岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド篇 池上忠治訳 美術公論社

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『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド篇 池上忠治訳 美術公論社

■ジョアシャン・ガスケに対して彼は述べているではないか、「その私生活に他人の注意をひきつけずとも人は充分すぐれた絵画を描きうると私は信じてきました。たしかに芸術家は可能なかぎりの知的向上を望みはしますが、しかしその人柄は世に知られないままにとどまるべきなのです」と。(編者序)(1頁)

■36 カミーユ・ピサロへ (エクス) 1874年6月24日

――先日エクスの美術館長に会いました。彼は協会(註2)記事を載せたパリの新聞に好奇心をそそられ、絵画の危険が奈辺にまで及んでいるかを自分の眼で確かめたいのだそうです。私の作品を見るだけでは悪の進展の度合いを充分に認識できないから是非パリの大罪人たちの絵を見る必要があると私が主張したところ、彼は「いや、君の暴行ぶりを見るだけで絵画がいかなる危機にひんしているかがよくわかる」のだそうです。

(註2)いわゆる印象派のグループのこと。正式には「画家彫刻家版画家協会」という。この年に第1回の展観を、パリのキャビュシーヌ大通りで開いた。セザンヌはピサロの強い推薦によって入会を認められ、『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』、『オーヴェール風景』の3点を出品した。これらは一般にきわめて不評だったが、レオン・ド・ローラは『ゴーロワ』紙で『首吊りの家』を〝最もすぐれた風景画の1つ〟と誉め、アルマン・ドリア伯がこれを買うことになった。

(107~108頁)

■39 カミーユ・ピサロへ (エスタック) 1876年7月2日

 土地の者が私をじろじろ眺めます。もし視線が人に危害を加えるものだとしたら私などはとっくに眺め殺されているでしょう。どうも私の顔つきが気にくわないようです。(113頁)

■43 エミール・ゾラへ (パリ) 1877年8月28日

昨夜クローゼル街にある行きつけの画材店(註2)へ行って、ばったり懐かしいアンプレールに会った。

(註2)いわゆる〝タンギー親父〟の店のこと。ジュリアン・タンギーは普仏戦争前は画材の行商人でフォンテーヌブローやパリ近郊をまわり歩き、パリ・コミューンの後はクローゼル街にささやかな店を持った。ピサロに紹介されて、セザンヌは作品と交換にここで画布や絵具、絵筆などを受けとることができた。1880年代の前半、若いゴーギャンやシニャックはタンギーの店でセザンヌの作品を買うことになる。

(118頁)

■68 カミーユ・ピサロへ (パリ) 1879年4月1日

 私のサロン応募のことで反対の声があがっている折ですので、私は印象派展への出品を見あわせたいと考えます(註1)。

 また他方、私が作品を運搬すると必ず騒ぎが起きますので、それをも避けたいと思います。それに数日後にパリを発つのです。

(註1)1879年春の第4回印象派展にはルノワール、シスレー、ベルト・モリゾも参加しなかった。ルノワールはシャルパンティエとの関係によってサロン合格の可能性があり、またシスレーも「あまりに長いあいだ孤立」しないためにサロンに応募する方がよいと考えた。ベルト・モリゾは間近に迫っていた出産のため近作がなかった。(138頁)

■ポール・ゴーガンからカミーユ・ピサロへ (パリ) 1881年夏

……セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な方式を発見したでしょうか。彼の様々な感覚の度外れの表現を唯一の方法のなかに圧縮するやり方をもし彼が発見したのでしたら、どうか彼に同種療法の神秘的な薬を与えて眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください……(154頁)

■107 ある女性(註1)へ (下書) 1885年春

 私はあなたにお会いし、あなたは私に接吻を許してくださいました。あの時以来、私の心は深い混乱に動かされています。不安にさいなまれる一友人(註2)がこうしてあえて手紙を書くことをどうかお許しください。あなたはこれを不躾だとお思いになるかもしれませんが、私はこれを形容するすべを知りません。私を圧倒するこの想いを黙って語らずにいられるでしょうか。感情をかくすよりはむしろ明らかにするほうが良いのではないでしょうか。

 お前の苦しみをなぜ黙っているのだと、私は自分に言いました。苦しみを表明すれば、それだけ悩みが和らげられるではないかと。肉体の痛みがそれを訴える叫びによって多少とも紛れるものだとしたら、心の悲しみは心の憧れの存在に対する告白のうちに和らぎを求めるのではないでしょうか。

 こうして突然にお手紙をさしあげるのがはしたなく思われるかもしれないことはよく承知しております。しかし、それはあなたに対する……

(註1)この下書きはウィーンのアルベルティナ美術館が蔵するセザンヌのデッサンの裏に記されている。後半部は発見されていない。この女性が誰かはなお明らかにされていないが、ジャン・ド・ブッカンはエクス郊外のジャス・ド・ブッファンの若い女中ファニーかと推測している。

(注2)リウォルドが〝一友人〟un ami と読んだこの語を、アンリ・ベリュショは〝一つの魂〟une ame と読むべきだとしている。

(168~169頁)

■ポール・アレクシスからゾラへ 1891年2月13日、金曜

 彼は女房のことをかんかんに怒っている。1年もパリにいた後、女房は去年の夏5ヶ月のスイス旅行、それも大名旅行という打撃を与えたのだが、多少とも共感にめぐまれたのはあるプロシャ人の家庭においてのみという始末だ。スイスのあと、女房はブルジョア的な息子に付きそわれてまたパリへ逃げてしまった。

