岡野岬石の資料蔵

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千葉日報『芸術書簡』

投稿日:2022-01-04 更新日:

2009年9月5日から2010年1月9日まで、読者との往復書簡形式で5回、計10回「芸術書簡」の題名で千葉日報紙上に連載された、文章及びカット。(全文テキストは下部にアップしています)

■全テキスト

画家がアトリエから1

◎見出し美は世界の中から描出

先日は、拙著『芸術の哲学』に対して、ご丁寧な読後のお手紙をありがとうございました。

あなたの手紙のなかで私が引っ掛かったのは「趣味判断は好みの問題で普遍性を保証しない」、「美的判断は多数多様に分かれる」という意見で、ここが私と周りの美術シーンと根本的に相いれないところなのです。

〈世界〉は、人間の外側に人間に関係なくある〈超越〉なのか、〈内在〉つまり人間が、認識する側が創造するのか。〈美〉は、人間の外側に人間に関係なくある〈超越〉なのか、〈内在〉つまり人間の内側に生まれ、認識する側が創造するのか…その世界観によって画家の描く絵が違ってくるし、当然画家としての生き方も決まってきます。この弁証法的な進歩によって世界の美術史は脈々と続いてました。〈美〉は個人の好き好きで百人百通りなのか、〈美〉は〈超越〉で普遍なのか。

世界は人間の外側にあります。〈美〉も「そちら」、「向こう」にあるのです。画家が描いている、あるいは見ているこちら側でなく、向こう側に世界は昔から同じように存在するし存在し続けている。ある人にとっては、混沌として無秩序にしか見えないものでも、見える人には秩序と構造が見える。漁師は水面下の世界を、画家は世界の存在のなかに美を見る。人が好き勝手に「私には分からない」とか「私、嫌い」とかといっても、〈美〉は「向こう」にある。だから私は、画家がなすべきことは表現するとか自分を語ったりすることではなく、世界の描写に徹っするべきだと思います。

誰も聞いていないし聞きたくもない自分の考えや内面に拘泥するのはやめて、世界の〈存在〉の中の〈美〉を観照し、描写の技術を身につけ、そして〈美〉を顕現させることが画家の為すべき行為だと思います。モネも、セザンヌもマチスも描いているものは普通の物。よく吟味されてはいるが、身の回りの風景や人物や静物を、ただ描写しているだけなのにあんなにも美しい。〈美〉は画家が創造するものではなく、世界の中から〈描出〉するものだと私は確信しています。

読者からの手紙1

◎見出し美は超越か、主観的能動性か

岡野さん。あなたの近書『芸術の哲学』の感想をつづった僕のぶしつけな手紙に、早速、懇切丁寧なご返信をいただき、ありがとうございました。

「〈美〉は画家が創造するものではなく、世界のなかから〈描出〉するものだ」という考えに、ひとまず異論はありません。西洋近代美術の最も優れた作品を徹底的に吟味し、練り上げた洞察力に加え、実作に裏打ちされた美術家の強い確信には敬意さえ覚えます。

ただ僕のご著書への疑念は、ご指摘の通り「趣味判断は好みの問題で普遍性を保証しない」「美的判断は多数多様に分かれる」という点です。

そうです。そこが岡野さんの言説への違和、わだかまりを感じるところなのです。岡野さんのおっしゃる通り、確かに「世界は人間の外側にあります」が、それがそのまま「〈美〉も『そちら』、『向こう』にあるのです」と断定されてしまうとなると、「ちょっと待ってください」と言わずにいられません。

僕には〈美〉が極めて〈人間的な〉概念ではないかと思われます。他の動物に<美>を感受する能力があるかは別にしても、〈美〉という概念は人間の主観が見いだしたもの、人間の発明によるものではないでしょうか。例えば「モネも、セザンヌもマチスも描いているのは普通のもの。よく吟味されて入るが、身の回りの風景や静物をただ描写しているだけなのにあんなにも美しい」という判断を下しているのは岡野さんの主観的能動性ではないのでしょうか。

僕は、先の手紙の中で、カントにならい、美的判断が諸関心をかっこ入れて見る態度変更にあるとしましたが、岡野さんが<表現>のかっこ入れを純化し、〈描写の美〉を見いだしたように、〈描写〉のかっこ入れを徹底化すれば〈表現の美〉、多数多様な表現主義的美術の領野が開けてきます。

