」と頼まねばならなかった。(328頁)

■クロード・モネは、8年ばかり前から、セーヌ河とエプト河が合流するヴェルノンの傍のジヴェルニー村に住んでいた。セザンヌはその秋、このモネの許に行った。相変わらずやさしい心遣いにみちたモネの友情、彼の親切さは、セザンヌの身にしみた。その上、セザンヌはこの芸術家を、高く評価していた。「空は青い、確かに。だけどそれをそう見たのはモネだ……。モネは1つの目に過ぎない。ああ、だがそれは何と素晴らしい目だろう!」(329頁)

■ジェフロアが、本棚に背を向けて、机に向い、安楽椅子にかけているところを描こうというのだ。テーブルの上には、数枚の紙片があり、1冊の本が開かれており、ロダンの小さな石膏と、花瓶に生けられた1輪の花とがあった。セザンヌがこの絵を描き終えない限り、誰もこれらの物をなに1つ動かすことは許されないのである。更に、彼は、ジェフロアが毎朝いつものポーズをしやすいように、椅子の足を置くべき場所を、床にチョークで印しをつけた。バラの花はと言えば、それは紙の造花を使った。彼の仕事が余りにも遅いので、彼は生きた花を使うことができない「そいつ」はあんまり早くしなびすぎる、と彼は言った。(333頁)

■セザンヌがいくら「芸術のはかない追究」と言っても、やはり彼は描かねばならぬということ――そして最後の息をひきとるまで、描き続けるであろうということ――を彼自身がよく知っている。朝の5時から彼はカンヴァスを据え、夕暮れまで描き続ける。休むことなく、他の何事も、自分の病気のことも、妻のオルタンスのことも、既に失われた56年の月日のことも何一つ考えずに。「世界は一瞬ごとに移って行く、その一瞬を現実のままに描くこと。そしてその為には全てを忘れること」と彼は言う。ただ描く。彼の詩的感激(リリシズム)は膨らみ、宇宙的な激情の沸騰となって爆発する。「私は自然の中に自らを失い、自然そのものとして自然と共に蘇りたい」と彼は言う。(337~338頁)

■(岡野注;ヴォラール画廊の展覧会で)モネは、この不運な旧き仲間に敬意を表したいという気持から、早速その3枚を買い取った。ドガもまた一点か2点買った。ピサロもまた作品の交換を申し出、目を輝かせて言った。「1861年に、私はオレルと一緒にアトリエ・スイスでこのプロヴァンスの変った人に遭ったのですが、あの時私は正しく見ていたでしょうか。あのアトリエでセザンヌは、その学校の無能な連中の物笑いの種にされながら、幾枚かの裸体画の習作をしていました。その連中の中にはあの有名なジャッケもいましたが、彼はずっと前から小ぎれいな絵ばかりを描き、その絵は高い値で売れていたのです。」(346頁)

■――私は無垢なる世界を呼吸する。さまざまな色調に対する鋭い感覚が私に働きかける。自らが無限のあらゆる色調で彩られているのを感ずる。私はもう絵と一体でしかない。我々の存在は虹色に輝く渾沌(カオス)である。私は己のモチーフに立ち向い、やがてその中に自分を失う。私は、夢見、夢の中を彷徨う。太陽がひそかに私の中に滲み通る。まるで遠くにいる友のように。そしてそれは私の沈滞を熱して豊かな創造力に変えるのだ。吾々は芽を出すのだ。セザンヌ(352頁)

■彼は一体何を考えているのだろう?その時、突然、群衆をかき分けて、一人の若者が彼に近づいて来て、おそるおそる呟くように、「芸術の友の会」に出品された彼の作品に、自分がどれ程感心しているかを伝えた。セザンヌにとって、この意想外な出来事があまりにも出し抜けにやって来たので、彼は真赤になり、口籠り、身を起し「恐ろしい目つき」でその若者を見据えた。そして目の前の小さな丸テーブルを拳骨でどんと叩くと、「君、人を馬鹿にしないでくれ、ええ?」と怒鳴りつけた。お蔭でテーブルの上にあったコップや瓶はひっくり返った。彼は、へたへたと坐り込むと涙が目に溢れて来た。そして目の前にいる若者が、友人のパン屋の息子、ジョアシャンであることを知った。