 しかし、生活費の送金を半分に削って、彼は女房と子供と、おまけに400フランかけて持ってきたパリの家具まで着くのだ。ド・ラ・モネ街に部屋を借りて、ポールはすべてをそこへ入れる気でいる……しかし彼の方はというと、彼は母親と上の妹の所から離れようとしないのだ。郊外の彼女らのところで彼は大いに居心地がよく、こっちの方が絶対に女房よりいいのだ。こうして女房と子供がこちらに根をおろしたら、今度は彼が時々パリに行って6ヶ月暮らすことをさまたげるものは何もない。〝美しき太陽と自由よ、万歳!〟と彼はわめいている。(183頁)

■ピサロからエステル・ピサロへ (パリ) 1895年11月13日

 親愛なるエステル(註1)

 ヴォラール(註2)のところでとても完全なセザンヌの展覧会が開かれている。驚くほどよく仕上げられた静物画、未完成だが実に異常な野生と性質をもつ作品が並んでいる。これはほとんど理解されないだろうと私は思う……

(註1)エステルはリュシアン・ピサロ(岡野注;ピサロの息子)の妻。

(註2)アンブロワーズ・ヴォラールは画商だが、1894年1月にラフィット街に小さな画廊を開いたばかりで、当時まだほとんど知られていなかった。彼はジョフロアに勧められ、ピサロ、モネ、ドガ、ルノワール等にも鼓吹されて、1895年の11月から12がつにかけセザンヌ展の開催に成功する。しばし躊躇した後セザンヌは大量の作品を送るが、画廊の狭さのため同時に50点しか陳列できなかったという。セザンヌはエクスにいて、会場を訪れなかった。ヴォラールの後年の著書『ポール・セザンヌ』『画商の想い出』などを参照。

(191~192頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (パリ) 1895年11月21日

……私はまたセザンヌ展のことを考えていた。すばらしいものが並んでいる。文句のつけようのないほど仕上げられた静物、描きこんであるか、あるいはまだプランのままに残されていて、しかも他の作品以上に美しいもの、風景や裸体や顔など未完成ではあるが全く雄大でいかにも絵らしく実にしなやかなもの……なぜだろう?そこには感覚(サンサシオン)があるからだ!……おもしろいことに、ずっと前からセザンヌについて感じているあのふしぎな、面くらわせるような彼の一面のことを嘆賞していたら、そこへルノワールがやってきた。私の熱中もルノワールの熱狂の前ではキリストの前のヨハネみたいだった。ドガでさえこの種の洗練された野人の魅力に引きこまれている。モネもそうだ……私たちは皆間違えているのだろうか。私はそうは思わない。芸術家だろうと愛好家だろうと、この魅力を感じないものはある感性が自分に欠けていることを示すことになるのだ。むろん連中はわれわれの気がついているさまざまな欠点をきわめて論理的に述べたてることはできる。それは一目でわかる。だが、連中はこの魅力を見ていないのだ。――ルノワールが実にうまく言っていた、何だか知らないが同じような魅力がポンペイのものにあるのだと、実に粗野で実にすばらしいものが。――アカデミー・ジュリアン(註1)みたいなところは全然ないのだ。モネとルノワールは〔セザンヌの〕すばらしいものを買った。私はルヴシェンヌを描いたまずい習作をやって、交換にセザンヌのいくつかの小さな『水浴の男たち』と肖像を受けとった……

(註1)アカデミー・ジュリアンは当時のパリでコルモンのアトリエとともに最も有名だった。ここでは、エミール・ベルナール、モーリス・ドニ、エドゥアール・ヴュィヤールなどアカデミー・ジュリアンの門下生でナビ派を形成する若い画家たちの洗練されてはいるが、教養主義的にすぎて野性味に欠ける絵画を、ピサロはセザンヌのせんれんされてしかも力強い絵画に対比している。

(192~193頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (パリ) 1895年12月4日

 ……印象派の愛好家や友人たちにセザンヌのたぐい稀な特質を理解させるのがどんなにむずかしいことか、お前にはわからないだろう。人々が正当に彼を評価するまでに幾世紀もかかるのではないかと思う。ドガとルノワールはセザンヌの作品に夢中だ。果物をいくつか描いたデッサンをヴォラールが示して、籤引きで当てた人にあげましょうという。セザンヌのクロッキーに情熱をかたむけているドガがこの幸運を引きあてた。1861年の私は正しかったのだ、下手くそな連中の嘲りをあびながらアカデミックなデッサンをやっていたあのふしぎなプロヴァンス人に会いにアカデミー・スイスまでオレルと一緒に出かけていった私はね。……(193頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (ルアン) 1896年1月20日

 ……パリを発つ前に友人のオレルに会ったら、彼とセザンヌとの間に起きた異常なことを語ってくれた。セザンヌが軽度の精神異常をきたしていることがわかるのだ……

 あの南方的な開放性でセザンヌが大いに親愛の情を示したので、オレルはすっかり信じきって、エクス・アン・プロヴァンスまでセザンヌについて行ってもいいのだと思った。翌日のパリ・リヨン・地中海線の汽車で待ちあわせることになった。「3等で」とセザンヌおじさんは言った。そこでオレルはプラットホームできょろきょろと四方を見まわすが、セザンヌはいない。汽車が出そうになる。見つからない。僕がもう乗ったと思ってセザンヌも乗ったのだろうとオレルは自分に言いきかせ、意を決して乗りこむ。リヨンのホテルで彼は財布のなかの500フランを盗まれてしまう。帰るに帰れないので、彼はセザンヌに電報を打ってみた。セザンヌは家にいた(エクスの)。彼は1等に乗ったのだ!お前も後学のために読んでおくがいいような手紙をオレルは受けとる。セザンヌは彼を戸口で追いかえし、人を馬鹿だと思うと……などと言う。実際すごい手紙だ。ルノワール宛のと大して変わらない。――「ピサロは老いぼれ、モネはずる賢い奴、奴らは腹に何も持っていない……気質(タンペラマン)のあるのは俺だけ、赤い色の出し方を知っているのも俺だけなのだ!! 」というわけだ。

