岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『文読む月日(上)』トルストイ 北御門二郎訳 ちくま文庫

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■一般に俗受けするもの、わいわい騒がれるようなものは最初から読まないことである。もっとあっさり言えば、出版された最初の年が、その存在の最後の年となるようないっさいの出版社を唾棄することである。(ショーペンハウレル)(19㌻)

■あらゆる宗教の本質は,私はなんのために生きるのか,私を取り囲む無限の世界に対する私の関係は何かという問いに対する答えにのみ存する。きわめて高尚な宗教から,最も野蛮な宗教に至るまで,およそいかなる宗教も,その根底にそのような,己れを囲繞(いにょう)する世界と〝我〟との関係の樹立というものを持たぬものはない。(モリス・フリューゲル)(21㌻)

■われに向かいて〝主よ主よ〟と言う者、ことごとく天国に入るにはあらず、天に在(ま)しますわが父の御旨(むね)を行う者のみ入るべし。(「マタイ伝」第七章二一節)(22㌻)

■燃える力、光を放つ力がないならば、せめて光を消さぬようにするがよい。(23㌻)

■智慧の掟を知る者も、これを愛する者に劣る。これを愛する者も、これを実践する者に劣る。(中国の智慧)(23㌻)

■善き人々は、あえてそのことを意識せぬまま互いに助け合っている。しかしながら悪しき人々は、意識的に互いに敵対行動をとるものである。(中国の俚諺)(25㌻)

■ある事柄について自分であらかじめ思索しないうちに、それについて書かれたものを読むのも、有害と言わねばならない。なぜなら新しい材料と一緒に、それに対する他人の見方,他人の態度がその人の頭のなかにまぎれ込むからである。もともと人間には怠惰と無関心から,自ら努力して思索するよりも、できあいの思想を受け入れて用をすませようという習性があるから、ますますその確率が大きい。この習性がやがて根を張ると、もはや思想は溝に注ぐ小川のように、ただ一定の通路を進む。そうなると、自分自身の新しい思想を発見することは二重に困難になる。独自性のある思想を持つ学者がめったにいないゆえんもそこにあるのである。(ショーペンハウエル)(44㌻)

■教育の基礎は,万有の本源に対する関係の樹立と、その関係から生ずる行動の規範の樹立である。(46㌻)

■われわれは一人一人自分自身で、自分と世界および神との関係を樹立しなければならない。(53㌻)

■なくてかなわぬ唯一のこと、それはすべてを神に委ねることである。自らの姿勢を正し,この世の絆、わが身の運命(さだめ)を解きほぐすことは、神に任せることである。消滅であろうと、不滅であろうと、かまわぬではないか。いずれにせよ来るべきものが来るのだ。そして来るものは、必ず善であろう。人生を生き抜くためには、善に対する信仰以外なに一つ必要ではない。(アミエル)(54㌻)

■天と地は永遠である.なぜ永遠かと言えば、それはもともと自分のため存在しはじめたものではないからである。だからその存在は永遠なのだ。そのように聖人も己を脱却することによって永遠となる。彼は永遠となることで強力無比となり、己に必要ないっさいのことをなしとげる。(『老子』)(74㌻)

■もしある人が、自分の家に屋根を葺いたり、窓を取りつけたりせずに、雨風のたびに外へ飛びだして、風に吹かれ雨に濡れながら、雨風に向かってお前は右に行け、お前は左に行けとどなっているのを見たら、われわれはその人のことを、あれは気が狂っているのだと言うにちがいない。しかしながら人々が悪を行うのを見て、腹を立てて彼らを罵り、自分の内の悪を根絶する努力をいっさいしないならば、われわれもその狂人と同じことをしているわけである。自分の内の悪を避けること、つまり屋根を葺き、窓を取りつけることは、われわれにもできることだけど、世のなかの悪を根絶することは、雨雲に命令することと同様、困難なのである。もしも人々が人を教える代わりに、ほんの稀にでも自分自身を教えるようにすれば、世の中の悪は次第に少なくなり、人々の暮らしは次第によくなるであろう。(78,79㌻)

