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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

夢の中の空間

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夢の中の空間(1998年記)

夢は何故〈見る〉のだろうか。見るためには、見る自分と見える対象が必要だ。夢を感じるとか思惟するとかではなく、夢の中で私は起きているのと同じ様な時空の中を、自己意識を持ちながら行為している。時間や空間の飛躍はあるけれど、局面のパースペクティブの整合性は現実の時空と相似している。現実の中では、自己と外界は別個の物と考えるのが自然であるのに、外界を遮断した自分の身体内の出来事のはずの夢の中で、つまりすべて自己の内側の世界の中で、何故見る者〈自分〉と見られるもの〈対象、他者〉が共存しているのだろうか。不思議なのは、自己の外側にある対象物がすでに自己の中に入り込んでいるという事だ。

私は人間を、例えれば底に小さな穴が開いている口の開いた袋の様なものと考えれば、うまく説明できると思う。外側の空間と内側の空間は同じ空間でつながっており、起きている時は外側に表面を向けて行動している。睡眠中は外側の空間ごと位相幾何学的に口の所で、内と外を反転すると考えると、袋の内部に外側の空間が取り込まれる。当然今までの表面は内側を向く。当然今までの表面は内側を向く。夢を見ている時は、取り込んだ外側の空間を、内側を向いた向いた感覚器官で認識している事になる。

こういった考えから振り返って起きている時の自分を考えると、自己とは中身の詰まったムクの状態ではなく、内部に世界と自己との関係を相似的に抱え込んで存在しているのではないか。

私は以前から知りたいことがあった。不幸にして生まれた時から視力を失った人はどの様な夢を見るのだろうか、また、やはり夢は文字通り「見る」のだろうか。この疑問に対する答えは、あらためて確かめてはいないけれど、【夢の中の空間①、②】の考えから想像すると、自ずと導かれる。人間は、世界を表象しつつ、その世界の中に生きている存在ならば、視力の有る無しにかかわらず当然夢は「見る」であろう。世界を表象しつつその世界を生きるとは、個々の脳の中に、経験・知識・欲求・想像等で、世界という風船を膨らませながら、その風船の中で生活している、といった、そんな感じでであろうか。

こういった、世界と自己との関係のとらえ方の欠点は、独我論に落ち入りやすい点だ。一人一人が孤立し、あるいは自己が肥大化し、他者や社会との関係が希薄になる恐れがある。自分で膨らませた世界観という風船の膜の中を生きていると言うことは、脳を持つあらゆる生物の在りようだと思う。人間だけが特別ではない。人間だけが特別なのは、他者からは、窺い知ることのできない脳の中の事象を外部に取り出して、表現できるという能力を持っている点だ。身体・言語・美術・音楽等を使って、本来一人ひとりが孤立した実存的時空の膜を突き破り、他者との共通の場に差し出すことによって選別、淘汰され共通認識に近づく。そして共通の場に晒され、選別淘汰された認識をもう一度自分に取り込むことによって、今までの実存的時空概念を組みかえ直す。こうやって生まれた時からの時間と空間の中を、組み立て、取り出し、選別、取り込み、組みかえ、を繰り返して現在にいたっていると言うわけだ。

続・夢の中の空間(2004年記)

はじめに、何故私が長年この問題を考え続けているのか、その理由を書いてみよう。

私は、高校2年生のとき、実存主義に出会い、アイデンティティーの危機を救われた。高2の冬休み、私は修学旅行不参加のための返却金で、高1の夏休みまで生まれ育った玉野(岡山県の海辺の町)に旅行した。玉野には、兄夫婦が住んでおり、そこをねぐらに、文通していた玉野での下級生の女性をモデルにして絵を描くのが目的だ。

そのとき、たまたま一人で映画館に入った。当時グラマー女優と呼ばれた前田通子の海女が主人公で、エッチ系の映画だった。ストーリーは海女と船員や漁師の色恋ざたで、思い出すのは数人の海女が漁場から泳いで帰るシーンで、女優達は泳ぎが上手くできないので、木の桶にしがみついて、バタ足でパチャパチャ水面を叩いているのが、なんとも寒々しかった。