 アギナールも同様の場面に出くわしたことがある。医師として彼はオレルに言った。セザンヌは病気なのだ、気にすることはない、オレルに責任はないのだと。あれほど美しい気質にめぐまれている男がかくも均衡に欠けているとは、何と悲しくまた残念なことだろう……(193~194頁)

■138 ジョアシャン・ガスケへ (エクス) 1896年4月30日

 私は今夕クール・ミラボーの端であなたにお会いしました。あなたはガスケ夫人と御一緒でした。私の誤りでなければ、あなたは私に対して大変立腹されているようでした。

 もしあなたが私の内なる人間を見ることができたら、そんなにお腹立ちにはならないでしょう。私がどんなに悲しい状態にあるかをあなたはご存知ないのです。自分を制御できないときは、人間として存在しないも同様です。あなたは哲学者として私に止めを刺そうとお思いなのでしょうか。しかし私はジョフロアその他、50フランの文章を書くことが目的で大衆の注目を私に引きつけたような輩を忌み嫌うものです。生涯私は絵で生活できるようになろうと努めてきましたが、しかし、自分の私生活に注意を引きつけずとも充分すぐれた絵を描けると信じて来ました。たしかに芸術家はできうるかぎりの知的向上を望みます。しかしその人間としての満は曖昧なままにとどまらざるをえないのです。喜びは研鑽のうちに存すべきものです。もし研鑽の目的が実現されたとしても、私はやはりアトリエの仲間たちとともに自分の片隅にとどまり、彼らと一杯飲みに行くだけのことでしょう。私にはこうした昔ながらのよい友人が一人ありますが、たしかに彼は成功しなかった。しかし賞牌や勲章を手に入れたやくざな連中より彼の方がよほど画家らしいのです(註1)。勲章などはうんざりです。私の年齢になってまだ何かを信じているとあなたはお思いですか。もっとも私はもう死人も同然です。あなたは若い。あなたが成功しようとお思いなのはよくわかります。しかし私には、私の状況でなすべき何が残されているというのでしょう。自分の糸をやんわりつむぐだけのことです。私がこの地方の風光を大いに愛してさえいなかったら、私はここにはいないでしょう。

 以上であなたを大分手こずらせたことと思います。こうして私の立場を説明したあとでは、あなたもまるで私があなたの身の安全にかかわることをしでかしたかのように私をごらんになることはないものと思います。

 どうか親愛なるガスケ様、私の老齢を考慮されて、私のあなたに差しあげる最良の気持と願いとをお受けとりください(註2)。

(註1)おそらくアシル・アンプレベールをさすものと思われる。

(註2)この後まもなくセザンヌは『ジョアシャン・ガスケの肖像』を描きはじめる。なおその父の『ジアンリ・ガスケの肖像』はこの4月から着手されている。

(194~195頁)

■154 ジョアシャン・ガスケへ (ル・トロネ) 1897年9月26日

 芸術は自然と平行する一つの調和なのだ――芸術家は常に自然より劣るなどという馬鹿者どもが何と考えようとね。(206頁)

■ポール・アレクシスからゾラへ (パリ) 1899年5月5日

 驚いたことに昨日の朝は、ボクの5点のセザンヌを見にラフィット街から来た画商(註1)に起こされた。彼はそっくり2千フランで買うという(ピサロの習作とルノワールのアルチショを描いた絵も含めて)。これらを売るかもしれないと知って女房がびっくりして大声をあげたが、正直なところ、この金額は僕をしばらく夢想にふけらせた。2千フランの値を僕がつけたのでは全然ないから、3千フランにだってなりかねないのだ。

(註1)アンブロワーズ・ヴォラールのことと思われる。(210頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (パリ) 1899年6月1日

 芸術上の大事件が起きようとしている。ショケ親父が死に、未亡人も死んだので、そのコレクションが売立てに付されることになった。32点の第一級のセザンヌがある。モネもルノワールもある。私のは1点だけだ。セザンヌのねが上がりつつある。もう4000から5000フランしているのだ(註1)……

(註1)この売立ては7月初めに行なわれ、32点のセザンヌは合計5万1千フランに達した。最も高額だったのはカモンドが『首吊りの家』のために払った6千2百フランである。モネの勧めによりデュラン・リュエルが15点を買い、残りをベルネーム・ジュヌ、ヴォラール、ヴィオ、ペルラン等が争って買った。(212頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (パリ) 1900年4月21日

 われわれ、つまり印象派は万国博覧会で一室を与えられる。われわれは非常によく扱われるらしい。ついにデュラン・リュエルがこの仕事を引き受けた。ベルネーム兄弟も、それはとても良いことで、センセーションをまき起こすだろうと昨日言っていた。われわれは1830年派(註1)に続けて陳列されるのだ。セザンヌの作品も出るだろう。もっとも彼は今流行している。驚くべきことだ!私の絵5点が買われてベルリンへ行くという話を昨日きいた。シスレーは6千から1万フランでよく売れ、セザンヌは5千から6千、モネは6千から1万だ。

(註1)いわゆるバビルゾン派の風景画家をさすものと思われる。

(213頁)

■175  シャルル・カモアンへ (エクス) 1902年2月3日

 今やあなたはパリでルーヴルの巨匠たちに引きつけられるのですから、ヴェロネーゼやリュベンスなど装飾的な巨匠たちに即して習作をおやりなさい。ただし自然に即してやるようなやり方で――この点を私は不完全にしかやれなかったのです。――しかし自然に即して研究すればなお良い。(222頁)

