岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

テキストデータ 個展DM、カタログ、小冊子類 著書、作品集、図録 過去の作品

個展DM、カタログ、小冊子類

投稿日:2020-11-26 更新日:

2024年

■7月 ミーツギャラリー(銀座)第8回『イーゼル画会』展

 

2023年

■6月 ギャラリー絵夢(新宿)第7回『イーゼル画会』展

■4月 今井美術館(島根県江津市)

 

 

■2月 元麻布ギャラリー平塚(平塚)

2020年

2022年

■7月 第6回イーゼル画会展(元麻布ギャラリー平塚)

2020年

■1月 第5回イーゼル画会展(藤屋画廊)

■7月 銀座 藤屋画廊個展

20200131プレスリリース岡野岬石 2020年藤屋画廊個展プレゼン-2

2019年

■2月 第4回イーゼル画会展(藤屋画廊)

■玉野百景展ー岡野岬石(浩二)玉野の海と山を描くー

2018年

■2018年1月 藤屋画廊個展

■2018年9月 第3回イーゼル画会展

■2018年11月

11月10日 自著『全元論』を静人舎より出版

2017年

■2017年9月 第2回イーゼル画会展(藤屋画廊)

■2017年9月 第2回イーゼル画会展(ギャラリー仁家)

2016年

■2016年6月 藤屋画廊(銀座)にて個展

■2016年9月 第1回イーゼル画会展(藤屋画廊、ギャラリー仁家)

 

■2016年11月3日〜11月27日、島根県【今井美術館】『岡野岬石(浩二)展』T・Sコレクション

 

2015年

■2015年3月 藤屋画廊(銀座)にて個展

■2015年9月 藤屋画廊(銀座)にて第10回『視惟展』(最終回)

2014年

■2014年11月 藤屋画廊(銀座)にて個展

■2014年9、11月 藤屋画廊、ギャラリー 仁家、アトリエ グリュ にて第9回『視惟展』

2013年

■2013年7月 ギャラリー絵夢(新宿)にて個展

■2013年9月 藤屋画廊(銀座)にて第8回『視惟展』

2012年

■2012年1月 ギャラリー絵夢(新宿)にて個展

■2012年11月 藤屋画廊(銀座)にて個展

■2012年9月 第7回『視惟展』藤屋画廊(銀座)

 

■ 掲載誌

2011年

■2011年1月 ギャラリー絵夢(新宿)にて「ワシオ・トシヒコ&岡野浩二『2010 月刊ギャラリー連載詩画』展」

■2011年月 第6回『視惟展』ギャラリー 仁家(大倉山)

『ワシオ・トシヒコの起詩回生』全掲載頁

月刊ギャラリー広告 2011-7月 『美術の窓』

■2011年8、9月 第6回『視惟展

2010年

 

■2010年7月 ギャラリー仁家(大倉山) 個展

■2010年9月 第5回『視惟展』

■2010年11月 藤屋画廊(銀座) 個展

2009年

■2009年4月 『芸術の哲学』出版

■2009年6月 藤屋画廊(銀座)にて『芸術の哲学』出版記念展

■2009年9月5日 千葉日報『芸術書簡』開始

この連載は、2009年9月5日から2010年1月9日まで読者との往復書簡形式で5回、計10回千葉日報紙上に掲載されました。

■2009年7月 Atrie グリュ(柏)にて個展

■2009年9,10月 第4回『視惟展』藤屋画廊、ギャラリー仁家、アトリエ グリュ

2008年

■2008年4月 Atrie グリュ(柏)にて個展

■2008年4月 千葉そごう にて個展

■2008年9月 第3回『視惟展』藤屋画廊(銀座)

■2008年9月 第4回3人展(大庭英治、岡野浩二、山内滋夫)Gallery Togeisya

■2008年11月 藤屋画廊(銀座)にて個展

2007年

■2007年6月 ギャルリ・プス 個展

■2007年6月18日 千葉日報

■2007年6月 ギャラリー仁家 個展

■2007年10月、ギャラリー La Mer 個展

■2007年10月 純画廊にて個展

■2007年11月 広島天満屋にて個展

■2007年10月 第2回『視惟展』藤屋画廊(銀座)

