岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ)』中村元訳 岩波文庫

投稿日:2020-12-09 更新日:

『ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ)』中村元訳 岩波文庫

〈ウダーナは日本の学者は「感興後」と訳すことが多いが、ブッダが感興を催した結果、おのずから表明されたことばであるとされている。「無問自説」と訳す学者もある。(問われないのにブッダが自ら説いた、という意味である。)漢字にはなかなか訳しにくいので、難しい漢字で音写されていることが多い。ヴァルガとは「集り」を意味する。(389頁)〉

■第1章 無 常

3)諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらのしずまるのが、安泰である。

4)何の喜びがあろうか。何の喜びがあろうか?――(世間は)このように燃え立っているのに。汝らは暗黒に陥っていて、燈明を求めようとしない。

5)あちこちの方向に投げ捨てられまき散らされたこの鳩色のような白い骨を見ては、この世になんの快(こころよさ)があろうか?

8)「わたしは若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が(自分の)生命をあてにしていてよいだろうか?若い人々でも死んで行くのだ。――男でも女でも次から次へと――。

18)昼夜は過ぎ行き、生命はそこなわれ、人間の寿命は尽きる。――小川の水のように。

19)眠れない人には夜は長く、疲れた人には1里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者にとっては、生死の道のりは長い。

20)「わたしには子がいる。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

21)男も女も幾百万人と数多くいるが、財産を貯えたあげくには、死の力に屈服する。

25)大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。

26)この世においては、過去にいた者どもでも、未来にあらわれる者どもでも、一切の生き者は身体を捨てて逝くであろう。智ある人は、一切を捨て去ることを知って、真理に安住して、清らかな行ないをなすべきである。

38)「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏にはここに住もう」と、愚者はこのようにくよくよと慮(おもんばか)って、死が迫ってくるのに気がつかない。

39)子どもや家畜のことに気を奪われて心が執著している人を、死は捉えてさらって行く。――眠っている村を大洪水が押し流すように。

40)子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死におそわれた者にとっては、かれらも救済者とはならない。

41)「わたしはこれをなしとげた。これをしたならばこれをしなければならないであろう。」というふうに、あくせくしている人々を、老いと死が粉砕する。

42)それ故に、修行僧らは、つねに瞑想を楽しみ、心を安定統一して、つとめはげみ、生と老いとの究極を見きわめ、悪魔とその軍勢に打ち克って、生死の彼岸に達する者となれ。

■第2章 愛 欲

1)愛欲よ。わたしは汝の本(もと)を知っている。愛欲よ。汝は思いから生じる。わたしは汝のことを思わないであろう。そうすれば、わたしにとって汝はもはや現われないであろう。

2)欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

3)快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば、憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

4)果実が熟したならば、尖端は甘美であるが、喜んで味わってみると辛い。愛欲は愚かなる者どもを焼きつくす。――たいまつを放さない人の手を、たいまつが焼くように。

5,6)鉄や木材や麻紐でつくられた枷を聖者たちは堅固な縛(いましめ)とは呼ばない。心が愛欲に染まり愚鈍な人が、妻や子にひかれること、――これが堅固な縛(いましめ)であると、聖者たちは呼ぶ。それはあらゆる点で極めて堅固であって、脱れ難い。かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。

7)世間における種々の美麗なるものが欲望なのではない。欲望は、人間の思いと欲情なのである。世間における種々の美麗なるものはそのままいつも存続している。しかし思慮ある人々はそれらに対する欲望を制してみちびくのである。

8)人間のうちにある諸の欲望は、常住に存在しているのではない。欲望の主体は無常なるものとして存在している。束縛されているところのものを捨て去ったならば、死の領域は迫って来ないし、さらに次の迷いの生存を受けることもない、と、われは説く。

13)諸の欲望にしたがっているあいだは、心が満足を得ることが無かった。しかし欲望から退き休止することを反省して見て、明らかな知慧によってよく満足した人々は、実に満足しているのである。

14)欲望によって満足することがないから、明らかな知慧をもって満足するほうが勝れている。明らかな知慧をもって満足した人を、愛執が支配することはできない。

17)たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。賢者は、「欲望は快楽の味が短い」と知って、

18)たとい天上の快楽にもこころが喜ばない。正しく覚った人(=仏)の弟子はつねに妄執の消滅を喜ぶ。

19)たといヒマーラヤ山にひとしい黄金の山があったとしても、その富も一人の人を満足させるのに足りない。このことを知って、平らかな心でおこなうべきである。

20)苦しみと苦しみの起る本(もと)を知る人は、どうして愛欲を楽しむであろうか?思慮ある人は、世間における絆を棘であると考えて、それを制しみちびくために修学すべし。

■第3章 愛 執

3)人々は盲目なる欲望の網のうちに投げ込まれ、愛執に蔽われて、放逸(わがまま)であり、獄舎にとじこめられている。――魚が魚獲(すなどり)の網の目にかかったように。かれらは老いと死とに向う。――乳を吸いたがる犢(こうし)が母牛に向うように。

4)恣(ほしいまま)のふるまいをする人には、愛執が蔓草のようにはびこる。林のなかで猿が果実(このみ)を探し求めるように、かれは(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

9)この世において極めて断ち難いこのうずく愛欲のなすがままである人は、諸の憂いが増大する。――雨が降ったあとにはピーナラ草がはびこるように。

10)この世において極めて断ち難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。――水の滴が蓮葉(はちすば)から落ちるように。

13)しかしこの世でその愛執を捨てて、移りかわる生存に対する愛執を離れたならば、その人はもはや輪廻しない。その人には愛執が存在しないからである。

15)実に愛執が原因であり、執著は(それに縁って)流れている川である。この世では(欲の)網が茎をつねに覆うている。蔓草である餓えを全く除去したならば、この苦しみはくり返し退く。

16)たとえ樹を伐っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹がつねに再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力を摘出しないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。

18)愛執は苦しみの起る根源であるとこの危ない患らいを知って、愛欲を離れ、執著して取ることなく、修行僧は気をつけながら遍歴すべきである。

■第4章 は げ み

1)つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の足跡である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、つねに死んでいる。

2)つとめはげむことについてこの区別のあることを知って、賢い人、聖者は、自分の境地であるつとめはげむことをいつも喜ぶがよい。

3)たえず(道に)思いをこらし、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々はニルヴァーナに達する。これは無上の幸せである。

4)賢明なる人がつとめはげみによって放逸(わがまま)をたち切るときには、知慧の高閣(たかどの)に登り、憂いを去って、憂いある人びとを見下(おろ)す。山の上にいる人が地上の人々を見下すように。

6)ふるい立ち、思いつつましくこころは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。

8)下劣なしかたになじむな。怠けて人々とともにふわふわと暮すな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。

11)叡智の無い愚かな人々は放逸の状態をつづけている。つとめはげむ人は、つねに瞑想し、汚(けが)れの消滅を達成する。

12)放逸(なおざり)に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、不動の楽しみを得る。

16)自分の益になるものであると知り得ることを、あらかじめ為すべきである。(無暴な)車夫のような思いによらないで、賢者はゆっくりと邁進すべきである。

17)譬えば車夫が平坦な大道を捨てて、凸凹ある道をやって来て、車軸を毀してはげしく悲しむように、

18)愚かな者は、法から逸脱して、なしてはならぬことを実行して、死魔の支配に屈し、車軸を毀したように、悲しむ。

19)なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、高ぶって放逸(わがまま)なる者どもには、汚れが増す。かれらには汚れが増大する。かれらは汚れの消滅からは遠く隔っている。

20)よく修行を始めて、常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、諸の汚れがなくなる。

22)たといためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているようなものである。かれは修行者の部類には入らない。

27)修行僧は、つとめはげむのを楽しみ、放逸(なおざり)のうちに恐ろしさを見る。自己を難処から救い出す。――泥沼に落ちこんだ象のように。

28)修行僧は、つとめはげむのを楽しみ、放逸(なおざり)のうちに恐ろしさを見、悪いことがらを吹き払う。――風が木の葉を吹き落とすように。

29)修行僧は、つとめはげむのを楽しみ放逸(なおざり)のうちに恐ろしさを見、微細なものでも粗大なものでもすべて心の纏(わずらい)を、焼きつくしながら歩む。――燃える火のように。

