岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

随想

【画中日記】

投稿日:2019-04-07 更新日:

画中日記(2020年)

『画中日記』2020.01.01【新年に】

新しい年を迎えた。パソコンに向かっている。まだ夜は明けていない。(時間は5時45分)。

今年の干支は子で、私は今年の3月で74歳になる。ここ数年、世界は、構造的地殻変動が起こり、パラダイムシフトが起こっている。色んな事が、自分にも、自分の周りにも、国にも、世界にもこれまで起こっているが、その変化は、良き方向に向かっている。昨年のあいちトリエンナーレ騒動のように、読売アンデパンダンからの現代美術の内容のフェイクと、その裏に芸術とは無関係の金銭や政治や、マスメディアがからんでいることも露わになった。そして私が、この良き時代の変化を、目にし、生きられ、生きることを天に感謝します。美を超越と信じ、一生を美に向かって描写のスキルを磨いてきた画家の出番がやってきた。今年の6月に、個展を予定しているが、イーゼル画の具象絵画と、抽象印象主義の抽象が、切れ目なく連続していることの証拠の作品を展示したいとおもっている。

今日は、そのキャンバスを張ろうと予定していたのだが、昨年の暮れからのダン箱作りを残したので、これからそれをやります。初詣は、後日参拝します。

以下の文章は、去年と一昨年の新年の画中日記の文章をペーストしたものですが、今年も同じ気持ちで過ごしたいと思います。

今日のこの時を迎えられるのは、実存の煩悩に振り廻され、迷い道に何度も入り込んでも、美への信仰心の強さとベクトル(進む方向)が正しかったという証拠だろう。

仏教用語に八正道という修行の実践の徳目がある。正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定(しょうじょう)の8つ、すべて正という字が頭に付いている。行き先も方向も決めないで、ブラブラ歩いても、せいぜい自分の身の周りをぐるぐる廻るだけでどこにも行き着けない。地図や海図と、磁石や羅針盤無しに、なんとかなるだろうとガムシャラに進んでも道に迷う。

世界は、「正」という文字を頭に付けると全ての物事がキッチリと見えてくる。それは、正しいのか間違っているのか、だ。行き先は正しいのか間違っているのか、持っている地図は正しいのか、持っていく物は正しいのか(余計な持ち物は反って邪魔になる)。

この先、日本はますます世界中から尊敬される国になるだろう。どうしてかというと、仏教的『全元論』の世界観を、仏教の伝来する以前から持ち続け、その世界観を国民一人一人が持ち、生きていて、間違いを国民全体で正して現成している、昔から現成していた、奇蹟のような国だから。日本人の世界観が、世界の存在の法(ダルマ)を、身の内に持って生きているから、つまり、地図と、磁石が正しいから。

新年から明るいね、今年も頑張るぞ。

『画中日記』2020.01.02【自我意識について①】

大倉氏との『正法眼蔵』の抜き書き下のコメント後の対話から、いい文章が書けたのでここにアップします。

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岡野岬石;西洋哲学の自我は、神に対する人間の自我で、全て欲望と執著のフィールドにあります。それが、世界の認識にバイアスをかけるのです。

岡野岬石;自我は、もともと、日本人は持っていない概念でした。西洋でも、神が地上を支配していた時代は個人の自我意識はありません。西洋では、ルネッサンスで人間が特別の存在として勃興し、カントのドイツ観念論が自我の存在を確立しました。日本では、自我意識を強く押し出し、自我意識のない日本人をおとしめたのは、イギリスに留学して西洋文化に圧倒されノイローゼになり、西洋かぶれして帰国した夏目漱石、大正ロマンの石川啄木、戦後は大江健三郎、岩波書店、朝日新聞などの路線です。

悉有はマンデルブロー集合のような形態をしているのだとしたら、人間の身体も、心も例外ではありません。まして、自我などこの世界から境界をもって、特別に存在するはずはありません。

岡野岬石;軌持に沿って生きていくと、世界の見え方が変わってきます。令和になって、これからは、「真・善・美」にシンクロする場が多くなることでしょう。貴方も私も間に合いました。喜ばしく、嬉しいことです。