「アンリ、頼むから冗談は止してくれ。ねえ、君、本当かい?君の息子が僕の絵を好きだというのは?」「本当もくそも、お近づきになれないと、あいつは病気になっちまうぜ」と親爺のパン屋は答えた。するとセザンヌは、くるりとジョアシャンの方を向き、震える声で、「まあ、そこへ掛けてくれ給え、君は若い。君はまだ何も知らない。私はもう絵は描きたくないのだ。もうすっかり止めてしまったよ……。まあ、ちょっと聞いて下さい。私は不幸者だ。私に腹を立てないでください。しかし、私の写しを作った人達でさえ、ちっとも解ってくれなかったのに、たった2枚の私の作品を見た君が、私の絵をそれ程信じてくれようとは、とても信じられなかったのです。ああ、あいつらが、よってたかって私を痛めつけたんだ……君の目に止まったのは、特にあの『サント・ヴィクトワール山』の方ですか。あの絵が気に入ったのだね?……明日、あの絵は君の家にとどけましょう。署名してあげます……」(355頁)

■その後、1週間の間、セザンヌとジョアシャン・ガスケとは、殆んど毎日のように逢った。彼らはエクスの田舎を果てしなく歩き廻った。この若き詩人との出遇い、、この紛れもなく心から示される熱い賞讃、そして今や熱烈な汎神論的崇拝にまでもなっているこの燃えるような生命力に触れて、は己の中に何物かが再び蘇えるのを感じた。彼は今までになかったような調子で話した。彼はだんだん昂奮し、絵において何を成就しようと努力したかを説明し、描きたいと思う国のことを夢中になって喋り出した。「偉大なる古典の国々、僕達のプロヴァンス、ギリシャ、イタリアは、僕が想像するところでは、光が霊化され、風景が鋭い知性の漂う微笑となる国だ……。あのサント・ヴィクトワール山を見給え。何という躍動、何という止むに止まれぬ太陽への渇望、そして夕べのあのメランコリー、その時、山の全ての重みがまた落ちかかるのだ!これらの岩塊はむかし火だった。そして今もなおあの中には火がある。影と光は震えつつ退き、あの山を恐れているように見えるだろう。あの高みにはプラトンの洞窟がある。よくご覧、大きな雲が通る時、そこから降りてくる影は、まるで今にも焼かれて、火炎の口に呑み込まれようとしているかのように、あの岩の上で身震いしているのが見えるだろう。私は長い間、何も出来ず、このサント・ヴィクトワール山をどうして描いてよいか解らなかった。それが私が、よく見ない人々と同じように影は凹面だと思い込んでいたからだ。だがほら、よく見給え、あれは凸面だ。影は自らの中心から速かに逃げ去るのだ。面も影は堆積するのではなく、気化し、或いは液化するのだ。そしてすっかり青味を帯びたその影は、周囲の空気の呼吸に参加するのだ。ほら、あそこ、あの右手の『王の杵(ピロン・デュ・ロワ)』の上では、反対に光が緩かに揺れながら濡れてきらきら光っているのが見えるだろう。それは海なのだ。あれを描かなくてはならない。」(356~357頁)

■ある日の夕方、例の詩人(ガスケの息子のこと)と2人で、いつもの長歩きから帰ってくると、彼は今まで一度も話したことも、考えたことさえもなかったようなことをしゃべり出し、突然、「現在生きている本当の画家はただの一人しかいない。それは私だ!」と断言した。