■小さな悪事を行っても、これぐらい大したことではないなどと絶対に考えてはいけない。「今日はしたけれど、もうこれからしない」と言う。そんなことは嘘である。一度やったことをもう二度とやらないというのは、なかなかできることではない.善事の場合にも「別に努力する必要はない。これくらいへちゃらで、やろうと思えばいつでもやれる」などと言ってはいけない。そんなことは思ってもいけないし、言ってもいけない。ほんの小さな善事でも、必ず善き生活を築くための力を与えてくれる。悪事が必ずその力を減殺するように。(80㌻)

■自愛からは、傲慢と貧欲と淫欲と妬みと瞋恚と怨恨とかが生じ、神に基づく万人の生の一体感からは、温柔、自己棄却、および内的平安――すなわち地上の苦しみを何者によっても破壊されない至福へと昇華せしめる、純粋な法悦が生ずるのである。(83㌻)

■憤怒がどんなに他人にとって有害であろうと、それは何にもまして憤怒する当人にとって有害である。憤怒は必ずそれを呼び起こした相手の行為以上に有害なのだ。(89㌻)

■生命に導く道は狭く、これに入る者は少ない。なぜ少ないかと言えば、大多数の者は、みんなが歩く広い道へ入るからである。本当の道は狭くて、一人ずつしか入れない。それに入るためには、群衆と一緒に歩くのでなくて、仏陀とか孔子とかソクラテスとかキリストとかといった孤独な人のあとについてゆかなければならない。彼らこそ自分自身のために、そしてまたわれわれみんなのために、次々と同じ狭い道を開いていった人々なのである。(リュシー・マローリーによる)(91㌻)

■大事なのはわれわれが占めている場所ではなくて、われわれが進んでいる方向である。(ホルムス)(92㌻)

■三つの道によってわれわれは、叡智に達することができる。第一は思索の道で、これは最も高尚な道である。第二は模倣の道で、これは最も安易な道である。第三は経験の道で、これは最も苦しい道である。(孔子)(112㌻)

■われわれの住む大地全体が地主たちの私有財産で、彼らが地上権を持つものとすれば、すべて、それに対するなんらの権利を持たないことになる。したがって土地の非所有者は、地主たちの承諾を得てはじめて地上に住むことができるわけである。彼らは地面に両足で立つ権利さえ、地主たちの承諾を受けてはじめて獲得することになる。それゆえ、もしも地主らが彼らに足を置く場所を与えようとしなかったら、彼らは地球から放りだされねばならないであろう。(ハーバート・スペンサー)(115㌻)

■もしも君が、自分の外被である肉体を放棄しなくてはならないときが、つまり死ななければならないときがいつやって来るかわからないということに深く思いを馳せ、胆に銘じて忘れないならば、君にとって公正を守り、正義に生きることがより容易になり、己の運命を甘受することもとり容易になるであろう。それゆえ君はただ、その日そのときのすべての行為において、正義を逸脱しないように、その日そのとき君の上にふりかかる運命を穏やかに受け止めるように努めるがよい。

そのように生きれば――君は世界の人々のいかなる蔭口にも、誹謗にも、誘惑にも泰然たる態度で臨みうるし、彼らのことなど考えもしなくなるであろう。そしてまた、君を襲うかもしれないいろんな不幸など物の数でもなくなるであろう。なぜならそのような行き方においては、君のあらゆる願望は、神の御旨を遂行しようという願望に融合統一されるからである。神の御旨の遂行は、君にとって常に可能なのだ。(マルクス・アウレリウスによる)(127,128㌻)

■善良であることが習慣になってしまった状態ほど、自分の生活や人々の生活を美しく飾るものはない。(132㌻)

■何を考えなくてもいいかをしることは、何を考えなければならないかを知ることよりも、むしろ大事なくらいである。(140㌻)

■われわれの習慣になった思想は、われわれの脳裏でわれわれの接触するすべてのものに、その思想特有の色彩を与えるものである。だからそれらの思想が間違っていれば、それは最も崇高な真理さえ引き歪めてしまう。習慣的な思想によって周囲に形成された雰囲気というものは、われわれ一人一人にとって、いわばわれわれの住む家よりも根強い。それはちょうど、蝸牛がどこへ行くにも自分の身につけている殻のようなものである。(リュシー・マローリ)(141㌻)