『画中日記』2020.01.03【自我意識について②】

大倉氏との『正法眼蔵』の抜き書き下のコメント後の対話から、いい文章が書けたのでここにアップします。

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岡野岬石;そこは、重大な、誤解がおきやすいところで、自我を欲望の執著の場所で捉えるから、人生上の幸福を、欲望の満足として捉えるから、仏教の全元論が、世界の人に解りにくいのです。

宇宙も地球もお釈迦さまも道元も香嚴も貴方も私も竹もホウキも石コロも悉有の存在が奇跡的な現成なのです。

マンデルブロー集合という悉有の設計図の複素数の一点を、世界に落としたのがこの世の私という現実存在で、この世に現成した存在の全体が、悉有なのです。ですから、道元のいう「身を軽くして、法を重くせよ」とか達磨の言った「廓然無聖(かくねんむしょう)」とは、自分を世界の法と同調させなさい、ということを言っているのです。人間一人ひとりの存在はそうなっているのです。これは、マンデルブロー集合をみれば、部分も全体も、ミクロもマクロも自己相似形なので例外はありません。
自分の心の中を、法の設計図で組み替え直せば、貴方も私も、誰もが成仏できるのです。
日本はこの世界観を、国体と国民が持ち続けてきたから、存続し続けてきたし、これからも存続しつづけるでしょう。存在が法の軌持に沿っているのですから。

『画中日記』2020.01.05【昨日は】

昨日は、午後西東氏と藤樫氏がアトリエに来訪。写真家の藤樫氏が写真をフェイスブックのメッセージに送ってくれたので、その写真をすべて投稿します。普段は描きかけの絵が、沢山掛かっているのだけど、3が日にダン箱を作り終えて、絵を入れ、すっからかん。6月の個展に向けて張った白いキャンバスがあるのみの生憎のアトリエでした。せっかく来てくれたのに、やはり私が喋り通し、油絵オタクの独居老人ですのでご容赦を。数年前までは人と会った後は反省していたのだが、いまやもう反省もしないで、開き直っている。「ハイハイ、私はそういう老人ですので、ごめんなさいヨ」

写真には、私が気持ちよく喋っているところが写されている。周りには、ストレスだろうけど、本人はストレスもなく元気な訳だ。

『画中日記』2020.01.07【筆始め】

昨年からの描画以外の仕事を、昨日全て終わったので、今日は朝から新作の白いキャンバスにとりかかった。これからの作品は6月の個展用の作品だ。今年の絵画上の目論見は、具象と抽象が切れ目がなく連続し無矛盾で反発しないということを証明したい。久しぶりの抽象作品で、アイデアは昨年の暮れから、色々と湧いてきていて、腕が鳴って(昔の剣豪の戦いの前の現象)いたので、楽しかった。イーゼル画(油絵具)と違って、アクリル絵具で描いたので、明日油絵具でこの上に描けるだろう。

『画中日記』2020.01.09【抽象と具象】

大倉氏との『正法眼蔵』の抜き書き下のコメント後の対話から、いい文章が書けたのでここにアップします。

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岡野岬石;一見すると、抽象と具象は離れていて矛盾するように、見えます。私も昔は、そう思っていました。光は粒であるか波であるのかという物理学のアンチノミーの問題に似ています。道元も只管打坐といいながら、『正法眼蔵』その他の著作で不立文字、教外別伝と矛盾しています。香嚴は「画餅」、画の餅は食えない、といって集めていた書籍を焼いてしまいましたが、『正法眼蔵』の「画餅」では不立文字、教外別伝を否定しています。

例えていうと、かっての私の絵の考えは、抽象は数字の100から数字を揃えて下りていき、具象では数字の1から上がっていっていたのです。初めのうちは、両方の数字は離れていましたが、イーゼル画と道元で、間隔のある数字の列も、きっと連続して繋がるはずだという確信的な予想をもちました。

今度の個展は、その間を連続して繋ぐ作品を描こうとおもっています。抽象か具象か、イーゼル画かアトリエ画か、ではなくて、両方の世界を包含した上位概念の世界観を描写した作品を現成させられれば、とおもっています。