そのうち、映画を見ながら私は今までにない思いにとりつかれ、しだいに気分が落ち込んでいった。

――-これから大人になって、自分も参入しようとする社会は、この映画のような世界ではないか。この映画の方が、より現実に近く、自分の考えている世界は夢や幻想ではないか。もし社会の現実がこうなら、自分には参入して勝ち残る自信はない。もし社会の現実がこうなら、そんな世界に参入する人生なんて、そもそもつまらない。もし生きることの現実がこうなら、人生の意味は何なんだ。もし、社会の現実がこの映画のようであるのなら、私は芸術などをこころざす「夢見る夢子さん」の男性版「夢見る夢男さん」なのか。私は何か勘違いをしているのか……。

そういう思いにとりつかれた後の玉野での数日は惨憺たるものだった。思い出しても恥ずかしい。

そして3学期、千葉で学校生活に戻った。

それからの千葉での学校生活はくるしかった。学校もサボりがちで、昼夜も逆転し引きこもり寸前だった。そんなとき、たまたま出会った一冊の本が私を救った。

ドストエフスキーの『地下生活者の手記』で、岩波文庫の一つ星だったから当時50円の薄い本だ。その本に出会えたのは、国語の教科書に『罪と罰』の一部が載っていて、そのなかの、ラスコルニコフの奇妙な行動原理に興味を惹かれたからだ。

ドストエフスキーは実存主義の文学者だ。

実存主義を知ることによって、私の世界認識は大きく変わり、アイデンティティーの危機を脱した。知らないで、鬱からの回復を、原因はそのままにしておいて世界観の枠組みそのものを変えるゲシュタルト療法で回復したのだ。

我流の解釈で、間違っているかもしれないが、またそれこそが実存主義的なのだが、私はこう思った。

――私は実存である。人は、実存の外に出ることができないし、出たこともない。世界は暗黒でただそこに存在する。一人一人のじつぞんが世界を認識し、その内部に世界を現出する。他人の世界観が違うのは当然だし、どちらが正しいわけではない。あちらが現実、こちらは夢ではない。あちらも現実、こちらも現実(あちらも夢、こちらも夢)だ。……だったら、これからは自分の実存の選択に、なるべく(ラスコルニコフや、ムルソーのような犯罪者にならない範囲で、極端に走らず)忠実に生きてゆこう……。

当時の私の世界観を表象すると、暗黒の世界のなかを、一人ひとりが、自身でふくらませた風船の膜のなかで生きている。風船のなかの世界は、明るさも美しさもパースペクティブも千差万別。

こうして、50歳ころまで私は「遅れて来た実存主義者」「実存主義者の生き残り」を自称して生きてきた。そして還暦を過ぎれば「実存主義者の生きた化石」と自称するつもりであった。しかき、50代に入ってしだいに実存主義から離れ、「抽象印象主義」を標榜するに至ったのだ。

その展開は、自分自身の夢のなかの空間の分析と、「逆さ眼鏡の実験」を本(『意識とは何だろうか』下條信輔著 講談社現代新書)で知って、自己の内部空間を推論していった事が大きな力で作用して、私の絵の様式を変えていった。

30代のこと、西表島(いりおもてじま)に風景の取材に行った。港から渡し船でしか行けない半島の船浮という集落を歩いていたとき、人の住んでいる場所の裏側で夢のような美しい風景に出会った。小さな砂浜で、白い砂、珊瑚礁の海、青い空、南国のエキゾチックな植物。完璧だった。人っ子一人いない、小さくて白い、静かな午後の砂浜で、いるのは自分だけ。私は不思議な感覚におそわれた。

この風景は、昔から、これから先もここにある。この風景を知っているのは、私と船浮の住民だけだ。

――誰も知らないし、行ったこともない美しい風景とは、認識者のいない存在とは。もし、この宇宙にいかなる生物も存在しなかったら、世界の存在はどう解釈したらよいのか。もし、この宇宙にコウモリ一種類だけしか生物がいないとしたら、コウモリの世界観が世界か。もし、コウモリと私が同じコップを見ていたとすると、同じ物を見ているのか。すべてに差異のある他者と自分は同じコップを見ているといえるのか。私の認識している目の前のコップは客観的な実在なのか。事実は一つなのか(芥川龍之介『藪の中』)。価値や意味は存在する物の上にあるのか実在のなかにあるのか……。

世界は認識者が個々に編み上げていくのだ。

こうして、私の世界観は実存主義そのままに、肝心の自我は、実体存在から関係存在へと移行していった。事象にアプローチする方法論は、原因の原因(客観)、結果の結果(主観)、の両サイドを切り離し、事象の原因と結果だけを分析する現象学的還元の方法で絵画を推し進めていった。