あなたは美の頂点を目指し、「より高く跳ぼう」としています。〈美〉の高みから「趣味が悪い」と一喝されればおしまいですが、垂直ではなく、横に跳ぶこともありではないでしょうか。ちょうど跳躍競技に、ルールの違いによってハイジャンプから走り幅跳び、三段跳び、棒高跳びなどがあるようにです。

画家がアトリエから2

◎見出し〈美〉は芸術の上位概念

「万有引力の法則」はニュートンが創造したのではなく発見したのです。発見したから存在したのでなく、発見する以前から未来に渡って存在し続けています。そして後にアインシュタインの相対性理論がでてきたからといって地球規模の視点でみれば正しく、間違っているわけではありません。

ステレオグラムがどうしても立体視できない人が、自分には見えないからといって「世界は見る人の好き好きで一〇〇人一〇〇通りヨ」というのは間違っています。「落体の法則」はアメリカでも日本でも、石ころでも爆弾でも人間でも、好きでも嫌いでも、分かろうが分かるまいが、世界のすべてに妥当するのです。ステレオグラムが見えない人は、見えない責任は見えない人の側にあるのであって、ステレオグラムの側にあるのではないのです。

私は〈真・善・美〉を超越と確信しています。真理が超越ならば、美も超越です。純粋理性や実践理性に向かう人と同じ方法論で〈美〉に向かうことが画家の為すべき仕事だと思っています。

あなたと私の、芸術に対する意見の違いのおおもとは、画家のコンセプトを、〈美〉を超越と措定してそれを描出することにおくのか、画家が自由に創造するのか、というところです。〈美〉を超越と措定すると、画家の描く芸術美は〈美〉の範疇の一ジャンルということになります。 そうなると、芸術美と自然美の比較の問題が出てきます。結論を先にいえば、芸術美の方が自然美よりも美しい。現実のひまわりよりも、ゴッホの『ひまわり』の絵の方が美しい。私は、昔からそう信じていました。

しかし、混同してはいけないのは、芸術の中に〈美〉があるのではないのです。芸術が〈美〉の上位概念ではないのです。〈真理〉が諸学の上位概念であるように、〈美〉は諸芸術の上位概念なのです。

反対に、芸術の方を美の上位概念と考えると、美は芸術の部分に成り下がり、「美しいだけでいいのか」というようなとんでもないことを言う画家がでてきたり…美は人さまざま、競技種目もさまざま、ルールもさまざま、ルール改正もありという現代美術の嘆かわしい状況になるのは当然ではないでしょうか。

読者からの手紙2

◎見出し美は関心のかっこ入れ

岡野さん。あなたがニュートンの万有引力やアインシュタインの相対性理論を引き合いに出して説くことをカントは認識の「コペルニクス的転回」と呼びました。コペルニクス以後の地動説は計算体系から想定されたもので、「太陽は東から昇り、西に沈む」は変わりません。

カントは思惟から出発する合理論と経験から始める経験論をともに批判し、その間に立って、われわれが意識しないような経験に先立つ形式を明るみに出す〈超越論的態度〉によって人間の主観的能力を示し、刑而上学を理性の越権行為とみなしました。形而上学は〈神〉が考えられるから、ただちにそれが〈ある〉ことを想定してしまう考えです。

僕の美についての考えは〈美〉がある物を〈無関心〉、他の関心をかっこに入れてみる態度変更にあるとするカントに基づいています。だから、〈美〉は認識的(真偽)・道徳的(善悪)をかっこに入れることによって見いだされると考えます。

僕と岡野さんの相違点が判然と分かれるのは<美>の判断についてです。岡野さんの教説は、世界は自我を〈超越〉している。自我が〈超越〉を見る邪魔をしている。自我という目のゴミを取り除かねばならない。しかし、そこにはそのように見ることを促す主観の働き、カントの言う〈超越論的主観(統覚)〉のようなものが残らざるを得ないというのが僕の立場です。

