岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

読書ノート(2010年)全

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読書ノート(2010年)全

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『色川武大VS阿佐田哲也』文藝別冊 河出書房新社

■寿命が平均80歳弱だとすると、女はその80年を生きるのが当然として、そのための規律を作る。(「男らしい男がいた」)(213頁)

■男は、生きるのが当然とは考えない。攻撃に失敗して明日死ぬかも知れない。今日の生は運に助けられてのものだ。そのために今日をよりよく生きようと考える。(「男らしい男がいた」)(213頁)

■女子供の発想がだんだん世の中を仕切るようになって、勇ましい生き方、大きな生き方、誇らしい生き方というものが、失われていく。人生というものが女子供のものになりつつある。ただ糞をたれて長生きするだけだ。そうして、ただおとなしい生き方を良識として後押しする権力者がいるから始末がわるい。

昔は男というものは、戦争で死ぬものだった。その戦争が亡くなっているから、男の生き方というものが、徳川300年の間の浪人のようなもので宙に浮いている。病気にならず、事故を避けていれば、皆、永遠に生きていられるかのような錯覚におちいっている。

これがいけない。永遠に生きられるかのような錯覚が、人間が諸事を律し切れるような錯覚を産む。生物なんて蝿が毎年生まれ変わるようなもので、たかだかそれだけのことなのだ。100年生きようと200年生きようと、やっぱりたかだかだ。(節制しても50歩100歩」)(213頁)

2010年1月3日 

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『脱・西洋の眼』薗部雄作著 六花社

■「一口に言えば末流の末流の、印象派の形骸そのまた模倣ではありませんか。真の批評家ならこのことは分かっていい筈です。それなのに真におのれの内なる美に根差した仕事を見る眼はなく内容なき雷同的の模倣を、只それがあまりに通常なるがために見破る力の無いという事は、批評家としては痛ましい事ではありませんか(岡野注;岸田劉生)」と批評家に対してもいっているが、これは現今の美術状況でもまったく同じである。アンフォルメルの末流の末流、インスタレーションの末流の末流といいかえても同じであるからだ。いったい、その「末流の末流」「印象派の形骸そのまた模倣」の画家が誰だったのか、またそれを評価した批評家が誰であったのかも皆目わからないが、時流を病気だといって批判した劉生だけは存在感がたかまるだけだ。それだけではなく、時流がいかに当てにならないかは、2,30年前の新聞や雑誌の記事を見ればよくわかる。とりあげている者も、とりあげられている者も、ほとんどちがうことをいったり、ちがった作品をつくっている。時流に飛び込んだ者は、たえず時流にあわせて泳いでゆくか、ちからつきて溺れるか、時代遅れとなった形骸を引きずってゆくしかない。(35頁)

■「新しきものは概念より生まれず、〈心〉より生まれるものこそ永遠に新鮮なり!世界中の画家が、変なものを描こうと苦心している時に、自分は〈美〉を描こうと苦心している」と宣言する。「自分も初めは、その変なものを描こうとした一人だ」。とくに「変なものと思っていた訳ではないが、そういう風に描かなければ力が出ないと思っていた」。そして「アカデミックという事、平凡であるということが恐ろしかった。真面目くさって。最も本当のものを描いている気で。しかし、変なものは結局変なものであった」(岡野注;カッコ内は岸田劉生の言葉)。(79頁)

■たしかに世界美術の個々の作品の表情は一見多様であろう。美の形式〈かたち〉も、自然界の動物や植物の〈かたち〉が多様であるように。けれどもその根底は、東西の違いを超えて同一の源泉で「解合」するのだ。自然が同一の源泉で解合するように。多様な現象を超えた普遍の〈美〉を念頭にしての深遠な言葉である。(81頁)

■しかし劉生はさらに言う。「自分はまだまた深い美をこの世にもたらすべき男だと自分を信じている。自分の見る美の深さからこの事を想像している。しかし、その故にこの書を軽しとしない」。「最近の作品に至っては、自分は相当な自信を持つ」と。たんなる自画自賛ととってはいけない。自分を自覚した者の言葉だ。ゲーテも、自分を過剰に評価する者も過小に評価する者もともに大きな誤りであるといっている。またショーペンハウアーは、「もしも偉大な精神の持ち主が謙遜の徳を具えている、というようなことでもあれば、それは世人の気にいることであろう。しかし、そのようなことは、残念ながら[形容矛盾]なのである。なぜかというと、偉大で謙遜なせいしんというものがあるとすれば、彼は自分の思想や意見や見解やまた流儀習慣などよりも、他人たちの、しかもその数限りないあの連中の思想や流儀の優れた価値を認め、そしてこれらとはいつも甚だしくゆき方を異にする自分の思想や流儀を、それらに従属させ順応させるとか、あるいは自分の思想をまったく抑圧して他人たちと同様の月並みな作品や業績を生みだすだけであろう」と。思想を美におきかえても同じである。(82~83頁)

■「そしてたとえ、彼の生活と活動とが、彼の真価を認識しえない時代に巡り合わせたにしても、彼はどこまでも彼自身なのであって、そういう境遇におかれた場合の偉大な人物の姿は、みじめな宿場で一夜を過ごさなくてはならなくなった高貴な旅人に似ている。夜が明けると、彼は快活に旅を続けていく」。(岡野注;カッコ内はショーペンハウエルの言葉)(83~84頁)

■「たとえば或る人が港を出るやいなや激しい嵐に襲われてあちらこちらへと押し流され四方八方から荒れ狂う風向きの変化によって、同じ海域をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないであろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである」。(岡野注;カッコ内はセネカの言葉)(101頁)

■老子は『道徳経』の冒頭で、「これこそが理想的な〈道〉だといって人に示すことのできるような〈道〉は,一定不変の真実の〈道〉ではない。これこそが確かな〈名〉だといっていいあらわすことのできるような〈名〉は、一定不変の〈名〉ではない」(金谷治訳、以下同)と宣言する。つまり、人間によって名づけられた現象界のもろもろの具体物――動植物や鉱物その他、あるいは人の内なる事象――心理や観念や思想も、言葉によって名づけられ言いあらわされたものは、すべて真の実体ではない、と。「〈名〉――言葉によって言いあらわされないところに真実の〈名〉はひそみ、そこに真実の〈道〉があって、それこそが、天と地との生れ出てくる唯一の始原である」。そして、わたしたちが、「天」とか「地」とかいう名前で言いあらわしているものが、「さまざまな万物の生れ出てくる母体である」という。そしていきなり、「だから、人は変わりなく無欲で純粋であれば、その微妙な唯一の始原を認識できるのだが、いつも変わりなく欲望のとりこになっているのでは、差別と対立にみちた末端の現象がわかるだけ」であると。(131~132頁)

■ここではまず、現象世界一切をとにかく人間の有用的見地から見るのをやめなさい。そうして、いったん物象の現像的誘惑をはらいのけて、その奥へ眼を向けなさい。そうすれば、それらの現象物一切を生み出している根源――天地の核心――唯一の微妙な始原〈道〉を透視することができるであろうと。けれども、だからといってそこに〈道〉そのものが眼に見える〈かたち〉となってあるわけではない。しかしまた言う。「この末端のもろもろの具体的な現象世界と、それらを生みだしているその母胎――〈道〉との二つの世界は違ったものではない」と。老子はしばしば、ある〈こと〉や〈もの〉に対して、そうではないと否定しておいて、またそうであるといって肯定する。一見とまどうような、わたしたちの言葉の世界では矛盾したようなことをいう。しかし最後には、それは「根本的には同じ」ものであるといって一つに合せる。そして、ただわたしたちの「〈名〉――言葉の世界では」、それを「道といい万物」と言っているように「それぞれ違った呼び方になる」だけである、と。(132頁)

■美について、プラトンも「いろもなくかたちもない美」という言い方をしている。それを見るためには、やはり、老子の道とおなじく、たんに現象の相対的な美――たとえば具体的な動植物や人間に現れている美を漠然と見るだけではなく、その美を現わしている個体の外観を超えて――眼を転じて普遍――真実の美そのものを観なければならない、と。もちろん、その美そのものには〈いろ〉も〈かたち〉もない。そして次のようにいう、「一つの肉体の美はもう一つの肉体の美と姉妹関係をもつ。さらにあらゆる肉体の美はすべて同一不二の美を現前している」。つまり、個々の人間としてばらばらに個性ある肉体の美しさとして現れてはいるが、それらすべての肉体の美を観取したならば、こんどは、それぞれの個体美にとらわれることなく、それらの「肉体の美から心霊上――形而上――の美へと視線をむけなければならない」と。心霊――魂――形而上とは、それはもちろん老子のいう〈道〉にちかいものであろう。〈いろ〉も〈かたち〉もなく眼にも見えない〈もの〉であるのだから。そしてそれは劉生のいう「無形の美」とほとんど同義であろう。

「もっとも深き美の有無はこの感じの有無にある」と劉生はいう。つまりその作品が末端の現象面だけをとらえているのか、それとも、その現象物――名をとおしてその奥にある「形なき美」――〈道〉を体現しているかと。そしてその美――〈道〉に通じていないものは――老子のいういわゆる末端の現象、つねに動いてやまない相対的な幻像にのみひきずりまわされているだけで、真の美との直接関係を見失っている、と。さらに、この〈無形の美〉――〈道〉が作品としてこの世に現われるばあいには思いもよらないほど千差万別の姿となる。名も形もない〈道〉ともろもろの具体的現象物との関係のように。そしてそれを劉生は「無限、神秘、厳粛、荘重、荘厳、不思議な生きた感じ」の人や風景や物の姿となって現われるといっている。(134~135頁)

■しかし現象としての人間でありながら〈道〉の本体を見てしまった者――そしてそれと一体になってしまった者は、相対的価値観によって成り立っている人間社会のなかでは精神的に孤立する。けれども、いったん見てしまった者は、もはや見るまえの自分に戻れない。見者の宿命だ。心に見えたものを見ないと――つまり真実を偽って生きることはできない。(150頁)

■劉生も言う「すべてが氷解した」「物をそのまま見ない人の気がしれなくなった」。「あんな変なものにするのか」。それは「あんなに美しい物があそこに見えないからだ」と。同じものを見ても、現象の美をとおして母体の美を直視する眼と、もろもろの個物の美にとらえられてそれを相対的に見る眼では全く違って見える。そしてまた既成の美意識をとおして見るのでは、さらに違って一段と母体の美からは遠ざかる。(151~152頁)

2010年1月31日

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『人生論』トルストイ著 米川和夫訳 角川文庫

■普通、科学はあらゆる面から生命を研究している、といわれている。ところで、どんなものにでも、球に半径が無数にあるように、無数の面があるもので、それをあらゆる面から研究することなぞとてもできないのだから、どれがいっそう重要で必要な面なのか、どれがあまり重要でもなく必要でもない面なのか、そのけじめをつけてけんきゅうすることがだいじなのだ。あらゆる面からいちどきに一つのものに近づけないのとおなじことで、生命の現象も、やはり、あらゆる面からいちどきにきわめることはできないのである。いやがおうでも、順序というものが定められなければならない。ここが肝心なところだ。しかも、この順序は、生命を理解して、はじめて、定められるものなのである。(27~28頁)

■きわめて古い時代から、それこそさまざまな民族のあいだで、人類の偉大な教師たちが人生の内面の矛盾をはっきりと解決する数々の定義を人々に啓示して、人間にふさわしい真の幸福や、真の生活を教えてきたのだが、けっきょくのところ、あらゆる人々のこの世の立場というものがおしなべておなじ一つのものでしかなく、したがって、個人の幸福をねがう気持とそれを不可能とみる意識との矛盾も、だれもがおなじように感じているわけなのだから、人類のもっとも偉大な頭脳によって啓示されたこの真の幸福、ひいては、真の生活の数々の定義も、本質的には、まったく一つで、なんの違いもないものなのである。

「人生とは、人々の幸福のために、天から人々のうちにくだった光が、あまねくゆきわたることである」紀元前6世紀に孔子はこういった。

「人生とは、ますます大きな幸福にたえず到達しようとする魂の遍歴であり、完成である」おなじ時代のバラモンたちはこういっている。

「人生とは、幸福な涅槃に到達するために、自分をすてることである」孔子の同時代人、仏陀はこういった。

「人生とは、幸福になるために、謙遜と卑下とに徹する道である」やはり孔子の同時代人である老子はこういっている。

「人生とは、神の掟をまもりながら人が幸福になれるように、神が人のうちに吹きこんだ生命の息吹である」ユダヤのある賢人はこういっている。

「人生とは、人を幸福にする理性にしたがうことである」ストア派の人々はこういった。

「人生とは、人を幸福にする愛――神と隣人にたいする愛にほかならない」先人のすべての教えをひっくるめて、キリストはこういった。(42~43頁)

■そして、こういう人々のあいだにたちまじって、うわべの特別な地位のために、自分を人類の指導者のように思い込んで、人間生活の意味がわかりもしないくせに、自分のわかりもしないこの人生のことを、人間生活は個人的な生存にほかならないなどと、他人に教えるような人々がいつもいたし、また、いまでもいるのである。

こうしたにせ教師たちはどんな時代にもいるもので、現代でもあとをたたない。あるものは、自分たちがその伝統を受けてそだった人類の教師たちの教えを口にはするが、実のところ、その合理的な理由などいっこうわかっていないので、そうした教えを人々の過去や未来の生活にかんする超自然的な啓示にしてしまったあげく、ただもう儀礼の実行だけを重んじている。これはごく広い意味でのパリサイの徒――つまり、不合理なこの人生を正すには、形式的な儀礼をひたすら実行して、来世を信じるようになればよいと説く人々の教えである。(44~45頁)

■註1(52頁)真の科学は、科学ほんらいの位置を知っているので、そのほんとうの研究対象についてもよく心得ているし、謙虚なためにまたいっそう強い力ももっているのだから、このようなことはけっして言ったことがなかったし、現に、言ってもいないのである。物理学は力の法則や関係については説くが、力とはなにか、という問題に答えようとはしていないし、力の本質を説明しようともしていない。化学は物質のいろいろな関係については説くが、力とはなにか、という問題に答えようとはしていないし、力の本質を説明しようともしていない。化学は物質のいろいろな関係については説くが、物質とはなにか、という問題に答えようとはしていないし、物質の本質を説明しようともしていない。生物学は生命の形態については説くが、生命とはなにか、という問題に答えようとはしていないし、生命の本質を説明しようともしていない。力も、物質も、生命も、真の科学にとっては、研究対象そのものではなく、知識のほかの分野から公理としてとられてきた基礎概念――そのうえに、おのおの異なった科学の殿堂を建てるための礎となるものなのである。真の科学は研究対象をこう見ているのであって、こうした科学が一般民衆を無知の闇にひきもどすような有害な影響など与えるわけはない。しかし、まちがった科学のゆがんだ知恵は研究対象をこうは見ないのである。「物質も、力も、生命もわれわれは研究する。われわれが研究すれば、そうしたものもすべて明らかになるに違いない」まちがった科学の使徒たちは、自分の研究しているのが物質でも、力でも、生命でもなくて、ただその関係や形態にすぎないということを考えもせずに、こうしたようなことをいうのである。(原注)(54~55頁)

■だが、それにしても、生きなければならない。

ところで、生きていくとなると、人間の生活は、朝起きてから夜とこにつくまで、さまざまなおびただしい行動でうずまっていて、毎日毎日、人は自分のすることを、ほかにもやればできないこともない実にたくさんな行動のうちから、たえず選んでいかなければならないのである。そういう行動の指針ということになると、天上の生活の神秘を説くパリサイの徒の教えも、宇宙や人間の起源をしらべ、その未来の運命まできわめる学者の教えも、ぜんぜん役にたたない。しかし、人は、自分の行動を選ぶのになにか指針となるものがなくては、生きて行けないのだ。そこで、いやおうなく、人間社会にいつも存在してきたうわっつらな生活の指針にしたがって、理性的な判断からいよいよ遠ざかってしまうことになるのである

■ちょうど集会というものを見たことのない人が、入口で押しあいへしあいがやがや騒いでいる人を見ただけで、それを集会そのものと早合点してしまったうえ、戸口のところでちょっと押しあったきりなのに、すっかり集会にでたつもりになって、つっつかれた脇腹をおさえおさえ、うちに帰るようなものである。

人は山をうがったり、世界を飛びまわったりする。電気、顕微鏡、電話、戦争、議会、博愛、党派争い、大学、学会、博物館……さまざまなものを使って、さまざまな活動をする。しかし、こうしたことがはたして人生だといえるだろうか?

貿易とか、戦争とか、交通とか、科学とか、芸術とかいったものにともなう人間のはげしい複雑な活動は、大部分、人生の戸口でひしめいている愚かな群衆の雑沓にすぎないのである。(64頁)

■来世のために生きるのがいいのだろうか?人はこう考える。しかし、自分にとって人生の唯一の見本ともいうべきこの生活――自分のいまの生活が、何としても、無意味だとしか思えなければ、人は、そのほかに合理的な生活があるなどとは、自分の実感として、とても信じられないばかりか、むしろ、一歩進んで、人生とは本質的に無意味なもので、無意味な人生以外には、どんな生活も考えられないと、断言しないではいられなくなるのである。

自分のために生きるのがいいのだろうか?しかし、考えてみるまでもなく、自分の個人的な生活は無意味なのである。では、家族のために生きたらいいのか?仲間のためか?それとも、祖国、人類のためか?だが、自分の個人的生活が不幸で無意味だとすれば、ほかのすべての人たちの個人生活も、やはりまた、無意味なのだから、そうした無意味で不合理な個人生活をいくら無数によせ集めてみたところで、まとまった一つの幸福で合理的な生活ができあがるわけはない。それなら、自分でもわけのわからぬまま、他人(ひと)のしていることをそっくりまねして、生きていけばいいのだろうか?けれど、知ってのとおり、ほかの人たちだって、やはりおなじことで、自分がいましているようなことをいったいなんのためにするのか、自分でもさっぱりわかっていない有様なのだ。(65~66頁)

■だれを見ても、みんな、自分のいまの状態のみじめさも、自分のしていることの無意味さも、まるで感じないような顔をして、いきている。「あの人(横にヽ)たちか、この自分(横にヽ)か、どっちかが、きっと、理性をなくしてしまったに違いない!」と目ざめた人は考える。「ところで、だれもかれもがみんな理性をなくしてしまったに違いない!」と目ざめた人は考える。「ところで、だれもかれもがみんな理性をなくしてしまうなんて、とても考えられないから、おかしいのは、さしずめ、自分のほうということになる。しかし、そんなはずはぜったいにない。こうしたことを考えるほど理性的なこの自分(この自分の横にヽ)がおかしいなんてはずはない。たとえ世界じゅうの人たちから異端と見られ、たったひとりきりになろうとも、自分のほうを信じないわけにはいかない」

こうして、人は、その魂をひき裂く恐ろしい疑問にせめられながら。自分の孤独をひしひしと身に感じるのである。だが、それでも、生きなければならないのだ。

「生きるんだ」と、自分のうちで、一つの声――本能の強い指示が聞こえる。

「生きてはゆけない」と、やはり、自分の心のうちで、もう一つの声――理性の声がきこえる。

人は自分が二つにひき裂かれるのを感じる。そして、この分裂が人の心をせめさいなむ。

こうした分裂や苦痛の原因は理性にあると、人は考えないわけにはいかなくなる。

理性、人間の最高の能力であって、生きていくのになくてはならぬ理性、生存の方法や、享楽の方法を、自然の暴力にさらされている素裸の頼りない人間に、教える理性――この理性が人間の生活をこのうえもなく苦しい不愉快なものにしてしまうのである。(68~69頁)

■理性的な意識のうちでは、人は自分の出身など問題にせず、ほかの理性的な意識と、時間や空間を超えて、一つにとけあうのを自覚する。こうして、他はおのれの中に入り、おのれは他の中に入るのである。人間のうちに目ざめたこの理性的な意識が、普通人生と思われているいかにもそれらしい生活の流れをとめてしまうような働きをするので、迷いやすい人々は、この意識の目ざめた瞬間から、生活の動きがどうにもとれなくなり、にっちもさっちもいかなくなったように思うのである。(73~74頁)

■われわれがこの新しいものの誕生、動物的な意識にたいする理性の意識の新しい関係を見ることができないのは、ちょうど、たねがその茎の成長を見ることができないのと、おなじことだ。また、理性の意識がかくれていた状態からぬけだして姿をあらわすとき、われわれは矛盾を感じるような気がするものだが、そんな矛盾などぜんぜんないのは、芽をだしたたねに矛盾がないのと、まったくおなじことである。芽をだしたたねにみられることといったら、もともとたねのからのなかにあった生命が、いまでは、芽のうちにあるということだけだ。理性の意識に目ざめた人の場合も、ちょうどそれとおなじことで、そこにはなんの矛盾もなく、あるのはただ新しいものの誕生、動物的な意識と理性の意識との新しい関係の発生にすぎないのである。(81~82頁)

■「いまいちどきみたちは新しく生まれなければならない」(ヨはネによる福音書3章7節)とキリストはいった。実際、生まれかわれと、だれにいわれなくとも、人は、どうしたって、そうならないわけにはいかないのである。ほんとうの生命をもつためには、人は理性の意識に導かれて、それにふさわしい存在にもういちど生まれかわらなければならないのだ。

人に理性の意識が与えられているのも、けっきょく、この理性の意識のしめす幸福を手に入れて、人が真の生活を送らなければならないからだ。こうした幸福のうちに生きるものは、ほんとうの生命をもつことになる。ところが、そうした幸福のうちに生きようとせず、動物的な自我の幸福に生きるものは、そのことだけで、もう、生命を失うのである。キリストのいう生命の意味はここにある。

しかし、個人の幸福を求めることが人生だと考えているような人たちは、こういう言葉を聞いても、ただきいたというだけでその本質を理解しない、いや、理解できないのだ。この人たちは、そういう言葉がぜんぜんなんの意味もないものか、でなければ、意味が会っても、まったくとるにたらぬもの、なにか感傷的で神秘的(この種の人たちはこんなふうなよび方を好む)な気分を、もっともらしく、よそおったものでしかないなどと、思っている。けれど、実は、こういった言葉はこの種の人たちには、とても、およびもつかないような状態を説明しているのであって、それが理解できないのは、ちょうど、ひからびて芽のでないたねに、もう芽をのばしかけたみずみずしいたねの状態が、理解できないのと、おなじである。ひからびたたねにしてみれば、これから生まれでようとするたねにふりそそぐ太陽も、ほんの無意味な偶然――少しばかり熱や光をよけいに与えるものでしかないが、芽をのばしかけたたねにとっては、いきいきした生と命にみち溢れて生まれでる原因なのだ。ちょうどそれと同じように、動物的な自我と理性の意識の内面の矛盾をまだ感じない人の場合も、太陽の光、つまり、理性は、やはり、ただの無意味な偶然――感傷的で神秘的な言葉にすぎないわけだ。太陽の光をうけてよみがえり、生きいきとするのは、そのうちにすでに生命をやどしているものだけなのである。(126~127頁)

■実際、こんな幸福が人間の手に入れられるはずもなければ、他人が自分自身を愛するのをやめて、ただこの自分だけを愛そうとするわけもないということなど、自分の経験からおしてみても、まわりの人の生活を見てみても、理性のささやきに聞いてみても、もうわかりきった話なのに、それでもまだ、富とか、権力とか、高い地位とか、名声とか、追従とか、欺瞞とか、ありとあらゆる手をつかって、なんとかして他人が自分自身でなくて、この自分を愛するようにさせてやろうと、人は、めいめい、そんなことで、あくせく日を暮らしているのだ。ただおどろくほかはないが、それが事実なのである。(130頁)

■「おまえはすべての人がおまえのために生きるのを望んでいるだろう?すべての人が自分自身よりももっともっとおまえを愛するのを望んでいるだろう?」理性の意識は、こんどこそ、はっきりと力強く人に語りかけるに違いない。「おまえのこの望みがかなえられるような状態は、ただ一つしかないのだ。それは、すべての人が他人の幸福のために生き、自分自身よりもいっそう他人を愛すような状態である。そのとき、はじめて、すべてのものがすべてのものによって愛されるようになるだろう。もちろん、おまえも、そのひとりとして、望んでいたとおりの幸福を手に入れることになるだろう。こうして、すべての人が自分より他人を愛するようになるとき、はじめて、おまえが幸福になれるとすれば、おまえも、人間のひとりとして、当然、自分よりも他人をいっそう愛せねばならぬはずではないか」(131~132頁)

■つまり、この世界が、理性の法則にしたがうことによって、敵意や不和やあつれきといったようなものから、調和と結合にしだいに近づいているのが、生活の変化の実相なのである。見てみるがいい。もとはたがいに食いあっていた人々が食いあいをやめたり、とりこや自分の子どもを殺していた人々が殺すのをやめたり、人殺しを誇りとしていた軍人たちがそれを誇るのをやめたり、奴隷制度を始めた人々がその制度をなくしたり、動物を殺していた人々が飼いならすことをおぼえて、むやみに殺すのをひかえ、肉のかわりに、その卵や乳を食用とするようになったり、また、植物のようなものまで、やたらにそれを絶やすのをいましめるようになったりしたという事実――こういう事実があるではないか。また、人は、人類のうちのすぐれた人々が享楽の追究を非難して、節制を勧めているのを知っている。それから、また、のちの世の人に讃嘆されるようなきわめてすぐれたひとびとが、その身を犠牲にすると言う、立派な手本を残しているのも知っている。こうして、人は、自分では、ただ理性の要求によって認めただけのことが、実際に、この世におこなわれているばかりか、人類の過去の生活によって、その正しさまですでに証明されているのを、知らされるのである。(140~141頁)

■「自分の幸福のために他人と戦ってはいけない、享楽を追究してはいけない、苦痛をさけようとしてはいけない、死を恐れてはいけない!こうして、いけない、いけないというけれど、しかし、それは、どだい、むりな注文だ。それは人生をすっかり否定してしまうことになる!自分の自我の要求を自分で感じて、その要求の正しさまで理性に照らして知っているのに、いったいどうしてその自我を否定しなければならないのだろう?」現代の教養のある人々は、まったく確信に満ちた調子でこういうのである。

■欲求とよばれているもの、つまり、人間の動物的な生存の条件は、膨張してどんな形でも自由にとれる無数の小さな玉にたとえることができるだろう。どの玉もみんなおなじで変りがなく、それぞれの場所におさまっているから、膨張でもし始めないかぎり、たがいに圧迫しあうようなことはない。人間の欲求にしたって、どれもみんなおなじもので、それぞれの位置をそれぞれにしめているだけのことだから、とくに意識されでもしないかぎり、病的に感覚されるようなことはないのである。しかし、いちど膨張し始めると、たちまち、玉はふだんよりずっと大きな場所をとって、ほかの玉をおしつけたり、また、おし返されして、せめぎあうことになる。人間の欲求も、これとおなじでその一つだけに理性の意識がむけられて働きだしたりすれば、たちまち、意識されたその欲求が生活のすべてとなって、矛盾をよび、人を苦しめずにはいないわけだ。(146頁)

■現代の社会にそだった人間――病的に発達しふくれあがった動物的な慾望にとらわれている人間が、理性的な自我(横に丶)のうちにいくら自分自身を認めようとしてみたところで、こうした自我(横に丶)のうちに、いつも動物的な自我のうちで感じているような気持――生命にひかれる気持を感じはしないだろう。そして、絶望してこんなふうに考える。「理性的な自我(横に丶)ときたら、ただ生命を高みから観察しているだけで、いっこう生きのいいところもなければ、生命にひかれるふうなところもない。理性的な自我(横に丶)には生命にたいする欲求がなく、動物的な自我(横に丶)には、欲求があっても、その実現の見込みがねくて、そこから生まれるのは苦痛だけだとすれば、残された道はただ一つ――この人生からのがれることだけだ」

こうした問題を、現代の否定的な哲学者(ショウペンハウレルやハルトマン)は、きわめて不誠実に解決している。つまり、人生を否定しながら、そこからのがれでる機会をつかもうとせず、あいかわらず、人生にとどまっているのだ。それに反して、人生を悪以外のなにものでしかないと考えたすえ、この世から逃れでた自殺者たちは、こういった問題を誠実に解決しているといえよう。この人たちには、現代の人間生活の不合理からぬけだす唯一の方法が自殺だとしか、思えなかったのだ。(154~155頁)

■真の愛は、動物的な自我の幸福を否定しすてさったときに、はじめて、可能となる。

真の愛の可能性は、動物的な自我の幸福など、自分にとって、ありえないと人が理解したとき、はじめて、そこにあらわれるのだ。そのときこそ、動物的な自我という野生の若木の幹につぎ木されて、そのたくましい力をすいあげながら、おいしげる真実の愛のつややかな美しい枝に、人間の生命の樹液は、いささかかのよどみもなく、ひたひたと流れかようのである。愛のつぎ木――これこそ、実に、キリストの教えだったのだ。自分と自分の愛はたわわにみのる一本のブドウの木だ。実を結ばぬ枝はことごとく切りはらわれるだろうと、こうキリストはいっている。(ヨハネによる福音書15章1-11節)

「自分のいのちをひたすら守ろうとするものはそれを失い、わたしのために自分のいのちを失うものは、かえって、それをまっとうしよう」(マタイによる福音書10章39節)このキリストの言葉をただ頭で理解しただけででなく、心の底から実感として認識した人――自分のいのちをいとおしむものはそれを亡ぼし、この世の自分のいのちをいとうものは、かえって、それを永遠の生命のうちに生かすということをさとった人、ただそういう人だけが真の愛を認識するわけだ。(173頁)

■いってみれば、愛の大きさは分数の大きさのようなものなのである。この分数の分子となるのは、他人にたいする愛とか、共感とかいった感情で、自分の思うままにはなかなかならないもの、分母は自分自身にたいする愛で、これは自分の動物的な自我を見るその見方しだいで、いくらでも、大きくしたり、小さくしたりすることのできるものだ。ところが、愛や愛のだんかいについて、われわれ現代人のくだしがちな判断ときたら、まるでもう、分子ばかりを標準にして、分母のことを考えない分数計算のようなものである。(176頁)

■動物的な生存のはかなさとまやかしとを知ることが、そして、愛というたった一つの真の生命を自分のうちにときはなすことが、それだけが、人にほんとうの幸福を与えるのだ。ところが、この幸福を手に入れようとして、いったい、人はどんなことをしているのだろう?いわゆる生きるということは、この自分の肉体をしだいしだいに消耗させ、いやおうなく死んでいくことにほかならないのをよく知っているはずの人々が、生きているあいだじゅう、手をかえ品をかえ、一生懸命になってしていることといったら、このこの亡んでしまう自分の身をひたすらまもり、そのさまざまな欲望を満足させ、それによって、人生のたった一つの幸福――愛に生きる可能性をわざわざなくすことばかりといった始末なのだ。

人生を理解しないこうした人々の活動は、それこそもう一生涯、自分の身をまもるための闘争に、さまざまな快楽の獲得に、苦痛をまぬかれることに、避けようもない死から逃避することにむけられる。(186頁)

■こうした世間なみの考えにとらわれて、その理性をもっぱら一定の生活条件をつくりあげることばかりにつかっている人たちは、人生の幸福をますためには、その生活の外部的な条件をもっとうまくととのえればいいと考えたりするのだが、しかし、生活の外部的な条件をととのえるには、他人にできるだけ強い圧迫をくわえなければならないので、しょせん、愛とはまっこうから対立しないわけにはいかなくなる。したがって、生活の条件を具合よくととのえればととのえるほど、愛も、生命も、そこでは、ますます影のうすいものになっていくのである。(188頁)

■まったくおどろいたことではないか!おそろしくたくさんの人たち――ほんとうなら理性と愛にあふれた生活をいとなめるはずの人たちが、燃えさかる小屋からひきだされる羊の群れ――おろかにも、火のなかに投げ込まれるものとばかり思いこんで、助けようとしている人間に、死にものぐるいではむかう羊そっくりのふるまいをしているのである。

こうした人たちは、死を恐れるあまり、かえって、めちゃめちゃに自分自身を苦しめる。こうして、とどのつまりが、たった一つきりしかない幸福と生命の可能性を、自分から、すててしまうことになるのである。(191頁)

■「死はない」と真理の声は人々に説く。「わたしはよみがえりだ、生命だ。わたしをしんじるものは、たとえ死んでも、生きるだろう。また、生きていて、わたしを信じるものは、いつまでも死ぬことはないだろう。きみはこれを信じるか?」(ヨハネによる福音書11章25-26節)

死はないと、世界のすべての偉大な教師たちは、口をそろえて、こう説いた。また、人生の意味を理解した数百万の人たちも、やはり、おなじことをいっているばかりか、めいめいの生活でもって、その正しさを証明している。それどころか、ほんとうに生きている人なら、だれしも、その意識のうちにぱっと光のさしこんだ瞬間、魂の奥底でそう感じるじるのだ。しかし、人生を理解しない人たちは、なんとしても、死を恐れずにはいられない。かれらは死を見るのだ。死を信じるのだ。(192頁)

■「たしかに、死はまだ一度もこのおれをとらえはしなかったが、いずれは、とらえるにきまっている。なんといったって、それだけはたしかだ。おれをひっとらえて、亡ぼしてしまうんだ。それが恐ろしくてならない!」人生を理解しない人たちはこんなことをいうに違いない。(193頁)

■人々はこの自分の自我というものを重んじている。そして、この自我は自分たちの肉体の生命と分かちようのないものとかんがえてうるから、肉体が亡びれば、自我も、自然、それにともなって亡びるものだと、結論しないわけにはいかなくなる。

こういった結論はしごくありふれた平凡なもので、別に疑うまでもないと、だれしも、ついおもいがちなものだが、その実、なんの根拠もない考え方にすぎないのである。ところが、唯物論者だと自分で認めているような人たちにしても、精神主義者だと考えている人たちにしても、自我とは、つまり、なん年かのあいだ生きてきた自分の肉体の意識にほかならないという、この考え方にすっかりなれきってしまっているので、そういったふうな断定がほんとうに正しいかどうかたしかめなければという考えさえ、起こそうとしない始末なのだ。(202頁)

■もしもわたしが、こうして生きているあいだじゅう、たえず、自分の意識のうちで、自分自身にむかって、「おれは、いったい、なにものだ?」と問い続けるとするならば、きっと、わたしはこう考えるほかないだろう。「なにかしら、かんがえるもの、感じるもの――つまり、自分というまったく特別な形で、この世界につながっているもの」とこう答えるに違いない。(202頁)

■時間の流れるままに、とぎれとぎれにつづいていく意識を、すべて、一つに結びあわすこの別のものというのは、、じゃ、いったいなんだろうか?このもっとも根本的で特殊なわたしの自我――つまり、わたしの肉体の生存と、肉体のうちに起きるさまざまな意識によって、くみたてられるるような単純なものではなくて、とぎれとぎれにあとからあとからあらわれる一切合財、くしにでもさしとおすようにして、いちいちまとめていくこの根本的な自我とは、ほんとうに、いったいなんのだろうか?(207頁)

■人生をほんとうにあるがままの本来の姿で理解している人にしてみれば、自分の生命が病気や年のせいで衰えたなどといって、なげき悲しんだりするのは、ちょうど、光にむかって進んでいる人間が、光に近づくにつれて、自分の影が小さくなっていくのを悲しむのとおなじように、ばかげたことなのだ。肉体が亡びるからといって、自分の生命も亡びると信じ込んだりするのは、四方八方からいっせいに照らす光のなかにはいると、ものの影がたちまち消えてしまうのを、ものそのものがなくなってしまったしるしだと信じ込むのと、ぜんぜんなんの変りもないのである。こうした結論を平気でくだすことのできるのは、あんまり長いこと影ばかり見つめていたため、しまいには、とうとう影がものの本体だと思い込むようになった人だけであろう。(223頁)

■これは、ちょうど、芽をふいてカシの木となったドングリのそばに、巣をくったアリのいいそうなことだ。ドングリの芽はずんずんのびて、カシの木となって、土のなかふかく根をはり、枝をたれ、新しいドングリの実をふらし、日ざしや雨をさえぎって、そのまわりに生きているいっさいのものを変化させる。「これはドングリの生命の結果にすぎないのだ。われわれがこのドングリをひきずってきて、穴のなかにおとしたとき、その生命は終わってしまったんだから」(230頁)

■死のばかばかしい恐ろしい迷信にこれ以上悩まされぬようにするには、わたしの生活の根本となっているいっさいのものが、わたしよりさきにこの世に生きて、もうとうに死んでしまった人々の生命からなりたっていること、したがって、生命の法則に則って、自分の動物的な自我を理性に従属させ、愛の力を発揮しさえすれば、すべての人が、肉体の生存の亡びたのちにも、ほかの人々のうちに生き続けるのだということを知れば、もうじゅうぶんなのである。(232頁)

■しかし、自分の生まれるまえになにがあったか、死んだあとになにが起こるか、いますぐ知ることができないといって悲しむのは、ちょうど、自分の視力の届かぬさきが見えないといって、悲しむのとおなじことである。もしわたしが自分の視力の及ばぬさきのさきまで見ることができたとしたら、肝心の自分の視野のうちのものはなにも見えないで、こまったに違いない。実際、わたしの動物的な自我の幸福のためには、自分のまわりのものを見ることが、なによりもいちばん必要なのである。(250頁)

■理性は人間をたった一つの真実の道にたたせてくれる。この道は、しっかりとぐるりをかためた壁のむこうに、円錐形に口をひらいているトンネルのように、永遠の生命と幸福を、まごうかたなく、行くてにしめしているのである。(251頁)

■(訳者あとがきから)

この論文は、人生とはなにか?いかに生きるべきか?というトルストイの終生の課題に、はじめて、くわしいまとまった解答、結論をくだしたものとして、注目される。そこに説かれている思想は、せんじつめれば、愛の一語につきる。つまり、人間は、肉体と肉体にやどる動物的な意識を理性に従属させること、いいかえれば、自我を否定して愛に生きることによって、同胞あいはむ生存競争の悲劇から救われるばかりか、死の恐怖からも救われる、なぜなら、そのとき、個人の生命は全体の生命のうちにとけこんで、永遠の生命をうけるからだというのである。キリストの思想のこんていにはすえられているのだが、しかし、かれの人生観はどこまでも現世的で、理性によってすべてをわりきろうとしているから、キリスト教の神の観念のかわりに、人間の集団意識、人類の意識といったようなものを正面におしだして、それに究極の救いを見いだそうとしているわけである。(287頁)

■(訳者あとがきから)

ヤンコ・ラヴリンの言葉をかりれば、「その文学活動の前半期において、トルストイの書いたものが、死にさからってまでも横溢する生命を主張し、そこに陶酔しようとする営みだったとすれば、かれの後半生は、生命にさからっても、死を肯定し、かつ、その恐ろしさをすこしでも少なくしようとするたえまない努力にすぎなかった」(寿岳文章氏訳「トルストイ――一つの心理批判的研究――」)ということにもなるのである。(288頁)

2010年2月8日

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『アントニオーニ 存在の証明西村安弘訳 フィルムアート社

■――あなたの映画を見ると、人物が特別な状況の中に打ちひしがれて現われるだけという傾向があり、彼らにはあまり過去がないような印象を受けます。例えば、私たちはニコルソンが孤立した場所にいて、自分のバック・グラウンドに根を持たないことを知ります。あの娘も同じです。彼女はそこにいるだけです。あたかも、人々がたった今、姿を現したかのようです。言わば、彼らには背景がありません。

それは世界を見る別の方法だと思います。もう一つの方法は、もっと古い方法です。今日、過去の人の比べると、誰もが少ない背景しか持っていません。私たちは自由なのです。現代の娘は、映画の中の娘がそうしたように、家族や過去のことを考えもしないで、鞄一つでどこにでも行くことができます。彼女は鞄を持って行く必要さえないのです。

――道徳という鞄のことを意味しているのですか?

その通りです。道徳、心理学的な旅行鞄です。けれども、古い映画の中では、人々は家庭を持ち、私たちはその家庭を、彼らのいる家庭を見ることになります。ニコルソンの家を見せはしますが、彼はそこに縛られずに、世界中を駆け回るのに慣れています。(167頁)

■『さすらいの二人』この映画の最後から2番目のショットは、約7分間の長さがありカナダ人の考案した特別なカメラを使用する必要がありました。私は同じアイディアを演出するために他の方法も試しましたが、試みの多くはあまり実践的でなかったり、込み入り過ぎていたりするのが明らかでした。問題は窓から外へ出ることだけではなく、同じ窓の前に戻るまでに、正面の広場の中で大きな半円を描いて進むことでした。上述した通り、一式の回転機(ジャイロシコープ)に装着したカメラを使用することで、これは可能になりました。

(中略)

画面は、最終的な結果に到達するために、私たちがなし遂げた仕事の成果をよく示しています。

とても数多くの人々が、私たちの努力を日常的に助けてくれました。ついに11日目に初めて、2回のOKショットを撮ることができた時には、競技場で選手がゴールした時のように、長い拍手が沸き起こりました。(170~171頁)

■――自分と人間のことを表現するという根本的な欲求にとって、電子工学(エレクトロニクス)が有益な補助になる、とあなたは確信していますか?あるいは反対に、機械が人間に取って代わり、人間と敵対して自己表現を行う、『2001年宇宙の旅』や『ウォー・ゲーム』のようになるとは考えませんか?

私はそうは考えません。問題がほかにあるように思います。映画におけるエレクトロニクスの出現は、絵画の世界における抽象絵画の出現に似た状況を私たちに突きつけたと思います。絶えざる自己表現の欲求のお陰で、数千万の人々が絵の具を塗り始めた時、どんな芸術家にもなれると確信しながら、円と線しか描きませんでした。数年経った今、こうした類の芸術に何かしら本当の意味を持たせることができる者は、よく知られているほんの5人か10人であることを、私たちは理解しています。自分の正当な表現方法を本当に編み出すことのできた者だけが、生き残ったのです。同じようなことがエレクトロニクスでも起こるでしょう。私たちは巷の人が作った映画を見るでしょう。道路清掃夫がゴミ袋を拾い上げ、それで自分の映画を作るのです。けれども、抽象絵画の場合と同じように、エレクトロニクスは明らかに映画作家の仕事を単純化し、それをすべての人に実際的に開放するだけです。ゴミ袋の映画がいけないこともありませんが、本当の映画を作る者は、あらゆる人を計算に入れても、ほんの僅かになるでしょう。(181頁)

■――撮影の間、あなたは『ある女の存在証明』を〈最も新しいアントニオーニの映画〉として、どのように意味付けていましたか?

できるだけ事実に集中するために、感情の〈外套〉から自分を解き放つのだ、と意味付けていました。違った方法で、自分を動かす必要を感じています。例えば、私のこの前の映画では終始一貫して、映像のある種の形式的で構成的な美しさをあらかじめ排除することに決めていました。そして、作中人物と環境的な文脈との間の関係を、意図的なところから離れたままにしておきました。これまでの私の映画では、人物の背後にあるものと、心理的で感情的な彼らの状況との間の絆は、もっときつかったものです。私はできるだけ線状であること、作中人物による出来事の筋に従いながら、彼らの〈上に〉集中するようにしました。(188頁)

■――あなたの映画では、あなた自身がすべての原案を書いています。それはあなたの頭の中にあるものを説明するために、別の方法を探せなかったからでしょうか?あるいは、映画の物語を想像することと、それを演出することが、同じだからでしょうか?

映画の根源にも、どんな形式の芸術の根源にも、一つの選択があります。アルベール・カミュの言葉を借りれば、それは実在に対する芸術家の反乱です。この原則に忠実であるなら、現実を露呈させる手段は、どれほど重要なのでしょうか?映画作家は小説や新聞記事の事件、あるいは想像力の中で現実を捉えますが、大切なのは、それを抽出し、文体化し、自分のものとする方法です。これに成功すれば、現実がどこに由来するかは、もはや問題ではありません。「罪と罰」のプロットは、フョードル・ドストエフスキーが練り上げた文体を欠いてしまったら、他の小説と似通ったものになってしまいます。このプロットから別個に、優れた映画もできるし、酷い映画もできます。それで、私は自分の映画の原案をほとんどいつも自分で書いてきました。(212頁)

■――仕事はあなたに何をもたらしますか?これ以上、映画(チネマ)を作ることができないとすれば、なにをしますか?

あなたに敵がいたとしても、彼を殴ったり、侮辱したり、罵ったり、卑しめたり、交通事故に遭えばいいと望む必要はありません。何よりも、彼が仕事をしないでいるように祈ることです。それで十分です。これこそ、人間が体験することの中で、最も恐ろしいことです。最も素晴らしい休暇であっても、疲れを癒す時にだけ、休暇は意味を持つものです。こうした視点から見ると、私は特権化されているように思います。私は自分の好きな仕事をしています。多くのイタリア人が私と同じことを言えないのも知っています。(214頁)

■――映画を創作する中で最も重要な瞬間とは、どういう時でしょうか?

〈演出〉について話した時に、もう答えてしまいました。映画を創作する瞬間は、すべて同じように重要です。ある瞬間と他の瞬間は、明確には区別できません。あらゆる瞬間が、映画作りという唯一の統合(ジンテーゼ)に含まれる部分です。こうして、原案を練り上げている最中に移動撮影を決めたり、撮影中に人物や状況を修正したり、あるいは、ダビングの段階で幾つかの台詞を変えたりすることが起こり得ます。私の場合、最初のアイディアが頭の中で形になる瞬間から、ラッシュ試写に至るまで、一本の映画を実現することが、比類ない唯一の仕事であることを意味しています。私の言いたいのは、昼も夜も、映画以外のほかのことは、私の興味を引かないということです。そこには、ロマンティックなものは何もありません。それどころか、私はより明晰で注意深くなり、もっと知的になって、理解しようとしているように思われます。(216頁)

■――演出をしていて、観客やその反応が気になる瞬間はありませんか?

