『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』中村元訳 岩波文庫
■第1章 ひ と 組 ず つ
1)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車を引く(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだからはなれないように。
3)「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。
4)「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。
6)「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていないし。しかし、このことわり知る人々があれば、争いはしずまる。
11)まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
12)まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。
16)善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が淨(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。
19)たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。――牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。
■第2章 は げ み
21)つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
22)このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
23)(道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎ(注1)に達する。これは無上の幸せである。
24)こころはふるい立ち、思いつつましく、行ないは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。
28)賢者が精励修行によって怠惰をしりぞけるときには、知慧の高閣(たかどの)に登り、自からは憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下(おろ)す。――山上にいる人が地上の人々を見下ろすように。
30)マガヴァー(注2)(インドラ神)は、つとめはげんだので、神々のなかでの最高の者となった。つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることはつねに非難される。
32)いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
注1;安らぎ――サンスクリット語でニルヴァーナという。「涅槃」と音写する。最高の理想の境地であり、仏道修行の最後の目的せある。そこで人間の煩悩や穢れがすべて消滅している。
注2;マガヴァー――「寛仁なる者」「恵みを垂れる者」の意で、インドラ神の別名である。空界を支配する最高神。『リグ・ヴェーダ』において最も有力な神であったが、仏教にとり入れられて「帝釈天」となった。『出曜経』第9巻戒品の相当漢訳では「摩喝人」と訳している。つまりシナ人は最も力強い神をもなお「人」だと考えていたのである。
■第3章 心
33)心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直(なお)くする。――弓矢職人が矢柄を直くするように。
35)心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
36)心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。
37)心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟(注1)にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛からのがれるであろう。
38)心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば(注2)、さとりの知慧は全からず。
39)心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。
40)この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(賢固に)安立して、知慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。――しかもそれに執著することなく。
41)ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、――意識を失い、無用の木片(きぎれ)のように、投げ棄てられて。
42)憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
43)母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらにすぐれたことを、正しく向けられた心がしてくれる。
注1;胸の奥の洞窟――古ウパニシャッド以来、アートマンは心臓の内にある空処に住すると考えられていた。それを受けているのである。
注2;信念が汚されたならば――漢訳『法句経』には「迷於世事」と訳している。つまり、世の中俗な事がらに迷って純粋の信念が汚される、という意味である。
■第4章 花 に ち な ん で
45)学びつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
46)この身は泡沫(うたかた)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢(注1)を断ち切って、死王に見られないところ(注2)へ行くであろう。
47)花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、――
48)花を摘む(注3)のに夢中になっている人を、未だ望みを果さないうちに、死神がかれを征服する。
49)蜜蜂は(花の)色香を害(そこな)わずに、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村に行くときは、そのようにせよ。
50)他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。
51)うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。
52)うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りが有る。
53)うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)(注4)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
54)花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
56)タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行ある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。
57)徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい知慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。
58)大道に棄てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。
59)塵芥(ちりあくた)にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は知慧もて輝く。
注1;悪魔の花の矢――三界の生存をいう。
注2;死王に見られないところ――不死なる大ニルヴァーナ。
注3;花を摘む――5欲の対象をさしていう。
注4;花鬘――愛人が花嫁の上に投げかける花かざりであると解する。ここでは「多くの善」を花かざりに譬えていう。
■第5章 愚 か な 人(注1)
60)眠れない人には夜は長く、疲れた人には1里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。
61)旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。
62)「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
63)もしも愚者がみずから愚であるとかんがえれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
64)愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙がが汁の味を知ることができないように。
65)聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。――舌が汁の味をただちに知るように。
67)もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68)もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
69)愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける。
73)愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。
74)「これは、わたしたちのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、わたしの意に従え」――愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。
75)1つは利得に達する道であり、他の1つは安らぎ(注2)にいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。
注1;愚かな人――この章は愚かな凡夫に関する詩を集めてある。
注2;安らぎ――ニルヴァーナ。
■第6章 賢 い 人
78)悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
79)真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。
81)1つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。
82)深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。
83)高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。
84)自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪(よこしま)なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。
85)人々は多いが、彼岸(かなたのきし)(注1)に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸(注2)の上でさまよっている。
86)真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)に至るであろう。
87)賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行なえ。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独(ひとりい)のうちに、喜びを求めよ。
88)賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚(けが)れを去って、おのれを浄めよ。
89)覚(さと)りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして(注4)輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