岡野さんが全く評価しないマルセル・デュシャン。でも、岡野さんが絶賛するセザンヌやマチスら〈描写〉を事とする「網膜的絵画」をかっこに入れ、純粋化すればデュシャン固有の〈美〉が出現するのではないでしょうか。デュシャンは美術展に既製品の便器を「泉」と名づけ、出品しました。その作品は美術展に展示されるこで日常性をかっこに入れることを促され、しかも最も美とは対極的なものをかっこに入れる主観的能動性が独自の〈美〉を出現させます。僕はこれもまた一つの〈美〉だと思います。ちょうど岡野さんが「自我意識を意識的にエポケー(スイッチを切る)して観想、観照すれば超越(美)に届き得る」(芸術の哲学)と考えたようにです。

画家がアトリエから3-(1)

◎見出し〈美〉は内部に写りこんでいる

世界は人間個人の外に在るけれども、人間の内部に、意識の志向性の有る無しに関りなく写り込んでいます。私は、自我(主観)と世界(客観)が境界をもって外部と内部に独立して存在しているとは思っていません。人間は世界に対してはハイデガーのいう世界=内=存在ですが、人間の内部も外部の時空及び存在者が写り込んだ時空の内に自己意識が在る、つまり(自己)意識は自分の中でも(内部)世界の部分なのです。人間は実存で目一杯ではありません。実存が世界を、内部に飲み込むかたちで認識(フロイドの認識)しているのではありません。世界の中で自分は部分ですが、同じように自分の中(脳)でも自我意識は部分なのです。脳の中の自我意識の周りには、あらかじめ身体にインプリントされたパースペクティブが広がっています。人間だけでなく、有機物はすべて外に向かって世界=内=存在であるが、内に向かっても世界=内=存在であるのです。そうであるなら、超越(真・善・美)は外部に在るけれども、人間の身体に写り込むかたちで(意識が認識、解釈するのはその後で)内在していると考えられるのではないでしょうか。

皿の上のリンゴは外部ですが、口の中のリンゴは外部ですか内部ですか。水の中の光は水の内部ですか外部ですか。眼球のなかのリンゴの光(映像)は内部ですか外部ですか。本に書かれている言葉の意味は、それを読む人の内部ですか外部ですか。夢の中の他人は外部ですか内部ですか。

人間は、身体も脳も殆どが(極論すれば全部と言いたいけれど)外部で成り立っています。その事に気付いたので私は人生上の主義を〈実存主義〉から〈超越的実在論〉に変えたのです。そのことから、自分の目(視覚)の超越的な美への志向と、人生上の実存主義との齟齬からやっと抜け出すことができたのです。そのころ(1998年頃)から自分の絵画上のコンセプトとして「抽象印象主(Abstract-Impressionism)」を標榜し、会話に「美」、「超越」、という言葉が頻繁に出るようになったのです。

画家がアトリエから3-(決定稿)

◎見出し「背面跳び」以上のフォームはあるのか

走り高跳びのフォームは、今は「背面跳び」ですが、その跳び方を私は22才の時初めて見ました。今の子供は、走り高跳びといえば背面跳びが当たり前だろうけれども、メキシコオリンピック(1968年)でフォスベリーが史上最初にあの独創的なフォームで跳んだのです。それまではベリーロールという、腹這いになってバーを越えるフォームで、もう今の子供は誰もその跳び方を知らないでしょう。背面跳び以上のフォームがなければ、その範囲のなかで高さの記録を競っていくしかありません。どんなに新しく、独創的なフォームを考えついても、以前の記録よりも高く跳べなくてはそのフォームを採用する訳にはいきません。画家が絵を描く場合も同じなので、新しいイズムや技法や画材やツールは、従来のイズムや技法や画材やツールよりもより美しい結果を出したときに、初めて本人に承認され他の画家に採用され美術史にも妥当するのです。

美術史では印象派のフォームが「背面跳び」に匹敵する革命的なフォームでモネ、セザンヌ、マチスがそのフォームを改良して記録をのばしました。現代美術、特にポスト・モダンの国アメリカ系の現代美術は、さんざん新しいフォームを試み、取り組みましたが、結局、より高い記録は出せませんでした。ドリッピング(絵具やペンキを直接キャンバスにしたたらせる絵画技法)で偶然性を画面に取り込んだポロックなどは、とんでもない記録が出そうだという期待もあったのですが、現在にいたってその技法を取り入れている画家はほとんどいません。偶然性や記号を取り入れた新しいフォームは、たとえそれがいかに独創的でもモネやセザンヌやマチスの〈美〉の記録を超えていませんし、そのフォームで跳ぶかぎり今後も超えられないでしょう。モネ→セザンヌ→マチスの印象主義を改良したフォームのバトンを継いだのが今の私の絵画上のコンセプトの「抽象印象主義(Abstract Impressionism)」ですが、もちろん、もし〈美〉の記録が伸びる可能性のある新しいフォームが見付かるならばすぐにでもフォームの改造に挑戦しますし、現に今もアトリエで日々試行しています。