『画中日記』2020.01.09【2m×80cmの作品】

6月の個展用の、メインの作品を、昨日キャンバスを張り、今日アクリル絵具で下塗りをした。この作品は、2m×80cmで縦に使った。もう1本同じサイズの木枠があって、それは横に使うつもりだ。

この木枠は、2010年にお亡くなりになった、三栖右嗣さんから回ってきた巻キャンバスと木枠の最後の2本だ。巻キャンバス数本は東伊豆からのイーゼル画で惜しみなく張って、ありがたく使い切った。木枠は2m×2mが2本、2m×80cmが2本あって、2m×2mの木枠2本は、富士山の作品を描いてすでに使った。残った2m×80cmの細長い木枠が残り、今度の個展で使い切るのも、感慨が深い。

三栖さんと『赫陽展』を結成、展覧したのは1976年で、私が30歳の時、今から44年前だ。三栖さんがこれらの木枠で描こうと思っていた絵も想像がつく。その木枠のキャンバスに、私がこれから絵を描いていく。この絵が完成、現成するまでに44年間の因と縁がフラクタルに関わっているのだ。

『画中日記』2020.01.21【恁麼人(いんもにん)】

今朝、壁に恁麼人(かのような人)が現れた。早朝、まだ外は暗いので手元の蛍光灯スタンドを点け、パソコンの音楽で、マーラーのアダージェットを聴きながら、お菓子とお茶の後、タバコを一服するのが私の一日のルーティンだ。その時に、アトリエの壁に人の影のようなものが現れた。現象の原因は、手元の蛍光灯の光が、移動式室内H型画架と、その後ろに干してある私のシャツの組み合わさった形態に横から当たって、後ろの壁に射影されたことでできたものだ。

ちょうど、フェイスブックに『正法眼蔵』の「恁麼」の章をアップしているところなので、恁麼の意味するところが解った。

この影の人物は、髪の毛もあるので、若い頃の私に似ている。似ているのは当たり前で、シャツが若い頃私が着ていたものを仕事着に下ろしたものだからだ。そんなことを考えているうちに、私という存在そのものが、この影のような存在と何ら変わりがないということに気付く。『全元論』、「世界はそうなっている」の証拠の写真です。

『画中日記』2020.01.23【第5回『イーゼル画会』展、明日から】

今日は昼から、藤屋画廊での「第5回イーゼル画会展」の搬入、飾り付け。さて、今年の展覧会会場では、どのような出遭いがあるのだろう。

世界も個々人の人生も、相が転移する時には、バタフライ効果といって、蝶々の羽の動きが、大きな天候の変化のキッカケになることがある。人生の分岐は明日からの画廊で起こるかもしれない。そういう期待で、画家として半世紀を過ごしてきたのです。結果として、バタフライ効果は確かに存在しました。過去には存在しましたが、老いたりとはいえ、これからはもう歳だから存在しないとは思えません。その期待をもって、いつものように、毎日画廊にいますのでご高覧、そして話しかけてください。6月には同画廊で個展の予定です。

『画中日記』2020.02.10【第5回『イーゼル画会』展が終わって】

1月8日に「第5回イーゼル画会展」が終わり、1日おいて今日は久しぶりに絵筆を握った。これからは、6月の個展に向かって、アトリエで抽象の作品に向かう。

イーゼル画会展では、毎日藤屋画廊に出て、多くの人に出会った。作品も人も出来事も、一見頼りなく、偶然で、でたらめにみえるけど、その因と縁を遡れば「他生の縁」からの、全世界の存在にまで行き着く。だからこそ、一瞬一瞬を後悔しないように、ベストを尽くさなければならない。メンバー全員の絵も、イーゼル画をやることによって、どんどんスキルアップしてきていて絵を見るのが嬉しい。展覧会同時期の武漢ウイルス問題を比べると、まさしく「善因善果、悪因悪果」である。武漢のウイルスもなんらかの悪因であろう。日本は津波も、敗戦も国民一人一人の性善の力で乗り越えたが、中国の今回の悪因は、国家的悪果をもたらすことになりそうだ。

