(24)プレ印象派と印象派、ルノワールとセザンヌ(80頁)
ついでだから話すと、まずは遠くの人物。初期の写真では、シャッター速度の問題で、外界の動いている人物は写らない。写ったとしても、望遠レンズではなくピントも甘いので、遠くの人物は、顔やディテールは分らない。印象派の風景の中の人物を見たら、たとえばモネの『日傘をさす婦人』(1886年)を見ても分るように、人物を周りの空や雲や土手の草と同じ捉え方で描いている。そしてどこにもピントを合わせていない。だから、目鼻はほとんど描いていない。
ところが印象派以前の認識からすると、ボッシュやブリューゲルなどの絵を見れば分るように、遠くの豆粒ほどの人物にも、目鼻を付けている。認識を補正していくわけだ。目には実際は見えてもいないものを、どんどん補正して描いていたわけだ。あるいは、遠くの物のディテールのひとつひとつにピントを合わせて、これも自我の意識的な行為なのだが、認識し描いている。
プレ印象派の話をすると、コローは、遠景は印象派的に捉えるけれども、近景のがっちりとしたものは、逆にあまりにもはっきりしているから、これを光で捉えろといっても、常識的な日常感覚では無理がある。ターナーも霧や蒸気や嵐などでぼかさないと、絵のモチーフが現実にそうなっていないと描けない。
ところがモネは、近景も遠景も、人物も静物も全部、一貫して印象派の完成者だ。
それで、ともかく印象派の技法をモネが完成した。そうすると、今度は不満が起こるわけだ。どんな不満かというと、画面に光は溢れるけれど、空間がモヤモヤしていて、絵にフォルムがなくなる。画面が綿(ルビ、わた)でできているようで、シンコペーションのリズムのない、正打のベタッとした空間になってしまう。どうしても印象派であろうとすると、そういう画面になってしまう。空間とフォルムが印象派の弱点なのだ。
ルノワールは、イタリヤに旅行して、イタリヤの絵画を色々と見て、やっぱり画面にフォルムが要ると思って、輪郭線をはっきり描く時期があった。しかし、うまくいかなかった。その時期の作品はあまり良くない。若い女性の水浴図なんかを、輪郭線で細い針金で囲ったようにして描いたりしている。あるいは、線を使わない絵では輪郭のエッジがはっきりしている。一生懸命苦労するのだけれども、どうしても今までの絵よりもうまくいかなくて、最終的にはルノワールは元の印象派の技法に戻っていく。モネもルノワールも、結局そこまでであって、フォルムの問題をどうしても解決できないで終わった。
それを止揚したのがセザンヌなのだ。セザンヌの絵はフォルムががっちりとしている。物の輪郭に印象派のメソッドを使った事がセザンヌの卓越したアイデアだ。それは、具体的にどうやったかというと、物の輪郭を閉じないでほんの少し隙間をあける。たとえば、円を描く時、1本の線で描かないで、3本の線を少しづつずらしながら描くと、円というフォルムをハッキリと示しながら、物と空間が開かれ固定化されない。じつに近代的な新しい絵画空間が生まれた。
絵具は減算混合(混色すると明度がおちる。光は加算混合)するので、印象派の画家達はタッチを使った。スーラーやシニャックは点描にまで行ったけれど、要するに、ピンク色に塗るのに、絵具を混ぜてピンク色を作ってその色1色でむらなく塗るのではなく、赤と白の2色を画面に置いて目で混色して、明度を落とさずにピンクに見せるという技法だ。これを使って、タッチを少しづつずらしながら絵具を置いていくのが、セザンヌのパッサージュ技法だ。
これをフォルムに使えば、輪郭をいくつかに分けてて少しづつずらしながら全体のフォルムにつなげていくのがセザンヌの革新的な技法だったのだ。