読者からの手紙3

◎見出し〈超越〉に他者がいない

岡野さん。先日、直接お話をうかがい、あなたと僕のカントの批判哲学、特に<物自体>に対する見解に隔たりを感じました。繰り返しますが、カントの「美的判断は対象に対する関心のかっこ入れにある」とするのが僕の立場で、虚構であるとか悪であるといった面がかっこに入れられる時、美的対象が出現します。逆に、かっこは外さなければならない時もあります。あなたの<世界>は、<超越>は他者の強い視線にはさらされていないように思われます。でも、すべての人の同意を要求される普遍性は、外国人など共通のルールを持たない他者とのコミュニケーションにあります。

心ならずも、岡野さんの形而上学に対する僕の立場は価値の多様性を主張するヒュームら経験論による弁論のようですが、そうではありません。僕があなたの芸術論に関心を抱くようになったのは、アメリカの批評家、グリンバーグと同じような理論を展開する『芸術の杣道』を読んだからでした。グリンバーグの理論はカントです。これまで絵画は二次元のキャンバスと絵の具(ともに物質)で現実を、物質でない三次元的なイルージョン(幻影)として再現することでした。グリンバーグはモダニズム絵画の本質的条件を平面性(二次元性)とし、その本質に向けて還元してゆく作用が単なる物質になってしまうまで削減することにあるとしました。ポロックやニューマンをはじめ、ミニマル・アート、ポップ・アート、コンセプチュアル・アートといった現代美術の主要な潮流は、このパラダイムを中心に展開していきました。それが、あなたの批判する「百人百通り」の美術シーンとなって現れています。

グリンバーグと同じように、岡野さんは自身の知覚の経験を批判的に吟味することによって<描写の純粋領域>を見いだしました。あなたの『芸術の哲学』は絵画の自己批判、<物語批判>と言っていいでしょう。というのは、いま百花りょう乱と咲き誇っているかに見える<表現の絵画>は、批判する当の絵画の視覚性、〈描写の絵画〉に全面的に依存しているからです。僕は、画家は「「意識を意識的にエポケー(スイッチを切る)して」、「光の関係、空間の関係(肉体、目、感覚)に向かうべきだ」と言う岡野さんの視覚の純化、〈描写の絵画〉を支持し、美術の〈物語批判〉をさらに進め、美の頂点目指し、より〈高く跳ぼう〉と挑戦するあなたの姿に心から拍手を送ります。

画家がアトリエから-4

◎見出し目と対象とキャンバスは三位一体

カント美学は私も大きな影響を受けました。しかし現在にいたっては、カントの、論理の前提にする世界観の形態が私には納得がいきません。このことは、カントにかぎらずデカルトやウィトゲンシュタインなどの近代哲学者および科学者のおよそすべての世界観の形態に言えることです。左側に「物自体(客観、物質、経験論、外部)」を置き、右側に「超越論的主観(統覚、精神、観念論、内部)」を置き、真ん中に「現象界(現実世界)」を置く。三つの世界を夫々が境界を持って直線上に並んでいる形態で世界を捉える。

私は若い時の人生上のイズムは実存主義と決めていました。しかし私の目は、内面を表現するシュール・リアリズムや表現主義の絵画よりも、モネ、セザンヌ、マチスの外界の対象を描写する絵画の方にどうしても惹かれて、目(視覚)の超越的な美への志向と、人生上の実存主義が齟齬をおこしていました。いろいろと作画上の迷走をした結果、1998年頃、やっと主観と客観の相互相入空間を思いつきその空間の外に超越(真・善・美)を措定する抽象印象主義を標榜するに至ったのです。しかしこの形態、つまり物質的世界、心の世界を相互相入空間にしてプラトン的世界を超越にする考えを、最近、修正したほうが良いのではないかと思っています。その理由は、最近読んだロジャー・ペンローズの本の中で、その三つの世界が線形につながっているのではなく、三角形のサイクルをなしているという説を読んだからなのです。三角形の頂点に在る「物質的世界」、「心の世界」、「プラトン的世界」を境界の無い相互相入空間にしてフラクタルに三次元化(時間を入れれば四次元化)したものが人間を含めた生物と考えられるのではないでしょうか。この世界の形態では、〈超越〉も〈物自体〉も〈超越論的自我〉も全ての存在が世界に内在してしまいます。