今日は、手賀沼の日帰り温泉に行くかどうかと迷ったが、2週間絵を描かなかったので、筆を持つことに禁断症状ぎみだったので、キャンバスに向かった。

フェイスブックの写真は、今日アクリル絵具で下塗りしたF15号3点の写真で『石見畳が浦海岸海蝕洞』を抽象画にしたものです。明日から油絵具で完成にもっていきます。

『画中日記』2020.02.12【大倉氏へのコメント返し】

私たちは在家で生きていかねばなりませんので、お金(絵が売れるということ)も名利(勲章や芸術院会員)も、こちらから求めるのではなく、相手が与えてくれるのなら「ご接待として喜んでいただきます」という態度で生きていくのがいいとおもいます。

出家者の戒律は、仏陀の死後、行乞で生きるという問題で、供物を蓄えていいのかという問題や、お金を供物の代わりとして貰ってもいいのかという問題が出てきました。のちの大乗仏教ではその問題が上座部(長老派)との大きな食い違いでした。中国に渡った禅宗では、歴史と国民性の違いから、それを自給自足で乗り切ったのです。

日本では、仏教伝来以前から「全元論」の国なので、天皇陛下と国民の関係のように、皆んなで生きてき、これたのです。だから、お釈迦さまや、道元が今に生き続けている、奇跡の国なのです。

『画中日記』2020.02.17【大倉氏へのコメント返し】

鐘のゴーンと鳴る音は実有です。竹に石が当たってカーンと鳴る音も実有です。今、今、今、今、と現成する世界全体は夢幻ではありません。過ぎ去った過去も、希望する未来も、今にとっては幻想ですが、因と縁は今に流れ込み、新たな因と縁で分岐し、流れ出します。

世界全体の実有は、デタラメや偶然で動いているのではありません。実有の設計図というか方程式はあって、それに沿って動いているのです。それを軌持といって、それに沿って日々を過ごしていくことを、行持というのです。

人間や自我の外に、「真善美」という軌持を持つ人や国と、持たない人や国の争いが、今の世界の紛争の構造でしょう。超越を内に抱えていない人の人生は、生きることの目的が、自分の欲望の充足しかないことは自明の理です。ですから、暴力と買収とハニートラップを使って、自己の欲望を膨らませるのです。
日本は大丈夫だし、世界は大丈夫です。世界全体、宇宙全体も軌持に沿って動いているので、「善因善果、悪因悪果」になるでしょう。
国民、一人一人が軌持に沿って生きていれば、日本は不滅です。国も、国民も、フラクタルな自己相似形の奇跡的な国が、邪悪でグロテスクで無能な国や人に、負ける訳がありません。

『画中日記』2020.02.22【『読書ノート』に今朝打ち込んだ文章より】

今フェイスブックにアップしている『読書ノート』の文章は、2015年に読んだ本の抜き書きを順次載せています。当然、『読書ノート』は続いていて、今朝も打ち込みました。

今日の文章は、釈尊には珍しい、画家の行為に関する重大な文言なので、長い文章ですがアップします。ポストモダンの現代芸術家には耳がいたいですヨ。

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■ある役者のために またある時のこと、釈尊がかの王舎城の郊外なる竹林の園にあった頃、タラプタというある村の長がたずねてきたことがあった。彼の村は、代々芝居の役者を業とするものの村であったらしく、経のことばは彼のことを歌舞伎聚落の主であると記している。

さて、彼が釈尊を訪れて問うたことは、その村の代々の言い伝えについてのことであった。

「大徳よ、わたしは、昔から代々の歌舞伎者の言いつたえとして、かように聞いております。すなわち、すべてこの歌舞伎者は、舞台において真実と偽装とをもって人々を笑い楽しましむるがゆえに、身壊(こわ)れ命終りし後には、喜笑天に生まれることができると、かように聞いておりますが、世尊はこれについて如何にお考えでありましょうか」