30)修行僧は、つとめはげむのを楽しみ、放逸(なおざり)のうちに恐ろしさを見、一切の束縛の絆の消滅し尽くすことを次第に体得する。

31)修行僧は、つとめはげむのを楽しみ、放逸(なおざり)のうちに恐ろしさを見、やすらぎの境地を体得する。それはつくり出すはたらきの静まった安らかさである。

32)修行僧は、つとめはげむのを楽しみ、放逸(なおざり)のうちに恐ろしさを見、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。

34)睡眠、倦怠、怠惰――これらは修行の妨げである。そのよすがを知り究めよ。――心の落ち着きが妨げられることの無いように。

35)奮起(ふるいたて)よ。怠けてはならぬ。善き行ないのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

36)修行僧らは、つとめはげむのを楽しめ。よく戒めをたもて。その思いをよく定め統一して、自分の心をまもれかし。

38)この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生れをくりかえす輪廻を捨てて、苦しみを終滅するであろう。

■第5章 愛 す る も の

1)愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

2)愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものは変滅してしまうから、ついには狂乱に帰す。

3)世間の憂いと悲しみ、また苦しみはいろいろである。愛するものに由って。ここにこの一切が存在しているのである。愛するものが存在しないならば、このようなことは決して有り得ないであろう。

4)それ故に、愛するものがいかなるかたちでも決して存在しない人々は、憂いを離れていて、楽しい。それ故に、憂いの無い境地を求めるならば、命あるものどもの世に、愛するものをつくるな。

5)愛するものと会うな。愛していないものとも会うな。愛するものを見ないのは苦しい。愛しないものを見るのも苦しい。

6)愛する人々と離れるが故に、また愛しない人々に会うが故に、はげしく憂いが起る。それによって人々は老いやつれてゆく。

7)時が来て、愛する人が死ぬと、親族知人が集まって来て、長い夜を徹して悲しむ。実に愛する者と会うことは苦しい。

8)それ故に、愛するものをつくってはならぬ。愛するものであるということはわざわいである。愛するものも憎むものも存在しない人々には、わざわいの絆は存在しない。

9)つねに道に違うたことになじみ、道に順ったことにいそしまず、目的を捨てて、快いことだけを取る人は、みずからの目的につとめる者を憧れるに至るであろう。

12)悪いものは善いすがたをもって、憎らしいものは愛しきもののすがたをもって、苦しみは安楽のすがたをもって、放逸(なおざり)なる者どもを粉砕してしまう。

13)もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは容易ではないからである。

14)もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。善いことを実行する人が、楽しみを得るということは、いともたやすいからである。

15)もしも自分を愛しいものだと知るならば、よく心がけて自己をまもるべきである。――辺境に有る、城壁に囲まれた都市が堅固に奥深く濠をめぐらされているように。賢い人は、夜の3つの区分のうちの1つだけでも、つつしんで目ざめておるべきである。

16)もしも自分を愛しいものだと知るならば、よく心がけて自己をまもるべきである。――辺境に有る城壁に囲まれた都市が内も外も堅固に守られているように、

17)そのように自己を守れ、汝らは瞬時も空しく過すな。時を空しく過した人々は、地獄に堕ちて悲しむ。

18)どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない。

19)すべての者は暴力におびえている。すべての(生きもの)にとって生命が愛しい。己(おの)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

24)徳行をそなえ、法(のり)にしたがって生き、恥を知り、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人を、世人は好ましいと見なす。

■第6章 戒 し め

1)聡明なひとは、3つの宝をもとめるならば、戒しめをまもれ。――その3つとは、世の人々の称讃(=名誉)と、財の獲得と、死後に天上に楽しむことである。

2)この3つのことがらをはっきりと見て、賢者は戒しめを守れ。尊い人は正しい見解を具現して、世の中で幸せを得る。

3)戒しめを受けたもつことは楽しい。身体が悩まされることがない。夜は安らかに眠る。目が覚めたならば心に喜ぶ。

4)老いに至るまで戒しめをたもつのは、善いことである。明らかな知慧は、実に人々の宝である。福徳は盗賊も奪い去るのが難しい。

5)明らかな知慧があり、戒しめをたもつ人は福徳をつくり、ものをわかちあって、この世でもかの世でも、安楽を達成する。

6)修行僧は堅く戒しめをたもって、諸の感官をよくつつしみ、食事についてもほどよい量を知り、めざめているときには心を統一し、気をつけている。

7)このように、昼夜に熱心につとめはげみ、倦むことなく暮しているならば、その人は堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。

8)修行僧は堅く戒めをたもち、心の念(おも)いと明らかな知慧とを修養すべきである。つねに熱心に、つつしみ深くつとめはげむならば、苦しみを消滅し尽すに至るであろう。

9)それ故に、つねに戒しめを守り、精神の統一をまもる者であれ。真理を観ずることを学び、しっかりと気をつけて落ち着いておれ。

10)かれは束縛の絆が消え失せて、慢心もなくなり、煩悩のさまたげもなく、身体が壊(やぶ)れて死んだあとでも明らかな知慧をたもち、ときほごされて、(迷える人の)部類に入らない。

11)戒しめと精神統一と明らかな知慧とのある人は、これらをよく修養している。かれは究極の境地に安住し、汚れが無く、憂いが無く、迷いの生存を滅ぼし尽くしている。

12)執著から解放されて、こだわりなく、完き知慧あり、煩悩のさまたげなく、悪魔の領域を超えて、太陽のように輝く。

13)修行僧が、心が高ぶりざわざわして、恣(ほしいまま)に怠りなまけて、外のことがらに心を向けているならば、戒しめと精神統一と知慧とは完成しない。

14)覆われたものに、雨が降り注ぐ。開きあらわされたものには、雨は降らない。それ故に、覆われたものを開けよ。そうしたならば、それに雨は降り注がない。

15)心ある緋とはこの道理を見て、つねに戒しめをまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。

16)花の香りは風に逆らっては薫らない。――昼間に咲くタガラの花からも、栴檀(せんだん)からも――。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても薫る。徳のある人は、すべての方向に薫るのである。

18)タガラ、栴檀の香りは、微かであって、大したことはない。しかし徳行ある人々の香りは、天の神々にもとどき、この世でも薫る。

19)清らかに戒しめをたもち、つとめはげんで生活し、正しい知慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。

20)これは安穏に達する道である。これは清浄に向う道である。心をおさめて、この道を歩む者どもは悪魔の束縛を捨て去るであろう。

■第7章 善 い 行 な い

1)身体に過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。身体について、慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。

2)ことばで過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。ことばについて、慎んでおれ。語(ことば)による悪い行ないを捨てて、語(ことば)によって善行を行なえ。

3)心で過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。心について、慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。

4)身体による悪い行ないを捨て、ことばによる悪い行ないを捨て、心による悪い行ないを捨て、そのほか汚れのつきまとうことを捨てて、

5)身体によって善いことをせよ。ことばによって大いに善いことをせよ。心によって善いことをせよ。――汚れのさまたげの無い、無量の善いことを。

6)身体によって善いこと為し、ことばによっても心によっても善いことをするならば、その人はこの世でも、またかの世でも幸せを得るであろう。

10)落ち着いて思慮ある人々は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。かれらはあらゆることに慎しんでいる。かれらは不死の境地におもむく。そこに達したならば、悩むことがない。

11)身について慎しむのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。あらゆることがらについて慎しむ修行僧はすべての苦しみから脱(のが)れる。

12)(悪いことを言わぬように)ことばを護り、心でよく慎しみ、身体で悪いことをするな。この善き行為の道を浄めて、聖者の説きたまうた道を体得せよ。

■第8章 こ と ば

2)人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。ひとは悪口を語って、その斧によって自分自身をきるのである。

3)毀(そし)るべき人々を誉め、また誉むべき人々を毀(そし)る者――かれは口によって悪運をかさね、その悪運ゆえに幸せを受けることができない。

6)悪い心のある人々は実に嘘を言う。つねに地獄(の苦しみ)を増して、おのれを傷つける。欠点の無い力のある人は、心の混濁を除いて、(すべてを)忍ぶ。

7)愚かにも、悪しき見解にしたがって、真理に従って生きる真人・聖者たちの教を罵(ののし)るならば、その人には悪い報いが熟する。――棘のある芦(あし)はのびて節が熟すると自分自身が滅びてしまうようなものである。

