■どうだろうきみ、ひどく怖い気がするんだけれど、わたしたちは、わたしたちを知らぬ多くのものによってつくられているのではないかしら。だからこそ、わたしたちはわたしたち自身を知らないのだ。もし、そういうものが無限にあるとしたら、いかなる思索も空しいね……(47~48頁)
■きっとあのひとの魂は、自然の掟に反して葉ではなく根のほうが明るいほうへと伸びてゆく奇異な植物にでもなってしまうのでしょう!(75頁)
■神父さまはわたくしにこうおっしゃいました。「あのかたは恐ろしいまでに善から身をひきはなしておいでだが、幸いなことに悪からも身をひきはなしておいでだ…… あのかたのなかには、なにかしらぞっとするような純粋さ、なにかしれぬ超然たるところ、なにかしら議論の余地のない力と光とがある。深く磨きぬかれた知力のなかに、あれほど混乱も疑惑も不在だという例を、わたしはいまだかって見たことがありません。あのかたの静かなことといったら恐ろしいほどです!魂の不安という言葉も、内面の影という言葉も、なにひとつあのかたにはあてはまらない、――それに恐怖や渇望への本能から由来するようなところは、まったくない…… だがまた、「神の愛」へと向うようななにものも。(85~86頁)
■――「神なき神秘家!……光かがやく無意味! おや、口がすべった、言うは易しだ! いつわりの明晰…… 神なき神秘家、いや奥さん、それなりの方向も意味ももたぬ動き、結局どこのも行きつかぬ動き、そんなものは考えられぬのですぞ!……神なき神秘家!……イッポグリフォだ、ケンタウロスだ、と言ってはどうしていけないんだ!」
――「スフィンクスではいけないんですの、神父さま?」(87頁)
■そしてそれが何であれ切断してしまう、あの突然の自己への回帰、そしてあれらの二股にわかれた視力、あれらの三叉にわかれた注意力、ある事象群がそれらの世界ではばらばらに分割されているのを、別の世界で触れあわせるあの接触……それこそは自己だ。(110頁)
■『自分ひとりでやるゲーム』
ゲームの規則
もしも、みずから賞讃に値いする思えば、この勝負は勝ちだ。
もしも、勝ちの勝負が計算により、意志と一貫性と明晰さをともなって勝ったものならば、――儲けは最大限に大きい。(110頁)
■わたしは(可見の)世界から、ただ力しか借りたくない――形態ではなく、形態をつくるのに必要なものを借りたいのだ。
物語はいらない――「装飾」はいらない――岩とか空気とか水とか植物的素材といった物質そのものの感覚――それから、それらの基本的な力の感覚。
そしてさまざまな行為と位相――個人とその記憶ではなく。(143頁)
『ムッシュー・テスト』 ポール・ヴァレリー 清水徹訳 岩波文庫
2008年12月2日