私は決して観客のことを考えず、映画のことだけを考えています。当然、常に対話の相手はいますが、それは観念的な対話の相手です(恐らくは、もう一人の自分です)。そうでなければ、国の数とはいわないにしても、少なくとも大陸や人種と同じ数くらいの観客がいることを考えただけで、私がどんな要素を映画作りの基礎にしてよいのか判らなくなってしまいます。(230頁)

■――スクリーンで全裸を描写できるためには、映画作家は開放されるべきだと思いますか?

その必要はないと思います。男女の間で最も大切なことは、裸の時には起こりません。

――スクリーンで見せてはならないものがあるとおもいますか?

人間の良心以上に優れた検閲はありません。(232頁)

■――あなたは短編集の一遍で、「私は自分の青春についてほとんど考えない」と書いていました。これは本当ですか?

私はとりわけ未来に興味を抱いています。セーレン・キルケゴールがどこかで書いていました。「人生について理解したい時には、過去を見詰めなさい。生きたい時には、反対に未来の方を向きなさい」。私の年齢では、採るべき道は唯一つしかありません。つまり、明日を今日よりも良くしなければならないということです。そうでなければ、絶望するしかありません。(266頁)

■――あなたはSFに対しても、大きな情熱を持っていると思います。数年前、あなたはソ連でSF映画『凧』を撮るはずでした。

カルロ・ポンティとソフィア・ローレンと一緒に、別の映画の企画を立てていました。この映画は、アメリカの作家ジャック・フィンレーのとても美しい短編小説を下敷きにしたもので、『目的地ヴェルナ』と題されていました。もはや人生に何も期待しない中年女性の物語です。ある晴れた日、彼女は言われます。「地上の楽園のように素晴らしい場所、惑星ヴェルナ行きの宇宙船の席が一つあります」。彼女は答えます。「だけど、どうやってそこへ行くの?」。ヴェルナは太陽系外の惑星なのです。あまりに遠い距離なので、この女性は出発しないことに決めます。それは、彼女の人生における最後のチャンスでしたが、彼女はこのチャンスを逃してしまいます。それが片道旅行になるかも知れないし、自分の退路を断たれてしまうのが怖かったからでもあります。それは、とても理解しやすい反応です。普通の人間に尋ねたとします。「ここで何をしているのですか?天国のような場所へ行きませんか?これが唯一のチャンスですよ」。この地上で自分の状況に不満を言っていたとしても、未知のことに直面し、すべてを捨て去る勇気を持つことができるのは、ごく少数の人でしょう。未知のことに向き合うよりは、この世界で絶望して生き続ける方を選ぶのが普通でしょう。それは、とても人間的な感情です。(269~270頁)

■――『欲望』の興行的成功の後、あなたは夢のような申し出を受けました。

アメリカのプロデューサーがお伽噺の「ピーター・パン」を撮らないかと、私に提案しました。私が「ピーター・パン」を作ると思いますか?私は彼の事務所に呼ばれました。片側に、この映画の出演者になるミア・ファローがいました。反対側には、作曲家と脚本家がいました(音楽と脚本は既に準備されていました)。私の前には、プロギューサーが小切手を持っていて、130万ドルを提示しました。その時、私は尋ねました。「すべての準備が整っているのに、私は何をするのというのでしょう?」。金銭的な命令を拒否することが、私には大した痛手ではなかったと、言わなければなりません。私たちの人生の観念に関しては、道徳的な命令を拒否することの方が大切なのです。自分に嘘を吐く時、自分の良心と妥協をする時が、本当に代償を払う時です。(274頁)

■――あなたはワン・ショット=ワン・シークエンスの技法を使ったヨーロッパの最初の監督です。『偉大なるアンバーソン家の人々』を知っていましたか?

いいえ、それは後で見ました。最初にワン・ショット=ワン・シークエンスを使った時には、特にどの映画のことも考えなかったと記憶しています。ドリーに乗って俳優の後を追い、場面の最後まで、カットしないでそれを撮影したのを覚えています。本能的にそうなりました。一見して考えられるようなこととは異なり、ワン・ショット=ワン・シークエンスを撮るのは、撮影後に伝統的な方法で場面を編集することよりも難しい、と言わなければなりません。二人の作中人物が話をしている場面では、カメラだけでなく俳優も絶えず移動する必要があります。そして時々、この移動が機械的で作為的になってしまうことがあります。これを自然で円滑なものにするためには、ある種の熟練が必要です。ともかく、特別な技法にしばられたいと思ったことはありません。すべての映画は、各々の文体を持っています。例えば、『太陽はひとりぼっち』の証券取引所の場面では、ワン・ショット=ワン・シークエンスを撮るのは不可能でした。クローズ・アップを撮るべきであると感じた時に、そうしなければならない理由は判っていません。R・W・ファスビンダーのような幾人かの監督はワン・ショット=ワン・シークエンスを撮り、後でカットして、他のショットを挿入します。しかし、この方法では、『ベルリン・アレクサンダー広場』のように、一つのショットと次のショットで、照明のばらつく危険を冒すことになります。(276頁)

2010年2月11日

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『セザンヌ』ガスケ著 與謝野文子訳 岩波文庫

■しかし彼らにとっての最高の喜び、最終の抒情。ほとんど宗教的な饗宴といえば、それはアルク川で泳いで、ぬれたまま本を読み、柳の陰でさるまた1枚で議論することだった。川は彼らのものだった。春が終わりに近づくと、自由な日は明け方から夕暮れまで、さっそく川を占領して、自分たちの領地にしてしまい、そこでぽちゃぽちゃ泳いだり、水を浴びたり、草をさぐったり、水中の魚の生活や、反射と陰影のきらきらした動きを目で追ったり、昆虫や水滴のはかない世界の中に、消えゆく微小なるものの中の、無限大なるものの宇宙的な悲劇を発見するのだった。彼らは、ひとつの形容詞、太陽や考えのかすかなニュアンス、ちょっとした逆説的な断言がもとで、互いに髪をつかみ合い、砂の上にころげて、息長く笑いながら抱き合って立ち上がることがしばしばあった。ジプシーみたいに、じいじい焼ける葡萄の若枝の上で骨付き肉を焼き、びんは泉の水につけてひやした。彼らはキャンプ生活をした。彼らは生きた。熱を帯びた芸術家の頭脳が、これほど自然な開花を見たことはかってないだろう。彼らの想像力は、真理の真っ只中に漬かるのだった。一生を通じて、最悪の瞬間にもこの頃の異教的な勢いまたは聖なる不安を保ち続けたのである。後日セザンヌがある友人に語ったこの言葉がいかにもよくわかる。「自然にならって絵を描くことは、対象を模写することではない、いくつかの感覚を実現(レアリゼ)させることです」(35~36頁)

■セザンヌの全生涯は、大きな突進の後に来る深い失望、無我夢中に張り切った後に来るまっ暗な落胆が交互に続くというような人生の他になにものでもなかった。毎朝、起きると、世界の征服に出発した。自分の情熱と意志を、自分の芸術と等しいものに見立てるのだった。晩になって床につくときは、生きることに絶望し、絵を描いた自分を呪うのだった。一つだけ慰めがあり、それは自分の仕事だったが、その仕事が「振るわない」ときは、殉教者の苦しみを味わった。きりのない失意に落ち込んでいくのだった。ある晩、この状態の彼に出会った人に、何をそういうふうに考えているのかと聞かれて、彼は、ヴィニーの詩句の動詞を一つ入れかえて答えた。

主よ、私を孤独で強い者になさいました

大地の眠りのなかに眠らせて下さい(56頁)

■そのころゾラがバーイユに宛ててこう書いている。

「彼はひとかたまりでできた人間で、こわばっていて、手にとると硬い。何に遭っても曲げられるということもないし、彼に妥協させるなんてとても無理なことだ」(57~58頁)

■彼をさえぎるものはもはや何もない。彼の技術(メチエ)さえも思うがままに動くように見える。思索の狂躁ぶりは、ある日〔ルーヴルの〕さろん・かれの真ん中でユオに「ルーヴルに火をつけるべきだ」と、叫んだほどである。画帖の1ページに、『エミール』からの数行を書きなぐる。「肉体は魂に従うためには、たくましさをそなえていなければならない。良き従者は、頑健であらねばならない。肉体は弱ければ弱いほど命令を下す。強ければ強いほど従う。虚弱な肉体は魂を虚弱にする」その下に、太い筆跡で、念を押している。「私は頑健だ。私の魂は強い……」アトリエの壁の土に、木炭で、「幸福は仕事にあり」と書く。(72~73頁)

■それらの装飾的な下絵、情熱あふれる肉体、夢の中の重い葉むら、熱狂した閨房の中で「彼を誘惑する緋色の裸の乳房」などを前にすると、彼は懐疑にとりつかれた。ピサロに言われていたように、手で触れたり目で見たりできるもの以外に、何も発明したり描いたりしてはならない。ところが、ゆるやかに流れる川を前に、本物の枝の陰に画架を立てて、草や土隗に足をのせていると、大きな構成(コンポジシオン)がなつかしくなり、昔の巨匠たちの思い出やルーヴル美術館で見た凱旋の図やいろいろな場面が彼をおそうのだった。(78頁)

■その絵を汚しているほこりの層を私がふきとって見ると、鹿毛色で、ひびが入っていて、金槌で打たれた跡が見られたが、真新しかった。そこには、白鳥の形をした雲の上にしゃがんだ、激流のように流れ出す肉付きの女性が見られた。腹を前につき出し、乳房はふくらんでいて、ぎらぎら照り返るような鼻づらが、赤くも茶色くもある髪の毛のとび立つ下で、すばらしくもあり見るも恐ろしく、手には血のかたまり、腰には金の鎖、大きい首飾り、そして胴体はまるでダナエのように光線や金貨の雨にうたれていた。その女のまわりに、服を身につけた男や神父や将軍や老人、一人の子供、労働者や裁判官、いまわしくねじれた人の群れが、夜明けの光を浴びてわめいていた。ドーミエの描くような赤面だったが、血が頭に上がったみたいに紅色にむくんでいた。嵐のような肉体が、それに蛇のようにまといつくバロックな色彩のダンテばりの虹に咬みつかれていた。こわばった腕たちの渦巻き。――そして空の暗い一隅に一つの星の下に、目を手で被っている純白の姿が見えていた。

「――どうだね。これはミルボー好みだろうが」とセザンヌは、この黙示録の一節を鑑賞中の私をつかまえて言うなり、足で絵をけとばし屋根裏の奥へと追い払った。(80~81頁)

■「――これが私のタブローとなるよ、私が後世に残すものにね……だが中心は?中心がうまく見つからないんだ……何のまわりに女たちを全員集めればよいか?ああ、プッサンのアラベスク。あの人は隅々までそれに通じていたよ。ロンドンにあるバッコス祭や、ルーヴルにある《フローラ》の中では身体の線と風景の線がどこに始まってどこに終わるのか……一体をなしているんだ。中心がないのだ。私は、穴のようなものが、光の視線、目に見えない太陽みたいなものが私の描いた全部の身体を待ち伏せして、包んで、なでて、強烈なものにするのであってほしいんだ……真ん中でね」

そう言いながらクロッキーを1枚破いた。(89頁)

■彼は絵画の神秘主義者であったし、絵画の偉大な孤独者であった。この地上でのいろいろな利害、市民としての義務、生まれつき好きなものも絵画には負けた。その例をせめて二つだけでも紹介しよう。

ジャで、ある晩のこと、積みわらと農家が燃えていた。炎の色彩豊かな動きにうっとりして、彼はそれを眺めていた。ニュアンスをかきとめたり、色彩や影のちょっとした秘密を見つけたりしていた。すると消防士たちがやって来た。「待て!」と叫んだ。気が狂ったと思われた。相手は念を押した。彼は鉄砲をつかんだ。

「はじめに消そうとするやつは一発うってやる」それで灰になってしまうまで、火の魔術を楽しみ、火の舞う姿と反射を研究した。

それからずっと後のことだが、1897年に母親の葬儀が行われた日の午後、いつもどおりに「モチーフ」を求めて野外に出かけた。それこそが死んだ人と心を共にし祈る最善の方法だったのだ。(97~98頁)

■この人たちの誰よりも自分の芸術に取りつかれていて、自分の仕事の神秘主義者であり、絵画の修道僧であったセザンヌには、危険にさらされた祖国の叫びが一切耳に入らなかったし、何も見えはしなかった。自らの天才が彼の運命だったのだ。町が敵の手に渡り人々がわめく中で砂の上に身をかがめて問題を解き終えようとする姿で発見されたアルキメデスみたいに、セザンヌは砲弾の降る下でも画を描いていただろう。彼はパリを去った。私は彼の人生について知っている事柄を何ひとつ伏せたり飛ばしたりしたくない。警察はエックスの辺りで彼を探したと言われている。母親と一緒にレスタックに逃げていた。海を前に仕事をしているのだった。(99頁)

■ある晩、彼は私にデッサン用紙を1枚手渡してくれた。曲線や正方形や奇妙にもつれた幾何学的な図が入り組んでいる下に、彼は力の入った太い筆跡で、次の文に線を引いておいたのだった。「詩の女神の腕の中で青春を費やせ……彼女の愛は、他のすべての愛の失望から慰めてくれる」もう少し上の方に太い活字体でシニョレッリ(SIGNORELLI)、そして小さな字でルーベンス(Rubens)と彼は記しておいたのだった。正方形のうちの一つは、水彩のかすかな色合いのブルーに染まっていた。彼は私に紙を渡した。

「これはゴーティエの言葉だ……仕事だ、仕事をしなければならないのだ。」彼は言った。私に突然背を向けて口ごもるように、「芸術は生きることの慰めになる」と言った。そして紙を私から奪い取るなり小さくちぎった。私が退散するまで、一言も口をきいてくれなかった。(112頁)

■「私は自分の道のプリミティフである」この道を切り開くために、そこを通って自分が目的としているところにより確実に到達するために、彼は自分をうっとりさせる大きな主題から遠ざかった。森全体を表現できないことに苦しんで、一本の木を写すことに努力をした。ところが厖大な樹液はその輪郭を破裂させるのだった。彼はすぐにやって来る勝利や成功に伴ういろいろな喜び、気持の良い付き合いや友情さえ断念した。絶対の探求に没頭した。孤独であった。仕事をした。(116頁)

■暮らしぶりは一切変えない。すでに前から、明け方に始まって晩まで、太陽の生む一日という一日は、毎日働いていたのである。暁に起きてこれを続けてゆく。しかし秩序をもたない霊感(インスピレーション)や偶然まかせの探求というものと、意識的な労働や筋道の立った作業というものとの間や、発明と服従との間では、彼はすでに自分の選択をした。「服従はあらゆる進歩の基本である(注)」今後、彼は世界を写すことにする。地球の肖像画を描くことにする。ある顔やある家具を生きたものにしておく太陽のにぶい労働の跡を必死に追うことにする。対象に服従する。夢はもう見ないことにするのだ。

(注)シャルル・モーラスの小冊子の巻頭に引用されたオーギュスト・コントのこの文章を、私の家でセザンヌが目にしたとき、しばらく考えこんでから、「それは本当だ……なんて本当なのだろう」と言った。

■ときどき、ヴァン・ゴッホの話をしてくれたが、つねに好感を交えてのことだった。私の家で、ゴッホの絵が2枚ほど鑑賞できるので喜んだ。ポール・ゴーガンについても同じだった。人が言い張っているように、アルルまで彼らに会いに行ったと私は思わない。ゴーガンにはタンギー爺さんのところやカフェで会ったりしたが、それもたまにだ。(125頁)

■彼と知り合いになったのは、1896年のことだ。まだ57歳でしかなかったが、心のなかの殉教にすっかり身は荒れ果てて、落胆した病身の彼はすでに老人に見えた。彼の丈夫な血筋のなかに硬くしっかりと流れる頑健な体質が再び姿を見せることがあるにはあったが、ほとんど毎晩、激しい頭痛に見舞われて、拷問のように糖尿病に悩まされていた。彼はつねに自分の力を上回っていた。神経をとがらして、目には筋が走り、頭脳は荒され、心は熱におかされ、自分の懐疑に打ちひしがれていた。喜びのうちに仕事をしていたならば、多分ティツィアーノのように100歳までは絵を描き続けたに違いない。自分のなかの動物としての部分に過労を与えすぎていたのだ。(138~139頁)

■私はなにがしの者でもなく、まだほとんど子供だった。エックスで何かの展覧会の際に、彼の風景画を見たことがあり、絵画というもののすべてが眼の中に入って来たような感じを受けた。この2枚の絵は色彩と線の世界を私に開いてくれた。それ以来1週間というもの、私は新しい世界に酔ってほっつき歩いた。父は、町じゅうから嘲弄されていたこの画家を私に紹介する約束をしてくれた。私はそこにいるのは彼だと察した。私は近づいてゆき、御尊敬申し上げています、とつぶやいた。彼は顔を赤らめて、どもり始めた。それから背を伸ばして、今度は私が顔を赤らめてしまうようなかかとの先まで焼けてしまうようなおそろしい視線を投げつけた。

「ねえ、若造の君、おれをからかうなよ」

円卓をすごい勢いの拳固で叩いてぐらつかせた。コップが鳴った。すべてが傾いた。私はかってあんなに大きな不安を抱いたことはないような気がする。セザンヌの目は涙ぐんだ。両手で私をつかまえた。「まあ、ここにお坐り……アンリ、これは君の倅か。いい子じゃないか……」と私に向かって言った。腹を立てた声は今やすっかり人が善さそうに優しくなっていた。私のほうを向いて、「君は若い……君には判るまい。私はもう絵が描きたくないんだ。私はすべてを投げた……ちょっとお聞きなさい、私はあわれなやつだ……うらまないで下さいよ……私の絵をたった2枚見かけただけで君が私の絵にだまされてしまったなんて、どうして信じられますか、一方で私について書いているものかきども(ものかきどもの横に丶)が一度としてそれがわからなかったというのに……ああ、連中には、ひどい目に遭ったよ。君は、サント・ヴィクトワールなのだね、特に気に入ってしまったのは。わかるかね。あの絵が気に入ったんだね。あした、君の家に届けさせるよ……それにサインもするよ……」

かれは他の人たちのほうを振り向いた。

「――ゆっくり話していて下さい。私は、この子とおしゃべりがしたい。連れてゆくよ……ねえ、アンリ、晩飯を一緒にどうだ?」彼はコップを飲みほして、私と腕を組んだ。私たちはまち(まちの横に丶)を囲んでいる大通りの闇のなかへ深く入っていった。彼は信じられないほどの高揚状態にあった。心を私に打ち明けて、自分の絶望や、見捨てられてくさってしまっていることや、自分の絵画と人生の苦悩、ルナンの言うあの「深い感情」、あの「統一」を語ってくれた。私はそれをうまく言い表したいのだが、あの晩は、この「深い感情」によって尊敬の念などを遠く超えて、恍惚に達するほどの戦慄を覚えさせられた。心情を通して、彼の天才に私は触れたのだった。彼というものが私にはよく感じられた。同時にあれほど偉大であれほど不幸たり得るということは、それまでの私には、絶対に信じられなかったであろう。別れたときは、彼の人間的な苦しみに対して、信仰をいだいてしまったのか、それとも彼の超自然的な画才を崇拝していたのか、どちらかわからなくなっていた。(141~143頁)

■「春を見るのは今度が初めてだ」と彼は言った。

自信もすっかりよみがえった。しまいには、自分の天才のことを私に口走った。ある晩、心からうちとけて、私に打ち明けたのである。

「私が今生きているただひとりの画家だ」

その後、彼はこぶしを固く握りしめ、暗い沈黙に浸ってしまった。人を寄せつけぬ雰囲気で帰宅した。彼の身に災難でも降りかかったかのように、。次の日、彼は来なかった。2、3日、私は重ねてたのんだが、駄目だった。そのうち、こんな一筆をもらった。

「拝啓、パリに明日出発いたします、敬具」4月の15日だった。(144~145頁)

■「親愛なるガスケ様、

今晩、並木通り(クール)の下でお目にかかりました。ガスケ夫人とご一緒でした。私の思い違いかもしれませんが、あなたは私に対してかなりお怒りになっておられるように見えました。

私の内、内なる人間、それを見ていただくことができれば、多分お怒りにならないと思います。どんな悲惨な状態に私が追いつめられているかが見えないのですか。自己(自己の横に丶)を制することもできず、存在すらしていない人間です。それなのに、哲学者でありたいというそのあなたが、私にとどめをさしたいのですか。でも私は、たかが50フランくらいの記事をでっちあげるために私の身の上に注意を引いたXやそのほかの馬鹿どもをのろいます。私は一生、生活できるようになるために働いてきました。自分の私生活に人の注意を引かずによい絵が描けると思っていました。みちろん、芸術家は知的に、より高いところに行きたがります。でも人間としては地味な存在であり続けなければなりません。楽しみは勉強のなかに宿っているべきです。私が作品を実現(レアリゼ)することに成功していれば、一緒に一杯飲みに行ったアトリエの友だち何人かとひっそり引っ込んでいたでしょう。あの時代のいい友人がまだいます。出世はしていませんよ。でもメダルや勲章ずくめのやくざな連中よりははるかに絵描きとして上です。それなのに、私の年齢になってまだ何かを信じなさいとでもおっしゃるのですか。しかも、私は死んでいるも同然です。あなたは若い。成功したいとお思っているのはよくわかります。でも私はね、私の置かれた立場では、おとなしくしていることしか残されていません。自分の故郷の地形がひじょうに好きだということがなかったらば、ここにいたりはしません。

うるさいことはこれで十分申し上げましたが、私の立場をご説明したあとは、あなたに危害を加えたかのように私を見たりなさらないだろうと存じます。どうか、私の高齢をご配慮の上、私の心からの挨拶と好意を、お受け下さいますよう」

私はさっそくジャ・ド・ブッファンへ飛んで行った。セザンヌは私を見るなり、腕を広げた。「もうあの話はやめよう。おれは年とった馬鹿だ。ここにお坐りなさい。あなたの肖像を描こう」(147~148頁)

■デュラン=リュエル画廊などで、展覧会に彼が顔を出すと、人々は場所をゆずり、彼に挨拶はするし、敬意を表して歓待する。彼は気がつかずにいる。カミーユ・ピサロやルノワールやギョーマンのように彼が認めている人たちは、彼にふさわしく、そして彼らの取ってしかるべき態度で待遇してくれる。セザンヌは、この人たちとも交際せずに、ときどきしか会わない。それでいて、孤独は重荷なのだ。生きている最大の画家として彼の尊敬するクロード・モネ、その名声の最高点に達していたモネがある日、私の目の前で、セザンヌをほとんど師呼ばわりしたばかりか、現時の絵画のなかでいかに偉大な地位を占めているか、そして彼から発生するルネッサンスのことなどを語った。セザンヌはかすかにほほ笑んで、ぶっきらぼうに握手をして、「仕事をしに行こう」とぶつぶつつぶやきながら大通り(ブルヴァール)の群衆のなかに消えて行った。(154頁)

■セリジェ氏が「セザンヌの精神主義」と呼んでいるものが、絵のなかでますます強調されてくる(注)。

(注)セリュジュ氏に言わせれば、「彼は純粋画家である。彼の様式(スティール)は画家の様式であり、彼の詩は画家の詩である。再現された物(オブジェ)の用途や概念までが、色彩を帯びた形態(フォルム)の魅力を前にして消失する。ありきたりの画家のりんごを前にすると、食べてもよいね、と言う。セザンヌのりんごのことは、美しい、と言う。恐れ多くてとてもむく(むくの横に丶)わけにはゆかない。写生したくなる。これこそがセザンヌの精神主義(スピリチュアリスム)を成している。私は意図的に、観念主義(イデアリスム)ということばを使っていない、なぜならば観念的(イデアル)なりんごというのは、〈口の〉粘膜に快感を与えるようなものであるに違いないからで、セザンヌのりんごは、眼を経て精神に語りかける……特筆すべきことは、画題(シュジュ)の不在である。彼の最初の画風(マニエール)では、主題(シュジュ)がときには幼稚で、とるに足らなかった。画風が進展したのちは、しゅだいはすっかりなくなって、ひとつのモチーフ(モチーフの横に丶)だけになる」(モーリス・ドニ氏が『理論』の244ページに引用)(155頁)

■ある日、わが家で昼食を食べているとき、彼は広鉢(ジャット)に盛られた黄桃と(あんず)と桃を見て、われわれにこう言った。

「見てごらんなさい。光はあんなに黄桃にやさしくしている、黄桃を丸ごとつかみ、果肉に入り込み、四方から照らしている!それにひきかえ、桃に対してはけちだ。その半分しか明るくしていない」

それまで誰も言わなかったような気のきいた、小さな発言をこんなふうにするのだった。またあるとき、私がカルディナル通りを彼らと連れだって歩いていると、彼は、

「芸術家というのはね、アーモンドの木が花をつけるように、かたつむりが粘液を出すように、作品をつくらなければなりません……」ともらした。

 彼は付け加える。

「私はもしかすると、早く生まれすぎたのかもしれない。自分の世代よりは、君たちの世代の画家だったんだ……君は若い、君には生気がある。君は自分の芸術に、感動をひそめる人々だけが与えることのできる推進力を与えるでしょう。私は、そろそろ年を取ってきました。自分を表現する時間が足りないでしょう……さあ、仕事をしましょう……(注)」

(注)この言葉も、ここで私が老画家の口から言わせている言葉のほとんどがそうであるように、私の死後に刊行される書簡からの断片であることを、明記しておく必要があるだろうか。彼の口からしじゅう聞かされたことを完全に要約するものである。私は、それが可能だったときはつねに、自分自身の記憶やノートよりは、書かれた証言、しかもセザンヌ自身によって書かれたもののほうを重んじてきた。(162~163頁)

■ある日の、烈風(ミストラル)が吹く午後、友人グザヴィエ・ド・マガロンと私が、彼が仕事していないものと思って突然、訪ねて行ったときのことだ。岩の上で、破れて風に飛ばされる自分の絵の前で、大粒の涙をこぼしながら、こぶしを固くにぎりしめ、地団駄を踏んでいる場面に出くわした。石切り場の草むらの中になげ飛ばされた絵をわれわれが走ってひろいに行こうとすると、彼はさけんだ。

「放っておけ、放っておけ……今度こそ、うまく自分が表現できるところだった……うまくいっていた、うまくいっていた……でもそうはならない運命なんだ。いいから。あれは放っておけ」

水色めいた谷の上にサント・ヴィクトワール山が輝く大きな風景画、それはほやほやに新鮮で、やわらかく光り輝いていたが、風に押されて入ってゆく草にべとべと粘りついていた。傷だらけになりひきさかれて、絵は人間のように血がしたたるのだった。絵の赤茶色の部分や、紅に色どられた大理石や、松や、宝石細工の山や、熱烈な空などが突風に破られた姿がわれわれの目の前にあった……自然とたちうちできる一つの傑作だった。セザンヌは、顔面から眼が飛び出しそうになって、われわれと一緒にそれを見つめた。狂気というべきか、われわれにはわからない何かに彼は駆られた。絵のほうに歩み寄り、それをつかんで、引き裂いて、岩の上に投げ捨てて、靴で踏みつけて破ったのだ。それからそれにもたれかかるように倒れて、われわれにさも責任があるかのように、こちらを拳固で脅かしながら「とっとと行ってくれ、とっとと行ってくれ……」と言った。われわれは松林のなかに隠れて、彼が1時間以上も子供みたいに泣いているのを耳にした。(163~165頁)

■付き合ったことはないが、最もセザンヌをとく察した人のひとりであるエリー・フォールは、この偉大な、ひとつの倫理に忠実な人生の、人間的な面や、つねに自分に対して勝ち続けなければならないというあの一種の悲劇的な内面の勝利を、すばらしい言葉で表現した。「この世で彼を引きつけるものは光と陰影が物に対して与える色彩と造形の組み合わせのほかには何ひとつなかった。それらの組み合わせは目にたいへん緻密な法則を教えてくれるので、高度の精神の持ち主は、その法則を人生に応用して、倫理的な、形而上学的な方向づけを求めることができるのだ」(165頁)

■「感動を原理としない芸術は、芸術ではない!」と叫んだ。

進むにしたがって、ますます感動を求めるようになった。理性が整理され、厳格に、痛烈に、くるいなく働くようになればなるほど、感受性がその上に、よりみごとに感動の花を開かせた。彼の描くヴィクトワール山の強靭な土台と硬い斜面にほころびる春の微笑のように。(168~169頁)

■ある晩、詩人のレオ・ラルギエが、老大家に朗読をしてきかせようと思って、自分の詩を思い出して再現しようと、舟の水彩画にじっと目を凝らしていた。それはセザンヌがしばしば絵を描きにいったに違いない場所のなつかしい思い出で、そこにあるのを好んでいたのだろうが、「どうぞ持っていらっしゃい」と言った。なんでも人にやってしまうような人だった。後年、彼の御者から話してもらったことだが、なんべんもセザンヌはこの人に絵のうちのどれか1枚――大きな静物画や特に桃の籠――を贈ったものだが、この人も持ってゆくことをためらった。セザンヌは執拗に言った。「まあ私の記念に……あなたには、母をいつもよく世話してもらいましたし……将来、これを持っていれば楽しいですよ」食堂には、エックスの風景と静物画が1枚ずつ。それが彼にとっての贅沢のすべてだった。仕事だけを愛していたのだ。(177~178頁)

■中世の飾画師(イマジエ)たちは、画題に対して受け身の姿勢になっていた、ヴェネツィア派の画家たちにしてもそうなのだと、彼は自分に言い聞かせた。目に見えるものを描いていればよいのだ。画家は何もかもを描くのでなくてはならない。フローベールが自らの芸術で発揮したのと同じような客観性を発揮し、世界や対象物に完全に服従して、眼の持つ一種の宿命に身をまかせるのでなければならない。最もささやかな現実が、最も華やかな絵画のインスピレーションとなるかもしれない。そうだ。ヴィジォンのしゅくめいというのがある。資質(タンペラマン)によって選択がおこなわれるのであり、それを引き出して強化するものしか目には受け止めない。世界はひとつの個性を帯びる。目にするものはすべて美しい。(194~195頁)

■1902年の7月の、それと同じ頃、私に次のようなことを書いている。

「私は、モネとルノワールを除く現存の画家は皆軽蔑する。そして私は仕事することによって成功したい」1年ほどたって、1903年9月には、こう書いてきた。「描き始めた絵にはまだ6ケ月手を入れなければならない。「仏蘭西芸術家展(サロン・デ・ザルティスト・フランセ)」に出品されて、受けるべき待遇を受けにゆくであろう」(196頁)

■1人の神父が通る姿を見て、震えながら、「司祭たちは恐ろしい……はめられてしまうんですよ……」とつぶやくときがあるかと思うと、熱心なカトリック信者である友人のドゥモーランに、「先生は神を信じていらっしゃいますか」と尋ねられて、「だって君、信じていなかったら、私は絵が描けないではありませんか」というような答えをするのだった。キリスト像を描く着想を提案しようとするエミール・ベルナール氏に対して、こんな理由を挙げて断るのだった。「絶対にそんなだいそれたことは私にはできません。難しすぎます。私などよりはそれが上手にできた人たちがいます……」彼は、自分の芸術に対する誇りや尊敬というものを、自分の信仰の謙虚さや祈りというものよりも上においていたわけだ。(197~198頁)

■この霧の奥深い中にあって、すっかりこわばった彼は、ある朝、ヴィクトワール山の前に画架を立て、絵を描いていた。自分のモチーフをつかんでいたのだ。絵を描いた。今や好きになっていた灰色の天候で、世界の老年期の薄ら笑いというか、ひとつのやさしい朝だった。絵を描いた……車が迎えに来たとき、御者は、パレットを手に持ち、ずぶぬれで震えているところを見つけた。雨はやんでいた。銀色の空が田園にのどかさを与えた。悲劇の山には虹が輪光さながらにかかっていた。何も目に入らないセザンヌは、車に乗るのがせいいっぱいだった。1冊の本、彼の昔からのウェルギリウスの書が、泥のなかにころげ落ちた。

「あれは、放っておいて、私の絵も放っておいて」と喘いで言った。熱があった。譫言(うわごと)を言った。彼は寝かされた。夜通し彼は、あそこの、絵の地平線に、思索と人生の地平線に、いまだかって鑑賞したことのないようなサント・ヴィクトワール山を再び見たのだ。神々しいその姿を描くのだった。光り輝き、超自然の、そしてその本質とその永遠なる姿の真実のなかでサント・ヴィクトワールを見た。まだいまだに見ているかもしれない……彼は再び起き上がらなかった。(204~205頁)

■セザンヌ 太陽が照って、希望が心の中で笑っている。

ガスケ 今朝は、ご機嫌うるわしいですか。

セザンヌ モチーフをつかんだよ……(手を合わせる)。モチーフというのは、そうだね、こういった……。

ガスケ どういうのですか?

セザンヌ まあ、こんな……(再び同じ仕草をする。10本の指を開いて両手を離したのち、ゆっくり、ゆっくり両の手を近寄せて、かたく握りしめて、こわばらせて、互いにくい込ませる)。これに達するのでなけりゃいけない……。私がもうちょっと上か、もうちょっと下を通ったら、全部が駄目になる。ゆるすぎる網の目というか、穴があって、そこから感動や光や真理が逃げ出してしまうようではいけない。絵全体を、私は、いっぺんに、総合的に押し進めてゆくんです。おわかりかな。私はちりぢりばらばらになるものを全部、同じひとつの勢い、同じひとつの信念でもって近づける……われわれの見るものは全部、散乱して、どこかに行ってしまう、そうでしょう。自然はいつも同じ自然だけれど、私たちの目にあらわれているものの中からは何も残らないでしょう。われわれの芸術は、自然が持続しているということの戦慄を人に与えるべきなのだが、それは自然のあらゆる変化の要素や外見を駆使してなのだ。永遠なものとして味わわせてくれなければならない。自然の下には何があるんでしょうね。何もないかも知れない。もしかしてすべてがあるかも知れない。すべてです、おわかりになりますか。それで私は、自然の迷える手を合せてやるのです……あっちから、こっちから、方々から、左から右から、その色調、そのニュアンスを私はつかんで、それを定着させて、それを互いに近づけます。……それは線を作ってゆくんです、物(オブジェ)や岩や木になってゆきます。私が考えないうちに。容積(ヴォリューム)を持つようになります。色価がそなわってくるんです。もしこういう容積やこういう色価が私の画布のうえで、私の感受性のなかで、目の前にある数々の平面やしみ(ターシュ)に適合したら、そうしたら、私の絵は両手を組むのだ。ぐらぐら揺れない。高すぎも低すぎもしない。真の、濃厚な、充実した絵です……ところが、私がちょっとでも気が散って、少しでも気のゆるみがあると、特にまた、ある日には解釈をしすぎるようなことがあったり、今日の理論が昨夜の理論に逆らって、私をひきずったりするようなことがあると、いわば、絵を描きながら私が思考し、私が介入すると、ぽちゃっと、全部お流れになってしまう。

ガスケ 介入なさるといいますと、どうして?

セザンヌ 芸術家は、数多くの感覚を受ける器です。ひとつの受信機です……まあ、いわば、性能のよい機械、こわれやすくて複雑で、他のものに比べたら特に……ところが、芸術家が介入したりすると、翻訳しなければならないものの中で、些細な自分というものの意志をはたらかせて参加しでもすれば、自分の卑小な面をそこに持ち込むのです。そうなる作品の質は低い。

ガスケ 要するに、芸術家は自然に対して劣るというのでしょうか。

セザンヌ 私はそうは言わなかった。なに、あなたはその手にひっかかるんですか。芸術は自然に平行しているひとつの調和です。画家はいつも自然に対して劣っている、なんていうことを口走る馬鹿どもはなんと評すべきかな。平行しているのです。もちろん、意志的に介入しなければのことですが、その辺はわかって下さい。芸術家の全意志は、沈黙であらねばならない。自分の内の、偏見の声々をだまらせなければならないし、忘れて、忘れて、沈黙にひたって、完全なるひとつのこだまになる。そうすると、彼の感光板に、景色全体が記されてゆきます。画布にそれを定着させ、外に顕在させるに当たって、メチエがのちにものを言う段になりますが、それも、命令に従い、無意識に翻訳するという敬虔なメチエです。自分の言語に精通するのあまり、自分の解説する文章(テキスト)、2つの平行した文章、見たり感じたりした自然、そこにある自然(彼は、緑と青の平野を指差した)……こちらにある自然(彼はおでこをたたいた)……両方ともが持続できるために、芸の命と言う、半ば人間半ば神の命をもって生きるために、そうだ、よく聞いて下さい、神の命ですよ、それには双方が融合しなければいけません。風景は、私のなかで反射し、人間的になり自らを思考する。私は風景を客体化し、投影し、画布に定着させる……。せんだって、あなたはカントの話をして下さいました。私はとちるかもしれませんけれど、思うに、この風景の主観的認識が私だとすれば、私の絵は客観的認識のほうでしょう。私の絵、風景のどちらも両方とも私の外にあって、しかし一方は、混沌としていて、つかみどころもなく、こんがらがっていて、論理的な活動なしに、いかなる理にもはずれている。他方は、定着した、感覚界の、範疇化されたもので、表象のドラマや様相に一役買っているものです……表象の個性に個性に一役かっています。ええ、わかっています、わかっています……これは解釈にすぎません。ー後略ー(215~216頁)

■セザンヌ あなたに伝えようとしていることはもっと不思議で、存在の根源や手にとってみりわけにはゆかない感覚の源にからまっているものなのです。しかしそれこそが、私の思うに、資質(タンペラマン)をつくり上げるのだ。そして、原動力すなわち気質なるものの他には、一人の人間を、達成したい目標まで支えてくれるものはない。先ほどあなたに申し上げたが、仕事をしているとき、芸術家の、自由なる頭脳は、感光板のよう、ただの受信機のようでなくてはなりません。しかしですね、この感光板は、たいへん凝ったいろいろな液に漬かってきて、物の丹念な像が浸透することができるくらいの受容点に達しています。気長な仕事や熟考や勉強やさまざまの苦労、そして喜び、つまり人生というものが、この感光板の下準備をしてきた。巨匠たちの技法をたえず熟慮すること。そして、ふだんわれわれの動いている環境……あの太陽、ちょっと聞いて下さい……光線の偶然や、世界中にわたっての太陽の運動や浸透や化身というものをいったい誰がいつ描くのでしょうか、誰が語るのでしょうか。地球の物理的な歴史、地球の心理学のようなものでありましょう。生きものも物も、全部多かれ少なかれ、貯蔵された、組織化された、ほんの少量の太陽熱にすぎません、太陽の思い出の品というか、世界の脳味噌のなかで燃えるほんのちょっぴりの燐にすぎません。友だちのマリオン君がそういう事を語っているのは聞きごたえがありますよ。私はその本質を抽出したい。世界の脈絡のない倫理、そこに、世界の抱いている神の夢神の感情、神の概念があります。どこでもかしこでも、光線が暗い扉をたたいています。どこでもひとつの線がひとつの色調を包囲して、虜にしている。私はそれを自由にしてやりたい。われわれプロヴァンスや、私の想像するギリシャやイタリアという古典的な大国は、光明が精神性を帯びて、風景は鋭い知性のほんのりした笑みのようなものであるくに(くにの横に丶)なのです。……われわれのくに(くにの横に丶)の雰囲気(アトモスフェア)の繊細さは、われわれの精神の繊細さと通じるところがあります。互いに互いが含まれているのです。われわれの頭脳と宇宙が接する場は、色彩です。だから、真の画家たちには色彩が劇性(ドラマ)に満ち満ちて現われるのですよ。あのサント・ヴィクトワール山を見てごらんなさい。なんという勢い、なんという太陽の激しい渇望、そして晩になっておの重量が全部下りてきたときのなんというメランコリア……あの石のかたまりは火だったのだ。まだ中に火を秘めている。(中略)私は長い間、サント・ヴィクトワールが描けずに、どうして描けばよいかわからずにおりました。ものを見ることを知らない他の人たちと同じに、陰影が凹だと想像していたからです。ところが、ほら、、見なさい、陰影は凸です、その中心から逃げています。縮むかわりに、陰影は蒸発して、流体化する。真っ青になってあたりの空気の呼吸に加わります。たとえばあそこ、右のほうの、ピロン・デュ・ロワの上空では、逆に光は湿気を含んで、きらめきながら揺れています。海です……、これを表現しなければならないんだ。これを知っていなければならないんだ。敢えて言うならば、この知識の溶剤にこそ、自分の感光板を漬けなければならないのだ。風景をうまく描くには、私はまず地質学的な土台を見つけ出さなければいけない。考えてもごらんなさい、世界の歴史は、2個の原子が出会って、2つの化学的な渦巻き、2つの舞踊が組み合さったその日から始まっている。あの大きな虹たち、あの宇宙的な数々のプリズム、空無の上にあるわれわれ自身の暁、私はルクレティウスを読みながらそういうものの立ちのぼってくるのが目に見えて、自分が飽和されてゆく。この霧雨の下で、私は世界の処女性を呼吸する。ニュアンスを受けとめる鋭い感覚が私をさいなむ。無限というものにそなわったすべてのニュアンスに私は彩られる。その瞬間、私は自分の絵と一体になる。われわれは虹色に輝く一つの混沌をなすのだ。私のモチーフの前に来て、私はそのなかに迷い込んでしまう。ぼうっと、もの思いにふける。遠方の友のように、太陽は私のなかに鈍く侵入しては、私の怠惰をあたため、受胎させる。われわれ(絵と私)は発芽する。夜が再び下りてくると、ついぞ絵などは描いたことはなく今後も描くまいという気がする。夜が来ないと、土地から目が離せないのだ、私の溶け込んだこのわずかばかりの土地から。ある時あくる朝になって、地質的な土台がゆっくり見えてきて、いくつもの層が出来上がり、それは私の絵の大きな面(プラン)だが、石のその骨格を頭のなかで描く。水の下に岩が露出しているのや、空が重くのしかかるのが見える。すべてがきちっとおさまる。線的な様相が色の薄い動悸に包まれる。赤い土が深淵から出て来る。私は風景から少し離れ始め、風景が見えてくるのだ。この地質的な線、この最初のエスキスによって風景から足がぬける。地球の尺度なる幾何学。やさしい感情におそわれる。その感情の根から、樹液やさまざまの色彩がのぼってくる。一種の開放。魂の光を放つ様、地球と太陽の間に交わされる視線や外に露呈された秘儀ややりとり、理想と現実、色彩!空気のような、色のついた論理が、暗い強情な幾何学にとってかわるのだ。すべてが、木々や畑や家が、有機的にまとまる。私には見える。斑紋が。地層や準備の仕事や素描の中の世界はへっこみ、災害にでも遭ったようにくずれ落ちている。激変がそれを持ちさらって、更生させた。新しい時代が生きている。真の時代!すべてが同時に濃密で、流体的であり、そして自然である。その時代には、私の見逃すものはない。もう色彩の数々があるだけで、その内に光明があって、色彩を思考する存在と、太陽へ向っての地球の上昇と、愛へ向っての深奥からの発散がある。天才とは、この上昇というものを一瞬の平衡のなかに固定することなんでしょうね、もちろんその勢いを匂わせながら。私は、この考え、この感動の吐出、全宇宙の赤々とした炭火の上にあるこの存在の煙、それを自分のものにしたい。私の絵は重い、筆におもりがぶら下がっている。すべてが落下する。すべてが再び地平線の下に落下する。私の頭脳から私の絵の上に、私の絵から地球の上に。重々しく。空気や濃密な軽やかさはどこに行ってしまったのだ。天才は、外気のなかのこれらのあらゆるものを、同じひとつの上昇、同じひとつの欲望にたばねて、その友情を引き出すことでしょう。遷りゆく世界の一瞬がそこにある。その現実のなかでそれを描く!そしてそのためにすべてを忘れる。そのものになりきる。そのとき感光板であること。われわれ以前にあらわれたものはすべて忘れて、目に見えるもののイメージを(220~224頁)

■セザンヌ 洞窟の丸くなった天井に狩猟の夢を刻み込んだ初めての人間たちや、墓の壁面に自分んなりの天国をフレスコの手法で描いたあの善良な(初期)キリスト教徒たち、彼らは自分をつくり上げて、彼らのメチエも魂の印象も全部自分で身につけた。そんなふうにして景色の前に立つ。そのなかの宗教を引き出す。日によっては、自分が素朴(ナイフ)なふうに絵を描いているように思える。自らの道におけるプリミティフなのだ。私は無器用さの信念をもってして、定式(フォルミュール)に達したい、まあちょっと聞いてくれ、完全に実現(レアリゼ)させたいのだ。なんと言ったって、無知や素朴を装うのは、最低の退廃だ。老衰だ。今日では、ものを知らないということはできない、自分でものを覚えることも。生まれたときから、自分のメチエを吸っているんだ。悪いふうに。だから逆にそれに型をつけなければならないんだ。四方八方、社会という広大な宗教的でないひとつの学校に漬かっています。ええ、そこの生徒たちに相当する一種の古典主義(クラシシズム)があって、それが私の何よりも嫌うものなのです。だから、神様の場合と同じに、誰かが言ったように、少々の学は遠ざけ、たくさんの学は引き戻す、と私は想像します。そう、たくさんの学は自然に引き戻してくれる。ただの技巧(メチエ)だけでは不足とわかるから。

ガスケ 技巧(メチエ)で不足とは?