8)善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すな。善いことばを口に出したほうが良い。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。

9)すでに(他人が)悪いことばを発したならば、(言い返すために)それをさらに口にするな。(同じような悪口を)口にするならば悩まされる。聖者はこのように悪いことばを発することはない。愚かな者どもが(悪いことばを)発するからである。

10)口をつつしみ、ゆっくりと語り、心が浮つかないで、事がらと真理とを説く修行僧――かれの説くところはやさしく甘美である。

11)善い教えは最上のものである、と聖者は説く。(これが第1である)。理法を語れ。理法にかなわぬことを語るな。これが第2である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第3である。真実を語れ、虚偽を語るな。これが第4である。

12)自分を苦しめず、また他人を害しないようなことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのです。

13)好ましいことばのみを語れ。そのことばは人々に歓び迎えられる。つねに好ましいことばのみを語っているならば、それによって(ひとの)悪(意)を身に受けることがない。

14)真実のことばは不滅であるはずである。実に真実のことばは最上である。かれらは、真実すなわちことがらと理法の上に安立したことばを語る。

15)安らぎに達するために、苦しみを終滅させるために、仏の説きたまうおだやかなことばは、実に善く説かれたことばである。

■第9章 行 な い

1)唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を拒んでいる人は、どんな悪でもなさないものは無い。

4)もし汝が悪い行ないをなすならば、あるいはいつかなすであろうならば、汝は苦しみから離脱することはない、――たとい汝が(空中に)浮び上って逃げ去ろうとしても。

5)大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の深いところに入っても、およそ世界のどこでも悪業の制圧しない場所はしない。

6)この世で他人のした悪い行ないを見ては、ひとは非難するであろうが、その悪い行ないを自からしてはならない。悪人は実に(自分の)業に束縛されている。

7)詐欺や慢心をともない、正しくない行ないにより、あるいは他人から企(たくら)まれて、人々を傷けるならば、その人々は深い坑(あな)の中に堕ちる。人々は実に(各自の)業に縛せられている。

8)人がもしも善または惡の行ないをなすならば、かれは自分のした1つ1つの業の相続者となる。実に業は滅びないからである。

9)或る物が人に役立つあいだは、その人は(他人から)掠奪する。次いで他の人々がかれから掠め取る。(他人から)掠め取った人が、掠奪されるのである。

11)愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。しかし、のちに報いを受けるときに、苦痛が起る。

12)もしも愚かな者が、悪い行ないをしておきながら、気がつかないならば、浅はかな愚者は自分自身のした行ないによって悩まされる。――火に焼きこがされてやけどした人が苦しむように。

14)もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

15)もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善いのである。

16)自分の幸せだけをもとめる人々は、笑いながら悪いことをする。しかし、かれらはのちに苦しんで、泣きながらその報いを受ける。

17)悪い事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟するのである。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。

19)鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を食いつくすように、悪をなしたならば、自分の業が、静かに気をつけて行動しない人を悪いところ(地獄)にみちびく。

■第10章 信 仰

1)信ずる心あり、恥を知り、戒しめをたもち、また財をわかち与える――これらの徳行は、尊い人々のほめたたえることがらである。「この道は崇高なものである」とかれらは説く。これによって、この人は天の神々の世界におもむく。

3)信(まこと)の人は最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せを受ける。真実は、実に諸の飲料のうちでも最も甘美なものである。明らかな知慧によって生きる人は、生きている人々のうちで最もすぐれた人であると言われる。

4)尊敬さるべき真人たちに対する信仰を財とし、安らぎに至るための教えを聞こうと願うならば、聡明な人は(ついには)いろいろのことについて明らかな知慧を得る。

5)ひとは、信仰によって激流を渡り、つとめはげむによって海を渡る。勤勉によって苦しみを捨て、明らかな知慧によって全く清らかとなる。

6)信(まこと)は男に伴(つ)れそう妻である。知慧がかれを教えさとす。修行僧は安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、迷いの生存の束縛を断ち切る。

7)信仰と戒しめとをたもち、生きものを傷けず、つつしみあり、みずからととのえている人は、汚れを去った賢者であり、「端正な人」と呼ばれる。

8)信仰あり、徳行そなわり、ものを執著しないで与え、物惜しみしない人は、どこへ行こうとも、そこで尊ばれる。

9)生きとし生ける者どものあいだにあって、信仰と知慧とを得た賢い人にとっては、それが実に最上の宝である。そのほかの宝はつまらぬものである。

10)諸の聖者に見(まみ)えようと願い、正しい教えを聞くことを楽しみ、もの惜しみの汚れを去った人、――かれこそ(信仰心ある人)と呼ばれる。

11)信仰心の深い人は、人生の旅路の糧(かて)を手に入れる。それは盗賊も奪うことのできない福徳である。盗賊が奪い去るのを防ぐ。功徳をともなう修行僧らは、人々に愛される。修行僧らが来たのを見ては、賢い人々は歓び迎える。

12)或るひとびとは、信ずるところにしたがって、また財力に応じて、ほどこしをなす。だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心のやすらぎを得ない。

13)もしもひとがこれらの悪徳、飽かざる思いを絶ち、ターラ樹の尖端のように根だやしにしたならば、その人は昼も夜も心のやすらぎを得る。

14)信仰の無い人とつき合うな。水の乾からびた池のようなものである。もしもそこを掘るならば、泥くさい臭いのする水が出て来るだろう。

15)しかし、信仰心あり明らかな知慧ある人とつき合え。――水をもとめている人が湖に近づくように、そこには、透明で清く澄み、冷やかで、濁りの無い水がある。

16)好きな人だからといってなじんではならない。ひとはそこで砕かれてしまう。清い信仰心の無い人を遠ざけて、清い信仰心のある人に近づく。

まとめの句

 (1)無常と(2)愛欲と(3)愛執と(4)はげみと(5)愛するものと(6)戒しめと(7)善い行ないと(8)ことばと(9)行ないと(10)信仰とで、10になる。

■第11章 道 の 人

1)勇敢に流れを断て。諸の欲望をきっぱりと去れ。諸の欲望を捨てなければ、聖者は一体に達することができない。

2)知慧ある人は、(なすべきことを)いつも為しつつ、それを断乎として実行せよ。行ないのだらけた出家修行は、多く塵を受ける。

3)その行ないがだらしなく、その修行が汚れていて、清らかな行ないなるものも完全に清らかでないならば、大きな果報はやって来ない。

4)矢でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行者の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

5)矢でも正しく捉えると、手のひらを切ることがないように、修行者の行も正しくおこなうと、。ニルヴァーナの近くにある。

6)修行者の行ないは、知能の鈍い人間の為し難く忍び難いことである。愚鈍なる者の気落ちするような苦悩は多いのである。

7)修行者の行をおこなう人は、自分の心を退けるべきではない。(そうでないならば)くりかえし心が沈んでしまって、諸の(乱れた)思いのままになってしまうであろう。

8)出家の生活は、困難であり、それを楽しむことは難しい。(世俗の)家に住むのも堪え難いことである。心を同じくしない人々と共に住むのも、苦しいことである。迷いの生存を重ねることは、苦しみである。

9)袈裟を頸から纏っていても、性質(たち)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は悪いふるまいによって死後には悪いところ(地獄)に生れる。

10)この極めて性(たち)の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。あたかも蔓草が紗羅の木にまといつくようなものである。

11)頭髪が白くなったからとて〈長老〉なのではない。ただ年をとっただけならば「ばかになって老いぼれた人」と言われる。

12)しかし福徳と罪悪とを捨て、清らかな行ないをなし、ひととの交りを捨てて行じている人、――かれこそ〈長老〉とよばれる。

13)頭を剃ったからとて、身をつつしまず、偽りを語る人は、〈道の人〉ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして〈道の人〉であろうか?