■三つの誘惑が人々を苦しめる。肉欲と傲慢心と富への愛着とである。そこから――人々の苦しみがうまれる。肉欲や傲慢心や富への愛着がなければ、すべての人々は幸福になれるであろう。どうしたらそのような恐ろしい病気を免れることができるだろうか? それらを免れることは大変難しい。というのは、何よりもまずその病根が、われわれの本性のなかに潜んでいるからである。

ただ一つ、それらを免れる方法がある。それは一人一人が自分自身に働きかけることである。人々は往々にして、法律とか政府とかいった代物が力を藉(か)してくれると思いがちであるが、そんなことはけっしてない。なぜなら、法律を起草したり民衆を支配したりする連中もまた、われわれと同じように肉欲や傲慢心や物欲の誘惑に苦しんでいるだからである。だからして、法律とか政治家とかをあてにするわけにはゆかない。それゆえ、人々が幸福のためになしうるただ一つのことは、自分のなかの肉欲や傲慢心や物欲をなくすことである。一人一人がそうした自己改革を始めないかぎり、いっさいの改革は不可能である。(ラムネによる)(146㌻)

■奇妙な話しではないか! われわれは外部からの悪には、換言すれば、他人から蒙る悪、どうにも排除できない惡には憤慨するけれども、いつも自分の支配下にある自分自身の惡とは、いっこう闘おうとはしない。(マルクス・アウレリウス)(147㌻)

■人を裁くことなかれ、されば汝も裁かれじ。人を裁きしごとく己れも裁かれん。人を量りたる秤にて己れも量られん。なにゆえ兄弟の目にある塵を見て、己が目にある梁木を認めざるや。あるいは己が目に梁木あるのに、なにゆえ兄弟に向かい手「汝の目より塵を取り除かしめよ」と言うや。偽善者よ、まず己が目より梁木を除け。されば兄弟の目よりいかにして塵を除きうるかを悟らん。(「マタイ伝」第七章一~五節)(150㌻)

■最も偉大な真理は――最も簡潔である。(174㌻)

■ひたすらに神を愛し、ひたすらに己れの我を憎むべきである。(パスカル)(181㌻)

■われわれは自分のことを思い煩い、自分のことにかまけることが多ければ多いほど、そして自分の生命を守ろうとあくせくすればするほど、ますます弱くなり、まします不自由になる。反対に自分のことを思い煩うことや、自分にことにかまけることや、自分の生命を守ることにあくせくすることが少なければ少ないほど、ますます強く、ますます自由になる。(182㌻)

■情け深い人は金持にはならないし、金持は情け深くはない。(満州の諺)(228㌻)

■往来に追い剥ぎが出没するようなとき、旅人は一人では旅をしなくなる。彼は誰か護衛の付いた人が通るのを待ってその人と一緒になり、それではじめて追い剥ぎたちを恐れなくなる。

賢い人は自分の人生行路においても、そのように振る舞う。彼は自分に向かって言う。

「人生にはいろんな災害がある。その災害からの防衛者をどこで探したらいいだろう。どんなふうにしてその災害から免れたらいいだろう? 安全に旅行するためには、どんな道連れを待ったらいいだろう? 誰のあとについていったらいいだろう? この男だろうか、それともあの男だろうか? 金持についてゆこうか? 位の高い人についてゆこうか? それともいっそ皇帝についてゆこうか? でも彼らは私を保護するだろうか? 彼ら自身も略奪されたり、殺されたりして、ほかの人たちと同じように災害に陥るではないか? それにまた、ひょっとしたら私の道連れ自身が、私に襲いかかって私から略奪するかもしれない。私を保護してくれ、けっして私を襲ったりしない強力で信頼のおける道連れを、どんなふうにして探したらいいのだろう?」