注1;彼岸――ニルヴァーナのことをいう。
注2;こなたの岸――自分の身体を真実の自己だと見なす見解をいう。つまり生死流転のありさまをいう。
注3;覚りのよすが――さとりを得るために役立つ7つの事がらの意。それは(1)択法。教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てること。(2)精進。一心に努力すること。(3)喜。真実の教えを実行する喜びに住すること。(4)軽安(きょうあん)。身心をかろやかに快適にすること。(5)捨。対象へのとらわれを捨てること。(6)定。心を集中して乱さないこと。(7)念。おもいを平らかにすること。
注4;煩悩を滅ぼし尽くして――阿羅漢のことをいう。たたし『ダンマパダ』では修行者の階位はまだ考えていない。
■第7章 真 人 (注1)
90)すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
91)こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居(注2)を楽しまない。白鳥が池を立ち去る(注3)ように、かれらはあの家、この家を捨てる。
92)財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱(注4)の境地は空(注5)にして無相(注6)であるならば(注7)、かれらの行く路(=足跡)は知り難い(注8)。――空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
93)その人の汚(けが)れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。――空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
94)御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった(注9)人――このような境地にある人を神々でさえも羨む。
95)大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎しみ深く、(深い)湖は汚れた泥がないように――そのような(注10)境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
96)正しい知慧によって、やすらいに帰した人――そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行ないも静かである。
97)何ものかを信ずることなく(注12)、作られざるもの(=ニルヴァーナ)(注13)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、――かれこそ実に最上の人である。
98)村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。
99)人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。
注1;真人――尊敬さるべき人、拝まるべき人、尊敬供養を受けるべき人の意。修行を完成した人。漢訳では「阿羅漢」「羅漢」などと音写する。「応供」「応真」とも訳し、意訳して「真人」ともいう。もとは修行を完成した人のことをいい、この点ではジャイナ教などと共通であったし、またブッダの称号の1つとされ、もとはアルハトとはブッダの同義語であったが、後世になると両者は区別され、ブッダは超人的な仏として尊崇され、アルハトは小乗仏教での修行完成者をいうようになった。五百羅漢の彫刻には小乗仏教のアルハトの像がよく表現されている。しかしジャイナ教では今日に至るまでアルハトはジナ(――最高の崇拝対象――)と同義である。
注2;住居――「住居」であるとともに「執着」を意味する。
注3;白鳥が池を立ち去る――白鳥が「これはわが水である」とか「これはわが蓮である」とかこれはわが果皮である」とか、いかなる場所にも執著しないように、修行僧は「これはわが寺院である」とか「これはわが邸である」とか「これはわが檀家である」とか執著することが無い。(ブッダゴーサ)
注4;解脱――束縛を離れた自主の境地である。
注5;空――「情欲、怒り、迷妄が存在しないから空なのである。」(パーリ文注解)
注6;無相――その境地においては情欲などの相が存在しないから無相なのである。(パーリ文注解)
注7;解脱の境地は……無相であるならば;「空と無相と無願解脱とはニルヴァーナの3つのなである。」(パーリ文注解)
注8;かれらの行く路は知り難い――人格を完成した人の生活の道は、凡夫のうかがい知り得ざるものがあるという趣意である。
注9;汚れのなくなった――「汚れ」の原語はジャイナ教では汚れが迫って来て霊魂にまといつくことをいう。字義に即する限りは、この見解のほうが原義である。文字に即している。ところが仏教ではこのアーサヴァを「漏」と訳し、「漏泄(ろぜつ)」の義と解した。漏れ出ること。人間は肉体的には外に漏れるいろいろの不浄物があり、また精神的には煩悩の穢れが外に洩れる。その煩悩を無くし、人格を完成することを「無漏」とか漏尽という。
注10;そのような――人々が尊んでくれても尊んでくれなくても、それに喜びしたがうのでもなく、さからうのでもない。(ブッダゴーサ)
注11;そのような境地にある人――「そのような人」という字義で、ブッダのことをいう。漢訳『法句経』では真人と訳している。ジャイナ教では修行完成者、ジナのことをいう。ところが後代の仏教者はこの語の意味が解らなくなってしまったので、「救う人、救世主」と訳している。自力的修行者的立場から信仰的他力的立場への転換がなされたのである。
注12;信ずることなく:従来の諸訳では「軽信することなく」と訳されている。しかし文字どおりの意味は「信仰すること無く」である。バラモン教や当時の諸宗教に対する信仰を捨てるのは当然のことであったであろう。ところが仏教が大きくなって、教団の権威が確立すると、信仰を説くようになった。
注13;作られざるもの――作られたもの(有為)は転変し、生起消滅するが、「作られざるもの」すなわちニルヴァーナは永遠不変のものである。有為は迷い、無為はさとりの境地である。
■第8章 千 と い う 数 に に ち な ん で
100)無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を1つ聞くほうがすぐれている。
101)無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を1つ聞くほうがすぐれている。
102)無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を1つ聞くほうがすぐれている。
104、105)自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、――このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天(注1)もなすことができない。
109)つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、4種のことがらが増大する。――すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。
110)素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が1日生きるほうがすぐれている。
111)愚かに迷い、心が乱れていて百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が1日生きるほうがすぐれている。
112)怠りなまけて、気力も無く百年生きるよりは、堅固につとめ励んで1日生きるほうがすぐれている。
113)物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て1日生きることのほうがすぐれている。
114)不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりは、不死の境地を見て1日生きることのほうがすぐれている。
115)最上の真理を見ないで百年生きるよりは、最上の真理を見て1日生きることのほうがすぐれている。
注1;梵天――ブラーフマン、世界を創造した主神として当時の人々から尊崇されていた。
■第9章 悪
116)善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
117)人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。
118)人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。
119)まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。
120)まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。
121)「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が1滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。
122)「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、善を軽んずるな。水が1滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
123)同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。
124)もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。
125)汚(けが)れの無い人、清くて咎(とが)のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。
126)或る人々は〔人の〕胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚(けが)れのない人々は全き安らぎ(注1)に入る。
127)大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
128)大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。
注1;安らぎ――ニルヴァーナ=涅槃。
■第10章 暴 力
133)荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
134)こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵(ののし)ることがないからである。
135)牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは行きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。
136)しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。――火に焼きこがされた人のように。
141)裸の行も、髷(まげ)に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲(うずくま)って動かないのも、――疑いを離れていない人を浄めることはできない。
142)身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、〈バラモン〉とも、〈道の人〉とも、また〈托鉢遍歴僧〉ともいうべきである。
143)みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
144)鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒めにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。
145)水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、慎み深い人々は自己をととのえる。
■第11章 老 い る こ と
146)何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?――世間は常に燃え立っているのに――。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか(注1)?
