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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

「『論理哲学論考』を読む」野矢茂樹 ちくま学芸文庫

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■本書が全体としてもつ意義は、おおむねつぎのように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語らえうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。(1-4)(25頁)

■7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

これが、『論考』の最後のことばである。――中略――

われわれは何かを語るとき、論理に従う。論理は有意味に語るための条件である。それゆえ、論理それ自体について語ろうとすることには根本的におかしなところがある。つまり、論理は「語りえない」のである。論理は、われわれが論理に従いつつ他の何ごとかを語るとき、そこにおいて「示される」ものでしかない。

もうひとつ、論理と並ぶ、あるいは論理以上に重要視されるもの、それは倫理である。倫理もまた、語りえず示されるしかない。そして語りえぬとして却下されるのではなく、語りえぬがゆえに語りうるものよりもいっそう重要とされる。そうして、善、悪、幸福、価値、生の意義、こうした話題がそっくり語りえぬ沈黙の内に位置づけられる。ウィトゲンシュタインのその手つきは、あたかも「語る」ことによってそれらを卑しめてしまわないようにするかのごとくに見える。(26~27頁)

■{世界……現実に成立していることの総体 論理空間……可能性として成立しうることの総体}(29頁)

■われわれにはどれほどのことが考えられるのか。それが『論考』の根本問題である。他方、論理空間とは、可能性として成立しうることの総体、つまり、世界のあり方の可能性としてわれわれが考えられるかぎりのすべてである。とすれば、まさに論理空間のあり方を明らかにすることは、思考の限界を画定することに直接結びつくものとなるだろう。もっと単刀直入に言うならば(その分少しラフな言い方になるが)、論理空間の限界こそ、思考の限界にほかならない。(30頁)

■自分自身が定義域に含まれているときには、その結果生じる自己言及文が有意味であることは保証されている。もしその自己言及文がナンセンスならば、定義域から自分自身を排除すればよい。解明とはそういうことである。しかし、定義域に自分自身が含まれていないならば、自己言及文を作ることはできない。かくして、ラッセルのパラドクスは生じない。(96頁)

■定義域が異なれば、それはもはや同じ関数とはみなされないのである。ここに、ことがらの核心がある。

――中略――

命題関数「Xは神経質である」で考えてみよう。日常言語においてわれわれは、暗黙の内に、その定義域を人間ないしはある程度人間と生活の仕方が似ていると感じられる動物に限定しているだろう。そこでそれが暗黙の内であることに乗じて、あろトマト(トマちゃん)について、「トマちゃんは神経質だ」と言ったとする。ウィトゲンシュタインならば、それはナンセンスだと言うだろう。他方、命題関数が定義域と独立に定まっていると考えるならば(あるいはすべての個体に関して定義されていると考えるならば)、「トマちゃんは神経質だ」はナンセンスではなく、偽であるということになる。そのとき、「トマちゃんは神経質ではない」は真となる。それに対して、ウィトゲンシュタインならば、「トマちゃんは神経質ではない」もまたナンセンスとなる。(97~98頁)

■言語をもち、世界の像を作り、そうして、可能性へと扉が開かれている人だけが、否定を捉えうるのである。ただひたすら現実を見るだけでは、否定に対応するいかなる要素も見出されはしない。すなわち、否定とは現実に存在する対象ではない。あるいは、否定形の考えようとしてみてもよい。「テーブルの上にパンダはいない」という絵を描こうとしてみていただきたい。どういう絵を描くだろう。パンダのいないテーブルの絵を描くだろうか。しかしそれはただのテーブルの絵でしかない。よろしい。それを「テーブルの上にアオウミガメはいない」の絵だといってもよい。フンボルトペンギンがいないでも、カボチャがないでも、金塊がないでもよい。それゆえ、あえて描くならば、テーブルの上にパンダがいる絵を描き、それにバツ印を書き加えるといったことだろう。そのとき、バツ印は絵の一部だろうか。テーブルが絵の一部であるように、バツ印も絵の一部なのだろうか。少なくとも写実的な像の一部ではない。バツ印は、描かれた絵に対してその絵を否定するといういう、絵全体に対するある態度を表わしている。こうしたことも、否定詞が名ではないことを直観的に支持してくれるだろう。(102~103頁)