2006年

■2006年4月 ギャラリー仁家にて個展

■2006年4月 福岡三越にて個展

■2006年8月 上野松坂屋にて個展

■2006年9月 Gallery Togeisya にて3人展

 

■2006年10月 藤屋画廊(銀座)にて個展

■2006年10月 第1回『視惟展』藤屋画廊(銀座)

2005年

■2005年1月 新世紀の顔・貌・KAO 展出品

■2005年1月 井上画廊企画展出品

■2005年2月 小田急町田にて個展

■2005年4月 千葉そごうにて個展

■2005年4月 元麻布ギャラリーTOYAMA (富山駅前東横インJr.)にて個展

■2005年9月 3人展 Gallery Togeisya

■2005年12月 『芸術の杣径』 出版

2004年

■2004年3月 そごう千葉店 にて個展

■2004年7月 『岡野浩二作品集』 出版​

■2004年8月 アートーギャラリー樹 にて「画集出版記念(Ⅰ)」個展

■2004年11月 藤屋画廊(銀座)にて「画集出版記念(Ⅱ)」個展

2003年

■2003年1月 井上画廊にてグループ展出品

■2003年6月 アートーギャラリー樹 にて個展 

■2003年8月、小田急新宿店6階=美術画廊にて個展

2002年

■2002年4月 GALLERY 美術世界(銀座)

■2002年8月、フォーラム・アート・ショップ個展

■2002年10月 藤屋画廊(銀座)にて個展

2000年

■2000年5月 大丸(福岡天神)店 個展

■2000年6月 そごう(横浜)店 個展

■2000年10月 東武(池袋)店 個展

■2000年、ハイ・ブリッジ ギャラリー 個展

■2000年 たけうち画廊(新潟) 個展

1999年

■1999年3月 アートギャラリーオオハシ・「流砂の遠近法」カット原画展

■1999年3月 たけうち画廊(新潟) 個展

■1999年5月 博多大丸個展

■1999年10月 藤屋画廊(銀座)にて個展

1998年

■1998年1月  川崎西武個展

■1998年10月 アートギャラリーオオハシ個展

1997年

■1997年3月 そごう千葉店 個展

■1997年4月 たけうち画廊(新潟) 個展

■1997年8月 岡山天満屋個展

■1997年9月 そごう(川口店) 個展

1996年

■1996年5月、西武アート・フォーラム(西武池袋店6階)個展

■1996年6月、心斎橋大丸個展

1996年

5月、西武池袋アート・フォーラムにて個展。個展のサブタイトルは「脱現実化的実在化」。目(視覚)の超越的な美への志向と、人生上の実存主義が齟齬をおこしてこんな難解な言葉を使わざるをえなかった。(岡野岬石画歴より)

1995年

■1995年7月  たけうち画廊(新潟)個展

1994年

■1994年3月  天満屋(広島店) 個展

■1994年4月  高島屋(岡山店) 個展

1993年

■1993年6月 資生堂画廊 個展

■1993年7月〜1999年11月『流砂の遠近法』カット(全)

■1993年12月  たけうち画廊(新潟)個展

 1993年

6月、資生堂ギャラリー(銀座)にて個展。『Horizon』シリーズの100号13点を展示。画面は抽象的だが作者としてはまだ具象を描いているつもり。7月から読売新聞の夕刊紙上で毎月一回日野啓三氏(1929-2002)のエッセイ『流砂の遠近法』のカットを描く。1999年11月まで続いたこの仕事は、楽しくまた重要な仕事だった。研究と発表を同時にできる事で、つまり、発表をひかえた研究なのでモチベーションが増し、いっきに探究が進んだ。12月から翌年1月まで、たけうち画廊で個展。作品の題名は『Dimension』で紙にアクリル絵具。(岡野岬石画歴より)

1992年

■1992年7月  第7回『象の会』展 西武(池袋店)

1991年

■1991年 たけうち画廊(新潟)個展

■1991年3月 まるしん(徳島)【現代リアルズム絵画展】

■1991年 (新宿)京王版画サロン

1990年

■1990年1月 そごう(柏店) 個展

■1990年6月  宇都宮 東武『現代リアリズム絵画展』

■1990年7月  第5回『象の会』展 西武(池袋店)