だが釈尊は、このように問われても、すぐには答えようとしなかった。

「村の長よ、そんなことを問うのは、止めたがよいであろう。わたしにそんなことを聞くのは措(お)いたがよい」

それでも彼は、問うことをやめなかった。経のことばはそれについて何ごとも記していないが、おそらく彼は、この言いつたえについて、何か疑いをもち始めていたのではなかったであろうか。そのゆえにこそ、彼はわざわざ釈尊を訪れて、このことについて教えを乞わんとするのではなかったか。釈尊は2度までも、問うことを止めよ、とすすめた。彼はそれを押し切って、3度びおなじ質問をもって釈尊の教えを乞うた。そこで釈尊は、それほどまでに問うならばと、大体つぎのように説いたのであった。

「村の長よ、昔から歌舞伎者は、よく真実と偽装とをもって人々を笑い楽しまましめるがゆえに、死しての後は喜笑天に生まれる、と言い伝えているというが、それは邪(よこし)まの見解であると申さねばならぬ。なんとなれば、昔から歌舞伎者のしていることを考えてみるがよい。歌舞伎を見ようとして集まってくる人々は、まだけっして貪欲をはなれてはいない。その人々のまえに役者たちは、あらゆる貪欲の対象をあつめ展じ、かつそれを強調して人々の心をかきたてる。また彼らは、いまだ瞋恚(しんい)をぬけきらぬ人々のまえに、あらゆる瞋恚のさまを演じ示して、人々の激情をかきたてる。さらにまた、彼らはいまだ愚痴を脱しきれぬ人々をまえにして、さまざまの愚痴のすがたを演出して、いよいよ人々の愚痴をふかからしめる。かくのごとく、村の長よ、歌舞伎者はみずから貪欲に、瞋恚に、愚痴に陶酔して、それによってまた他の人々をも貪欲に、瞋恚に、愚痴に陶酔せしめるのである。されば彼らは、死して後には、喜笑と名づくる地獄におちるであろう」

それを聞いて、タラブタなる歌舞伎聚落の主は、涙をながして泣き悲しんだ。その姿をみて、釈尊は、しずかに慈眼を彼にそそぎ、

「だからこそ、村の長よ、そのようなことはわたしに聞かぬがよいと言ったではないか」

となぐさめ給うた。すると、かのタラブタは、やがて涙にぬれた顔をあげていった。

「大徳よ、わたしは世尊の教えたもうたことを悲しんで泣いているのではありません。わつぃが悲しいのは、これまで歌舞伎役者の言い伝えに、ながい間だまされていたことであります。だが、いま世尊のおしえは、蔽(おお)われしものを啓(ひら)くがごとく、迷える者に道を示すがごとく、暗中に燈火をもたらして、眼のあるものは見よと仰せらるるがように、わたしのひさしい蒙を啓いて下さいました。わたしはいまや、世尊と世尊の教法と比丘衆に帰依いたします。大徳よ、願わくは、このわたしが世尊のもとに出家を許され、修行することを許したまえ」

かくて彼は、出家を許され、修行をかさねて、やがて阿羅漢の一人となることを得たという。この経は、南伝においては相応部教典(42、2、布吒)に、また漢訳においては僧阿含経(32、2、動揺)の中にみえている。(『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18、213~215頁)

『画中日記』2020.02.29【80×200cmのキャンバス(1)】

2m×80cmのキャンバスの2点目を、今日油絵具で描き始めた。

この木枠は、2010年にお亡くなりになった三栖右嗣さんから、私の処に廻ってきた品だ。このような細長い大作の絵を私が描くことの因縁は、三栖さんと初めて会った1976年に遡る。三栖さんがどんな絵をイメージしてこのような特殊な寸法の木枠を用意していたのか、という疑問も、先日ほぼ見当がついた。

私のこの絵は、過去の瞬間のどの一点の出遭いも、分岐に分岐を重ねて、今日のこの作品に流れ込むのだ。『全元論』だねえ。道元の言う通り!