■ポチは白いという事態はあるが、ポチは白くないという、いわば否定的事態などあるはしない。これは当然とも言える論点であるが、きちんと押さえておいてほしい。事態とは対象の配列の可能性にほかならない。しかし、否定は対象ではない。それゆえ、事態はそのすみずみまで肯定的なものでしかありえない。否定命題の意味は事態の像という観点からだけでは捉えきれないのである。(104頁)

■いずれにせよ、すぐれて「像」と呼ばれるべきものは名の配列が対象の配列を表わしているものであり。それゆえ否定命題はそのような意味では像ではない。しかし、像ではないと言ってしまうことにも問題が残る。『論考』四・〇六において『命題は現実の像であることによってのみ、真か偽でありうる」と断言しているからである。この箇所はすぐ次に否定が論じられる箇所であり、ここで「命題」と呼んでいるものに否定命題も含まれていることは疑いがない。とすれば、ここまできっぱり言われてしまってはしょうがない、否定命題のように名の配列だけではないものもまた、像なのである。

だが、そうだとすれば、否定命題は何の像なのだろうか。どうも『論考』を読んでいるとこういうところが次々と気になってくるのである。私自信、これに関してはかなりあれこれ考えたのだが、結論だけ述べておこう。「Pではない」という否定命題は、事態Pの像なのである。「へ?」と思われるかもしれないが、どうもそうとしか考えようがない。「それじゃあ、肯定命題『P』も否定命題『Pではない』も、同じ事態Pの像になってしまうが、それでよいのか?」と訪ねられるかもしれないが、それでよいのである。事態の側に否定に対応する対象を認めない以上、そう結論するするしかない。ならば、肯定も否定も像として同じものなのかと言えば、それはそうではない。両者はたしかに同一の事態を写している。しかし、肯定命題と否定命題はそれぞれ異なった仕方で、それを写しとっているのである。つまり、肯定命題は事態を肯定的に写し、否定命題はそれを否定的に写す。「事態Pを否定的に写す」ということがどういうことかと言えば、つまり、その真理領域の中にPを含ませないような仕方でPを写すということにほかならない。「肯定的に写す」とは、真理領域にPを含ませる仕方でPを写すということである。像関係とは、それがどの事態の像なのかということに加えて、その事態をどのように写しとっているのかという写像の仕方をも含めて捉えられねばならない。それゆえ、像関係とは、たんにひとつの像とひとつの事態との間の対応関係を意味するものではない。あくまでも論理空間全体を背景にもちつつ、事態との間に対応関係をもつものでなければならない。そのようにしてはじめて、否定を像という観点のもとで捉えることができる。(110~112頁)

■二・〇二 対象は単純である。(128頁)

■四・一一六 およそ考えられうることはすべて明晰に考えられうる。(141頁)

■「ア・プリオリ」という伝統的な哲学用語はウィトゲンシュタインの哲学においてもキーワードとなる。それは「経験に先立つ」ものであり、「経験」とは論理空間における諸可能性の中のどれが現実として現われているかを認識することである。別の言い方をするならば、経験命題の真偽を確定するものが経験であり、「ア・プリオリ」とは、検証に先立ち、検証を可能にするために前提にされているということにほかならない。ここにおいて、「科学」と「哲学」が対比される。ウィトゲンシュタインは経験による検証を、一括して「科学」に属するものとみなす。他方哲学はただひたすらア・プリオリなものに関わる。「語りうるもの」とは科学であり、それに対して、ア・プリオリなものこそが、『論考』が明示しようとしている「語りえぬもの」たちの中核なのである。(178頁)

■五・五五二 論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かが〈ある〉というものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない。

論理は何かが〈このように〉あるといういかなる経験よりも〈前に〉ある。

論理は「いかに」よりも前にあるが、「何が」よりも前ではない。

「ともあれ何かが存在する」ということ、これは存在論的経験よりも原初的であり、たしかにもはや経験とは呼びえないだろう。しかし、私の前になんらかの可能性が開けているかぎり、私はどこかで現実と接触していなければならない。何かが存在することは、私は確かなものとして受けとめていなければならない。ともあれ何かが存在する。それは認識よりも、論理よりも、あらゆるものに先立つ、始原なのである。(189頁)

■五・六 私の言葉の限界が私の世界の限界を意味する。(205頁)

