岡野岬石の資料蔵

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立石旻君の思い出

投稿日:2023-06-17 更新日:

 

立石旻君の思い出

 

『立石旻君の思い出』2023.04.26【私のアルバムの中から】

今日から、玉で幼稚園から高校一年の夏休みまで同級生だった、立石旻君のことをフェイスブックにアップしようとおもい、まず最初に、私の持っている写真と、学校のアルバムの中の、立石君が写っている写真をアップします。文章は、徐々に少しづつアップします。

『立石旻君の思い出』2023.04.27【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和20年(1945)

4月11日、岡山県玉野市に父省三(明治40年8月19日生)、母康子(大正5年12月9日生)の長男として生まれる。姉雛子、和江と祖父母の7人家族であった。

・8月15日、太平洋戦争終わる。

昭和25年(1950) 5歳

4月、玉野市立玉幼稚園に入園する。

・6月、朝鮮戦争勃発。

昭和27年(1952) 7歳

4月、玉野市立玉小学校に入学。2年生の時、姉の絵を描き豊かな画才の芽をみせる。成績も優秀でクラスの委員長としてまとめ役をつとめた。

昭和33年(1958) 13歳

4月、玉野市立玉中学校入学。文学・絵画への関心が深く、物事を分析する能力は抜群であった。少々老成を感じさせるほどであったが、ときとして剽軽な末っ子的一面をみせることもあった。2年生の時、生徒会長をつとめる。その年の7月に祖母ナヲが死去し(83歳)、母は祖父の畳製造販売の手伝いと野良仕事で外に出ることが多かった。

3年生の秋に、同級の相川養三、岡野浩二、清水和彦、野上秀雄等と『アカシア』同人を作り、編集者代表として3号まで発行する。「自然と人間」、「哀愁」、「歯車」の3編を載せているが、原初的な自然への憧れと、社会的な弱者に対する哀愁が早くも少年の心をとらえている。生徒会長の任期をおえる時、学校新聞に「アカデミヤのユダ」という論文を投稿し、知識人の問題を考察するなど内省的な性格を深めていった。1級下の女生徒に難解な恋愛論を中心にした手紙を送るも、みごとに失恋する。受験戦争には批判的で、就職志望の友人との交わりが深かった。

船乗りになり航海記を著すことを夢み、高等商船を希望。一次試験をパスするも結局断念する。卒業時には代表して答辞を読む。

・35年、安保闘争。(455頁)

『立石旻君の思い出』2023.04.28【遺稿集『風紋』より】

あとがき

昭和五六年六月二四日朝、玉野より、立石旻君自死の報がはいる。心当りの関係者に急いで連絡をとり、二五日、葬儀に参列する。

排気ガス自殺特有の赤味のさした顔は、やすらかなものであり、少年の様なあどけなささえ感じさせたが、その静かな眠りの背後には、学園闘争から政治過程へと突き進んだ運動の中に自らの根拠を求め、敗北後も精神の王国を求めて流浪し疲弊の涯てに郷里へ回帰するまでの、ほぼ一〇年の歳月が横たわっていた。

持続された意志の累積と結実がこの選ばれた死であることに、悲しみとも怒りとも名付け難いものをおぼえる。かっては、互いに「共同としての主題」を追求し、不可触生として囲いこむ状況の、時代の、歴史の壁に拒まれ、宙吊りのままにそれぞれの生活過程へと分岐さざるを得なかった。その後も、ともすれば日々のなりわいのなかで疎遠になるがちであったのが、自殺という一方的な交信の切断による彼との再会であった。(477頁)

『立石旻君の思い出』2023.04.29【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和46年(1971) 26歳

(前略)

地元での就職を探したが見つからず、急遽、山口の行くS建築設計事務所へ入所が決まり上京する。3月30日より、中野の相川宅で共同生活。4月、岡野浩二の個展を観る。カードには建築技術書からの抜書もみられ、仕事に負けずに取り組もうとする生来の生真面目さがあらわれている。5月、タクシーの中に大事にしていたカードを一部紛失。この頃から短歌が残されている。所員の待遇改善に端を発した討論を組織していくなかで、「労学通信」(№1~9)を自主ゼミにレポートする。なお自主ゼミには、修士に進学した美術部OBの佐野誠嗣が新たに加わる。5月15日、杉並区和泉に間借。8月、所内に公開質問状を貼り出す。孤立の状況で再度、同志結合体を求めて九州に帰ることを決意する。10月6日、帰福する。

・その後、所内では残った山口が委員長となって労働組合が結成され、労働条件向上の努力が重ねられた。

箱崎新屋敷のアパート「海華苑」に棲む。H設計事務所に入所。自主ゼミに物理の石井由久雄が参加する。11月19日「沖縄と自己の視点」。12月11日、「福岡地区研レポート」。(461~462頁)

