■たくさんの哲学的な問題があることは間違いない。それについて考えれば考えるほど、さらにたくさんの問題を見つけることができる。それらの問題は、見渡す限り遠くまで広がっている。そしてそれらの大部分は未解決のままなのだ。今日では、強力なコンピューターや望遠鏡やクレーン等々を使えば、それらの問題がどれほどの重さのあるものなのかを計算することができるだろう。もっともそれらの問題が集められて、すべてが1カ所に置かれたとしての話だが。あるいはそれらが端から端まで並べられたなら、どれくらい遠くまで延びるかを計算することもできるだろうし、それらの問題を非常に綿密に検討すれば、それらがどのような断片から成り立っているのか正確にわかるであろう。なぜなら今日ではコンピューターとテクノロジーは、ほとんどどんな事でも、重要なことは何でも疑いがなくできるからである。恐らくは哲学の諸問題を解決すること以外は。
哲学の諸問題にとって問題なのは、それらの諸問題にはしかるべき解決法がないということなのである。(116~117頁)
■ギュゲスの指輪
表面的に見れば、ギュゲスの指輪の物語は人間の本性についての物語である。しかし、この物語の原型が見出されるプラトンの『国家』第2巻では、それは道徳と倫理的な価値についてのもっと広汎な議論の一部なのだ。この中でクラウコンは、「正義」と「不正」の起源はもっと偉大な何物よりも明らさまな自己利益の方により多くの関わりを持っているという彼の主張を説明するための方法として、この物語をソクラテスに語ったのである。正義とは単に、「不正を行いながら何の罰も受けないという最も望ましいこと」と「不正をこうむりながらそれに関して何をすることもできないという最も望ましくないこと」との間の妥協にすぎないのだ。この意味においてはギュゲスの指輪の物語は、社会契約つまり自由を安全と交換するために市民たちが署名する想像上の契約の物語でもあるのである。(159頁)
■ケーニヒスベルクの厳格な論理学および形而上学の教授であったイマーヌエル・カント(1724-1804)は、1つどころか(それだけでもたいていの哲学者たちのとっては十分な数だが)4つの新しい専門用語を考案することによって、哲学に対して最大の貢献をした。その4つというのは「分析的(analytic)」とその反対語である「総合的(synthetic)」、「先験的(アプリオリ)」とその反対語である「後験的(アポステリオリ)」である。それらの意味は極端にあいまいなものだ。(200頁)
■エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック(1715-1780)は次のような物語を述べている。深い眠りから目覚めたら自分が何人かの他の人々と一緒に迷路の中にいることに気づいたと想像してみたまえ。他の人々は外に出る方法を見つけるための一般的な原則をめぐって議論しているとする。エティエンヌが言うように、これはひどくばかげたことのように見えるかもしれない。しかし彼が言うには、それこそまさに哲学者たちがしていることなのである。「まず最初にただ単にわれわれ自身がどこにいるのかを知ることの方が、早まってもう迷路の外に出ていると信じこむことよりも、重要なことなのである」と彼は結論づける。
けれども、別のアプローチの仕方が、問題の中にそれとなく示されている。そのアプローチの仕方というのは、われわれには瞑想するよりももっと役に立つ仕事があるということなのである。今日ではわれわれは多くの事柄をしたがっており、また多くの物をつくったり、それを感性したりしたがっている。今日ではわれわれは自分たちの体よりもすぐれており、また実際のところ、われわれの精神よりもすぐれているような機械を用いることで、世界を実用的に扱っているのである。結局のところ、瞑想することによって金持になった人間は1人もいないのだ。(231~232頁)
■残念なことに、哲学の最も重要な問題のいくつかがまだ一般には解決不可能な部類に属するものと思われていることを気にかけながら、モーリッツ・シュリックは話を続ける。それらの問題は「論理」的に解答不能なのか、原則的に解答不能なのか、実際の状況のために「経験」的に解答不能なのかのいずれかなのだ、と。けれども真の質問というものは決して論理的に解答不能であってはならない。なぜなら、それは自らの意味を示すことができないということに等しいからであり、意味を持たない質問は結局のところ、質問ではないからだ。そんな質問は後ろに疑問符が置かれた「ナンセンスな言葉の連なり」にすぎないのである。
かくしてシュリック教授は厳しい結論を下して言う。哲学者が「時間の本質とは何か?」とか「われわれは絶対者(神)を知ることができるか?」というような言葉の連なりによってわれわれを面くらわせながらも、「注意深くて正確な解釈と定義によってそれらの言葉の意味を説明することを怠る」ときには、答が何一つ用意されていなくても驚いてはならない。「それはあたかも「哲学の重さはどのくらいなのか?」とわれわれに問いかけたようなものなのである。」結局のところ、それは全く質問などではなくて、単なるたわ言にすぎない。
論理実証主義者たちの研究方法は、少なくともイデオロギーの面でいくらかのものを、人気はないが賢いスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームに負っている。ヒュームこそがまさに論理実証主義よりも200年知覚前に『人間知性研究』(1748)において次のように書いた人物なのである。
例えば、神学の本や学校用の形而上学の本ならどんな本でもいいから手に取っ
て、こう自問してみよう。この本には何か量や数に関する抽象的な推論が書かれ
ているだろうか? かかれてはいない。この本には何か事実や実在の諸問題に関
して経験に基づく推論が書かれているだろうか? それも書かれてはいない。そ
れならばそんなほんは火にくべてしまいなさい。なぜならこの本には詭弁と幻覚
しか書かれていないからである。(233~234頁)
『哲学101問』マーティン・コーエン著 矢橋明郎訳 ちくま学芸文庫
2008年12月29日