そうやって、絵のスタイルは相変わらず激しく変化しながら歳を重ねていった。しかし、そのうちに、40代後半から次第に、イズムと感覚(美意識)にズレが出て来た。イズムと感覚の矛盾を解消できないまま齟齬感をもちながらも、なんとか折り合いをつけながら、絵を描いていた。

その矛盾とは……。

実存主義を美術史にあてはめると、ダダイズムや表現主義になるのだ。一方、私の美意識は表現よりも、印象派や唯美的な造形の作品に惹かれた。特に、マチス晩年の1947年前後の作品に耽溺していた。

実存主義的内容を印象派の様式で描くという難しい命題は、ムンクが実現しているが、その作品の北欧的な光には魅惑されるが、意味内容には少しも興味がわかない。ジュールリアリズムの画家とされているゴーキーは、事物のシュールではなくて光と空間のシュールと解釈したし、抽象表現主義のグループに括られているロスコやニューマンは、表現主義ではなく、むしろ私の標榜する抽象印象主義の先駆者に位置づけた。

イズムと美意識のくいちがいを整合させようと、当時の私は個展のタイトルに「実存論的時空概念」とは「脱現実化的実在化」と、苦心惨憺していた。(つづく)

いよいよ、矛盾を止揚(しよう)した〈抽象印象主義〉に至るわけだが、夢の現象学的考察の前に、「逆さ眼鏡の実験」の話をする。

逆さ眼鏡の実験とは、外界が逆さま(上下と左右の2方向がある)に見える眼鏡をかけ続けると人間はどうなるのか、という心理学の実験だ。

当然世界は逆転して見える。最初は例外なくひどい船酔い状態になる。ところが驚くべきことに、数週間かけ続けると、行動が順応するばかりか、知覚まで変化して、最終的には世界が正立し、安定して見えるようになる。

この実験心理学の話を本で読んで驚いた。私が、かって実存主義的世界観を形成したいった推論に誤りがあるのだ。

逆さ眼鏡をかけた人と私、あるいは、逆さ眼鏡をかけた私と裸眼の人は、目の前のコップが同じように見えるのだ。もし全世界の人が逆さ眼鏡をかけて、自分だけが裸眼であっても、全世界の人が裸眼で自分だけが逆さ眼鏡をかけても、同じように世界が見えるのだ。おまけに、世界が正立する過程には、実存が関わっていない。自分の外側からの力が勝手に自分の脳の中の空間を正立させるのだ。

ということは、人間の(他の生物も)脳のなかの世界は〔地〕となる時間、空間とその上の〔図〕となる実存の経験や解釈は、異なる過程で生成されるのか。

美大生だったころ、夜下宿で本を読んでいたとき、一匹のアリがいるのを見つけた。私は手近にあった鉛筆をその蟻の前に置いてそれに登らせた。アリが、右に歩いて行くと鉛筆の左端を持ち、先まで行って反転して左に歩くと右端を持つ。こうして、アリは何度も鉛筆を往復した。アリの目は複眼で、単眼とシステムがちがうらしく、近眼で、私の手の動きは見えない。このアリは、この後どうするのか?。私はかなりの時間、最後にはアリとの根比(こんくら)べで意地になって鉛筆を持ち替え続けた。

すると、アリは突然鉛筆から飛び下りた。飛び下りたアリを、再び鉛筆に誘導して同じことを繰り返すと飛び下りるまでの時間は短くなり、終わりにはすぐに飛び下りるようになり、そこでアリを窓の外に解放した。

アリが飛び下りたのは、アリの実存の決断なのか。イソップ物語のように、擬人的な心がアリのなかにあるのか。

ハエやゴキブリは、叩こうとすると、何故逃げるのか。ライオンとインパラ、ペットと飼い主はどうやって時間、空間を一致させるのか。

実存主義の弱い所は、実存の関わる余地のない客観的な真理(科学、数学)、他者、倫理、の存在が論理的に上手く説明できない事だ。

ここに至って私は、主観と客観(精神と物質、脳と身体)の二元論の一元論化を、主観と客観の両方の存在を認め、二つの関係の全体を一つに形態化しようと思うに至ったのだ。

最初に思いついたのが、相互挿入空間。

現実の三次元の空間に取り出すことは不可能だが、高次元空間では可能な、AとBがマトリョーシカ(ロシアの民芸品の人形)のように、AがBのなかに入り、BがAのなかに入っている一つの空間。そういう空間での世界の描出。

そのころ、読んだ本(『カオス』J・グリック著 新潮文庫)で似たような概念に出会った。フラクタル幾何学、マンデルブロー集合、全体と部分の自己相似性。これでまた一歩世界と実存の関係のイメージがはっきりしてきた。