14)頭を剃ったからとて、身をつつしまず、偽りを語る人は、〈道の人〉ではない。大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、諸の悪を静め滅ぼしたのであるから、〈道の人〉と呼ばれる。

15)この世では悪を取り除いたので〈バラモン〉(婆羅門)と呼ばれ、不吉なことが静かにやすまっているので〈道の人〉(シャマナ、沙門)と呼ばれ、おのれの汚れを除いたので〈出家者〉と呼ばれる。

■第12章 道

1)明らかな知慧によって4つの尊い真理を見るときに、この人は迷える生存の妄執を破り摧(くだ)く道を明らかに知る。

2)風によって吹き上げられた塵が雨によって静まるように、ひとが明らかな知慧によって見るときに、諸の欲望の思いが静まる。

3)この世においては、実相を洞察するに至るこの知慧が、最もすぐれている。それによってひとは、生れと死の尽きてなくなることを正しく明らかに知る。

4)諸の道のうちでは〈8つの部分よりなる正しい道〉が最もすぐれている。真理について言えば〈4つの尊い真理〉(=四諦)が最もすぐれている。諸の徳のうちでは〈情欲を離れること〉が最もすぐれている。諸の人々のうちでは〈眼(まなこ)ある人〉(=ブッダ)が最もすぐれている。

5)「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

6)「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

7)「一切の形成されたものは空である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

8)「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

17)つねに善き思考をはたらかせよ。しかしつねに悪を避けよ。そうすれば、吹き上げられた塵を雨がしずめるように、諸の思考と思索とを捨て去るであろう。

19)明らかな知慧を武器とし、瞑想による力をそなえ、心が統一し、瞑想を楽しみ、気をつけている人は、世の中の興亡盛衰をさとって、智を具現した人として、あらゆることがらから解脱する。

20)不死に到達するために、めでたい真直(まっすぐ)な、8つのしかたより成る尊い道(八正道)を修する人は、安楽をもとめて正しく行なうので、幸せを得、またどこでも名誉と名声とを得る。

■第13章 尊 敬

1)芭蕉は実が生(な)ると滅びてしまう。竹や蘆は実が生ると滅びてしまう。牝の驢馬は自分の胎児のために滅びてしまう。そのように、悪人は尊敬を受けると滅びてしまう。

3)善くない人々は、利益を得ようと願い、修行僧らのあいだでは尊敬を得ようとし、僧房にあっては物惜しみの気持を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようとする。

4)「在家の人々も出家した修行者たちも、つねにわたくしのことを知れ。およそなすべきこととなすべからざることについては、わたしの意に従え」――

5)愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまるのである。利益を得るよすがは、ニルヴァーナにいたる道とは異なっている。

6)ブッダの弟子は、つねにこのことわりを如実に知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。

7)いかなることにもあくせくするな。他人の従者となるな。他人に依存して生活するな。法による商人として暮すな。

8)(托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は、心の統一安定を得ることができない。

13)たといその修行僧が三種の明知を体現して、死を打ちのめした者であり、汚れが無いとしても、無智なるものどもは、「かれは人に知られていることが少ない」といって、かれを見下す。

14)ところで、この世で食物や飲料を(多く)所有している人は、たとい悪いことを行なっていても、かれは(愚かな)人々から尊敬される。

17)この(体)は、食べなければ生きてゆくことができない。食物は心胸(むね)を静かならしめるものではない。食物は身体を存続させるためのものである。そのことを知って、托鉢の行をおこなえ。

■第14章 憎 し み

1)悪い行ないをなさず怒ってもいない人に対して怒るならば、この世においても、かの世においても、その人は苦しみを受ける。

2)かれは以前には自己を害(そこ)ない、後には外のものを傷ける。(自分が)害されると、他の人を害する。――鷹が鳥どもを害なうように。

3)殺す人は殺され、怨む人は怨みを買う。また罵りわめく人は他の人から罵られ、怒りたける人は他の人から怒りを受ける。

4)この正しい教えを聞くのでなければ、真理を識ることができない人々は、誰か他人に対して怨みを結ぶ。――人生はこのように短いのに。

9)「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われにこんなことを言った。かれは、われにうち勝った。人をしてわれに打ち勝たしめた。」という思いをいだく人々には、怨みはついに息むことがない。

10)「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われにこんなことを言った。かれは、われにうち勝った。人をしてわれに打ち勝たしめた。」という思いをいだかない人々には、ついに怨みは息む。

11)実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの息むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む。これは永遠のしんりである。

12)怨みは怨みによっては決して静まらないであろう。怨みの状態は、怨みの無いことによって静まるであろう。怨みにつれて次々と現われることは、ためにならぬということがみとめられる。それ故にことわりを知る人は、怨みをつくらない。

13)もしもつねに正しくこの世を歩んで行くときに、明敏な同伴者を得ることができたならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念(おも)いをおちつけて、かれとともに歩め。

14)しかし、もしもつねに正しくこの世を歩んで行くときに、明敏な同伴者を得ることができなかったならば、(戦いに負けて)広大な国を捨てた国王のように、唯ひとりで歩め。悪いことをしてはならぬ。

15)旅に出て、もしも自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。

16)愚かな者を道伴れにすることなかれ。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。

■第15章 念(おも) い を お ち つ け て

2)身をまっ直ぐに立て、心もそのようにして、立っても、坐しても、臥しても、つねに念いをおちつけととのえている修行僧は、過去についても未来についても、勝れた境地を得るであろう。過去についても未来についても勝れた境地を得たならば、死王も見(まみ)えないことになるであろう。

3)身体についてつねに真相を念い、つねに諸の感官を慎しみ、心を安定させている者は、それによって自己の安らぎを知るであろう。

4)もしも或る人にとって身体について真相を念うことがつねに完全に確立したならば、その(「アートマン」という迷い)は存在しないであろう。「わがもの」という迷いも存在しないであろう。その(「アートマン」という迷い)はあらわれないであろう。「わがもの」という迷いも起らないであろう。この人は種々の念いに順次に住するから、やがて適当な時が来れば、執著(の流れ)を超えるであろう。

5)目ざめていて、念いを落ちつけ、正気でいて、心を統一安定させ、喜んで、心もちが明らかに澄んでいる者は、適当な時々に正しい教えを熟考して、生れて老い、ならびに憂いをのり超えよ。

6)それゆえに、つねに目ざめておれ。念いを落ち着けて、怠ることなく、勇を鼓して、生れと老いという束縛の絆をすてて、この世にありながら苦しみを終滅させる。

7)目ざめている者どもは、わがことばを聞け。眠っている者どもは、めざめよ。眠っている者どもよりは目ざめている者がすぐれている。目ざめている者には恐れがないからである。

9)ブッダに帰依した人々は得るところがある。――かれらは昼も夜もつねに仏を念じているので。

10)法に帰依した人々は得るところがある。――かれらは昼も夜もつねに法を念じているので。

12)ガウタマ(=ゴータマ)のこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねに仏を念じている。

13)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねに法を念じている。

15)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねに身体(の真相)を念じている。

15A)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も心の安定統一を念じている。

16)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も戒めを念じている。

16A)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も捨て去ることを念じている。

16B)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も神々を念じている。

17)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もその心は不傷害を楽しんでいる。

18)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は怒り害しないことを楽しんでいる。

19)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は昼も夜も(俗世からの)出離を楽しんでいる。

20)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は瞑想(禅定)を楽しんでいる。

21)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は遠ざかり離れる孤独(ひとりい)を楽しんでいる。

22)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は空を楽しんでいる。

23)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は無相を楽しんでいる。

24)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は無所有を楽しんでいる。

25)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は瞑想を楽しんでいる。

26)ガウタマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は安らぎを楽しんでいる。

■第16章 さ ま ざ ま な こ と

1)未来になすべきことをあらかじめ心がけておるべきである。――なすべき時に、わがなすべき仕事をそこなうことのないように。準備している人を、なすべき時になすべき仕事が害うことはない。

2)目的が達成されるまで、人は努めなければならぬ。自分の立てた目的がそのとおりに実現されるのを見よ。――希望したとおりになるであろうと。

3)起て、つとめよ。自分のよりどころをつくれ。鍛冶工が銀の汚れをとり去るように、自分の汚れをとり去れ。汚れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、汝らはもはや生と老いとを受けないであろう。

5)ところで、以前には怠りなまけていた人でも、のちには怠り怠けることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。

6)以前には怠りなまけていた人でも、のちには怠り怠けることが無いなら、その人は念いを落ちつけていて、この世でこの執著をのり超える。

14)修行僧らよ。汝らは悪いことがらを捨てて、善いことがらを行なえ。家から出て、家の無い生活に入り、孤独(ひとり)に専念せよ。すぐれた人は欲楽をすてて、無一物となり、その境地を楽しめ。