セザンヌ そうです。抽象的な技巧(メチエ)は、しまいには人を干からびさせる、疲れてゆくに従って荘重になるその修辞法(レトリック)に押しつぶされて。ボローニア派の画家たちをごらんなさい。もう何も感じていない……感覚が必要なときには、手の届くところにひとつの考え、ひとつの思念、ひとつの言葉が絶対にあってはいけないのだ。大義名分、それは自分のものではない思念だ。型にはまったものは、芸術の癩病だ。ほら、絵画における神話、ずっとその追跡をすると、メチエが幅をきかせてゆく歴史にあたる。女神たちを描いたら、しまいには女を描かなくなったんだ。一連のサロンをひとまわりしてみなさい。やっこさんが、木の葉の下で見ずに光が反射しているのがうまく出せない、すると水の精を一人そこに置くんだ。アングルの《泉》!あれは、水とどんな関係があるっていうんだ……それで君たち、文学のほうでは、くどくどと書いては叫ぶじゃないか、ヴィーナスだ、ゼウスだ、アポロだ、それも、深い感動に駆られて、海の泡、空の雲、太陽の力というふうに言えなくなっているとき。オリュンポス山のあの古ぼけた道具立てを信じているんですか?じゃ、どうなんですか。

真実なるものの他に美しいものはなく

真実なるもののみ愛すべきなり。(225~227頁)

■セザンヌ これこそ画家だ……彼らはほんとうに異教徒だ。あのルネッサンスには、たぐいのない真実味の爆発がある。2度と見られない絵画や形態(フォルム)への愛情がある……イエズス会の人たちがやがて現われる。すべてがしゃちほこばっている。なんでも勉強し、なんでも教える。革命があってやっと自然が再発見されるし、ドラクロワがお好みのエトルタの海岸を描くし、コローがローマのあばら屋を、クールベが森の下草や海の波を描くのだ。しかもなんと苦しく、ゆっくりと、いかに段階を踏んできたか!格好をつける……(テオドール)ルソー、ドービニー、ミレー。風景画を、歴史画のように、構成(コンポゼ)するんだ。私が言いたいのは、外から、ということだ。風景の修辞法(レトリック)を作って、ひとつの文章や種々の効果、それをたらい回しする。デュプレから教わったんだとルソーが言っていた、絵画の仕掛け作り。コローだってそう。私はもっと地に足がついた絵画のほうが好きだ。自然というのは、表面よりは、奥行きのほうにあるのだということが、まだまだ発見されていない。だって、少し考えてみたまえ、表面を変更したり、飾ったり、みがきをかけることはできますよ、真理に手をつけずに、奥行きに手をつけることはできない。真実を語りたいという健全な本能に駆られるんだ。細部を発明したり、想像するくらいなら、自分の絵を投げたほうがよいというふうになる。とにかく知りたいんだよ。

ガスケ 知るとは?

セザンヌ そう、私は知りたいのだ。さらによく感じるために知る、さらによく知るために感じる。自分のやっている技巧(メチエ)では私は先頭に立っている(ル・プルミエ)が、単純でありたいのだ。知の境地に達している者は単純だ。中途半端にものを知っている人たち、素人たちは中途半端なものしか実現(レアリゼ)しない。まあ、本当を言えば、ぼろい絵を描く人たちだけが素人なのだ。マネがゴーガンにそう言った。私はそういう素人の仲間にされたくないね。だから、真の、古典主義者(クラシック)になりたい、感覚を経て、自然を経て再び古典主義に戻りたい。前は考えがこんがらかっていた。生命!生命!その言葉ばかり口にしていたものだ。馬鹿なおれは、ルーヴルを焼き払いたかった!自然を経てルーヴルに行き、ルーヴルを経て自然にもう一度戻らなければならないのだ……でもゾラはなかなかうまく『作品』のなかで、私のことをつかんだよ。君はおぼえていないかも知れないが、彼がこうわめいている場面で。「ああ、生命!生命!それを感じて、その現実において表わすこと、生命をそれとして愛し、そこにのみ真の、永遠の、移りゆく唯一の美を見てとる……」

彼の記憶はためらった、そして、一気に最後まで彼は言い通した。

セザンヌ 「……それを去勢することによって高尚たらせようという馬鹿な考えを抱かぬこと、醜いものとされているものは個性の突出でしかないことを理解し、ものに生命を与えて、そして人間を作りだすこと、これは神となる唯一の方法だ」(229~231頁)

■セザンヌ まあちょっと聞いて下さい……(スイスに近い)タワロールにいたときです。温厚な部落(パトラン)といえば、これに限ります。ねずみ色といえば、わんさとある!それに、緑色も。地球図のありとあらゆる緑青。周囲の丘はなかなか高い、と私にはそう見えたがね、ところが人には低く見えるのだ、しかも雨が降って降って!……くたびれた2つの山間の道にはさまった湖があるんだ、英国夫人たちの出てきそうな湖だ。画帖の紙が一葉一葉、木々からすっかり水彩されて落ちてくる。もちろん、これもまた自然なのだが……私の見るような自然ではない。わかりますか。ねずみ色と隣り合わせのねずみ色。ねずみ色を1つも描いたことのないうちは画家じゃないんだ。あらゆる画家の敵はねずみ色だ、とドラクロワは言っている。でも違うんだ、ねずみ色を1つも描いたことのないうちは、画家じゃないんだ。

(中略)

自然は万人に語りかける。ほら、ところが、風景というものはかって1度も描かれていない。不在の人間、それでいて、風景のなかに完全に没入した人間。あの大仕掛けの仏教、涅槃だの、情念も逸話もない慰安だの、色彩!ここだったらただ蓄積して、自分が開花するがままに任せればよい。この土地は孕んでくれている……たとえば、遠く、パリにいても、その香りを私はまだ感じる。(233~235頁)

■セザンヌ 私は今日ずいぶんおしゃべりだ。芸術談義というのはほとんど無用なものなのだがね。

ガスケ 芸術家同士を近づけたりするとはお思いになりませんか。

セザンヌ 絵はその場ですぐ見えるか、それとも絶対に見えないかだ。説明は何の用もなさない。解説したってどうなる?そんなのは全部、おおよそのことだ。今しているみたいにしゃべることはしなきゃいけない。葡萄酒を1杯ひっかけるみたいに面白いからね。そのほかには、あるひとつの芸術でひとつの進歩を実現させる仕事が馬鹿どもにわかってもらえないことに対して、十分な補いをしてくれることになる。ちょっとお聞きなさい、君のような文学者は、抽象的観念で表現する、一方で画家は、素描(デッサン)と色彩を使って、自分の感覚したり、知覚したものを具体化させる。彼の画布の上にあって、他人の目にもそれが知覚できるようでなかったなら、それについていくら云々したところで、それが人に吸収されるようになるわけではないんだ。私は文学的絵画は嫌いだ。人物の下に、何を思索しているか、何をしているかを書くことは、その人物の思索や仕草が素描と色彩によって十分示し表わされていないことの告白だ。そして、ギュスターヴ・ドレみたいに自然の表現に無理をさせ、木をねじ曲げたり、岩に顰面(しかめつら)させたり、またダ・ヴィンチみたいに凝りすぎるのも、やはり文学だ。色彩的な論理があるじゃありませんか。画家はそれだけに服従すればよいのです。頭脳の論理には絶対に服従してはいけません。自分をそれにゆだねたら、破滅する。いつも目の論理。正確に感じれば、正確に考えることになりますよ。絵画はまずひとつの光学です。われわれの芸術の素材(マチエール)は、われわれの目の考えているものの中にある。自然というものは、敬意をもって接すれば、自分が何をいみしているかを、適当な工夫をしていってくれるんです。

ガスケ あなたにとって、何か意味しているのですか。あなたが自然のなかに投入しているものとは違いますか。

セザンヌ そうかもしれぬ……しかも実際には、君が正しい。自然を私は模写しようと思ったけれども、それができなかった。あっちこっち探求しては、自然を四方八方から攻めてきたが駄目だった。どこからも、降伏させられない。でも私は、たとえば太陽は再現できないものであって、たのもの……色彩でもって、再現しなければならないということを発見したとき、満足だったよ。色彩以外の、いろんな理論、それはそれなりのひとつの論理学である素描、そう、算術と幾何学と色彩を折衷したひとつの論理学、ひとつの生きていない自然〔静物〕である素描もそうだが、いろいろの観念や感覚でさえも回り道なのだ。近道をしたつもりにときどきなるが、遠回りになっている。すべてを表し、すべてを置き直すには1つしか道はない。色彩だ。敢えて言わしてもらえば、色彩は生物的なのだ。色彩は生きていて、ただ1つ、色彩だけが物に生を与え得る。事実、私は人間でしょう?どうしたって、この木は1本の木、この岩は1つの岩、この犬は1匹の犬だと言う概念から離れられない……。(236~238頁)

■セザンヌ ある種の黄色を前にして、あの人たちは自発的に、そろそろ始めなければならない刈り入れの仕草を感じとるのだ。私が熟しつつある同じそのニュアンスを目の前にして、本能的に画布にそれに相当する色調(トン)――麦畑を波打たせるような色調――を置くすべを知っていなければならないのと同じなんだ。筆をつかいつかいするうちに、土地が新たに生きてくるだろうよ……クールベと芝の束のこと話を思い出してごらんなさい。彼は色を塗っていた、芝の束だとも知らずに。ここに再現したのは何かと彼は尋ねた。人が見に行った。そうしたら、芝の束だったんだよ。世界、広い世界もそれと同じさ。その本質において描くためには、色彩のなかにだけ、物体を見て、自分のものにして捉え、自分のなかで他の物体と結びつける画家のあの目がそなわっていなければならない。自然に対しては、いくら几帳面でも、いくら率直でも、いくら従順でも、過ぎているということはないのだ。しかしだね、自分のモデルや特に表現手段が自在であると言ったって、おおよそのことだ。自分のモチーフにそれらを適応させなければならない。モチーフを曲げるのではなく、自分のほうがその前に屈する。自分のなかで生まれるがまま、発芽するがままに放っておく。目の前にあるものを描き、できる限り論理的に、もちろん自然な論理で、つとめて表現する。そういうふうにするとどんな発見があなたをまちかまえているか、想像も及ばないほどだよ。まあ、いろいろとなすべき進歩に関していえば、しぜんしかない。そして目はそれに触れて教育されるんだ。見たり、働いたりしているうちに、同心同円になるよ。

ガスケ どうして同心同円?

セザンヌ 私が皮をむいているこのオレンジや、たとえば、りんごや玉や頭には、ひとつの頂点があって、その点は、光の、陰影の、色彩的諸感覚(サンサシオン・コロラント)のすさまじい効果にもかかわらず、われわれの目につねに最も接近している。私はそれを言いたい。物体の端は、あなたの地平線に位置しているもう1つの点のほうへ逃げていく。それがわかったときには……。

彼はほほ笑む。

セザンヌ まあ、絵描きじゃなきゃ、何もわからないのだ。私もずいぶん理論をでっち上げたものだ……ああ、神さま!……(239~241頁)

■セザンヌ 君の知らない画家で、私を訪ねて来た人にそう書いた。彼はずいぶん理論をでっち上げている。私は彼にこう言っている、こう書きつけたんだ、要約すると……。

彼は、ゆっくりと、おじけづいて教条主義的な声の調子で読み上げた。

セザンヌ 「自然は円筒、球体、円錐をつかって処理すること。全体にパースペクティヴがあたえられたならば、ある物体、ある面のおのおのの側面がひとつの中心点に向っていること。地平線に平行した線は広がりをつくる、すなわち自然のⅠ断面、もしくは、こういう言い方のほうがお好みなら、〈全能ナル父ニシテ永遠ナル神〉があなたの目前にくり広げる光景のⅠ断面。この地平線に直角の線は奥行きを作る。ところで、自然は、われわれ人間にとって、表面よりは奥行きに在るのだ、それゆえに、種々の赤色や黄色によって再現された(われわれの)光の振動の中に、空気を感じさせるために種々の空色を十分に取り入れる必要が生じる」

セザンヌ ええ……ものを書くより絵を描いていてよかったでしょう、どうかね?私はまだ(画家で文学者の)フロマンタンには1本取っていないな。

彼は紙を丸めて、捨てた。私はそれを拾う。彼は肩をすくめる。(242~243頁)

■セザンヌ 私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ。モーリス・ドニにもそう言ったよ。ルノワールはうまいやつだ。ピサロは農民だ。ルノワールは陶器の絵付職人をしていたのだよ……。彼の巨大な才能のなかになにか真珠の光沢のようなものが残ってしまっている。それにしてもたいした作品を作ったよ。私は彼の風景画を好まない。綿をかぶっているように彼は見ているんだ。シスレーか?そうだね。でもモネは1つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼に脱帽するよ。クールベのほうは、自分の眼にあらかじめ像ができていた。モネは若い頃、ほら、あっちのほう、英仏海峡で彼と付き合っている。でも、緑色の色斑(ターシュ)ひとつで、風景をわれわれに現すのに十分であるのと同じように、肉の色1つがある顔を表現してくれたり、人間の姿を現すのに足るのだ。そういうことからして、ぼくたちはもしかすると全員ピサロの流れをくんでいる。彼がアンティーユ諸島に生まれたのは運がよかった、あそこでは教師なしで素描(デッサン)を覚えた。いきさつを全部私に話してくれたんだ。1865年にすでに、黒や瀝青(ビチューム)やシェナ土やいろんなオークル色を排除した。偉業だ。彼は私にこう言っていた、3原色とそこから直接できた組合わせの色以外では絶対に絵を描くな。ええ、そうだよ、彼が1番初めの印象主義者だ。印象主義ってなんですか、視覚混合ですよ。画布の上では色調(トン)が分離していて、網膜のなかで再現される。ぼくたちはそこを通過しなければならなかった。モネの断崖は非凡な連作として世に残るだろうし、彼の絵の100枚かそのくらいは、そうだ。サロンで彼の《夏》を落選させたのだと思うと!審査員どもは皆、豚だ。今に見てなさい、彼はルーヴルに入りますよ、コンスタブルやターナーの横に並んで。いや、もっとだ、彼はもっと偉大なのだ。地球の虹色の輝きを描いた。水を描いた。覚えていますか、一緒に見たあのルーアンのカテドラルのいくつもの作品。あのとき君が、まるでジョフロワみたいに、これが、ルナンや最新の原子論の仮説や生物学的な流動や万物の運動などに相当する絵画である、なんて口ごもりながら言ってたのは、なんですか。君がそう思いたきゃね。でも、万物が逃げ去ってゆくなかで、これらのモネの絵のなかに今度は、骨組とか、頑健さを入れていかなければならないんです……ああ、あの人が絵を描いているのを君が見たらねえ。太陽が沈むとき、それをさまざまな透明さにいたるところまで追ってゆける唯一の眼、唯一の手です。それに、気に入った麦わらの山はぽんと買う羽振りのよさがあります。ちょうどいい畑の一角があれば、彼は買うのです。しかも邪魔されないように背の高い下男と犬に番をさせて。私にもそれが要るよ。そして弟子もだ。印象主義のひとつの伝統をつくる、その特徴というものを引き出すこと。流派?いや違う、ひとつの伝統だ。実物を写生してのプッサンだ。(243~245頁)

■セザンヌ この間の晩、エックスに帰る途中で、私たちはカントの話をしましたね。私は君の観点に立ってみようとした。感性のある木々?木とわれわれとの間に共通の何があるのだろうか。私に見えるような松と、実際に存しているところの松との間には、何があるか。ちょっと、これを私が描いたらどうだろう……そうすれば、われわれの目について、絵(タブロー)を与えてくれる自然のあの一部分を実現(レアリゼ)させたことになるんではなかろうか?感性をそなえた木々!……そしてその絵のなかには、範疇のあらゆる表や、君が口にする本体(ヌーメン)だの、現象だのよりはずっと万人に入ってゆきやすいひとつの外観の哲学が、存在するのではないだろうかね。それを見て、自分に対して、人間に対して、万物の相対性を感じることになるだろう。私は、こう自分に言い聞かせた。空間と時間が、色彩の感性の形相となるように描いてみたい。なぜかといえば、私はときどき、いろいろの色彩を、大きな本体的本質として、生きた観念として、純粋理性の存在者たちとして、想像することがあるのだよ。ぼくたちが通信できる相手のように。自然は表面にはない。奥行きにある。いろいろの色彩は、表面にあっての、この奥行きの表現である。世界の根から立ちのぼってくる。色彩は世界の生命だ、諸観念の生命だ。素描(デッサン)のほうは抽象なるものにつきる。だから、決して色と分離してはいけない。言葉ぬきに、純粋な数字、純粋記号(シンボル)でものを考えようとするみたいだ。素描はひとつの代数、ひとつの記述だ。生命がやってきてそれに、みなぎった瞬間、感覚を意味した瞬間、色がつくのだ。色の円熟はつねに素描の円熟に相応している。ほんとうを言えば、自然のなかにひとつだって素描されたものがあるんだったら、見せてもらいたいね。どこにだ、どこにだ。人間が真っすぐに、図に描いたように建てるもの、壁や家なんかは、時や自然がめちゃくちゃにするじゃありませんか。自然は直線を憎悪する。技師どもはくそくらえだ!われわれは、道路検査官ではないんだ。あの連中は色彩なんぞ気にしてはいないよ。それなのに私は……そう、そう、感覚がすべての基盤にある。(247~249頁)

■彼は読みあげる。

セザンヌ 「光を与える色彩的な諸感覚(サンサシオン・コロラント)は、いくつもの抽象の原因であるが、接触点が細かく、繊細なとき、それらの抽象では画布をうめることもできないし、オブジェの境界を定めつくすこともできない。そういうことのために、私の像(イマージュ)あるいは絵が不完全ということになる。また一方で、面(プラン)が互いに重なり合う、そのために輪郭を黒い線で囲う新印象主義的な嵌め込み細工となるが、これは全力をあげて一掃しなければならない欠点である。ところで、自然が相談相手となって、その目標に達するいろいろな手段を与えてくれている」

ガスケ で、それは?

セザンヌ 色彩のなかの面(プラン)だ、面だよ!諸面の魂が融合する色鮮やかな場。プリズムの熱に到達する。太陽において諸面が出会う。私はパレットの上の色調(トン)をつかって面を作っている、おわかりですか……面を見なきゃいけません……はっきりと……しかしそれらを配置して、混ぜるのです。回転するものであると同時に、中間にふさがるものでなければならない。容積(ヴォリューム)だけが大事なのだ。よい絵を描くためには、物と物の間に空気が要る。よい思考をするためには、観念と観念の間に感覚が要るのと同じだ。瀝青(ビチューム)は味気ない。論理は先行きが知れている。もう面というものなどのない地下室で絵が描かれている。もはや直感がなんのはたらきもしないような3段論法なんかで身を縛っているんだ。それでは下絵(カルトン)だよ。ふくれあがってくる必要がある。目が少しでもひるんだら、おしまいだ。私の場合、大変なのは、目が幹や土塊にくっついてしまうことだよ。そこから目を引き離すのに苦しむんだよ、あまりにも何かに引きとめられるから。(250~251頁)

■セザンヌ 写す……写す、そうだ……それしかないのだ。でも資質のある人々は、どうなんだ!絵画は自分の内輪のものはちゃんと見分けますよ。私はね、私は自然のなかに没入したい、自然と一緒、自然のように再び生えてきたい、岩の頑固な色調、山の合理的な強情、空気の流動性、太陽の熱が自分にほしいのだ。ひとつの緑の色のなかに、私の頭脳全体が、木の樹液の流れと一体になって流れ出すであろう。われわれの前には、光と愛の大きな存在が立ちはだかっている、よろよろする宇宙があり、物たちにはためらいがある。私はそれらの物たちのオリュンポス山になってやるのだ。物たちの神になってやるんだ。天におわします理想が私の内で結婚なさいます。ちょっと聞いて下さい。色彩は、観念と神の煌々たる肉体です。玄義の透明、法則の虹色の輝き。色彩の真珠のような光沢ある笑みが、気を失った世界の死顔に生気を再び与えている。昨日はどこにある?私の見た平野や山はどこだ?この絵の中に、この色彩のなかにあるのだ。君のやっている詩のなかよりは、ぼくたちの絵のなかのほうに、世界の認識が永久に存続する。それは、より多くの物質化した感覚がそこには参加しているからだ。絵は「人間」の歩んだ段階の道しるべとなっている。洞窟の壁面の馴鹿(となかい)に始まって、豚肉でもうけている業者たちの家の壁にかけられるモネの断崖にいたるまで、人間のたどった道がずっと追ってゆけるよ……エジプトの地下室にいっぱいいる狩人や漁師、ポンペイの数々の甘い誘いかけ、ピサやシエナのフレスコ画、ヴェロネーゼやルーベンスの神話を題材にした絵、そういうものからひとつの証言が浮かび上がってきます。ひとつの精神が汲みとれます。それも、どこにおいても同一の精神であり、客観化された記憶なのです。彼の見ているもののなかに具体化された人間の、絵にされた記憶です。われわれは皆同じ一人の人間です。色のついたこの鎖に1個の輪を私が足してゆくことになります。私の空色の輪。真の自然がもたらしてくれるものとか、知性のなかにもう1度入り込んでゆく風景、風景の実証主義です、文明人のわれわれが、(フランク人の)サリ族の群が昔渡っていったこの風景、そういうひとつの風景を目の前にして、ダーウィンやショーペンハウアーについて雑談しながら感じること。最終の段階に来て疲れ果てたわれわれの五感には、自然の涅槃というインドから来たなぐさめがあります。雲の劇的な様子の下で、生えてくる小麦の平和……近づきがたい、目に見えぬ神なる太陽!……たくさんの体系(シシテム)、ひとつの体系……そうだ、ひとつ必要なんだ。ところがその体系が決まったら、今度は写生だ。すでにできたシステムがあれば、それを忘れて、写すのだ。巨匠たちはそこなんですよ。画家たちはそこなんだ。ヴェネツィア派の人たち。ヴェネツィアで君は見ましたか、あの巨大なティントレット、あそこには陸と海と、水陸の地球がわれわれの頭上にぶら下がっていて、移動する地平線があり、奥行きと海の遠景があり、飛翔する肉体があり、巨大な丸みが、地球儀が、ほうり出された惑星が、落下して天空をころげゆく。彼の時代にですよ!今のわれわれは彼を予言していたんだ。われわれを苛む宇宙の執念が彼にすでにあった。ところがね、私はこう確信しているんだよ、彼は絵を描きながら、まかされた天井のことや、容積(ヴォリューム)の平衡をとることや、色価を重ねてゆくこと――上手に描くこと――のほかにはきっと一切何も考えなかった。ところがね、上手に描くということは、自分自身にかかわらず、自分の時代を、その最も先端を走るものにおいて表現することであって、世界の、人間の階位の、1番上に立つことだ。言葉に、色に、意味がある。絵描きが、絵の文法を知った上で、そのセンテンスをこわさずに過剰なほど練って、目に映るものを敷き写すと、欲しようが欲しまいが、彼がその画布の上で翻訳するものは、彼の時代の最も情報をつかんでいた頭脳が構想したものや、構想しつつあるものなのだ。ジォットはダンテに対応し、ティントレットはシェークスピアに、プッサンはデカルトに、ドラクロワは、誰にだろうか。馬鹿げているのは、既製の神話体系や物体(オブジェ)についての出来あがった考えをもっていること、現実のかわりにそれを模写することなのだ。この大地よりもあれら想像の産物を。にせ絵描きは、この木やあなたの顔やこの犬が見えないのだ、一般的な木、顔、犬しか見えない。彼らには何も見えていない。同じであるものは絶対にない。連中は、固定した、霧のかかったような一種のタイプが彼らの目――ところで目があるんだろうかね――とモデルにしているものとの間にいつも浮いていて、それをたらい回ししている。そうだ、大きな法則や原理が必要だ、それに気がつくと、知的な大きな動揺や感情の状態におちいるけれども、その後は純情に自然を写生する必要がある。私は頭脳の人間ですよ。思う存分そう受けとっていいですよ。しかし私は動物のような人間でもあります。私は哲学論をぶったり、雑談したり、君と話をしたりする。絵具を前にして、筆を握ると、私は絵描き、びりっけつの絵描き、一人の幼児でしかなくなるんだ。精魂かたむけて汗水たらす。もうなんにも知らないんだ。私は絵を描いている。規則に従っているからといって、自分を正直者と思い込んでいる人たちに少し似かよっている。正直な人間は自分の規則が血のなかを流れている。天才は、自分の規則に従って生きてゆくなかに作られるのだ。そうだ、天才は他人について知らない事は何ひとつないのではありながら、自分自身の方法を編み出してゆくものだ。

ガスケ 方法ですか?

セザンヌ そう、いつも同じものだ。真実。天才は方法を発見するんだけれども、つきつめれば、それはいつも同じものなのだ。私の方法は、言ってみれば、ほかに持ったためしはありませんけれども、想像力を嫌うことですよ。私は馬鹿に徹したい。私の方法、私の規準、それは写実主義(レアリスム)だ。だけど、その辺はよく理解して下さい。そうとは知らずに高貴なものに満ちたひとつのレアリスムです。現実の英雄主義。クールベ、フローベール。それよりはさらに優れて。私はロマン主義の徒ではない。世界の無限の広がり、世界の急流がほんの一寸足らずの物質のなかに。それが不可能だとお考えですか。血の色づいた永遠。ルーベンス。(252~257頁)

■セザンヌ 絵描きにとって、文学に走ってしまうことが何よりも危険なんですよ。その罠にかかると、お陀仏だ。私はそのことは身をもって知っています。ブルードンがクールベに及ぼした害、それと同じ害をゾラが私に及ぼすことだってあり得たんです。ボードレールだけですよ、まともにドラクロワやコンスタンタン・ギースのことを語ったのは。フローベールが手紙のなかで、自分が技術(テクニック)に通じていないような芸術の事は語るまいときつく自分に禁じているのですが、私はそれがたいへん気に入っている。彼らしいところが出ているよ……私は絵描きに無知であってほしいわけでは決してないんだ。逆だ。偉大な時代には、画家たちはすべてに通じていた。古い時代は、芸術家たちが群衆にものを教える先生だった。ほら、あそこにノートル・ダム寺院が見えていますね。天地創造や世界の歴史、宗教の教義、聖者の美徳と生涯、諸工芸、その頃に知られていたことはすべてノートル・ダム寺院の門やステンドグラスに教示されている。フランスじゅうのカテドラルでもそうだがね。中世は目を通して信仰を学んでいたんだ、ヴィヨンの母親みたいに……。

(中略)私は自分を古典主義者だと称している。そうでありたい。ところがそれが退屈だ。ヴェルサイユ宮殿は退屈だ、あそこの正方形の中庭も退屈だ。コンコルド広場だけだ、あれは美しい。生命!……生命!……それでいた、こういうことが全部いかに複雑かごらんなさい。生命やレアリスムは、プリミティフの延長のえのなかよりは、15世紀、16世紀にあるのだ。私はプリミティフが嫌いだ、ジォットのことはよく知らない。一度この目で見なくてはと思っている。私はルーベンス、プッサンとヴェネツィア派の人たちだけが好きだ……よく聞いて下さいね。十字架を使って神を意味させるほうが、ひとつの顔の表情で意味させるより楽なんです。(263~265頁)

■セザンヌ ちょっと、あれをごらんなさい……《サレトラケーの勝利の女神》。これはひとつの観念、総動員された国民、ひとつの国民の生活のなかの英雄的な瞬間だけれども、布はぴったり身体に付き、翼ははばたいていて、乳房はふくらもうとしている。頭部を見なくったって、私には視線が想像できるよ、なぜかといえば、脚や腰や身体全体をむち打って、駆けめぐって、歌っている血潮は全部、急流のように脳を通りぬけて、ギリシア全土の動きなのだ。頭部がはずれたとき、大理石からきっと血が出たに違いないよ……それに引きかえ、上の階では、死刑執行人の刃で、あの小さな殉教者たちの首を断ち落としてごらんなさい。鮮紅色(ヴァーミリオン)がちょっぴり垂れてくる、そんなのが血ですか……あの人たちは、もう血の気もぬけて神のなかにはばたいて行ってしまったのだ。魂は描けるものではありませんよ。それに見てごらんなさい、《勝利の女神》の翼は目にもとまらない、私の目にはもうとまらないんだ。あまりにも自然に見えるんで、気にならないんだ。肉体は、それがなくても戦勝に喜び勇んで飛び立ってゆける。自分の勢いをちゃんと持っている……ところが、キリストや聖母様や聖者たちのまわりにある後光なんかは、あれしか目につかない。あれが大きく構えている。あれが私には邪魔だ。どうしようもないでしょ。魂は描けるものじゃありません。肉体は描けます、そして肉体がうまく描けていると、畜生!魂がその肉体にそなわっていた場合には、魂が四方から輝いて、透けて見える。(267~268頁)

■セザンヌ アングルだって、まったくだ、血のかけがない。彼は素描(デッサン)をしている。プリミティフたちは素描をしていた。色を塗って、ミサ典書の塗り絵を大規模にやっていたんだ。絵画、いわゆる絵画というものは、ヴェネツィア派とともに初めて生まれる。テーヌは、フィレンツェでは絵描きは初めの頃、金の細工師だったと語っています。彼らは素描をした。アングルもそうだ……ああ、それは美しいですよ、アングル、ラファエロ、その他もろもろ。私だって人並みに感じることができます。その気になれば、私は線の快楽を味わいますよ。でもそこにはひとつの障害がある。ホルバインやクルーエあるいはアングルには、線しかない。でね、それじゃ足りません。たいへん美しいけど、それでは足りない。この《泉》を見てごらん……純粋だし、あまいし、柔らかい、だけどプラトニックなのだ。1枚の図像であって、空中のなかで回転していない。しめった、あるいはしめっているべきこの肉付きの大理石と、ボール紙でできたような岩との間に、岩石中の湿気のやりとりがまったく無なのだ。周囲の浸透がどこにあるんだ?しかもあの女は泉なんだから、水から、岩から、葉のなかから出てこなくちゃならない、なのに、それにくっついてしまっている。理想の処女を描こうとするあまり、彼は、肉体をまったく描かずにすませた。彼にそれが不可能だったわけでは決してないんだがね。彼の描いた肖像画や、私の好きな《黄金時代》を思い出したまえ。あれは自分のシステムに徹底した精神のせいだ。システムも精神も間違っている。ダヴィッドは絵画を殺した。彼らは「紋切型(ポンシフ)」を取り入れた。理想の足、理想の手、完全な顔や腹部、至高の存在者を彼らは描こうとしたんだ。特色(カラクテール)を廃止したんだ。偉大な画家をなすのはね、彼の手に触れたすべてのものに与えられる特色なのだ、突出というか、動きというか、情熱というか、情熱的な心の静けさというものもありますからね。彼らはそれがこわい、むしろそれについて考えたみたことがないんだ。彼らの時代のあの情熱や嵐や社会的な暴力に対する反動かも知れない。(269~271ページ)

■セザンヌ 奇跡が起きている、水は葡萄酒に変えられて、世界は絵画に変えられた。絵画の真実のなかを泳いでいるわけだ。よっぱらっているのだ。幸せなのだ。私の場合、色彩の風に吹き飛ばされるみたいで、顔にもろに受ける音楽みたいで、血のなかを流れている私の技巧(メチエ)そのものだ……ああ、あいつらは、恐るべき技巧を持っていたよ。われわれはそれに引きかえ何物でもないんだ、古ぼけた虫けらだよ、よく聞いておきなさい、何物でもないのだ。理解するということすらわれわれにはできなくなっている……昔は、私はこういうものに火をつけたいと思ったんだからね。発明したい、個性を発揮したいという執念からだ……ものを知らないと、知っている人たちが邪魔しているように思ってしまうんだ……ところがその逆で、付き合ってみれば、場所をふさぐどころかそういう人たちは手を取ってくれて、親切に隣りに座らせてくれて、つまらぬ話をもどかしくしゃべらせてくれたんだよ。(278~279頁)

■セザンヌ 私が残念に思っているのは、君の話によく出てくる、君の信じているあの若い人たち皆がだね、イタリアを駆けめぐったり、ここ〔ルーヴル〕で一日じゅう過すというようなことをしないことだ。後から、自然のど真ん中に飛び込んでゆくにしてもだ。すべては、ことに芸術ではそうだけど、自然に触れて発展し、応用された理論なのだ。私の身にふりかかったようなことがこの若い人たちにあって欲しくないね。わかっています、わかっていますよ、公のサロンがいつまでもあんなに劣っているのは、理由がはっきりしている。彼らはあくまでも多かれ少なかれ、いろんな方式を活用しているにすぎないんだ。画家にとっては、感覚がすべての基礎にある。これは飽きずに言い続けるつもりだ。いろいろの方式をほめたてるのではないんだ。個人的な感情や、観察や、個性をもっとたくさん用いたほうがよいだろう。ところが、ここがむずかしいところなのだ!理論は常に簡単だ。考えていることを証明する段になって、手ごわい障害物がでてくる。ここでは、結局、画家がものを考えることを覚えるのだと、私は思っている。自然に面して、画家はものを見ることを覚える。自分以前に代々の画家が続いてきたのに、突然きのこみたいに芽生えてきたと思い込んでしまうのは、こっけいだよ。これらのすべての仕事をなぜ利用しないのか、このすさまじい貢献をなぜおろそかにするのか。そうだ、ルーヴルはわれわれが読み方を習う本なのだよ。われわれは、だからといって、偉大な先達のきれいな定式(フォルミュール)だけを暗記して喜んでいてはならない。ドラクロワの言葉だがね、われわれは、すべての語が見つかる辞書を見てきたのだ。さあ外に出よう。美しい自然を学習しよう、その精神を明るみに出すように努力してみよう、自分個人の資質(タンペラマン)に合った表現をするように心がけよう。しかも時間と熟考はだんだんものの見方を変化させるんだ。そしてしまいにには、われわれに理解できてくる。神様のおぼしめしがあれば、われわれや、君の友人たちにも、これのような大仕掛けのものをでっち上げる器量が出てくるかもしれない……それにこっちの虹に対して、あっちのほうの銀色の調和を対立させることができるようになるかもしれない。(282~283頁)

■セザンヌ 絵が好きな人なら、こういう絵が好きのはずだ。絵の横に文学を求めたり、逸話や主題に興味津々となったりするようでは、これらの絵は好きになれない……一枚の絵(タブロー)は何をも再現していないのだ、まず色彩だけを再現しなければならないのだ……私は大嫌いさ、もろもろの物語だの、心理学だのそれのまつわるベラダン調のうるさったらしい事柄は。まったく、それはちゃんと絵におさまっているのだ、絵描きたちは阿呆じゃないんだ、しかしだね、それを目で、そうだ、目でだ、見るべきなのだ。絵描きはそれ以外のことを求めたわけではない。絵描きの心理学といえば、それは二つの色調の出会いなんだ。絵描きの感動はそこにある。それなのだ、絵描きの物語、絵描きの真実、絵描きの深さは。だって、そうだろう、絵描きなんだもの!(285頁)

■セザンヌ 地上の幸せの理想……それは美しい定式(フォルミュール)を持つことだ。(298頁)

■セザンヌ そう、私が言いたいのは、芸術家でごく限られた個人(アンディヴィデュ)の数だけを対象にしているということだ。しかも、芸術家は生前、結局、つねに人を多く知りすぎている。自分の隅っこで、自分のモチーフ、自分の思案、自分のモデルと一緒に暮らしてゆくのでなければならない。特徴を出すこと……そして、これをよく聞いておいて下さい、芸術家は、いろいろな特徴のかしこい観察の上に成り立つのではない意見は、軽視しなければならない。文学者くずれの精神を恐れなくてはならないんだ……アンリ、君の倅(せがれ)は私のことをわかっていてくれる……そういう精神は、あまりにもしょっちゅう、絵描きを自然の具体的な勉強という本道からはずし、雲をつかむような空論の中にあまりにも長い間、迷わせておくんだ。これは何百回と口にしてきたことだ……ああ、批評家たち!あのユイスマンのような連中たち……私はつきまとってくる連中たち皆に、いつも手紙で書いてやりたいんだ。君たちの持ち合せていないもので、35年前からそれに向って、私が努力しているものがある、それはメチエの根本をなす次の三つのものだ、良心、真心、従順さ。思考を前にしての良心、自分自身に向っての真心、対象を前にしての従順さ……対象を前にしての完全なる従順さ、これはサント=ブーヴがゴーティエについて書いた『月曜評論』のうちの一篇の中でうまく見つけた表現だよ……アンリ、この15分ばかりは、君が対象だ……モデルと表現方法とをおさえていれば、目の前にあるものを描いて、筋道通りに努力しさえすればいいのだ。誰のことをも信じずに仕事をする、力をつけてゆく。あとのことはくだらん……。(333~335頁)

■セザンヌ 感情を原理としていない芸術は芸術でない……でも感情、それはねえ、原理であり、始めと終わりなのです。真ん中には技巧(メチエ)、客観的なもの、実地とがあるんだ……アンリ、君とぼくの間に、君の個性とぼくの個性との間には、世界がある、太陽があるのだ……そこを通りすぎてゆくもの……ぼくたちが共通に見ているもの……ぼくたちの着物、ぼくたちの肉付き、光の反射……そういうものの中に材料を求めて猛勉強しなければならない……その部分のなかで、ちょっとでも筆が横にそれると、万事が曲がってしまう。ぼくが、内面だけで感動していると、目を変なふうに描いてしまう……君の視線のまわりに、その中で交わっている小さなブルーや茶色の無限な網目をちゃんと織り込んでゆけば、ぼくの画布の上でも君の視線のとおりの視線をぼくは作れるのだ……タッチを一つまた一つまた一つ……そしてぼくに熱が入っていなくて、学校でやるみたいに、素描をしたり塗ったりしたら、何も見えなくなる。(338頁)

■ガスケ父 昨日3枚目の札(トランプ)を取るときまで手に置いといた切り札のことを考えていたんだ……。

セザンヌ ほらごらんなさい……レブラントやルーベンスやティツィアーノは崇高な妥協をして、一気に自分たちの全人格と、目の前にあるこの肉体とを、融合するすべを知っていた。肉に自分たちの情熱を吹き込み、ほかの人々の顔に似せながら自らの夢や悲しみに栄光を与えた……全くそうなんだ……私にはそれができない……。

ガスケ それは、あなたが他の人に愛情を傾けすぎるからです……。

セザンヌ それは真実に従いたいからだ……フローベールみたいに……すべてのものの真実をつかみとる……自分をそれに従わせる……。

ガスケ それは不可能かもしれません。

セザンヌ ひじょうにむつかしい、君のお父さんに一部私がすり替われば、私の目指す全体像ができる……それに影や光の部分を参考に使う……私は現実にそうやって近づくだろう、現実がそっくりそのまま欲しいのだ……そうでないと、私も私の流儀で、美術学校に対して非難していることをやってしまう破目になる頭の中に既製の典型があり、真実をそれから敷き写すことになる……そうではなく、私は自分自身を真実から敷き写していきたい。私ってなんだろうか……その魂の内まで真実に達する、あるがままの真実を表現する。それで大失敗に終わったってしょうがないじゃないか。ためすだけはためしたことになる。一つの道を開いたことになる。もっと頑丈な、もっと微妙な人たちがやってくるだろう……モネが風景についてしたことを人体像できっとするだろう……その人たちは写真的に描くだろう……でも私の話によくついてきて下さいね、その人たちは魂や性格やひとりの人間というものを写真にとるように描くだろう……そしてまた他の人たちがそういう印象の中から大芸術を、色彩のある心理学を、人間のひとつの哲学を引き出すに違いない……。(340~341頁)

■彼は本棚に一冊の本を取りにゆく、読みふるしたバルザックだ、彼は『あら皮』をぱらぱらめくる。

セザンヌ そうだ、君たちには、比喩や比較が使える、もっともだね、しじゅう、「……のように」をふやして使うと、ぼくたちの場合、素描が見えすぎているのと同じだ。人のことをあまりしつこく扱っては駄目だ……でもぼくたちには、ぼくたちの色調、目に見えるものしかない……ほら……バルザックが、支度された食卓を語るとき、彼なりに静物画を作っている。でもヴェロネーゼ調だ……1枚のテーブル掛け……。

彼は読みあげる。

セザンヌ 「……降ったばかりの雪の層のように白く、その上には、小さな黄金色のパンを王冠の形に乗せた食器が、対称的に高く積み上げられていた」若い頃はずっと、私は、一面に拡がる新雪、これが描きたかったんだ。今では、「小さな黄金色のパン」と「食器が高く積み上げられていた」それしか描こうとしてはならないことがわかった。「王冠の形に乗せた」というのを私が描くと、それは駄目なんだ……おわかりですか。しかも私が、実物どおりに食器やパンに均衡やニュアンスを与えれば、王冠や雪やすべての震えがちゃんとそこに表れるものなんですよ……画家には2つのものがある、目と頭脳です。その2つは互いに助け合うべきです。その相互発展をめざして積極的に働くべきです、でもそれは画家としてだ。目は、自然を見ることによって。頭脳は、表現のいろいろの方法を提供してくれる、組織化された感覚の論理によって。(352~353頁)

2010年2月11日

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『黒澤明』文藝別冊追悼特集 河出書房新社

■《黒澤監督がいる 黒澤組にて 大寶智子》

「芝居なんて、そんなに急に、上手くなるもんじゃないんだ。薄い紙を重ねていくと、分厚くなるだろう。1枚1枚は薄くても、毎日、重ねていく。気がつくと、それだけ、分厚くなっている。芝居もそれと同じでね」(18頁)

■《ワンショットの力 宮崎駿》

力のある映画の、連続するショット群の中には、その作品の顔といえるショットがいくつか含まれている。その映像は必ずしも山場にあるとは限らない。終章であったり、継なぎのシークエンスにさりげなくあったりする。そのショットが観る者の脳裡に焼き付いて、記憶の中で作品全体の象徴に育っていく。『生きる』では、そのショットが導入部の役所のシークエンスにあった。

書類の山の前で、主人公の市民課の課長が書類をくり、判を押している。処理済の書類に重ねる。次の書類を取り上げ、チラッと目を走らせるが、読むほどの必要がない事は先刻判っている。また判をとりあげ押す。その男の背後に積み上げられた厖大な書類の山。陰影の濃い画面、哀しい仕事を正確に律儀にくり返す男の所作。胸を衝く美しい緊張感と存在感溢れる映像である。これは正座して観なければならない映画だと、その瞬間に思った。ひとりの映画監督が生涯に何本とつくれないフィルムに、いま出会っているのだと実感したのだった。

(中略)

以前から、僕はストーリーや、テーマ、メッセージで映像を論ずるのは、バカ気ていると思って来た。お役所仕事や、無意味な人生への揶揄だけで、あのショットが撮られていたら、とてもあれ程の映像はつくれない。古い築地塀や、時を経た壁面のような美しさが、あの書類の山にあるはずがないではないか。極論すれば、あのショットとあらすじを聴くだけで、僕は『生きる』が名作にちがいないと論じてはばからない。(22~23頁)

■《姿三四郎 黒澤明》

「強い、全く強くなった……お前の実力は今や私の上かもしれぬ、しかし、姿、お前の柔道と私の柔道とは天地の距たりがある……気がつくか……姿、お前は人を見れば、すぐどうして倒そうかとしか考えぬのだろう」(31頁)

■《対談 黒澤明 萩原健一》

萩原 「蜘蛛巣城」の、三船さんが矢で射られるシーン。あれは、ほんとうに弓をピュ、ピュッと射たんですか?

黒澤 見えないナイロンの糸を、身体に止めておいて、節を抜いた矢にそれを通してあるわけ。糸がたるんでいたら、あぶないんだよね。ピンとしていないと、矢がどこに飛んでいっちゃうか、わからない。三船が向こうで動き回っているわけだから、たえず釣りのリールでいっぱいに、糸をピーンと張っておく。アメリカ式のリールだと、向こうの俳優が動くとピューッと糸が出るから、たえずギリギリと巻いていりゃいいんだよ。

萩原 じゃ、身体に当たる以外の矢は、本物ですか?

黒澤 本物。

萩原 やばいなあ。

黒澤 だいじょうぶだよ。人物の前や後ろに、相当距離をおいて射る。それを望遠レンズで撮っているから、ぐっと距離感が圧縮される。ここと、ここと、と決めて目印をつけて、それをちゃんとした弓の師範の人が、ねらって射るんだから。三船の首に矢のささるシーンは、そうやって撮ったうちの、首の近くを矢が通るジョットに、作り物の首を貫通した矢を三船がつけたショットを、つないだわけさ。三船ちゃんも、さすがにこわかったらしいけどね。そういうことがまた、黒澤は人間を本当の矢でブスブス射っている、なんて伝説になるんだね。「野良犬」で犬を使ったシーンを撮ったときのことなんて、今でも腹が立つな。アメリカの動物愛護協会の婆さんだよ「狂犬を撮るために、犬に狂犬病の血清を注射した。動物愛護の面から許せない」なんて抗議してきた。ふざけちゃいけない、あれはね、野犬狩りでつかまった犬を借りてきて、狂犬病みたいに犬にメイクアップして撮ったんだよ。夏の真っ最中で、自転車で新東宝のグラウンドをグルグル回らせて、ハアハアさせて、肉をつるして、こっちを向かせてね。それをアメリカの動物愛護協会の婆さんが、しつっこくせめて、最後には「証言しろ」ってサインさせられたよ。「日本人は大体残酷だから」って。戦争直後だから、しようがなかったけどね。(56頁)

■《明治のイノセンス・昭和のダイナミズム 原田眞人》

リアリティに関して、40代のクロサワはこう言っている。

「今、そのへんにいるやつを書けばリアリティというのか、といったらそうじゃない。書くことによって、そういうやつが世の中にどんどん出てきちゃうのがリアリティなんだ。セリフひとつでも、映画で使われたら世の中に出ちゃう。それでなければリアリティは生まれない」。これは、言語の壁を越えて、広く、監督術の基本となりうる。(100頁)

■《対談 黒澤明 ビートたけし》

黒澤 今度の映画(岡野注;『まあだだよ』)でカメラマンたちにいったのは、構えて撮ってるような絵は欲しくないと。そこで実際に起きていることを自然に撮ってくれと。だから先生の家に生徒が訪ねてくるところなんてゴチャゴチャしているけれども、あのシーンは随分やかましくいったんです。

例えば、襖を外している人なんかがちゃんと入ってるんじゃなくて、そういうのは画面の隅でチラッと見えればいいんでね。そんな風にごくなんでもなく撮れるかってところがとっても難しかったですね。(114頁)

■《映画の秘密 黒澤明 侯孝賢》

黒澤 ぼくは映画評論家じゃないからうまく言えないけれど、全部がとっても素敵です。とくに『戯夢人生』はとても気に入って4回観ました。本当に感動しましたよ。ぼくもああいう撮り方をやってみたいと思ってるんだけど、とてもああいう具合にいかなくてね。

―― 具体的にはどんな撮り方が気に入りましたか?