147)見よ、粉飾された形体を(注2)!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集っただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。
148)この容色は衰えはてた。病の巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。
151)いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。
152)学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない。
153)わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、――家屋の作者(つくりて)(注3)をさがしもとめて――。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
154)家屋の作者(つくりて)よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
155)若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。
156)若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。――昔のことばかり思い出してかこちながら。
注1;燈明を求めないのか――世の中が無常であり、万物が消滅することを、燃えさかる火に譬えていうのである。
注2;粉飾された形体――パーリ仏典では人間の身体あるいは個体のことをいう。
注3;家屋の作者――ここでは人間の個体を家屋にたとえ、妄執(愛執)を大工すなわち家屋の造り者(て)にたとえているのである。
■第12章 自 己
157)もしひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の3つの区分のうちの1つ(注1)だけでも、つつしんで目ざめておれ。
158)先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
159)他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。
160)自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
161)自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を打ちくだく。――金剛石が宝石を打ちくだくように。
162)極めて性(たち)の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。――蔓草が沙羅(しゃら)の木にまといつくように。
163)善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。
165)みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから淨(きよ)まる。淨いのも淨くないのも、各自のことがらである。人は他人を淨めることができない。
166)たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
注1;夜の3つの区分のうちの1つ――古代インドでは夜に3つの時分があると考えていた。それと同様に人生にも3つの時期がある。第1の時期では遊戯に夢中になっている。第2の中間の時期には妻子を養っている。第3の最後の時期だけは少なくとも善をなすべきであるというのである。この3つはほぼ少年期、壮年期、老年期に相当するといえようか。ブッダゴーサによると、人生の3つの時期のうち少なくとも1つの時期はめざめて修行につとめよ、という。在俗信者が第1の時期に善をなすことができなくても、第2の時期に行なうべきである。。第2の時期に妻子を養っているために善をなすことができなければ最後の時期に行なうべきである。第1の時期に出家したがなまけた場合には、第2の時期に沙門の法を行なうべきである。第2の時期に怠ったときには最後の時期に沙門の法を実行すべきであるという。
■第13章 世 の 中
167)下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮すな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
168)奮起(ふるいた)てよ。怠けてはならぬ。善い行ないのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
169)善い行ないのことわりを実行せよ。悪い行ないのことわりを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
170)世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
171)さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。
172)また以前には怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。――あたかも雲を離れた月のように。
173)以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。
174)この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。
175)白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(そら)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。
176)唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。
177)物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分ちあうことをたたえない。しかし心ある人は分ちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
178)大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第1段階(預流果(よるか))のほうがすぐれている。
■第14章 ブ ッ ダ
179)ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人(なんびと)も、かれの勝利には達し得ない。ブッダの境地はひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたない(注1)かれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
180)誘(いざ)なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
181)正しいさとりを開き、念(おも)いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々さえもかれらを羨む。
182)人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。
183)すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を淨めること(注2)、――これが諸の仏の教えである。
184)忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は〈道の人〉ではない。
185)罵(ののし)らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。――これがもろもろのブッダの教えである。
186)たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。
187)天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。
190,191)さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)(注3)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理(注4)を見る(注5)。――すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、⑶苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(おわり)におもむく8つの尊い道(八聖道(はっしょうどう)(注6))とを(見る)。
192)これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。
193)尊い人(=ブッダ)(注7)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。
194)もろもろのみ仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合(注8)しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。
195,196)すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、なにものをも恐れず、安らぎに帰した。拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたはその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそてを計ることができない。
注1;足跡をもたない――仏の活動は自在無礙であり、凡夫がうかがい知ることができない、との意。後代の禅でも「大用現前して規則を存せず」という。
注2;すべて……浄めること――これを昔から「七仏通誡偈」という。過去七仏がみなこの詩を教えたもうたというのである。その漢訳文である「諸悪莫作、諸善奉行、自浄其意、是諸仏教」は東アジア諸国にあまねく知られている。
注3;聖者の集い(=僧)――原語を音写して「僧」、「僧伽」という。5人もしくは5人以上の組織のある団体をいう。わが国では「1人の僧」などといって個々の僧侶をさしていうのは原義からの転用であって、この場合には適合しない。
注4;四つの尊い真理――漢訳では「四諦(したい)」とか「四聖諦(ししょうだい)」という。普通、「苦、集、滅、道」でしめされる。「諦」とは真理のことである。
注5;帰依する人は……見る――この詩句から見ると、三宝に対する帰依は、真理を知るための準備段階、入口と考えられていたことが解る。
注6;八聖道――八正道ともいう。正しい見解(正見)、正しい思い(正思)、正しいことば(正語)、正しい行為(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい気づかい(正念)、正しい心の落ちつき(正定)をいう。
注7;尊い人――明人と訳している。
注8;つどいが和合――サンガとは実際にはこの場合には出家修行僧のつどいを意味していたのであろう。
■第15章 楽 し み
197)怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮していこう。
198)悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。
199)貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、貪らないで暮そう。
200)われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々(注1)のように、喜びを食(は)む者(注2)となろう。
201)勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
202)愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負ける(注3)としても、憎悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身(注4)にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎ(注5)にまさる楽しみは存在しない。
203)飢えは最大の病であり、形成せられた存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
204)健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。
205)孤独(ひとり)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過(つみとが)も無くなる、――真理の味をあじわいながら。
206)もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207)愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。――仇敵とともに住むように。