16)田畑の汚れは雑草であり、この人々の汚れは情欲である。それ故に、情欲を離れた人々に供養して与えたものは、大きな果報をもたらす。

17)田畑の汚れは雑草であり、この人々の汚れは怒りである。それ故に、怒りを離れた人々に供養して与えたものは、大きな果報をもたらす。

18)田畑の汚れは雑草であり、この人々の汚れは迷妄である。それ故に、迷妄を離れた人々に供養して与えたものは、大きな果報をもたらす。

19)田畑の汚れは雑草であり、この人々の汚れはおごり高ぶりである。それ故に、おごり高ぶりを離れた人々に供養して与えたものは、大きな果報をもたらす。

20)田畑の汚れは雑草であり、この人々の汚れは貪りである。それ故に、貪りを離れた人々に供養して与えたものは、大きな果報をもたらす。

21)田畑の汚れは雑草であり、この人々の汚れは愛執である。それ故に、愛執を離れた人々に供養して与えたものは、大きな果報をもたらす。

22)第6の機能(=五官につづく心)が、支配者である王である。それが情欲に染まっているときには情欲のままになり、染まっていないときには「汚れを離れた者」となるが、染まっているときには「凡夫」とよばれる。

24)苦しみはつねに因縁からおこる。そのことわりを観ないものだから、それによってひとは苦しみに縛られている。しかし、そのことを理解するならば、執著を捨て去る。けだし外の人々はその大きな激流を捨てないのである。

■第17章 水

1)心をとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を(つぎつぎと)捨てる。

2)白鳥は太陽の道を行き、感官を制御した人々は虚空(そら)を行き、心ある人々は、悪魔の軍勢にうち勝って世界から去って行く。

5)「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が1滴ずつ滴りおちるならば、大きな水瓶でもみたされるのである。愚かな人々は、少しずつでも悪をなすならば、やがてわざわいにみたされるのである。

6)「その果報はわたしには来ないだろう」とおもって、善を軽んずるな。水が1滴ずつ滴りおちるならば、大きな水瓶でもみたされるのである。気をつけている人々は、少しずつでも善をなすならば、やがて福徳にみたされるのである。

8)バラモンである尊師ブッダは、(大河を)渡りおわって陸地に立っている。或る修行僧らはここで水浴をしている。他の修行僧らは筏をつくっている。

9)もしも水がどこにでもあるのであるならば、どうして泉をつくる必要があろうか?妄執の根を取り除いたならば、さらに何を求める要があろうか?

11)深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者たちは正しい教えを聞いて、こころ清らかである。

■第18章 花

2)学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、神々とともなる閻魔の世界を征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人こそ、善く説かれた真理のことばを摘みあつめるのであろう。

3)(単に)1つの樹を切るのではなくて、(煩悩)の林を切れ。危険は林から生じる。(煩悩)の林とその根とを断ち切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

4)たとい僅かであろうとも、親族に対する人の欲望が断たれないあいだは、その人の心はそこに束縛されている。――乳を吸う子牛が恋い慕うようなものである。

6)うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実のりがない。

7)うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも良い香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実のりが有る。

8)蜜蜂は(花の)色香を害わずに、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村のなかを行くときは、そのようにせよ。

9)他人の過去を見るなかれ。他人のなしたこととなさなかったことを見るなかれ。ただ自分の(なしたこととなさなかったこととについて)それが正しかったか正しくなかったかを、よく反省せよ。

■第19章 馬

1)良い馬が鞭をあてられると、勢いよく熱気をこめて走るように、勢いよく努め励め。信仰あり、また徳行をそなえ、精神を安定統一して、真理を確かに知って、感官を制御し、忍耐の力をそなえた人は、迷いの生存をすべて残りなく捨て去る。

2)良い馬が鞭をあてられると、勢いよく熱気をこめて走るように、勢いよく努め励め。信仰あり、また徳行をそなえ、精神を安定統一して、真理を確かに知って、知慧と行ないを完成し、思念をこらして、このような境地に達した人は、すべての苦しみを捨て去る。

3)御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、欠点を捨て、汚れのなくなった人――その人を神がみでさえもつねに羨む。

5)恥を知り、明らかな知慧あり、よく心を統一安定しているこの人は、一切の悪を捨て去る。――良い馬が鞭を受けたときのように。

6)馴らされた馬は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものともなる。自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。かれは世のそしりを忍ぶ。

14)実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趣(よるべ)である。故に自分を制御せよ。――御者が良い馬を調練するように。

■第20章 怒 り

1)怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とに執著せず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

2)怒りが起ったならば、それを捨て去れ。情欲が起ったならば、それを防げ。思慮ある人は無明を捨て去れ。真理を体得することから幸せが起る。

4)怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。

5)かれは、恥じることもなく、愧じることもなく、誓戒をまもることもなく、怒りたける。怒りに襲われた者には、たよりとすべきいかなる帰趣(よるべ)もこの世に存在しない。

13)愚者は、荒々しいことばを語りながら、「自分が勝っているのだ」と考える。しかし謗(そし)りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだ、と言えよう。

17)心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか?はっきりと知っている人に、怒りは存在しない。

19)怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言にうち勝て。

20)怒ることなく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか?かれには怒りは存在しない。

22)走る車をおさえるように、ここでむらむらと起る怒りをおさえる人――かれをわれは〈御者〉とよぶ。そうでなければ、この人はただ手綱を手にしているだけである。(〈御者〉とよぶにはふさわしくない。)

まとめの句

 (1)修行者と(2)道と(3)尊敬と(4)恐れと(5)念いと(6)さまざまと(7)水と(8)花と(9)馬と(10)怒りとで、10になる。

■第21章 如 来

1)われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関してつねに汚されていない。すべてを捨てて、一切の恐怖から解脱している。みずからをさとったのであって、誰を〔師と〕呼ぶであろうか。

2)等しき者もなく、比べるべき者もない人は、誰を〔師と〕呼ぶのであろうか。自からさとりを得て自から教えを説く人なのであるから。如来は神々と人間の師であり、すべてを知る者(=一切智者)となって、(知慧の)力をそなえている。

9)正しいさとりを開き、つねに幸(さち)あり、瞑想に専念している思慮ある人々は、世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえも、かれらを羨む。

10)正しくさとりを開いた人々、誉れあり、速やかに知能がはたらき、最後の身体をたもっている人々を、神々も人間たちも羨むのである。

17)その聖者は完全な自在を得、一切のものにまさり、すべての恐怖から解脱し、愛執を捨て、汚れ無く、望むこと無く、生きとし生ける者どもを観じて、世のためを念うている。

18)山の頂にある岩の上に立っている人があまねく四方に人々を見下すように、あらゆる方向に眼をもっているこの賢明なる人は、真理の高閣(たかどの)に登って、(自分は)憂いはなくして、生れと老いとに打ち克たれ、憂いに悩まされている人々を見た。

■第22章 学 問

1)聞いて学ぶことは善い。正しく行なうことも善い。また住むべき家の無いことも善い。正しいことわりにしたがって出家して遍歴することも善い。――以上のことは修行者の境地にふさわしいことである。

2)この世でことわりをはっきりと知らない愚かな者どもは、自分たちが不死であるかのごとくに振舞う。しかし正しい真理をはっきりと知っている人々にとっては、(この世の生存は)病める者にとっての夜のごとくである。

3)よく密閉してあって暗闇にみたされた家に入ると、そこにある諸の見事な物を、眼のある人でも見ることができないようなものである。

4)この世では人間もまた、つねにそのようなものである。知識はもっているかもしれないが、教えを聞くことが無ければ善悪のことがらを識別することができない。

5)眼のある人は燈火によって種々の色かたちを見るように、ひとは教えを聞いて、善悪のことがらを識別する。

7)或る人が、たとい博学であっても、徳行に専念していないならば、世の人々はかれを徳行の点で非難する。その人の学問は完全に身に具わっているのではない。

8)或る人が、たとい学問が僅かであっても、徳行によく専念しているならば、世の人々、徳行についてかれを称讃する。その人の学問は完全に身に具わっているのである。

9)もしも或る人が学問も少なく、また徳行にも専念していないならば、世の人々は(学問と徳行と)両方の点でかれを非難する。その人の誓戒は完全に身に具わっているのではない。

10)もしも或る人が博学であって、また徳行にもよく専念しているならば、世の人々は(学問と徳行と)両方の点でかれを称讃する。その人の誓戒は完全に身に具わっているのである。