 何という宣言だろう!セザンヌはそう言ったとたん、拳を握りしめ、沈黙し、身を痙攣させた。その様子はまるで、「地震か雷か何かが突然彼を襲った」かのようであった。そして彼は慌ててガスケのもとを去り、逃げ帰った、その翌日は、Ⅰ日ジャ・ド・ブーファンの邸の中にうずくまり、訪ねて来たガスケにも逢うことを断った。それから数日を経た4月15日、――それまで、毎日ガスケはジャの邸の格子の門までやって来たが無駄だった――この私人は郵便物の中にセザンヌからの手紙を見付けた。

 親愛なるガスケ君

 私は明日、パリへ発ちます。

           心をこめて御挨拶まで 頓首

 ところが、その2週間後、ガスケは、ミラボー大通りの下手で、モチーフから帰って来るセザンヌを見付けてどんなに驚いたことだろう。急いで彼の方に馳けよろうとしたが、セザンヌの様子にまたびっくりして足を止めた。画家は、「打ちしおれ、沈み込み、まるで落雷でも受けたかのように」歩いていたからだった。自分迄苦しくなる程、深く心を動かされたガスケは、おじぎするだけにとどめたが、画家の方は彼にも気づかず行ってしまったように思われた。だがその翌日、ガスケは次のような手紙を受け取った。(358頁)

■アンブロワーズ・ヴォラールは、この冬の展覧会の成果のまことに満足の色を示していた。彼の誤算でなければ、このエクスの画家と組めば、彼が「見付け出して」期待をかけているもう一人の画家、スペイン人のイチュリノの場合と同様勝目がある筈である。だがそれには先ず商品が必要だ。そこでヴォラールは商売に抜け目のないセザンヌの息子と親しくなっていたのを幸い、早速調査をすすめ、ついに自らエクスに赴くことを決心した。

 人々の言うところによれば、セザンヌは誰にでも自分の作品を差し出し、ほとんど到る処に作品を打ち捨てておくとのことである。――ルノワールさえ、エスタックの丘に投げ出されている「浴女達」の水彩画を発見したというではないか!――だから要するに「エクスに行って身を屈めさえすれば、セザンヌの作品を拾い集め」、商品のストックを仕入れることが出来る、とヴォラールは考えたのであった。彼は早速出発した。セザンヌの妻と息子とは、彼に数日先立って、プロヴァンスに行っていた。(361~362頁)

■というのもこの町の他のところでは、到る処で彼は狂人とみなされ、ヴォラール画廊での展覧会以後は、悪口と羨望の的となっていたからである。エクスにはサロンにも入選し、規則通りに仕事をしている「立派な」画家が沢山いるのに、セザンヌだけが、パリで成功を得たというので、人々は彼を許さない。そしてまた彼があの父の息子であるというので彼を許さない。(368頁)

■彼はしゃべり出し、独りで興奮している。――「絵描きというものは、解るかね、巴旦杏の木がその花を作り、かたつむりがそのからを作るように、自分の絵を作らねばならないのだ……」と彼は宣言し、そして突然、夢想に耽り、やがて、握ったこぶしの上の「光から影への移り変わりの有様」を見守った。(369頁)

■若いセザンヌ(岡野注;息子)は、人々が父の作品を求め始めたのを見て、ヴォラールと共同して買い手を見つけ出すのに努めた。大いに喜んだセザンヌは、売上げから1割の手数料を彼に支払った。息子とヴォラールのお蔭で、彼は今にきっと、自分の絵筆で年に6千フランぐらい儲けられるようになるだろう。この息子は父に、裸婦の絵をもっと描くようにとすすめるのであった。裸婦の絵を描けば「もっとずっとお金になりますよ」と息子は父に請け合った。(374頁)

■また1892年、オノレ・ジベールの後を継いで、デッサン学校の校長兼美術館管理人となったアンリ・モデスト・ポンティエは、自分が生きている限り、セザンヌのどんな作品によってもエクスの美術館が汚されるようなことはさせない、と言い、更に、1877年のサロンで注目されて名声を打ち立て、今ではエクス美術館の名誉ともなっている彼自身の彫刻、『ジュノンを愛して拷問にかけられたラビットの王、イクション』とならべてセザンヌの作品をおくなどはもってのほかだと声高く宣言するのであった。(375頁)