そうした信頼のおける道連れが一人だけいる――それは神である。災害に陥らないためには、神についてゆかねばならない。では、神についてゆくというのはどういうことか? それは神の欲したまうものを欲し、神の欲したまわぬものを欲しないことである。ではどうすればそれができるか? 神の律法を理解し、それに従うことによってである。(エピクテトスによる)(240,241㌻)

■われわれはみんな野獣を馴らす獣使いのようなものである。そして野獣とは、一人一人のなかにある欲情である。野獣たちの牙や爪を抜き取り、轡をはめ、訓練を続けて、たとえ咆えはしても従順な家畜に、人間の召使いにすること――そこに自己教育の課題があるのである。(アミエル)(252㌻)

■君が自分の知る真理を遵奉(じゅんぽう)してはじめて、新たな真理が啓示されるであろう。(リュシー・マローリ)(281㌻)

■善き人は、自分の身に何が起きるかということよりも、自分のなすべきことをなすことに、より心を配る。「なすべきことをなすのは自分の業で、わが身に何が起きるかは、神の業である。たとえ私に何が起きようとも、私がなすべきことをけなすのを妨げうるものは何もない」とその人は言うであろう。(282㌻)

■失うべき何物も持たない人こそ、最も富める人である。(中国の諺)(284㌻)

■もしもある人が、そもそもどんな質問をしたらいいかをわきまえているならば、もうそれだけでその人が聡明な人であるという紛れもない証拠となる。なぜなら、もしも質問自体が愚劣で無益な答えを求めるなら、それは、その質問をした人自身の恥であるばかりでなく、質問された相手もうっかり愚劣な答えをすることになるからである。そしてその結果、昔の話にあるように、一人が牡山羊の乳を搾れば、一人が篩(ふるい)を当てがうという滑稽な場面が生ずるのである。(カント)(293㌻)

■人を恐れる者は神を恐れない。神を恐れる者は人を恐れない。(337㌻)

■われわれはみんな、他人のなかに、自分自身の罪悪や欠点をいろんな悪癖やをはっきり写しだす鏡を持っている。しかしその場合、われわれのほとんどが、自分が写っている鏡を見て、ほかの犬だと思って吠える犬のように振る舞うものである。(ショーペンハウエル)(340㌻)

■学問の数は無数であり、またどの学問にも限界というものがなくて、どこまで行っても究めつくすということはない。それゆえ、あらゆる学問において一番大事なことは、どんな事柄が一番大事で、どんな事柄がそれほど大事ではないか、さらにどんな事柄がそれほど大事でなく、どんな事柄がもっと大事でなく、どんな事柄がもっともっと大事でないかを知ることである。それを知ることがなぜ大事かと言えば、どうせ何もかもを学ぶことはできないのだから、一番大事なことを学ぶ必要があるからである。(382㌻)

■習慣はけっして善とは言われない。たとえそれが善き行為の習慣であっても、そうである。善き行為も、習慣となってしまえばもう徳行とは言えない。ただ努力によって得られたものだけが徳なのである。(カント)(386㌻)

■他人に対する悪意は本人を不幸にし、相手の人々に対する善意は、車輪に差された油のように、その人の生活や相手の人々の生活を軽やかな、快いものとする。(390㌻)

■日々よりよき人間になろうと精進する行き方よりもよい行き方はなく、実際に自分がよりよき人間になりつつあることを感ずることよりも大きな喜びはない、と私は思う。これこそ私が今日まで絶えず味わってきた幸福であり、私の良心が私に向かって、これこそ真正の幸福であると語っている。(ソクラテス)(396㌻)

■汝の心に教えよ、心に学ぶな。(仏陀の箴言)(399㌻ )

■自然界の植物や動物には、善も悪もない。また生きてはいても、思想のない人間の肉体のなかにもそれはない。善と悪との差別(けじめ)が人間の心のなかに生ずるのは、その人の意識する能力によってである。人間の心には、若いころから悪との絶えざる闘争が行なわれている。そしてまた、悪との闘争の場所として人間にとって最もふさわしく、かつ、実り多いのは、まさにその場所、すなわち自分の心のなかである。そのほかの場所での闘争は人間にとってふさわしくなく、また実りも少ない。悪をもって悪に抗するなというキリストの誡めは、まさにそのことを言っているのである。その誡めは、悪との闘争の場を明瞭的確に指定している。その場所は――自分の心のなかなのだ。―後略ー(ブーカ)(400㌻)