12)色かたちによって、わたしを測り、また音声によって、わたしを尋ねもとめた人々は、貧欲や情欲に支配されているのであって、(実は)わたしのことを知らない。

13)内を知らないが、外をはっきりと見て、外のほうの結果ばかりを見ている人は、実に音声に誘われる。

14)内を明らかに見ているが、外を見ないで、内のほうの結果ばかりを見ている人は、実に音声に誘われる。

15)内を知らないが外をも見ないで、(内と外と)両方について結果を見ない人は、実に音声に誘われる。

16)内をも明らかに知り、外をもはっきりと見て、よりどころにとらわれないで明らかに知る人は、実に音声に誘われることがない。

17)耳で多くのことを聞き、眼で多くのことを見る。思慮ある人は、見たこと、聞いたことをすべて信じてはならない。

18)みごとに説かれたことばは、それを聞いて理解すれば精となる。聞いたこと、識(し)ったことは、心にじっととどめておくと精となる。しかし人が性急であって怠けているならば、かれの知識も学問も大きな目的を達成することはできない。

19)聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、そのとき、かれらの説くことをことばでも実行する。かれらは忍耐と柔和と瞑想のうちに安定し、学問と知能との真髄にも達したのである。

■第23章 自 己

2)ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、自分ひとりを楽しめ。つねにひとりで林の中に住め。

4,5)自己にうち克つことは、他の人々に克つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、――このように明らかな知慧ある修行僧の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神々も、なし得ない。ガンダルヴァ(天の音楽神)たちも、悪魔も、梵天もなし得ない。

6)先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。

8)自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。わたしは常にわが身をよくととのえている。自分というものは、まことに制し難いものである。

10)たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の最高の目的を知って、自分のつとめに専念せよ。

11)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、(自分の)主となり得る。

12)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、(自分の)目的を達成する。

13)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、徳行を達成する。

14)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、名声を得る。

15)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、名誉を得る。

16)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、いろいろの幸せを得る。

20)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、明らかな知慧を穫得する。

22)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、悩みのうちにあって悩まない。

23)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、いかなる束縛をも断ち切る。

24)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、すべての悪い生存領域(註1)を捨て去る。

25)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、すべての苦しみから脱れる。

26)この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、ニルヴァーナの近くにある。

注1)生存領域――『法集要頌経』には「悪趣」と訳している。畜生、修羅、餓鬼、地獄をいう。

■第24章 広 く 説 く

1)無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる有益なことばを一つ聞くほうがすぐれている。

2)ことわりにかなわぬ語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まることわりにかなったことばを一つ聞くほうがすぐれている。

3)素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、つねに清らかで徳行のある人が一日生きるほうがすぐれている。

4)愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、つねに明らかな知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

5)怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれている。

6)事物(ものごと)が起りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりは、事物(ものごと)が起りまた消え失せることわりを見て一日生きるほうがすぐれている。

7)苦痛が尽きてなくなるのを見ないで百年生きるよりは、苦痛が尽きてなくなるのを見て一日生きるほうがすぐれている。

8)汚れが尽きてなくなるのを見ないで百年生きるよりは、汚れが尽きてなくなるのを見て一日生きるほうがすぐれている。

9)不動の境地を見ないで百年生きるよりは、不動の境地を見て一日生きるほうがすぐれている。

10)没落することのない境地を見ないで百年生きるよりは、没落することのない境地を見て一日生きるほうがすぐれている。

11)塵汚れのない(無垢の)境地を見ないで百年生きるよりは、塵汚のない(無垢の)境地を見て一日生きるほうがすぐれている。

12)塵汚れを離れた境地を見ないで百年生きるよりは、塵汚れを離れた境地を見て一日生きるほうがすぐれている。

13)見難い境地を見ないで百年生きるよりは、見難い境地を見て一日生きるほうがすぐれている。

14)最上の境地を見ないで百年生きるよりは、最上の境地を見て一日生きるほうがすぐれている。

21)たとい百年のあいだ毎日千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、仏を信ずる(功徳)の16分の1にも及ばない。

22)たとい百年のあいだ毎日千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、ダルマ(法、真理)を信ずる(功徳)の16分の1にも及ばない。

29)たとい百年のあいだ毎日千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、真理をよく説いた人(の功徳)の16分の1にも及ばない。

30)功徳を得ようとして、ひとがこの世で1年間神をまつり犠牲(いけにえ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)4分の1にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。

■第25章 友

1)明らかな知慧のある人が友達としてつき合ってならないのは、信仰心なく、ものおしみして、二枚舌をつかい、他人の破滅を喜ぶ人々である。悪人たちと交わるのは悪いことである。

2)明らかな知慧のある人が友達としてつき合うべき人々は、信仰心があり、気持のよい、素行のよい、学識ゆたかな人々である。けだし立派な人々と交わるのは善いことである。

3)悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交れ。

5)劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。

6)知慧についても、徳行についても、心の静まりについても、最上のすぐれた人々に近づき仕える人は、つねにすぐれた境地に達する。

10)つき合っている悪人は、悪に触れられているが、また他人に触れて、悪をうつすであろう。毒を塗られた矢は、箭筒(やづつ)の束のなかにある、毒を塗られていない矢をも汚す。悪に汚れることを恐れて、思慮ある人は、悪人を友とするな。

11)どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。

12)それ故に、賢者は、自分は、果物籠が(中にいれる果物に)影響されるようなものであるいうことわりを見て、悪人と交わるな。善人と交われ。

13)愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることが無い。――匙が汁の味を知ることができないように。

14)聡明な人は、瞬時(またたき)のあいだ賢者たちに仕えても、ただちに真理をはっきりと知る。――舌が汁の味をはっきりと知るように。

15)愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることが無い。かれには明らかな知慧がないからである。

16)聡明な人は、瞬時(またたき)のあいだ賢者たちに仕えても、ただちに真理をはっきりと知る。かれには明らかな知慧が存するからである。

17)愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、正しくさとりを開いた人(=仏)の説かれた真理をはっきりと知ることがない。

18)聡明な人は、瞬時(またたき)のあいだ賢者たちに仕えても、正しくさとりを開いた人(=仏)の説かれた真理をはっきりと知る。

20)愚者は、千の句をとなえても、1の句さえも理解しない。聡明な人は。1つの句をとなえても、百の句の意義を理解する。

24)愚かな者を見るな。そのことばを聞くな。またかれとともに住むな。愚人らとともに住むのは、全くつらいことである。仇敵とともに住むようなものだからである。思慮ある人々と共に住むのは楽しい。――親族と出会うようなものである。

25)よく気をつけていて、明らかな知慧あり、徳行をたもち、学ぶところ多く、しっかりしていて、敏捷な人に親しめよ。――諸の星が月にしたがうように。

■第26章 安 ら ぎ(ニ ル ヴ ァ ー ナ)

2)忍耐、堪忍は最上の苦行である。安らぎ(ニルヴァーナ)は最高のものであると、諸のブッダは説きたまう。他人を害する人は、他人を悩ますのだから、しゅっけした〈道の人〉ではない。

3)だれに対しても荒々しいことばを言うな。言われた人々はその人に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が(その人の)身に迫る。

4)こわれた鐘のように、汝がいつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)ならば、汝は生まれては死ぬ流転の迷いをながく受けるであろう。

5)しかし、こわれた鐘が音を出さないように、汝が自分を動揺させ(煩悩をおこす)ことが無いならば、汝はすでに安らぎ(ニルヴァーナ)に達している。汝はもはや怒り罵ることがない。

6)健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の友であり、安らぎ(ニルヴァーナ)は最上の楽しみである。

7)飢は最大の病であり、形成された存在(=わが身)は苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、安らぎ(ニルヴァーナ)に専念するものとなるであろう。

8)善い領域(=天)におもむく人々は少ない。悪い領域(=地獄など)におもむく人々は多い。このことわりをあるがままに知ったならば、安らぎ(ニルヴァーナ)に専念するものとなるであろう。

9)ひとびとは因縁があって善い領域(=天)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(=地獄など)におもむくのである。人びとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。このように、このことは因縁にもとづいているのである。

10)鹿の帰るところは原野の奥であり、鳥の帰るところは虚空であり、分別ある人々の帰するところはことわり(=義)であり、もろもろの真人の帰するところは安らぎ(ニルヴァーナ)である。