■1990年10月  オンワード ギャラリー個展

■1990年10月  大丸(東京)個展

『画中日記』2018.03.23【1990年】

1990年:10月、オンワードギャラリー日本橋にて個展。線の使い方にいいアイデアを思い付いて、ピカソ、マチスの影響から抜け出せる自信が湧く。

2010年(64歳)からのイーゼル画の体験まで、自分の生き方は実存主義、絵画は自分の力で眼前のモチーフを造形するのだと間違って認識していたので、この頃の私に、現在の私が会えば、「お若いの、君は頑張っているが、世界の認識が違っているよ」と注意するだろう。しかし、その正しい意見も、その頃の私は「ウルセー、すべて自己責任でやっているのだから、オレの行く道を指図するな」と言い返すだろう。実存主義の世界観そのものが間違っているので、「真・善・美」の軌持を理解するまで、老人の私は、肩をすぼめて両掌を前に広げ「セ・ラ・ヴィ(それも人生だ)」で、それでオシマイ。

1989年

■1989年7月  第4回『象の会』展 西武(池袋店)

1988

■1988年4月  郡山西武 個展

■1988年11月  杏美画廊 個展

『画中日記』2021.12.18【1988年】

 杏美画廊の展覧会冊子では、裸婦の居る室内風景だが、これらのタブローを描く準備に、柏の画材屋のヌード教室に毎週通い、パースペクティブを自在に使いこなすトレーニングに励んだ。同時に、椅子や観葉植物を購入して、その教室で出会ったモデルも、モデル紹介所経由でアトリエにきてもらった。何冊も描き充たしたクロッキーブックも、そのうちデータをデジカメで撮って、資料蔵にアップしようとおもう。

こうやって作品と共に、過去の自分を振り返ると、金も、時間も、自分の人生も、惜しみなく絵画につぎ込んできた自分に満足している。若い時のドヤ顔は嫌味だが、老人の自慢は、めくじら立てずにお許しを。

1987

■1987年2月  岡山天満屋個展

■1987年6月  小田急(新宿)個展

■1987年6月  横浜そごう個展

■1987年7月  新潟伊勢丹 個展

 

■1987年8月  大丸(東京)個展

■1987年9月  仙台SEIYO 個展

■1987年 掲載誌など

■アートトップ原稿

【絵画空間に対する認識】

絵画は外界を2次元の平面に創り変える作業です。そこで大事なことは、絵画空間をどう設定(現在;認識)するかということです。何を描くかとではなく、どのように認識するか。文学における文体と同じく独自の絵画空間が必要とされます。どのようにも描けるけれども、私はこう描く、こう描きたい、それが画家の核です。言いかえれば絵画空間そのものが作家であるということです。

本来絵画は、手の部分、技術の変化ではなく、世界を、絵画を、どう認識するかというイズムの興亡によって進展してきました。

私には印象派以降、モネ、セザンヌ、マチスという流れが、近代絵画史の本流であり、もっとも重要な部分だと思われます。

歴史は、ある方向性を持っています。その中で生きている画家は以前の時代よりも少しでもその方向性の先に行こうと努力します。フェルメールとセザンヌの違いは、それぞれの個性の違いではないし、ましてや見る側の好みの問題ではないのです。17世紀と19世紀の絵画空間に対する認識の違い、イズムとイズムの違いなのです。

美術史は、伝達や用途の手段から純粋芸術として伸長してきました。眼の自立、視覚の独立です。

作家の努力の方向は、歴史をどう認識するかにかかっています。胃の病気でさえ、今では内科だけでなく神経科の問題だったりする。古い認識は新しい、よりすぐれた認識にとって変わられます。

古代から現代までの作品が展示されるわけですが、単に個々の作品を鑑賞するにとどまらず、イズムの流れととしてみるといい。古代のミュロンのようには現代のムーアは創らない。その世界認識の違いを思いえがきながら、個々の作品を見ると、より一層理解が深まると思います。

(アート・トップ No.98 昭和62年4月1日発売)

1986

■1986年2月  千葉三越個展

■1986年5月  杏美画廊個展

■1986年5月  神戸三ノ宮

■1986年5月  アートグラフ

■1986年8月  大丸(東京)個展

■1986年10月  創ギャラリー個展

■1986年10月  三彩

■1986年11月  読売新聞カット

■1986年12月  アートグラフ 鈴木実 対談シリーズ③岡野浩二

1985

■1985年4月  杏美画廊個展

■1985年4月  梅田大丸個展

 