■こうして、ただ現われるものだけを厳格に禁欲的に受け取ることにおいて、げんしょうしゅぎは独我論へと踏み込んでいく。現象主義のもとでは、たとえば他人の頭痛などは意味を失う。他人の痛みは私には現われえない。もし私に現われたならば、それは私が痛いということであり、私の痛みでしかない。あるいはまた他人の知覚も私には現われえない。「他人の意識」あるいは「他の意識主体」、そう呼ばれうるようなものは現象主義の受け取る世界にはもはや何ひとつない。他我が消え去り、ただ自我のみが存在する。すなわち、独我論の世界が開ける。

さらに、他人の意識を抹消することによって、現象主義はその現れを「私の意識への現われ」と言うことさえできないことになる。現れはすべて私の意識への現われでしかありえず、それゆえむしろそれを「私の意識」と言い立てることにはポイントがなくなるのである。意識主体たる私ではない。その場合にも、そこで意識された私自身を意識している私がいる。意識主体たる私は意識への現れを受け散る主体であり、それはそうした現れを超越しているのでなければならない。そして他人の意識は現われえないのだから、私は現れを私への現れと他人への現れとに区別する必要もない。ただ、現れがある。これが現象主義の開く世界にほかならない。

こうした現象主義がその現われの世界を記述するとき、それはどうしたってある独特な言語にならざるをえないだろう。たとえば「彼女はひどい歯痛に悩まされている」という日常的な言い方は、それが痛みを感じる意識主体たる彼女を想定していることにおいて拒否されねばならない。あるいは、「私は少し頭が痛い」という言い方における「私」もまた、現れを受け取る主体としての自我それ自身は現れえないという理由で、消去されねばならない。(207~208頁)

■ ものは私の意志との関係によってはじめて「意味」を獲得する。

なぜならば、「すべてのものは、それがあるところのものであって、それ以外の

ものではない」からである。(『草稿』1916年10月15日)

■「言語」とは有意味な命題の総体にほかならない。そして有意味な複合命題の総体は要素命題の総体によって決定される。さらに、要素命題の総体は名の総体によって決まる。それゆえ、言語の総体を規定するものは名の総体である。また、名の総体は対象の総体に対応する。そして対象の総体は事態の総体を決め、事態の総体は論理空間を決定する。それゆえ、論理空間を規定するものは対象の総体である。

五・五五六一 経験的実在は対象の総体によって限界づけられる。限界は再び要素命題の総体において示される。(215~216頁)

■五・六二 この見解が、独我論はどの程度正しいかという問いに答える鍵とな

る。

「この見解」とはまさに五・六一の「存在論は語りえない」という議論である。この関連は現象主義的解釈には捉えがたいものであるに違いない。しかし。いまやわれわれはその関連を明らかにすることができる。五・六二の残りの部分を引用しよう。

すなわち、独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されているのである。

世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。

独我論は正しい。それは私の論理空間が外部をもたないということにほかならない。私はこの論理空間の外にある他の存在論について、それを語ることも示すこともできない。私はいかなる意味でもそれを理解することができない。

そして同時に、独我論は語られえず、示されている。それは私自身の存在論が語られえず示されうるのみであるということにほかならない。こうして、独我論についての主張は、存在論についての主張とぴったり重なることになる。(220~221頁)

■ばず、独我論は主体否定テーゼを伴って完成される。独我論は、「世界は私の世界である」と言う。しかし、主体否定テーゼに従えば、「私の世界」と言われるべき「私」は世界の内にはない。それは世界が存在するための前提であり、現れてくるのはただ世界だけである。それゆえ、独我論の「世界は私の世界である」という主張は、主体否定テーゼを経て、そこにおける「私」さえ消去されることとなり、結果として、たんに「世界はこの世界である」と主張するだけのものとなる。この点を捉えてウィトゲンシュタインは次のように主張する。

五・六四 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見

てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実

在が残される。(246頁)

■では、論理や数学の命題はなぜ必然的なものになるのだろうか。

これに対するひとつの応答が「心理主義」と呼ばれるものである。「論理とは思考の法則にほかならない」、心理主義はそう説明する。そのとき、論理学はいわば心理学の一分野となる。そしてさらにこう説明を続けるだろう。思考法則は自分の思考を反省してみるだけで分かるものであるから、その意味でそれはア・プリオリに知られる。さらに、それは思考を律する法則であるから、それに反したことをわれわれは考えることができない。その意味でそれは必然的に真となる。(252頁)