人間でいえば〈物自体〉も〈超越〉も外部にありながら鏡や写真のように身体に写り込む形で内部に取り込まれ世界観の〈地〉となる。……この世界観の修正による自分の作品への反映は、私のアトリエで現在進行中です。

読者からの手紙4

◎見出し印象派も〈他者〉に見いだされた

岡野さん。〈表現の絵画〉にも増して〈描写の絵画〉こそ西洋美術の豊かな培養土から養分を吸い上げながら、それに安易にもたれかかってきたと言えないでしょうか。フランスのサロン(官展)に依拠した画家たちは、それに惑溺(わくでき)し、マンネリズムに陥りました。それを批判するクールベら写実派などがモダニズム絵画をけん引してきたことは歴史の教えるところです。

現在でも、一般公衆にとって絵画とは日展など中央公募展で見られるありきたりで穏健な絵画であり、印象派展はいつも多くのファンを集めています。一方、〈描写の絵画〉の〈他者〉として登場し、異化する現代美術展に観客は入りません。〈描写の絵画〉が伝統的美術の〈共通感覚〉、習慣や因襲に全面的に依存してきた証拠です。岡野さんは、〈目〉が「美しいもの、おいしいものを欲しているから」とおっしゃるでしょうが…。

確かに、美術は視覚、すなわち〈目〉を通して、つくり出されてきました。でも、印象派も当時は絵画の前衛であり、ゴッホやセザンヌの絵は売れませんでした。美の共通感覚からずれ、〈美の共同体〉から排除されていたからです。宗教的・政治的意味をかっこに入れ、極めて日常的なものを〈目〉によって描いた印象派の〈視覚革命〉は、公衆の理解の外にありました。後に彼らの作品は、王侯貴族に代わる財力ある新興ブルジョアのステイタスシンボル、投資の対象として取引され、今では何十億、何百億円の高値を呼んでいます。

前回、僕は岡野さんの芸術哲学は〈他者〉がいないと言いました。美的判断は、ウィトゲンシュタイン流に言えば「共同的言語ゲーム」に属し、しかもこれらが多数(百人百通り)あるということです。だが、普遍性は、われわれの先取りできない、勝手に内面化できないような相手、〈他者〉によってしか確保されません。ゴッホやセザンヌは、彼らの生きた時代に顕在化していなかった〈未来の他者〉によって受け入れられ、普遍性を獲得したと言えましょう。今では、公衆はまるで

自分が発見したようにふるまっていますが…。

画家がアトリエから5-(1)

◎見出し【美を味わう場所は脳か目か】

食べ物の解釈や構造の分析は脳でするのだが、味(おいしさ)の認識は脳でするのか舌でするのか。このことをどう考えるかの決定は、画家にとっては重要な問題で、なぜなら〈美〉の認識は脳でするのか眼でするのかという問題に関わり、しいては画家のコンセプトによるキャンバス上の行為、描く絵の内容や意味にまで敷衍します。私は、おいしさや美などのクオリアの認識は、脳の中の意識からのトップダウンではなく、身体の直接的な現象の脳へのボトムアップだとおもっています。