黒澤 映画会社で育ったりすると、例えば話をしている人が重なっちゃって見えなかったり、画面の外の人に向って話しかけたり、そういうのは常識ではありえないのでね。

(画面から外れて)向こうで何かをして戻ってくるというところも、だいたい飛ばすわけです。映画会社の作品というのは、そこからなかなか抜けられないんだよね。溝口(健二)さんなんか、もつれっぱなしで撮っているけど、候さんのとは全く違う。

候 台湾にはプロの俳優さんがほとんどいないんですよ。だからいいのかな。

黒澤 あの映画(『戯夢人生』)を観て、ぼくのスタッフが「台湾っていいな、こんな風景があって」って言ってたけど、あれは台湾じゃないんですってね。

候 そうなんです。台湾でもあんな風景の場所は今ではもうありません。あれは福建省で撮影したものなんです。すべてロケセットでした。

黒澤 ぼくもロケセットは好きなんですよ。セットはあまり好きじゃない。これについては小津(安二郎)さんとも話したの。小津さんはロケーションもセットみたいにしか撮れないというんですよ。山でも何でも静物画を撮るというのかな。でもぼくは「黒澤君はセットもロケーションみたいに撮っているね」と言われたぐらい。そういう点では、ぼくは他の人とはちょっと違うんだけど。それにぼくは表が出てくるシーンでは、表でセットを建てちゃいますしね。太陽の光線というのは、ライトではどうしても出ないんですよね。そういう点で、わりと候さんに近いんですよ。(164~165頁)

■《黒澤明 あるいは旗への偏愛 蓮實重彦 野上照代 伊丹十三》

蓮實 アノネ、僕は映画の中に旗が出てくるの、割合好きなんですね。好きというか、一番子供っぽいところでわくわくした気持になるんですね。ところがまた、最近の人たちが非常に旗を撮るのが下手なんですね、アノオ「幸福の黄色いハンカチ」というヤマダ・ヨージの作品の最後に、ここはどうしても黄色い旗がはためかないとまずいんですけどね、これがまるで駄目なの。旗のとらえ方といい、旗までの距離といい、映画的空間ゼロなんですね

野上 そうだったですね……もっとも、あの映画に関しては旗以外の不満もなくはないけど(笑)(207頁)

■《必ず仕掛けのポイントがありました 斎藤孝雄(カメラマン)》

斎藤 例えば、撮影日が曇天だった際、伴淳三郎さんの家の影を地面に墨汁で描いたりしていました。面白い感じだったですねえ。また、赤い家、黄色い家などと……。

斎藤 黒澤さんの作品には必ず一つの宿題があって、その連続でした。先ほどお話しした椿とか煙突とか、仕掛けのポイントというのが必ずありました。

―― それは、台本が上がった段階で斎藤さんに対して直接相談があったわけですね。

斎藤 そうです。

―― 『八月の狂詩曲』(91)の中では、そのような宿題とは何だったのでしょうか?

斎藤 ロケセットのお婆ちゃんの家で、縁側に座って真正面を見た時に山が重なり合うようなところを探してくれ、ということでした。北海道から九州まで駆けずり回りました。結局、秩父にそれに近いロケーションが見つかりました。『影武者』や『乱』の場合も、あれだけの馬が全力疾走できるということで……。

―― 『まあだだよ』(93)のかくれんぼのシーンの場所などは、ここはいったいどこなんだろうと思いましたが。

斎藤 あれは御殿場です。

2010年3月6日

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『オディロン・ルドン』本江邦夫著 みすず書房

■ルドンのことば(ある若い画家にむけて)《自然とともに閉じこもりなさい》(Enfermez-vous avec la nature.) あらゆるものをその素材にしたがって描くこと。ごつごつした樹木、すべすべした肌を。(14頁)

■とはいえ、ルドンとブレスダンとの出会いの本質、それがルドンになにをもたらしたかということでいえば、先にふれた晩年の「打ち明け話」のつぎの一節いじょうにみごとな描写はないであろう。

わたくしがボルドーで彼に会ったとき、彼はひどい困窮のなかにいたのですが、そんなことは気にもとめず猛然と制作にはげんでいました。彼が住んでいた通りの名は、いまはもうちがう名前になっていますが、「獅子の穴」(Fosse-aux-Lion)通りといい、彼はそれをほほ笑みながら冗談でもいうように教えてくれたのです。その通りはシャルトルー会修道院のうつくしい墓地のちかくにあり、わたくしは幾度となく、朝早くこの墓地を横切って彼のところに通ったものです。それは春のことでした。ボルドーの春といったらそれはもう香しく甘美なのです。澄みきった空のもと、空気は暖かく湿り、光はあくまでも透明です。青春時代の印象が、時の経過によって美化されているのかもしれませんが、彼の家へとみちびく狭い歩道のついた、人気のない小さな通りを歩いていくときの、生き生きしたしなやかさをそんなにもつよく感じることができたのは、やはりその場所だけで、そんなことはそれから二度となかったのです。その一画はまだ整備の途中で、住んでいる人も少なく、木々は低い石壁や生け垣をこえて迫り出し、歩道に散っている西洋さんざしの花ばなを踏みしだきながら、わたくしはひたすら奇妙な夢想に我を忘れていたのです。(49頁)

■たとえ誤解にみちた擁護であろうとも、完全な敵よりはるかにましだ。ユイスマンの評にとまどいつつも、先に引いたインタビューのつぎの箇所は意外にルドンの本音が出ているのかもしれない。「とのかく彼は私の努力にたいして好意的でありつづけました。このことに、私は感動もし驚きもします。というのも、ここだけの話ですが、私の《夢》を非常に早くから誉めそやし勇気づけてくれた人物が、その一方で、あえて私が私の芸術と呼ぶものと対極をなすポール・セザンヌの芸術を発見し擁護したりもするのですから。」実名こそ挙げていないものの、ここでルドンが言及しているのはあきらかにエミール・ベルナールのことであろう。(122頁)

■細かく見ていけば、巨人のごとき大きさをもつはずの《奇妙な花》の、あのいかにも自然なたたずまい、そこに秘められた次元の横断を可能にしたものこそ、こうしたルドン独得の精緻な伎倆であったこと、これはどちらかというと不器用な画家とおもをれがちなルドンにあってはもっと強調されてよいものだ。彼自身のちに書いているではないか。「私の独創性のすべては、ありうるものの法則に従って、ありえない存在を人間らしく生かす、つまり目に見えるものの論理を、見えないもののために、可能なかぎり利用する点にあるのだ」と。つまりルドンはその類いまれな想像力を羽ばたかせる一方で、それほどまでに現実に肉薄し、その本質を直感しようとしていたのである。ここに彼の非凡さがあるのだ。(133~134頁)

■幻想なり空想に身をまかせてイメージを書き散らすような、そんないいかげんな画家ではないのだ、自分は。節制こそ、自分の芸術の原点である、と彼はいいたいのだ。だからこそ彼はつぎのように言葉をつづけるのである。

それは、だれがなんといおうとも、私のデッサンは真実のものだということです。それらのなかには人間の風景があるのです。じつをいいますと、これは私という人間の特別な性質なのですが、私は自然というものの微細かつ偶発的ないし刹那的な諸事物を模写したいという必要性をずうっと感じてきたし、今もそうなのです。草の一茎、小石、木の一枝、古壁の一部を細密に描く努力をとつづけたあとで、はじめて私は想像力によって創造したいという気持ちで苛まれるようになるのです。このように受け取られ調合された外部の自然は、変形されて、私の源泉、私の酵母となるのです。私の最良の作品は、こうした訓練のあとにつづく瞬間にもたらされるのです。(155~156頁)

■だからこそ、おなじ「打ち明け話」の少し手前で、彼は自分の芸術の独自性を、いくぶん誇らしく述べたててもいるのだ。

だれも私から、もっとも非現実的な創造物に生命の幻影をあたえたという功績を奪うことはできません。私の独自性のすべては、それゆえ、ありうるものの法則にしたがって、ありえない存在を人間らしく生かさしめる、つまり目に見えるものの論理を見えないもののために可能なかぎり役立たせる点にあるのです。

この主張があってこそ、いやむしろそれを補強するために、すぐあとの細密描写のくだりがあるのだとすらいえるだろう。その底に流れるのは、あくまでも「自然を源泉とすることによって、私は私によって作りだされたものが真実のものだとおもう」という信念であった。さもなければ、それらはただのまがいものでしかない。「ピカールへの手紙』とくらべてはるかに長文で、しかも入念に構想された「打ち明け話」を、ルドンはこうして、いささか弁明の調子をこめてつぎのように結ぶのである。

自分のデッサンについて、私はやはりそうおもうのです。そしておそらくは、人間が作りだしたものすべてにつきものの弱点、不均衡、不完全がその大部分を占めるにしろ、私のデッサンは(人間の表情をしているから)、もしかりにそれが、私のいうように、生命、および存在するものすべてに必要とされる精神的伝達の法則にしたがって形成され、構成され、打ち立てられていなかったとしたら、一瞬といえども見るにたえないものとなったでしょう。(156~157頁)

■とりわけ問題になるのは、「暗示的芸術」の部分である。これを「放射」と関連づけるのはルドンの年来の主張であったらしく、晩年に認めた「芸術家の打ち明け話」にもつぎのくだりがある。

暗示的な芸術とは、事物の夢への放射のごときものであり、思考もまたそこへ向うのです。退廃的であろうとなかろうと、それはそうしたものなのです。むしろこういったほうがよいでしょう。それは、私たち自身の生の最高度の飛躍をめざした芸術の生長、発展であり、その支えないし精神的維持の最高点であり、これにはどうしても精神的高揚が必要なのです。(162~163頁)

■ここでの彼の目標ははっきりしていて、それは暗示的芸術と音楽との親近性をまず述べることで、自身の芸術の曖昧さを擁護することにある。

こうした暗示的芸術は、そっくりそのまま音楽という喚起的な芸術の中に、より自由に、輝かしく存在します。私の芸術にしても、よく似たさまざまな要素、置換され変形されるいくつかの形を、偶然的なものとはいっさい関係なしに、ある論理にしたがって組み合わせることで存在するのです。私がデビューしたとき、私にかんする批評はみなつぎのような誤りをおかしていました。つまり、そうした批評には、なにひとつ定義したり、理解したり、限定したり、正確にしたりしてはいけない。なぜならば、真摯に、ひたすら新しいものはすべて――ある意味では美そのもののように――それ自身のうちに意味をもっているからだ、ということがわかっていないのです。(163頁)

■このとき、ふと思い出されるのは、知覚をめぐる古代ギリシアつまりソクラテス以前の自然哲学者による教説である。近代的な思考からするとそれはあまりに古拙におもえ馴染みにくいものかもしれないが、問題の設定そのものはきわめて原理的である。つまり、なぜ外なる事物を人間は知覚することができるのか。彼らはここけら思考をはじめ、それは物体の表面が剥離して適当な通路をとおって感覚器官の内部に入ってくるからだと結論づけたのである。たとえば、エンペドクレスはいっている。「存在するすべての物から流出するものがある」と。そして、こうした流出物が感覚器官の小孔にぴたりと当てはまる大きさのときにかぎって、その物にたいする知覚が生じるというのである。(164~165頁)

■こうした芸術至上主義的な高らかな宣言とともにオーリエは本論にはいっていくのだが、それについて詳細に論じる余裕はない。ここではただ漠然と、この夭折の作家は画家と自然との、天上的な愛を媒介とした聖なる一体化に絵画の極致をみていたとだけいっておこう。特筆すべきは、そうした一体化から彼が導きだしたつぎのような見解である。

「諸事物、すなわち抽象的にいえば、線、点、面、影、色彩がさまざまに結合したものは、神秘的ではあるが驚くほど表現力にとんだ言語の語彙を形成し、芸術家たらんとすればぜひともこれを知る必要があるのだ。この言語はあらゆる他の言語と同様、その筆跡、正書法、文法、統辞法、修辞法すら有し、これこそが様式なのである。

このように理解された芸術においては、目的はもはや事物の即物的かつ直接的な再現などにはなく、絵画言語のあらゆる要素、線、面、影、色彩は(…)抽象的な諸要素となり、その固有の表現法にしたがってそれらを組合わせ、強弱をつけ、誇張し、変形することが可能となり、その結果として芸術作品の一般的な目的、すなわちある理念、ある夢想、ある思想の表現に到達するのである。」(188~189頁)

■そのくわしい経緯は不明だが、おそらくはその当時のパリ芸術界の中枢をしめつつあった象徴主義者たちの肝煎りで、その鳴り物入りのタヒチ滞在――正確には第一次タヒチ滞在(1891-93年)を目前にしたゴーギャンの壮行会が華ばなしく開かれたのは1891年3月23日のことであった。その翌日、ゴーギャンはデンマークにいる妻のメットに誇らしげに書いている。

「昨日みんながぼくのために晩餐会を催してくれました。出席したのは45人――文筆家や画家たちで、マラルメの主催でした。いろんな詩の朗読、たび重なる乾杯そしてぼくにたいするじつに熱烈な賛美。ぼくはきみに保証します。今から3年後には、ぼくはこの闘いに勝利をおさめ、ぼくらは――きみとぼくは――難事を避けてくらすことができるようになるでしょう。きみは安らぎ、ぼくは仕事をするのです。」(232頁)

■みずから誘惑を欲しながらも、最終的にそれを拒絶する聖アントワーヌ、いやフロベールの、どこか矛盾にみちた悲壮な姿にルドンそのひとのイメージを重ねあわせてみることもできよう。聖アントワーヌ、それはすでに苦悩する近代の人間像となっているのである。にもかかわらず、このフロベール畢生の「力作」の評判は芳しいものではなかった。まったくの失敗作というのではないが、名作の誉れ高い『ボヴァリー夫人』や『感情教育』とくらべればそのあまりに風変わりな外観ゆえに欠陥作とみなされ、ヴァレリーなどは「(聖)フロベ=ルの誘惑」という皮肉っぽい題名の批判文すら書いている。とはいえ、このヴィジョンにみちた聖人伝がその深いところで19世紀末という、実証主義と神秘主義とが共存しえた時代の核心にせまるものをもっていたこと、まさにそれゆえにルドンのような本質的に内面的な画家の興味をひいたこともまた否定できない事実なのだ。(251頁)

■この疑念については、ルドン自身が晩年に記した数行が格好の応答となるであろう。

神秘の意味、それはつねに曖昧さのうちに、2重、3重の外観、つまり外観というものにたいするさまざまの疑い(イメージのなかのイメージ)のうちにあることである。生まれてくる、あるいは見る者の精神状態に応じてそのようになるさまざまな形態。あらゆるものは、それらが 現れ出るものであるだけに、よりいっそう暗示的である(1902年)。(285頁)

■ともあれ、ここで確実に言えるのはただひとつのこと――ルドンが〈黒〉の素材、すなわち木炭にたいする興味をしだいに失っていったということだ。たとえば、移行が完了しつつあった1902年に彼は書いている。

私は昔のように木炭画を描こうとおもいましたが、だめでした。それは木炭と決裂したということです。じつをいえば、私たちが生きながらえるのは、ただただ新しい素材によってなのです。それ以来、私は色彩と結婚しました。もうそれなしで過すことはできません。(モーリス・ファブル宛 1902年7月21日付け)(302~303頁)

■これにたいし、少なくとも1895年のペイルルバードでは〈黒〉はまだ死んでいなかった。オランダの収集家ポンジェに彼はこう書き送っている。

私は聖アントワーヌの誘惑の新しいシリーズに取りかかるつもりでここにやってきたのですが、自然に逆らわないためにふたたび木炭を取りあげました。ここはその源泉です。だから私は譲歩するのです。(アンドレ・ポンジュ宛 1895年8月7日付け)(303頁)

■人間存在の内なる想像力のメタファーともいうべき《黒》を渉猟しつくしたルドンが1890年代をつうじて《色彩》へと飛翔していったことは、この画家の生涯を一本の樹木にたとえるならば、なかば必然的、いやむしろ論理的なことである。大地という暗闇に根ざしつつ長い年月をかけてついに開花し、澄明な大気のもとでいまや咲き誇るこの樹木ほどに、この寡黙な画家にかんする美しいイメージはない。しかしながら、作品の価格の高騰とも結びついたこうした華麗さの一方で、この本質的にロマン主義的な画家の作品世界にどこかしら悲壮なものが漂いはじめるのもまた否定しがたい事実である。これはあの天上的な、夢幻の花ばなをいっているのではない。あれはパステルであれ油彩であれ、素材との直接性ないし交感を重んじた、この内面性にして力動的な想像力の画家であってこそ達成しえたひとつの精華ともいうべきものだ。ルドンの花ばなに集約されているのは、手つかずで存在するもの、まさにその現前の心からの賛美である。(319頁)

2010年3月28日

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『現代を生きる哲学』放送大学より

■「繰り返しじっと反省すればするほど、、常に新たに、そして高まり来る感嘆と崇敬の念とを持って、心を充たすものが二つある。我が上なる星の輝く空と、我が内なる道徳法則とである。この二つのものをわたくしは暗黒に覆われたものとして、また超絶的なものとして、わたくしの視界の外に求めたり憶測してはならない。わたくしはそれを目の当たりに見て、直接わたくしの存在の意識と結びつける。」(カント)

2010年5月15日

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『森鴎外』ちくま日本文学 筑摩書房

■あるこういう夜の事であった。哲学の本を読んでみようと思い立って、夜の開けるのを待ちかねて、Hartmann(ハルトマン)の無意識哲学を買いに行った。これが哲学というものを覗いてみた初めで、なぜハルトマンにしたかというと、その頃19世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを齎したと云った位、最新の大系統として賛否の声が喧しかったからである。

自分に哲学の有難みを感ぜさせたのは錯命の三期であった。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証するために、錯命の三期を立てている。第一期では人間が現世で福(さいわい)を得ようと思う。少壮、健康、友誼、恋愛、名誉というように数えて、一々その錯迷を破っている。恋なんぞも主に苦である。福は性欲の根を断つに在る。人間はこの福を犠牲にして、わずかに世界の進歩を翼成している。第二期では福を死後に求める。それには個人としての不滅を前提にしなくてはならない。ところが個人の意識は死と共に滅する。神経の幹はここに断たれてしまう。第三期では福を世界過程の未来に求める。これは世界の発展進化を前提とする。ところが世界はどんなに進化しても、老病困厄は絶えない。神経が鋭敏になるから、それをいっそう切実に感ずる。初中後の三期を閲しつくしても、幸福は永遠に得られないのである。(『妄想』)(56~57頁)

■謎は解けないと知って、解こうとしてあせらないようにはなったが、自分はそれを打ち棄てて顧みずにはいられない。宴会嫌いで世に謂う道楽というものがなく、碁も打たず、将棋も差さず、球も撞かない自分は、自然科学の為事場を出て、手に試験管を持たなくなってから、まれに画や彫刻を見たり、音楽を聴いたりする外には、境遇の与える日の要求を果した間々に、本を読むことを余儀なくせられた。

ハルトマンは人間のあらゆる福を錯迷として打破して行く間に、こんな意味の事を言っていた。大抵人の福と思っている物に、酒の二日酔いをさせるように跡腹の病めないものは無い。それの無いのは、ただ芸術と学問の二つだけだと云うのである。自分はちょうどこの二つの外にはする事がなくなった。それは利害上に打算して、跡腹の病めない事をするのではない。跡腹の病める、あらゆる福を生得好かないのである。(『妄想』)(69頁)

■綾小路は卓(テエブル)の所へ歩いて行って、開けてある本の表紙を引っ繰り返してみた。

「ジイ・フィロゾフィイ・デス・アルス・オップか。妙な標題だなあ。」

――中略――

「コム・シイさ。かのようにとでも云ったら好いのだろう。妙な所を押さえて、考えを押し広めて行ったものだが、不思議に僕の立場そのままを説明してくれるようで、愉快で溜らないから、とうとうゆうべは3時まで読んでいた。」(『かのように』)(141頁)

■「まあ待ちたまえ。そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのというものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁も線にはなっていない。角も点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シイだね。自然科学はどうだ。物質というものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられているという。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志というものの存在しないのも、とっくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、近世になっては大抵世界を相待に見て、絶待の存在しないことを認めてはいるが、それでも絶待があるかのように考えている。宗教でも、もう大ぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのように考えると云っている。孔子もずっと古く祭るに在(いま)すが如くすと云っている。先祖の霊があるかのように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさておき、宗教でもなんでも、その根本を調べてみると、事実として証拠立てられないある物を建立している。すなわちかのようにが土台に横たわっているのだね。」(『かのように』)(143~144頁)

■「――略――そうすると、詰まり事実と事実がごろごろ転がっていてもしようがない。その土台が例のかのようにと云うのだね。――後略――」(『かのように』)(145頁)

■「そうは行かないよ。書き始めるには、どうしても神話を別にしなくてはならないのだ。別にすると、なぜ別にする、なぜごちゃごちゃにしておかないかと云う疑問が起こる。どうしても歴史は、画のように一刹那を捉えてやっているわけには行かないのだ。」

「それでは僕の描く画には怪物が隠れているから好い。君の書く歴史には怪物が現れて来るからいけないと云うのだね。

「まあ、そうだ」(『かのように』)(146頁)

■「ふん、どうしてお父うさんを納得させようと云うのだ。」

「僕の思想が危険思想でもなんでもないということを言って聞かせさえすれば好いのだが。」(『かのように』)(147頁)

■「――前略――神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認められずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を瀆(けが)す。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。行為はもちろん、思想まで、そういう危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。そうするには大学も何も潰してしまって、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首(けんしゅ)を愚にしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。」(『かのように』)(149~150頁)

■「――前略――人に僕のかいた裸体画を1枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往かずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。(岡野注;綾小路の言)」(『かのように』)(151頁)

■贈鄰女(りんじょにおくる)

羞日遮羅袖(ひをはじらいてしゅうをさえぎり)。

愁春懶起粧(はるをうれいてたちてよそおうにものうし)。

易求無価宝(むかのたからをもとむはやすく)。

難得有心郎(こころあるろうをえるはかたし)。

枕上潜垂涙(まくらのうえにひそかになみだをたれ)。

花間暗断腸(はなのあいだにひそかにはらわたをたつ)。

自能窺宋玉(みずからよくそうぎょくをうかがう)。

何必恨王昌(なんぞかならずしもおうしょうをうらみん)。

〈となりの女におくる〉日がまばゆいとてきぬのそでをかざし、春のなやましさに起き上がって化粧するもけだるい。/価値のつけようもないほど貴い宝を求めるのはたやすいことだが、情を解するおとこを手に入れるのはむずかしい。/枕の上にそっと涙を落とし、花の間で人知れぬつらい思いをする。/自分から宋玉のようなあのひとに心をよせたのだから、王昌ともいえるあのひとを恨むことはいらない。(魚玄機)(311~312頁)

■全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じ事である。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着な人である。

次に著意(ちゃくい)して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事を抛(なげう)つこともあれば、日々の務めは怠らずに、断えず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教に入っても同じ事である。こういう人が深く入り込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。約(つづ)めて言えばこれは皆道を求める人である。

この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればといって自ら進んで道を求めるでもなく、じぶんをば道に疎遠な人だと締念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して云ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。(寒山拾得)(377~378頁)

■しかしこの説明は功を奏せなかった。子供には昔の寒山が文殊であったのがわからぬと同じく、今の宮崎さんがメッシアスであるのがわからなかった。私は一つの関に出逢ったように思った。そしてとうとうこう云った。「実はパパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みにこないのだよ。」(寒山拾得)(388頁)

■げに東(ひんがし)に還(かえ)る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなほ心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変わり易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。(舞姫)(419頁)

 

2010年5月16日

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仏教の思想2『存在の分析〈アビダルマ〉櫻部建・上山春平著 角川ソフィア文庫

■諸学派のうち、おそらく最も多数のアビダルマ論書を生み、そしてその多くを今日にのこしたのが、西北インドに大きな勢力をもっていたとみられるサルヴァースティ・ヴァーディン学派である。その名は、文字どおりには、「すべてがあると主張する者」を意味し、ふつうには完訳名「説一切有部」、略して単に「有部」で知られている。この奇妙な呼称の由来は、やがてその教義学説を述べることによって、おのずから読者に了解されることであろう。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(19頁)

■そこで、現に他の自然界に生存している「有情(サットヴァ)」であってやがてこの自然界が成立したらそこに生まれてくるであろうものがあるはずである。そのものの「業(カルマン)」の力によって、この自然界は成立せしめられるというのである。

サットヴァ・カルマンによって自然界が創り出される。それは、すべての有情が、もっと直接的にいえば、すべての人間が、生き行為すること――泣き笑い、喜び怒り、善悪の行為をなすこと――それが、全体として、一つの宇宙を創り出す結果を生む、という考えにほかならない。宇宙を生成するエネルギーと、一個体が、一人間が、生き行為すし動作する力とは、根源的に同一であるとする考え方であると言ってもよいかもしれない。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(27頁)

■しかしいずれにしても行為は行為は必然に報われるのである。これが第一の原則である。

次に、その報いはまた厳格に個人的である、というもう一つの原則がある。業の問題はわれ一人の問題である。一個の行為的主体の問題である。他人のした善行の好ましい結果を自分が横取りすることも、自分のした悪行の好ましからぬ結果を他人に肩代わりさせることもできない。アーガマは言う――「罪を犯したのはおまえである。罰せられるのはおまえなのだ」。いわゆる自業自得である。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(47~48頁)

■しかし迷いの世界は人間のあるべき姿ではない。三界・五(六)趣・四生に生死する輪廻の連鎖は断ち切られねばならない。人間はその平常的生の世界から抜け出して、すねわち業と煩悩に支配される迷いの世界から超出して、究極的真実なる〈さとり〉の領域に至らねばならない。迷いの世界からさとりの領域に向う道は、知恵によって心を煩悩の拘束から解き放つ無漏(むろ)の道であり、その実践道を進む者は「貴い人(聖者)」と呼ばれる。すべての仏教がそれを説くのであり、アビダルマもまたもとよりその例外ではない。ただ説一切有部アブダルマの場合、それを説き明かす基礎に独得な理論をもっており、それを明らかにしないでは、この学派が提示しようとする実践道も理解されないことになる。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(51頁)

■「すべては無常である」「苦である」「無我である」という主張は、アーガマ経典の中で、そのように三つ並列されて述べられてもいるが、また、「すべては無常である、無常なものは苦である。苦であるものは無我である」と、無常が苦・無我を根拠づける関係に述べられていることも多い。⑴すべては時とともに変転し隆替してして常の無いものである。⑵それを正しくそうと理解せず、いつまでも変わらぬものと考えて、そのことに執着するところに、苦と感受されるゆえんがある。⑶そのようにすべてが無常であり苦であるところに常住不変なわれという生存の主体を考えうるはずがない、という論理がそこにある。

それでは、「すべてが無常である」という最初の命題自体は何によって根拠づけられるであろうか。経典はそれについてあまり明瞭に語っていないようにみえる。ただ「どんなものでもみな無常なものを原因として生じている。無常なものを原因としているものがどうして常住不変でありえようか」というのは、なにかトートロジー(類語反復)のようにも聞こえるけれども、これはけっして無意味な言い方ではない。そこには、「すべては無常である」という命題の根拠となっているのが「すべては因果関係の上に生ずる」という考え方である、ということが示されているからである。すべては独自に自足的に存在しているのでなく、さなざまな原因の造り出した結果としてのみありえている。原因が消滅すれば結果も消滅する。すべての存在は、それをあらしめている原因のいかんに依存しているという点で、常住不変ではありえない、すなわち、無常である、というのである。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(52~53頁)

■無常なものを無常であると、無我のものを無我であると、〝ありのままに知り見る〟のが正しい知恵である。ところが平常の人間は、無知ゆえに、無常なものの上につい常住性を期待する。その期待が裏切られたとき、失望や怒りがある。無我なものの上につい『われ」を意識し「わがもの」を意識する。その意識のゆえに欲求、渇望を生じて苦悩するのである。この場合、無知は煩悩の代表である。期待すべきでないものを期待し、意識すべきでないものを意識するところに、煩悩による業がある。その結果は苦である。無知を離れて無常を無常と知り無我を無我と知る正しい知恵を得ることによって、人間は煩悩の拘束から解放される。それは凡夫の平常底を打破してさとりの領域に入ることである。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(55頁)

■「ダルマ」とはなんであるか。この語はふつう「法」と訳されているが、広くインド思想一般においても、とくに仏教の場合に限ってみても、ずいぶん多様な意味に用いられている。「ささえる」「たもつ」という意味の語源から出て、一般に秩序・定め・法則・規範などの意を表わし、さらに道徳・正義・習慣・習性・性質、真実・最高の実在などをも意味する。仏教語としては、とくに〈ほとけ〉の教えた真理、あるいは〈ほとけ〉の教えそのもの、をさしてダルマ(法)と呼ぶのが、最も広く見られる用例であろう。仏法とか、仏・法・僧とか法師・説法・法悦・法要など、国語でも多くこの意味で「法」の語が用いられている。

だが、それと別に、仏教語として独自な、そして重要な用例がもう一つある。それは、この法(ダルマ)の語が広くもの、事物、存在を意味する場合である。おそらく、あらゆるものが、法則・規範にしたがって存在している、というところから、そのようなことばづかいが出てきたのであろう。「すべてのものは無我である」ということを「すべてのダルマは無我である(諸法無我)」という言い方でいうような場合がそれにあたる。そしていま、「ダルマの理論」におけるダルマの語も、もとはこの意味の用例から出発して、やがて説一切有部哲学に独得な述語として使われるようになったものである。

そこでダルマとはもはや単なるもの、存在、それ自体ではなくて、寄り集まって存在を構成するところの「存在の要素」とでもいうべきものとして考えられている。経験的世界の中にあるすべてのもの、存在、事物、現象は、複雑な因果関係による無数のダルマの離合集散によって流動的に構成されている、というのが「ダルマの理論」の基本的な考え方である。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(56~57頁)

■過去のダルマも現在のダルマも未来のダルマもすべてがある、というのが「一切有(う)」ということの意味である。そういう、過去・現在・未来の三世(三つの時)のいずれにおいてもあるところの、すなわちいわゆるところの、存在の要素としてのダルマを考えることは、「諸行無常」を否定するどころではない。逆に、そのようなダルマを考えなければ、「諸行無常」の事実を明らかに説明することはできないではないか、というのが説一切有部の立場である。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(72頁)

■説一切有部によれば、有為のダルマのすべてに共通する性質はおおよそ二つ考えられる。その一つは瞬間生であり、もう一つは右に述べた〝三世に実有〟性である。この二つの性質は一見まったく矛盾してようであるし、事実、それは矛盾ではないかと他学派からはげしく攻撃されている。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(73頁)

■ダルマは生起するやいなや次の瞬間には消滅するというけれども、厳密には、その間に⑴生起し、⑵生起したその状態を保ち、⑶その状態が変異し、⑷消滅するという4つの推移がある。その4つの推移を、すべての有為のダルマは、一瞬のうちに経るのであるという。

ところで、ダルマが生起するというも、無からしょうずるのではなく、消滅するというも無に帰するのではない。ここに生起とはダルマが未来から現在に現れ出ることであり、消滅とはそれが現在から過去に去ることである。現在に現れる以前のは未来の領域にある。現在から去って以後のダルマは過去の領域にある。未来の領域から現れて過去の領域に去るあいだの一瞬においてダルマは現在にある。未来においてもあり、現在においてもあり、過去においてもある。三世のいずれにおいても、ダルマはそれ自体の変わらぬ特性をもっており、すなわち〝三世に実有〟であるという。これが有為のダルマのすべてに共通する第2の性質である。(74頁)

■はじめのリールは、ダルマの経過する三世の中の未来の領域にあたり、ランプによって照らされる瞬間は現在にあたり、あとのリールは過去の領域にあたる。フィルムの一こま一こまがすなわちダルマ、厳密にいえば、ともに生起する無数のダルマの集合、である。そして、スクリーンに映し出された映像の活動変化によって織り成される物語は、まさしく現実の経験的世界すなわち「諸行無常」の世界に相当する。リールからリールへとフィルムが流れるように、ダルマの時間は横に、空間的にひろがっている。スクリーンに映し出される物語の経過のように、経験的時間はそれを縦に貫く。その2種の時間の交点は絶待の現在ともいうべく、われわれ経験的世界に生きる者はいつもそこに立っているのである。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(75~76頁)

■仏教で説く四つの真理、いわゆる「四諦」、すなわち⑴人生のすべては苦である、⑵その苦は煩悩に由来する、⑶煩悩の止滅が苦の止滅である、⑷それに至るは道の実践による、というこの四つの真理と、三つの宝、いわゆる「三宝」、すなわち〈ほとけ〉とその教えとその僧団の三つの宝と、業とその報いとの因果生、の三つとに対する確信とも解釈される。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(113~114頁)

■身・語の表業から起こる無表業のほかに、「三昧」から起こる無表業が説かれている。三昧とは古来インドで重んじられた精神修練の方法であり、姿勢を正しく不動に保ち、呼吸を整えて心を一点に集中する行である。仏教においても最も重要な修道の方法として採用されている。アビダルマの場合もその修道論の中で三昧が重要な地位を占めていることは後述のとおりで、それは、〝蛇が竹筒の中に入れば曲がることなしに進むように、心が三昧に入ることによって修道者は正しく進む〟とたとえられている。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(124~125頁)

■無貧・無瞋・無痴(貧・瞋・痴)を三善(不善)根、すなわち三つの善(悪)の根本、とするのはすでにアーガマに見られるところであって、アビダルマはそれを継承した。痴は別の言い方では「無明」という。すなわち無知であって真理に対する無自覚である。しかしインド的表現がしばしばそうであるようにそれは単に覚知の欠如した状態にとどまるものではない。むしろ人間存在の内なる昏(くら)さそのものといってよかろう。その内なる痴が外に向ってはたらくとき貧と瞋となって現われる。心にかなう対象に対する欲求と心にかなわない対象に対する憎悪である。この二つが内に昏さをもつ人間の外界に対する根本的な態度である。ときには、この外界に対する根本的な態度は、積極的な前者の側だけで代表される。その場合は「渇愛」、すなわち渇きのごとく飽くことなき欲望、という語をそれにあて、さきにあげた「無明』とあい対する。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(129~130頁)

■見所断(けんしょだん)の煩悩は「四諦」と呼ばれる四つの真理を観知することによって断ち切られるのであるから、いわば理知の面での煩悩である。それに対して情・意の面での煩悩は、「修所断(しゅしょだん)」であるという。「修」とは三昧を修めて真理の観知をくり返しくり返し行うことである。三昧によって〝花の香が衣に移るように〟相続に徳の香が薫じつけられる。そして〝油を十分にそそがれた灯火が風の来ない場所に置かれるとき、ゆらがず明るく燃えるように〟、知恵は三昧の中で妨げることなく、いきいきとはたらくから、この三昧を修めて真理の観知をくり返すことによって、執拗な情・意の面での煩悩もついに断ち切られるのである。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(137頁)

■道に志を起こした者は、まず戒(修行者の生活上の自律)を守ってその生活を正しく、節度あり、きよらかに保つよう努めるところから出発する。次には、好い教えを聞くこと、みずから思索すること、三昧を修めることによって、、知恵(有漏ではあるが善である知恵)をみがく。そのためには、衆人の中にまじわり住むことを避け、善からぬ心の動くのを避けねばならぬ。もし修行者が欲望の旺盛でない、みずから足るを知る人であったなら、そのような生き方を持することが容易であろう、と論書は教える。こうして修行者は〝法の器〟となる。次に、彼がもし肉体的欲望の強い人であったら「不浄観」を修めるべきであるし、もし心の動揺の多い人であったら「持息念」を修めるべきである。「不浄観」とは、死屍がしだいに腐散してついに白骨化するまでのすがたを心中に観想することである。性的欲望――異性の顔色や肌の色の美しさ、容貌の美しさ、はだざわりの快さ、起居動作の美しさ、などに対する欲望――を制するためである。「持息念」とは呼吸法の修練である。出入のいきを数え、呼吸を無理なく自然にし、心をおのれの鼻の尖端や眉間にとめて身内のいきを観想し、さらに広くすべてのものを心中に観想することによって、しだいにいっそう高い精神的境地にみずからを導くのである。

つぎには、「四念住」の修行に進む。「四念住」とは、身体は不浄である、感受は苦である、心は無常である、すべての事物は無我である、という四つを観念する(心に思い浮かべる)修練である。はじめはその四項をそれぞれ別に観念し、次にはそれらを一つにして、身体・感受・心・すべての事物は不浄である、また苦である、無常である、無我である、というふうに観念する。(第一部 無常の弁証 櫻部建)(144~145頁)

■〔服部〕これが後にだんだんと五道輪廻とか六道輪廻というようにまとまってゆくわけです。櫻部さんが書いておられるように、天国も輪廻の一環ですから、そこに生まれてもまた次には人間になったり畜生になったりするのです。そこで、この天国も含めた輪廻の世界から解脱しようという欲求が生まれてきます。(第2部 インド思想とアビダルマ)(224頁)

■〔服部〕宇宙の根本原理となるのはブラフマン(梵)です。これは元来ヴェーダの祭詞・呪詞を意味したのですが、祭式万能主義を背景にして神々に対しても強制力をもつ神秘的な呪力になり、それが宇宙の最高原理にまで高められるのです。一方、生命の本質はいろいろに考察されますが、もともとはいき――気息を意味したアートマンが生命の本質とされます。このアートマンが一つの生から次の生へと輪廻してゆくと考えられるのです。そこで、宇宙の最高原理を瞑想してアートマンをそれに合一させることに、もはや輪廻しない解脱の境地がもとめられるわけです。(第2部 インド思想とアビダルマ)(225頁)

■〔櫻部〕さきに、仏教の解脱への道はほかとどうちがうかというおはなしでしたけれども、わたしは戒・定・慧という言い方がいちばん仏教の行き方を特徴的に示していると思います。

戒は、これをこうしちゃいかんというような項目が定められてあって、それを守らなきゃならぬ、それが戒だというふうに思われやすいけれども、いまここでいう戒とは、平たいことばでいえば生活上の良い習慣、正しい暮らしぶりといったほどの意味だと思います。生活のしぶり、それは生活のしぶり、それは生活をしていく上に、人間の心にまかせておくと人間の心はあらぬ方向に逸脱するから、生活の上に一つのたてまえを設けて、いつも心を引き締めて暮らす、そういう生き方を戒というんだと思います。ですから他律的なものでなくて、自律的な、自分の生活のしぶりを引き締める心の持ち方を戒というのだと考えていい。そういう行き方にありつつ、次に定(じょう)、これはつまりメディテーション(瞑想)ですが、それが一つの手段なんです。メディテーションをやると、心がふらふら外界の刺激や誘惑に負けて動くということがなくなる。それは、三昧に入っているあいだは雑念を去ってきれいな心になっておっても、出るとまたもとに戻ってしまいますけれども、しかし修練を重ねていくことによってやがてそういうメディテーションにはいっていない場合でも、すなわち、ただ平常心のままであってしかも、心の浮動が少ないようになる、あるいは全くないようになる、というふうに考えたんだと思います。生活のしぶりをみずから規正し、メディテーションの修練を重ねて正しい知恵が心の中に養われる、それによって解脱を得るんだという、そのたてまえでしょう。これがアーガマ以来、アビダルマに至るまで変わっていないんですね。(第2部 インド思想とアビダルマ)(229頁)

■〔服部〕たとえば、人間の生活機能としての呼吸を、宇宙的な神格としての風神として崇拝する――二つを等置するのです。個体としての自分を普遍的なアートマン、あるいは宇宙の最高原理ブラフマンと知ることです。ですから、瞑想によって得られるのは神秘的直感で、精神を安定させる定とは性格が違っているのです。(第2部 インド思想とアビダルマ)(230頁)

■〔服部〕それに対して、ヴァイシェーシカ学派の場合のように、実体などという原理を知ることによって解脱があるというのは、世界に対するかかわり方が客観的――つまり自分自身の存在の根拠を問題にするのではなくて、自分はここにすわったままで、自分の外にある何かを見ているという立場だと思うのです。

〔上山〕私の感じでは、仏教思想には理論的傾向の強いものと実践的な傾向の強いものがあって、ここで問題になっているアビダルマは、理論的傾向の強いほうの一つの極を示しているように思うのですが。

〔服部〕アビダルマの場合にいちばん客観的に見る態度が強くなっていると思います。櫻部さんが「法体恒有(ほったいごうう)」ということを、映画のフィルムがこちらのリールから向こうのリールに移っていくという喩えで説明しておられますが、それは法(ダルマ)の世界の外に自分を置いている立場だと思うのです。大乗になるとその立場が批判されるのです。自分は、向こう側の世界に起こっているできごとを、こちらから見ているのではない――観客席にいてフィルムの映像をながめているのではなくて、自分自身がスクリーンに映っている画面の中で主人公の一人として活動しているのです。その立場に立つと、一巻のフィルムが右のリールから左のリールへ移って行くというような見方はできない。そこに大乗の中観・唯識などが、哲学的に問題にしているところがあると思います。(第2部 インド思想とアビダルマ)(232~233頁)

■〔上山〕輪廻とか解脱ということが共通のテーマであり、それを業で説明するところまでは共通だけれども、業を運んでいく基体があるかどうかという点で意見が分かれ、仏教は基体がないという立場で独自な論理を展開した。その独自性というのは、「諸行無常」とか「諸法無我」という仏教思想の特徴を示す基本的な命題に帰着するわけですね。(第2部 インド思想とアビダルマ)(239頁)

■〔櫻部〕いろんな説明をするんですが、アビダルマの正統派の説として認められるのは、ソロバンの玉みたいなんだというのです。同じものを一の位に置けば一だけれども、十のくらいに置けば十、百の位に置けば百だというように。何をそうたとえているかというと、過去・現在・未来のダルマです。ダルマ自体は過去・現在・未来を通じて存在しているけれども、現実の世界にはダルマはただ現在の位ととしてあらわれる。つまり未来の位から現在の位にあらわれてくる。そして、その現在というのもただ一瞬間にすぎず、次にはすぐに過去の位に去ってしまう。あらゆる有為のダルマがみんなそういう経過をとるんだ。ダルマが現在の位にとどまるのは一瞬間だけであってそれがつぎつぎに交替して現実の現象世界を形成していくんだから。瞬間滅な現在のダルマの連続として、諸行は無常なんだ。しかしダルマ自体は、かっては未来の位にあり、そして現在の位に出てき、やがて過去の位に去る。未来の位にあろうと現在の位にあろうとダルマのスヴァバーヴァは同じなんだ。一の位にあろうと十の位にあろうと百の位にあろうと同じソロバンの玉であるように。だからダルマは三世(過去・現在・未来)に実有である、というのです。(第2部 インド思想とアビダルマ)(250~251頁)

■〔服部〕アビダルマの立場はあくまでも悟性的な分析の立場です。それに対して、悟性的な思惟のはらんでいる自家撞着を徹底的に指摘して、主体の立場の恢復をはかったのがナーガールジュナ(龍樹)の空の哲学だったわけです。そのあとで、唯織思想家が、空の立場を根底としながら、アビダルマの伝統を生かした体系をつくったのです。

〔櫻部〕それは、事実、アビダルマの理論の中でいちばん精彩を放っているのは、こういう諸行無常を合理的に説明しようとするアビダルマの理論の部分であって、いちばんおかしいと思われるのは実践論ですから。実践論はきわめて形式的であって、形式としてはたいへんよく整っているように見えるけれども、現実に生きた人間がそこに動いていない感じですね。それは私、よほど強く感じるのです。

〔上山〕仏教思想は、につづいて、大乗仏教という形で唯織などを中心にして展開するわけですが、日本ではそれが実践オンリーの形になってしまって、仏教の理論体系はどこかに飛んでしまったわけです。仏教の理論体系というものを再把握するためには、あらためて悟性的な立場に戻って、仏教思想の中に鋭い論理的な問題意識をとりもどす必要があるのではないか。その点で、『倶舍論』というのは再評価されてよいと思う。

〔櫻部〕それが、奇妙に聞こえるかもしれませんが、日本の仏教でも、昔からずいぶん『倶舍論』は勉強されてきておるのですよ。少なくとも明治までは伝統的な仏教教団の中で、各宗の学林と呼ばれるような研究機関の中では、『倶舍論』の学習は、ある宗派に限られるというのではなくていろんな宗派で、ずいぶん行われておりました。普通に倶舎学とか性相(しょうそう)学とかいわれますが、そういう学問の伝統ができていた。

それは仏教の基礎学であって、仏教をほんとうに理解するにはまずこれを勉強しておく必要があるというふうに認められ、常識化されておったんです。なにしろ唯織三年倶舎八年というくらいですから、実際に『倶舍論』全部をよく読んで勉強した人はそう多くなかったでしょうけれども、少なくとも仏教を本格的に勉強する者はそういうアビダルマ学をやる必要がある、たとえ天台宗の人であろうと真宗の人であろうと、日蓮宗であろうと真言であろうと、みんなやる必要がある、ということが一つの常識になっていたようです。そういう常識はどうも明治以後うちこわされたのです。たとえば、『往生要集』の著者源信が一面アビダルマの学者であったといえば、今日では意外に聞こえるのではないでしょうか。(第2部 インド思想とアビダルマ)(254~256頁)