夢の話の前に、夢の現象学的考察から得られた現時点での結論を先に言っておく。

「世界と実存の空間的な関係と、実存内(脳のなか)の情報は自己相似形である」

「世界観の地は、実存に関わりなく(事物であるカガミやカメラのように)写り込む(視覚だけでなく、知覚、聴覚、触覚など世界と身体が出会って現象するすべての器官から)。」

さて、やっと夢の話に入るが、前回のエッセイから新たに出た疑問と、推論し分かった事を順次記してみよう。まず、

――夢のなかの他人は誰が喋っているのか。

仮に、夢を映画を観るように見ていると仮定すると、観客席の自分、映写室の自分、映画監督の自分、シナリオを書いた自分……すべての後ろに自分を置くことは可能だが(フロイトのように)、演じ、喋っている俳優は、誰が演じ喋っているのか。まさか、自分が俳優に変装しているとは考えにくい。では、他人が自分の脳のなかに住みついているのか。

結論は、カガミに映った外界がカガミでないように、写真のなかの他人が自分でないように(撮ったのは自分でも)、夢のなかの他人(自分の外側の風景や事物すべて)は、自分の入り込む余地のない他者である。他人の台詞のシナリオは自分がつくっても、喋っているのは他人である。

――犬は、夢のなかで飼い主の言葉を聞く。

犬は喋れない。なのに夢のなかでは、喋るという自己の能力の限界を超えた、飼い主の言葉を聞く夢を見る。すべては犬の脳のなかの世界で起きている現象だ。

――夢は見るのではない。夢のなかを生きているのだ。

夢を見ると仮定すると、生まれついての視覚障害者は夢を見る事ができない。起きて生活している世界の、空間と時間と他者存在がスッポリそのまま脳のなかに写し込まれ(視覚だけではない)その時空のなかを自我意識が生きていると思えば、視覚障害者の夢の疑問も、動物の夢の疑問も解消する。生きていると考えれば、たぶん昆虫も夢をみるだろう(以前は、昆虫が眠りから覚めるとき、覚醒のスイッチを、寝ているのに誰がどうやって入れるのかという疑問があった)。

――自分のいない夢は見ない。

生きているのだから、スクリーンの上に自分がいなくても、それを見ている自我意識は消えない。

――スクリーン上に自分はめったに出てこない。

これも、生きているのだから当然で、自分を外部で見るのは、カガミか写真でしかない。たまにみることもあるが、そのときは自分の顔(ホクロや髪の形など)だけ、写像でなく鏡像である(左右が逆)。(生きているうえで職業柄、モデルや俳優は自分の写像をよく見るので例外)

――空想のように、自分が他者(他人や動物や事物)になった夢は見ない。

これも、生きているという事の証拠。想像とちがって、現実の生活は自分が他者になることはないのだから、アルコールや薬物による幻影や幻想と、夢は、まったく異なる現象だ。

夢の現象学的考察から自分の脳のなかの世界を推察すると、覚醒時に生活している現実の自他の関係が、スッポリそのまま入り込んでいる。客観的な他者が脳のなかに写り込んで地平を形成して、その時空のなかで実存が生きている。(認識論の笑い話になっている、脳のなかの小人説に似ている。)

私の内部に客観はすでに住みついているのだ。他人の内部にも同じ客観が写っている。その内部の自我意識による認識や解釈は違っても、目の前のコップは客観的な一個のコップで、同じ物が同じように(逆さ眼鏡をかけても、目がみえなくても)写っているのだ。

外部(客観)と内部(主観)の関係は、マンデルブロー集合のように、外部が内部に、関係全体(世界)が部分(実存)に、境界のない自己相似形で内に向かって世界=内=存在しているのだ。

哲学に門外漢の私の、浅い解釈で間違っているかも知れないが、ハイデッカーは人間の存在のしかたを、箱のなかに石のあるような存在のしかたで存在していないとして、人間の実存(現実存在)と呼び、その様態を世界=内=存在と名付けた。私が実存主義から離れて、超越論的実在論者に移行していったのは、まさにここの所だ。

人間は実存で目一杯ではない。内部に飲み込むかたちで世界を認識していない。そのためフロイトのように自我をすべての背後にくっつける解釈には無理が出てくる。

世界のなかで私は部分だ。同じように私のなかでも自我意識は部分なのだ。自我意識の認識と解釈に関係なく、あらかじめ写り形成された地平が広がっている。〈人間(他の生物も)は外に向かって世界=内=存在であるが、人間(他の生物も)内に向かっても世界=内=存在である。〉

