(1)まえがき(4頁)
幸せにも画家以外の仕事をしないで、来年(2006年)の3月に還暦を迎える僕にとって、画集はともかく、文章の本を上梓することなど今まで考えた事はなかった。その理由は、絵画によって僕の表現欲求は充分みたされている事と、文章を書くことに絵の制作の時間を取られたくないという事の二点からだ。それにもかかわらず、思いがけずこの本は出来上がった。
昨年(2004年)僕は『岡野浩二作品集』をアートヴィレッジから出版した。その際、この本にも一部入っているが編集者からの勧めで何編かの文章を書いて画集に載せた。エッセイとも、芸術論とも、思い出話ともつかぬ日頃いつも考えている事を、編集者の煽てと励ましのおかげで、僕としては努力してなんとか書き上げた。
画集が出来上がってしばらくして、アートヴィレッジの越智俊一氏と原田三佳子さんから今度は文章の本を出さないかと勧められた。心は動いたけれども、一冊の本を埋める文章を書くのは気の遠くなる憂鬱な話だ。
僕には弱点がある。僕は落語『寝床』の大家を自認している。大家の義太夫好きと同じように僕に芸術論や哲学の話をさせたら、嬉しくて嬉しくてもう止まらないのだ。他の分野の事にはほとんど話題はないのだけれど、日常生活の90%の時間は画家として過ごしているのだから、当然その事について他人に話したいことが山ほど溜まってくる。僕を知らない人は一度か二度は聞いてくれる。しかし三度目位からはあきらかにへきえきとした様子で帰りたがる。そんな時はアトリエの鍵を掛けても帰したくない。丁度、蔵に逃げ込んだ番頭を追いかけて外から鍵を掛けて閉じ込め、蔵の小さな窓から義太夫を唸り込んだ大家の気持ちが痛いほど良く分る。もう周りには、僕の話を聞いてくれる人はいないのだ。歳をとるるごとにその傾向は増して今では他の画家や友人に至るまで酒肴を用意しても聞いてくれる人はいないのだ。
そんな僕に越智氏と原田さんが涎のでそうな提案をしてきた。二人を前にして僕が思う存分話し、それをテープに取って文章に起こし、その文章を基にして僕がもう一度パソコンのワードでリライトしたらどうでしょう、というものだ。ワードでのリライトは憂鬱だが、二人を前に思う存分義太夫を語れる誘惑には『寝床』の大家には抗し難いものがある。おまけに、二人は煽て上手ときている。気がついたら僕は義太夫を唸っていた。
というわけで、この本は2004年の11月から2005年の5月まで合計四回二人がアトリエに来てテープに取った僕の発言を原田さんが文章に起こし、僕がもう一度リライトしたものです。調子に乗って舌禍したところも度々ありますがあえて頑固爺で押し切ります。また直接公開を問わず、僕の独断的芸術論に対しての反論も大歓迎です。ディベートも大好きですので。
思い返せば、僕の画業にとってマチスの『画家のノート』(みすず書房)はどれだけ役に立ったか計り知れない。僕がマチスの本に助けられ、励まされたように、この本がこれから孤独で厳しい芸術の道を歩もうと志している若い画家の人達に少しでも参考になれば法外の幸せです。そして、この本を読んだ若い絵描きがアトリエに僕の芸術論を聞きに訪ねて来てくれることを「寝床」の大家は独り首を長くして待っています。
(2005年10月22日 アトリエにて)