■1985年9月  京王(新宿)個展

 

1984年

■1984年3月  第4回 赫陽展(資生堂ギャラリー)

■1984年5月  銀座野村画廊個展

■1984年6月  渋谷西武 個展

■1984年10月 京王新宿店 個展

掲載誌

■1984年9月 ART-VIEE

■1984年11月 美術手帖、アートトップ

■ 『岡野浩二 ワークス ドキュメント』刊行

『画中日記』2018.03.04【1984年】

1984年:3月、第四回赫陽展に『横たわる女』(100F)を出品。ピカソとマチスの絵の研究により、やっと行き先に光明を見い出す。5月、銀座・野村画廊にて個展。6月、渋谷・西武美術画廊にて個展。2冊目の作品集『岡野浩二WORKS DOCUMENT(1)1974~1984』を刊行。(岡野岬石画歴より)

1982年から、フォービズムの描画方法で絵を描いていたのだが、この方法では何枚描いても一タッチごとの描写の真偽が判定できない。絵画の方法論はイーゼル絵画をやり始めた、2010年5月(64歳)まで変転が続いた。しかし、その当時の私の世界観そのものが、実存主義だったので絵画や人生の変転は当然だと思っていたので、自分は間違っていない、と自信満々である。キャンバスの前では真摯に取り組んでいるが、人生上の行為や他者への態度は、ふり返ると恥ずかしい。

フェイスブックへの、1984年製作の作品資料は別途の枠で投稿します。それと、子供の時に見付けた方法論(『芸術の杣径』方法論(二))も別枠で投稿します。

 

1983年

■1983年1月  徳島まるしん『現代洋画精鋭作家展』

■1983年1月  アートグラフ誌掲載予告

 

■1983年4月  上野松坂屋 個展

■ 1983年8月 杏美画廊 開廊記念展

■1983年12月  船橋西武 個展

■新宿京王  八尾西武 個展

新宿京王百貨店美術画廊

八尾西武百貨店美術画廊
『画中日記』2018.03.04【1983年】

1983年:8月、杏美画廊(新宿)にて個展。開廊記念展。以後1988年まで毎年個展。このころの絵は、フォービックで偶然性が強く、悩み多き時期だった。柏市塚崎にアトリエを建てる。

1月、(沼津)西武美術画廊・3月、(広島)天満屋美術画廊・4月(上野)松坂屋美術画廊・6月、(豊橋)西武美術画廊・7月、(新潟)三越ギャラリー・現代日本の美術②〈風景との出会い展〉宮城県立美術館に「風景」M100号を出品・8月、(札幌)今井美術ギャラリー・9月、(八尾)西武ギャラリー・10月、(新宿)京王美術画廊・12月、(船橋)西武美術画廊にて個展。(岡野岬石画歴より)

作画の方向を変え、これだけの展覧会をこなし、この年アトリエを建て、私の周辺の状況は、人も環境もあわただしく動き変化してゆく。周りの人には、あっけにとられ、S画廊のIさんには説教もされた。もちろん自分の考えはキッチリと反論したけれども、なにしろ、キャンバスを前にして自分の進むべき方向に、一歩でも押し進めることが切実な課題で、絵を描いていればなんの不満もない。

この頃の私の行動は、周りから見れば、文字どうり「傍若無人」に見えたろうなあ。でも、まだ私の世界観がまだ実存主義だったので、仕方がないのです。

1982年

■1982年4月  月刊美術画廊 個展

■1982年4月  岡野浩二作品集 1964〜1981 刊行


 

■1982年5月  京王(新宿店)美術画廊 個展

■1982年10月  ギャラリー都留満喜 個展

■1982年11月 西武(渋谷店)美術画廊 個展

 

『画中日記』2018.03.03【1982年】

1982年:4月、月刊美術画廊(銀座)で個展。それに合わせて最初の作品集『岡野浩二作品集1964~1981』を刊行。月刊美術画廊は以前画材屋の月光荘があったビルの一階から三階まで各フロアーを貸していて、それを全階借りて100号の風景画20数点を展示した。今までのベクトルの仕事の総括のつもりだった。マチス展から一年、画集作りと大作の制作に掛かりっきりだった。そうやって今までの暖めていたアイデアを出し尽くして、その後、心置きなく新たな方向で挑戦をしようという計画だ。(岡野岬石画歴より)