世界美術史の中でリアリズムから印象派に移る時代と、日本の花鳥風月だけが内容の意味を持たない描写だけで成り立っている絵画です。日本では当たり前のことですが、西洋では19世紀末、近代哲学が認識論を中心に展開してきたことに呼応して、美術も「認識」が中心命題になりました。そうなると当然画家の為すべき事は視覚(目)が中心となり、視覚対象も外せません。それなのに、マチス以降、描写の画は美術史から消えてしまいました。認識論的絵画を置き去りにして、意味論的絵画や解釈学的絵画や社会学的絵画に、つまりポスト・モダンの国アメリカ型美術に世界中が席巻されてきてしまいました。しかし今、世界は変わろうとしています。認識論の復活(ペンローズの言う、世界を成す〈プラトン的世界〉、〈物理的世界〉、〈心の世界〉の3つの要素が線形ではなく、不可能3角形の頂点に措定するという認識。〈プラトン的世界〉が私の常々言っている超越のことで美の在る所)描写絵画(キャンバス、対象、自分の目の位置、を不可能3角形の頂点に措定して描画する、つまりイーゼル絵画)の復権がこれからの画家が目指すべき使命です。あなたの好きな〈異化〉という言葉を使えば意識の異化ではなく、視覚の異化です。キャンバスの上の絵具の組み合わせで、自然(物質的世界)の中の美(イデア的世界)を画家の立ち位置(視点。意識のある場所)を含めて描出することが出来れば、画面が馥郁とした、自然美や記号美よりも美しい芸術のクオリアをかもしだすことでしょう。

画家がアトリエから5-(決定稿)

◎見出し画家の物差しは〈美〉

世界美術史の中でリアリズムから印象派に移る時代と、日本の花鳥風月だけが内容の意味を持たない描写だけで成り立っている絵画です。日本では当たり前のことですが、西洋では19世紀末、近代哲学が認識論を中心に展開してきたことに呼応して、美術も「認識」が中心命題になりました。そうなると当然画家の為すべき事は視覚(目)が中心となり、視覚対象も外せません。それなのに、マチス以降、描写の画は美術史から消えてしまいました。認識論的絵画を置き去りにして、意味論的絵画や解釈学的絵画や社会学的絵画に、つまり意識中心型美術に世界中が席巻されてきてしまいました。

美術の場合、美を措定しない絵画などは話になりません。美の存在だけはエポケーできません。社会的な問題とか人生や自分を語ろうとするとか、デュシャンの言ったように「美しいだけで、目を楽しませる視覚だけの絵じゃないか。それがなんになるの?」という考えの人たちがいますが、逆に、美を措定しないで、画家はいったいアトリエで何をするのでしょうか。美味しさを追求しない料理人などどこにもいないし、いたとしても現に料理が美味しくなければはわざわざそんなお店にお客として行く必要がありません。100メートルを9秒69で走った人に向って「足が速いだけじゃないの。それがなんなの?」というようなもので、まったくスポーツに興味のない人ならともかく、自分も同じ競技者であるなら自己矛盾しています。ランナーは速さだけを競っているので、「自分は速さの記録だけを目的にしない」と言っても、それは本人の勝手というもので、現実に速くなければ選手としての価値はなく、それは趣味で走っていると言うべきものです。美しいものを作るほかに、画家が他に何をするのでしょうか。

他者によって確保されようがされまいが、その存在が〈真〉や〈美〉に妥当していれば歴史は消し去りはしません。ゴッホの画は、他者によって見いだされたのかもしれませんが、他者が描いたのではありません。画家のキャンバス上の行為の物差しは〈美〉です。

読者からの手紙5(最終回)

◎見出し美は超越ではなく、超越論的

岡野さん。あなたは「世界美術史の中でリアリズムから印象派に移る時代と、日本の花鳥風月だけが内容の意味を持たない描写だけで成り立っている絵画」と言います。画家として〈描写の絵画〉に可能性の中心を見いだし、絵画にとって不純なものを可能な限り排除してゆく方法の徹底性に、僕は何度も賛意と敬意を表してきました。しかし、日本の浮世絵をはじめとする〈花鳥風月〉にしてからが、印象派やその周辺の作家に見いだされ、ジャポニスムとして一世を風びし、幕末には商品価値が高まり、パリ万博などに出品された美術工芸品はほぼ完売―と言われています。明治の開明官僚たちが「世界市場で通用するのは日本美j術」と注目し、殖産興業として盛んに推奨しました。こうしたの中で、フェノロサや西洋通の文化官僚、岡倉天心らによって創立されたのが日本美術だけの東京美術学校でした。〈花鳥風月〉は表象(再現性・代表制)の危機脱出の手がかりを求めていた西洋人によって発見、内面化され、逆輸入されたものです。岡野さんの言説は、あまりに西洋近代中心義です。中国美術やインド亜大陸の美術、中東美術など世界の多様な美術は〈描写の絵画〉に向け、すべて収斂(しゅうれん)されてしまう。僕は、<美>は決して中心化されない多数体系であり、それぞれに<美>があり、美術史も複数あると考えます。