208)よく気をつけていて、明らかな知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもり、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。――月がもろもろの星の進む道にしたがうように。
注1)神々――漢訳『法句経』安寧品には「光音天」と訳す。この天神は漢訳仏典では「極光淨天」「光曜天」とも訳される。この天神が語る時、口から清らかな光を放ち、その光がことばになるといわれる。のちのアビダルマ教義学においては、色界第2禅のうちの第3位に住する天とされた。色界16天の1つである。
注2)喜びを食む者――この一群の神々は「よろこび」を食物とすると信じられていた。『愚者常歓喜、如光音天』(増壱阿含経』24、36)
注3)ばくちに負ける――ばくち(賭博)における不運な骰の目をいう。
注4)かりそめの身――「蘊」と漢訳され、われわれの変化する生存の諸要素の集合、個人存在をいう。
注5)やすらぎ――漢訳『法句経』には「滅』と訳している。静まること。
■第16章 愛 す る も の
209)道に違うたことになじみ、道に順(したが)ったことにいそしまず(注1)、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
210)愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211)それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
212)愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
213)愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば、憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
214)快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生ずる。快楽を離れたならば、憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
215)欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生ずる。欲情を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。
216)妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生ずる。妄執を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。
217)徳行と見識とをそなえ、法(のり)にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人は、人々から愛される。
218)ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙(さまた)げられることのない人は、〈流れを上(のぼ)る者〉(注2)とよばれる。
219)久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰ってきたのを祝う。
220)そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。――親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
注1)道に違うた……いそしまず――以上は漢訳『法句経』にしたがって訳した。パーリ文註解によると「道に違うたことになじみ」とは遊女など、心を向けてはならぬものに耽ることであるという。
注2)流れを上る者――パーリ文註解によると「無煩天」に生れて、そこから出発して、転生して、アカニタ天に行く人」であるというし、またこの語は説一切有部のアビダルマ教義学ではいわゆる「上流般涅槃」であり不還(ふげん)の1つである。しかし『ダンマパダ』のこの詩句ではそのような複雑なことは考えていなかったであろう。
■第17章 怒 り
221)怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛(注1)をも超越せよ。名称と形態(注2)とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
222)走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人――かれをわれは〈御者〉とよぶ。他の人はただ手綱(たづな)を手にしているだけである。(〈御者〉とよぶにはふさわしくない。)
223)怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
224)真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの3つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。
226)ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
227)アトゥラ(注3)よ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
228)ただ誹(そし)られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。
229)もし心ある人が日に日に考察して「この人は賢明であり、行ないに欠点が無く、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、
230)その人を誰が非難し得るだろうか?かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨(注4)のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。
231)身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。
232)ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(ことば)による悪い行ないを捨てて、語(ことば)によって善行を行なえ。
233)心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
234)落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己をまもっている。
注1)束縛――語義は「結びつけるもの」、つまり人を結びつけ縛る煩悩をいう。
注2)名称と形態――この語は古ウパニシャッドにおいては「名称と形態」すなわち現象界のすべてを意味する。この語は仏教にも継承されて「名称」とは人間の精神的方向、形態とは人間の物質的側面を意味すると解釈されているが、教義学者たちが無理にこじつけた解釈であろう。インド思想一般の用例としては「名称」を精神と解することは無理である。
注3)アトゥラ――北方インドのサーヴァッティー市の在俗信者であったが、5百人の信者に囲まれて、レーヴァタ長老のところに行って教えを聞こうとしたが、この長老はひとり静かに瞑想に耽っていたために、何も説いてくれなかった。そこでかれは憤ってサーリブッタ長老のところへ行ったら、アビダルマに関する論議をやたらに聞かされた。「こんな難解な話を聞いて何の役に立つか?」と憤って、アトゥラは次にアーナンダ長老のところへ行ったところが、ほんの少しばかり教えを説いてくれた。そこでやはり憤って、最後に祇園精舎にまします釈尊のところへ行ったところが、釈尊はこの詩を語ったのだという。
注4)金貨――漢訳では「閻浮檀金(えんぶだんごん,えんぶだごん)」という。ジャンブー樹の大森林を流れる河の底に産する砂金で、金のうちでは最も高貴なものとされた。その金によってつくった良質の金貨をいう。
■第18章 汚 れ
240)鉄から起った錆びが、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
241)読誦しなければ聖典(注1)が汚(けが)れ(注2)、修理しなければ家屋(いえ)が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。
242)不品行は婦女の汚(けが)れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
243)この汚(けが)れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明(注3)こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。
244)恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者(ひと)は、生活し易い。
245)恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者(ひと)は、生活し難い。
249)ひとは、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心のやすらぎを得ない。
250)もしもひとがこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。
251)情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。
252)他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。――狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。
253)他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅(注4)から遠く隔っている。
254)虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、〈道の人〉ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれるをたのしまない。
255)虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、〈道の人〉ではない(注5)。造り出された現象(注6)が常住であることは有り得ない(注7)。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。
注1)聖典――ヴェーダ聖典の本文のことである。バラモンたちは朝夕これをとなえる。
注2)独誦しなければ……汚れ――パーリ文註解によると「聖典であろうとも、あるいは技術であろうとも、読誦しない人、すなわち努めはげまない人にとっては滅びてしまうか、あるいは不断に現れることが無いから、〈読誦しなければ聖典が汚れる〉というのである。」当時は聖典は暗誦によって伝えられ、技術は口伝によって伝えられていたから、人が暗誦をやめてしまったら、聖典は消え失せてしまうのである。紙や樹葉に書かれた聖典の読誦を想像してはならない。書かれた聖典の読誦は西暦紀元後に一般に行なわれるようになった。
注3)無明――われわれの生存の根本にある無智のこと。これがわれわれの迷いの根本原因となっている。
注4)煩悩の汚れの消滅――普通「漏尽(ろじん)」と漢訳されるが、煩悩を尽すことで、修行者としての最終段階(阿羅漢果)に達することをいう。
注5)外面的な……〈道の人〉ではない――殆んどすべての翻訳者はブッダゴーサの註解にしたがって「仏教の外なる外道(げどう)には真の修行者はいない」と解する。《中略》ブッダゴーサの解釈は後世にになって教団意識が高まってから、それに影響されたのであろう。
注6)造り出された現象――「有為」と呼ばれるものと同じである。
注7)有り得ない――漢訳『法句経』塵垢品には「世間皆無常」と訳している。
■第19章 道 を 実 践 す る 人
260)頭髪が白くなったとて〈長老〉なのではない。ただ年をとっただけならば「空(むな)しく老いぼれた人」と言われる。
261)誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷(そこな)わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。
262)嫉(ねた)みぶかく、吝嗇(けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。
263)これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、――かれこそ「端正な人』とよばれる。
264)頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、〈道の人〉ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして〈道の人〉であろうか?