■177 ルイ・オランシュへ (エクス) 1902年3月10日

 自分がこの世で最も不幸な者の一人ではないことを認めざるをえません。どうか自分に自信をもって仕事をなさい。決して芸術を忘れてはいけません。これによってわれわれは星の高みにまで達するのです。(224頁)

■182 アンブロワーズ・ヴォラールへ (エクス) 1902年4月2日

ささやかな土地にアトリエを建てさせました。その目的で土地を買ったのです(註1)

(註1)ジャス・ド・ブッファンの売却以来、ブールゴン街のセザンヌの家には小さなアトリエしかなかった。前年11月、セザンヌは郊外から町を見下ろすローヴの丘に地所を買い、大きな2階建てのアトリエを建てさした。この年にアトリエが完成すると、以後彼は周囲の風景のうちの多くのモティーフを描き、またここで多数の肖像、静物、水浴の構図等を制作することとなる。この建物は1954年以降エクス・マルセーユ大学の所有に帰し、現状のまま一般に公開されている。

(226~227頁)

■186 ジョアシャン・ガスケへ (エクス) 1902年7月8日

 私は仕事による成功を追究しています。私はモネとルノワールを除く現在の画家をすべて軽蔑しており、仕事によって成功をおさめたく思うのです。(228~229頁)

■189 アンブロワーズ・ヴォラールへ (エクス) 1903年1月9日

 私は一心不乱に仕事をしています。約束の土地がかい間みえるような気がします。私はヘブライの偉大な予言者のようになれるでしょうか、かの地に足をふみ入れることができるでしょうか。―中略―

 私は多少の進歩をなしとげましたが、それがなぜかくも遅く、かくも辛いのでしょう。芸術は結局のところ、司祭職のように、身をあげて自分に帰属する純粋な人々を求めるのでしょうか。(230頁)

■190  シャルル・カモアンへ (エクス) 1903年2月22日

 今度お会いしたら、絵画について誰よりも正しくあなたにお話しましょう。芸術においては私は何ら隠すべきものをもたないのです。

 必要なのは原初的な力、つまり気質(タンペラマン)のみです。これが人をして達すべき目的にまでいたらしめるのです。(231頁)

■193 ジョアシャン・ガスケへ (エクス) 1903年9月5日

今やりかけの絵を今なお6ヶ月続けないといけないのです。これをサロン・デ・ザルチスト・フランスに出すつもりなのですから(註1)。―中略―

ルージョンのいわゆる猛獣(註3)、ポール・セザンヌ

(註1)この応募はやはり落選に終わった。これまでの官選のサロンは1890年に分裂した。旧勢力はブグロー、ジェロム、ボンナ等の率いるサロン・デ・ザルチスト・フランスで、これがセザンヌのいわゆる〝ブグローのサロン〟である。もう一つの多少ともよりリベラルなサロンはサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボ・ザール(通称ラ・ナショナル)でメッソニエをリーダーとし、他にカロリュス・デュラン、J・E・ブランシュ、ベナール、メナール、シモン、コッテ、カリエール等がおり、メッソニエが1891年に死ぬとピュヴィス・ド・シャヴァンヌがリーダーとなった。

(註3)ルージョンは美術学校の校長を経て当時美術局長だった。オクターヴ・ミルボーがセザンヌにレジオン・ドヌールを得させようと画策したが、結局ルージョンの反対にあって実現しなかったという。

(233頁)

■197 ルイ・オランシュへ (エクス) 1904年1月25日

 お手紙であなたは絵画における私の実現(レアリザシオン)について書いておられます。多少苦労しながらではありますが、私は日々ますますこれに達しつつあると思います。というのは、もし自然の与える強烈な感覚――たしかに私は生き生きしたこの感覚を有しています――があらゆる芸術創造にとって欠くべからざる基礎であり、未来の作品の偉大さや美しさがこの基礎のうちに存するのだとしたも、われわれの感動を表現する諸手段についての知識も、これに劣らず本質的であって、きわめて長い経験によってのみ獲得されるものなのです(註1)。

(註1)感覚はサンサシオン、感動はエモシオンの訳語である。これらは最も適切な訳語ではないかもしれないが、他により適当する言葉が見当らない。サンサシオンは自然(あるいはモティーフ)が画家に与える感覚の意味に用いられる場合と、画家が生まれながらに有する芸術的感覚の意に用いられることとがある。後者の場合は気質(タンペラマン)の意味により近いわけである。またより普通に感動の意で用いられることもあり、この場合はエモシオンに一致する。サンサシオンとタンペラマンの二語は19世紀後半のフランスにおける芸術的創造の心理的基礎を解明すべき鍵となる言葉であるが、これらを用いる主体が画家であって文学者や学者ではないだけに、厳密性を欠き、なかなか真意をとらえがたいことがある。

(235~236頁)

■198 エミール・ベルナール(註1)へ (エクス) 1904年4月15日

 こちらであなたにおはなししたことを再び繰りかえすことをお許しください。自然を円筒形と球形と円錐形によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい。つまり、物やプランの各面がひとつの中心点に向かって集中するようにしなさい。水平線に平行する線はひろがり、すなわち自然の一断面を与えます。お望みならば、全知全能にして永遠の父なる神がわれわれの眼前にくりひろげる光景の一断面といってもかまいません。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところでわれわれ人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の振動のなかに、空気を感じさせるために必要なだけの青系統の色を導入する必要が生じます(註2)。

 申しそえますが、アトリエの一階であなたがおやりになった習作(註3)をもう一度見ました。とても結構です。あなたはこの道をお進みになるだけでよいのだと思います。やらねばいけないことをすでに御存知なのですから、やがて間もなくゴーガンやヴァン・ゴッホの作品などには背をお向けになることでしょう(註4)!