世界の地平は、人間の意識と関係なく写り形成されるものだから、無意識の世界の解釈も、経験論によるア・プリオリの説明も、容易にできる。意識しているもの以外のものも身体は自動的に情報処理して、インプリントしてきているのだから(ピントを合わせたもの以外にも視界にあるすべてのものは写っている)外部世界はほとんど無意識のフィールドに紛れ込んでしまう。幼児の初めての経験も、まだ意識の形成される前の世界の時空はすでに写っているのだから、誰から教わらなくても生物的な行動はできるだろう。さらに、内に向かっての世界=内=存在は人間だけでなく、ボノボのカンジ君も、言葉を喋れない犬も、意識のない単細胞生物も、植物さえもそのような形態で存在している。他の生物と人間は、写り込む世界の違いはない。あるものは時間と空間の量の差、それと内部世界を外部に取り出す能力(カンジ君はできる)。

この世界観によって、善(倫理)も説明できる。私は他人に写り、他人は私に写るのだから、他人を殺すことは自分の内部世界の他人を殺すことでもある。だから、尊属殺人のほうが、他国に飛行機から爆弾を投下するのに比べて、近くて大きく写っているので罪悪感が大きいのだ。外部を汚すことは、自分の内部を汚すことだ。

逆にそれだから、私のなかの〈美〉を外部世界に取り出す画家の仕事は、その結果に関わらず、こうも喜びを与えてくれるのだ。

このようなコスモロジーによって、画家の私は自分の絵の制作のベクトルを、超越的な美を措定し、それを描出する「抽象印象主義(Abstract impressionism )」としたのだ。

(2004年5月13日)

夢の現象学(2008年記)

夢は、自分の脳の内部で起きている現象だ。さて、「夢の中に出てくる他人は誰が話しているのか?」。

他人の出てくる夢は誰でも見るだろう。誰もが見る夢なのに、この本の『虚数』の章でも話したが、僕のこういう疑問の立て方が非凡だろ。最初の単純な疑問、それは夢の中の他人は誰かということ。他人が僕の頭の中に居着いているのか?

ところで僕は、単純な疑問があると解けるまで放っておけない。中学生の頃の疑問は「生まれつき目の見えない人は夢を見るのか?見るとすれば、どんな夢をみるのか?」ということ。こんな疑問が次々に続いて生まれ、まわりまわって結局現在の僕の絵のコンセプトにまで影響している。子供の頃から、世界は不思議なことだらけだった。そういう疑問から入っていって「動物は夢を見るのか?」「昆虫は夢を見るのか?」とサツマ芋のように疑問がずるずると連なってわいてくる。

僕が出した結論だけ言うと、夢は「見る」のではなくて、夢の空間の中で「生きている」。夢を「生きている」とすると、生まれつき目の見えない人は当然夢を見る。動物も夢を見る。昆虫も夢を見る。

夢の中の他人の話に戻ると、夢の中の他人は、誰が話しているのか。夢を、映画を見ているように見ていると仮定すると、自分が観客席で見ているとして、では映画を映している人はだれか?自分の中の一部が観客で、一部が映写している人で、では、映画を撮ったのはだれか? これも自分。

そうすると、脚本を書いて台詞を指示したのは自分だし、カメラマンも自分だし……。では俳優はだれ? 台詞を全部指示したとしても、台詞をしゃべっているのはだれ? 俳優そのものはどうするの? 俳優だけはどうこじつけても後ろに自分がくっつかない。どこかから連れてこなければならない。俳優を連れてこなければ成り立たない。すべて自作自演だとしても、夢の中の他人だけは純粋な他者だ。他人だけでなく、風景や、物も。つまり自分の中に他者が住みついている。風景や物も住みついている。起きて、生活している空間が、そっくりそのまま頭の中に映りこんでいる。これをどう考えたらいいか? そこからフラクタルという考えに入っていく。