■嵐のただ中にある舟人を想定しよう。彼にとって最も切実なのは、どうすれば当面の危機を脱することができるかという問題であり、周囲の海水がどんな成分から成っているのか、嵐はなぜ起こるのか、等々といったことはほとんど問題になるまい。

ある北欧の哲学者は、この舟人のような危機意識に立つ実践的認識を、「実存的」と呼び、実存的な認識における真理を、「主体的」な真理として特徴づけた。

私たちにとって、「実存的」とか「主体的」ということばは、すでに手垢にまみれた常套語になり下がってしまっているが、あの北欧の哲学者が、彼自身の強烈な個性と彼の属する時代――それは産業革命を契機とする生活形態と価値観の巨大な変革の波がヨーロッパ社会をゆすぶった時代であった――の要求にもとづく切実な問題意識に立って“existentia”とか“subjectio”といった伝統的哲学用語に由来する「実存的」とか「主体的」ということばに、新しい意味を吹きこんだとき、そこには、宗教的認識の最も核心的な、しかも普遍的な特質が、的確に語られていたように思う。彼はつぎのように語っている。

「真理を問うものは実存する精神であるから、問うものが実存するということが、真理における二つの契機を区別し、反省は真理に対する二つの関係を示す。客観的反省と主観的反省とがそれである。客観的反省にとっては、真理は客体的なもの、すなわち対象となる。主体が自己自身から眼をそらすことが必要である。主観的反省にとっては、真理は習得、内面性、主体的となる。主体が実存しつつ自己の主体性に沈潜することが必要となる」

「主体的問題は主体性そのものにかんすることであって、事象にかんする問題ではない。つまり、問題は決断ということにあり、すべて決断は主体性の中にあるから、そこには客体的には事象のあとかたさえない。なぜなら、事象が問題になると、主体性は決断の苦痛と危機からいくらか眼をそらせ、問題をいくらか客観的にすることになり、それにともなって決断が延期されることになるからだ」(キルケゴール『哲学の断片への後書』)

このように、真理にたいする主体的ないし実存的なかかわり方と、客体的もしくは客観的なか変わり方との、二者択一性、非両立性を強調するとき、キルケゴール(1813-55)の念頭にあったのは、ヨーロッパ伝来の学問の道とキリスト教の信仰の道との非妥協的な対決の必要であった。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(258~259頁)

■私は、学問的な真理と宗教的な真理のあり方、二つの真理の認識のしかたが根本的にちがうというキルケゴールの指摘に、深い共感をおぼえざるをえない。そして、その指摘が、19世紀半ばのヨーロッパにおいてなされたという事実に注目したい。

そのころ、ヨーロッパ社会はフランス革命以来の数次の政治変革にゆすぶられていた。その背後に、古代農業文明の成立に匹敵する人類文明史上の巨大な変革を条件づける産業革命が進行しつつあり、この革命の本質的な要因をなす化学的思考法が、農業文明の成立以来積み上げられてきた宗教や学問の考え方を根底からゆるがしかじめていた。

こうした過程のなかで、ヨーロッパ社会の非ヨーロッパ社会にたいする植民地化の動きが急速に進行するのであるが、そのいとなみを通して、ヨーロッパの学問や宗教とまったく異質な学問・宗教の存在が、ヨーロッパの知識人たちの視野のなかにはいってくるようになった。

ヨーロッパの内部からは、キリスト教や伝統的な哲学と立場を異にする自然哲学という名の新たな学問が巨姿をあらわし、外部からも、ヨーロッパの学問や宗教とはまったく縁のない独自な学問や宗教の姿が紹介されると言った状況のもとで、学問的な認識と宗教的な認識の特質が根本から問いなおされたという事実に、私は注目したいのである。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(260頁)

■要するに、以上の二つの引用文によって、ブッダの教えの要点が人びとを輪廻の苦界から救出するにあったこと、そして、人びとが輪廻の苦界に漂うのは煩悩のためであり、したがって人びとをその苦界から救出するには煩悩をしずめるのが先決であるが、煩悩をしずめるための最もすぐれた方法は、「択法(たくほう)」すなわち「ダルマを正しく吟味弁別すること」にほかならないこと、が明らかにされているわけである。

もともと、「アビダルマ abidharma」というのは、ダルマについての考察をさし、「択法」の指針を提供するためのものであった。その指針は、すでにブッダ自身のことばにも示されていたわけであるが、「処々に散説」されていたにすぎないのを集大成したのが、世親の『アビダルマ・コーシャ』(『倶舍論』)にほかならなかった。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(266~267頁)

■まず、第一に指摘しておきたいのは、「有情の業」が、『倶舍論』の体系の中核にすえられている、という点である。

「有情」というのは、サットヴァ sattva の訳語で、「衆生」とも訳され、「薩埵(さった)」という音訳もあるが、要するに、生命(いのち)あるもの一般をさし、「業」というのは、カルマ karman の訳語で、さまざまな解釈があるが、一応、広義の行為を意味すると解しておいて、⑴行為の準備段階としての意志の発動(「思」)と、⑵外に表れた行為(「表業」)と、⑶行為の残存効果(「無表業」)とを含むことを確認しておけばよい。

したがって、「有情の業」を中核にすえるということは、要するに、生きものの行為を中核にすえることを意味する。ところで、『倶舍論』によれば、世界は、この生きものの行為の所産にほかならない。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(276頁)

■櫻部氏によるサンスクリット・テキストからの界品の訳(中央公論社「世界の名著」第二巻)によれば、「有為」は「因果関係の上にあるダルマ」、「有漏」は「煩悩あるダルマ」と訳され、「無為」は「因果関係をはなれているダルマ」、「無漏」は「煩悩なきダルマ」と訳されている。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(277頁)

■ダルマとは、すこぶる多義的なことばであるが、本巻第一部(四章)の考察にしたがって、ここでは、「存在の要素」という意味に用いることにする。近代仏教の見地からするアビダルマ研究の開拓者の一人である木村泰賢博士は、アビダルマ関係の著作やその注訳書の用例をふまえて、「万有の組織及び活動において、これを分析解剖し一定の特質を有する認識されるものに還源して得られたもの」(木村泰賢全集第五巻『小乗仏教思想論』第二巻第二章)という定義を与えているが、これも要約すれば「存在の要素」ということになろう。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(284~285頁)

■要するに、七十五のダルマは、業によって作られる有為と、業とはかかわりのない無為とに分けられるのであり、なんといっても、これが最も基本的なダルマの分類なのである。そして、有為のダルマは「諸行無常」として、無為のダルマは「涅槃寂静」としてとらえられる。(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(287頁)

■大乗経典としての『涅槃経』が、ブッダの思想をその原型に近い姿でとらえる手がかりとしては不適当だと思う人には、アーガマ(『雑阿含経』「歓喜園」)のなかに、つぎのような偈のあることを示しておこう。

諸行はまことに常なることなし

生滅をもってその性となすゆえなり

生じたるものはまたかならず滅す

その生滅の静まれるこそ楽しけれ(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(303頁)

■「我々の常識においては、一杯のコップの水は、一時間前の水も今の水も少しも変化が無いように考えているが、有部の宗義としては刹那滅であって、時々刻々に変化していると見る。換言すれば、前刹那の水と次の刹那の水とは別物である。これを有部では法体(ほったい)が異なるという。しからば、後の刹那においては前の刹那にあった水の法体ではどうなってしまったかというと、過去に落謝して(過去世に去って)其処において現に実在していると説く。又後の刹那の水の法体は何処から顕われて来たかというと、それは未来において現に実在していたものが、因縁和合して現在へ出て来たのであって、これも次の刹那には又過去へ落謝すべき運命のものである。かくのごとく、一の法の上に時間的に無数の法体を立てて、その一々の法体が三世にわたって恒有であることを〝三世実有、法体恒有〟というのである」(『業の研究』375ページ)(第三部 仏教哲学の原型 上山春平)(305~306頁)

■近年は、仏教学の基礎学としてのアビダルマ思想の重要性を主張する人が増えてきたようだ。その理由の一つは、日本仏教の歴史の反省にあると思われる。奈良・平安の仏教にあっては倶舍の学問(宗)つまりアビダルマ思想は仏教の基礎学として重視されてきた。しかし、法然、親鸞の浄土教は世界の構造に関する知の体系や、世界の状況に全体的に関わることを放棄してしまった。道元の禅の立場もほぼ同様であって、実践過程の心理学的、生理学的な分析を試みることを放棄し、世界の構造と状況に関する知の体系を構築しようとする意欲も捨ててしまった。このような態度はその後の日本仏教のあり方に大きな影響を与えてきた。また元来、理論的分析や構築の苦手な日本人にはそのような仏教の受容の仕方が適していたともいえよう。(解説 立川武蔵)

2010年6月20日

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『劉生日記』岸田劉生著 岩波文庫

■宮田の話にて、先日の江川という男50円位なら余の水彩を買わんといいしと。不快に感じて断る。金のない人ならとにかく、金を持ちながら安くなら買おうと言ういう如きものに余の画を渡す必要なし。(大正9年2月)(21頁)

■よりよく出来るのに仕ないのは一生の仕事のためによくない事だと思う。描ける処まで描き切り、全力を尽くさなくてはならぬ。芸術の神の前にのみ自からの画を見せる事を思え。とにかく今日仕上げてしまわずに、いつまでかかってもいいから描き出したのは余にとっていい事であった。(大正9年3月)(26~27頁)

■武者(武者小路実篤)の妻君の或るうわさ聞きちょっと驚く。(大正9年3月)(30頁)

■リーチの本が出来て来た。リーチの素描に感心する。トンも線も生きていて美しい。村山〔槐多〕という男の遺稿が本になったのを送って来たが醜い感じがするものでいやになる。故人でも好意は持てない。カンタンに見える事は恐れる必要はない。カンタンに見えても正しい事を愛して生きる事がただ一つの本当の道だ。近代主義にジャスチファイされて盲目なものにこびるものが近頃多い。若い人はもっと強く、つよい力に頼らなくては危い。(大正9年7月)(47頁)

■今日は頭が悪くて昼過ぎまで仕事に気がむかず、しかし12時過ぎから麗子の肖像にかかったがどうもむつかしくてよわった。無形の美、生きた感じをじかに画布の上にいやが上にも露骨に出したい。美術の本領はこの無形の「美」にあって物を如実に再現する方の仕事は客にある。写実はこの二つの最も有機的な合一にあるが、しかし美術には写実以上のものがなくてはならない。物に即した美の中に、あるいは上に宿る「深さ」「無形」である。美術が写実的技法の進まぬ太初に当たって自然的に装飾(美)が露骨であり、手が進むにつれて写実が出来て来てその堕落時代にはいつも必ず写実に捕われすぎるのを見るとこの間の消息が明らかになると思う。(大正9年8月)(52頁)

■帰ったら上京中の山本顧弥太君から電報でゴッホの画が武者の本宅にあるから見に来てくれとの事、中島と二人で急に上京。藤沢で雨が降り出す。1時49分の汽車に乗り、雨にふられて4時前に武者の家につく。ゴッホの向日葵30号ほどのもの、外にセザンヌの小さいペンに水彩したエスキース、外にロダンの素描もあった。ゴッホは恐ろしいとは思わないが尊敬はする。へんに内から生きている。やはり造りものという気はしない。生きている。及ばぬ人よは思わぬが友として尊敬する。セザンヌは小品だがいいものではある。ロダンはつまらない。(大正9年12月)(69頁)

■金と赤の林檎五つほどと梨を二つ、みかんの半分青いのを二つにリーチの茶碗一つ。4時少し前まで仕事して、よき労れを覚えた。本当に久しぶりで製作のシンミリしたいい経験をした。静に林檎にぶつかって刷毛を動かしていると、静な心に外の音が時々きこえる。あの気持ちは本当にいい。(大正9年12月)(71頁)

■昨夜おそかったので今日は9時半におきる。床の中で新聞みたら『読売』に加藤だろうと思う男が余が如才なくなったとかいやみな事をかいていたのでいやな気持ちがした。しかし、結局他人に何と思われても自分は自分の仕事をこれ以上の誇りはない。人から感謝こそされ憎まれたりいやと思われたりする事は決してない自信があるから一時的な不快ですんでしまう。ヤクザな奴はヤクザなのだ。(大正10年10月)(137頁)

■余はこういう社交にはなれず、いつも余を尊敬する人たちの上にばかりいるので、その方がわりに感じられないこういう交りへ行くと一方へんにさみしいが、しかしそれは彼らに尊敬と帰依を強いる事で、そんなことは出来ない相談だと思う。つまり、彼らに尊敬と帰依を強いる事で、そんなことは出来ない相談だと思う。つまり、彼らに尊敬されてもどうでも、ただ画家として今の社会に仲よく会うという気持で余はこの会に入っているのだ。帰ってから、自分としてはただ一人の道が何となくなつかしくなった。自分を尊敬し切らぬものとの交わりは不満であったが一方そんな事はつまらぬ事だとも思った。彼らと交わりつつ彼らの残し得ない仕事をのこすのも面白い。ただ一人の道はここに入っていても得られる。(大正11年1月)(163頁)

■帰路博物館の能面の事を思い、それを所有したい慾望の事を思い、これはつまり人類がよき芸術品を所有したい慾望のあらわれだからわるいものでない事を思い、引いて天才は人類の宝である事を思い、自分もその宝の一つの小さきものなるを思って、先日来の暗い気持に一道の光明を覚え感謝に耐えなかった。勉強勉強と思う。(大正11年11月)(231頁)

■中川はどうもいやな奴也。万は一番党派的でいけなかった。秋田のものをどうかしてとろうとしたがとうとう皆で落としてしまった。(大正12年5月)(293頁)

■他の人々の分らないのは仕方ないとして中川はどうも不正直でいやな男だ。(大正12年5月)(295頁)

■何となく淋しい。今後の生活の心配がある。今度の地震は実際美術家にはいろいろの不安を与えた。美術のはかなさも考えさせられる。しかし、美術というものの価値をそれで動かす事は出来ない。余はやはりいい画をかきいい画を愛してくらしたい。(大正12年9月)(319頁)

■10時過におきる。朝食後かれこれしていたら12時のポーがなる。それから麗子立像の仕事にかかる。――中略――扇を持つ手を挙げるため蓁と二人がかりで天上から麻糸をたらしたりする。(大正13年2月)(363~364頁)

■朝新聞の武者の春陽会の評に余の童女像の評あり見当ちがいの評にて少々片腹いたし。大体ほめてはおれど余の画を評するのは大胆也。少々不快の気持す。(大正13年4月)(372頁)

■武者よりハカキあり上京の由、先日の評を気にして来ていたが、それでこっちも別に不快でなくなった。今度気持よく会えるのをうれしく思う。(大正13年5月)(380頁)

■高嶋屋での展覧会の事につき、高嶋屋の方では大分のり気にて大きくやりたい、それについては日本画25点、120円平均として3千5百円その利益を折半という事にしたいがそれでは金額が少ないからせめて総額5千円にしたく、油絵を10枚(2百円平均)でかいてくれぬかという。それで結局牡丹を6百円、田に2百円ずつで8号5枚かくとして千6百で高嶋屋で買いとってくれという事をたのむ。相談して返事するとて11時過赤見君帰る。(大正13年6月)(383頁)

■小出楢重同伴也この男下人也。(大正13年7月)(389頁)

■昨夜はまた木村君に引っぱられて茶屋にいってしまったがどうもいやだ。あんな遊びは全く自分をひくいものにする外何の楽しみもない。しかしつい好奇心と女との興味から予覚をしながらつい木村へ行ったりしたのだがもうもう決していやだと思う。別に女と深入りする訳ではなく酒のんでさわぐだけだが自分にはどうもやはり女を弄んだような感じがして罪の感がのこる。のみならず、つまらぬみえや嘘がどうしても入るのがいやだ。俗人でなくては出来ぬ事、俗人との交を深める事だ。すっぱりやめようと思う。神よしもべの罪を希はゆるし、しもべの心に力をそそぎ清め給え。自分はそんなに弱い人間ではなく、またいつでもやめられるつもりではいる。しかしやはり神の力にたのまねばならぬ、仕事仕事と思う。俗人とのつき合いをすっかり止めよう。神よ罪をゆるし守り給え。(大正13年11月)(420~421頁)

■11時頃かおきる。昨夜また茶屋に行き朝酔いさめるとともに悔いしきり也。昨夜は大して不快の事もなかったがしかし、よくよく自分の意力の足りぬのをみて不快になる。しかし、もう止められると思う。大した事ではないのでかえっていけないのだ。(大正14年2月)(430頁)

■村田が蓁に、花菊を余が好きに思っているという事を話したので蓁が早速余にその事をいう。少々困った。夜はそんな気持から少し、この頃呑み過ぎの体ではあるが、また酒を呑み大分酔う。(大正14年6月)(451頁)

■木喰上人はちょっとしたものなれど、一種のカリカチュールとして面白きのみ也。深きものなし。描写のないものは本当の造形芸術とはいえない。(大正14年6月)(453頁)

■ひろのやにとまり、朝おきる。昨夜はウィスキーをひどくのみひどく酔いつぶれてしまったらしい。花菊にたおれかかり、鼻血を出さしたとか花菊もひどく酔って帰ったとか聞く。家へ帰るのが気が引けていけないのでままよと、お福さんと、菊勇つれて瓢亭へ行く事になる。花菊をよんだがまだ枕が上がらぬという。瓢亭へ村田もよぶ。そしたら花菊ももう気分がいいとて、でぼちんつれて来る。6人になる。4時頃ひろのやに帰りでぼちんと花菊を相手にうたをうたったりして遊ぶ。「何故に今夜はこんなにおそいのか」といううたをおそわる。夜食に洋食をたべ、9時半頃ひろの屋を出、四条を少しあるいて帰宅、蓁大におこり、夜なかなかねかさず。もう遊びも大がいにせんと思う。払いも大へんだ。何とか都合よく行く事希うものだ。(大正14年7月)(454頁)

2010年6月26日

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『自我の哲学史』酒井潔著 講談社現代新書

■あらかじめ見通しをいえば、われわれが通常、社会生活で是とする自我概念は、基本的には西洋哲学の自我概念の上に成り立っており、日本人は近代化においてそれを受容したのである。しかし元々それは体型に合わないスーツしたいなものではなかったか。それが露(あら)わになりだしたのが今日の思想的・文化的状況なのではないだろうか。自我が主体として、自由と責任の担い手たらんと意識することが、かならずしも人間の自己解放を意味するとは断定できまい。もしかしたら自我の確立は幸福のための絶対的な条件ではないのかもしれないのだ。(6頁)

■自我を考えるといっても、自我そのものが考えられているのではなく、じつは「自我の観念」(または「自我の概念」)があれこれと考えられているのである。「観念」とはこの場合、われわれの意識作用のなかで思い浮かばれている「像」であり、「表象」である。(23頁)

■日本語訳では「フィアシュテルンク」はふつう「表象」と翻訳される。カントなどでは「表象」と「観念」はほとんど同じ意味なのである。つまり近世では「イデア」も人間の意識が自らの前に置いてこれを思惟する対象、すなわち「観念」と呼ばれるものになる。「フィアシュテルンク」はそういう事態を直截にあらわした言葉だ。カント哲学から出発しながら独自の立場を標榜したショペンハウアーの主著も『意志と表象としての世界』と題する。ちなみに現在のドイツ語でも「フィアシュテルンク」は、思惟されている内容とか考え方などといった意味で広くもちいられている。

またデカルトからライプニッツを経てカント直前までの17、8世紀では、「観念」、「表象」、「概念」は相互に置換されて用いられていたのである。「概念」が事物の、特種的ではない普遍的な概念として、「観念」から区別されるようになるのはカントとヘーゲル以後のことである。(24頁)

■そうだとすると、そうした自我の像を見て、こんどは「これが私だ」と判断するいわばもう一人の〈自我〉が区別されよう。だがこの〈自我〉自体は、もはや認知の対象たりえない。この「自我の二重化」という問題を、さすがにカントは看過しなかった。カントによれば、普通われわれが自分自身について何事かを思い浮かべ、身体に痛みを感じたり、過去の自分を想起したり、あるいは自分の夢や空想にふけったりするとき、そうした意識の活動は「内感」と呼ばれる。しかしそこで示されるのはそのつどバラバラな印象に過ぎないという。そのような内感に知覚されたかぎりの経験的心理学的な自我は連続的でも主体的でもなく、自我の同一性を基礎づけることができない。

そこでカントは、心の内で想起されている自我に対して、そういう自我像に先行しつつ、これに論理的形式を付与して、自我や世界の認識一般を可能ならしめる純粋な制約としての自我を区別する。後者の自我は、それがアプリオリに対象へ越え出ているという意味で「超越論的自我」と呼ばれる。「超越論的自我」は実体でも主体でもなく、「私は思惟する」という活動そのものである。「私は思惟する」はどんな対象認識にも伴っている。たとえば「私は何かを見る」は、「私は、私が何かを見ていることを、思惟する」という意味にほかならない。「私は思惟する」という純粋な活動としての超越論的自我は、われわれによっていつも気づかれているわけではない。しかしそれは常に機能していて、それ自体不変で同一である。それは内感の非統一的自我に対して、真の統一と同一を付与する原理として優位をもつ。やはり結局カントでも、自我の同一性や主体性という性格そのものは、位相をずらして、「超越論的自我」のそれとして堅持されているのである。(25~25頁)

■だがヴィットゲンシュタインが『論理哲学論考』などで示唆しているのは、それ自身は絶対客観化されないような自分だけの我、すなわち〈自我〉のことであろう。世界を対象的に観察し、記述する主体は、そこで現れる他の事物や人間と同じ資格で存在するとはいえないが、さりとてそれは無ではない。かくてそのような〈自我〉は「世界の境界」とか、「形而上学的な主体」などと呼ばれるのである。しかしそういう絶待に知られる側には立たないような〈自我〉もまた世界の内に存在するはずであろう。〈自我〉は世界の外部から、ある神的な視点に依拠してこの世界を傍観するというのではないだろう。それは超歴史的でも超自然的でもない。自我は〈自我〉によって「私はコレコレである」と認識されたかぎりでの自我と同様に、すでに歴史的現実の世界の内にあるところの主体なのである。(28頁)

■このようにキルケゴールにおいては、単独でかけがえのない自我は、デカルトのように思惟実体でもなく、カントのように超越論的自我、もしくは道徳的意志でもない。キルケゴールは自我を主体や主語の側にではなく、むしろ私が私に関わる関係の側に見出そうとする。自我はもはや何か有るものというよりは、そのつど「私が私へ」関係する活動自体を意味する。かくして自我は「自己」Selbstという概念のもとに考察されることになる。自我から自己への転回こそ、20世紀の実存主義の先駆とみられるのである。(31頁)

■キルケゴールにおいてにおいても、またその後の実存主義の系譜上に位置づけられるサルトル(J.-P.Sartre,1905-80)やカミユ(A.Camus,1913-60)においても、たしかに「自己」が主題であり、これは決して実体ではない。サルトルの言う意識としての自己は、「即自」(en soi 事物的存在)ではなく「対自」である。「対自」(pour soi) は、読んで地のごとく、自分が自分に対しているのであって、自分と自分のあいだにそれゆえ「無」を含み、脆弱である。いかし「対自」は他方ではそれゆえにいろいろなことを企て(「投企」)、自分を超えてゆく、そしてその意味で自由でもあると強く示唆されている。すでにキルケゴールでも、自己は、己を定立した唯一の他者すなわち神に対して立つ単独者であった。つまり自己は自らの内に緊張または分裂を含む特異な存在者でありながら、そういう自己全体の内容・性格については、近世的伝統である連続性、同一性、行為の責任主体といった性格を色濃く保っているのである。(31~32頁)

■しかし懐疑が真に徹底されるべきであるなら、そうした私の行う〈説得〉、あるいは〈思惟そのもの〉も否定されねばならなかったはずであろう。しかしデカルトの懐疑は、「私」の存在には向けられぬばかりか、意識の、疑ったり自己説得する働きそのものの明証性にもかっして向けられない。〈私が欺かれる〉とは、〈悪霊によって欺かれた者として私は自分を思惟する〉を意味するのであって、そのように想定する私の思惟自体はすこぶるクリアだということが前提されているのである。(39頁)

■デカルトは、「懐疑」を方法としながら、じつは最初から、我の存在ならびに意識(思惟、コギト)の明証性という二つの聖域を設けていたのである。(40頁)

■いうまでもなく「実体」(substantia)はギリシャ哲学における「ウーシア」以来の伝統的概念であり、「それだけで存在するもの」を意味する。デカルトもほぼ伝統に沿って、「実体」を「存在するために他のいかなるものをも必要としない、というふうに存在するもの」と定義している(「哲学原理」1-51)。たとえば色とか長さとかは単独では存在できず、かならず何かあるものの色や長さである。それにたいし自我は自我だけで存在できる。また、実体の性質のうち、それを欠いては実体が存在できないような本質的なものを「属性」という。実体は属性によって認識されることができる。そういう属性としてデカルトは自我について「思惟」を認めるのである。かくて自我は、あらゆるその変化・状態にもかかわらず、それ自身は、同一で連続している。「実体」「性質」「属性」という伝統概念に訴えてまでデカルトは、「我思惟する」という作用から「我は思惟する実体(すなわち精神)である」を帰結しようとしているのである。(44頁)

■たしかに、デカルトは、中世からそれまでの伝統的哲学のように、「心」を自存する実体として前提するかわりに、「懐疑」という革新的な方法により、彼の哲学の土台を吟味し、構築し直そうとした。そのために自分の意識に映ったものを順次ふるいにかけていった。しかしそもそも〈思惟以外の性質をまったくもたないような自我〉という観念も、〈思惟という働きの主体である思惟そのもの〉という観念も、そのような意識検証によるならば、検出されるよりは、むしろいずれも疑わしいとされかねない代物だったのである。にもかかわらず、デカルトは「思惟だけを性質とするような自我」、「精神という名の実体」という観念が真であり実在的だと断定するのである。(45頁)

■自我は連続的であり、常に同一でなければならない。そのことの形而上学的表現が「我は思惟実体である」であった。「実体」である以上、自我は連続で同一でなければならない。そのような自我を、デカルトは意識の内部に見出そうとした。(54頁)

■他方、そうした経験的心理学的自我のいわば背後にあって、これを絶えず思惟し、私はいまコレコレだと意識しているが、それ自体は絶対に対象化されない、もう一人の自我が考えられる。「いま窓から冬空を眺めている」と意識しているのは、たしかに同じじぶんではある。しかしそのように意識している当の〈自我〉は、およそ何であるともいえないような自我なのである。

この後者の〈自我〉を、カントは「我思惟す」(Ich denke)という自己意識(=統覚)の働きとして、彼の『純粋理性批判』の根本に置いた。この〈自我〉は、一切の対象認識をアプリオリに可能ならしめる論理的形式的な制約である。その意味で「我思惟す」の〈自我〉は「超越論的自我」とされる。つまり、それは対象認識を可能にする先験的制約であり、対象に認識が「超えてゆく」仕方をアプリオリに示すのである。(56頁)

■「我思惟す」は「統覚」(Apperzeption)と呼ばれる。統覚はその語源ad-perceptioの語義どおり、対象知覚に付け加わる意識作用のことである。しかし知覚にそのつど付加し、「私が何かを思惟していることに気づく」というような統覚は「経験的統覚」である。「経験的統覚」は「内感」に相当する。これに対し、「我思惟す」が対象認識をアプリオリに可能ならしめる場合、それは「超越論的統覚」といわれるのである。(57頁)

■悟性による直感の多様の結合は、単なる取り集めでないとすれば、「一」ないし「統一」という概念を要する。この「一」は「統一する」働きによる。この統一こそ、超越論的統覚たる「我思惟す」が常に対象表象に随伴していることによって実現させる。多様を結合する仕方としてのカテゴリーは統覚の統一作用に担われている。小舟という対象について何かを判断し認識するとき、そのことを「我思惟す」が知覚に伴いつつ、知覚をいわば自己にひきつけられてこれを、たとえば因果性の範疇に従って結合統一することによってのみなされると、カントは考えるのである。(59頁)

■デカルトからカントへの展開を通じて、西洋近世の同一的、連続的、主体的自我は一層内在化される。つまり自我は意識の内部に置かれる。デカルトでは自我はそれでもなお「思惟実体」と規定されたのに比し、カントでは自我は対象認識の「超越論的な制約」だとされる。それはもの(res)として有るのではなく、私が何であれ認識を行う以上、常に「我思惟す」として随伴するはずの論理的機能でしかない、というのだ。(61~62頁)

■ところで、このように経験的自我にやいして、いわばその論理的制約としての超越論的統覚がより根本であるとすれば、そこには個人性はない。超越論的統覚作用そのものは普遍的だからである。誰もがいわば無色透明な、「我思惟す」を遂行しているというだけでは自我の個別性は生じない。個人差がわれわれにそれとして認知されるのは、むしろ経験的統覚(内感)においてであるだろう。しかしラントは超越論的自我に定位し続ける。個別的な経験的統覚は、意識に対する表象でしかない、という立場をとるのである。(63頁)

■永田良昭著『人の社会性とは何か』(ミネルヴァ書房、2003)は好個の案内である。まず自己は自己であるという「同一性」について見てみよう。エリクソン、ミード、ストライカー、バークといった社会心理学者が、自己の「同一性」を論じている。その場合、(A)社会的構造と自己の関連に注目するか、(B)自己の確証の内的過程に関心を寄せるかという2つの方向に区別したうえで、このAとBを統合することが示唆される。この2つの方向の区別は心理学における対比であるが、これを形而上学の位相に移せば、Aは明らかにライプニッツ的、Bはデカルト的もしくは唯名論的な自我論――そこでは私の個性を客観的に決定するよりも、私に気づくことが主題である――ということができよう。

同一性とは、単に自己自身の不変性の感覚を意味する(B)だけではなく、自己自身と他者が共有する基本的性質をも含むもの(A)として再構成される必要があるという、この社会心理学の主張は、その経験論的アプローチを別にすれば、たしかにライプニッツを連想させる。(86~87頁)

■今日の社会心理学では、「われわれが他者との関係において存在し、自己自身の定義そのものが社会的に成立している以上は、他者と自己の関係が明らかになることがとりもなおさず自己が何物であるかを明らかにすることである」と結論される(永田、163頁)。しかしこれこそは、個体は、個々をめぐる状況や他者との行きがかり(外的規定)をも余さず含んではじめて規定されうるとしたライプニッツの意図したことではなかったか。(87頁)

■ライプニッツが、世界が神に予見されながらもあくまで「必然」ではないと主張するとき、一切は唯一実体=神の様態として必然的に産出されるのみとしたスピノザへの対抗があるだろう。とにかくライプニッツによれば、他の誰とも違うこの唯一の自我に関わる出来事や意志決定の系統は、神の創造の自由も人間の自由をも排除しない。スピノザの指示したような絶対的必然性ではなく、むしろ「仮定的必然性」と呼ばれるべきものである。(89~90頁)

■ところで、同一の葉は2枚とない、というライプニッツの言い分に反駁しようとしたある貴族が、ヘレンハウゼン城館の広い庭園を探しまわったが、同じ形状の葉を見つけることはできなかった、という当時のエピソードが残っている(「人間知性新論」Ⅱ-27-3)。(92頁)

■いずれにしても「自我とはかくかくのものである」という観念が確立されたのが、デカルトに始まる近世哲学の自我論の展開であったといえよう。カントやフィヒテでは英知的で道徳的な自我が、経験的な自我を律するという面が強く示唆された。ところが、ヘーゲル以後、19世紀中頃になると、ショーペンハウアー(A.Shopenhauer,1788-1860)やキルケゴール(S.A.Kierkegaard,1813-1855)まどのように、そういう理性的な自我の背後にあるような自我を、ある根源的な意志として見ようとする傾向が出てくる。根源的な自我といっても、もはやカントのように理性的なもの、普遍的なものではなく、むしろ個別的単独的で、実存的である。(96頁)

■キルケゴールが哲学史上にもたらした貢献は、なんといっても、「自我」(Ich)と「自己」(Selbst)を区別したことである。ここに初めて「自己」が哲学概念として明確に問われたのである。「自己」という概念の登場をもって、実存主義の開始と見ることもできる。それまでは、デカルトでもカントにおいても、主体的で主語的な「自我」が主題であった。その事情はデカルトのように思惟実体であろうと、カントのように超越論的主観であろうと基本的にはかわりはない。どちらも主体的、能動的であり、それについて述語としてさまざまな状態や作用が付与される。

これに対してキルケゴールは、主著として名高い『死にいたる病』(1849)第1編Aの冒頭で、「人間とは精神である。しかし精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし自己とは何であるか。自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である』(桝田啓三郎訳、中央公論社)と言明し、精神を自我でなく、最初から「自己」と定義する。(97頁)

■第1の関係の軋轢から生じる絶望は、何かについての絶望である。たとえば自分の有限性、あるいは不自由について絶望する。キルケゴールによればこれはまだ本来の意味で絶望とはいえないし、人は多くの場合、自分が絶望していることにすら気づかないでいる。

第2の関係(再帰的関係)の軋轢から生じるぜつぼうは自己逃避である。自分で自分が支えきれなくなり、自分から逃げようとする。

第3の、神への関わりあいが不透明になってしまうような軋轢から生じる絶望が、傲慢、強情、反抗であって、これが最も深い絶望である。「死にいたる病」とは、ガンでも心筋梗塞でもなく、まさにこの絶望を意味する。この3重の深まりゆく絶望の現象を克明に跡づけてゆくことが『死にいたる病』の最大のモチーフであった。(100頁)

■自我は各自の「遠近法」を遂行しつつ生きる、とニーチェは言う。自我のある数だけ、異なった遠近法が存し、またその逆でもある。(106頁)

■「遠近法」は自我が世界を見るときの見方である。その視線は主観=自我の方から放たれている。素朴な実在論や知覚因果論のように、われわれの感覚が外的対象から刺激を受けることにより知覚が生じる、というのではない。自我が、自らの作用によって世界を支配しようと意志するのである。遠近法主義の思想で主題化されるのは、主観から対象へという方向がもっぱらであって、対象から主観へという方向はほとんど見られていない。(107~108頁)

■自我と呼ばれるものが、さしあたり日常性ではどのような有り方をするかを問うのが、彼の前記の主著『存在と時間』(1927)の「現存在の準備的基礎分析」である。近代的自我の主体性、連続性、自己同一性といっても、「事実生」の諸相においては自己隠蔽は、現代の大衆社会によって助長され増幅される。カントやヒュームのように合理主義的な、あるいは自然主義的な見方では不十分である。なぜなら自我は必ずしも理性の判断を目的とはしないからであり、また動物や植物などの自然的存在者と違って、自我はそのつどの時代や地域に固有な仕方で現れるからだ。

『存在と時間』を構想・執筆した1920年代ヨーロッパの都市と技術と人間を、ハイデッガーもヤスパースに劣らず注視しつづけた。そして同書の白眉をなす現存在分析論を通じて、自我は、彼の見た日常的現実においては、近代的自我の理念とはおよそ逆の傾向を示すことが露にされる。それをふまえたうえで、ハイデッガーは現存在の実存をなおも「存在可能」としてとらえる。これは、自我を「有ることができる」という視点から、時間性でいえば「将来」の方から見ることを意味する。つまり、現存在は現実にはそういう非本来生に埋没する有り方をしていても、これに馴染まず、あえて自己を解放し、「世人」から「自己」自身にもどるように「決断」することも「できる」のである。(125~126頁)

■ここでハイデッガーが示唆する「覚悟」とは言うまでもなく、単に心構えというようなことではなく、「死への存在」としての自己の有り方、すなわち「先駆的覚悟性」を意味する。ふだんは忘却している死を、他の誰にも代わってもらえない我がこととして引き受け、そうした自分だけの存在を選びとるべく改めて決断することである。そのとき自己は本来的となり自己として常立的に自らの立つ場を確保しつつ自立する。(132頁)

■現存在は投げられて・投げる「被投的企投」の存在者であると、ハイデッガーは定式化する(134頁)

■ハイデッガーによれば、現存在の歴史性とはこういう事態である。まず、現存在が己れの死に先駆しつつ己れの存在をそのつど決断しつつ、かつ現存在がかってのそれであったところのもの、ないしわれわれが現にそうでしか有り得ないところの「伝承」ないし「遺産」(Erbe)をあらためて己れに「引き受ける」。そして、その反復のなかで、現実世界の状況にそのつど向いあい、関わ現存在のあり方が、「現存在の歴史性」である。けだし「伝承」とは「伝来の諸可能性をすでに自分自身に伝承させること」なのである。(135頁)

■戦争、迫害、災害などによって、実際におおくの「ホームレス」が生じる。また経済不況でも多くのホームレスが出る。しかし目には見えないが、一層大規模で深刻な事態が考えられる。それは、自我そのものが自己を失い、自己の居場所すなわち故郷を失うという「ホームレス」なのである。ハイデッガーも、第二次大戦後に発表した一連の講演や論文を通じて「故郷喪失」を指摘し、「馴染まれた世界」から「見も知らぬ空間」へと、現代人の地球規模の大量移住が進行中である、と警告している。(144頁)

■ディルタイはこうした「生」としての自我をとらえるために、「解釈」という新しい方法を提示した。「認識」が自然科学の方法であるのに対し、「解釈」は精神科学、なかでも歴史学の方法として重要だと主張する。「生」はどのような仕方でとらえられ得るのか。

「生」はこれを分析によって部分に分けたり、要素に還元したりすべきものではない。「生」はただその全体としてのみ理解され得る。「生」の全体とは、そこにおいては異なった諸契機がひとつの統一に向けて織り上げられているような「連関」のことである。「生の連関」は単なる生命体の身体システムでも、心理学的な統一体でもない。それは、まさに体験されたものからなる連関として、自我生活の現実を規定している。(149~150頁)

■賢治にとって、宇宙も、自我も、そのつど自分の心に映った「心象」の内容に他ならなかった。そういう意味で賢治の心象世界はまさに何でもありの世界である。そこには、一方では天台や華厳などで説く「一念三千」や「三界唯心」との、また他方では「宇宙の鏡」として全世界を表出するライプニッツの「モナド」との近さも見出される。そしてそれはそのままスケッチされ、詩作の素材にされるべきものだったのである。(162頁)

■その理由として賢治は、相互主観性の理論というようなものに訴えるのではなく、むしろ彼独自の相互浸透的な精神の共同体ともいうべきものを提示する。他人といってもそれは自分の心の中に映った他人の心象である。また私も、他人にとって、外部の絶対的な他者でなく、他人の心の内部に映った心象なのである。要するに私といっても他人といってもすべて心象内部のことである。

そのかぎりにおいて、デカルトの引いた内と外という区別は意義を失う。私と他人、他人と私、個人と個人はいわばたえず境界を自由に出入りする。境界の維持されるフッサール的な類比に基づく感情移入論ではなく、越境型の自他一元論とでもいえよう。(165頁)

■その「序論」で西田は、自己が自己を写す自覚について、「例えば英国に居て完全なる英国の地図を写すことを企図すると考えて見よ」と述べて説明する。自分のいる場所の地図を遺漏なく写そうとすれば、その地図に加え、それを写している自分をも新たに写しとらねばならない。こうしてそれは無限に続く。自己を写すとは静止的な事柄ではなく、無限に動的に発展するはたらきである、と西田は言う。(170頁)

■自覚とは、2つの同様な自己の結合ではなく、直感と反省を総合する働きである。第一期の『善の研究』では〈純粋経験の自発自展〉と〈その外でこれを反省する営み〉とが、いわばまだ分裂したままだった。別の言い方をすれば、主客未分の「純粋経験」において、自己は直接に経験可能とされるにとどまっていた。しかし、自己は反省によって論理的言語で説明され得るものでもなければならない。だが「反省」といっても自我を外から写すのではなく、自己の事実としてアプローチされねばならない。(171頁)

■自我は何である、と言った瞬間、それはもはや自我ではなくなる。だから自我は述語に置かれる以外ない。これが論理的には述語論理と呼ばれ、存在論的にみれば、無によって包まれ、無が自我に浸透するといわれる事態だ。「自我は何でもない」。西洋哲学では、存在者はかならず何らかの属性をもつ。例えば、中世哲学では「事物」ということが超越的範疇としてすべての存在者について語られた。つまり有るものは必ず何かとして有るのだ。これが「実在性」ということのもともとの意味だった。したがって無はいかなる属性も持たないのである。西田はそういう西洋哲学の概念を用いて、実体でもなく、同一、連続でもないような自我を言語化しようと試みているのである。(178頁)

■西田は亡くなる2ヶ月前の1945年4月に書き上げた長編論文「場所的論理と宗教的世界観」のなかで、われわれがそこから生まれそこへと死にゆく世界を「平常底」と呼んで強調する。しかしこの「平常」ということも、われわれの日常を無造作に肯定したものではなく、ある種の還元(エポケー)のうえに成り立つ。つまりそれは、われわれが目前の物に没入する有り方から己を転じ、世界と自我、生と死をひとつのこととして見る立場に立ってはじめてなりたつ境地である。囚われのない、述語の方向に自我を問い極めるとは、自己のうちに自己を深いところで体験するということである。自我は自己として、平常底における直接的で深い体験をとおして知られるのである。そういう体験は世界の事物に対して何か受動的であるよりは、むしろ「物となって考え、物となって行う」という境地での体験であり、そのとき自己はその真実において証明されるであろう。(180頁)

■西田はとくに1930年代以降、「歴史」の問題に向かい、歴史を、無を根底として個が相互に無尽に限定しあう絶対矛盾的自己同一としてとらえようとする。そこでは世界も自我もそういう矛盾的自己同一のいわば坩堝、大海のなかに呑み込まれていくかのようだ。自我の営みや作用は全面的に歴史の中に収容される。自我と他者、自我と世界は相互に溶解する。そうした全体が、西田によってしばしば日常的全体あるいは歴史と同一視されるのである。(181頁)

■心理学者の下條信輔氏は『サブミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ』(中央公論社、1996)において、大脳生理学等の知見を用いながら、人間の心が、顕在的で自覚的な過程だけでなく、潜在的で無自覚的な過程にも強く依存していると主張する。そして他者知覚と自己知覚との間には、「手がかりの与えられた方に関する過度の差こそあれ」、本質的な違いはない、という驚くべき結論を提出している。これこそ、「我の観念が最も明証的である」と断言してはばからないデカルトにはっきり対立する立場であろう。(198~199頁)

■このように近代の自我概念は主体的であるとともに、同一的であることをその重要なメルクマールにしてきた。今日ではそれが昂じて、人々は、主体性などよりも、もっぱら同一性にしか注意を払わなくなっているようにも見受けられる。それは、パスポートや保険証の偽造による詐欺、本人の声を装ったオレオレ詐欺、キャッシュカードのスキミングなどによる銀行預金の不正引出その他、個人情報がらみの犯罪が増加している状況とも関係があるのかもしれない。もしかしたら自我の実質は、ただ「ニセモノではない」という事態に還元されてゆくのであろうか。(210頁)

■プラトンの代表作『国家』第7巻冒頭部に述べられる有名な「洞窟の比喩」こそ、このギリシャ発祥の(哲学)における物の見方の基本性格を示している。

その比喩によれば、われわれの通常の認識の仕方は、ちょうど暗い洞窟の中で、奥底を見るように頭が固定されたまま、椅子に座らされている囚人達に比べられる。彼らのはるか後ろには火が燃えていて、洞窟の上方を行き交う人間や事物の影が洞窟の底に映っている。囚人たちは後ろを振り向くことができないので、影の正体、つまり真実在を見ることができない。彼らは子供のときから影しか見ていないので、この影を真実在だと思い込んでいる。もしそれに疑義をさしはさみ、光が差してくる方向を指示する人がいても容易に聞き入れず、敵意すら抱く。故にわれわれは、まず、影でなく人間や事物そのもの、すなわち真実在を見ようと努力しなければならない。次に、ひとたび真実在を見たならば、暗闇に戻ってそこに縛られ続けている人々にそうした真実を伝えなければならない。この2つが哲学者の役目なのだ。(218~219頁)

■「見る」ということが、たしかに西洋哲学の認識論の原点にはある。伝統的認識論のイデア追究的、現実世界離反的な傾向を批判したニーチェにおいてすら、彼の言う「力への意志」は同時に「光学的な見」とも言い換えられてもいた。それはフッサールでも基本的に同じだ。しかもフッサールが、見るはたらきと見られたものとの「志向性」の関係と言ったときには、見るはたらきから、矢が志向対象に向かって放たれている。科学者が対象を見る目は攻撃的である。対象は見るものに対して曝され弱々しく無防備であり、傷つきやすい。日本語には、「刺すような視線」という表現があるが、これは故なしとはしない。(224頁)

■要するに、中庸を実現できる人間は万事に心配りや気遣いのできる人なのである。そのためには自我は一定の視座に立ち続け、刻々変化する状況を持ちこたえ、かつ受け身ではなく能動的に判断できるのでなければならないであろう。つまり自我は連続的、同一的、主体的であることが要請されているのである。すでにアリストテレスにおいても、自我が自己同一的に事物や状況を己の視点から観察し続ける。換言すれば、感情の波に隷属することなく、自発的に世界の中心に立ち続け、周囲の世界の変化を冷静な絶対的観察者として「見」ている、という近代的自我モデルが早くも見出されるのである。(233頁)

■往々にしてわれわれは、外に現れた言動とは別に、他人の内面を区別してかかっているのではないか。「あの人は言ったり行なったりしていることはひどいが、芯は善人だ」というような言い方がよくなされる。だが、言動に現れたことに基づいて、その通りに判断してなぜいけないのだろうか。なぜわれわれは、現れもしない不可知の内面的自我を想定し、それが何であるかを解釈しようとするのだろうか。

よく知られているように、心理療法の一種である精神分析の臨床では、患者の深層自我を呼び出そうとする。しかし、観察し分析する者としての医師との一対一の面接は、患者の衰弱した自我にとってはあまりに重いものである。

このような精神分析の方法に対して、最近あらたに「行動福祉」という立場が注目を集めはじめている。行動福祉(行動療法)は、個人の無意識や過去も含め全人格にコミットしようとする精神分析とは違って、当面の問題になっている事柄だけを対象とする。したがってクライエントの内面に立ち入ることはしない。行動療法のほうが医師も患者も言ってみれば気が楽なのであり、しかも治療の効果ははるかに早く出る場合が多いと聞く。(244~245頁)

2010年8月7日

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『森の小道・二人の姉妹』シュティフター作 岩波文庫

■この注目すべき人間という種族は、大局から見れば、素晴らしくかつ奇妙な存在である。――人間は絶えず変化し、そしてつねにより優れた完成へ向かって進んでいると妄想して来た。人間のとらわれた目には見透すことなどできもしないが、完成に至るにはこの先何百万年を要するのであろうか。――そんなことは誰にも分りはしない。私たちが私たちの感情、思考もろともに現在の外に立ち、現在からもぎ離されるならば、誰もがたちまち不安と渇望と熱狂におちいる。――多くの美しい高貴な心が私たちに微笑みかけ、私たちはそれを愛し、抱き締めようとする。しかしそれもまた過ぎ去る。――ついで私たちが自然に目を向けるならば、数知れぬ植物が山の彼方まで広がり、雲が流れ、川がざわめき、光がきらめくのを見るならば、――そこには絶え間ない営みがあり、とこしえの静まりがある。自然に心は柔げられ和められる。他方、私たちがもっと深い関心を寄せれことができれば、たちまち、躍動する大衆によって、人間の心は熱狂させられ、高められる。私がただ一人で、愛する者も憎む者もなかったころ、私は世界史によって人間を知った。そこでは人間は、身近な、手に触れる動きのなかで自己を主張したがる現在の人間とは違っていた。今しばしば最高のもの、もっとも聖なるものとされているものは、昔はなかった。現在無視されているもの、誠実さ、友にも敵にも向けられる公正さは、昔はつねにあった。一部の人にだけ愛好されていた雄弁家が、同時代人に熱心に説いたものは、つぎの世代では、違ったもの、まったく違ったものになった。(148頁)

2010年8月23日

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『まなざしの誕生』下條信輔著 新曜社

■赤ちゃんは生まれつき、自分の感覚器官と運動器官をフルに駆使して、積極的に外の世界を探索し、興味深い対象を発見すると、それについて最大限の情報を得ようとするような、強い衝動を持っている。わかりやすくいえば、「物見高いのは生まれつき」ということになる。

そして、この「物見高いのは生まれつき」という点こそ、じつは科学的な「赤ちゃん観」の革命=ベビー・レボルーションにつながる、より根本的な発見といえるのだ。

「生まれつき」とはいっても、それまでの、何もかもを経験による学習のあかげと割りきってしまう考え方をただ否定して、逆に何もかもを生まれつきの能力として認めてしまおうという立場だと、誤解してはいけない。むしろ、人間の心の発達におけるさまざまな事実――ことばの獲得やものの見方の学習など――を理解しようとするとき、「すべて経験によって学ばれるのだ」というだけでは、結局何もわかったことにならないというあたりまえのことを、まず率直に認める。その上で、具体的に何が、生まれつき「組み込まれた」メカニズムであるのかという発達の出発点と、そこからの学習のみちすじとを、できるだけはっきりさせることによって、「赤ちゃんは白紙のような状態で生まれてくる」という素朴な誤解を、発展的に乗りこえようとする試みなのだと考えたい。

そのような観点からすると、ものの見方や外の世界の事物について学びはじめるために、あらかじめ「組み込まれた」出発点として名ざされなければならないのは、(頭や目などのからだの動きをふくめた)主体的な探索活動の能力そのものだということになるだろう。(52~53頁)

■これらをまとめるとすれば、赤ちゃんは「何かがありそうな方」、「何かが起こりそうな方」を好んで見るといえそうである。同じことをもう少し理屈っぽく言いかえるなら、赤ちゃんは、時間的-空間的に変化に富む刺激を好むという言い方もできる。

赤ちゃんに話しかけるときには、誰でも思わず身ぶりや表情が大げさになり、声の抑揚も大きくなってしまうが、赤ちゃんのこのような習性を考えれば、そのほうが都合がいいのだ。

赤ちゃんは――少なくともヒトの赤ちゃんは――能動的に探索することのできる、「情報収集マシン」として設計されているといえるかも知れない。(54~55頁)

■ここで、「現象としての選好注視」と「方法としての選好注視」とのちがいについて、もう一度はっきりさせておきたいと思う(もちろん、違いと言っても、同じもののふたつの側面だが)

赤ちゃん研究のレボルーションに果した役割という点からすると、このふたつは対照的である。まず選好注視を現象として見ると、赤ちゃんがつねにより情報量の多い側を選ぶという事実そのものが大切である。前にも述べたとおり、この発見は、赤ちゃんの自発的な情報探索の活動を、生まれつきのものとして認めることにつながる。

これとは反対に、選好注視が赤ちゃん研究の方法として応用されるときには、赤ちゃんがどちらを選ぶかではなくて、とにかく一貫した選好を示すことの方がはるかに大切である。それによって、感覚、知覚のさまざまな側面を調べることが可能となり、心の発生学の間口が大きく広がることになった。(57頁)

■最新の電気生理学や解剖学などの教えるところによると、ヒトやサル、ネコなどの視角処理システムは、大きくふたつの系統に分かれる。ひとつは、伝達の速度がたいへん速く、明るさ(コントラスト)の変化や運動に敏感だが、解像力が低く、色に対して鈍感なシステム、もうひとつは、伝達の速度が遅く、変化を検出する力は落ちるが、解像力と色の検出にすぐれたシステム。(61頁)

■その理由はたぶん、認識しなければならない相手が、光や網膜上の映像(イメージ)そのものではなくて、外の世界に存在しているほんものの「もの」だからだろう。わたしたちは、光やイメージを食べて生きながらえることはできないし、また自然の光やイメージによって、生命をおびやかされることももない、そして、赤ちゃんが、光ではなくて「もの」を見るこのような能力を、生まれてすぐに学ばなくてはならない理由も、そこにある。(80頁)

■(1)赤ちゃんはいつ、世界を「正立」したものとして見ることを学ぶのか?