『立石旻君の思い出』2023.04.30【遺稿集『風紋』より】

4月28日のあとがきのつづき

突如として私たちの現在に訪れた死者の眼差しは、唐突な不安を与える。

近親の死の様な、ある生活者のそれであれば、個人的な記憶の内に埋葬することで、死のもたらす悲しみや不安の感情からいくばくでも自由になることができる。私たちが遺稿の整理をはじめたのも、友人の死に対する似たような心理からであったろう。整理する段階でより深く故人を理解し、自らにとっての彼の存在の意味を画定したい。更には、市民社会に棲みついた者の抱く、彼の生き様への後ろめたさと贖罪の念から。(477頁)

『立石旻君の思い出』2023.05.01【遺稿集『風紋』より】

4月30日のあとがきのつづき

作業が完了した段階でコピーを取り、形見分けすればよいつもりであった。

当初は、事前に全て処分されているということで、手もとにある資料を集めることからはじめていったが、その後、自宅の屋根裏からダンボール箱が発見され、遺族の御好意により、福岡在住者のもとにお借りすることが出来た。

残された遺稿を整理してゆく過程は、彼の個人史を遡及すると共に私たち自身の生を振り返えることでもあった。とくに、それが交叉し衝突するのは、六〇年代末から七〇年代初めのいわゆる全共闘運動――自らの存在根拠と先験的な共同性への徹底した批判を通して、類的存在への越境を試みた――-の時空であった。そこでは、運動を構成した原則――個体の意志と共同意志が逆立することを排除する――によって、共同の場はまた自己表現の場であった。少年期の創作及び流浪時の書簡類を除いて、遺稿のほとんどは、運動の渦中で書かれており、とくに二編の論文『空間都市論序説』、『闇から光への共同体』は、その集約的な表現であろう。(477~478頁)

『立石旻君の思い出』2023.05.02【遺稿集『風紋』より】

5月1日のあとがきのつづき

整理が一段落した段階で、それまでの各自の立石像が在ればよいと思う反面、なんらかの形で他の人々にも読んでもらいたいたいし又、それが私達の果すべき責務ではなかろうかという思いも、捨て難いものとなった。

「何故、出版するのか?」という事は、その後の編集の過程でも繰り返し問いかえされたのであるが、そこで挙げられた事を列記することで、編集委員会としての主旨にかえたいとおもう。

⚪︎ 自己表現として、自立した作品としての価値があること。

⚪︎ ブント的組織から全共闘的組織に変わる歴史的な組織論の位置づけと、新しい共同体のあり方への彼なりの思想の提示がなされており、普遍性をもつ。

⚪︎ 彼は孤立を求めたけれども、常に表現し他者に語りかけようとしていたこと。

⚪︎ 私たち以外の人々にも、立石旻という存在を知ってもらうための資料的意義。

(後略)

『立石旻君の思い出』2023.05.03【遺稿集『風紋』より】

5月2日のあとがきのつづき

(前略)

私達の編集によって、著者立石旻の全像を充分に伝え得たかどうかは、甚だ心許ないところであるが、少なくとも「故立石旻の生涯にわたる孤独な、それ故自由な精神の遍歴とその表現である」という一点だけは保持し得ているのではないかと思う。本書が、そのようなものとして受けとめられる人々に出会うことを願う。

八三年七月

立石旻遺稿編集委員会

福岡市博多区神屋町九番20号

パーソナル博多ビル306号(481頁)

『立石旻君の思い出』2023.05.04【遺稿集『風紋』より】

回想        立石省三

昭和20年4月11日正午、小島湖畔を一望に臨む寒村(玉野市八浜町見石)に於て呱々の初声をあげ(戦中の為、母方の実家に疎開中)、長男(姉2人)として、周囲の者の希望と歓喜の中に未来の嘱望を一身に集め生れました。

終戦後2年して現在地(玉野市玉)に帰宅し、祖父母(本人の)と7人暮しの生活が始まります。

逆縁の児としての幼少時代の追憶を偲びつつ、書き綴る面映ゆさを感じつつもペンを持った次第です。

(世間で言う逆縁の児を褒める親馬鹿)(つづく)(474頁)

『立石旻君の思い出』2023.05.05【遺稿集『風紋』より】

5月4日の回想(父立石省三記)のつづき

幼少時代

素直で我慢強く自分の欲望も余り発表せず、ひかえめに辛抱する様な性格でした。

二年保育の幼稚園に入園後も、「アッチャン」の俗名で呼ばれ、割合人気者でいた様です。楽しく通園したのが今更ながら目に浮んできます。

一年目の学芸会に浦島太郎の亀になり、二年目の学芸会に金太郎を演じた色褪せた写真帳、だれが自分の天命を予測できるでしょうか。三十五歳が一期に、自分で自分の生命を絶ちました。