■論理実証主義は、20世紀前半、とくに1930年代にその中心的活動を為した哲学うんどうである。彼らは、フレーゲとラッセルによって開発された記号論理学を武器として携え、ラディカルな経験主義を標榜した。単純に言ってしまえば、経験に基づいたデータから論理的に展開されるもののみをまっとうな認識(科学的認識)として認め、そうでないものは悪しき形而上学として追放しようというのである。

彼らはその運動の初期において『論考』と出会った。そして決定的な影響を受けた。(255頁)

■「規約」と呼ばれうるものの典型的な例を出すならば、たとえば自動車は道路の左側を走らねばならないという日本の交通法規が挙げられる。別に右側で統一してもよかったかもしれない。しかし、われわれは「左側を走る」という規則に決めたのである。これがもし、最初から選択の余地なく、なんらかの不可思議な力によって左側しか走れないようになっていたとするならば、そもそも「取り決め」ということの意味が失われてしまうだろう。「右でも左でもよいのだが、どっちにするか」という選択肢を前にして、どちらを選ぶことも恣意的であるときにのみ、そのどちらかに取り決めるということが言える。だから、枝から離れたリンゴが下に落ちるのは、取り決めではない。(262~263頁)

■ここは、『論考』が規約主義ではないことに同意されたとしても、なお誤解されやすいところであるから、繰り返し強調しておきたい。『論考』が規約主義ではありえないのは、たしかに表面的には論理空間が唯一のものと想定されていたからである。しかし、より深い理由はそこにはない。それは、論理が操作に基づき、それゆえ強い意味でア・プリオリだからである。(264頁)

■六・一二七 論理学の命題はすべてが同じ身分である。それらの間に基本法則と派生的命題が本質的に定まっているというようなものではない。(265頁)

■まずフレーゲとラッセルの路線を簡単に紹介しよう。たとえば箱の中に10個のリンゴがある。われわれはそこで「リンゴが10個ある」と言う。ここにおいて「10個ある」と言われるには、あたりまえのことであるが、個々のリンゴではない。個々のリンゴはそれぞれ1個であり、このリンゴについて、それが10個あるという性質をもっていると言われているわけではない。それゆえ「10」という性質が与えられているのは、あくまでもそのリンゴの集合に対してである。つまり、数とは集合の性質なのである。そこでメンバーの数が10であるような集合をすべて集めてくるならば、それらが共通にもっている性質が、すなわち「10」であると考えられる。あるいは、「10」とはメンバーのかずが0であるような集合のすべてからなる集合の名前にほかならない。こうして、フレーゲとラッセルは数を集合の性質あるいは集合の集合として捉えるわけである。

これに対して『論考』における数の捉え方はこうである。

六・〇二一 数は操作のベキである。

「操作のベキ」とは、操作の反復回数のことにほかならない。ここで操作とはとりわけ真理操作を意味しているが、別に真理操作に限定する必要はないだろう。単純に言って、「何回操作したか」、それが数だというのである。それゆえ、数詞は名ではない。これは「論理語は名ではない」という主張と正確に対応している。論理語は操作を表わし、操作は対象ではない。それゆえ、操作のベキも対象ではない。こうしてウィトゲンシュタインは、数をなんらかの対象として理解することを拒否する。数は集合の性質のようなものではない。(274~275頁)

■私はただこれらの対象から、そしてこれらの対象のみから事態を構成し、それによって論理空間を張る。それゆえ、対象領域が異なれば論理空間は異なったものとなる。しかし、私はこの論理空間の内部で思考するのであり、他の論理空間なるものは端的に思考不可能なものでしかない。だとすれば、私にとっては、これらの対象が存在するということは、私がこのような思考可能性の内に生きているかぎり、選択の余地のないもの、他の選択肢を考えることのできないものとなる。対象の存在に対して、「たまたまのことだ」と言いたくなるざわめきにも似た思いを断ち切って、そのある意味で「必然的」と言わねばならない相が現れてくる。これが、「神秘」である。

六・四四 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのこと

である。(283頁)

■関連してもうひとつ問題を提起しよう。「倫理は超越論的である」と述べたそのすぐ後に、カッコの中に入れられて、次のコメントが挿入される。

六・四二一 (倫理と美はひとつである。)(289頁)

■「永遠の相のもとに世界を見る」とは論理空間とともに対象を見ることにほかならず、そして論理空間の内部には私の死だけを他人の死から区別するものは何もない、つまり論理空間の内部においてであれば私の死は存在すると考えられるからである。しかし、この点は慎重に検討しなければならない。