■この画商は、初めてのポーズをしに、エジェジップ・モロー街にやって来た時、アトリエの真中にセザンヌがわざわざポーズの為に用意した踏み台のようなものを見て、少なからず驚いた。箱の上に、椅子が置いてあるのだが、その箱がまた「4本の貧弱な支柱」の上に載っているのだ。ヴォラールは不安気にみえた。セザンヌは彼をなだめて言った、「ヴォラール君、君が平均を失いさえしなければ、決して落ちる危険はないよ。それに、ポーズを取るのは、動く為ではないからね、」と。そして仕事が始まった。人が一旦セザンヌのモデルになると、彼はその者を、もう「りんごと同じ」にみなされるということを、ヴォラールは全然知らなかった。この度は、ヴォラールは決して彼の居眠りの喜劇を演じる必要はないのだが、厳密な不動の姿勢を強いられて、彼は間もなく本物の眠りに落ち込んでしまった。彼は突然、椅子と箱と4本足の台と共に転落した。「畜生、君はポーズを狂わしてしまった!」とセザンヌは叫んだ。ヴォラールは、これからは、ブラックコーヒーを飲んで居眠りをしないように気をつけることを承知した。(377頁)

■更に5月、アマン・ドリア侯爵の死後の競売で「フォンテーヌブローの森の雪どけ」という絵が、6千7百50フランという殆んど信じられない値に達した。これを見て唖然として湧き立った群衆は、いんちきだと叫び、買手の名を知らせるようにと要求した。するとその時、会場の中から1人の鬚もじゃの肥った男がしっかりと足をふんばって立ち上がり、「買手は私だ。クロード・モネだ!」と騒ぎ立てる群衆に叫んだ。(378頁)

■油絵、油絵、

 これは大へん難しい

 だが水彩画より

 はるかに、はるかに美しい……(378頁)

■次のことは、明らかにセザンヌのこの頃の幸福の気分の証拠であるとヴォラールには思われた。即ち、肖像画と並行して「浴女群像」を描いていた彼は、とうとう職業モデルの助けを借りる決心をした、とヴォラールに告げたのである。ヴォラールは暫し茫然として、「何ですって、セザンヌさん!裸婦ですって!」すると即座にセザンヌは、自分の潔白を言い張りながら、「おお、ヴォラールさん、私は非常に年よりの醜い女を使うつもりだよ」と言った。だがこの「あばすれ」も、この画家は長いことは、利用しなかった。ああ、この頃では誰も、ポーズの仕方を知らん!……「それなのに私は随分高いポーズ代を払ったのですよ。凡そ4フランもかかる。これは1870年前に比べたら20スーもたかいのです」(378頁)

■夏の間に、ローヴの小屋の建築が完成した。――中略――もし神が、彼に生命をかし給うなら、彼はこのアトリエで、「大きな水浴の女達」の絵を仕上げることが出来るだろう。この絵の中で、彼はアーチのような曲線をなす木々の繁みの下に、一群の女達を置いた。この巨大な絵を、戸外で吟味することが出来るよう、アトリエの壁に細長い穴を開けさせた。こうすればそこから作品を庭に下ろすことが出来るのである。(393頁)

■ミルボーはセザンヌがレジョン・ドヌール勲賞を貰えるように運動を進めていたが、話を持ちかけられた美術学校(ボー・ザール)の校長、ルウジョンは、最初の言葉を聞くや否や、ミルボーをさえぎり、「ああ、駄目だよ。何ならモネはどうだ?モネは欲しがってはいないのかい?じゃあ、シスレイにしよう。何だって?彼は死んだのか!ではピサロはどうだい?まあ誰でもいいから君自身で選んでくれ給え。ただあのセザンヌのことはもう私に言わないでいてくれ!」と言った。(393頁)

