岡野岬石の資料蔵

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スタンフレームラダー

投稿日:2022-11-12 更新日:

スタンフレームラダー

この日は、新聞に載ったせいで、室蘭ユースホステルですべてを終えて、玄関横の喫煙所で一服していると、車が入ってきて、地元の人が話かけてきた。アマチュアカメラマンで自分の写真を見てほしい、という。今日やるべき事はすべて終わっているので、部屋で彼の写真を見た。丁寧にアドバイスをして、私にデータを送れば、私がユーチューブに動画を作って投稿してあげる、といって別れたが、パソコンもメールもやっていないそうで、その後の連絡はない。彼とは、それっきりかも知れないが、私の内(なか)では過去につながる。彼の仕事の話のなかで、私の父の仕事のなかの、私が長年知りたかった「スタンフレーム ラダー」という単語の意味がわかったのだ。この話は近々、エッセイで私のフェイスブックにアップしようとおもう。まあ、すべては全元論、「袖擦り合うも他生(多少ではありません)の縁」だね。(『イタンキの丘(室蘭)だより』(12) 2022.09.13【金屏風展望台】からのぬきがき)

本文

①1964年の夏、父は単身、室蘭にある工場に数週間技術指導に出張した。出張から帰って来る時に、工場の人から貰ったたくさんのお土産と、色紙額に入った現場の人の寄せ書きを持ち帰った。おみやげは、北海道の特産品で、ぎっしりと詰まったたらこや、王子のサーモンの燻製、本州ではなじみのない四つ葉バターの缶詰(これは、私が下宿に持っていったが、冷蔵庫がなかったので、溶かしてしまった。溶けたバターでも全部使ったが、バターは溶けるとまったく別物になることを知った)等々。色紙は父母の居室の壁に掛けた。

色紙に何が書いてあったのかは、実家の父母の居室でいつも目に入るので、無意識のうちに覚えている。色紙の中心に、「岡野様に、スタンフレームラダーの製造法を教えていただき、ありがとうございました」と書いてあり周りに現場の人の名前が、放射状に10人以上自署されている。私は芸大の1年生で、父の仕事については興味はなっかたので、仕事内容については聞かなかったし、父もなにも私に話さなかった。

②翌年の春、私が芸大の1年と2年の間の春休みに父の叙勲で、皇居への案内に私が付き添った。まだ、二十歳前で頼りのない付き添いだが、玉野の三井造船所から新しく工場を造っている千葉の三井造船に、定年後(当時は55歳で定年)嘱託で、私のために転勤してきた状況では、東京の大学に通っている私しか、付き添いを頼むしかないのは仕方がない。

この時の話は、『岡野岬石の資料蔵』のサイトの中の【パラダイス・アンド・ランチ】(父の叙勲)にアップしています。https://okanokouseki.com/【パラダイス・アンド・ランチ】(父の叙勲)/(不定期につづく)

③ 私は、父の叙勲の根拠やその推薦は、永年勤めあげ、今は嘱託で勤めている三井造船所からのものだと思っていた。だから、叙勲後アポなしに本社を尋ねたから、急遽パレスホテルでの昼食となって、『パラダイス・アンド・ランチ』の(父の叙勲)の話になったのだが、いくつかの疑問が、今回の室蘭行で明らかになった。不思議な因と縁で、世界はつながっている。「袖ふれあうも他生の縁」、世界はそうなっている。『全元論』(2018年に出版した私の著書)を確信する。

いくつかの疑問と、それが氷解し、全体像が明らかに浮かび上がってくる過程を少しづつ書いていきます。

④ まず第一の疑問は、何故三井造船所の本社を、アポなしで尋ねるまで父の叙勲を知らなかったのかということだ。

この疑問は、先年、私の故郷の玉野に絵を描きにいっていた時に、同級生で三井造船所のホワイトカラーで勤務して定年退職した佐々木正彦氏に、この間の事情を問いただしてみた。つまり、私の聞きたかったことは、父の叙勲を、なにも知らなかった三井造船所の本社は冷たいではないか、ということだ。

彼の言うことには、三井造船所の千葉工場は、玉野工場から別れて最初は玉野からの人材で発足したが、工場ができあがると、別々に動いて、交流や関係はほとんどなかったということだった。佐々木氏は千葉の大学を出て、三井造船所の千葉工場に就職しようとおもったのだがかなわず、ワンクッションあって、玉野工場に就職し、定年後も玉野で暮らしている。