もしかなうならば、ウィトゲンシュタインに確かめてみたい。

「あなたの論理空間に、あなた自身の死は含まれているのでしょうか」

答えは否定的であるようにもおもわれる。なにしろ死は人生のできごとではないのだから。だが、それならばさらに尋ねたい。

「ではたとえばソクラテスの死やラッセルの死は論理空間に含まれているのでしょうか」

これに対しては肯定的な答えを期待したい。死が私の人生のできごとではないというのはあくまでも私の死についてであり、他人の死ではない。他人の死はもう死んでいる人であれば現実の事実として、まだ生きている人であれば可能的な事実として、論理空間に含まれている。では、「私は百年後には死んでいるだろう」という命題はどうなのだろうか。

あるいは別の尋ね方をしよう。

「あなたの論理空間の内部において、あなた自身は他の人にはない独自の位置を占めているのでしょうか」(294~295頁)

■この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにしてひとは

幸福でありうるのか。(『草稿』1916年8月13日)

これは幸福に対するペシミズムではない。逆である。ここでウィトゲンシュタインは幸福についてむしろとても楽天的に考えていると言える。世俗的な意味でどれほど苦難に満ちた人生であろうとも、幸福は訪れるはずだ。この信念、この希望。

幸福の本質はいっさいの現世的な状態とは別のところにある。それゆえ、幸福な何が起ころうとも幸福であり、不幸な人は何が起ころうとも不幸である。「何が起ころうとも」というこの特徴は、これもまた正当な意味においてではないけれども、「必然的」と呼びたくなる特徴と言えるだろう。トートロジーが何が起ころうとも真であり、それゆえ必然的に真であったように、幸福な人は「必然的に」幸福なのである。

六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあ

るようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。

私がこのような幸福を引き受けるとすれば、それは論理空間の内部においてではありえない。論理空間の内部にあるのは事実である。そしていま考えられている幸福は世俗的なものではない。「何が起ころうと幸福である」と言いうる地点に立つためには、幸福を論理空間の内部において現れてくるような個人の境遇の一種にしてしまうわけにはいかない。ウィトゲンシュタインの言う幸福とは、論理空間がそこに根ざしている私の生におけるものであるだろう。すなわち、幸福を享受する主体は、永遠の相のもとに世界を見てとっている私にほかならない。(302~303頁)

■善と悪は主体によってはじめて登場する。そして主体は世界に属さない。それは

世界の限界である。

(ショーペンハウエルのように)こう述べることもできる。表象の世界は善でも

悪でもない。善であったり悪であったりするのは意志する主体である。

これらの命題はすべてまったく明晰さを欠いていると私は自覚している。

つまり、これまで述べたことからすれば、意志する主体が幸福か不幸かでなけれ

ばならないのだ。そして幸福も不幸も世界には属しえない。

主体が世界の一部ではなく世界の存在の前提であるように、善悪は世界の中の性

質ではなく、主体の述語なのだ。

主体の本質はまだまったくベールの向こうにある。

そうだ。私の仕事は論理の基礎から世界の本質へと広がってきている。(『草

稿』1916年8月2日)

世界の事実を事実ありのままに受けとる純粋に観想的な主体には幸福も不幸もない。幸福や不幸を生み出すのは、生きる意志である。生きる意志に満たされた世界、それが善き生であり、幸福な世界である。生きる意志を奪い取る世界、それが悪しき生であり、不幸な世界である。あるいは、ここで美との通底点を見出すならば、美とは私に生きる意志を呼び覚ます力のことであるだろう。

そして美とは、まさに幸福にするもののことだ。(『草稿』1916年10月21日)

ここにおいてこそ、「世界と生とはひとつである」と最終的に言われうる。(304~305頁)

■私の人生がかくもみじめである、あるいは満ち足りているのも、それは私の人生上の世俗的なエピソードのかめではない。ひとえに私の生きる意志にかかっている。生きようとすること。自殺ぎりぎりのところで踏み止まっていたウィトゲンシュタインの声にならない声。それこそが、『論考』の沈黙の意味するところだった。それはたんに語ることができないという沈黙ではない。示すこともできない。いっそう深いその沈黙のうちに差し出される「生の器」を、生きる意志でみたすこと。かくして『論考』全体を貫くウィトゲンシュタインのメッセージは、次の一言に集約される。