(註1)タンギーの店でセザンヌの作品を見、ピサロやゴーガンにエクスの巨匠の重要性を教えられて、すでに画家エミール・ベルナール(1868–1941)はセザンヌ論(1891年5月2日ピサロの手紙の注1を参照)をあらわしていたが、これはまだ個人的にはセザンヌを知らなかった。この年彼は妻子とともにエジプト旅行の帰途エクスを訪れ、2月から3月にかけて約1ヶ月滞在してセザンヌに会い、しばしば長い理論的な会話をかわし、エクスを去った後も手紙でこれを試みようとする。

(註2)この最も有名な手紙に始まるセザンヌの幾通かのベルナール宛の手紙は、初め『オクシダン』誌(1907年10月)とにベルナールによって発表され、当時起こりつつあったキュビスムの有力な理論的根拠のひとつとなった。ここでセザンヌが言う円筒形、球形、円錐形はいずれも丸味(モデュレ)を持つ形態であり、キュビスムはこの丸味を小さな平面の集積に置きかえようとするわけで、その意味でキュビストはセザンヌの真意を理解しておらず、また続いて述べられる遠近法や色彩の処理をも無視する。しかしこのことによってキュビスムの重要性が減ずるわけではない。キュビストはただ自分たちの芸術を支援しうるものをあらゆるよころに求めたのである。

セザンヌ

(註3)セザンヌはベルナールのためシュマン・デ・ローヴのアトリエの一室に静物をしつらえて描かせた。彼のアトリエはその2階にあった。

(註4)ベルナールはすでにパリ時代のヴァン・ゴッホを知っており、またポン・タヴェンその他でゴーガンと親しく交わっていて、すでに亡くなったこの二人の声価は、このころ上がりつつあった。しかしセザンヌは〝支那の影絵〟のように平らなゴーガンの絵やヴァン・ゴッホの〝気狂い〟じみた絵の重要性を決して認めようとしなかった。

(236~238頁)

■199 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年5月12日

 すでにお話したように、ルドンの才能は大いに私の気に入っており、また私は彼と心をあわせてドラクロワを感じかつ讃えるものです。私の心もとない健康のため、ドラクロワ礼讃の構図を描こうという多年の夢はおそらく決してかなえられることがないでしょう(註1)。

 私はきわめてゆっくりと仕事を進めます。自然は私にとって実に複雑で、またなしとげるべき進歩は無限にあります。モデルをよく見、きわめて正しく感じとらねばなりません。そしてさらに、品位をもって力強く自己を表現しなければなりません。

 趣味は最良の判定者で、これを持つ人はめったにありません。芸術は実に数少ない人々にのみ呼びかけるものなのです。

 芸術家は、性格の知的観察にもとづかぬ意見を軽視せねばなりません。文学的精神をも疑う必要があります。これは実にしばしば画家をしてその真の道から――つまり自然の具体的研究から遠ざけ、触知できない思弁のなかに長い間迷いこませるのです。

 ルーヴルは参照すべき良書です。しかし、これも単なる仲介物であるにとどまらねばなりません。とりあげるべき本物のすばらしい研究対象、それは自然という絵画の多様性なのです。

(註1)青年時代以来ずっとセザンヌはドラクロワを賛美して、『ダンテの舟』『化粧』『メディア』等を模写しており、1894年に彼のアトリエを撮影した写真では、制作中の油絵『ドラクロワ礼讃』が画架にかかっている。この作品のための水彩画の裏にエミール・ベルナールはセザンヌの書いた詩まで発見している。

 ここにあり、若い女の丸い尻、/草むらに彼女のくりのべる/しなやかなる体、すばらしい開花。/クールーヴルもかほどに柔軟でなく、/輝く太陽は嬉しげに投げる/金色の光線を、この美しい肉に。

(238~239頁)

■200 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年4月15日

 『オクシダン』誌のための文章であなたが展開される思想を私はだいたい承認いたします。しかし結局私は次の点に帰着します。すなわち、画家は自然の研究のために一身をささげ、ひとつの教えとなるような絵画を作りだすよう努力しなければならないのです。芸術についてのお談義はほとんど無用です。自分固有の職業において仕事が進歩を実現させてくれるならば、それだけで充分、世の馬鹿者どもに理解されないことの埋めあわせになります。

 文学者が抽象的な思想によって自己表現を行うのに対し、画家はデッサンと色彩によってその感覚を、その知覚を具体化します。自然に対してどんなに綿密、誠実かつ従順になっても、そうなりすぎるということはないのです。自分のモデルに対して、特に自分の表現手段に対しては、多少ともつねに主人なのですから、眼前のものに深く入ること、そしてできうるかぎり論理的な自己表現を忍耐強く行うことです。(239頁)

■201 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年6月27日

 数日前ヴォラールが夜会を催して皆盛大な御馳走にあずかったそうです。――若い世代の画家が全員いて、モーリス・ドニやヴィヤールもいたようです。ポール(岡野注;セザンヌの息子)もそこでジョアシャン・ガスケに会いました。最も良いのは大いに仕事をすることだと私は思います。あなたは若い。実現し、かつお売りなさい。

 シャルダンの美しいパステル(註2)を覚えておいでですか、眼鏡をかけ、帽子の庇が光をさえぎっている絵を?実に賢い男です。この画家は、鼻と交叉させて軽く斜めのプランを走らせることによって、色価の関係がよりよく確立されているではありませんか。このことを確かめて、私の誤りかどうか言ってください。