ものごとを、こういうふうに考える。こちらに自我があってそちらに社会があって、ここに境界線があって、自分と世界、内部と外部が境界線のもとにはっきりと分け、自我の存在、世界の存在というように、これを対立させて闘わせるから矛盾が生じる。また夢の中の他人のことも、説明がつかなくなる。このようにイメージしたらどうだろう。磁石のように、外側の世界をN極自分の内側をS極だとすると、磁石を折るとまた磁石になるように、外部世界N極と自分S極の関係が、そのままスッポリと自分の内部にもあると考えると、夢の中の他人についても説明がつく。全体と部分が相似形(自己相似形)の構造、境界線のない構造、それがフラクタルなので、マンデルブロー集合の図像には境界線がない。有機物はそもそも外部空間と内部空間の境界がないので、だから水や空気や食べ物を取り込み、またはき出すことができる。外部の存在であるリンゴを自分が食べて消化吸収して一方は内部の血となり、一方は外部に便となって排泄される。この全課程で、自分がリンゴを認識した時から、食べて排泄する時までのリンゴは外部から内部に移る境い目はどこにもない。人間は肉体も精神もフラクタルになっているのではないか。つまり、自分の中に外部が開かれ、取り込まれている。人間の膨大な数の細胞の一つ一つにまで血液は供給され、時間と空間と個体の全体の情報が詰まって、全体も部分も同時に生きている。空間の概念が、外側の大きな世界の中に小さな部分の自分がいるという、こういう構造が、脳の中にもあって、細胞の一個一個がまたそういう構造になっている。ハイデガーは人間の在りようを、箱の中の石のような存在のしかたで存在していないとして、人間のことを実存(現実存在)と呼び、その様態を世界=内=存在と名付けた。

人間は実存で目一杯ではない。実存が世界を、内部に飲み込むかたちで認識(フロイドの認識)しているのではない。世界の中で自分は部分だ。同じように自分の中(脳)でも自我意識は部分なのだ。脳の中の自我意識の周りには、あらかじめ身体にインプリントされたパースペクティブが広がっている。人間だけでなく、有機物はすべて外に向かって世界=内=存在であるが、内に向かっても世界=内=存在である(内~であるに丶)。

高度な自我意識がなくても、動物や昆虫も、外部と内部がフラクタルな構造で生きている。植物や単細胞の微生物も、脳はなくても細胞の中に、外部の時間と空間のパースペクティブの情報は持っている。自我意識に近い、「今、ここ」「自他」の情報は細胞の中に入っている。

無機物は内部が世界=内=存在になっていないので、そこが有機物とは違っている。だから機械の事故は情け容赦がない。森や林の植物を見てみると、きれいに住み分けている。隣り合った木同士が生存競争しても、無機物の接触と違って、隣の木の幹を突き抜けるというようなことは無い。

犬はしゃべれないが、飼い主のしゃべる夢をみる。犬がごちそうを前にして飼い主に「待て!」と命令されてうなされる、こんな夢はきっとみるだろう。飼い主の「待て」という言葉は起きている時は外部のできごとだが、夢の中では犬の脳の内部での出来事だ。犬はしゃべれないのに、飼い主のしゃべる夢をなぜみることができるのか? それは、犬の自己意識の外側に犬の身体を通して外部が、意識に関わりなくインプリントされているからだ。飼い主(外部)の形象は、意識(犬の知性)が解釈するのではなく犬の身体が写し込むのだ。

さて、夢を見るという話の結論は、夢は見る(見る、の横にヽ)のではない、「夢の中の空間を生き(生き、の横にヽ)ている」のだ。だから目の見えない人も夢を見る。日常の覚醒時の空間が、スッポリ夢の中の空間になっている。その夢の中の自我が生きている。自我意識のない夢はない。夢の中で自分があちら側(見られる対象の方)に出てくることはめったになく、ほとんどいつもこちら側(見る主体の方)にいる。自分がライオンになったりする夢は見ない。時系列はとんだりしても、夢はビデオテープのように逆回りの時間はない。これらはすべて、夢の中の空間を「生きている」証拠。つまり、肉体は眠っていても脳の中の自我意識だけは、完全にではないが覚醒している(レム睡眠)。だから苦しい夢を見ると、夢の中でも苦しんでうなされるのだ。覚醒時は脳と身体は繋がっていて、身体は意志どおりに動くが、睡眠中は脳と身体の間のスイッチが切れていて身体が反応しない(たまにスイッチがONのままの人がいて、夢の中の動きを睡眠中にする人がいるのをテレビで見たことがある)。逆に、スイッチが切れたままなのに、脳が完全に覚醒した状態がいわゆる「金縛り」で僕も寝入りばなに時々かかる。睡眠中は覚醒時の空間が、スッポリ頭の中にあって、その頭(脳)の中の自我意識が、その夢の中の空間を生きている。「夢の中の空間を生きている」、そういう構造になっていると思う。(2008年2月)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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