幸福に生きよ!(『草稿』1916年7月8日)(307頁)

■おそらく本書は、ここに表わされている思想――ないしはそれに類似した思想

――をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。

序文のこの言葉は、たんに『論考』も思想が目新しいというだけでなく、まさに『論考』の方法に触れたものになっている。『論考』は何ごとかを「説明」するものではない。その方法は「解明」であり『論考』の主張するところからしても、それは解明でしかありえなかった。日常言語の論理を説明することはできない。すでに論理になじんでいる者のみが、『論考』の解明する論理を理解することができる。さらに言えば、『論考』の全構図が私の生に根ざし、しかもそれが他の生を拒否するものである以上、『論考』を実質をもって理解できる人は、ただ一人、『論考』の著者だけであるようにさえ思われる。(308~309頁)

■ウィトゲンシュタイン自身は『論考』を独我論の脈絡に置こうとしていた。どうしてもそう感じられる。ウィトゲンシュタインは論理空間を共有しない者として他者を捉え、それを拒否することにおいて、痛切に意味の他者という力を感じていた。それはおそらくたしかなことである。はなから鈍感であればこのような独我論を提示するはずもない。『論考』全体が、意味の他者という他者性に向けてピリピリと神経を尖らせているようにさえ感じられる。いや『論考』に限らずウィトゲンシュタインの哲学全体に、たえず自らの思考の外部に潜む他者の影が射している。だがそれは、ウィトゲンシュタインにとって迎え入れるべき希望ではなく、払い除けるべき不安であったように思われる。それゆえウィトゲンシュタインは『論考』を書き、『論考』の中に自閉しようとした。私は、ウィトゲンシュタインの最大の過ちはそこにあったと言いたい。(313頁)

■かくして、ひとたび名と操作(論理語)が固定されるならば、そこから構成される全命題も固定される。予見しえないものは、可能な命題のどれが真でありどれが偽なのかという認識である。たとえば今日の天気はカーテンを開けて外を見ることによってはじめて知りうる。しかし、どんな天候が眼前に広がろうとも、それは私の思考可能性の中に用意されていたものでしかない。その意味で、思ってもいなかった天気などありはしない。世界の実情がどうであれ、それはすべて私の論理空間に用意されている。

六・一二五一 それゆえ論理においても驚きはけっして生じえない。

自然数をいくら数え続けても驚き(こんな数があったのか!)はありえないように、論理空間をいくら精査しても驚くべきことは何ひとつない。あえて「退屈」という言葉を使おう。自然数をただひたすら数え続けることが退屈でしかないように、論理空間は退屈に満たされる。固定された基底と操作の反復によって開かれる無限は、本質的に退屈なものでしかありえない。そしてウィトゲンシュタインは、その退屈を積極的に迎えいれた。

現在の中で生きる人は、恐れや希望なしに生きる。(『草稿』1916年7月14日)

――中略――

六・五 謎は存在しない。(315~317頁)

■実際の言語を詳しく見れば見るほど、この言語とわれわれの要求するものとの衝

突は激しくなる。(論理に結晶のような純粋さを見るのは、調べて分かったこと

ではなく、要求だったのだ。)この衝突は耐え難くなり、われわれの要求はもは

や空虚なものになろうとしている。――われわれはツルツルした氷の上に入り込

み、摩擦がなく、それゆえある意味では条件は理想的なのだが、まさにそのため

に歩くことができない。われわれは歩きたいのである。だから摩擦が必要なの

だ。ザラザラした大地へ戻れ!(『探求』第107節)(351頁)

■私が書くもののすべてがそれを巡っている、ひとつの大問題――世界にア・プリ

オリな秩序は存在するか。存在するのならば、それは何か。(『草稿』1915年

6月1日)(360頁)

■「語られぬ自然」が言語を支え、その言葉をもってわれわれは自然を語り出すのである。ウィトゲンシュタインは言語実践を支えるこうした自然の秩序を「自然誌」と呼ぶ。それゆえ、自然誌とは――私の考えでは――記述された自然の秩序ではありえない。私の好みで、きっとウィトゲンシュタインが嫌がるだろうカントめかした言い方をさせてもらうならば、それは、自然現象の記述が可能であるために要請される「自然それ自体」なのである。(370頁)

「『論理哲学論考』を読む」野矢茂樹 ちくま学芸文庫 2008年12月27日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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