先に説明したとおり、網膜上の映像は外の世界のものに対して倒立している。しかし、外の世界についてのわたしたちの知覚は――この網膜像についてのわたしたちの知覚は――この網膜像によってもたらされたことがはっきりしているにもかかわらず――「正立」している。これはただ単に、わたしたちが学んだせいなのだろうか?つまり、わたしたちはいつの間にか「網膜像が倒立している時は、外界が正立しているものと解釈しなさい」ということを学んだのだろうか。

(2)赤ちゃんにとって、ものはどのようにして、奥行きをもって見えるようになるのか?

網膜像が平面的であるのに、世界が3次元に見えるのは、このふたつの間にある規則性があるためらしい。つまり、わたしたちの住んでいる世界の奥行きは、網膜像の中に一種の信号、あるいは暗号として埋め込まれているとみることもできる。だからこそ、たとえば前ページのイラストのような風景で、家が人より手前に、木が家より手前にあることを、わたしたちは誰も見まちがえたりはしない。わたしたちはいったい、いつどこで、そのような「暗号解読」の術を学んできたのだろう?

(3)赤ちゃんにとって、ものはどのようにして、いつもお同じものに見えるようになるのか?

網膜像が前にもふれたとおり、同じものに対して千変万化のものだとすると、それが「同じもの」だということを、わたしたちがはじめから知っていたとは考えにくい。たとえば極端な例として、頭や眼球を動かしたときの、ものの像の網膜の上での動きを考えてみよう。このものが本当に動いているのではなくて、実際には静止しているのだということを、わたしたちは知っているし、また現にそう知覚する(対象の位置の恒常性)わけだが、それはどのようにして学ばれたのだろうか?

(4)赤ちゃんの手足は、どのようにして、見えるのと同じ場所に感じられるようになるのか?

右手を使って、あなた自身の左手をちょっとつねってみてほしい。痛みが右手に感じられないのはなぜだろう?あるいは、からだのほかの部分に感じられないのはなぜだろう?さらにはまた、あなたの隣りにたまたまいる人の左手が見える位置や、その左手の置いてあるテーブルの角や、天井の隅や、はたまた空気以外には何もない空中などに痛みを感じないのは、いったいどうしてだろう?

わけのわからない質問をするな、という前に、あなたの手と目とから別々に発した信号のことを、考えてみてほしい。それらを脳内にまでたどってみたところで、そのふたつの信号の流れの間に、神経による何らかの連絡を仮定しないかぎり、この疑問には答えられない。そして次には、この連絡がいつの間に、またどうやって成立したのかという疑問が、湧いてくるのだ。

すでにお分かりだろうと折り、この四つの問題はどれも、赤ちゃんのものを見て認識する能力が、カメラのモデルを超えるのはいつごろからなのかという問題にほかならない。カメラのモデルを超えるということはつまり、目から入ってくる光や、耳から入ってくる音波に対して機械的に反応するのではなくて、それらを外の世界に実在するものや人からの信号として解釈するということ、外の世界についてのイメージや記憶を持つということである。

さらに言いかえれば、これらは、赤ちゃんが単純な機械のはたらきを超える――つまり「心』を持つ――ようになるのは、いつごろなのか、という問題なのだ。(81~84頁)

■カリフォルニアを本拠に活躍した知覚心理学者G・M・ストラットンは、視覚の研究の歴史の中でもっとも向こう見ずな――といって悪ければ、もっとも勇敢な――実験者のひとりといえるだろう。

1890年代に2度にわたって彼は、目に映る像を180度回転する、つまり上下左右を逆転するようなめがねを、片目につけたままで、文字どおり「生活」した(もう一方の目は、いうまでもなく覆われていた)。この「さかさめがね」を付けたままで、数日間(とくに2回目の実験では8日間)日常生活を続け、自分の知覚と行動とを細かく記録したのだ。(85頁)

■しかも、ただ慣れるばかりではない。ストラットンの記録の後半を読むと、外の世界はいつの間にかひんぱんに「正立」の印象を取り戻すようになった。とはっきり書いてある(剪光までに、ほかの動物では、サルで多少の順応が見られるほかは、あまり行動の改善が見られない)。

ストラットンによると、まがねをつけはじめてから何日かたつと、見える自分のからだの位置と、感じられる自分のからだの位置とが、いつの間にか一致するようになり、そのことが「正立」印象が戻ってくるきっかけになるという。また「正立」の印象が戻ってくるのは、とりわけ自発的に行動し、外の世界のものに向かって積極的にはたらきかけようとしているときであるらしい。この点は、その後の研究でも確かめられている。(88~89頁)

■ここで、蛇足ながら、めがねを外した直後の残効について、ひとこと触れておきたい。このような順応期間のあとでめがねを外すと、その直後はふたたび視野の動揺がはげしく、それは数時間続く。しかし上下左右の方向性に関係した混乱は、特別な場合を除くと、ほとんど生じない。「視野がふたたび倒立する」という、一部に流布されている俗説は、だから厳密には誤りである。(89頁)

■見かたによっては、赤ちゃんは誰でもはじめから、逆転めがねをつけて生まれてくるのだ、という言い方もできる(網膜は倒立しているから)。しかしだからといって、「赤ちゃんは、はじめは世界を上下さかさまに見ている」などとは、やはりいえない。

その証拠に、もし赤ちゃんが世界を上下さかさまに見ているとしたら、「さかさめがねの実験」のおとなの被験者と同じように、たちまち気分が悪くなり、吐いてしまうだろう。しかし、もちろんそんな兆候はすこしも見られない。

赤ちゃんが吐いたりしない理由は、生後数ヶ月までの赤ちゃんでは、はじめから外の世界についてのモデルやイメージを持ち合せていないということである。比較の規準がないのだから、目まいを起こしたりする理由もないわけである。

また、生後数ヶ月をすぎて、いよいよ赤ちゃんが経験を通して学び、ものや世界についてのモデルを心の中に作りはじめたときに。それと矛盾し抵抗するような過去のモデルがないということもある。だから、古い記憶に照らして見える世界が、「さかさ」だと思いこんだり、わけもなく揺れ動いているとみなしたりはしないのだ。

生後2、3カ月目までの時期は、刺激に対する反射的な反応と、睡眠(沈静)-覚醒(興奮)の内発的なリズムとによって支配されている。ものが見えたり、もの(人)が音をたてたりしたときに、この時期の赤ちゃんが反応を示すのは、そこにものや人を確認したからではなく、光や音波など、ある特性を持った物理的なエネルギーそのものに反応しているのだと考えていい。つまり、外の世界に定位した反応ではなくて、目や耳が刺激されたから反応しているというだけの話である。(92~93頁)

■もう納得していただけたと思うが、生まれたての赤ちゃんににとって「世界が正立している」ということは意味をなさないが、しかしだからといって「逆転」しているともいえない。つまり、赤ちゃんの見える世界は、方向未分化の段階から、文節化した段階へと進化する。

「見る」というような、一見受身で機械のようなはたらきの中にさえ、このような本質的な変化が見いだされたことの意味は大きい。というのも「未分化から文化へ」という流れは、赤ちゃんの心の発達を律している大きな原則だからである。

目を閉じたりふたをしたりすれば、目の前のおしゃぶりは見えなくなるが、目を開けたりすたを取ることによって、また見ることができる。おかあさんの顔は、見る角度や距離によってさまざまに変わるが、声を聞いたり乳首にしがみつくことによって、同じおかあさんであることはわかる。――赤ちゃんはまずこのようにして、時々刻々と変化していく感覚情報の流れ(センス・データ)と、その背後にひそむ「永続する」ものとの区別を学ぶ。

ひとたびこの区別を学ぶと、今度はこの永続するものに向かって、赤ちゃんははたらきかける。自分の手足をつかむと、いつもその手足に触感があるが、ものではそうはいかない。だから自分のからだと、ほかのものはちがう。人とものとでは、はたらきかけたときの反応がちがう。だから、人とものとはちがう、等々。

こうして、はじめ川の流れのように無意味でのっぺらぼうだったものの中から、ちょうど手を入れてかきまわすと渦ができるように、「からだ」や「もの」や「ひと」が現われ出てくる。

何かにはたらきかけることによって、その対象は分化してゆく。分化した対象はまた、はたらきかけを促進する。このようにして、体と情緒と知能とが、互いに作用し合いながら前進していくのだ。(96~97頁)

■そこでキャンポスたちは、この一見奇妙な結果を、次のように解釈した。つまり、ハイハイをはじめる前の赤ちゃんでも、奥行きの識別はできる。しかしハイハイにともなう経験によって、深い側が危険であるという怖さが学ばれるのだ、と。同じことを裏がえせば、「落ちると痛い」ということを、「奥行きが深い」ということの意味として学ぶのだ、ともいえる。

こうしてみると、「赤ちゃんは生まれつきいろいろなものが見えている」という意見も「数ヶ月を過ぎないと、経験を通じていろいろなことを学べない」という意見も、両方正しいことがわかる。簡単に要約すると、情報を検出する力ははやくから備わっているが、それを実生活(?)に役に立つほんとうの情報として解釈し、利用できるようになるには、経験が必要らしいのだ。(101頁)

■前にも説明したように、「知覚の恒常性」というのは、さまざまな条件の変化にもかかわらず、同じものを同じものとしてみるような、一種の調節の能力のことをいう。赤ちゃんにとって、こうしたものの見え方の恒常性を獲得することが、実はものの「同一性」や「永続性」の概念の発達と表裏の関係にあり、ものを認識する力の基礎となるものであることは、あらためて確認しておく価値がある。針穴写真機のスクリーンや、カメラのフィルムに映ったものの像は、それだけでは、そのものにはたらきかけてゆく上で、何の役にも立たないのだ。

このような意味から、J・ピアジェによってはじめて体系的に研究された、「対象概念」の発達の研究は、たいへん興味深い。

ピアジェの有名な発達段階のうち、いわゆる「感覚運動期」(0~18ケ月齢)の中でも、その第1段階(~2ケ月齢)の子どもは、ものを隠しても、特別な反応は示さない。しかし、第2段階(2~4ケ月齢)になると、ものが動いてついたての後に入っていくのを、追跡することができるようになる。

またT・G・R・バウァたちのその後の研究によると、ものをついたてでしばらく隠してから、ついたてを取り去ったとき、ものが再現する場合よりも、消えてしまっているときの方が、驚きの反応を示すという。しかし、この時期の子どもは、動いているものの同一性を、運動だけによって定義しているらしく、トンネルに入て行ったものが、まったく別の形のものになって反対側から出てきても、少しも驚かない。

永続的で同一のものとしての「対象」の概念がせいりつするのは、どうやらその後の第3段階(6~12ケ月齢)になってからであるらしい。この時期になると、布の下に完全に隠されたものを、自分で見つけることができるようになるという。

はっきりした資料があるわけではないけれども、このようなものの概念の成立と、視覚のいろいろな側面での恒常性の成立とは、多かれ少なかれ、つながっているものと考えることができる。(104~105頁)

■こうして、おとなでのプリズムやさかさめがねの実験から、からだの見える場所と感じられる場所との重なりは、実は後天的に学ばれたものにすぎないらしいということが、わかってきた。このことからすぐに、赤ちゃんの空間知覚についても、素朴な疑問が浮かんでくる。

その1。――生まれて間もない赤ちゃんは、自分の手を、視野内のどこに感じているのだろうか?もし、見える位置と感じられる位置の間の関係が本当に学ばれたものであるのなら、経験によって学ぶチャンスのまったくない、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の手を見える世界の中のどこにも感じることができない、ということになってしまうのではないだろうか。

疑問その2――今、経験によって学ぶ、と簡単に言ったが、具体的にはどのような手がかりを使い、またどのようにして学ぶのか?見える位置と感じられる位置とがまだ一致していないとすれば、たとえば、視野内のどれが自分の手でどれが他人の手であるのかを、いったいどうやって見分けるというのか?

このふたつの問いはどちらも一見難問にみえるが、こたえるのはあんがいやさしい。第1の問いに対しては、あっさりそのとおり、と認めてしまうほかはない。生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の手を視野内のどこに感じてよいのか、わからないはずであり、だから、どこか特定の場所に感じてなどいないのだと考えた方がいいのだ。しかし、これは同時に「まったくの正反対、赤ちゃんは自分の手をそこらじゅうどこにでも感じている」と答えているのと変わりない。

これは一見突飛な考え方に見えるかもしれない。しかし、赤ちゃんにとってはそもそも、自分と他人の区別もめいかくではないはずだという、ふつうに認められている考え方からも、これはうなずける。となりの赤ちゃんが泣くとき、またおかあさんが泣くとき、世界全体が「悲しくなって」赤ちゃんは泣くのだ。また自分の手の甲をつねられれば、自分の知覚する世界全体が「痛くなって」赤ちゃんは泣くのだ。(106~108頁)

■たとえば今、「右手を上下に振れ」という命令が、大脳の運動野から発せられたとしよう。赤ちゃんには自分の右手が動くのが見えるだろうが、その見える運動は、運動の命令とタイミングがいっちしており、だからリズムも同じである。このとき、体性感覚にも当然変化が起こるけれども、それもまた、運動の命令や見える動きとタイミングが完全に一致している。これに対して、他人の手や独立したものでは、このような時間的な一致は――偶然に起こったとしても――決して長続きはしない。

「赤ちゃんの自発的な探索活動が、発達を助ける」とよくいわれるが、その一番根本的な理由がここにあると思う。その理由とはつまり、動きを通してしか、赤ちゃんは未分化の世界から脱却できないのだ。(109頁)

■このような学習に、どれぐらいの時間がかかるかは、学ぶ内容にもより、環境にもよるだろう。しかしとにかく、このような方法で赤ちゃんは、動きを通して自分のからだを「検出」し、その場所に自分のからだを感じるようになり、世界の中へ身を挺して「住み込んで」いく。

また、そうすることによってはじめて、ものの「恒常性」や「永続性」も、世界奥行き」も、はっきりした意味を持つようになる。そしてついには、ものがものとして、他人が他人として立ち現われてくる。ひるがえって、そのことが今度は「自我」の確立につながるというわけだ。(110頁)

■1693年ごろ、ある人が友人あての手紙の中で、次のような問題を出した。――生まれてから一度も目で見る経験をもったことのない、先天的な盲人がいて、経験によって、触覚だけの手がかりから、立方体と球とを区別して正しく名ざすことができるようになったとする。さらにこの盲人が、開眼手術を受けた結果「見えるようになった」、つまり正常な視覚機能を回復できたと仮定しよう。さて、この人は手術直後に、目の前に置かれた立方体と球とを、手でさわることなしに目だけに頼って、正しく名ざすことができるだろうか?

――この手紙の受取人は、実はイギリス経験論の代表的な哲学者、J・ロックであり、差出人はその友人で、自分自身も法律家兼哲学者だったノリヌークスという人だったといわれている。この問題は彼の名にちなんで「モリヌークスの問題」と呼ばれ、空間認識の発生についての問題をわかりやすく示した例として、その後哲学や心理学の歴史にときおり登場することになった。

哲学史を入門程度にでもかじったことのある人なら、だれもが簡単に想像するとおり、ロックの答えは当然ノーだった。(113~114頁)

■こういう考え方とはまったく反対に、次のようの考えることもできる。つまり、時間と同じように空間も、わたしたちの感覚経験を入れる器のようなものであり、経験による感覚間の連合などとは関係なく、あらかじめ与えられた認識の枠組みなのである、と。

おおざっぱに「先験論」と呼ばれるのがこの考え方であり、ドイツの合理論者、I・カントはその代表者とされる。

この考え方を延長すれば、たとえ立方体を見ながら同時にさわるような経験が前もってなくても、見える立方体をさわって感じられる立方体と同じと判断する絶対的な規準が、はじめから独立に存在していることになる。だから先験論の考え方を推し進めれば、「モリヌークスの問題」に対する答えも、イエス――すなわち、開眼手術後の盲人は、はじめて見る立方体と球とを正しく識別し、名ざすことができる――という結論になる。(115~116頁)

■さわったときに感じられるものの形を、目でみたときのものの形と関連づける能力が、赤ちゃんにもすでに備わっているということは、もう疑う余地がない。(124頁)

■厳密な意味では、「赤ちゃんは生まれつき心をもっている」とはいえないが(3章)、だからといって「ばらばらにされた心」を持っているとは、なおさらいえない。赤ちゃんは「心」という大きな全体に先立つ、少しちがった全体的な機能を持って生まれてくるのだ。

それはちょうど、溶液が冷やされて大きな結晶ができるときに、もとの溶液は分けられない一様均質な全体であって、立体組み合わせパズルのように、いくつかの部分に分けたりすることができないのと同じようなものだろう。それにもかかわらず、美しくて形の整った結晶ができるためには、溶液がなくてはならないように、この時々刻々と転変する全体的機能は、心の発生にとって欠くことのできない前提なのだ。(126~127頁)

■というのは、目新しいものに注目し、それと交流しようという強い傾向を持っていないなら、何かについて学ぶなどということは、どのような意味でも起こりようがないと思われるからだ。世間でもよく知られている「自閉症」とは、こうした誰しもが生まれつき持っている性向が、何らかの理由で障害を受けたものとみなすことができる。

「目新しさ-なじみ深さ-馴れ」の次元こそは、この世に生まれ落ちた赤ちゃんが、まず最初に生きはじめる「地平」であり、心の発生への転回軸でもあるのだ。このような深い意味合いを込めて、わたしたちはあらためて赤ちゃんを「好奇心の動物」と呼ぶことにしよう。(130頁)

■こうしてガラガラは、「見ればこのように見えるもの」「振ればこんな音がするもの」「さわればこんな感じのもの」としての――つまり活動と深く結びついたイメージ(シュマ)としての――意味を持つようになる。このときにはもう、赤ちゃんにとってガラガラは、感覚をこえた「実在」になっているのだ。

そして、このような事物のシュマが、赤ちゃんの次の活動をみちびくガイドとなることは言うまでもない。(142~143頁)

■神経心理学の世界的権威だった、N・ゲシュヴィンドが、次のように主張したのは、古く1965年ごろのことだった。「感覚同士を結びつける能力こそが、人間の認知発達に基礎を与える」。赤ちゃん学の方法の革新によって、このことばの当否を考えるのに十分な材料が与えられるまでに、かれこれ20年ほどもかかった勘定になる。(143頁)

■だからもしかりに、ケイくんの「鏡体験」の中に、彼の突然の洞察の謎を解くカギが本当に隠されているものとしても、それだけでは説明になっていない。また実際、彼のこの筒然の行動は、鏡を見ていてその直後に起こったわけでもない。鏡の中に彼が見つけた手がかりは、鏡なしの日常体験のなかにも、つねに潜んでいるような何かでなければならないのだ。(159頁)

■「ケイくんのイチゴ」の例でいうと、ケイくんはまず、おとなたちの手がイチゴをつかみ、からだのある場所=口(岡野注;顔面は自分では見えない)へ運ぶのを見る。次に彼は、自分が同じく手を動かしてイチゴをつかみ、運ぶ能力を持っていることに気づく。ここで「同じく」というのは、ケイくんが自分の目を通して、確認するのだ。

ところで、イチゴを手でつかんだケイくんは、ためらうことなくそれを口へ運ぶ。これは生存に直結した本能的行動だから、これを生まれつきのメカニズムによるものと仮定することには、あまり異論がないだろう。そこで、ケイくんが自分の目で観察するおとなの口と、彼が体性感覚として経験する自分の口との間に、――見え、しかも食べられるイチゴを介して――ある対応関係ができてくると考えられる。

ここでいう対応関係というのは、あくまでも、もの(イチゴ)に対する手と口によるはたらきかけによって基礎づけられたもの――つまりピアジェのいう「シュマ(図式)」にもとづくもの――と考えていいだろう。(161頁)

■さらに別の例として、前にも登場してもらったケイくんは、6、7ケ月目ごろ、口を閉じ、指の助けを借りて下くちびるをふるわせながら、息を吐き出して振動音を発する遊びを覚えた。おとなたちがすかさずこの行動をまねをすると、ケイくんはいっそう喜んでくり返し音を発し、14ケ月すぎた今でも、彼のお好みの遊びのひとつである。

この例の場合、耳によるフィードバックの助けを借りて、おとなのくちびるとケイくん自身のくちびるとの対応づけがなされるわけだが、これだけですでに――生まれつきのつながりを一切仮定せずに――自分の感じられる口と、他人の見える口との対応を学ぶことができるという事実は、この問題に悩まされ続けていた私を驚かせた。(165頁)

■ミネソタ大学のA・スルーフ博士は、そのすぐれた育児書の中で「子どもにとって一番教育的なものは、自分自身のからだやほかの人たちのからだである」と言っている。からだをおもちゃにしておとなと遊ぶことが、赤ちゃんにとってどれほどたいせつであるかは、これまでにあげた例からも、納得していただけたのではないだろうか。

だからこそ、「おしゃぶり実験」に示されたような、ものの認識能力が発揮されるずっと以前から、赤ちゃんはおとなの表情や身ぶりのものまねをはじめるのだ(蛇足かも知れないが、コンピューターやテレビやテープが、本物の両親の代わりになり得ない理由も、この辺にある)。

もうひとつくり返し強調しておきたいのは、赤ちゃんの側ではなくて、むしろおかあさんやほかのおとなの側からの、赤ちゃんに対する反応やはたらきかけが、発達の重要なきっかけとなるということである。(「赤ちゃんによって誘発される社会行動」)。それによって赤ちゃんは、自分の活動が外の世界に変化をもたらすこと、つまり世界にコントロールを及ばせることに気がつきそのこと自体によろこびを感じて、さらに探索を進めようとする(「随伴性検出ゲーム」)(「166~167頁)

■たとえば、「逆立ちした観点」から見れば、からだとものの関係のような「ものの世界」の理解と人と自分の交流のような「心の世界」の理解とは、互いに何のつながりもない、ふたつの別々の問題に見えてしまうことだろう。

けれども、「からだが出発点」、「おとなの側からのはたらきかけ」、「随伴性検出ゲーム」、そして「未分化から分化へ」というような点に目をつけて考えてみると、実際にはこのようなふたつの流れが、密接に絡み合っていることに気がつくはずだ。(168頁)

■つまり、はじめは「鏡の中のサル」に対して、歯をむいて威嚇したり、逆に友情をしめそうとしているが、やがてそれが「自分」であることに気づく。鏡の前で手をぶらぶら振ったり、自分の頭をたたいたりするような探求によって、チンパンジーはそれを学ぶらしいのだ。

たとえば、オデコや歯の間の異物を、鏡を見ながら取り除いたり、鏡がないと見えないからだの部分を、鏡を見ながらさわったりつまんだりするような反応を示しはじめた。さらには鏡に向かって、わざとおかしな顔を作ってみせるようなことさえしたという。

これが本当の意味の「自己認識」と呼べるかどうかを検証するため、ギャラップは次のような奇想天外な実験を計画した。

まず、鏡に十分慣れ親しませてから、麻酔でチンパンジーは眠らされる。次に、完全に無味無臭で、皮膚につけてもゴワゴワしたりしないような特別な染料を使い、チンパンジーの顔の一部を真っ赤に、ケバケバしく化粧してしまう。

この哀れな「歌舞伎役者」は、目を覚まして鏡を見るや、文字どおり「びっくり仰天」する。しかし、決して鏡の中の顔に手を伸ばしたりはせず、ほんものの顔の赤い部分をこすったり、ひっかいたり、またそのあとでその指をじっと見つめる、鼻へ持って行ってにおいをかぐ、などの行動がみられた。(173頁)

■このチンパンジーの例からわかるとおり、からだの接触なしで育てられた子どもは、「自分」をはっきりと確立することができない。そのことからまた、他人と正常な社会的交渉をもつことができず、ものごとの認識に異状をきたし、ひいてはさまざまな情緒障害を起こすことにもなる。(176頁)

■自分の腕をつまんでみたときと、他人の腕をつまんでみたときとでは――目に見える腕としてはよく似ているにもかかわらず――からだに起こる感覚はまったくちがう。「さわり」同時に「さわられている」感覚があるのは、自分のからだだけである。自分の頬や背中をつまんだときは、直接目には見えないけれども、からだに起こる感覚としてはやはり、自分の腕に似ているといえるだろう8実存主義-現象学の哲学者サルトルたちは、このような事情を、「即自」と「対自」という概念でとらえた)。(176頁)

■先の腕をつねる例を考えても、見える腕と感じられる腕との関係を学ぶことが、自分と他人のちがいを理解することと密接な関係にあることは、はっきりしている。ことばの発達の基礎も同じところにあるといわれており、感覚同士の結びつきを確認することが、「心」の出発点としてどんなにたいせつか、よくわかる。(177頁)

■フランスの児童心理学者R・ザゾは、より実証的な方法で、自己像の認知の発達過程を研究した。たとえば彼は、ガラスでへだてられたふたごの赤ちゃん同士の反応と、鏡に映った自分の像に対する反応とを、発達の経過を追いながら比較した。

このふたつの条件の間の一番大きな違いは、「連動性」のあるなしである。つまり、自分の運動によって、相手の見え方が変化するかしないかである(前に述べた「随伴性」の検出)。この点が区別されはじめたとき、この二つの条件の根本的な意味のちがいが理解され、自分というものの認知が芽ばえると、ザゾは考えたのである。(182頁)

■この過程には、想像力と象徴的な「意味作用」(シンボル)の芽ばえが認められる。そして何よりもたいせつなことは、赤ちゃんが、他人や鏡像というあるほかのものを通じてはじめて、自分の存在を自分として認めることができたということである。(184頁)

■見えるからだと感じられるからだとを、はじめからふたつの独立したものと考えるからいけないので、赤ちゃんにとっての感覚世界はむしろ、たえず流動する渾然一体の世界である。つまり「感覚同士が結びつく」のではなく「感覚同士ははじめから結びついている」のだ。

複数の言葉を母国語と同じようにあやつる人が、5歳になるころまで、自分が複数の言語をしゃべっていることに気づかなかった、というおもしろいエピソードを、チョムスキーが最近の本で紹介している。赤ちゃんにとってのさまざまな感覚も、このようなものだろうと、私は考えている。(187~188頁)

■メルツォフたちの発見は、そのようなおとなと赤ちゃんとの間のコミュニケーションの能力が、ほとんど誕生の直後からはじまること、そして赤ちゃんが生まれつき、そのような「共鳴し」「応答する」能力を持っているということを、如実に物語っている。

そして最後に、この発見は、「からだが先だつ」というわたしたちの考えが正しいことも示している。

ひとりだけ隔離して育てられた「みなし子チンパンジー」の例ではっきりしたように、自分自身のからだと他人のからだをぶつけ合って遊ぶことが、未分化の世界から分化した世界へと進む、決定的な足がかりになる。「おしゃぶり実験」(4章)で示されたようなものの認識能力よりも「ものまね」行動の方がずっと先に現われるということは、私には見逃してはならないたいせつな発達のみちすじであるように思えるのだ。(188~189頁)

■というのも――あたりまえのことだが――人間は、コンピュータのデータベースとはちがって、自分自身の経験を通じて取り入れた情報しか、記憶することができないからだ。そうした情報を取り入れるはたらき――つまり感覚、知覚のはたらき――がなければ、記憶するべき情報もあり得ない道理だろう。

感覚や知覚のはたらきと、記憶力との関係について、もうひとつ言っておきたいことがある。それは、感覚や知覚ができるということ自体、すでに(一種の)記憶力の存在を意味しているということだ。

たとえば目の前にコップが「見えた」ということは、とりもなおさずコップが見えたと「感じる」ことであり、ということはつまり、コップのイメージが、心の中にしばらくとどまったということになる。

さらに、コップをただの光と影の集まりとしてではなく「コップ」として見るためには、目に見えているものと、心の中にたくわえられてある以前からの知識とを、比べてみるはたらきがなくてはならない。(198頁)

■そもそも、人はどうしてものを忘れるのか?――この素朴な疑問にどう答えようとするかで、記憶に対する考え方は大きく2通りに分かれる。

ひとつは、文字どおり「消えてしまうから」という考え方で、「抹消説」とでも呼んでおくことにしよう。

ちょうどノートのあるページを消しゴムで消すように、あるいは氷でできた彫像が、だんだん溶けていまうように、記憶そのものがなくなってしまうと考えるのだ。

もうひとつがこの「神経痕跡説」で、それによると、人がものを忘れるのは、消えてしまうからではない。「痕跡」そのものは神経システムのどこかにとどまっているのだが、あとからはいってきたほかの記憶によって抑えられたり、混戦したりして、うまく「読み出す」ことができないのだと考える。(202頁)

■チェスの名人が、現実的な局面に限って抜群の記憶力を示したのは、単に似たような局面を前にたくさん見てきたせいだ――などといって、簡単に片づけてしまうわけにはいかない。

似たようなものをたくさん見ることは、ふつうは混乱のもとになるだけだし、チェスを知らないしろうとにたとえ何万種類の似通った局面を見せても、それだけでは、とても名人のような記憶力を示すことはできないだろう。

名人が抜群の記憶力を示した本当の理由は、彼が最終的なゴール(ゲームに勝つこと)に向かって強く動機づけられ、そのために必要な戦術、パターン、原則――まとめて「定跡」とよばれるもの――を身につけたからである。

そのおかげで、彼は前後の変化を想像し、形勢の優劣を判断し、次に打つべき手を考えることができる。つまり与えられた局面が、初心者の場合とは比べものにならないほど多くのイメージを心の中によび起こし、その中に局面が意味のあるものとして位置づけられ、つなぎとめられるのだ。

より現実的な意味での、役に立つ「記憶力」とは、じつはこのようなダイナミックなはたらきである。目標と手段を段階的に位置づけ、現状を意味のある文脈の中で評価し、先の変化を予測する――そのような判断や思考のトータルなはたらきから、「純粋の記憶力」なるものを切りはなすことは、本来できない相談なのだ。(208~209頁)

■チェス名人の異常な記憶力をもたらした知識(定跡に関する知識)は、このような意味で、記憶そのものを助ける記憶、記憶の仕方そのものについての記憶と考えることもできる。そのような記憶を、近ごろの認知心理学では「メタ記憶」と呼んでいる。

つまり、記憶は二重の意味で発達する。

まず第1に、ふつうの日常的な意味合いで、経験を通して学んだ知識をたくわえるということがある。しかしそれと同時に、学ぶことを通して、記憶の仕方そのものが変化し、発達するという側面も、見落としてはならない。(210頁)

■赤ちゃんは自分の手や口を使って乳首を探し、その結果は、触覚や味覚を通じてフィードバックされる。戻ってきたその情報にもとづいて、探索や吸いつきの動作が軌道修正される(「感覚-運動のループ」とよばれる)。赤ちゃんの「記憶」は、からだを通じた、そのような感覚と運動の文脈の中でしか、成り立たない。

もうひとつ忘れてならないのは、ここでの赤ちゃんの記憶が、おかあさんとの間の直接の交流に、もとづいているということである。赤ちゃんは、まず何よりもおかあさんそのものを覚え、そしておかあさんの与えてくれるもの、おかあさんとのつきあいのルールを覚えていく。(213頁)

■ところで、親子の交流といえば、生後6ケ月をすぎるころから、「イナイイナイバー」が赤ちゃんのお気にいりの遊びになる。

いったん隠されたおかあさんの顔が、ふたたび現れるのをみて、はっきりした反応を示すためには、心の中におかあさんやおかあさんとのつきあいに関するイメージ(シュマ)があり、それにもとづいて何かを予期することができなくてはならない。だからイナイイナイバーに対する反応は、記憶の発達のひとつの大きな道しるべとみることができる。

ここでおもしろいと思うのは、赤ちゃんの人見知りがはじまり、両親への愛着の基礎が作られるのが、やはりこの時期だということである。おかあさんをおかあさんとして、意味のあるまとまりとして認識するというだけで、赤ちゃんにとってはたいへんな仕事であり、たくさんのことを時間をかけて覚えなくてはならないのだ。(215頁)

■前に、記憶の発達の二重性、「記憶のメタ化」ということをいったのも、こうしたことを念頭においていたからだった。つまり、親子の交流が豊かになり、複雑になることは、じつはそれ自体、記憶を助ける記憶なのであり、覚えることのメタ化にほかならない。そして、そのことはまた、(次の章で述べるとおり)赤ちゃんが「学ぶ」ということの、本当の意味でもある。

このような分化の手順を踏まない数やことばの記憶は、心と知能の発生に関する限り、役立たずの神経痕跡にすぎないと考えなくてはならない。(216頁)

■心理学者H・スティヴンソンはその本の中で、赤ちゃんの「学ぶ」メカニズムとして、次の4つの可能性を挙げている。

⑴古典的条件づけ

⑵オペラント(道具的)条件づけ

⑶順応

⑷習慣化(馴化)(223~224頁)

■条件づけや順応、馴化の項でもふれたとおり、「学ぶ」ということは、与えられた特定の状況や刺激に対して、特定の反応の仕方でもって応じる能力を、獲得するはたらきにほかならない。(232頁)

■学ぶはたらきとは、場面と反応との一般性-特殊性のヒエラルキカル(階層的)な構造化である。そしてこの構造化ということは、赤ちゃんがものごとを学ぶ上でも、カギになっている。

白い犬にほえかけられたが、しばらくの間、白いものをなんでもこわがるというようなことが、よくある。これは、一般性-特殊性の見きわめをしそこなったためと考えることができる。黒い犬にほえられたが、白い冷蔵庫はほえなかったというような、その後の経験によって、この誤りは何なく修正されていくのだ。(233頁)

■カーヴの打ち方とストレートの打ち方を学ぶにはまず、カーヴという刺激とストレートという刺激との感覚的なちがいに気がつく必要がある。ということはつまり、今まで気がつかなかった「手がかり」に気がつくということであり、新しい学び方をみつけた(学んだ)ということにほかならない。

学ぶはたらきのこうしたダイナミックな変化を見落とすと、それこそ「ミミズと同じ条件づけ」式の、貧しい硬直したイメージに丸ごとからめとられて、抜け出せなくなってしまう。

その行きつく先が、一方では自動車の性能を比較するようにして「生まれつきの学ぶ力」を比較したくなる誘惑であり、もう一方では、何でもかんでも早く教えこもうとする「早期教育」の誘惑であることは、すでにしてきした。このふたつの落とし穴は一見全然別々のとうで、じつは底の方でつながった同じひとつの穴であり、しかもそれは出口なしの底なし穴なのだ。(234頁)

■このような、外に向かって開かれた能力は「知能」や「学習」が意味を成すための条件なのではなくて、じつはそれらの核心にほかならないのではないか?