(註2)ルーヴルにあるシャルダンの自画像(パステル)をさす。

(240頁)

■202 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年7月25日

 私たちが肩を並べて一緒にいないのが残念です。私は理論的ではなく、自然に即して正しくありたいと望むのですから。アングルは、その様式と多くの賞讃者とにもかかわらず、小さな画家にすぎません。最も偉大なのは、あなたは私以上によく御存知ですが、ヴェネツィア派とスペイン派の画家たちなのです。

 進歩を実現するためには、自然しかありません。自然との接触によって、眼がしつけられます。眺め続け働き続けるおかげで、眼は集中力をもつにいたる。すなわち、オレンジでもリンゴでも球でも顔でも、そこには一つの頂点がある。そしてこの点は、光や影や彩られた感覚がおよぼす恐るべき影響にもかかわらず、われわれの眼に最も近い。物の周縁部は水平線上におかれた一中心に向かって逃げてゆく。ささやかな気質(タンペラマン)さえあれば、人は立派に絵描きになれるのです。調律がうまいとか色の出し方がすぐれるとかいうことはなくとも、充分立派なものを描ける。芸術的な感覚を持つだけで充分です。――そしておそらくこの感覚というものがブルジョアどもの嫌悪の的なのです。だから学校とか年金とか勲章とかは、白痴や道化者ややくざ者のためにのみ作られているのです。美術批評家などにはならず絵をおやりなさい。ここにこそ救済があるのです。(241頁)

■206  シャルル・カモアンへ (エクス) 1904年12月9日

 芸術家にとって、モデルを読みとくこと、そしてそれを実現することが非常に時間のかかることである場合があります。――あなたのお好みの巨匠が誰であろうと、あなたにとって必要なのは方向づけだけです。これがないと、模倣者にしかなれません。それがどんなものだろうと自然に対する感情さえあれば、そして多少の天賦の才があれば、あなたは必ず抜きん出ます。他人の与える忠告や他人のやり方があなたのものの感じ方を変えてはいけないのです。時としてあなたより年長の者の影響を受けることがあるとしても、どうか、あなたが何かを感じた瞬間には結局つねにあなた固有の感動があらわれて陽の当たる場所を占めるのだと信じてください。優位に立つこと、自信をもつこと、これがあなたのついには獲得せねばならない構成に到達するための良い方法です。デッサンはあなたが見るものの外形であるにすぎません。

 ミケランジェロは構成家です。ラファエロは実に偉大ではあるが、しかし、つねにモデルにしばられています。――熟慮反省しようとすると必ず彼はその偉大なライヴァルに劣ってしまうのです。(244頁)

■207 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年12月23日

 ナポリからのお便りをいただきました。あなたとともに美学的考察にふけるのは止めておきましょう。ヴェネツィア派中最も雄々しい画家に対するあなたの賛嘆むろん私も認めます。ティントレットを祝福しましょう。必ずしも超越できない作品のうちに精神的知的な拠りどころを求めようとすると、あなたは必ず永久の誰何の立場に立つことになり、互いに食いちがう手段を間断なく追究することになります。その結果、あなたはたしかにあなたの表現手段を自然に即して感じとることになる。そして表現手段を手に入れた日、必ずあなたは4、5人のヴェネツィアの偉人たちが用いた手段を、自然に即して、そして今度は努力せずに、再発見することになるのです。

 疑いもなく確かなのは次のことです。――私はとても断定的ですね――われわれの視覚器官のなかである視覚上の感じがおきる。すると、彩られた感覚によって示される諸プランがハイライト、半調子あるいは4分の1調子に分類されます。したがって画家にとって光は存在しません。あなたが不可避的に黒から白へと行っているかぎり、この最も抽象的な階梯が目にとっても頭脳にとっても支点となりますから、われわれはまごつき、自分を制御し所有するにいたりません。この期間中は(多少止むをえず繰り返して言うことになりますが)、われわれは過去が残してくれたすばらしい作品へとおもむき、そこに激励や支持を見出します。水泳する人にとっての浮袋のようなものです。――お手紙にお書きのことはすべて全く真実です。(245頁)

■216 エミール・ベルナールへ (エクス) 1905年金曜

 あなたのお手紙の諸項目のいくつかに簡略にお答えします。おっしゃるとおり、あなたのごらんになった最新の作品で、私は実にゆっくりした幾ばくかの進歩を実現したと思います(註1)。しかしながら、絵画と表現手段の発展との見地からする自然に対する理解力の進歩が年齢の増加と体の衰弱を伴うのだと言わざるをえないのは大変悲しいことです。

 官選のサロンが依然として実に劣弱だとしたら、それは彼らがすでに多少とも流布した手法のみを作品に示すからです。個性的な感動、観察、性格等をもっと作品に与える方がよいのです。

 ルーヴルはわれわれが読方を教わる本です。しかし、有名な先人たちの流麗な画法を覚えるだけで満足していてはいけません。それから抜け出して、美しい自然を研究しましょう。自然から精神を引きだし、われわれに固有の気質に従って自分を表現することに努めましょう。また一方、時間と反省とが少しづつ視覚を整理し、そしてついに理解力がもたらされます。

 しかし、こうした正しい理論も、近ごろのように雨がちだと戸外で実行にうつすことができません。しかし忍耐すれば、屋内のものも他のもの同様に理解できるようになります。古い画法の滓だけがわれわれの知性を曇らすのであって、知性はつねに鞭うたれ刺激されている必要があります。

(註1)エミール・ベルナールはこの年の3月ナポリからエクスへ来てサザンヌを訪れている。したがってこの手紙はそれから間もないころのものかと思われるが、ここではジョン・リウォルドの与えた順序にしたがっておく。