■ガスケとのいざこざの理由は、これまで、決してすっかり明らかにはなっていない。ジョン・リウォードはこう書いている。「この問題に関して、ひろまっているいろんなうわさにもかかわらず、この深い原因を見つけ出すことは困難である。どうもガスケは、ある種のデリカシーに欠けていたらしい。そしてセザンヌは、自分は「利用されて」いると思ったらしい……セザンヌは、時に、彼の絵を、感心している数少ない友人によろこんであたえはしたが、人がこれを贈物としてもらいたいという欲望をあまりはっきりと表明することを好まなかった。……ところでジョシュアン・ガスケは……セザンヌに、彼の絵に「爪をたて」ようとしているような印象をあたえたらしい。」(395頁)

■1904年2月の或朝、セザンヌがローヴのアトリエに行こうとして階段を降りて行くと、未だ若い1人の男に出くわした。彼は豊かな髪に頬鬚と口鬚を生やしていた。「ポール・セザンヌ氏をお呼び下さいませんでしょうか」とその男はセザンヌに訊ねた。セザンヌは仰山な身振りで帽子を脱ぎ、「彼はここに居りますよ!彼に何の御用で?」と答えた。

 この早朝の訪問者はエミール・ベルナールであった。(401頁)

■だがベルナールは執拗に自己を主張し、理論を展開した。老画家はついにある日かっとなって叫んだ。「儂が全ての理論を空しいものと考えているのが解らんか!それから儂は絶待に誰にも爪をたてられたくないことを覚えておき給え!」と。そして、彼は、ベルナールを1度ならず、路上におきざりにして、行ってしまった。「真理は自然の中にある。儂が、それを証明しよう」という言葉を投げかけながら。(405~406頁)

■「感動という原理をもたない芸術は、芸術ではない」と彼は言う。しかし「よく考えなければいけない。目だけでは充分ではない。よく考えることが必要だ」とも言うのである。(410頁)

■それでもやはり、故郷の美術館にはただの1枚も入れられることなく死んで行かねばならぬことを、彼はよく知っている。館長、ポンティエが、決して彼に対する敵意を捨てないであろうことを彼はよく知っているのである。(412頁)

■主よ、御身は我を強く孤独に創り給いぬ。

 願わくば我に大地の眠りを眠らしめ給え。

 彼は時折り心身共に打ちひしがれると、こんな風にヴィニィの詩句を少しばかり変えて誦するのであった。(413頁)

■十月の初めに、例の馭者が料金を値上げし、シャトー・ノワール迄のせて行くのに今迄の3フランを5フランにしてくれと要求した。言語道断な途方もない要求ではないか!「頑固爺」――セザンヌは自分でこう名乗っていた――は、あの威張りくさった馭者に、この上40スーも決して出したりするものか。それくらいなら車なしで済まして、自分で絵道具を運ぶ方がましだ。「到る処で儂は搾取にあうような気がする」と彼は歯ぎしりしながら言った。(416頁)

■その日の午後、晴れ間を利用して彼はローヴのアトリエから少し離れたところにある彼のモチーフのところ迄歩いて行った。その時また夕立が激しく降り出した。しかしセザンヌはこの雨をも顧みず、夢中で描き続けた。数時間が過ぎた。雨は絶え間なく降り続けていた。雨は着物に滲み通り、セザンヌは熱が出て身体がぶるぶる震えて来た。それでとうとう残念がりながら、モチーフから離れた。用具、画架、絵具箱等を持てあましながら、やっとの思いで歩いていたが、突然、眩暈に襲われた。老画家は気を失って道の真中に崩れた。少したってそこを通りかかった洗濯屋の車の運転手が、見付けて、彼をブールゴン街に連れて帰った。彼は相変わらず気を失ったままだった。(416頁)

■パリでオルタンスはブレモン夫人の電報をたしかに、受け取った。だが彼女は急いでそれをポールからかくした。彼女は、今のところまだ、エクスに行くことが出来ない。彼女の服の仮縫いがまだ済まないのだ。(417頁)

(2011年7月10日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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