時は過ぎて、三井造船所は玉野工場も千葉工場も今はなくなって、違う会社になっている。

⑤ 三井造船所の玉野工場と千葉工場が関係が薄いとして、では何故嘱託で勤務し、まだ建設途中の千葉工場で、叙勲されたのだろうか。

この疑問が、9月の室蘭行での、ふしぎな出遭いと出来事で、室蘭での父の教えたスタンフレームラダーの制作技術とは何であるかがわかったことを糸口にして、また、帰柏してからの私のフェイスブックに、『イタンキの丘(室蘭)だより』(テキストと写真)をアップした時の写真のコメントに、フェイスブック友達の大坪さんからのコメントで、父の叙勲の全容が、ほぼ浮き上がってきたのだ。

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大坪 美穂

私は北海道室蘭生まれ。

戦争は終わっていたけれど疎開先だったので、生まれてひと月で東京に戻りました。室蘭は未だに一度も行ったことがない土地ですが、岡野さんの写真風景は祖母の家に飾ってあった油絵の風景と重なり、行ったことがないにもかかわらず、懐かしさがありました。

岡野岬石

大坪 美穂 そうですか、人も、土地も、物も、「袖ふれあうも他生の縁」ですね。

私は室蘭は初めてですが、父は、三井造船千葉工場から、室蘭の鐵工所に「スタンフレームラダー(船の舵とその軸」の技術指導に数週間教えにいっていました。そのことについては、画中日記に一文を書いて、アップする予定です。

10月21日 12:35

⑥ 今回9月の私の室蘭行は、絵を描くためで、父とは何の関係もなかった。しかし、室蘭滞在中に、父の過去の足跡の影が横切っていた。なんの関係もないと思っていた、ジグソーパズルのピースが組み合わさって、朧げな像が浮かび、帰柏後に加わった次のピースや、ネットでの検索で、ハッキリと父の像をむすぶ。

⑦ 9月7日の午後、室蘭ユースホステルの藤当氏と二人で、ユースホステルの上の、崖上の大きな家を訪問した。これは、その家の、海に面した窓からの景色がすばらしいので、私のために、室蘭で顔の広い藤当氏の好意でセッティングされたものだ。その家は、近年お亡くなりになった、日本製鋼記念病院の元理事長兼院長だった西村昭夫氏の院長退任後の自宅として建てられた家だそうだ。

この日伺うという数日前に、藤当氏から、西村氏の著書『北緯43度のドン・キホーテ』(2017年出版、財界さっぽろ)をみせられ、読書は好きなので、借りて全文読みとおした。本文の中に、東京の日本製鋼本社に行く文章があり、日本製鋼は三井系の会社だと知る。日鋼記念病院は元は企業内病院で、玉野の三井病院と似ている。

写真は、西村邸のベランダからトッカリショの方に向かって撮った一枚。

 

⑧ 9月13日、北海道新聞 室蘭・胆振版、室蘭民報 両新聞の紙面に、今回の私の室蘭描画旅行の記事が掲載された。このことも、たまたまネットで室蘭での宿泊場所を決めた室蘭ユースホステルのペアレントとして、長年地域活動をしてこられた藤当満氏のネットワークの力だ。

この日のできごとは『イタンキの丘(室蘭)だより』(12)2022.09.13【金屏風展望台】で以前フェイスブックにアップしたが、下記にその一部をコピペします。

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この日は、新聞に載ったせいで、室蘭ユースホステルですべてを終えて、玄関横の喫煙所で一服していると、車が入ってきて、地元の人が話かけてきた。アマチュアカメラマンで自分の写真を見てほしい、という。今日やるべき事はすべて終わっているので、部屋で彼の写真を見た。丁寧にアドバイスをして、私にデータを送れば、私がユーチューブに動画を作って投稿してあげる、といって別れたが、パソコンもメールもやっていないそうで、その後の連絡はない。彼とは、それっきりかも知れないが、私の内(なか)では過去につながる。彼の仕事の話のなかで、私の父の仕事のなかの、私が長年知りたかった「スタンフレーム ラダー」という単語の意味がわかったのだ。この話は近々、エッセイで私のフェイスブックにアップしようとおもう。まあ、すべては全元論、「袖擦り合うも他生(多少ではありません)の縁」だね。

https://okanokouseki.com/室蘭イタンキの丘だより/

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というわけで、「スタンフレームラダー」の意味がわかり、帰柏してパソコンの検索で、情報の枝がつながり、父の叙勲の根拠、今では、父母の結婚、そして私の出生にまでジグソーパズルは次第に広がり像をむすんでいくのだ。

⑨ 私は2018年に『全元論』-画家の畢竟地-という本を、聖人舎から自費出版した。全元論は、一言でいうと、世界は磁石のように、部分と全体がフラクタルになっている。そしてその構造は、磁石を含む空間も、時間も、世界の全存在がそうなっていて、今、ここに現成している、という世界観だ。