265)大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、〈道の人〉とよばれる。
267)この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ〈托鉢僧〉と呼ばれる。
271,272)わたくしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
■第20章 道
273)もろもろの道のうちでは〈八つの部分よりなる正しい道(注1)〉が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは〈四つの句(注2)〉(=四諦)が最もすぐれている。もろもろの徳のうちでは〈情欲を離れること〉が最もすぐれている。人々のうちでは〈眼(まなこ)ある人〉(=ブッダ)が最もすぐれている。
275)汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
276)汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。
277)「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278)「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279)「一切の事物は我ならざるものである(注3)」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
280)起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。
281)ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの3つの行ないの路を淨くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。
282)実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一され(注4)ないならば、豊かな知慧がほろびる。生ずることとほろびることとのこの2種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。
283)1つの樹を伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる(注5)。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。
284)たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。――乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。
285)自己の愛執を断ち切れ、――池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静やかなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。
286)「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮(おもんばか)って、死が迫って来るのに気がつかない。
287)子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。――眠っている村を大洪水が押し流すように。
288)子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。
注1)8つの部分よりなる正しい道――漢訳では普通「八正道」という。正しい見解(正見)、正しいおもい(正思)、正しいことば(正語)、正しいおこない(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい注意(正念)、正しい精神統一(正定)の8つである。この8つが人を解脱(ニルヴァーナ)にみちびく正しい道であるという。
注2)4つの句――4つの真理。⑴苦しみの真理。この世は苦しみであるということ〔=苦諦〕。⑵苦しみのなりたちの真理。その苦しみの成立する原因は煩悩・妄執であるということ〔=集諦〕。⑶苦しみの原因の終滅という真理。すなわち無常の世を超え、執着を断つことが苦しみを滅したさとりの境地であるということ〔滅諦〕。⑷さとりに導く実践と言う真理。すなわち理想の境地に至るためには、八正道の正しい修行方法によるべきであるということ〔=道諦〕。
注3)一切の事物は我ならざるものである――これがパーリ聖典にあらわれる古い思想である。ところがのちには「一切の事物は恒存する実体をもたない(無我)」と解釈するようになった。
注4)心が統一され――原始仏教もヨーガを認めていたのである。ヨーガとは「結びつける」という意味で、心を散乱させないように1つの対象に結びつけることである。しかしそれは後代の曲芸のようなハタ・ヨーガとは異なっていた。
注5)危険は林から生じる――林のなかには猛獣や毒蛇がうろついていて危険であるように、人間の貪ぼり、怒りなどの煩悩は危険なものであるということを言おうとするものであろう。
■第21章 さ ま ざ ま な こ と
290)つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽をすてよ。
291)他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわられて、怨みから免れることができない。
292)なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚(けが)れが増す。
293)常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。
294)(「盲愛」という)母と(「われありという慢心(注1)」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)2人の武家の王をほろぼし、〔主観的機官と客観的対象とあわせて12の領域(注2)である〕国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。
295)(「盲愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)2人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第5には(「疑い」という)虎(注3)をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。
302)出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難でであり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。
303)信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は、いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。
304)善き人々は遠くにいても輝く、――雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない、――夜陰に放たれた矢のように。
305)ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。
注1)「われ有りという慢心」――「われはこれこれという名の王の子である」「われわれはこれこれという大臣の子である」といって、父に依存して「われ有りという慢心」が起るので、これを父に譬(たと)えていう。(ブッダゴーサ)
注2)12の領域――すなわち眼・鼻・舌・身・意という6つの主観的機能(六根)と色(=かたち)・声(音声)・香・味・触(=触れられるもの)・思考されるもの(法)という客観的な対象領域(六境)とをいう。
注3)虎――他の解釈によると、「虎」とは「瞋纏」すなわち怒りという煩悩である。また第5というのは、「5蓋のうちの第5の蓋」を喩えていうとか、あるいは「5順下分結のうちの第5の結」を喩えていうと解している。ところで5蓋とは、心を覆う5種の煩悩、5つの障害のこと(1)むさぼり(貧欲、情欲)(2)いかり(瞋恚)(3)心くらく身も重く、眠りこんだようなものうい状態(惛沈睡眠)、(4)心がざわざわして高ぶるはたらきと心を悩ませる後悔(掉挙悪作または悪悔)(5)疑いためらうこと(疑)をいう。これらは心を覆って善を生ぜしめない。これらの5つの心作用は心の明らかなはたらきを覆いかくして蓋(かさ)のごとくであるから、蓋という。
■第22章 地 獄
313)もしも為すべきことであるならば,それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者は、いっそう多く塵をまき散らす。
314)悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。
315)辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過すな。時を空しく過した人々は地獄に堕ちて、苦しみ悩む。
316)恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
317)恐れなくてよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
318)避けねばならぬなことを避けなくともよいと思い、避けてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
319)遠ざけるべきこと(=罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいて、善いところ(=天上)におもむく。
■第23章 象
320)戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)(注1)が悪いからである。
321)馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。