(250頁)

■217 エミール・ベルナールへ (エクス) 1905年10月23日

 あなたのお手紙を私は二重の意味で大変有難く思います。第一に、これは私の純然たるエゴイズムなのだが、唯一無二の目的の間断なき追究がもたらすあの単調さから私を引きだしてくれる。この単調さは肉体的な疲労の時期に一種の知的な無力状態まで生みださせてくれる部分(註1)を実現することに対する私の執拗な追究を、おかげであなたに、おそらくくどいほどにだろうが、くりかえし述べることができるのです。さて、展開すべき主張は、――われわれの気質や自然を前にしての能力の形式が何であろうと――われわれ以前にあらわれた一切を忘れてわれわれが見るところの姿(イマージュ)を描くことです。そうすれば芸術家は、それが大きかろうと小さかろうと自分の全個性を作品に与えることができるはずです。

 ところで、70歳に近いほどの高齢になると、光明をもたらすはずの彩られた感覚が逆に呆然自失の状態を引き起こし、画布を絵具で覆うことを許さず、物の接触点が細かくて見定めがたい時には物の境界線をたどることもできません。私の絵が完成されない原因はここにあるのです。

 他方、各プランは互いに重なりあっている。そこで新印象主義は輪郭を一本の黒い線で決めてしまおうとするのだが(註2)、これは全力をあげて排除すべき欠陥です。自然を参照すれば、この目的に達するための手段が得られるのです。

 あなたがトネールにおいでのことを忘れてはおりません。しかし私はふだん家にいないため一切家族の言いなりになっており、彼らは時には私を忘れて自分たちの便宜を追いかけるのです。これが人生なのでしょう。私のような年では、もっと、経験を積んで全般的な幸福のためにそれを役立てていなければいけないところなのですが。あなたには絵画における真実をお話しするやくそくですから、今度またそれについて書きましょう。―中略―

 視覚はわれわれにおいては研鑽によって成長し、われわれに見かたを教えます。

(註1)自然のすべてが絵になるのではない。絵になる部分がモティーフと呼ばれ、画家はモティーフを探しに自然のなかへ入ってゆく。

(註2)太い線によって物の輪郭を強調するのは、スーラとシニャックの新印象主義であるよりもむしろ、ベルナールやアンクタンが一時的に行った区劃主義(クロワゾニスム)で、これがやがてゴーガンの芸術のうちに吸収されることになる。

(252頁)

■225 息子ポールへ (エクス) 1906年9月2日

ペンキ屋みたいな画家連中が私に近づいて、自分たちも是非同じような絵をやりたいのだが、デッサン学校で教えてくれないのだという。ポンティエ(註2)は鼻もちならぬ奴だと私が言ったら、彼らも賛成だったようだ。新しいことはちっとも起こらないということがお前にもわかるだろう。

(註1)オーギュスト-アンリ・ポンティエは彫刻家で、1892年から1925年までエクスの美術館長の地位にあった。自分が生きているかぎり絶対にセザンヌの絵をエクスの美術館に入れないと公言していたといわれる。

(259頁)

■228 エミール・ベルナールへ (エクス) 1906年9月21日

 近ごろ頭の工合が悪く、ひどく混乱することもあって、一時は私の頼りない理性が失われてしまうのではないかと危ぶんだほどでした。先日までの恐ろしい暑さのあと、ようやくより穏やかな温度にかえって、心にも多少の落着きを取りもどしましたが、この時候の訪れも決して早すぎはしません。今は前よりよく物事がわかるようになり、より正しい方向に仕事を進められると思います。あれほど長く探し、追究してきた目的に私は到達するでしょうか。そうありたいものです。この目的が達せられないかぎりある漠然とした不快感が続き、これは私が目的の岸に達した後でしか消えないことでしょう。目的を達するとはつまり、過去における以上によく発展し、それによって理論をも立証するような何らかの作品を実現することです。理論そのものはつねに容易なのですから。問題は頭で考えていることの証拠を出すことで、これが実に困難な障害を課するのです。そこで私は仕事を続けるわけです。

 あなたのお手紙を読みなおしましたが、私の答え方は的をはずれていますね。どうかお許しください。達成すべき目的が常に私の心を占拠していること、これがその原因なのです。

 私はつねに自然に即して仕事をしており、ゆるやかな進歩を実現しているようです。傍らにあなたがおいでならよいのに、と思います。いつも孤独が少し重すぎるからです。しかし私は年老い、また病気です。五官の衰えにひきずられる老人たちをおびやかすあの忌むべき耄碌状態に落ちこむよりは、むしろ絵を描きながら死のうと自分に誓いました。

 もしまたお会いできることがあれば、私たちは肉声でよりよく説明しあえます。いつも同じことの繰りかえしになるのはお許しねがうとして、私は自然に即して私たちが見たり感じたりするものの論理的発展の存在を信じます。手法に取組むのがその次になるのは止むをえません。われわれにとって、それは単に、われわれ自身が感じることを大衆に感じさせ、われわれを受け入れさせるための手段にすぎないのですから。われわれの嘆賞する偉人たちもこれを実行したにすぎないのにちがいありません。

 年老いた頑固者の思い出をお受けとりください。ねんごろな握手を送ります(註1)。

(註1)エミール・ベルナールは『メルキュール・ド・フランス』の247、248号(1907年10月の前半号と後半号)に発表した文章を1912年に単行本として刊行する。この限定500部のうちの1冊(第274番)を当時パリにあった島崎藤村が求め、先に帰国する小山内薫に託して有島生馬のもとへ届けさせる。有島はこれを翻訳して大正2年11月から翌年5月まで『白樺』に『回想のセザンヌ』と題して連載した後、大正9年に叢文閣から一本として上程する。本書は昭和3年に岩波文庫に収められ、昭和27年には三たび体裁を改めて美術出版社から刊行される。有島生馬は1907年のサロン・ドトンヌにおけるセザンヌの大回顧展を実見しており、日本に初めてセザンヌの芸術を紹介した功績は彼に帰せられる。