フェイスブックにアップした作品は、個展後に製作したもので、正しい方法論がまだ見つかっていない状態で歩み出す。後年、抽象印象主義(私の造語)の概念が固まるまでの糸口を見付かるまでは、あちこちやみくもに、過去の画家達の歩んで来た踏み跡を研究した。そのころ好きでよく聴いていた、モダンジャズの演奏方法を手掛りにして、まずはフォービズムで歩み始めた。それまで描いていた作品も、画商からオファーがあれば描き続けた。

芸術で生きることは素晴らしいね。絵を描いていられればなんのストレスもない。

1981年

■1981年3月  銀座野村画廊個展

■1981年8月2日 朝日新聞日曜版

■1981年11月  『三思会』ワールドアートサロン

週刊ポスト2月6日号掲載ページ

朝日ジャーナル1981年4月24日号表紙

■ 月刊美術

『画中日記』2018.03.02【1981年】

1981年:4月、国立近代美術館にてマチス展を観る。自分の絵のベクトルとモネやマチスの絵のベクトルの違いに気付く。第24回安井賞展に前年赫陽展で展示した「風景(M100号)」を出品、その年に安井賞を取った有元氏と賞を争う。千葉県柏市に転居。(岡野岬石の画歴より)

前年、同じ岬の風景を描いているモネと、自分の絵の違いを見にブリジストン美術館に行った。実物の絵の前で、印象派の画の為していること、為そうとしていることを、私の眼が追体験する。その絵を描いた画家の眼と、鑑賞者としての自分の、眼が共鳴するのだ。この年の4月のマチス展の絵の前で、同じ現象が私の眼に起きた。

〈この眼の中の現象は、今自分が描いている絵の方向と、脈絡が違う。この先、一生かけてどんなに努力しても、自分の今の絵のベクトルとは方向が違っているので行き着かない〉

この年から、翌年にかけて、大きな分岐と、まだ何の目算も結果も見えない方向に舵をきった。その前に、今まで作品化していないアイデアを全て出し切ろうと思う。

 

1980

■1980年2月 松坂屋(名古屋本店)個展

1980年名古屋松坂屋個展図録全頁

■1980年10月 第3回赫陽展(資生堂画廊)

『画中日記』2018.03.01【1980年】

1980年:2月名古屋・松坂屋で個展、10月第三回赫陽展。(岡野岬石画歴より)

武蔵野風景に始まり、北海道風景、沖縄風景、岬と海の風景、田園風景と、転居、旅行する度に、新しく出会うモチーフの描写にチャレンジし、そうやってできた絵の個展は成功する。72歳になった今になって思えば、道元の言う「修証一等」でそれで正しい行為なのだが、その当時は、自分の絵を証(悟り)の世界に至る前の修行の段階だと考えていた。だから、相撲取りが、稽古場を興行にして大当たりしているので、有難いことだという思いと、自分ならば当然だという実存主義者(私の当時の世界観)の驕りとが交錯していた。

10月の第3回赫陽展の出品作は自信作であり、後の分岐のキッカケになった作品だった。

1979年

■1979年2月 大丸(福岡・天神)個展

■1978、1979年 松坂屋(名古屋)リアリズム10人展出品

 

1978年

■1978年5月 第2回赫陽展(資生堂画廊)

■1978年10月 日本橋画廊個展

■1978年11月 リウボウ(那覇)にて個展

■1978年 季刊美術誌『求美』秋/37-1978 掲載

『画中日記』2018.02.20【第二回赫陽展、個展】

1978年:5月第二回赫陽展、10月日本橋画廊にて5回目の個展、11月那覇のデパート、リウボウ6階催物場にて個展。(岡野岬石画歴より)

第一回赫陽展の出品作のモチーフは北海道風景がメインだったが、第二回赫陽展に向けての、新しいモチーフを求めて、前年からこの年の春まで、沖縄の八重山諸島、長崎県の福江島、島根県の隠岐を取材旅行。

この年の、新たなモチーフへの挑戦で、海の描画の新しいアイデアとその結果に自信がつき、今だにその技法を使っている。加えて、海と空との微妙な青の色相と明度と、植物の緑との関係を、作品で試行し研究し、スキルを磨いた。