322)馴らされた騾馬(らば)は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己(おのれ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。
323)なんとなれば、これらの乗物によっては未到の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎みある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
324)「財を守る者」(注2)という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて凶暴になっているときには、いかんとも制し難い。捕えられると、1口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。
325)大食らいをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧(かて)を食べて肥り、くりかえし母胎に入って迷いの生存をつづける。
326)この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、――象使いが鉤(かぎ)をもって、発情期に狂う象(注3)を全くおさえつけるように。
327)つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。――泥沼に落ちこんだ象のように。
328)もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念(おも)いをおちつけて、ともに歩め。
329)しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
330)愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。
331)事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終わるときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
332)世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。
333)老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。
注1)性質が悪い――この語の漢訳では「犯戒」などと訳し、「破戒」の意味にとっているが、シーラとはもともと人間の性質、性向、たち、という意味でインドの古典では用いられている。人間が何か戒律を守ると、おのずからその人の性向を形成するので、「戒」がまたシーラという語で表示されるようになったのである。
注2)「財を守る者」――パーリ文注釈に出ている物語によると、カーシー(=ベナレス)の王が象師を送って美しい〈象の林〉で捕えた象の名である。
注3)発情期に狂う象――象は交尾期になると性質が凶暴になり、あたかも酔っているがのごとくなるから、この時期における象を「酔象」と名づける。
■第24章 愛 執
334)恣(ほしいまま)のふるまいをする人には愛執が蔓草のようにはびこる。林のなかで猿が果実(このみ)を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。
335)この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。――雨が降ったあとにはピーラナ草がはびこるように。
336)この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。――水の滴が蓮華から落ちるように。
338)たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。
343)愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。それ故に修行僧は、自己の離欲を望んで、愛欲を除き去れ。
344)愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免(のが)れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ!束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。
345,346)鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)を、思慮ある人々は堅固な縛(いまし)めとは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、――それが堅固な縛めである、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。
348)前を捨てよ。後を捨てよ。中間を捨てよ(注1)。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
349)あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。
350)あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄(きよからぬもの)であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
351)さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。
352)愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる智慧ある人」と呼ばれる。
353)われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を〔師と〕呼ぼうか。
354)教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみにうち勝つ。
355)彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがうえに、愚者は他人を害うように自分を害う。
356)田畑は雑草によって害(そこな)われ、この世の人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
357)田畑は雑草によって害(そこな)われ、この世の人々は怒りによって害われる。それ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
358)田畑は雑草によって害(そこな)われ、この世の人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
359)田畑は雑草によって害(そこな)われ、この世の人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
注1)前を捨てよ……中間をすてよ――パーリ文註解によると、「前」とは過去の生存に対する執著、「後」とは未来の生存に対する執著、「中間」とは現在の生存に対する執著をいう。両極端にも中間にも汚されないという思想は『スッタニパータ』に出ている。さらに同様の思想はジャイナ教の最古の聖典にも出ている。『2つの極端によって見ることなく、聖者はそれを知って世界を克ち得た。』
■第25章 修 行 僧
360)眼(まなこ)について慎しむのは善い。耳について慎しむのは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。
361)身について慎しむのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることにについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。
362)手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、――その人を〈修行僧〉と呼ぶ。
363)口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧――かれの説くところはやさしく甘美である。
364)真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから堕落することがない。
365)(托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。
366)たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。
367)名称とかたちについて(注1)「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、――かれこそ(修行僧)とよばれる。
368)仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。
369)修行僧よ。この舟(注2)から水(注3)を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。
370)5つ(の束縛)(注4)を断て。5つ(の束縛)を捨てよ。さらに5つ(のはたらき)(注5)を修めよ。5つの執著(注6)を超えた修行僧は、〈激流を渡った者〉とよばれる。
371)修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。
372)明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
373)修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。
374)個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するのに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。