(261~262頁)

■230 息子ポールへ (エクス) 1906年9月26日

 サロン・ドトンヌから手紙が来た。署名しているラビジーは多分この展観の偉い組織者の一人なのだろう。私の絵が8点出品されていることを知った(註1)。昨日、マルセーユからきた好漢カルロス・カモワンに再開した。絵を一荷物かかえて、私の意見をききに来たのだ。彼の絵は良い。もっと進歩するだろう。彼はエクスに何日か滞在し、ル・トロネの小道(註2)へ制作にゆく。気の毒なエミール・ベルナールの描いた人物を撮った写真を私に見せてくれた。彼がインテリであり、美術館の思い出をいっぱい持っており、しかし自然に即してものを見ることを充分にやっていないという点で、われわれの意見が一致した。学校(エコル)から、あらゆる流派(エコル)から抜けだすこと、これが最も肝要なのだ。――だからピサロは誤っていなかったのだ、芸術の墓場(註3)を焼いてしまえとまで言ったのは多少言いすぎだったにしても。――芸術上のあらゆる職業人やその同類と一緒にやるのでは、奇妙な家畜小屋ができあがること間違いなしだ。

(註1)実際には10点出品された。

(註2)かってセザンヌがしばしば制作した場所。ここからシャト-・ノワールの方へ登ってゆく。

(註3)美術館、特にルーヴルのこと。

(263~264頁)

■234 息子ポールへ (エクス) 1906年10月15日

 若い画家たちは他の連中よりずっと頭がいいと思う。年とった連中は私のうちに不幸なライヴァルを認めることしかできないのだ。

 では、/ポール・セザンヌ

 もう一度言うが、エミール・ベルナールは大いに同情に値すると思う、彼は心の悩みを持っているのだから(註1)。

(註1)この日の午後セザンヌはモティーフに出かけて雨にうたれ、しばらく人事不省におちいった。次の手紙の(註1)を参照。

(267頁)

■235 ある画材店へ (エクス) 1906年10月17日

 ラック・ブリュレの7番を10本注文してからもう1週間になりますが、お返事がありません。どうしたのでしょうか。どうかお返事をいただきたいと思います。ではよろしく。/ポール・セザンヌ(註1)

(註1)これがポール・セザンヌの最後の手紙となった。みっか後の10月20日、画家の妹マリーは甥のポールにあてて次のように書く。「月曜からずっとお前のお父さんが病気です。……彼は何時間も雨にうたれていて、洗濯屋の二輪馬車に乗せられて帰ってきたのです。床に入れるのに男二人の手を借りねばなりませんでした。その翌日は朝早くから庭の菩提樹の下へヴァリエの肖像を描きに出、死にそうになって戻りました……」。

 この手紙は10月22日にパリのオルタンスとポールの許に着き、すぐ続いてブレモン夫人からの電報も届いたが、しかしセザンヌは同じこの日に歿した。葬式は2日後の24日にエクスのカテドラル、サン・ソヴールで行われ、旧友の上院議員ヴィクトル・レイデが告別の言葉を述べたのち、画家の遺体はエクスの古い墓地に、父母と並べて埋葬された。

(267~268頁)

■ポール・セザンヌの年譜

1871年~73年 32~34歳

71年秋オルタンスとともにパリに出る。72年1月4日,息子ポーツが生れる。やがてオーヴェールに移り住み,ポントワーズその他でピサロとともに制作。印象主義を教えられる。オーヴェールで医師ポール・ガッシュと親しくなる。

1874年 35歳

年頭パリに移り,春の第一回印象派展に『首吊りの家』その他計3点を出品。なつをエクスに送って,初秋パリに戻る。

1886年 47歳

2月パリに過し,他のほとんどをエクスとガルダンヌに送る。3月,ゾラが小説『制作』を出版,これを贈られたセザンヌは4月4日ゾラあての最後の手紙を書く。同28日,オルタンス・フィケと正式に結婚。春,第8回(最後)の印象派展が開催される。10月23日,父が88歳で死に,セザンヌは邦貨にして約2億円の遺産を相続する。

1892年 53歳

エクスとパリに住む。フォンテーヌブローでも制作。デュラン-リュエルの催したルノワール展とピサロ展がいずれも成功をおさめる。

1893年 54歳

エクスとパリに住み,フォンテーヌブローにもでかける。ヴォラールが画廊経営を計画する。

1895年 56歳

11月~12月,約150点の作品を集めてヴォラールがセザンヌの個展を開催する。1903年 64歳

新築のアトリエで制作。5月にゴーガン,11月にピサロが死ぬ。

1905年 66歳

7年を費やした『大水浴』を含む10点をサロン・ドトンヌに出品。フォーヴィスムが興る。

1906年 67歳

1月,ソラリが死ぬ。エクスで庭師のヴァリエを描き,また水彩を多く描く。エクス芸術友の会展とサロン・ドトンヌに出品。制作中,嵐に打たれて人事不省に陥る。一時回復に向かうが,10月22日,ブールゴン街23番地で妹マリーに看取られ永眠する。『ジュールダンの小屋』が絶筆となった。

1907年 68歳

6月,ベルネーム–ジュヌ画廊で“セザンヌの水彩”展,10月,サロン・ドトンヌで“セザンヌ回顧”展がそれぞれ催される。キュビスムが興りつつある。

2009年11月2日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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