■そのかわりにこのマシンは、外からのはたらきかけに対して「応答」する。そればかりか、環境からの入力と自分の応答との間の関係について、一般性-特殊性のヒエラルキーという観点からとらえる(人工知能風の表現を借りるなら「構造化し」「表象する」)初歩的な能力がそなわっているものとする。

その上このマシンは、入力に対する自分の反応と、フィードバックされたその結果とをつねにモニターしながら、少しでもましな手がかりを選択して次に役立てるという意味で「メタ学習」の能力を持っているとする(その学習は、非常におそいものであってもかまわない)。

このようなはたらきが、先の一般性-特殊性のヒエラルキーの構造的変化と一体になって発展していくことは、言うまでもない。(239頁)

■こうして、次のような逆説的な構図が浮かびあがってくる。――つまり、学ぶ能力や知能については、周辺的な機能にすぎないと思われたインターフェース/コミュニケーションの機能が、本当はそれらの中核にあり、逆に中核にあると思われた文法能力や計算能力などは、じつは周辺的な機能にすぎないとさえ言えるのではないかと。(240頁)

■刺激に対して応答し、その結果を識別することを学び、さらに応答する。――そういう無限のループの魔法のような力によって、赤ちゃんは、この世の中の成り立っている基本的なしくみの中を――フランスの心理学者H・ワロンのことばを借りれば「身体-自我-社会の地平」を――生きはじめるのだ。

先にふれたような情動の感染の事実(まわりが泣くと自分も泣く)や、5章で紹介したような身ぶりの感染の事実(ものまね行動)は、なにも赤ちゃんの心が未分化であることだけを示しているのではない。赤ちゃんが、周囲と敏感に「応答」し合い、密接に影響し合うループの一部として存在していることをも、雄弁に物語っているのだ。(243頁)

■おとながバイバイをするのはふつう、誰かに別れを告げるときであり、赤ちゃんはそれをくり返し目撃する。おかあさんがおとうさんにバイバイをするときには、おとな同士の一対一の「バイバイ」関係を、赤ちゃんが横から観察しているわけである。

この場面で赤ちゃんがものまねをすると、そのものまねはそれ自体は、おかあさんとの間の一対一の関係であるにもかかわらず、バイバイをされたおとうさんの側からの応答(バイバイのお返し)によって、ある突然の飛躍が起こる。

その飛躍というのは、おとな同士のバイバイという一対一関係と、ものまねという子-親間の一対一関係とが組み合わさって、「対-対-対」の呼応(うつしかえ)が実現することである。というのも、赤ちゃんは知らずしらずのうちに、「おとうさんに対してバイバイをする」という関係行為の全体を、おかあさんから写しとっているからだ。

つまり、この時点で赤ちゃんは、ただものまねではなくて、人と人との関係のまねをはじめているといえる。この飛躍が、学び方の飛躍であるという意味で、典型的なメタ化の過程であり、そこに場面と反応の「分化」のモメントが強くはたらいていることは、誰の目にも明らかだろう。(244~245頁)

■テープは決して本物のおかあさんのように、赤ちゃんに対して反応しない。赤ちゃんのスマイルに触発されて語りかけたりはしないのだ。(249頁)

■赤ちゃんが生まれつき学ぶ能力を持っていることはいいとして、その能力をいわゆる棒暗記や、ネズミやミミズの条件づけと同じイメージでとらえていると、一見互いに矛盾する、ふたつの危険な考え方にはしりやすい。そのひとつは、その能力を少しでも早く活用して、数やことばや文字を覚えさせようというあせりであり、もうひとつは、「知能は生まれつきのものであり、つまり生まれつき決まっているものなのだ」というあきらめである。(268頁)

■人の知能は、具体的にはさまざまな課題解決の場面で問われるものだけれども、認知心理学というのは、情報処理や記憶のモデルを駆使して、その課題解決の過程を明らかにしようとする新しい学問である。だから、認知心理学によるアプローチでは、知能はもはや、単一で不変のかたまりのような実体ではなくて、たがいに関係しあう数多くのメンタルな操作の集まりとみなされる。

たとえば類推のような知的過程は、符号化、推論、重ね合わせ、適用などの構成要素に分けて分析されるし、個人差も、方略(ストラテジー)の差、ルールの選択や適用の差、操作の組み合わせの差などとして扱われることになる。

こうして、はじめは単一不変の能力と考えられていた知能が、複数の構成要素に分けられ、今ではそれらの相互関係が、情報処理のすじみちに即して研究されるようになってきた。(270頁)

■たとえば、ハーバード大学を中心とする発達心理学者たちは、このようなねらいで、外の世界からの刺激に対する赤ちゃんの反応の特性を、さまざまな場面で測定し、数年後のIQの値との関係を調べている。さまざまな場面というのは、その大半が2章ですでに説明したような選好注視や、馴化-脱馴化などの現象を生じさせる場面にほかならない。

このような方法による調査の結果、新しい刺激に対する反応性、環境に対する関心、注意などのレベルの高い赤ちゃんが、概して数年後に追跡調査したときのIQも高かったという報告がある。またこのような初期にも、こうした点ですでに性差がみられるという。(274~275頁)

■この考え方によれば、赤ちゃんを外の世界との交渉へと動機づけているのは、自分のふるまいと、それにともなう外の世界の変化との間のつながりであり(随伴関係の発見)、またこの発見がもたらすよろこびである。(284頁)

■そのひとつは、強化物(光・音)そのものではなく、この随伴関係それ自体が、を強く動機づけるのだということ。だから、赤ちゃんの側からのはたらきかけにともなって変化するのは、何も光や音でなくても、おもちゃでも動物でも、人の姿でも、またその影のようなものでもいいということになる。(285頁)

■このような、赤ちゃんの随伴性探知の能力は、このゲームの遂行それ自体によってさらに強化され、発達してゆく。ちょうどスポーツの選手が、試合を重ねるごとに強くなりますます積極的に試合をしたがるようになるのと同じように。

このことの中にこそ、生得説と、遺伝説と学習説のジレンマを克服して、知能発達の本質を見きわめるカギが隠されている。また、一般的な意味での「知能」の発達ということがもしあるとすれば、この随伴性探知ゲームの自己促進の過程こそがそれであると、私は考えている。(286頁)

■知能の発達が「実在論」的ではなく「自己達成予言」的だというのは、おとなのIQに対応するような意味での「IQ」が、赤ちゃんでは存在しないというだけの理由からではない。「知能」とは随伴性探知ゲームの結果達成されるものであり、またゲームによってつちかわれる、ゲーム遂行の能力そのもののことだからなのだ。(288頁)

■随伴性を発見し、その発見に喜びを感じるのは、あくまでも赤ちゃんの方であって、親の方ではない。赤ちゃんが自分で随伴性を見つけ出すのでなければ、知能の発達の助けにもならないのだ。だから当然、親の側には忍耐強さが要求されるし、おとなの都合、おとなの知能観を押し売りするようなことは、厳につつしまなくてはならないということだろう。(288頁)

■しかし、そうすると、赤ちゃんの示す情動は、一方では自分のからだに深く根ざし、外の世界とは切り離されたものなのに、他方では、周囲の人びとの心の状態に影響されやすいものだということになるのだろうか?これは一見、矛盾しているように見える。

この見かけ上の矛盾は、赤ちゃん自身が未分化な存在であること、またその結果、赤ちゃんが知覚する世界の方も未分化であることを認めることによって、はじめて矛盾なく理解することができる。(294頁)

■この時期の赤ちゃんが自発的にできるのは、ただ泣き声やしぐさでおかあさんの助けを求めることでしかない。つまり、見落とされがちなことだが、が自分のためにできる最初の行動は、外の世界のものを手に入れたり、あるいはそれを避けたりすることではない。それよりむしろ、人に向けたみぶり、表現なのだ。(296頁)

■ふたたびワロンのことばを借りれば、「子どもの生活は最初、社会性の関係によって開かれる」のだ。そのことからすれば、赤ちゃんが外のものの世界をはっきりと認識できず、方向の拡散した反応(たとえば泣くこと)に終始するすることもまた、当然ともいえる。先ほどの、パニック状態ににおける情動の伝染の場合と同じである。(297頁)

■私の考えでは、そのような生まれつきの能力は、せんじつめれば、大きく分けて次の4通りしかない。

⑴生きるために直接必要な反射(呼吸、吸いつき、のみこみ、まばたき、瞳孔、せき、くしゃみなど)

⑵そのほかの、いわゆる原始反射(バビンスキー反射、モロー反射など)。

⑶おとなから自分へのはたらきかけを触発し、促進するような能力。

⑷おとなからのはたらきかけに、応答するための能力。(298頁)

■けれども、考えて見れば、緊張と弛緩のサインだというだけでなら、何もほほえみでなくても、ほかの表情やしぐさでもよかったはずである。そうしてみると、こうしたほほえみもやはり、おとなを自分の方に引きつけるために、赤ちゃんが神様から授かった魔法なのだというふうに、私は考えたい。(301頁)

■最新の精神分析学の研究によると、出産後できるだけ早い時期におかあさんを赤ちゃんと対面させることは、その後の母子関係の正常な発達にとって意外に大切で、この時期を逸すると、後の情緒障害の原因になることがあるという。(301頁)

■感覚や運動能力の発達と知能の発達とは、赤ちゃんにおいては区別できるものではないということ、また、からだ、外の世界の認識、自分と他人の認識、社会的なコミュニケーション、情動などは、互いに独立した別々の発達の系なのではなく、同じメカニズムによって、次第に枝分かれしながら発達していくものだということを、この本ではくり返し強調してきた。

それは、私が発達の流れを、このようなイメージでとらえていたからである。の「心」の発達に関する限り、「積木のモデル」は的外れであり、「樹木のモデル」が必要なのだ。(309頁)

■両親は手を焼くだろうが、ただひたすらに拘束しようとするのは、りこうなやり方ではない。偶然の機会からいつも「ゲーム」がはじまり、そのゲームを通してだけ赤ちゃんは学ぶことができるのだとすれば、そのような偶然のチャンスをできるだけ拡げ、変化に富んだものにしてやるのが、理にかなったやり方だろう。

ところで、どんな冒険家にも、安心して眠れる基地、いつでも逃げ帰れるベース・キャンプのようなものが必要である。そういう場所があるからこそ、冒険家は勇気をふるい起こして、未知のものに挑戦できるのだ。そしていうまでもなく、赤ちゃんにとっての基地は、おかあさんやおとうさんのほかにはあり得ない。(320~321頁)

■情動的リアリティは、はじめから科学言語のレベルとはちがうヒューマンなレベル、日常生活のレベルで成り立っている。かりに、実験でのペットの意外におろかな、あるいは「動物じみた」行動を見て、飼い主がそのペットへの気持を変えたとしても、それは依然として科学的「実在」の地平での出来事ではなく、ヒューマンなリアリティのレベルでの出来事なのだ。

この発見の提起している問題は重大である。それは、客観的、科学的な「実在(事実)」のみを追究の対象とし、また同時にそれを世界観の基底ともするタイプの心理学の発想に対して、疑問を投げかけているのだ。(340頁)

■たとえ単なる親の思い入れであるにせよ、それがほどなく事実として実現することが目に見えているばかりか、そのおもいいれによってのみ、それは事実として実現するのだから……。

知能の章(8章)の結論として私が「知能発達の本質は、実在論的であるよりは自己達成予言的である」と述べた理由が、ここでようやく納得していただけたのではないだろうか。(342頁)

■くり返しになってしまうけれども、赤ちゃんはあくまでも未来形の存在である。だから心の発生の現場においては、その特有の自己達成予言的なダイナミクスのために、対人認知のリアリティが、客観的「事実」に先立つのだ。

このような見方は、「心はすべて脳の生理的なはたらきの反映にすぎない」という考え方とも、「われ思う、ゆえにわれ在り」とする考え方とも、必ずしも矛盾はしていない。けれども、出発点がまるでちがう。目の前に他人の脳みそでもなく、孤立した自分の心の内側でもなく、開かれた交流の場面から、私たちは出発したいのだ。

相手を、自分と同じ「反応する者(レスポンシヴな存在)」としてみること、またそのことが互いの反応(レスポンス)の引き金となるということ――そうした、対人関係の鏡像性の中にこそ、心の発生のカギが隠されている。そのカギを握っている親の方が「応答する機械」ではなく「頭のいい機械」のようだったなら、赤ちゃんが「応答」しそこなうのもあたりまえの道理である。(349~350頁)

■けれども反面、そのような鏡像性を前提にして、随伴性検出ゲームのループを拡げていく素地となる能力は、生まれおちたその瞬間から、赤ちゃんにはそなわっている(9章)。

このことひとつを考えてみても、「赤ちゃんに心はあるか?」という問いに対する答えははっきりしている。――「心をもつ者』として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。(350頁)

■しめくくりに、アメリカの心理学者H・ハーロウの名著『愛の成り立ち』から引用する(浜田寿美男氏の訳による)。

……愛情は、今日まで、ほとんど伝説と文学の占有であり、人間の愛について客観的に報告されることは、きわめてまれであった。おそらく、愛情などなくとも、心理学者はやっていけるのであろう。そうだとすれば、こうした現状は、まさに心理学者にふさわしい運命と言うべきかもしれない。ただ、私たちはそのような心理学者の仲間にはくみしない。(352頁)

2010年8月30日

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『無門関』西村恵信訳注 岩波文庫

■私は紹定元年(1228)の安居(あんご)を、東嘉の竜翔寺で過ごし、学人を指導する立場にあったが、学人たちがそれぞれ悟りの境地について個人的な指導を求めてきたので、思いついて古人の公安を示して法門を敲く瓦とし、それぞれ学人の力量に応じた指導をすることにしたのである。それらの中のいくつかを撰んで記録するうちに、思いがけなくも一つの纏まったものができあがった。もともと順序だてて並べたわけではないが、全体で48則になったので、これを『無門関』と名付けた。もし本気で禅と取り組もうと決意した者ならば、身命を惜しむことなく、ずばりこの門に飛び込んでくることがあろう。その時は3面8臂の那吒のような大力鬼王でさえ彼を遮ることはできまい。インド28代の仏祖や中国6代の禅宗祖師でさえ、その勢いをかかっては命乞いをするばかりだ。しかし、もし少しでもこの門に入ることを躊躇すならば、まるで窓越しに走馬を見るように、瞬きのあいだに真実はすれ違い去ってしまうのであろう。

頌(うた)って言う、

大道に入る門は無く(大道無門)、

到るところが道なれば(千差(しゃ)路有り)、

無門の関を透過して(此の関を透得(とうとく)せば)、

あとは天下の一人旅(乾坤(けんこん)に独歩せん)。

禅宗無門関(無門慧開の自序)(19~20頁)

■瑞巌の彦和尚は、毎日自分に向かって「おい主人公」と喚びかけ、自分で「はい、はい」と応えられるのであった。「しっかりしなされや」。「どんな時にも他人に騙されてはなりませんぞ」。「はい、はい」。と自問自答されるのが常であった。

無門は言う、「瑞巌親父は自分で自分を買ったり売ったりして胡散臭い一人芝居をなさったもんだが、一体何が言いたいんだろう。さあ此処だぞ。一人は喚ぶ者、一人は応える者。一人ははっきり目覚めている者、一人は他人に騙されたりせぬ者。しかしどの一人を肯(うけ)がってもやはり駄目だ。そうかといって瑞巌和尚の真似をして、一人二役でもしたならば、野狐禅もいいところだ」。(12、巌喚主人。巌(がん)、主人を喚(よ)ぶ)(64~65頁)

■雲門和尚は言われた、「この世はこんなに広々として果てしない。なのに、お前さん達はどうして鐘が鳴ると、そんなにお行儀よく袈裟などを身に著けるのか」。

無門は言う、「そもそも禅に参じ仏道を学ぶものにとって、もっとも気をつけるべきは、、周りの世界の音や形に引きずられてはならないということだ。なるほど「聞声悟道、見色明心」などということもあるが、そんなことなら誰にでもあることだ。しかし、禅者をもって自負する者でさえ、外から来る音に跨がり、形あるものならば抱きかかえるような主体性をもって、それぞれをはっきりと受け取り、それぞれとの妙なる関係を持つべきことの大事さを知らないらしい。ところで、それはともかくとして、言うてみよ。いったい音が耳の方へやってくるのか、耳が音の方へ行くのか、どちらだ。たとい音響も静寂もともに超えたような境地を得ている者でも、問題はここの処をどう説明するかである。もし、声を耳で聴くようではここの処は分るまい。眼で声を聞いてこそ、はじめて声と一体といえるのであろう」。

頌(うた)って言う、

分かってしまえばすべては同じ、

分らなければバラバラだ。

分らなくてもすべては同じ、

分ってしまえば、それぞれよ。(16、鐘声七条)(80~81頁)

■南泉和尚はあるとき趙州から、「道とはどんなものですか」と尋ねられ、「平常の心こそが道である」と答えられた。ついで趙州が、「やはり努力してそれに向かうべきでしょうか」と尋ねると、南泉は「いや、それに向かおうとすると逆に逸れてしまうものだ」と言われる。「しかし、何もしないでいて、どうしてそれが道だと知ることができるのですか」と趙州。そこで南泉は言われた、「道というものは、知るとか知らないというレベルを超えたものだ。知ったといってもいい加減なものだし、知ることができないといってしまえば、何も無いのと同じだ。しかし、もし本当にこだわりなく生きることができたなら、この空らのようにカラリとしたものだ。それがどうしてああだこうだと詮索することがあろうか」。この言葉が終わらぬうちに、趙州はいっぺんに悟った。

無門は言う、「南泉和尚は趙州に問いつめられて、ガラガラ音を立てて崩れたな。もう何の言い訳も出来ないだろう。趙州の方だって、たとえここで悟ったといっても、本当にそれが身に付くためには、まだあと30年は参禅しなくてはなるまい」。

頌(うた)って言う、

春に百花有り、秋に月有り、

夏に涼風有り、秋に雪有り。

つまらぬ事を心に掛けねば、

年中この世は極楽さ。(19、平常是道。平常(びょうじょう)是(これ)道(どう))(88~89頁)

■六祖はある時、法座を告げる寺の幡がバタバタ揺れなびき、それを見た二人の僧が一人は「幡が動くのだ」と言い、他は「いや、風が動くのだ」と、お互いに言い張って決着がつかないのを見て言った、「風が動くのでもなく、また幡が動くのでもない。あなた方の心が動くのです」。これを聞いて二人の僧はゾっとして鳥肌を立てた。

無門は言う、「風が動くのでも、幡が動くのでもない。まして心が動くのでもない。では、何処に六祖の言い分をみるべきであろうか。もしそこのところを見抜くことができて、六祖とピッタリであれば、この二人の坊さんたちが、鉄を買うつもりであったのに、思いがけなくも金を手にしてしまったことが分るであろう。それにしても六祖は優しさが抑えきれないばかりに、とんでもない失敗劇を演じてしまったものだ」。(29、非風非幡。風に非ず、幡(はた)に非ず)(123~124頁)

■馬祖和尚はある時、大梅から、「仏とはどういうものですか」と問われ、「心こそが仏である」と答えられた。

無門は言う、「もし直ちに馬祖の言ったことが分るならば、仏衣を著け、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ずることができるのだから、彼はそのままで仏ということになる。とはいえ、よくも大梅和尚たるものが多くの人を引き込んで意味のないことを教えたものだ。そんな人に、どうして仏という字を口にしただけで3日間も口を洗い清めたというような話が分かるものか。仏法のよく分っている男ならば、「即心是仏」などと説くのを聞いたとたん、耳を塞いで走って逃げるに違いないよ」。

頌(うた)って言う、

こんなに明るい空の下、

尋ね求めて何とする。

その上仏を問うことは、

盗品片手の罪のがれ。(30、即心即仏)(126~127頁)

■馬祖和尚はある時、僧に、「仏とはどういうものですか」と問われ、「心でもない、仏でもない」と言われた。

無門は言う、「もしここの処を見て取ることができるならば、禅の修行は完了だ」。

頌(うた)って言う、

剣客見れば剣を出し、

詩人でなければ詩を出すな。

人には三分を語るべし、

すべてを施すことなかれ。(33、非心非佛。非心非仏)(136頁)

■   頌(うた)って言う、

雲と月とは同じもの、

谷と山とは別のもの。

それがめでたしめでたしさ、

1でもあれば2でもあり。(35、倩女離魂(せいじょりこん))(141頁)

■五祖法演和尚は言われた、「路上で禅を究めた人に出会った場合には、ことばで対しても沈黙で対してもいけない。さて、そうとなれば何をもって対すべきであろうか」。

無門は言う、「もしこういう事態に直面してピタリと対することができれば、はなはだ愉快なことであろう。しかし、そうはいかないとすれば、常にいかなる状況においても、眼を開いていなければなるまい」。

頌(うた)って言う、

道を究めた人見れば、

語るも黙るも間に合わぬ。

顎をつかんで一撃すれば、

分かる者ならすぐ分かる。(36、路逢達道。路に達道(たつどう)に逢う)(143頁)

■五祖が言われた、「たとえば水牛が通り過ぎるのを、窓の格子越しに見ていると、頭、角、前脚、後脚とすべて通り過ぎてしまっているのに、どういうわけで尻尾だけは通り過ぎないのだろうか」。

無門は言う、「もしこの事態に対して、逆のほうから真実の眼をもって見抜き、ハタラキのある一句を投げかけることができるならば、自分が被っているあらゆる恩に報いることができ、またこの世界で悩み苦しんでいるあらゆる生き物を救うこともできるに違いない。しかし、そういうことがまだできないとあらば、是非ともあの水牛の尻尾だけは見届けておくことが先決であろう」。

頌(うた)って言う、

通り過ぎれば穴に落ち、

引き返しても粉みじん。

いったい尻尾というやつは、

なんとも奇怪千万さ。(38、牛過窓櫺。牛、窓櫺(そうれい)を過ぐ)(147~148頁)

■達磨が面壁して座禅をしている。二祖慧可は雪の上に立ち尽くしていたが、自分の臂(ひじ)を切り落として言った、「私の心はまだ不安であります。どうか安心させて下さい」。達磨が言われた、「心をここへ持ってくるがよい。お前のために安らぎを与えてやろう」。二祖慧可は言った、「心を捜し求めましたが、どうしても摑むことができません」。達磨が言われた、「お前のためにもう安心させてしまったぞ」。(41、達磨安心。達磨の安心(あんじん))(157~158頁)

■石霜(せきそう)和尚が言われた、「百尺の竿頭に在るとき、どのようにしてさらに一歩を進めるか」。また古徳が言われた、「百尺竿頭に坐り込んでいるような人は、一応そこまでは行けたとしても、まだそれが真実というわかではない。百尺竿頭からさらに歩を進めて、あらゆる世界において自己の全体を発露しなくてはならない」。

無門は言う、「一歩を進めることができ、世界のただ中に身を現じることができたならば、ここは場所がよくないから、尊しとはいえないなどという処がどうしてあり得よう。そうはいうものの、一体どのようにして百尺竿頭から歩を進めるのか、言ってみるがいい、ああ」。

頌(うた)って言う、

頂門の眼を失えば、

無用のものに眼がくらむ。

身を投げ命を捨ててこそ、

衆生を導く人ならん。(46、竿頭進歩。竿頭(かんとう)、歩を進む)(172~173頁)

■規則ばかりに従っているようでは自分で自分を縛る不自由であり、自由奔放ばかりではこれも外道悪魔というもの。心を澄ませて沈めるばかりでは沈黙の静寂主義であり、傍若無人に振る舞うと深い谷間に転落する。常によく目覚めの状態を維持するものは、自分の首に枷を嵌めるようなもの。善いの悪いのと思惑するのは地獄天国の迷いの世界。仏や法を有り難がるのも二重の鉄山に取り囲まれたようなもの。念が起こればこれをはっきりと自覚するやり方に頼るものは、霊魂を弄ぶ者にほかならぬ。じっと坐ってばかりもひとりよがりの穴ぐら住まい。前進しようとすれば法理を見失い、後退すれば宗旨に背いてしまう。進まず退かずでは、息だけしている死人も同然。さて、それでは禅をどのように実践すべきであろうか。この人生において努力して結論を出さねばならない。憂いを永久に留めるようなことのないように。(禅箴(ぜんしん))(188~189頁)

■達磨はインドからやってきて、文字を用いず、ただ「人心を直指し、見生して成仏する」ことを教えた。しかし、直指と説くことが已にまわりくどいし、まして成仏などということは耄碌した話である。すでに無門なのにどうして関などというのか。老婆心切のおかげで無門慧開も悪名高くなってしまったものだ。私の要らざる一語も四十九則ということになろうか。ここにたとえわずかの間違いでもあったならば、おおいに目くじらを立てて捉えて頂きたい。淳祐乙巳の夏、再び刊行するに当たって。(孟珙(もうこう)の跋(ばつ))(195頁)

2010年9月21日

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『終着駅』J・パリーニ著 新潮文庫

■それにしても、私はソフィヤ・アンドレーエヴィナが気の毒だと思う。彼女は悪い女というわけではない。ただ、夫の達成したものが理解できないのだ。彼女の魂は、人類の改善を目指す彼の夢を呑みこむほど広くない。もっともその夢を理解するには、たいした努力が必要なわけではないのだが。貧しきものが土地を相続する。最初の者が最後になり、最後の者が最初になる、等々。レフ・ニコラーエヴィチが言うことは、すべて以前に誰かが言ったことだ。宗教と倫理の世界では、人は真実を発明するのではない。発見し、広く知らしめるのだ。(医師マコヴィーツキーの手記)(61頁)

■レフ・ニコラーエヴィチは落ちついてしゃべり、立ち聞きされるのも恐れていなかった。彼は、ツァーリの迫害に対して安全だと言い得る、数少ないロシア人の一人である。「モラルの原則に立たない革命によっては、ロシアの人民、その他いかなる人民にしろ、状況は改善されないよ。そのモラルの原理は、力を用いないことを前提としているのだからね」(医師マコヴィーツキーの手記)(70頁)

■「ジェイクスピアは立脚点がまったくわからない」とパパは言う。「彼は姿が見えない。読者に対して自分をはっきり見せるのが作家の義務だ。〈これはいいが、これはよくない〉と言うことがね」(三女サーシャの手記)(97頁)

■「『行ないによって人柄が知れる』だわ」と彼女が言った。(秘書ブルガーコフの手記)(143頁)

■「その男が言うには、レフ・ニコラーエヴィチは最後の象徴的な行動を取るべきだというんだ。財産を親類縁者と貧乏人に分配して、それから一文も持たずに家を出て、乞食になって町から町をさまようべきだとね」

マーシャは目を見張った。彼女は幻惑させようとして、手品師のようにぼくはレフ・ニコラーエヴィチの返事の写しを取りだした。

きみの手紙は深く私の心を動かしました。きみのすすめることこそ、私がつねに夢見ながら、実行するにいたらないことです。これには多くの理由が挙げられるでしょうが、そのどれも私の身を惜しむ理由にはなりません。また、私の行動が他人におよぼす影響についても、あれこれ心を悩ましてはならないのです。どちらのせよ、それはわれわれの力のおよぶところではないし、それによってわれわれの行動を決めるべきではありません。人は必要なときにのみ、そのような行動を取るべきです。なんらかの偽善的、あるいは外面的な理由からではなく、魂の要求に答えるためにのみ、そして、以前からの状態にとどまることが不可能になったときにのみ、行なうべきなのです。ちょうど、呼吸ができないときに咳をせずにいられないように。私はいまやそのような状態に近づきつつあります。しかも日に日に近くなるのです。

きみが勧告されたこと――社会的地位をなげうって、財産を私の死後に期待する権利を持つ人びとに分配すること――は、もう25年前にやりました。しかし、私が家族のなかで暮らしつづけていること、妻や娘とともに、周囲の貧困と対照的な、恐ろしく恥ずべき贅沢な環境で暮らしていることが、ますます苦痛になってきています。きみの勧告を考えずに1日も過ごすことはできません。

きみの手紙に感謝します。私のこの手紙は、ただ一人にしか見せません。きみもどうか誰にも見せないでください。(秘書ブルガーコフの手記)(146~147頁)

■「きっと夢を見ていたんだ。」

「わたしのこと?」

「いいや」

「じゃあ何のこと?」

「ぼくはいつも夢のことまで告白しなけりゃならないのかね? きみにとって結婚とはそういうものなのかい?」(妻ソフィヤ・アンドレーエヴナの手記)(167頁)

■「あなたのおかげで家じゅう大騒ぎですよ、レフ・ニコラーエヴィチ」

「ほんとうかい?」

「ターニャさんはあなたが死んだと思っておられます」

「そうなりゃいっそ幸運だがね」

私も同じ切り株に腰を下ろした。それは大きくて朽ちかけており、座り心地はよくなかった。

「なんだって私を探しにきたんだね?」

「みなが大騒ぎをしているので心配になったのです」

「お前さんは心配しすぎるよ、ドゥシャン。自分の命なんぞいっこう大事じゃない、というぐあいに生きなくちゃ」

「大事なのはあなたの命です」

「ばかばかしい。私は全然気にならないね。気になるのはこのすばらしい空気だ。嗅いでごらん、ドゥシャン」(医師マコヴィーツキーの手記)(207頁)

■「わたしが66だってことなど誰も気に欠けないみたいね。6の女にはこの屋敷の面倒は見切れませんよ。聞こえてるの?もうくたくた。自分の時間なんぞこれっぽっちもありゃしない!」彼女の泣きだしそうな声は聞き苦しいまでに高くなった。「わたしはもうやっていけない!それがわからないの?わたしの言いたいことを聞いてくれる人は誰かいないの?」

「誰がきみにやってくれと頼んでいるんだ?」戸口から聞こえた。パパだった。猛りたっている。両眼は火か木棒でつつかれた石炭のように燃えている。(三女サーシャの手記)(238頁)

■翌日、両親のあいだの溝を示すもう一つの出来事が起こった。去年、ママはうちの財産を守るために、アラメドという若いサーカシア出身の見張り番を雇った。(三女サーシャの手記)(239頁)

■階下のホールから寝室へ声が流れこんできた。夫がドゥシャン・マコヴィーツキーと話している。かすかに彼の言葉が聞き取れる。「異常者はいつも正常者より目的を達するのがうまい。彼らは自分を引き止める道徳観を持っていない。恥も、良心もないからな」(妻ソフィヤ・アンドレーエヴナの手記)(266頁)

■仲違いの原因とはつぎのようなものである。第1に、私はますます社交界から身を引く必要を感じているが、きみがその点で私に従うことはできるはずもないし、また従うこともないだろう。なぜなら、私ときみとは、まったく基本的な点で反対の信念を抱いているからだ。これは私には完全に当然と思われるから、きみに反対するいわれはない。その上、近年きみはますます苛立ち、専制的で扱いにくくさえなってきた。そのために、私のほうの感情を表すことを控え、そうした感情自体、断たざるを得なくなった。これが第2の点だ。第3の、いちばん大きく致命的な原因は、われわれ双方に罪のないことだが、人生の意味と目的に対する意見がまったく対立していることである。私にとって財産を持つことは罪悪だが、きみにとっては必要不可欠の条件だ。きみと別れないためには、私は自分にとって苦痛な状況を受け入れなければならなかった。ところが、きみはその受容をきみの意見に対する譲歩と受けとったため、われわれの誤解は深まる一方になった。(トルストイの手紙)(292~293頁)

■しかし私はきっと出ていく。むしろ、少しも心を動かさずにきみの苦しみを直視できていたら、この生活もつづけられたかもしれないが、私にはそんな能力はない。

愛する人よ、きみの周囲の人ばかりか、きみ自身を苛むのはやめなさい。きみは彼らの百倍も苦しむのだから。それだけだ。(トルストイの手紙)(294頁)

■「あなたのお姉さんは、ほんとに人のいいおばかさんね」ワルワーラは今朝、朝食を食べながら言った。「あの人は、誰にでも自分は頭がいいと思わせるのよ。だからみんなに好かれるのよ」(三女サーシャの手記)(333頁)

■「そうかもしれん。しかし彼女の愛は、日に日に憎悪に形を変えていく」彼はそこで切ってちょっと考えた。「わかるかい、あれは長年、子供たちのせいで自分の自己中心主義から救われていたんだ。子供たちに夢中だったからね。しかしそれが終わってしまったので、いまはあれを救うものがないんだよ」(三女サーシャの手記)(340頁)

■ソフィヤ・アンドレーエヴナが問題を起こすのは、いつも、表現の仕方なのだ。世間にはよくあることだが、彼女も自分の口調をコントロールできない。無数のせめぎあう感情が頭のなかで交錯して、ニュアンスをめちゃくちゃにしてしまう。だから、彼女の本心がどこにあるかは推量するほかないのだ。(秘書ブルガーコフの手記)(354頁)

■ソフィヤ・アンドレーエヴナに頼まれて、ぼくはこの感想の写しを渡した。すると、彼女はそれを居間のピアノの上に置いた。そこならレフ・ニコラーエヴィチの目に止まるからである。彼は部屋を通りがけに「これは何だ?」とぶっきらぼうに訊いた。

彼はその紙を取りあげてざっと目をとおした。読みながら少し唇を動かした。

「おもしろくもない」と言って、ピアノの上に落した。(秘書ブルガーコフの手記)(356頁)

■彼は注意深く聴いてから言った。「ソーニャ、きみの泣き言はほとほと聞き飽きたよ。わたしがいまほしいのは自由だ。82にもなるんだから、きみに子供扱いされるのはもうごめんだ。わたしはもう女房のエプロンの紐に繋げられはせん!」(妻ソフィヤ・アンドレーエヴナの手記)(372頁)

■ソフィヤ・アンドレーエヴナは息を詰めてその紙をひったくった。唇を動かしながらゆっくりと読んだ。

私の出立はきみを悲しませるだろう。それは残念なことだが、ほかにどうしようなかったことを理解し信じてもらいたい。家での私の立場はしだいに耐えがたいものになり、これ以上我慢できなくなったのだ。すべての不快なことを抜きにしても、私にはもうこれ以上、自分が暮らしてきた贅沢な生活をつづけることはできない。だから私は、自分と同年輩の老人なら当たり前のことをするまでのことだ。つまり、生涯の最後の日々を孤独と静寂のなかで過ごすために俗世を去るのだ。

どうかこのことを理解し、たとえ私の居場所が知れても、迎えになど来ないでほしい。きみが来たところで私ときみの立場を悪くするばかりで、私の決心を変えはしないだろう。

48年間、貞淑に連れ添ってくれたきみには感謝している。私が悪かった点はすべて許してほしい、同様に、私もきみが悪かったと思われる点はすべて心から許そう。私の出立がきみにもたらす新しい状況と折りあいをつけ、私に対しては悪感情を抱かないように願いたいものだ。

ことづてがあればサーシャに渡すように。彼女には居場所を教えるから必要なものを送ってくれるだろう。しかし私は誰にも言わないように約束させたから、彼女は私の居場所を言うことはできないだろう。

10月28日付けのその手紙は、例ののたくるような字で署名してあった。(秘書ブルガーコフの手記)(380~381頁)

■(1910年10月28日)11時半床につく。3時まで眠る。すると、最近の数夜のように、足音とドアのきしる音がする。以前はわざわざ見ようともしなかったが、今回見たら、書斎の明るい光が隙間から洩れ、書類をぱらぱらめくる音がしている。ソフィヤ・アンドレーエヴナが何かを探し、たぶんそれを読んでいるのだろう。彼女は昨晩、私の部屋のドアを閉めないように要求した。彼女の部屋のドアは2つとも開かれていて、どんなささいな私の動きもつつぬけだ。あらゆる私の言動は、即刻彼女が知らなければならず、その管理下に置かれなければならないというのだ。彼女がドアを閉めホールを歩いていく足音を聞いたとき、今度ばかりは心の底から嫌悪感と怒りがこみあげてきた。なぜかわからないが、自分を抑えかねた。眠りにつこうとしても眠れない。輾転反則ののち、灯をともし、体を起こした。

突然ドアが開き、ソフィヤ・アンドレーエヴナが入ってきて、「どうかなさったの?」と訊いた。私の部屋の明かりを見て驚いたと言う。怒りがつのった。脈を数えた――97。

もはや横になることもできず、突然家出する決意がかたまる。彼女に書き置きをし、もっとの必要なものだけを詰めこみはじめる。(トルストイの日記)(389~390頁)

■彼は居心地悪そうにまた重心を移した。「百姓家(イズバ)を借りることにしたよ」と床に目を落したまま彼が言った。「教会の鐘の音が聞こえる気持のいい小屋なんだ。私の人生を終えるにはいいところだよ、サーシャ。本をよんで、考えて、たぶんちょっと書くこともできるだろう」(三女サーシャの手記)(403頁)

■サーシャが神についてたずねた。意識の混濁状態のなかで、常日頃考えていたこととはちがう何ものかを認識したのではないかと考えたのだ。私はひそかに彼女を軽蔑した。しかし彼は相変わらずやさしく、彼女の質問にいつもの率直さをもって答えた。「神は永遠の全体で、人間各自はその極小の部分を体現しているものだ。われわれは、時間と、空間と、物質のなかでの、神性の現われなのだ」彼女も私もその言葉を書きとめた。

レフ・ニコラーエヴィチは指を挙げた。「おまえにもう1つ言っておこう、サーシャ。神は愛ではない。しかし人のなかに愛があればあるほど、神はその人のなかにはっきりと現われるし、真に存在するのだ」

「それでは神の存在は不定ということになりませんか?」と私はたずねた。

彼はかぶりを振った。「不定なものなどない」

私はその言葉に感謝した。(医師マコヴィーツキーの手記)(419頁)

■「私に嘘をつく必要はないよ」と彼は言った。「しかしきみの気持はよくわかる。が、きみは私の医者であって、守護天使じゃないことは忘れてはいかん。何ごとが起ころうとも、きみの責任じゃないよ」

突如、咳の発作が襲って、彼は激しく全身を震わせた。私は1杯の水を与えた。

「すべてうまくいくさ」と彼は言った。「きみの言うとおりだ」

私は床に目を落した。彼を子供扱いするなんて私はばかだった。

「これで終り」と彼は言った。「王手だ」

私が見上げると、彼はほほえんでいた。(医師マコヴィーツキーの手記)(422~423頁)

■彼はわれわれの階級の他の人びととちがって、フランス語を使うことはもうめったになかったが、よい格言を撰んだものだ。「成すべきことを成せ。たとえ何ごとが起ころうとも」(高弟チェルトコフの手記)(435頁)

■木曜日の朝、彼はサーシャに言った。「私はまもなく死ぬかもしれんが、死なないもしれん。誰にわかる?」

「そんなこと考えないようになさいな、パパ」と彼女は言った。

彼女の言葉は見当ちがいに彼を刺激した。「考えずにいるなんてことができるか?私は考えねばならんのだ!」(高弟チェルトコフの手記)(437頁)

■レフ・ニコラーエヴィチは彼らを見てラーニャに囁いた。「そう、これでおしまいだ。べつに何でもないよ」

われわれは凝然と立ちつくしていた。私は、9年前、ガスプラで彼が死にかけたときのことを思い出した。レフ・ニコラーエヴィチは、暖かいクリミアの太陽のもとで療養するためにそこへ行ったのだ。ある時期彼の病状が悪化し死ぬかもしれないと思われたとき、セルゲイが、「伯爵」と最後の言葉を交わしたいと願っている現地の司祭に会いたいかとたずねた。レフ・ニコラーエヴィチは答えた。「彼らにはわからないのかね。死の床にあっても、2足す2はやっぱり4だっていうことが!」(高弟チェルトコフの手記)(445~446頁)

■医師たちは彼の反対を押しきってまたカンフル注射を打った。

「ばかな……ばかな!」と彼は嗄れ声で小さく叫んだ。「注射はやめろ……お願いだからそっとしておいてくれ!」

にもかかわらず、注射は効を奏した。ふたたび、ほとんどすぐに彼はずっと楽になり、ベッドで身を起こした。そしてセルゲイを呼んだ。

「息子よ」セルゲイが彼のそばにひざまずき、耳を父の唇に寄せると、彼は言った。「真理を……わたしは熱愛する……なぜあの人たちは――」もう1度真理を定義しようとし、言葉の鞭を振るおうと努力したが力尽きて、彼の声はとぎれた。(高弟チェルトコフの手記)(443頁)

2010年10月10日

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『善の研究』西田幾多郎著 全注釈小坂国継 講談社学術文庫

■純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたいというのは、余が大分前から有(も)っていた考えであった。初めはマッハなどを読んでみたが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考えから独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることによってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、ついにこの書の第2編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。

思索などする奴は緑の野にあって枯れ草を食う動物の如しとメフィストに嘲(あざけ)らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果(み)を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。(16頁)

■行為的直観(注5)の世界、ポイエシス(注6)の世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。

(5)行為的直観 後期西田哲学の主要概念。一見すると矛盾対立的である行為と直観、働くことと見ることとの間の相即的・相補的関係を表現する用語。真の行為は深く物を見ることから生ずる。したがって、行為と直観は相互に対立的であるのではなく、むしろ行為は直観から生ずるのであり、行為即直観であると説く思想。

(6)ポイエシス 芸術的制作。西田は彼の行為的直観の思想を説明するのに、好んでポイエシスを例にとっている。(25~26頁)

■フェフィネルはある朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛けに休らいながら、日麗らかに花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありのままが真である昼の見方に耽(ふけ)ったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものにすぎないという考えを有(も)っていた、まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考えに耽ったことが今も思い出される。その頃の考えがこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この書がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この書の重版を見ようとは思いもよらないことであった。この書に対して、命なりけり小夜の中山(注9)の感なきを得ない。(24頁)

(注9)西行法師『山家集』にある「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山の下の句。「年とってまた越えることができるとは思わなかった、命があったればこそできたのである」との意。「小夜の中山」は静岡県掛川市にある坂路。箱根路に次ぐ東海道の難所として知られた。(28頁)

■純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく(注4)その最も自由にして、活発なる状態である。(39頁)

(注4)純粋経験においては意志の要求と実現との間に少しの間隙もないということは、意志的要求と実際の行為との間にいかなる断絶も分裂もないということである。要求がそのまま行為となり、行為がそのまま欲求の実現となるということである。もし意志の要求とその実現との間に断絶があるとすれば、その場合は、主観と客観が分裂しているということであり、もはや純粋経験の状態ではなくなっているということである。(41~42頁)

■しかし、さらにいえば、事実をあるがままに受けとるという表現自体も本当は十分ではない。というのも、そこにはまだ受けとる主体の存在が前提されているからである。そこには、なお、(事実を)受けとるものと受けとられるものとの間隙や対立がみとめられる。受けとる主体自身も消えてなくなってしまった時、はじめてそこにただ事実だけが存在することになるだろう。それで、純粋経験とは、いわゆる自己というものがなくなって、自己が物と一体となり、事実そのものとなっているような状態である。徹底して自己を否定し、空しくして、物に即し、事に即して見ていこうとする西田哲学の性格が、この冒頭の「経験」の定義によく表われている。それは、デカルトの「我思う故に我あり」(cogito ergo sum)から出発する西欧近代の主観主義の立場とは対極にある考え方である。(49頁)

■しからば、いかなる思想が真でありいかなる思想が偽であるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なるもの、すなわち最大最深なる体系を客観的実在だと信じ、これに合った場合を偽と考えるのである。(64~65頁)

■我々は普通に思惟によりて一般的なるものを知り、経験によりて個体的なるものを知ると思うている。しかし、個体を離れて一般的なるものがあるのではない、真に一般的なるものは個体的実現の背後における潜勢力(注1)である、個体の中にありてこれを発展せしむる力である、例えば植物の種子の如きものである。もし個体より抽象せられた他の特殊と対立する如きものならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、かかる場合では一般は特殊の上に位するのではなく、これと同列にあるのである、例えば、色ある3角形について、3角形より見れば色は特殊であるであろうが、色より見れば3角は特殊である(注2)。(70頁)

(注1)潜勢力 「統一的或者」「或統一者」「潜在的統一作用」と同様、普遍的意識の別名。

(注2)例えば、3角形を基準にすれば、赤色をした3角形は3角形一般から見ると特殊であるが、反対に色を基準にすれば、3角の形をした赤色は赤色一般からすれば特殊である。(72頁)

■時間空間という如きものもかかる内容にもとづいてこれを統一する一つの形式にすぎないのである(注5)。(71頁)

(注5)時間や空間については、これをニュートンのように実在と考える考え方と、カントのように現象を秩序づける形式と考える考え方があるが、この点に関しては、西田の考えはカントのそれと一致している。(72頁)

【私(岡野)の考え;私はニュートンのように実在と考えている】

■この意味より見れば、普通に感覚あるいは知覚といっているようなものは極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる画家の直覚の如きものが反って真に個体的といいうるであろう。(71頁)

■思惟を進行させるおはわれわれの勝手な意志ではなく、思惟は思惟自身によって自ら展開していくのである。われわれの思惟の対象と一体となった時、すなわち対象の中に没入した時、はじめて思惟本来の活動を見るのである。(77頁)

■常識では、時間空間において限定された物質的なものを個体と呼んでいる。しかし、このような規定は外面的であって、真の個体は、その外面においてではなく、その内容において個体的でなければならない。すなわち、唯一の特性をもったものでなければならない。一般的なものがその発展の極限に至ったものが個体である。そして、この点からすれば、感覚や知覚はきわめて内容の乏しい一般的なものであって、むしろ芸術家の直覚のようなものこそ真に個体的であるといえるのである。(83頁)

■ゲーテが「意欲せざる天の星は美し(注1)」といったように、いかなるものも自己運動の表象の系統に入り来らざるものは意志の目的とはならぬのである。(87頁)

(注1)ゲーテの小曲「涙の中にある慰め」の中の一節。

星を獲ろうと望みはすまい。

われらは星の光を悦び、

晴れた夜毎に空を仰いで

大きい歓喜を身に感じる。(片山敏彦訳『ゲーテ詩集』〈1〉、岩波文庫、125頁)(87~88頁)

■我々が現実と離れた高き目的を実行しようと想う場合には種々の手段を考え、これによりて一歩一歩と進まねばならぬ、しかしてかく手段を考えるのはすなわち客観に調和を求めるのである、これに従うのである。もし到底その手段を見出すことができぬならば、目的そのものを変更するより外はなかろう。これに反し、目的が極めて現実に近かった時には、飲食起臥の習慣的行為の如く、欲求はただちに実行となるのである、かかる場合には主観より働くのではなく、反って客観より働くとも見らるるのである。(90頁)

■真理は我々の作為すべきものでなく、反ってこれに従うて思惟すべきものであるというのである。しかし、我々が真理といっているものははたして全く主観を離れて存するものであろうか。(91頁)

【私(岡野)の考え;私は「真・善・美」は超越的存在と考えるので、当然主観を離れて存在するとおもう】

■いかなるものが真理であるかということについては種々の議論もあるであろうが、余は最も具体的なる経験の事実に近づいたものが真理であると思う(注3)。(97頁)

(注3)「余は最も具体的なる……あると思う」 西田は認識を主観と対象との一致とも考えなければ、主観による対象の構成作用とも考えない。具体的事実の直覚と考えている。しかも、この具体的事実はきわめて多様な側面を有するとともに無限の深さを有していると考えられている。したがって、そのもっとも根源的でもっとも深い事実を直覚することが真の認識ということになる。西田は、ここではそれを「最も具体的なる経験の事実に近づいたもの」と表現している。(98頁)

■完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に、完全なる真理は言語にいい現わすべきものではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。(97頁)

【私(岡野)の考え;私は「真・善・美」は超越的存在と考えるので、科学的真理は〈完全〉なる真理とはいえないが、真理の一部であると考える】

■意志というのは普通の知識というものよりも一層根本的なる意識体系であって統一の中心となるものである(注1)。知と意との区別は意識の内容にあるのではなく、その体系内の地位によりて定まってくるのであると思う。

(注1)ここでは、意志や知識よりも一層根本的な意識体系であって統一の中心となるものである、と述べられている。ここには、知よりも意を根本的と見る西田の主意主義の立場が明確に現われている。(101頁)

■学者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を(注6)得るのも、美術家の新思想を得るのも、宗教家の新覚醒をうるのもすべてかかる統一の発現にもとづくのである(故に、すべて神秘的直覚にもとづくのである)。(113頁)

(注6)動機 行動を決定する根拠となる目的意識を伴った欲求ないし衝動。ここでは道徳家にとっての動機が、学者にとっての思想、美術家にとっての理想、宗教家にとっての覚醒と対応するものとしてあげられている。(114頁)

■物我(もつが)相忘(ぼう)じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。知的直観といえば主観的作用のように聞こえるのであるが、その実は主客を超越した状態である、主客の対立はむしろこの統一によりて成立するといってよい、芸術の神来の如きものは皆この境に達するのである。また、知的直観とは事実を離れたる抽象的一般性の直覚をいうのではない。画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない。かっていったように、真の一般と個性とは相反するものでない、個性的限定によりて反って真の一般を現すことができる、芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わすがためである。(115頁)

■真の宗教的覚悟とは思惟にもとづける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根柢に横たわれる深遠なる統一を自得するのである、すなわち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。故に、いかなる論理の刃もこれに向かうことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、すべての真理および満足の根本的直覚がなければならぬと思う。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれによりて成立するのである(注2)。

(注2)宗教が学問道徳の基本があるという考えは西田の根本思想の一つであった。第4編第1章には「人智の未だ開けない時は人々反って宗教的であって、学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬようになる」と述べられている。(121頁)

■世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接な関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。例えば、高尚なる精神的要求を持っている人は唯物論に満足できず、唯物論を信じている人は、いつしか高尚なる精神的要求に疑いを抱くようになる。元来、真理は1つである。知識においての真理はただちに実践上の真理であり、実践上の真理はただちに知識においての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むるようになる。我々は何を為すべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在はいかなるものなるかを明らかにせねばならぬ。

哲学と宗教を最も能く一致したのはインドの哲学、宗教である。インドの哲学、宗教では知即善で迷即悪である。宇宙の本体はブラフマンでブラフマンは吾人の心即アートマンである。このブラフマン即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。キリスト教は始め全く実践的であったが、知識的満足を求むる人心の要求は抑えがたく、ついに中世のキリスト教哲学なるものが発達した。シナの道徳には哲学的方面の発達がはなはだ乏しいが、宋代以後の思想はすこぶるこの傾向がある。これらの事実は皆人心の根柢には知識と情意との一致を求むる深き要求のあることを証明するのである。欧州の思想の発達について見ても、古代の哲学でソクラテス、プラトーを始めとし教訓の目的が主となっている。近代において知識の方が特に長足の進歩をなすとともに知識と情意との統一が困難になり、この両方面が相分かれるような傾向ができた。しかし、これは人心本来の要求に合うたものではない。(125~126頁)