『画中日記』2020.02.09【80×200cmのキャンバス(2)】

80×200cmのキャンバスの2点目を、今日描き終えた。

80×200cmの木枠は2本あって、1本は『垂光』という作品でキャンバスを縦にしてすでに描き終えている。

これで、6月の個展のメインの作品は出来たので、次は歩道沿いのウインドウに展示する作品に取り掛かる。

『画中日記』2020.03.12【「我孫子アートな散歩市」展示用テキスト】

私は、「抽象印象主義」の抽象画と、「イーゼル絵画」の具象画を並行して描いてきました。近年、抽象(演繹的方法)と具象(帰納的方法)を矛盾なく、連続して繋ぐことに日々挑戦しています。

2010年にイーゼル画を始め、画面から眼までの〈連続する〉斜めの空間の描写に気付き、その空間を抽象画の表面に加え、変換することによって、抽象画に足りなかった「物感(画面の上の形象の実在感)」を表象したものが、今回の2点の作品です。

1点は島根県の浜田市にある畳が浦海蝕洞の現地で描いたイーゼル画、もう1点は、同じ光と空間を、アトリエで抽象画で描きました。画家を志し、描写絵画を半世紀、「世界はそうなっている」ことの描写スキルを磨き続けた結果が、ここまで来ました。

『画中日記』2020.03.13【『正法眼蔵』「画餅」について】

この「画餅」の章の道元の言っていることは、描写の方向で美を追求している画家には、心強い味方になります。

私は2010年から、東伊豆でイーゼル画をやっている最中にこの文章に出会い、当時、たった一人でこの方向に漕ぎ出しているのだが、自分の地図と羅針盤は間違い無いと確信しました。

だって、セザンヌもマチスもやっているし、道元も言っているのですから。私が間違っているのなら、セザンヌやマチスや道元が間違っている、ということになるのですから。

『画中日記』2020.03.19【虹】

この写真は、3月16日の17時頃、壁に掛っている私の絵に、パソコンの角のアクリルがプリズム状になっているところに足の長い太陽光があたり、偶然画面の空に虹がでているように見えた写真です。デジカメは便利だねえ。すぐに写真に撮った。

この写真が、直接絵に役立つかどうかは分からないが、「全元論」では、部分と全体、一刹那と一生が廻り回って、何らかの形で現成するのだ。

『画中日記』2020.03.22【大倉氏へのコメント返し】

スティーブ・ジョブズ(マックのパソコンは最初から現まで愛用していますが、彼がパナマ文書に名前が出ていたことで、私の彼に対する評価はガタ落ちしました)のスピーチは知りませんが、この文章は、世界存在の時間性について言っているのだと思います。

ガモフの『1・2・3・・・無限大』の本の中に、ジュリア集合のことが書いてあります。この集合が、コンピューターを使ってマンデルブロー集合に発展していくのです。ユーチューブにマンデルブロー集合の動画も出ています。図像には、部分がありません。拡大しても縮小しても無限に自己相似形な形がでてきます。始まりも終わりもありません。ただし、「輪廻」ではなくて、同一の局面は一度もありません。

問題は、このプログラム(仏教では「法」とか「軌持」とか「道」という)を誰が打ち込んだかということです。一神教では、神が打ち込んだと言っていますが、では、その神がいる時空は誰が創ったのでしょうか。お釈迦さまは、哲学好きのマールンクヤからの問いに、その問いはもう止めなさい、と言っています。

「世界はそうなっているのです」。

その世界の中に存在する自分を、お釈迦さまも道元も身心で体感したのです。
道元の『正法眼蔵』はその世界存在を繰り返し繰り返し、丁寧に文章にしているのです。

『画中日記』2020.03.28【大倉氏へのコメント返し】

「ありのまま」の解釈は、天台の本覚思想のように、間違がいやすい概念です。仏道に入った道元が最初に突き当たった疑問が、「八正道」の本(もと)の正しい修行を積むことの意味です。

私も画家として「正しい」描写、描写の「正しさ」、正しく描写するとはどうやって身につけるのかという問題にズッと取り組んできましたから、若い道元の問題意識は人ごとではありませんでした。