「スタンフレームラダー」から、神経細胞ニューロンの触手のように情報が伸びて、データが集まってくる。

室蘭行の前にネットで室蘭の情報は集めていたが、帰柏してネットで、改めて、父がスタンフレームラダーの制作現場での技術指導に来ていた室蘭の会社名を検索した。ユースホステルで会った久保氏の話で、スタンフレームラダーには鋼(はがね)が使われているということから、たぶん日本製鋼所だろうと予測し、「日本製鋼所 室蘭」でググった。

1906年明治39年)、「鉄道国有法」によって北海道炭礦鉄道から業種転換した北海道炭礦汽船は、夕張炭の納入をきっかけとする呉海軍工廠との結びつきから[11]室蘭港に面する入江を埋め立てて製鉄所建設を計画した[12]。ところが、兵器の製造を急務としていた政府は製鋼所建設を求めたため、翌年に日本国内初の民間兵器工場となる「日本製鋼所」を設立し、室蘭の海軍用地の貸与を受けて工場を建設した[13]。取締役会長には井上角五郎が就任した[注 1][12]。そのため、日本製鋼所は軍事機密に深く関わっており「世界の4大民間兵器工場の1つ」とも称されるなど軍需面で重要な位置を占めていた[14]。(ウキペディアからコピペ)

父は、結婚前に呉の海軍工廠に三井造船所から、出張していた。海軍工廠では、軍隊式の役職で呼ばれるのか、何枚かの辞令を父の写真類を入れた箱の中で見た記憶がある。そして、呉にいた母と、人の紹介で結婚した。新婚旅行の、鷲羽山の岩の前で撮った、スーツにネクタイの父と、着物姿の母の写真の記憶がある。この箱は今、どこにあるのか、もう一度見て見たい。私と弟と一緒に撮った写真もここに入っているはずだ。

話を戻すと、私の出生年は1946年3月で、終戦の次の年。私は早生まれなので、1945年生まれの生徒と同級である。戦時中で、この年の生徒の人数は少なく、翌年からの始まるベビーブームでの生徒数と比べ、後の受験戦争の厳しさはまぬがれ、私は、受験や進学というものに、悩まされされなかった。

(11) 母の一生のうちに排卵する卵の、私になる卵の一個と、父の精子のたった一個が受精して1946年3月1日に、この世界に私が生まれたのだ。

父はこの年42歳で、新兵では若くはないが、私が受精した日に、徴兵されて戦場に居なかったのは、たぶん、海軍のオファーの造船に欠かせない人材だったのであろう。そういった、全てのナンバーの組み合わせで、また、母の全てのナンバーの組み合わせで、私となる一個の卵子と父の一個の精子が出遭い受精したのだ。父の存在、母の存在も同じように父の父母、母の父母から引き継がれてきたのだ。このラインは、人類創生、生物創生、地球創生、宇宙創生のから途切れていないのだ。どこかで一箇所でも途切れると、私という存在はこの世に現成していないのだ。そして、私という存在だけではなくて、宇宙空間の内の、今・ここ、にある全存在の個々のラインは過去一度も途切れていないし、個々のものや個人はなくなっても、未来への存在のリンクのラインは無辺なのだ。

まさに『全元論』的世界観の正しさが、今年の室蘭行きの「スタンフレームラダー」という単語が全元論にまで拡がっていくことで証明されました。

あとがき

フェイスブックに『スタンフレームラダー』を連載中の、「全元論」の正しさを証明するコメントを、下記にコピペします。

大坪 美穂

トッカリショ懐かしい名前ですね!

母は小学校にあがるまで、室蘭の祖母に預けられ、よくトッカリショでひとりでグズベリーを摘んで食べ、遊んでいたと話していました。

私の祖父は日本製鋼所(日本鉄鋼所ではなく製鋼所です。)の戦後当時取締役(役職名不明)でした。近田謙輔といいます。後にパインミシンに移り、亡くなる迄鷺宮の自宅で私たち家族と過ごしました。

室蘭つながりで岡野さんとのご縁や母のこと、いろいろ思い出します。

ありがとうございます。

Mitsuru Fujitou

私の本籍はいまだに呉市です。安芸津町というところで生まれ、7歳ころから4年間呉市に住み、その後広島市で21歳までその後北海道で半世紀です。何かご縁を感じます。

岡野岬石

Mitsuru Fujitou 様 そうですか、やはり「袖すりあうも他生の縁」ですネ。

 

 

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