11)気力無くなまけている人も、遅鈍な人も、はっきりと知ることの無い人も、あらゆる絆を破りくだく安らぎ(ニルヴァーナ)に達することはできない。

13)(注1)前にはあったが、そのときには無かった。前には無かったが、そのときはあった。前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。

14)不動の真理は見難い。見易いものの真相を洞察して、妄執の消滅を見る人にとっては、苦しみが終滅すると説かれる。

15)この世で妄執を断ち切って、静かならしめ、すべての塵汚れをおさめて、河の水を乾かしてしまったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

16)(注2)身体を壊(やぶ)り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。

17)見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

18)⑴苦しみと⑵苦しみの原因と⑶苦しみの止滅と⑷それに至る道とをさとった人は、一切の悪から離脱する。それが苦しみの終滅であると説かれる。

20)何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。行くこともなく、没することもない。それが苦しみが終滅であると説かれる。

21)不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

22)生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、――それは喜ぶに足りない。

23)それは出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

24)そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。

25)来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。――それが苦しみの終滅であると説かれる。

26)水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

27)そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

28)さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

29)これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。

30)(自分に)ひとしい、あるいはひとしくない生れ、生存をつくり出す諸の形成力を聖者は捨て去った。内的に瞑想を楽しみ、心を安定統一して、(自分の)覆いを破ってしまった。――卵の幕を破るように。

31)教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えを味わう楽しみはすべての楽しみにまさり、忍耐の力はすべての力にまさり、妄執をすべてほろぼすことは(すべての)快楽にうち勝つ。

注1)これは古い詩であり、聖典自体のなかでいろいろに解釈されている。『テーラーガーター』180によって、かっては生存の貪りがあったが、今は無い云々という意味であり、『ウダーナ』6・3ではいろいろの悪について言うのであると解していたようであり、『出曜経』によると、我が有るとか、無いとかいう外道の論議についていうと解している。

注2)ここでは五蘊のうちの色・受・想・識に言及しているが、行に言及していないから、五蘊の説の確立する以前の段階の思想を示している。

■第27章 観 察

1)他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかしこの人も自分の過失は隠してしまう。――狡猾な賭博師が不利な骰子(さい)の目をかくしてしまうように。

2)他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは実に真理を見ることから遠く隔っている。

3)恥を知らず、鳥の首魁のようにがやがや叫び、厚かましく、図々しい人は、生活し易い。この世では、心が汚れたまま生きて行く。

4)恥を知り、常に清きをもとめ、よく仕事に専念していて、つつしみ深く、真理を見て、清く暮す人は、生活し難い。

5)この世は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は稀である。網から脱れた鳥のように、天に至って楽しむ人は少ない。

6)この世は虚妄の束縛を受けていて、未来に変化する可能性のあるもののごとく見られる。愚者らは煩悩に束縛されていて、暗黒に覆われている。(かれらには)無が有であるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。

7)人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。このことわりを或る人々は知らない。実にかれらはそれを(身に刺さった)矢であるあるとは見なさない。

8)ところがこれを、人々が執著しこだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。

9)この世の中の人々は慢心をもっていて、つねに慢心にへばりつかれている。悪い見解にとりつかれていては、努力しても生死流転を超えることはできない。

10)すでに得たものと、これから得られるはずのものと――この2つは塵ほこりであり、病いであると知って、心を安定統一した智者は、それを捨てよ。

15)世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

16)世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。身体をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

19)つねにこの身体を見よ。王車の車のように美麗である。愚者たちはそこに迷うが、賢者はそれに対する執著をはなれる。

20)見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体という名のものであって、病いに悩み、虚妄の意欲ばかりで、堅固に安住することがない。

21)見よ、あのように宝石や腕輪で粉飾された形体を!それは愚人を迷わすには足るが、彼岸を求める人々を迷わすことはできない。

22)見よ、あのように宝石や腕輪で粉飾された形体を!(それは愚人を迷わすには足るが、賢者はそれに対する執著を離れる。

27)諸の欲望に執著し、つねに迷っている者どもは、束縛のうちに過ちを見ることが無い。束縛の執著にとらわれている者どもは、広くひろがった大きな流れを、決して渡ることがないであろう。

28)上にも下にも全く情欲を離れた人は、「われはこれである」と観ずることが無いので、このように解脱して、未だ渡ったことのない流れを、この世で渡り、再び(迷いのうちに)生れることがないであろう。

29)愛欲の園からも離れ、愛欲の林から脱している人々からも離れているのに、また愛欲の林に向って走る。――この人を見よ!束縛から脱しているのに、また束縛に向って走るのである。

31)多くの人々は恐怖にかられて山々、林、園、樹木、霊樹などをたよろうとする。

32)しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころよっては、あらゆる苦悩から免れることはできない。

33)さとれる者(=仏陀)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、明らかな知慧をもって、4つの尊い真理を見るときに、――

34)すなわち⑴苦しみと、⑵苦しみの成り立ちと、⑶苦しみの超克と、⑷苦しみの終滅(おわり)におもむく8つの部分よりなる尊い道(八聖道)とを(見るときに)、

35)これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよって、あらゆる苦悩から免れる。

36)見る人は、(他の)見る人々を見、また(他の)見ない人々をも見る。(しかし)見ない人は、(他の)見る人々をも、また見ない人々をも見ない。

37)すがたを見ることは、すがたをさらに吟味して見ることとは異なっている。ここに両者の異なっていることが説かれる。昼が夜と異なっているようなものである。両者が合することは有り得ない。

38)もしもすがたをさらに吟味して見るのであるならば、単にすがたを見るということは無い。またもしも単にすがたを見るのであるならば、すがたをさらに吟味して見るということは無い。ここの人は、単にすがたを見るだけであって、すがたをらに吟味して見るということが無い。しかしすがたをさらに吟味して見る人は、つねにすがたを見るということがない。

39)単にすがたを見る人は、どうしてすがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?すがたを見ない人がつねにすがたをさらに吟味して見ることが無いのは、どうしてであろうか?何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか?何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

40)ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。

41)(無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。

■第28章 悪

1)すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、――これが仏の教えである。

2)わかち与える人には功徳が増大する。みずからを制するならば、ひとが怨みをいだくことは無い。善い人は悪を捨てる。情欲と怒りと迷妄とを捨てるが故に、煩悩の覆いをのがれる。

4)世間のうちにある思いを見て、汚れの無いことわりを知って、聖者は悪を楽しまない。悪人は淨らかなことを楽しまない。

5)孤独(ひとり)の味、心の安らいの味をあじわったならば、熱のような悩みも無く、罪過(つみとが)も無くなる、――真理の喜びの味をあじわいながら。

9)汚れの無い人、つねに清くして咎のない人、を汚す者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に戻って来る。風にさからって細い塵を投げると、(その人にもどって来る)ようなものである。

10)人が何をしようとも、その報いが自分に起るのを見る。善いことを行なった人は良い報いを見、悪いことを行なった人は悪い報いを見る。

11)みずから悪をなすならば、つねに自分が汚れる。みずから悪をなさないならば、自分が浄まる。

12)人は他人を淨めることができない、――もしもその他人が内的に心のはたらきが浄らかでないならば。金剛石が宝石を磨くように悪人を錬磨すること〔はできない。〕

15)もし掌(てのひら)に傷が無いならば、その人は掌で毒をもっていることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。

16)善からぬこと、己れのためにならぬことはなし易い。ためになることで、しかも健全なことは、実に極めてなし難い。

17)善人は善をなし易い。悪人は善をなし難い。惡人は悪をなし易い。聖者は惡をなし難い。

18)愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける。

19)まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇うのである。

20)まだ善の果報が熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇うこのである。

21)人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

22)人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

23)善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

26-29)手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速かに陥るであろう、――⑴親族の滅亡(ほろび)、⑵財産の消滅、⑶国王からの侵略、⑷恐ろしい告げ口、⑤激しい痛み、⑹身体の傷害、⑺重い病い、また⑻乱心、また⑼その人の家を火がすっかり焼いてしまう、⑽第十として、聡明な知力がなくなって(老いぼれて)、身やぶれてのちに、悪いところ(=地獄)に生れる。