画家として〈美〉へのベクトルを率直に語った「美を措定しない絵画などは話になりません。美の存在だけはエポケーできません」という言説に共感しながら、でも気になります。〈表現の絵画〉も、対象への関心のかっこ入れを行い、〈描写の絵画〉とは異なった<美>を追求しているからです。美的判断は普遍性が要求されますが、それがありえないこと、われわれが普遍的とみなしているのは歴史的に形成された共通感覚に基づいています。〈描写の絵画〉も〈表現の絵画〉も、それぞれ規則体系を持っていますが、〈美〉を一つの規則体系で基礎付けることはかないません。優位性と見えるのは自らの規則体系を内面化しているからではないでしょうか。それが、相争う現代の世界の美術シーンです。僕の立場は〈美〉が〈超越〉ではなく、〈超越論的〉に見いだされるというカントの考え方です。

5回にわたる往復書簡は交わることなく、平行線を描いてきましたが、世界の美術シーンの言説のバトルの一端を提示するくらいの手柄はあったと思います。美術に半可通で、無鉄砲な僕の議論に辛抱強くお付き合いいただき、感謝します。また、機会がございましたら、お手紙を差し上げます。(おわり)

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*千葉日報紙上では『芸術書簡』は終わりましたが、1月23日(土)新宿のギャラリー絵夢でのギャラリート-クの後、二人でビヤホールで飲んだときにでた話で、私的に続けることになりました。今後このページにテキストを連載します。お楽しみに。

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画家がアトリエから-6

議論のくい違いは、あなたのカント(ドイツ観念論)の世界観と、私の超越的実在論の世界観の〈形態〉の違いによるものです。パラダイムの問題は根本的で重大なのですが、生きて行く上でパラダイムの違う人間が分かりあえるのはたいへん困難なことです。それと、パラダイムの問題に論争の場を移すと、芸術でなくて哲学の問題になってしまうので私としてはどちらも言いたいことはあるのですが、哲学上のツッコミを保留して、美術の方に論争の主題をもっていかざるをえない歯がゆい選択でした。でもこれからは私的な往復書簡(メールですが)なので、原稿の長短に関係なく思う存分語りたいとおもいます。

世界は一つです。少なくとも地球は一つです。地球がいくつもあるのではありません。「存在(この中に真・善・美がある)」はひとつです。その解釈が人の数だけあるのです。太陽は一つでも人間の目と心に写った太陽は人の数だけあります。この各々の写った世界にヒエラルキーをつけなければ、つまり、どちらがより真なのか、どちらがより美なのか、どちらがより善なのかを判断しなければ学問も芸術も宗教もありえません。

学問でいえばニュートンもアインシュタインもどちらも正しいのです。「万有引力の法則」はニュートンが創造したのではなく発見したのです。発見したから存在したのでなく、発見する以前から未来に渡って存在し続けています。そして後にアインシュタインの相対性理論がでてきたからといって地球規模の視点でみれば正しく、間違っているわけではありません。しかしアインシュタインの方がより正しく世界を写しているのです。だって、ニュートンの世界観では説明できない現象が世界には次々と出てくるのですから。アインシュタインが限界の記録ではないことはその後の学問の進歩が証明しています。美術も同じです。画家はどちらのキャンバスがより美しいかを競っているのです。

2010年2月1日

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読者からの手紙6

 

岡野さん。先日、テレビで勝浦漁港に初ガツオが揚がったとのニュースを見ました。江戸の俳人、山口素堂の「目には青葉山時鳥初鰹」は人口に膾炙しています。旧暦、新暦の違いがあるうえに、今年は寒さが一段と厳しく、まだ青葉若葉の季節にもホトトギスの鳴く時節にもほど遠い。それに、「初鰹」が夏の季語で、この名吟も初夏の句のようです。