それは、近年の「イーゼル絵画」の取り組みや、道元の『正法眼蔵』で正しさの確信をつかみましたが、具体的には、ランダムドットステレオグラム(3Dアート、立体視図)が大きなヒントになりました。
無秩序でデタラメな点の集まりに見える表面が、視点をずらせば立体が浮かび上がる。しかも、その立体は、点の集まりの、構造ではなく表面にある、ということです。ナチュラルな視点で、どんなに分析研究しても、一生かけても見えません。立体像が、自分で見えた時、感動し、一気にセザンヌが解りました。そして、その他の画家の為していることの理解が進みました。
セザンヌは、彼の眼が見えているとおりに「ありのまま」に筆を走らせているのです。ナチュラルなドットしか見えない画家には、その作業は、デッサンがクルっているとか、デフォルメや造形しているとしか理解できません。
「ありのまま」は今も昔も現成公案しています。しかしながら、ナチュラルな視点では、いつまでたっても見えません。道元はそれを只管打坐で見なさいと言っているのです。
3Dアートは、簡単に見えますが、世界存在から全体の形態が見えてくるのは、画家も、八正道の修行なしには為し得ません。まして、その形態を絵としてこの世に現成させるには、どれほどの修行と努力と、それへの意志の持続が必要か。だからこそ、その行為で人生を過ごす喜びは、他に変え難いのです。

『画中日記』2020.03.28【武漢ウイルス(1)】

下記の文章は、2月10日の『画中日記』に書いた文章の一部です。

《展覧会同時期の武漢ウイルス問題を比べると、まさしく「善因善果、悪因悪果」である。武漢のウイルスもなんらかの悪因であろう。日本は津波も、敗戦も国民一人一人の性善の力で乗り越えたが、中国の今回の悪因は、国家的悪果をもたらすことになりそうだ。》

この文章を書いてから、1ヶ月以上経って、世界の状況はますます大変な状況が拡大している。そのなかで、日本と日本の友好国だけは、最少の被害で乗り切るであろうし、また、経済的被害もこの厄災が終わった後、すぐに復活するだろう。

「善因善果、悪因悪果」は存在の常恒の法(ダルマ)である。津波や地震や台風のように天からの災害はあまんじて引き受け、国も一人一人も出来うることにベストをつくしていれば、過去の日本がそうして、こうなったように、チャンとするし、チャンとなるさ。津波や原子力発電所の事故の時でさえ、あの悪夢のような、オロオロして何も適切な対処ができなかった民主党政権の時でさえ、国民の力で乗り切ったのだから。戦後歴代最高の仕事師安倍首相とブレーンを持っている現在、おまけに、通常のウイルスに毛の生えたくらいのウイルスごときのことに、国民がオタオタすることはない。日本は、福島フィフティや自衛隊のように常に現場にまかしておけば、安心なのだ。

中共は、この悪因を作ったのだから、当然最も大きな悪果が降りかかるだろう。他の国も、世界観に悪を抱えている部分に悪果が出るだろう。アメリカは、ヒラリー・クリントンが大統領だったら、と想像すると、まだ幸運だった。トランプ大統領でよかった、よくやっている。

こんな時に、悪因の本(もと)の人間の欲望(お金)で動く人たち、買い占めに走ったり、買い占めて儲けようとする人たちもまた、悪果を得るだろう。東京都やいくつかの県や、自民党議員がマスクや防護服を中国に送ったが、それらの品物の実際の流れ、どうやって送り、誰に渡したのかの追跡はどうなっているのか(意外と、品物は動いていなくて、それを売り捌く中国人からのキックバックを、送った方が貰っているという邪推も可能だ)。そして、ネットによって、嘘や偽善はおいおい暴かれるだろう。

自分の命や、自分の権力や、自分のお金のために、平気で他者や他国や自然を、蹂躙し虐殺し汚すような人達が跋扈(ばっこ)する国が、良くならないのは当たり前のことだし、その悪を懺悔し反省しなければ、その国に住む人たち共々に厄災が降りかかってくるのはもう、歴史的必然である。

『画中日記』2020.04.09【武漢ウイルス(2)】

武漢ウイルスの厄災で日本のなかでも騒がしい。しかし、私は安心している。日本人のそれぞれの現場はしっかりとした仕事をやってくれている。そして、今の安倍首相から末端の国民一人一人まで、自分の為すべきこと為していれば、そのうちに、この大きな厄災も、日本では通り過ぎていくだろう。 