■事実と認識の間に一毫の間隙がない。真に疑うに疑いようがないのである。(130頁)

■我々は意識現象と物体現象と2種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ1種あるのみである。すなわち、意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有するものを抽象したのにすぎない(注2)。

(注2)いわゆる物体という実体が存在するのではなく、通常、われわれが物体と呼んでいるのは、意識現象の内で比較的に客観的で不変的な関係を有する部分を抽出して、それに名称を与えたものにすぎない。西田の考えは明らかに唯名論的である。(142頁)

【私(岡野)の考え;私の考えは実在論的で、このあたりからこの本を読み進めるのに、気がおもくなる】

■また、普通には、意識の外にある定まった性質を具えた物の本体が独立に存在し、意識現象はこれにもとづいて起こる現象にすぎないと考えられている。しかし、意識外に独立固定せる物とはいかなるものであるか。厳密に意識現象を離れて物そのものの性質を想像することはできぬ。単にある一定の現象を起こす不知的の或者というより外にない(注1)。(142~143頁)

(注1)西田は意識現象を唯一の実在と考える。したがって、意識現象から独立した物とか物の性質とかいったものの存在をみとめない。もしそのようなもの、例えばわれわれが感覚している個々の「リンゴ」ではなく、いわば「リンゴ」そのものとか「リンゴ」自体とかいったようなものが存在するとしたら、それは時間・空間という枠(直観形式)の下では、またすべてのものは因果法則に従って生ずるという前提条件の下では、われわれの感官に「赤い」とか「丸い」とか「硬い」とか「甘い」とか感じられる、しかしそれ自身はまったく不可知的な或者としかいいようがないというわけである。西田自身、直截に「我々が実際に感覚しているもの、それが物自身である」と考えている。(143~144頁)

【私(岡野)の考え;同じく、だんだん私の世界観とくい違いこの本を読み進めるのに、気がおもくなる】

■いわゆる唯物論者なる者は、物の存在ということをうたがいのない直接自明の事実であるかのように考えて、これをもって精神現象をも説明しようとしている。しかし、少しく考えてみると、こは本末を転倒しているのである(注2)。(143頁)

(注2)本来、純粋経験説は主客未分の「純粋経験」を唯一の実在と考えるたちばであるから、唯物論でも唯心論でもなく、そのような二元論を超越した立場であるが、この箇所に見られるように、『善の研究』には、唯心論に親近感を示す表現が散見される。例えば、本編第9章では「実在は精神において始めて完全なる実在となる」と述べられ、また第4編第3章では「物体によりて精神を説明しようとするのはその本末を顛倒したものといわねばならぬ」と述べられている。(144頁)

【私(岡野)の考え;人間の外側の物の世界は、人間に無関係に実存に超越して在るのだけれども、人間に写り込む形で人間の身体に内在すると考える】

――ここで私はこれ以上読み進めるのを一旦断念したのだが、全注釈を書いた編者の小坂国継氏の補論「『善の研究』について」を読んで、そのなかで「内在的超越主義」(ということは、私が外在的に超越と措定していた存在を、以前読み、この【読書ノート】の2009年8月29日のページにも記した「物の世界」、「心の世界」、「プラトン的イデア界」を三位一体とするペンローズの説と同じではないかと驚く)という言葉にであい、あらためて読み進めることにする。本のページの順序とは違いますが、私が読んだ順にしたがって以下を記していきます――

■意識現象とというと何か主観的もしくは心理的なもののように受けとられがちであるが、ここでいう意識現象とは、主観と客観の未分の状態、あるいは両者の統一的状態、つまり事物が自然現象と精神現象に分かれる以前の根源的状態を指し示す言葉である。

しかし、純粋経験という言葉自体は西田の造語ではない。純粋経験説は当時の西欧の流行思想の一つであって、アヴェナリウスやマッハの『経験批判論』やジェームスの『根本的経験論』において用いられた言葉である。経験批判論というのは、思惟による付加物を取り去った純粋な経験を回復し、主観と客観、意識と存在に分裂する以前の中立的な純粋経験によって世界を説明していこうとする思想であり、また根本的経験論というのは、主客未分の中性的な純粋経験を唯一実在と考え、経験と経験とを結ぶ関係をも一種の経験と考えて、主観と客観、意識と存在を、このような純粋経験相互の関係から生ずる同じ純粋経験の2つの機能ととして説明しようとするものである。いずれも、デカルトに始まる、主観と客観、あるいは意識と対象とを分離する2元論的な思考様式を徹底的に批判して、このような分離以前の純粋経験をもって根本的実在と考え、またそれによってすべてのものを説明していこうとする考え方である。(473~474頁)

■いずれにしても、西田のいう純粋経験の概念は主体的な体験や境位という性格が強い。純粋経験を説明する時、彼が好んで宗教家の「三昧」や芸術家の「神来」の境地を引き合いに出す所以であろう。それは、外から観察された経験というよりも、むしろ内から体験された経験であり、対象的に眺められた経験ではなく、主体的に生きられた経験である。われわれの自己が純粋経験するのであり、否むしろ純粋経験がわれわれの自己自身なのである。(479~480頁)

■さらに、西田は「厳密にいえば、すべての実在には精神があるといってよい」(第2編第9章)とか、「自然もやはり1種の自己を具えているのである」(同編第8章)とかいって、物活論的もしくは汎心論的な考え方をも示している。そして、そこから万物同性的ないしは万物一体的な考え方を提示している。例えば、「元来物と我と区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない。天地同根万物一体である」(第3編第11章)といっている。(501頁)

■このような誠意や至誠の強調、いいかえれば私欲や私心のなさの強調――それは「人欲を去りて天理を存する」とか「物になって見、物になって行なう」という言葉で表現されている――は陽明と西田に通底した思想である。彼らの思想は世界や物を自己に内在的なものとして、あるいは自己の内に映されたものとして見ていこうとしている点では唯心論であり、それも極端な主観的唯心論であるが、同時にその世界や物をいわゆる自己が消滅したところ、自己が自己を喪失したところから見ていこうとする点で、むしろ無心論であり、徹底した即物論ともいうべきものである。いいかえれば、この哲学は自己が自己でないものになることを要求する哲学であり、また実際に自己が自己でないものになったときに始めて理解されるような哲学である。それ故に、彼らは知よりも意を、知識よりも行為を優先する。それが知行合一の思想である。(504~505頁)

■東洋に独特な思惟様式の特徴として、第1にあげられるのはその唯心論的性格であろう。仏教も陽明学も西田哲学も、これを西洋哲学的な枠組みから見れば、いずれも唯心論に属するものとして分類することができる。(508頁)

■このように陽明においても西田においても、その思想の対象はもっぱら心であり、自己である。彼らは真の心や自己を探求し、またそのことをとおしてものの世界を明らかにしようとした。この点で両者はまったく一致している。そして、この点から見れば、彼らの思想は明らかに主観的唯心論であり、また主観的観念論でもある。(509頁)

■ けれども、普遍的なものは個物的なものに対してただ単に内在的であるだけでなく、同時に超越的でもある。ただその超越的であるというのは、外的・対象的方向に超越的であるのではなく、むしろ反対に内的・主体的方向に超越的であるのである。従来、西洋哲学は伝統的に実在を対象的・超越的方向に考えてきた。それに対して、王陽明や西田幾多郎はもっぱら実在を内在的・超越的方向にもとめている。そして、それは禅仏教でいう「廻光返照」や「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」の精神とも符合しているといえるであろう。彼らは実在を自己の外に超越したものとして考えるのではなく、反対にどこまでも自己の内の内に、あるいは底の底に突きぬけたところにもとめようとした。外的超越的方向ではなく、むしろ内的超越的方向である。このような思惟方法は従来の西洋的思惟方法の枠組みを突破するものであるいわなければならない。筆者は東洋思想がもっているこのような内向的性格を、西洋に伝統的な「物の形而上学」に対する「心の形而上学」として特徴づけたことがある。西田自身も東洋に伝統的な論理を西洋的「物の論理」に対する「心の論理」と呼んでいる。(510頁)

■そしてこの点で、西田や王陽明の思想は「内在的超越主義」であるといえよう。(511頁)

■しかし、ここで注意すべきは、このような万物一体の思想の根柢には「否定の論理」が働いていることである。われわれが自己の内底に世界を見、物を見る。また、その意味で世界や物と一体になるということは、実は自己がいわゆる自己であることをどこまでも否定していくことである。こうして、いわゆる自己というものがなくなればなくなるほど、われわれは世界や物と一体となることができる。このように、万物一体の思想は徹底した自己否定を基礎にしている。(512頁)

■自己の内底に物を見るということは、じつは自己というものが消失して「物になりきる」(西田)ということであり、「心を尽くす」(陽明)ということである。そこには、明らかに「否定の論理」が働いている。彼らのいう万物一体の思想は、自己というものをこちら側に保持しておいて、しかる後に対象としての世界や物に対して感情移入していくものではない。つまり、万物の外側から万物と一体になるのではない。そうではなくて、万物の内側から万物と一体になるのである。どこまでも自己というものを否定し消滅させて世界や物になりきるのである。換言すれば、自己を無限に肯定して自己実現をしていくのではなく、むしろ反対に徹底して自己を否定していくことによって、反って真の自己を実現していこうとするのである。そこでは、つねに自己が自己でないものになるということが要求されている。しかも、自己が自己でないものになった時自己は真の自己になると考えられている。そして、そのように自己が真の自己になるための不可欠の要件として、「誠意」や「至誠」が力説されている。それは陽明にとっては「心を尽くす」ということと同義であり、西田にとっては「物になりきる」ということと同義であった。両者にとって共通しているのは、学問はただ知識の習得ではなく、同時に人格の陶冶であり、知と行は一体にして不離なるものであるという考え方である。このような知行合一的な考え方は、とかく知識は知識、実践は実践として両者を分けて考える傾向のある西洋的思惟方法に対して、東洋的思惟方法がもっている顕著な一特性である、といえるであろう。(513頁)

――本のページの順序に戻します――

■純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出てくるので、直截経験の事実ではない。直截経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである。見る主観もなければ見らるる客観もない。あたかも我々が微妙なる音楽に心を奪われ、物我(もつが)相忘れ、天地ただ嚠喨(りゅうりょう)たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているのかという考えは、我々がこの実在の真景を離れて反省し、思惟するによって起こってくるので、この時我々はすでに真実在を離れているのである。(155頁)

■しかし、人が情意を有するのでなく、情意が個人をつくるのである、情意は直接経験のじじつである(注1)。

(注1)個人が存在して、その個人が情意を有しているのではない。反対に情意とい

う純粋経験の事実があって、そこから個人の存在がというものが推理されるのである。この言葉は、『善の研究』の序にある「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的である」という言葉と対応している。(158~159頁)

■上にいったように、主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である。我々が独立自全の真実在を想起すればおのずからこの形において現われてくる。(163頁)

■この統一的或物が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、前にいったように、物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この2種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。我々の思惟意志の根柢における統一力と宇宙現象の根柢における統一力とはただちに同一である、例えば、我々の論理、数学の法則はただちに宇宙現象がこれによりて成立し得る原則である。(173頁)

■ヘーゲルは何でも理性的なるものは実在であって、実在は必ず理性的なるものであるといった。この語は種々の反対を受けたにもかかわらず、見方によっては動かすべからざる真理である。宇宙の現象はいかに些細なるものであっても、決して偶然に起こり前後にまったくなんらの関係をもたぬものはない。必ず起こるべき理由を具して起こるのである。我らはこれを偶然と見るのは単に知識の不足より来るのである。

普通には何か活動の主があって、これより活動が起こるものと考えている。しかし、直接経験より見れば活動そのものが実在である。この主たる物というは抽象概念である。我々は統一とその内容との対立を互いに独立の実在であるかのように思うからかくの如き考えを生ずるのである。(178頁)

■直接経験より見れば、同一内容の意識はただちに同一の意識である、真理は何人が何時代に考えても同一であるように、我々の昨日の意識と今日の意識とは同一の体系に属し同一の内容を有するが故に、ただちに結合せられて一意識と成るのである。個人の一生というものはかくの如き一体系を成せる意識の発展である。

この点より見れば、精神の根柢には常に不変的或者がある。このものが日々その発展を大きくするのである。時間の経過とはこの発展に伴う統一的中心点が変じてゆくのである、この中心点がいつでも「今」である(注3)。(183頁)

(注3)時間が経過するというのは、根源的統一力の発展において、その中心点が変移していくということである。そして、変移していくその瞬間瞬間の中心点が「今」であり、「自己」であるのである。(184頁)

■自己は認識主観であるが、この自己を認識しようとすると、われわれはこれを対象化しなければならない。しかし、対象化された自己は客観としての自己であって、もはや主観としての自己でなくなってしまう。それは「意識する意識」ではなく、「意識される意識」となる。この意味で、主観としての自己はけっして認識の対象とはならないものである。ちょうど眼は何でも見ることができるが、自分自身を見ることができないように、自己は何でも知ることができるが、自分自身を知ることはできない。(193~194頁)

■ハルトマンも無意識が活動であるといっているように、我々が主観の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識である。これに飯紙、ある意識を客観的対象として意識した時には、その意識はすでに活動を失ったものである。たとえば、ある芸術の修練についても、一々の動作を意識している間は未だ真に生きた芸術ではない、無意識の状態に至って始めて生きた芸術となるのである。(196頁)

■実在はただ一つあるのみであって、その見方の異なるによりて種々の形を呈するのである。(201頁)

■我々は愛する花を見、また親しき動物を見て、ただちに全体において統一的或者を捕捉するのである。これがその物の自己、その物の本体である。美術家はかくの如き直覚の最もすぐれた人である。彼らは一見、物の真相を看破して統一的或者を捕捉するのである。彼らの現わす所のものは表面の事実でなく、深く物の根柢に潜める不変の本体である。(207頁)

■意志はただ客観的自然に従うによってのみ実現し得るのである。水を動かすのは水の性に従うのである、人を支配するのは人の性に従うのである、自分を支配するのは自分の性に従うのである、我々の意志が客観的となるだけそれだけ有力となるのである。釈迦、キリスト(基督)が千歳の後にも万人を動かす力を有するのは、実に彼らの精神が能く客観的であった故である。我なき者すなわち自己を滅せる者は最も偉大なる者である。

普通には精神現象と物体現象とを内外によりて区別し、前者は内に、後者は外にあると考えている。しかしかくの如き考えは、精神は肉体の中にあるという独断より起こるので、直接経験より見ればすべて同一の意識現象であって、内外の区別があるのではない。我々が単に内面的なる主観的精神といっているものは極めて表面的なる微弱なる精神である、すなわち個人的空想である。これに反して、大なる深き精神は宇宙の真理に合したる宇宙の活動そのものである。それで、かくの如き精神にはおのずから外界の活動を伴うのである、活動すまいと思うてもできないのである。美術家の神来(注3)の如きはその一例である。

(注3)インスピレーション、霊感。(222~223頁)

■精神は実在の統一作用であって、大なる精神は自然と一致するのであるから、我々は小なる自己をもって自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。(224頁)

■実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いている。実在は実にこれによって成立するのである。例えば、3角形のすべての角の和は2直角であるというの理はどこにあるのであるか、我々は理そのものを見ることも聞くこともできない、しかもここに厳然として動かすべからざる理が存在するのではないか。また、一幅の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺(しんいんひょうびょう)として霊気人を襲うものあるを見る、しかもその中の一物一景についてそのしかる所以のものを見出さんとしても到底これを求むることはできない。神はこれらの意味における宇宙の統一者である。実在の根本である。ただその能く無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。

数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理もなんらの知識を与えず、美を解し得ざる者には、いかに巧妙なる名画もなんらの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、なんらの意味もないように感ぜられる、したがって宗教などを無用視している。真正の神を知らんと欲する者はぜひ自己をそれだけに修練して、これを知り得るの眼を具えねばならぬ。かくの如き人には宇宙全体の上に神の力なるものが、名画の中における画家の精神の如くに活躍し、直接経験の事実として感ぜられるのである。これを見神(注6)の事実というのである。

(注6)神の示現を心中に感得すること。(233~234頁)

■元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一をもって満足するものではない。さらに、進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むるようになる。我々の他愛とはかくの如くして起こってくる超個人的統一の要求である。故に、我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。しかして、宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。(236頁)

■以上のような神概念は通常の神概念とは非常に異なっている。まず、それは宇宙の外にあって、外から宇宙を支配している人格的な存在者ではない。また、宇宙の創造主としての神でもない。さらには、宇宙におけるすべての目的や調和の原因としての神でもない。ましてや、」道徳的秩序の維持者としての神ではない。西田の神概念は、このような有神論的な神よりも、むしろ汎神論的な神の観念に近い。彼は神と世界との関係を、芸術家とその作品との関係としてよりも、むしろ本体とその現象との関係としてとらえているように思われる。(237~238頁)

■想像も意志も、ある一定の目的観念にしたがった観念統一の作用であるが、想像の目的は「自然の模倣」であるのに対して、意志の目的は「自己の実現」にあるから、この点で両者は本質的に異なっているように見える。しかし、想像も、例えば芸術家の「入神」すなわち霊感(インスピレーション)の域に達すれば「全く自己をその中に没し自己と物と全然一致して、物の活動がただちに自己の意志活動と感ぜらるるようにもなる」。したがって、想像と意志を明確に区別することは困難である。(249頁)

■かく考うれば、真理は単に相対的である。余はむしろこの考えを反対となし、分析よりも綜合に重きを置いて、合目的なる自然が個々の分立より綜合に進み、階段を踏んで己が真意を発揮すると見るのが至当であると思う。(254頁)

■意志が自由であるか、はたまた必然であるかは久しき以来学者の頭を悩ました問題である。この議論は道徳上大切であるのみならず、これによりて意志の哲学的性質をも明らかにすることができるのである。(259頁)

■すなわち、観念をいかに分析し、いかに綜合するかが自己の自由に属するのである。もちろん、この場合においても観念の分析綜合には動かすべからざる先天的法則なるものがあって、勝手にできるのではなく、また観念間の結合が唯一であるか、またはある結合が特に恐盛であった時には、我々はどうしてもこの結合に従わねばならぬのである。ただ観念成立の先天的法則の範囲内において、しかも観念結合に2つ以上の途があり、これらの結合の強度が脅迫的ならざる場合においてのみ、全然選択の自由を有するのである。(260頁)

■宇宙の現象は1つとして偶然に起こるものはない、極めて些細なる事柄でも、精しく研究すれば必ず相当の原因を持っている。この考えはすべて学問と称するものの根本的思想であって、かつ科学の発達とともにますますこの思想が確実となるのである。自然現象の中にて従来神秘的と思われていたものも、一々その原因結果が明瞭となって、数学的に計算ができるようにまで進んできた。今日の所でなお原因がないなどと思われているものは我々の意志くらいである。しかし意志といってもこの動かすべからざる自然の大法則の外に脱することはできまい。今日意志が自由であると思うているのは、畢竟未だ科学の発達が幼稚であって、一々この原因を説明することができぬ故である。しかのみならず、意志的動作も個々の場合においては、実に不規則であって一見定まった原因がないようであるが、多数の人の動作を統計的に考えてみると案外秩序的である、決して一定の原因結果がないとは見られない。これらの考えはますます我々の意志に原因があるという確信を強くし、我々の意志はすべての自然現象と同じく、必然なる機械的因果の法則に支配せらるるもので、別に意志という一種の神秘力はないという断案に到達するのである。(261頁)

■なんらの理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあったならば、我々はこの時意志の自由を感じないで、反ってこれを偶然の出来事として外より働いたものと考えるのである(注1)。

(注1)何の理由も原因もなく行為を決定することができるという場合、その行為は偶然おこななわれた行為であり、その時の外界の事情によって生じた行為であるということになるであろう。いいかえれば、それは外から決定された行為であって、内から生じた自由な行為とはいえない。自由であるということの内には、それが自分の外からではなく、自分の内から決定されたという意味がなんらかの形で含まれていなければならない。(262頁)

■我々の精神には精神活動の法則がある。精神がこの己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである。自由には2つの意義がある。1つは全く原因がないすなわち偶然ということと同意義の自由であって、1つは自分が外の束縛を受けない、己自らにて働く意味の自由である。すなわち、必然的自由の意義である。意志の自由というのは、後者における意味の自由である。しかし、ここにおいて次の如き問題が起こってくるであろう。自己の性質に従うて働くのが自由であるというならば、万物皆自己の性質に従って働かぬものはない、水の流れるのも火の燃えるのも皆自己の性質に従うのである。しかるに、何故に他を必然として、独り意志のみ自由となすのであるか。(264頁)

■さらに、詳言すれば、意識には必ず一般的性質のものがある、すなわち意識は理想的要素をもっている。これでなければ意識ではない。しかして、これらの性質があるということは、現実のかかる出来事の外、さらに他の可能性を有しているというのである。現実にしてしかも理想を含み、理想的にしてしかも現実を離れぬというのが意識の特性である。(266頁)

■このように、西田は、真の自由は「内的な自由」ないしは「必然的自由」でなければならないと言うことを主張し、またこのような意味での自由には、事物に対する知的な洞察が不可欠であるということを強調している。われわれは自己の自然に従うが故に自由であり、自己の行為の理由を知るが故に自由である。「我々は知識の進むとともにますます自由の人となることができる」。この意味で、ソクラテスを裁いたアテナイ人よりもソクラテスの方が自由であり、また人間は「考える葦」であるが故に、彼を滅せんとするものよりも尊い。(270~271頁)

■すべての現象あるいは出来事を見るに2つの点よりすることができる。1はいかにして起こったか、また何故にかくあらざるべからざるかの原因もしくは理由の考究であり、1は何のために起こったかという目的の考究である(注1)。例えば、ここに1個の花ありとせよ。こはいかにしてできたかといえば、植物と外囲の事情とにより、物理および科学の法則によりて生じたものであるといわねばならず、何のためかといえば果実を結ぶためであるということとなる。前者は単に物の成立の法則を研究する理論的研究であって、後者は、物の活動の法則を研究する実践的研究である。(272頁)

(注1)前者は「動力因」ないし「作用院」、後者は「目的因」と呼ばれる。(273頁)

■なるほど我々の日常の経験について考えてみると、行為の善悪を判断するのは、かれこれ理由を考えるのではなく、たいてい直覚的に判断するのである。いわゆる良心なるものがあって、あたかも眼が物の美醜を判ずるが如く、ただちに行為の善悪を判ずることができるのである。直覚説はこの事実を根拠としたもので、最も事実に近い学説である。しかのみならず、行為の善悪は理由の説明を許さぬというのは、道徳の威厳を保つ上においてすこぶる有効である。(280頁)

■エソップの寓話の中に、ある時鹿の子が母鹿の犬の声に怖れて逃げるのを見て、お母さんは大きな体をして何故に小さい犬の声に駭(おどろ)いて逃げるのかと問うた。ところが、母鹿は何故か知らぬが、ただ犬の声が無暗にこわいから逃げるのだといったという話がある(注5)。

(注5)『イソップ寓話集』第4部351「仔牛と鹿」。西田の記憶は正確ではないようである。きわめて短い寓話なので、その全文をかかげておく。

いくら図体が大きく頑強そうに見えても、生まれつき臆病な者は、言葉で励ましても力づけはできない、ということ。

仔牛が鹿に向かって、

「君は犬より体が大きいし、足の速さでも勝っている。おまけに防御の角まである。なのにどうしてそんなに犬を怖がるのだ」と尋ねると、鹿の言うには、

「たしかに全部揃ってる。だけど犬の吠えるのを聞いたら、分別がかき曇り、頭の中は逃げることで、一杯になるのだ」(中務哲郎訳、岩波文庫、262頁)(292~293頁)

■利己的快楽説とは、自己の快楽の追究をもって人生の究極目的とするものである。この説の代表として西田はキュレネ学派のアイスティッポスの説とエピクロスの説とを紹介している。アイスティッポスは瞬間の積極的な快楽をもとめたのに対して、エピクロスは一生にわたる消極的な快楽、つまり快楽の享受よりも苦痛の欠如をもとめた。エピクロスにとっては最大の善は心の安静(アタラクシア)にあり、彼の考えは一種の隠遁主義であった。「エピクロスの園」という言葉がそれをよく示している。

また、公衆的快楽説とは、功利主義のことであり、その根本原理においては利己的快楽説と異ならないが、ただこの説は、個人の快楽をもって最上の善とは考えず、かえって社会全体の快楽をもって最高善と考える。それが公衆的快楽説と呼ばれる所以である。功利主義の究極目的は「最大多数の最大幸福」にあるのである。(320頁)

■善は何であるかの説明は意志そのものの性質に求めねばならぬことは明らかである。意志は意識の根本的統一作用であって、ただちにまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は他のための活動ではなく、己自らのための活動である。意志の価値を定むる根本は意志そのものの中に求むるより外はないのである。意志活動の性質は、先に行為の性質を論じた時にいったように、その根柢には先天的要求(意識の素因)なるものがあって、意識の上には目的観念として現われ、これによりて意識の統一するにあるのである。この統一が完成せられた時、すなわち理想が実現せられた時我々に満足の感情を生じ、これに反した時は不満足を生ずるのである。行為の価値を定むるものは一にこの意志の根本たる先天的要求にあるので、能くこの要求すなわち吾人の理想を実現し得た時にはその行為は善として賞讃せられ、これに反した時は悪として非難せられるのである。そこで善とは我々の内面的要求すなわち理想の実現、換言すれば、意志の発展完成であるということとなる。かくの如き根本的思想にもとづく倫理学説を活動説という(注1)。(325頁)

(注1)(energetism)意志説と同義。人間精神の本質を知情意の内の意志にもとめ、意志の発展・完成を最高善とする立場。(326頁)

■真正の幸福は反って厳粛なる理想の実現によりて得らるべきものである。世人は往々自己の理想の実現または要求の満足などいえば利己主義または我儘主義と同一視している。しかし、最も深き自己の内面的要求の声は我々にとりて大なる威力を有し、人生においてこれより厳かなるものはないのである。(323頁)

■すなわち、我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆるenntelechie(注2)が善である)。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂(いい)に外ならず」といった。

(注1)(エンテレケイア)(完全現実態)。単なる可能態(デュミナス)に対する言葉で、完全におこなわれた行為とか、完成された現実性とかいった意味。(328頁)

■ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜられるのである。理想の如くに実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂いである。それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。善はすなわち美である。たとい行為そのものは大なる人性の要求から見てなんらの価値なきものであっても、その行為が真にその人の天性より出でたる自然の行為であった時には一種の美感を惹くように、道徳上においても一種寛容の情を生ずるのである。ギリシャ人は善と美とを同一視している。この考えは最も能くプラトーにおいて現われている。(329頁)

■いわゆる価値的判断の本(もと)である内面的欲求と実在の統一力とは1つであって2つあるのではない。存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分かつ抽象的作用よりくるので、具体的真実性においてはこの両者は元来1つであるのである。すなわち、善を求め善に遷るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。合理論者が真と善とを同一にしたのも1面の真理を含んでいる。しかし、抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。このばあいにおける知とはいわゆる体得の意味でなければならぬ。これらの考えはギリシャにおいてプラトーまたインドにおいてウパニシャッドの根本的思想であって、善に対する最深の思想であると思う(プラトーでは善の理想が実在の根本である、また、中世哲学においても「すべての実在は善なり」という句がある)。(330頁)

■真の意識統一というのは我々を知らずして自然に現われ来る純一無雑の作用であって、知情意の分別なく主客の隔離なく独立自全なる意識本来の状態である。我々の真人格はかくの如き時にその全体を現わすのである。故に、人格は単に理性にあらず、欲望にあらず、況んや無意識的衝動にあらず、あたかも天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった(注4)。(342頁)

(注4)『無門関」第19則に出てくる南泉の言葉。(343頁)

■上来論じた所を総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足するものをいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力すなわち人格の要求であるから、これを満足することすなわち人格の実現というのが我々にとりて絶対的善である。しかして、この人格の要求とは意識の統一力であるとともに実在の根柢における無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するというはこの力に合一するの謂である(注1)。善はかくの如きものであるとすれば、これより善行為とはいかなる行為であるかを定めることができると思う。(346頁)

(注1)西田の人格概念の特徴は、それが人間の内なる原理(意識の統一力)であると同時に、宇宙の根源的統一力でもあると考えられている点である。そして、前者が後者に合致するということが善行為の動機すなわち善の形式であると考えられている。すなわち、意識の統一力の発現である内面的要求が同時に宇宙の根源的統一力の発現と見なされる時、そこの人格が実現する。(347頁)

■善行為とはすべての自己の内面的必然より起こる行為でなければならぬ。先にもいったように、我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる。人格とはかかる場合において心の奥底より現われ来って、徐ろに全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格そのものを目的とする善行とはかくの如き要求に従った行為でなければならぬ。これに背けば自己の人格を否定した者である。至誠(注1)とは善行に欠くべからざる要件である。

(注1)至誠ないし誠は西田が非常に重視した徳目で、遺稿となった『場所的論理と宗教的世界観」においても説かれている。(347~348頁)

■しかし、人格の内面的必然すなわち至誠というのは知情意合一の上の要求である。知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に従うの謂ではない。自己の知をつくし情を尽くした上において始めて真の人格的要求すなわち至誠(注4)が現われてくるのである。自己の全力を尽くしきり、ほとんど自己の意識がなくなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見るのである。試みに芸術の作品について見よ。画家の真の人格すなわちオリジナリティはいかなる場合に現われるか。画家が意識の上において種々の企図をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意至り筆おのずから随(したが)う所に至って始めてこれを見ることができるのである。道徳上における人格の発現もこれと異ならぬのである。人格を発現するのは一時の情慾に従うのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従うのである。放縦懦弱(だじゃく)とは正反対であって、反って艱難辛苦の事業である。

(注4)至誠はもともと『中庸』の根本思想で、その20章に「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」とある。これは、そのまま西田の人格概念にあてはめることができるであろう。(349~350頁)

■自己の真摯なる内面的要求に従うということ、すなわち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消磨し尽くして全然物と一致したる処に、反って自己の真要求を満足し真の自己を見ることができるのである。一面より見れば、各自の客観的世界は各自の人格の反影であるということができる。否、各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系そのものの外にはないのである。(350頁)

■それで、自己の最大要求を充たし自己を実現するということは、自己の客観的理想を実現するということになる、すなわち客観といっちするということである。この点より見て、善行為は必ず愛であるということができる。愛というのはすべて自他一致の感情である。主客合一の感情である。ただ人が人に対する場合のみでなく、画家が自然に対する場合も愛である。(350~351頁)

■しかし、さらに一歩を進めて考えてみると、真の善行というのは客観を主幹に従えるのでなく、また主観が客観に従うのでもない。主観相没し物我(もつが)相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫(はじ)めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来、物と我と区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない(実在第9精神の章を参看せよ)。天地同根万物一体である。インドの古賢はこれを「それは汝である」といい、パウロは「もはや余生けるにあらずキリスト余にありて生けるなり」といい(ガラテア書第2章20)、孔子は「心の欲する所に従うて矩(のり)を踰(こ)えず」といわれたのである。(351~352頁)

■我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫とともに同一細胞の分裂によりて生じたものである。生物の全種族を通じて同一の生物と見ることができる。生物学者は今日生物は死せずといっている。意識生活について見てもそのとおりである。人間が共同生活を営む処には必ず各人の意識を統一する社会意識なるものがある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等はすべてこの社会的意識の現象である。我々の個人的意識はこの中に発生しこの中に養成せられたもので、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。知識も道徳も趣味もすべて社会的意義をもっている。最も普遍的なる学問すらも社会的因襲を脱しない(今日各国に学風というものがあるのはこれがためである)。いわゆる個人の特性というものはこの社会的意識なる基礎の上に現われ来る多様なる変化にすぎない、いかに奇抜なる天才でもこの社会的意識の範囲を脱することはできぬ。反って社会的意識の深大なる意義を発揮した人である。(キリストのユダヤ教に対する関係がその一例である(注2))。真に社会的意識となんらの関係なき者は狂人の意識の如きものにすぎぬ。

(注2)例えばイエスの出現は、当時のユダヤ社会、特にその支配層の堕落、ユダヤ人のなかに広まった終末論思想やメシア(救世主)の来臨への願望等と密接に連関している。(359~360頁)

■かく社会的意識なるものがあって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分はすべて社会的である。もし我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、ほとんど何物も残らないくらいである。我々の生命慾も主なる原因は他愛にあるをもってみても明らかである。(361頁)

■ここにおいて、我々はさらに大なる生命を求めねばならぬようになる、すなわち、意識中心の推移によりてさらに大なる統一を求めねばならぬようになるのである。かくの如き要求はすべて我々の協同的精神の発生の場合においてもこれを見ることができるのであるが、ただ宗教的要求はかかる要求の極点である。我々は客観的世界に対して主観的自己を立っしこれによりて前者を統一せんとする間は、その主観的自己はいかに大なるにもせよ、その統一は未だ相対的たるを免れない、絶対的統一はただ全然主観的統一を棄てて客観的統一に一致することによりて得られるのである。(382頁)

■宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う、しかして、人とは我々の個人的意識を指すのである。この両者の関係の考え方によって種々の宗教が定まってくるのである。しからばいかなる関係が真の宗教的関係であろうか。もし神と我とはその根柢において本質を異にし、神は単に人間以上の偉大な力という如きものとするならば、我々はこれに向かって毫も宗教的動機を見出すことはできぬ。あるいはこれを恐れてその命に従うこともあろう、あるいは、これに媚びて福利を求めることもあろう。しかし、そは皆利己心より出ずるにすぎない、本質を異にせぬものの相互の関係は利己心の外になりたつことはできないのである。(389頁)

■我々が神に祈りまたは感謝するというも、自己の存在のためにするのではない、己が本文の家郷たる神に帰せんことを祈りまたこれに帰せしことを感謝するのである。また、神が人を愛するというのもこの世の幸福を与うるのではない。これをして己に帰せしめるのである。神は生命の源である、我はただ神において生く。かくありてこそ宗教は生命に充ち、真の敬虔の念も出でくるのである。単に諦めるといい、任すという如きはなお自己の臭気を脱しておらぬ、未だ真の敬虔の念とはいわれない。神において真の自己を見出すなどという語はあるいは自己の重きを置くように思われるかも知らぬが、これ反って真に己を棄てて神を崇(たっと)ぶ所以である。(390頁)

■神は宇宙の外に超越せるものであって、外より世界を支配し人に対しても外から働くように考えることもでき、また神は内在的であって、人は神の一部であり神は内より人に働くと考えることもできる。前者は有神論(注1)の考えであって、後者はいわゆる汎神論(注2)の考えである。(392頁)

(注1)有神論;広義においては、神の存在を否定する無神論に対して、神の存在を主張する立場をいうが、狭義においては、神の人格生を否定する理神論に対しては神の人格性を肯定し、また神の内在性を主張する汎神論に対してはその超越性を主張する立場をいう。

(注2)汎神論;一切万有は神であり、神は自然であるとする立場。「神即自然」の定型で表現され、神の内在性と否人格性を主張する。万有神論ともいう。(393頁)

■昨日の意識と今日の意識は同一の統一を有するがゆえに同一の精神と見ることができるように、自己の意識と他己の意識は同一の統一を有するがゆえに同一の精神と見ることができる。そして、これを自己と自己の根柢たる神との関係にまで拡大していけば、われわれの精神は神と同一体であるということになる。だとすれば、「我は神において生く」というのは単なる比喩ではなくして事実であることになるであろう。そして、これが西田の正真の信念であった。それ故、「宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。すなわち、我々は意識の根柢において自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験するにあるのである」と西田は述べている。そして、ここに西田の宗教観の核心があるといえるであろう。(401頁)

■神とはこの宇宙の根本をいうのである。上に述べたように、余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、ただちにこの実在の根柢と考えるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象(注2)との関係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である。外は日月星辰の運行より、内は人心の機微に至るまでことごとく神の表現でないものはない、我々はこれらの物の根柢においていちいち神の霊光を拝することができるのである。

(注2)本体と現象;現象とは文字どおりすがた(象)となって現われたもの、われわれの五感に映ったもののことをいい、本体とは現象の奥にあると考えられる実体をいう。通常、現象は変化するものであるのに対して、本体は恒常不変であると考えられている。(402頁)

■かく実在に精神と自然との別なく、従うて2種の統一あることなく、ただ同一なる直接経験の事実その物が見方によりて種々の差別を生ずるものとすれば、余が前にいった実在の根柢たる神とは、この直接経験の事実すなわち我々の意識現象の根柢でなければならぬ。しかるに、すべて我々の意識現象は体系をなしたものである。超個人的統一によりて成れるいわゆる自然現象といえどもこの形式を離れることはできぬ。統一的或者の自己発展というのがすべての実在の形式であって、神とはかくの如き実在の統一者である。宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟においても意志においても心象が1つの目的観念により統一せられ、すべてがこの統一的観念の表現と見なされる如くに、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。この比較は単に比喩ではなくして事実である。神は我々の意識の最大最終の統一者である、否、我々の意識は神の意識の一部であって、その統一は神の統一より来るのである。小は我々の一喜一憂より大は日月星辰の運行に至るまで皆この統一によらぬものはない。ニュートンやケプレルもこの偉大なる宇宙的意識の統一に打たれたのである。(407~408頁)

■自覚とは部分的意識体系が全意識の中心において統一せられるる場合に伴う現象である。自覚は反省によって起こる、しかして、自己の反省とはかくの如く意識の中心を求むる作用である。自己とは意識の統一作用の外にない、この統一がかわれば自己もかわる。この外に自己の本体というようなものは空名にすぎぬのである。我々が内に省みて一種特別なる自己の意識を得るように思うが、そは心理学者のいう如くこの統一に伴う感情にすぎない(注6)。かくの如き意識あってこの統一がおこなわれるのではなく、この統一あってかくの如き意識を生ずるのである。(410頁)

(注6)例えば、ジェームスは、自己はけっして実体的な存在ではなく、いわば「意識の流れ」(stream of consciousness)、あるいは「主観的な生の流れ」(stream of subjective life)であり、われわれがそこに何か統一的なものを感じるのは、他の対象には感じ得ないような一種独特な「暖かさ」と「親しさ」があるからである、といっている。(ジェームス『心理学』岩波文庫、上巻、220-223頁)(412頁)

■かく神には不定的意志すなわち随意ということがないのであるから、神の愛というのも神はある人々を愛し、ある人々を憎み、ある人々を栄えしめ、ある人々を亡ぼすという如き偏狭の愛ではない。神はすべての実在の根柢として、その愛は平等普遍でなければならず、かつその自己発展そのものがただちに我々にとりて無限の愛でなければならぬ。万物自然の発展の外に特別なる神の愛はないのである。(414頁)

■すべての意識の統一は変化の上に超越して湛然不動でなければならぬ、しかも変化はこれより起こってくるのである、すなわち動いて動かざるものである。また、意識の統一は知識の対象となることはできぬ、すべての範疇を超越している、我々はこれのなんらの定形を与うることもできぬ、しかも万物はこれによりて成立するのである。それで、神の精神という如きことは、一方より見ればいかにも不可知的であるが、また一方より見れば反って我々の精神と密接しているのである。我々はこの意識統一の根柢においてただちに神の面影に接することができる。故に、ベーメも「天は到る処にあり、汝の立つ処行く処皆天あり」といい、また「最深なる内生によって神に到る」といっている。(416頁)

■しかし、ヘーゲルなどのいったように、真の個人性というのは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたものが個人性となるのである。一般的なるものは具体的なるものの精神である。個人性とは、一般性に外より他の或者を加えたのではない、一般性の発展したものが個人性となるのである。なんらの内面的統一もない単に種々の性質の偶然的結合というようなものには個人性というべきものはない。個人的人格の要素たる意志の自由ということは一般的なるものが己自身を限定する self-determination の謂である。(419頁)

■右の如き状態においては天地ただ一指(注7)、万物我と一体(注8)であるが、曩にもいったように、一方より見れば実在体系の衝突により、一方より見ればその発展の必然的過程として実在体系の分裂を来すようになる、すなわちいわゆる反省なるものが起こってこなければならぬ。これによって現実であってものが観念的となり、具体的であったものが抽象的となり、一であったものが多となる。ここにおいて、一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、彼此相対し物々相背くようになる。我らの祖先が知慧の樹の果を食うて神の楽園より追い出だされたというのも、この真理を意味するのであろう。人祖堕落はアダム、エヴの昔ばかりではなく、我らの心の中に時々刻々おこなわれているのである。しかし、翻って考えてみれば、分裂といい反省といい別にかかる作用があるのではない、皆これ統一の反面たる分化作用の発展にすぎないのである。分裂や反省の背後にはさらに深遠なる統一の可能性を含んでいる、反省は深き統一に達する途(みち)である(「善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をや」という語がある)。神はその最深なる統一を現わすにはまず大いに分裂せねばならぬ。人間は一方より見ればただちに神の自覚である。キリスト教の伝説をかりていえば、アダムの堕落があってこそキリストの救いがあり、したがって無限なる神の愛が明らかとなったのである。(436頁)

(注7)一指頭禅、倶胝(くてい)の一指ともいう。『無門関』3則。

(注8)万物我と一体;僧肇(そうじょう)(?-414)の言葉。「天地与我同根、万物与我一体」。『碧巌録』第40則。もとは『荘子(そうじ)』の斉物(せいぶつ)論へん6にある「天地は我と並び生じて、万物は我と一たり」に由来する。(440頁)

■われわれはわれわれの意識内容を知ることはできるが、意識統一そのものを知ることはできないということである。意識統一そのものはけっして意識の対象とはならないからである。意識統一は文字どおり意識を統一するはたらきであるが、それがいしきされたときには、その意識統一はもはや〈意識を統一する意識〉ではなく、反対に〈意識によって統一された意識〉になってしまう。むしろ意識統一はあらゆる意識を超越するものでなければならない。黒を見て黒を意識するも心(意識統一自身)は黒であるわけではない。白を見て白を意識するも心は白であるわけではない。意識統一自身は不可知である。したがって、また、意識統一の根柢である神自身も不可知であることになる。ディオニュシオス一派の否定神学が神は肯定によってではなく否定によって知られると説き、クザーヌスは神は有にして無であるといい、ベーメは「無底」であるといった所以である。これらの言葉はいずれも神の不可思議性を表現したものと考えられる。また、神は永久であるとか、遍在であるとか、全知全能であるとかいうのも、意識統一のこのような超越的な性格を表現したものである。(446~447頁)

■万物が神の表現であるということは、必ずしも各人の自覚的独立を妨げるものではなく、部分は全体の統一の下にあるということは、必ずしも各人の意識の独立性を否定するものではない。各人はそれぞれ神の一表現でありながら、同時にその発展の担い手として目的そのものである。個人性は、それが全体の一要素として働く時真の個人性を発揮するのであり、また神の愛は無限であるがゆえに、すべての人格を自己の内に包容するとともに、すべての人格の独立を承認するのである。ここには後の「一即多・多即一」の思想の萌芽が見られる。(448~449頁)

■何故に知は主客合一であるか。我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想臆断すなわちいわゆる主観的のものを消耗し尽くして物の真相に一致した時、すなわち純客観に一致した時始てこれを能くするのである。例えば、名月の薄黒い処のあるは兎が餅をついているのであるとか、地震は地下の大鯰が動くのであるとかいうのは主観的妄想である。しかるに、我々は天文、地質の学において全然かかる主観的妄想を棄て、純客観的なる自然法則に従うて考究し、ここに始てこれらの現象の真相を知ることができる。数千年来の学問進歩の歴史は我々人間が主観を棄て客観に従い来った道筋を示したものである。(451頁)

■我々が自己の私を棄てて純客観的すなわち無私となればなるほど愛は大きくなり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。(452頁)

■余の考えをもって見ると、普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用そのものにあるのではなく、むしろ対象の種類によるといってよろしい。しかして、古来、幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的のものであるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であって実在そのものを捕捉することはできぬ。我々はただ愛によりてのみこれに達することができる。愛は知の極点である。(454頁)

■ここで西田は、われわれが自分の主観的妄想や臆断を断って、純粋に客観的になればなるほど、われわれは物の真相に迫ることができる、と説いている。けれども、ここでいう「客観的」を自然科学でいうところの「客観的」と同一視してはならない。西田はここで自然科学的な、いわゆる客観的な見方を称揚しているわけではけっしてないのである。。というのも、自然科学でいう客観は、主観と客観の2元論の立場に立った、したがって主観と対立するものとして主観の側から見られた客観である。これに対して、西田のいう客観は、主観が自己を没し、自己を無にしたところに生じてくるような客観である。したがって、それは主観=客観としての客観であり、純粋客観である。主観と客観を対立させた上で、主観によって構成された客観ではなく、主観が自己を消耗し尽くしたところに現れてくる客観である。前者においてはどうしても主観主義的要素が残る。カントの認識論が一種の主観的観念論であるのと同様である。晩年、西田は、デカルトやカントに代表される近代西洋の物の見方を「主観主義」とか「対象論理」とか呼び、これに対して自分の考え方を「絶対的客観主義」と呼んだ。一見すると、本章の最初の部分で、あたかも西田が自然科学的な、いわゆる客観的な見方を主張しているように見えるが、真相はそうではない。(458頁)

■しかるに、宇宙の本体が人格的なものだとすれば、愛は実在の本体を把握する力であり、事物についての最も深い知識であることになろう。この意味で、「愛は知の極点」である。そして、西田はこの愛の観念を宗教に適用して、宗教の本質は神への愛にあり、「我は神を知らず我ただ神を愛す」というものが最も神をしるものであると論結している。(459頁)

2010年12月26日

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-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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