375)これは、この世において明らかな知慧のある修行僧の初めのつとめである。――感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。
376)その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を滅すであろう。
377)修行僧らよ。ジャスミンの花が萎れた花びらを捨て落すように、貪りと怒りを捨て去れよ。
378)修行僧は、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、〈やすらぎに帰した人〉とよばれる。
379)みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自分を護り、正しい念(おも)いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
380)実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。故に自分をととのえよ。――商人が良い馬を調教するように。
381)喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。
382)たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照す。
注1)名称とかたちについて――このナーマルーパとは古ウパニシャッドに出て来る語で、「名称とかたち」という意味である。現象界の事物はそれぞれ名称をもっているし、またかたち(形態)をもっている。この観念が仏教にとりいれられたが、ナーパという語は「色」という意味もあるので、漢訳仏典では「ナーマルーパ」を「名色」(みょうしき)と訳す。それはあらゆる事象について言えるので、仏教では全現象の総括としての個人存在と同一視され、その構成要素としての五蘊とも同一視され、「色」は色蘊で物質面を、「名」は受・想・行・識の4つの蘊で精神面を意味すると解釈された。
注2)この舟――「舟」とは個人的存在のことをいう。
注3)水――「水」とは誤った思考をいう。
注4)5つ(の束縛)――五下分結をいう。欲界に属する5つの煩悩。結は束縛のことで、煩悩の異名。下分は欲界のこと。三界のうち最下の欲界(感覚で知ることのできる下界)に衆生を結びつけ、束縛している5種の煩悩、すなわち欲界における貧・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑のこと。この五下分結のあるかぎり、衆生は欲界に生をうけ、これらを断滅すると、欲界に帰らぬ不還果を得るというのが、説一切有部などの伝統的見解であった。ところが前掲のパーリ文註解は、死後に四悪道のいずれかにおもむかせる5つの束縛と解していたようである。
注5)5つ(のはたらき)――五根。さとりを得させるための5つの力または可能力をいう。すなわち信と精進(勤)と念と定と慧とである。これらは諸の善いことを生ぜしめる根本であるから「五根」と名づける。
注6)5つの執著――貪りと怒りと迷妄と高慢と誤った見解とである。これらは執著を起させるもとであるから「五著」という。
■第26章 バ ラ モ ン
382)バラモン(注1)よ。流れ(注2)を断て。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。
384)バラモンが2つのことがら(=止と観)(注3)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。
385)彼岸(かなたのきし)もなく、此岸(こなたのきし)もなく(注4)、彼岸(かなたのきし)・此岸(こなたのきし)(注5)なるものもなく、怖れもなく、束縛もない人、――かれをわれはバラモンと呼ぶ。
386)静かに思い、塵垢(ちりけがれ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人(注6)、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
387)(注7)太陽は昼にかがやき、月は夜に照し、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。
388)悪を取り除いたので〈バラモン〉(婆羅門)と呼ばれ、行ないが静かにやすまっているので〈道の人〉(沙門)と呼ばれる。おのれの汚れ(注8)を除いたので、それゆえに〈出家者〉と呼ばれる(注9)。
389)バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな(注10)。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。
390)愛好するものから心を遠ざけるならば、このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。害する意(おもい)がやむにつれて、苦悩が静まる。
391)身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、3つのところ(注11)についてつつしんでいる人――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
392)正しく覚った人(=ブッダ)の説かれた教えを、はっきりといかなる人から学び得たのであろうとも、その人を恭しく敬礼せよ、――が祭の火を恭しく尊ぶように。
393)螺髪(注12)を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである(注13)。
394)(注14)愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮(注15)をまとって何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)(注16)を蔵して、外側だけを飾る(注17)。
395)糞掃衣(ふんぞうえ)をまとい、瘠せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
396)われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者(注19)」といはれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている(注20)。無一物であって執著のない人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
397)すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
398)紐(注21)と革帯(注22)と綱(注23)とを、手綱(注24)ともども断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)(注25)を滅ぼして、めざめた人(注26)、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
399)罪がないのに罵られ、なぐられて、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
400)怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ(注27)、欲を増すことなく、身をととのえ(注28)、最後の身体に達した人(注29)――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
401)蓮葉(はちすば)の上に露(注30)のように、錐の尖の芥子(注31)のように、諸の欲情に汚されない人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
402)すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
403)明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的(注32)を達した人――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
404)在家者・出家者のいずれとも交わらず(注33)、住家(すみか)がなくて遍歴し、欲の少ない人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
405)強くあるいは弱い(注34)生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
406)敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者ども(注35)の間にあって執著しない人――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
407)芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立て(注36)とが脱落した人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
408)粗野ならず、ことがらをはっきりと云える真実のことばを発し(注37)、ことばによって何人の感情をも害することのない人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
409)この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、淨かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
410)現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
411)こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死(注38)の底に達した人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
412)この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
413)曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