世界の中では、各国家的な大厄災だが、今もし、世界の中に、日本という国家がなかったならば、世界中の各国家、その中の一人一人の個人の不安と恐怖は、出口のない絶望的な状態だろうな。おまけに、この状態の中でも、火事場泥棒をしようとする人や、国や、組織があるのだから。また、そのような「真・善・美」の規範をもたない、欲望の悪魔的信仰を自分の生きる羅針盤にする人や、国家や。組織が日本以外の国では、今まで大手を振って通ってきたのだから。

今、世界中の人たちは日本を頼りにしているだろう。日本の行動が、この厄災を乗り超える唯一のサンプルとして、頼りにしていることだろう。そして、近い将来、日本の行動が、この厄災を乗り切るフォームであることが解ってくるだろう。三陸の大津波で日本の政治が変わったように、武漢ウイルスが通り過ぎれば、世界は、世界観の根本から、流れが変わるだろう。

ルネッサンスからカント以降の、世界の哲学的世界観を支配してきた、人間中心主義(ヒューマニズム)は誤謬があったし、今でもある。このことは2018年に出版した拙著『全元論』に書いたので端折るが、とにかく、武漢ウイルス以後は、日本が世界を、全元論的世界観の本(もと)に引っ張っていくだろう。過去に、西洋列強国からアジアの国々が独立したように。

『画中日記』2020.04.09【武漢ウイルス(3)】

武漢ウイルス問題は、今日本でも一部大騒ぎしているが、大変なのは、矛盾や問題を抱えた国や国民であって、日本は、私が前から言っているように、大丈夫、安心なのだ。以下、その理由を書く。

まず、外国では、あんな小さな武漢ウイルスごときに大騒ぎをするのか、大騒ぎになるのかというと、それは、原因を取り違えているからだ。そして、その厄災を乗り越え、復活、復興する手立てを、国家も国民も持っていないので、自らの矛盾、欠損、齟齬を抱えたまま、ただ運命になすがままだ。それは、嘘は一度でもつくと、その嘘を正さなければ、嘘の上塗りになって、嘘をつき続け、問題がどんどん大きくなるのと似ている。

日本では、盲腸炎で死亡することはないが、保険なしに医者に行き、手術でもしなければならなくなると100万円以上かかるとなれば、また、売薬が安価で効く薬がすぐに手に入らなければ、いまだに盲腸炎で死亡する人は世界中に数多くいるだろう。盲腸炎だけでなく、切り傷、擦り傷でも、消毒しなければ、敗血症で死ぬ人も出るだろう。武漢ウイルスにかかっても、多くの国の、多くの国民は、ただ自然治癒にまかせるままだ。さらに、中共の国民が罹患でもしたら、その人と家族は、治療も受けられず、周りからも排除されるので、路上で倒れるまで、病気を隠すだろう。だから、そんな国の国民は、地震や台風や津波に比べて、ウイルスごときの小さな厄災に、右往左往、大騒ぎするのだ。

天は、恵みも厄災も、いついかなる国、人にも平等にもたらす。平等に降りかかってきた危機を、キッチリと対処して乗り越え、現在、復興してこれたのは、日本の歴史をみれば、明らかだ。それは、昔から、国民一人一人が〔真・善・美〕の法を、自分を超越する天の法を、世界観の内に抱えているからだ。そして、与えられた自分の仕事を、一人一人がフェイクでごまかさず、きっちりとやり遂げるからなのだ。一見、そして、一時期、金と力で繁栄しているようにみえるが、〔真・善・美〕の法に沿わないかぎり、存在と歴史は長続きすることを許してはいない。

武漢ウイルス以後の世界は、金と力(人間の欲望のシンボル)を世界観に持つ国や国民や団体が、〔真・善・美〕の法を世界観に持つ国や国民や団体とが入れ替わるだろう。三陸大地震の後、日本で構造的変化があったように、何年か立つと世界の歴史がそれを証明することを、私は確信している。

という訳で、私はこれから〈美〉という超越に向かって絵を描きます。それが、天から与えられた、画家の使命なのだから。

 

-随想

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