 

1977年

■1977年 札幌今井デパート個展

■1977年10月、岡山天満屋個展

■1977年11月、岩田屋伊勢丹(熊本) 田島英昭・岡野浩二 二人展

1977年:札幌(今井)、10月岡山(天満屋)、酒田(清水屋)、の各デパートで個展。(岡野岬石画歴より)

この頃の地方都市のデパートは、町の中心的存在だった。第一次絵画ブームの時の東京で、デパートで絵を買うことが定着して、それが地方に及びつつある状況のなかで、新興の企画画商(画廊を持たず、デパート等の展示場で絵を売る画商)にとって、フリーになった東京の人気画家の絵は、うってつけの目玉商品であった。

来る企画は、全て引き受けた。

画像は、札幌今井デパートでの個展の時作った作品集の画像と、岡山天満屋の小冊子からスキャンした画像です。

1976

■1976年10月 日本橋画廊個展

■1976年12月 第1回『赫陽展』資生堂画廊

■1976年 日本の洋画壇展 米沢大和

『画中日記』2018.02.07【赫陽展】

1976年:田島英昭氏、三栖右嗣氏と「赫陽展」を企画。名前の由来は、僕がまず各人各様で「各様展」はどうだと提案して、三栖さんがそれに赫陽と漢字を変えて決まった。12月、第一回展を資生堂ギャラリー(銀座)にて開催。赫陽展は資生堂ギャラリーで、1978年5月第二回展、1980年10月第三回展を開催し、1984年3月第四回展を最後に解散する。(岡野岬石画歴より)

美術雑誌の編集者だったS氏のつながりで『赫陽展』が企画、展覧された。

フリーになってみると、人間関係が横に広がっていく。今まで、日本橋画廊にまかせっきりだったことを、全部自分でやらなければならない。他人(ひと)にやってもらおうとするから頼った分、自分の決断、生き方にアレコレ言われ、影響を受けるのだ。人生のリスクは全部自分が背負う、と決断すれば、他人に負い目がなく生きられる。その頃の私は、ガチガチの『実存主義者』だったのだ。

(今は私の世界観は、当然『仏教的全元論』です)

1975

■1975年1月 リアリズムの新鋭作家展(池袋西武)出品

■1975年6月 飯田画廊 個展

■1975年7月28日発売 アサヒグラフ掲載

『画中日記』2018.02.06【市原市能満に転居】

1975年:千葉県市原市能満に転居。茅葺きの農家を借りて手を入れ住み始める。6月、飯田画廊(銀座)にて個展。(岡野岬石の画歴より)

フリーになったからといってこのまま何もしなければ、以前私の絵を欲しがっていた画商の人達には分からない。どこかで「フリー宣言」をしなければと、銀座の画廊を廻った。最初に訪れた飯田画廊で個展の話が出て、話がドンドン進み、そのまま6月に個展になった。条件は委託以外は日本橋画廊と同じ。

1974

■1974年11月 札幌三越 個展 のために作った作品集​

『画中日記』2018.02.04【初めての作品集】

1974年:オイルショックの影響で第一次絵画ブームはいっきに終焉する。日本橋画廊から買い取り契約の解除を言い渡される。僕の契約点数では3年間は予約で埋まっていると聞いていたのだが、今はすべて消え去ったという。フリーになる。(岡野岬石画歴より)

日本橋画廊に絵を送っても買い取ってくれない。東京に発表のルートが切れると、このまま北海道にいてもお金が入らないので、生活上ジリ貧で腐ってしまう。東京近郊に帰る予定で動いている時に、タイミング良く、札幌で知り合った同い年の画商から、札幌三越での個展の話を持ちかけられた。フリーになって、日本橋画廊以外の画商との取引は初めての経験だが、条件は日本橋画廊と同じ、ただし展覧会の作品集を作ってくれるのならやる、ということでこの作品集ができた。展覧会は成功。こうやって、かかわってきた人達は、今どうしているのだろう。そしてこの時の作品はどこでどうなっているのだろうか。

 

1973

■1973年5月 日本橋画廊 個展

『画中日記』2018.02.03【1973年日本橋画廊DM】

1973年5月、日本橋画廊にて個展。完売。

北海道札幌市西区手稲に住んで1年が過ぎ、1DKのアパートから、一軒家の借家に移った。画料も、北海道に引っ越す前に、児島さんに掛け合って、売値のパーセンテージにして貰ったので、絵画ブームが沸騰するなかで収入も増えていった。