30)悪いことをしたときには気をゆるすな。その悪いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、気をゆるすな。秘密のうちにしたことであっても、気をゆるすな。それの報いがあるのだから、気をゆるすな。

31)この世で善いことをしたとならば、安心しておれ。その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、安心するがよい。人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。それの果報があるのだから、安心しておれ。

32)悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。それの報いがあるのだから、ひとは憂える。

33)膳いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。それの果報があるのだから、ひとは喜ぶ。

39)また悪いことをして、善いことをしないならば、悪い行ないをした人は、禍のもとを身に受けて、福徳を捨てて、この世で死を恐れる。――大水のさ中に難破した舟に乗っている人のように。

40)善いことをして、悪いことをしないならば、善い人々が福徳のもとを昔行なったのであっても、決して死を恐れない。――堅固な舟で河を渡る人々のように。

■第29章 ひ と 組 み ず つ

1)太陽が昇らないあいだは蛍が輝いている。しかし太陽が昇ると、にわかに暗黒色となり、輝かない。

2)そのように、如来が世に現われ出ないあいだは、(仏教外の)思索者たちが照らしていた。しかし世の中が仏によって照されると、思索者は輝かないし、その人の弟子も輝かない。

3)まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

4)まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことではないと知る人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。

5)(経験するものを)実質のある物だと思って、走り近づいて行くが、ただそのたびごとに新しい束縛を身に受けるだけである。暗黒のなかから出て来た蛾が(火の中に)落ちるようなものである。かれらは、見たり聞いたりしたことに心が執著しているのである。

6)思念して熱心に清らかな修行を行なっている人々は、ここで(自分が)いだき、あるいは別々の人がいだき、この世でいだかれ、またかの世についていだかれる一切の疑いをすべて捨ててしまう。

10)欺いて、吝嗇(けち)で、偽る人は、ただ名前とかたちだけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

11)端麗な容貌によっても、動作を見ることによっても、いかなる人(の心)も知り得ない。この世ではよく身を慎んでいる人のように見せかけて、(その実は)慎みの無い人々が、この世を闊歩している。

24)(「盲愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)2人の武家の王と(戒律と邪まな見解という)2人の博学なパラモンとをほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて12の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなくしておもむく。

33)人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸に沿ってさまよっているだけである。

41)悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後に悔いる。悪いことをしたならば、(のちに)憂える。悪いところ(=地獄)に行って憂える。

42)善いことをするほうがよい。なして、後に悔いがない。善いことをしたならば(のちに)喜ぶ。善いところ(天上)に行って喜ぶ。

51)妄想して考え出された現象界もなく、個人存在の連続もなく、障害もなくなって、はたらきのなくなった人、愛執を離れて行じている聖者を、神々も世人も、それだと識ることがない。

57)前でも捨てよ。後でも捨てよ。中間でも棄てよ。生存の彼岸に達した人はあらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。

■第30章 楽 し み

2)他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわられて、苦しみから脱れることができない。

5)よい果報を生ずるもととして善い行ないを実行せよ。報いを生ずるもととして悪い行ないを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

6)道理を実践する人を、つねに道理が守る。大雨が降るときに傘が守ってくれるようなものである。道理をよく実践すると、このすぐれた利益がある。道理を実践する人は悪いところ(=地獄)におもむかない。

7)道理を実践する人を、つねに道理が守る。道理をよく実践すると、幸せを受ける。道理をよく実践すると、このすぐれた利益がある。道理を実践する人は悪いところ(=地獄)におもむかない。

10)執著する心がなくて施し与える人は、幾百の障害にうち勝って、敵である物惜しみを圧倒して、勇士よりもさらに勇士であると、われは語る。

11)福徳の果報が熟するのは楽しい。希望することが成就する。そうしてその人は速やかに最高のやすらぎ、覆いの解きほぐされた(解脱の)状態におもむく。

19)世にあって、情欲を離れ、諸の欲望を超えているのは、楽しい。「おれがいるのだ」という慢心をおさえよ。これこそ最上の安楽である。

25)諸の聖者に会うのは楽しい。かれらと共に住むのも、つねに楽しい。愚かな者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。

26)愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つらいことである。――まるで仇敵とともに住むように。心ある人々と共に住むのは楽しい。――親族と共に住むように。

32)重い荷物を捨てたあとには、荷物をさらに引き受けるな。荷物を引き受けることは最上の苦しみである。荷物を投げすてることは楽しい。

38)この世で教えをよく説き、多く学んで、何物ももたない人は、楽しい。見よ!人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。

42)他人に従属することはすべて苦しみである。自分が思うがままになし得る主であることはすべて楽しみである。他人と共通のものがあれば、悩まされる。束縛は超え難いものだからである。

43)貪る人々のあいだにあって、われらは貪らないでいとも楽しく生きて行こう。貪っている人々のあいだにあって、われらは貪らないで暮そう。

52)立派な人々は、いかなるところにあっても、快楽のゆえにしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、立派な人々は動ずる色がない。

■第31章 心

1)こころは、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

6)汝は、幾多の生涯にわたって、生死の流れをくりかえし経めぐって来た、――家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。あの生涯、この生涯とくりかえすのは、苦しいことである。

7)家屋の作者(つくりて)よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、汝はこの世で滅びてしまった。

23)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心のように疾く動く。もしも汚れた心で話したり行動したりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく牛の足跡に車輪がついて行くようなものである。

24)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心のように疾く動く。もしも清らかな心で話したり行動したりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだにつき従って離れないようなものである。

32)起つべき時に気力がなく、ことばでは力んだことを言うのに怠りなまけていて、希望もなく、つねに意欲が害われ、怠惰でものうい人は、知慧の道をつねに知らない。

33)心を揺れさせるために現われ出たこれらの粗大な思考および微細な思考を絶えまなく思いつつ、心の乱れた人はつねに走る。

35)この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城のように安立させて、明らかな知慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。しかもそれに執著するな。

49)心が岩山のように確立していて動揺しないで、心が染まり執著するはずのものから離れ、怒りをさそうものについても怒らず、このように心を修練した人に、どこから苦しみが来るのだろうか?

50)罵らず、害わず、戒律に関してつつしみ、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。――これが仏の教えである。

58)心を制することは楽しい。汝らは心を守れ。怠るな。心がよく守られているならば、或る生けるものどもは人間のあいだにあって喜ぶ。

59)心を制することは楽しい。汝らは心を守れ。怠るな。心がよく守られているならば、或る生けるものどもは天上にあって喜ぶ。

58)心を制することは楽しい。汝らは心を守れ。怠るな。心がよく守られているならば、或る生けるものどもは、やすらぎ(ニルヴァーナ)に達する。

■第32章 修 行 僧

17)財を蓄積することなく、わがものという思いが存在せず、また(何ものかが)ないからといって憂えることのない人、――かれこそ「修行僧」(托鉢僧)とよばれる。

25)明らかな知慧の無い人には、禅定が無い。禅定を修行しない人には、明らかな知慧が無い。禅定と知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

26)それ故に賢者は禅定と知慧とにつとめはげめ。これは、そのように明らかな知慧ある修行僧の初めのつとめである。

27)満足し、感官に気をくばり、戒律をつつしみ行ない、食事について節度を知り、人々を離れたところで臥し坐し、心について専念する、――この人は〈修行僧〉とよばれる。

33)この世は熱のような苦しみが生じている。個体を構成する(5つの)要素(=五蘊)はアートマンではない、と考える。ひとは「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。それと異なったものになることは、あり得ない。

■第33章 バ ラ モ ン

7)螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのではない。生れによってバラモンなのではない、と伝えられている。大きかろうとも小さかろうとも悪をすべて除いた人は、諸の悪を除いたのであるから、〈バラモン〉と呼ばれる。

30)蓮葉(はちすば)の上の露のように、錐の先の芥子のように、諸の欲情に汚されない人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

31A)曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、諸の欲情に汚れていない人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

37)虚空が泥に汚されることが無く、また月が塵に汚されることが無いように、諸の欲望に汚されることの無い人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

50)牡牛のごとく雄々しく、気高く、竜・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

61)(「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)2人の博学なバラモンとを滅ぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて12の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とを滅ぼして、バラモンは汚れなくしておもむく。

62)(「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)2人の博学なバラモンとを滅ぼし、第5には(「疑い」という)虎をほろぼして、人は〈浄められた〉と言われる。

(2012年10月28日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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