たまたま江戸時代の漢詩集のアンソロジーを読んでいたら、市河寛斎の初ガツオを詠じた七絶を見つけました。あまり興味はないでしょうが、引いてみます。

新味初来上店時/萬銭争買貴珠璣/呉人謾道鱸魚美/誰為鱸魚典却衣 (新味、初メテ来リ、店ニ上ル時、万銭争ヒテ買ヒ、珠璣ヨリモ貴シ。呉人ミダリニ道〈イ〉フ、鱸魚の美ヲ、誰カ鱸魚ノタメニ衣ヲ典却セシヤ) この詩のおおよその意味は、「初ガツオが魚屋に並べば、江戸っ子は珠玉の高値でも争って買う。昔からシナ人はスズキのおいしさを賞美してきた。だが、シナ人でスズキのために衣服を質入した者はいるのか、こちとらじゃ、女房まで質草にしかねないんだぞ」というものです。

初ガツオを取り上げたのはほかでもありません。あなたが過日、詩画展の会場でマグロ釣りについて情熱的に語る姿を思い出したからです。マグロを釣り上げるには、当然、魚の習性を知り漁場を探査したうえで、仕掛けやエサ万端整え、漁師のスキルを発揮する。美も同じで、「美の存在する構造を見いだし、そのベクトルに向かってひたすら努力するのが美術家たる者の使命だ」というあなたの考えに賛成です。僕のような怠惰な俗人と違い、新聞もテレビもやめ、美に向かってストイックに精進されるあなたの姿に尊敬の念さえ覚えます。

しかし、漁師はマグロだけを釣るわけではありません。江戸時代、マグロは下手の魚で、特に露天のすし屋では傷みやすいトロなどは嫌われたと言い、初ガツオとは天と地の違いがありました。それが、今では逆転しています。これはマグロの味覚が新しい〈他者〉によって発見され、現代の消費者にとって普遍的となったからではないでしょうか。

美も同じです。ゴッホの絵は一枚しか売れず、家畜小屋の穴ふさぎにされていたと言われています。〈他者〉によって発見されなければ、どんな名作でも廃棄されるほかないでしょう。

2010年2月6日

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画家がアトリエから-7

同じ魚にかかわる職業に、色々な職業があります。漁師、仲買人、魚屋、スーパー、料理人、一般消費者、魚類学者、釣り道具メーカー、釣り道具店・・・造船所、船のエンジンのメーカー・・・とまだまだ限りなくあるし、拡大解釈すれば世界中のすべての人々に魚は関係しています。自分の仕事が、どういうアプローチで魚に接するかということを、はっきりと認識しないといけません。魚類学者が得るべき知識と、漁師がもたなくてはならない魚に対するアプローチと、あるいは努力のベクトルというものは、各々全然違います。だから、自分のやろうとする仕事が、どういう職業で魚に接するかということを早めに見極めないと、短い人生では情報収集、準備、練習だけで時間切れになってしまいます。

言いたいのは「画家は何をするのか」ということです。〈美〉と魚とをアナロジーで類推すると、画家は漁師です。漁師は海の底を、海の水面下を見つめる。水面下は誰にも見えない。そういうなかで水面下から魚を釣り上げる。それも価値ある魚を。

画家を漁師の仕事にアナロジーすると、画家は何をしなければいけないかという事が具体的に見えてきます。まず、どういう魚を釣るのかを決めなければなりません。つまり、何が価値があるのか、美なのか表現なのか。

昔、大橋巨泉が司会の「11PM」というテレビ番組で、趣味の釣りをとりあげ、そのせいで釣りブームがあったころ、相模湾の沖でアブラボウズという魚の釣りをその番組でやっていました。アブラボウズは大きくて引きも強いのですが深海魚で脂がつよく食用にはなりません。つまりその釣りは趣味でやっている釣師の自己満足だけの釣りなのです。私が美大を卒業した当時「美を措定しない芸術はアブラボウズだ」と言って周りの現代美術をやっている友人たちからは保守反動だとさんざんひんしゅくをかいました。

鰹も鮪もどちらも美味しい魚です。〈美味しさ〉は超越です。希少価値や交換価値の、つまり現実社会の社会学的、経済学的ヒエラルキーとプラトン的イデア界(超越、真・善・美)のヒエラルキーを混同しては画家はなにをやっていいかわけがわからなくなります。ゴッホの絵は描きあげたときから絵が変わったのではありません。石ころを金だとだまされて大金を払うのも、金なのに石ころと見分けられずに捨ててしまうのも、どちらも責めを負うのはそれが見分けられない周りの責任です。金は決して石ころにはならないし、石ころはけっして金にはなりません。

2010年2月7日

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