414)この障害・険道(注39)・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく(注40)、疑惑なく、執著することがなくて、心安らかな人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
415)この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
416)この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
417)人間の絆(注41)を捨て、天界の絆(注42)を越え、すべての絆をはなれた人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
418)〈快楽〉と〈不快〉(注43)とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
419)生きとし生ける者の死生をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
420)神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
421)前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
422)牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
423)前世の生涯を知り、また天上と地獄を見、生存を滅ぼしつくすに至って、直感智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
注1)バラモン――漢訳仏典では「婆羅門」「梵志」などと音写される。ヴェーダの宗教における司祭者のことで、バラモンはインドのカースト制においては最高のカーストであると考えられていた。原始仏教は表面的にはインド伝統のこの観念を継承したが、その意義内容を改めて、〈真のバラモン〉は祭祀を行なう人ではなくて、徳を身に具現した人のことであると主張した。この章に説かれる「バラモン」とは煩悩を去り罪悪をなさぬ人である。最初期のジャイナ教聖典でも理想の修行者をバラモンと呼んでいる。また開祖マハーヴィーラをバラモンと呼んでいる。
注2)流れ――愛執を流れに喩えていう。
注3)2つのことがら(=止と観)――こころを練って一切の外境や乱想にうごかされず、心を特定の対象にそそいで心のはたらきを静めるのを「止」といい、それによって正しい智慧を起こし、対象を如実に観るのを「観」という。止めて観るのである。互いに他を成立させ、仏道を全うさせる不離の関係にある。
注4)彼岸もなく、此岸もなく――「彼岸」とは完全な理想の境地であり、「此岸」とは迷いの状態であろう。さとりも迷いも超越しているというのであるから、大乗仏教や禅をさえも思わせる表現であるが、初期の仏典やジャイナ教聖典にはこのような表現を時々見かける。パーリ文註解には「彼岸」とは内の六処(眼・意・鼻・舌・身・意)であり、「此岸」とは外の六処(色・声・香・時・触・法)であると解するが、これは教義学の述語をもちこんだものである。
注5)彼岸・此岸――アンデルセンは「彼岸」とは来世、「此岸」とは現世、「彼岸・此岸」とは流転輪廻する人の全生存を意味するのではないかという。
注6)最高の目的を達した人――パーリ文註解にはアラハンに達した人と解するが、最初のじきにはそれほど明確に考えていなかったのであろう。
注7)『ウダーナヴァルガ』を月と結びつけて考えることはヴェーダ以来行なわれている。また月とブラフマンとを結びつけて考えることもあった。これに対してクシャトリヤを太陽と結びつける例があるかどうかというに、釈迦族はその姓を「太陽」と称すると言う。(例えば『スッタニバータ』423)太陽の裔と考えられていたらしい。
注8)汚れ――情欲などをいう。
注9)それゆえに〈出家者〉と呼ばれる――賢者は心の垢を去って自己を淨めよ、というのである。
注10)バラモンを……怒りを放つな――いまはパーリ仏教の伝統的解釈にしたがった。しかし『出曜経』梵志品第30巻によると、「在家の人が修行僧を世話しないで追放してはならぬ」という意味に解している。
注11)3つのところ――身とことばと心とを指していう。身・口・意。
注12)螺髪――当時のバラモンが螺貝のように髪を結うていたことを指していう。
注13)真実と理法をまもる人は……バラモンなのである――これはウパニシャッドにおけるサティヤカーマの物語と同趣意である。この精神は仏教においては特に強調された。『生れによってバラモンなのではない。生れによって非バラモンなのでもない。行為によってバラモンなのである。行為によって非バラモンなのである。』(『スッタニバータ』650)『ひとは行為によってバラモンとなり、行為によって王族となり、行為によって庶民となり、行為によって隷民となる。』『シュードラであっても、柔善・真実・徳のうちに常につとめている人を、バラモンだとわたくしはかんがえます。その人は行為(業)によって再生族となるでしょう。』
注14)この詩は仏教外の諸宗教における当時の修行者たちのすがたに言及しているのである。外形だけでは内心は淨まらないと説く。
注15)かもしかの皮――羚羊(かもしか)の皮の衣。今日でもインドの行者はかもしかの皮をまとって、うずくまっている。
注16)密林――貪欲などの煩悩のことを密林に譬えていう。
注17)外側だけを飾る――「外を磨き立てる」「光沢(つや)を出す」の意。
注18)糞掃衣――パンスクーラ、パンス(「糞掃」と音写する)とは「塵埃」のことで、その中から集めたボロ切れを洗い、縫い合せた衣をパンスクーラという。もとは出家者はこのようなものを身につけていた。
注19)「〈きみよ〉といって呼びかける者」――原始仏典を見ると、バラモンはゴータマ・ブッダに向って「きみよ!」といって呼びかけている。ゴータマ・ブッダに対して特別の尊敬を払っていないのである。
注20)何か所有物の思いにとらわれている――情欲などを所有していることであるとパーリ文註解は解するが、しかし原義は、自分が財産や名声など何ものかを所有していると思いなすことを言うのであろう。
注21)紐――結ぶ性質があるので、怒りを紐にたとえていう。
注22)革帯――縛る性質があるので、愛執を革帯にたとえていう。
注23)綱――62の誤った見解を綱に譬えていう。
注24)手綱――ひそんでいる煩悩を手綱にたとえていう。
注25)門をとざす門――無明のことをいう。
注26)めざめた人――パーリ文註解には四諦の理をさとった人と解しているから、崇拝対象としての仏ではなくて、真理をさとった人というほどの意味で、用法としてはジャイナ教など他の諸宗教と共通である。また後代の仏教教学によると、四諦の理をさとるのは小乗の声聞の道であるにすぎないとされていたのに、ここのパーリ文註解には、四諦の理をさとることによってブッダとなり得ると説いているから、初期の仏教思想がまだ注釈のうちにも保存されていたのだと解し得るであろう。
注27)戒律を奉じ――パーリ文註解によると、四清淨戒をたもつことであるという。⑴「別解脱律儀」、身と語とに悪をなさないことを誓うこと。⑵「根律儀」、感官を制しととのえること、⑶「正命清浄律儀」、生活を正しくすること、⑷「縁に関する律儀」、生活必需品を節制することである。清浄戒とは、説一切有部のほうでは四種持戒のうちの第4であり、煩悩の汚れを離れた無漏清浄を守ることであって、パーリ仏教で意味するところとは異る。
注28)身をととのえ――眼・耳・鼻・舌・身・意という6つの器官を制しととのえること。
注29)最後の身体に達した人――もはや生れ変って次の身体を受けることが無い、との意。
注30)蓮華の上の露――下の汚水に交らないから清らかである。『水の中に生じた蓮が水に汚されないように、そのような諸々の慾情に汚されない人――われはかれをバラモンと呼ぶ。』
注31)錐の尖の芥子――粘着してとどまることが無いから、執著の無いことにたとえている。
注32)最高の目的――パーリ文註解によると、真人の境地(阿羅漢果)であるという。
注33)在家者・出家者のいずれとも交わらず――『貧欲なることなく、人に知られずに生き、家なく、所有なく、在家者どもと交際しない人、――われらはかれをバラモンと呼ぶ。』『(両親など及び)親戚・縁者との以前からの結びつきを捨て、快楽に耽らない人、――われらはかれをバラモンと呼ぶ。』
注34)強く或いは弱い――『動く生きものでも動かない生きものでも悉く知って、3つのしかた(心とことばと身体)のいずれによっても(いきものを)害しない人――かれをわれらは〈バラモン〉と呼ぶ。』
注35)執著する者ども――パーリ文註解によると、精神と肉体(五蘊)について「われ」とか「わがもの」とかいって執著することである。
注36)隠し立て――パーリ文註解には他人の美徳を隠すことと解している。しかし仏教一般では自分のあやまちを隠蔽することをいう。漢訳では「覆」という。
注37)真実のことばを発し――『正直をたもっている人には、バラモンたる性質も現われる。』『バラモンでない者はこのことを明言しえないはずである。若き児よ。……わたしはきみを弟子入りさせてやろう。何となればきみは真実からはずれなかったからである。』『怒りの故にも、戯笑の故にも、貧欲の故にも、恐怖の故にも、決して偽りを語らない人――――われらはかれを〈バラモン〉と呼ぶ。』『怒りと迷いを捨てた人が〈バラモン〉であると神々は知りたまう。この世で真実を語り、師を満足せしめ、害せられても害しない人が〈バラモン〉である、と神々は知りたまう。諸々の感官にうち克ち、徳に専念し、清浄であって、(ヴェーダの)学習を楽しみ、愛欲と憤怒を伏する者が〈バラモン〉である。と神々は知りたまう。』
注38)不死――パーリ文註解は、これをニルヴァーナと解する。また甘露を意味する。
注39)険道――煩悩のことをいう。
注40)興奮することなく――興奮し、情欲に激することが無いの意。
注41)人間の絆――パーリ文註解によると、身体と五官による欲楽の対象とをいう。
注42)天界の絆――天の世界に住む神々といえども束縛の絆を受けていることをいう。神々といっても、人間よりはすぐれた存在であるというだけで、やはり、変化や苦悩を受ける存在なのである。神々はまだ解脱していない。
注43)〈快楽〉と〈不快〉――註によると、快楽とは五欲の対象を享楽することであり、不快とは林の中に住もうと熱望することである。
(2012年8月24日)