絵の方は、北海道の空を描くのに、リトグラフのグラデーションの技法をヒントにして、キャンゾールに絵具を入れてベージュ色を作り地塗りをしたキャンバス上に、油絵具を直接塗ってローラーを使う「ローラーボカシ」の技法を思いつき、始めた。(今は、ローラーを使う事も、地塗りもまったくやっていない)

今ではありふれているが、当時青空の風景画は油絵では斬新で、たちまち、人気作家の一人に入った。

1972

■1972年4月 日本橋画廊 個展

『画中日記』2018.02.02【1972年日本橋画廊DM】

1972年:3月、東京芸術大学大学院修了。前年から絵で生活できるめどが立ってきたので、アッサリと大学を離れる。5月、日本橋画廊にて個展。完売。個展の後に北海道札幌市西区手稲西野に転居。日本橋画廊とは独占契約なので断わるのだが、絵画ブームの本格的な到来で、南浦和のアパートにも画商が押し掛けてくる。以前の生活に比べて、あまりにも異常な状況に画家としての本能的な防御だったのかも知れない。北海道は前年の9月に取材に訪れ気に入った。(岡野岬石画歴より)

前年、画材を求めて、北海道に約一月間旅行した。画のための取材旅行は初めてで、何をどうしていいのか分からず、とりあえず札幌と釧路に宿だけ予約して、あとは行き当りばったりで路線バスと鉄道を使って、歩き廻った。その後の取材はだんだんうまくなるのだが、この取材は何せ効率が悪く、ひたすら、歩いてばかり。

それでも、本州とは違う北海道の光と、植生や牧場や家などの風景に魅せられ、個展後北海道に転居した。画廊との契約は1年だが、10号5点買い取ってくれるので、北海道から絵を送れば、生活の心配はない。

南浦和のアパートに、迷って飛び込んできた、青いセキセイインコの「ゼンマツ」を入れた鳥かごをぶらさげて、上野で買った米軍の放出品の大きなショルダーザックを肩にして津軽海峡を渡った。ちょっと芝居掛かっていて恥ずかしいが、当時の社会全体がそういう風調の時代だったんだネ。本人もその当時は、現在の私の世界観と違って、実存主義者を自認していたので滑稽に見えるのも仕方がない。実算主義者は他者からみれば、独りよがりで世間とズレるということです。

1971年

■1971年4月 日本橋画廊 個展

■1971年7月 東京大丸 【ブルジョン洋画5人展】

『画中日記』2018.02.01【1971年日本橋画廊DM】

1971年:4月日本橋画廊にて個展。前年の暮れあたりから予兆のあった第一次絵画ブームの波にシンクロして在庫も含め完売だった。ちなみに、第一次絵画ブームは新人ブームだった。
日本橋画廊との契約は独占契約で、絵の販売から額縁、個展のDM、広報まで一切画廊のオーナーの児島さんがやってくれたので、私は絵を描くだけでよかった。しかし、バイトはまだ続けている。
この時のDMは、当時立派なもので嬉しかった。だから、ポートレイトの写真も凝って、大学院の友人だった宗形恒明君(故人)に、当時まだ使われていた、京成電鉄の上野公園地下にある博物館前駅構内で撮った写真を使いました。この時に撮った多くの写真は、大版の紙焼きにしてもらったのだが、なくしてしまった。一部では、絵より写真の方がいいじゃないかという評もあったくらいで、その頃の実存主義の青年の雰囲気が表現された優れた写真だった。この写真はトリミングしてあるのだが、切り取る前の全体の写真は、本当に素晴らしいものだった。当時、パソコンがあれば、保存できていたのに残念だ。
若い時は、目の前に起こる出来事に手一杯で、後々の人生全体の中の情報の価値判断がつかないが、生きてきた72年を振り返ってみれば、日々(にちにち)の薄い行為の積み重ねが、この72年の現在の厚みになっているのであり、また、これからも死ぬまで毎日積み重ねて、厚みを増していかなければならない。

1970年

■1970年11月 千葉県市原市辰巳会館にて個展

 

 

 

 

 

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