■真に神を愛する者は、自分も神に愛されようと躍起になったりはしない。彼にとっては、自分が神を愛するだけで充分である。(スピノザ)(409㌻)

■われわれが存在する以上、神もまた存在する。それを神と呼ぼうとなんと呼ぼうと、とにかくわれわれの内にわれわれが創造したものでなくて、われわれに与えられた生命があることには論争の余地がなく、その生命の源泉を神と呼ぼうとなんと呼ぼうと、それはどうでもいいことである。(ヨセフ・マッジニ)(416㌻)

■己れの責務を果たせ。しかしてその結果は、汝にその責務を課した者に任せよ。(『タムルード』)(447㌻)

■人間の仕事に伴う決定的な条件の一つは、努力目標が遠ければ遠いほど、そしてまた自分の仕事の結果を見たがる気持が少なければ少ないほど、仕事の成功度は大きくかつ広いということである。(ジョン・ラスキン)(448㌻)

■われよりも父もしくは母を愛する者は、われにふさわしからず。われよりも息子もしくは娘を愛する者も、われにふさわしからず。また己(おの)が十字架を取りてわれに従わざる者は、われにふさわしからず。己が命を見出せし者は、これを失い、わがためにその命を失う者は、これを見出すなり。(「マタイ伝」第10章37~39節)

■我執――それは霊にとっての牢獄である。牢獄がわれわれの肉体的自由を奪うように、我執は間違いなくわれわれの幸福を奪う。(リュシー・マローリ)(466㌻)

■人を裁くことなかれ、さらば汝も裁かれじ。人を裁きしごとくに己れも裁かれん、人を量りたる秤にて己れも量られん。なにゆえ兄弟の目にある塵を見て,己が目にある梁木(はりぎ)を認めざるや。あるいは己が目に梁木あるに、なにゆえ兄弟に向かいて「汝の目より塵を取り除かしめよ」と言うや。偽善者よ、まず己が目より梁木を除け。さらば兄弟の目よりいかにして塵を除きうるかを悟らん。(「マタイ伝」第七章一~五節)(488,489㌻)

■運命に偶然というものはない。人は運命に出会うのではなく、運命を創造するのである。(ウィルメン)(533㌻)

■何よりも、天がそのうちにわれわれの過ちを正してくれるだろう、などといった馬鹿な考えを棄てることが大切である。ぞんざいな料理の作り方をしながら、神様がおいしくしてくださるだろうなどとあてにするわけにはゆかないではないか。それと同じように、もし諸君が長い年月にわったて愚劣な日々を送って、自分の生活を誤った方向へ導いてしまったならば、そのうち神様が手を伸べて、何もかもいい方向に向けてうまくお膳立てをして下さるだろうなどと期待すべくもないではないか!(ジョン・ラスキン)(540㌻)

■岸に近いところを泳いでいる者には、あの丘、あの岬、あの岸等々を目指して泳げ、と言っていい。しかし岸からはるかに遠くを航海している者には、方向を示すはるかな星や羅針盤だけが頼りである。その双方ともわれわれに与えられているのだ。(547㌻)

■〝この息子たちは私のもの、この財産は私のもの〟と、こんなふうに愚者は思う。彼自身がすでに彼のものでないのに、どうして息子たちや財産が彼のものであろう?(仏陀の教え)(550㌻)

■万人に向かって、この私のように振る舞え、と言えるように行動せよ。(カントによる)[訳注―「汝の行為の格率が、同時に万人にとっての行為の格率でありうるごとく行為せよ」―カント]

■人間は何もかもできるものではない。しかし何もかもはできないからといって、悪いことをしなければならないことにはならない。(ソロー)(601㌻)

『文読む月日(上)』トルストイ 北御門二郎訳 ちくま文庫2007年6月24日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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