二年目頃から性格に変化が現われ、剛直な容姿が現われる様になりました。小学校の一年生が遊びに来て園児の遊具を取り上げいじめている時、何回か喧嘩をし、切出しナイフ(肥後守と言う鉛筆削りに主として使用するナイフ)で服を切り裂き、母親が見舞方々謝罪に行くなど。鉄条網の棚に登り脚を引張られ、手の掌に三針縫い合せた疵跡が残っていたと思います。又園児の親から御礼の言葉も何回かありました。

変った事では、遠足の昼食時に保母さんが握り御飯で、たまたま旻が巻きずしを持っていたので保母さんのと半々に取替え、大変保母さんに喜んでもらったと自慢していた事など、心に沁みついた記憶が今更生々しく想い出されます。(つづく)(474~475頁)

最後列右端が立石君、前から2列目右から4番目が私。

『立石旻君の思い出』2023.05.06【遺稿集『風紋』より】

5月5日の回想(父立石省三記)のつづき

小学校時代

一年生二学期から卒業まで、学級委員又は委員長を委託され、無事に責務を果した様でした。5年生の時の通信簿の寸評欄に次の様に記入されています。当時先生はよく観察していて下さり感謝しています。

寸評

「よく頑張り勉強するが、軽薄な行動があり、人の煽動に乗らない様に。」

前後になりましたが、相手が誰であろうと打ち向って行く気構えと言うか気概心がかなり強く、四年生の時と思いますが、担任の女性の先生が割合気の強い先生で級友の一人がきつく叱られ、他の級友と組み四、五名で授業を放棄して学校の裏山に登り、後で先生へ謝りに行った思い出も追想される一こまです。(つづく)(475頁)

小4の遠足、屋島にて。前列左端が私、岡本君をはさんで立石君

昭和33年玉野市立玉小学校卒業記念アルバムより

い組、担任中山先生 最後列右から3番目が立石君

昭和33年玉野市立玉小学校卒業記念アルバム

小4春の遠足屋島に行く、宇高連絡船の中で。真ん中、左が立石君、右が私

『立石旻君の思い出』2023.05.07【遺稿集『風紋』より】

5月6日の回想(父立石省三記)のつづき

中学時代

小学校当時と変り、親との話合いも少なくなり段々勉強に時間を持つ様になりました。

PTAの参観日に数学の授業の時、先生が何を勘違いされたのか説明が相違し、これを指摘し先生を困らせ、その後当分先生と面白くなかった様です(前掲の寸評、軽薄な行動)中学、高校を通じて先生が問題の解答を求める時など、一気に手を挙げ、指名されて考えると言う様なやり方でした。先生からその話を聞かされたことがあり、かえって先生の方が躊躇することがあるとのことでした。

最近の一例として、一級建築士の受験前夜にウイスキーを飲み受験時刻に遅刻したが、受験を許可してもらえたと申していました。

中学時代、運動会の余剰金で蜜柑を買い、養老院へ慰問に持参した際、何も言わず帰った事など昨日の出来事の様な気持で、今も尚何処かを放浪しているようで、胸の詰る思いでいっぱいです。2年生徒会長当時、交友誌の発刊を目指したものの、原稿の投稿が少ない為、三号で廃刊となり、クラブ活動として放送部と吹奏部に席を置いていました。(475~476頁)

昭和35年玉野市立玉中学校卒業記念アルバムより

3年D組、担任三宅先生 最後列左から3番目が立石君

昭和35年玉野市立玉中学校卒業記念アルバムより

前から3列目右から2番目が立石君

昭和35年玉野市立玉中学校卒業記念アルバムより

 右から3番目が立石君

『立石旻君の思い出』2023.05.08【遺稿集『風紋』より】

5月7日の回想(父立石省三記)のつづき

高校時代

大方の大学受験者が塾に通っているのをひんしゅくし、旻はこれを敬遠し一人でこつこつと仕上げ、受験準備に専念すると同時に、級友二人の面倒を見てアドバイスしていたようです。運動の方はあまり関心がなく、小、中、高校を通じて級友からも話を聞き出せず、唯一、喧嘩は割合素速く相手の喉元に飛込む得意が有り、怖れをなしていたとか。

遺留品

小、中学校時代に入選した表彰状と、放浪時代のあれこれの専門書と、自宅に於ける営業用の器具書類以外は、焼却したらしく発見できませんでした。(476頁)

『立石旻君の思い出』2023.05.09【遺稿集『風紋』より】

5月8日の回想(父立石省三記)のつづき

後書

私(父)は、某電気会社の変電所勤務で三交替の為、旻との話題も少なく、むしろ彼の勉強にさしさわってと懸念して避けていたし、母親は戦後の物資不足等で農業と祖父母(旻の)の営業の手伝いで多忙を極め、三人の子供の面倒に手の届かない状態であったが、それぞれ無事に成人して呉れた事に、一先ず安心していた。最後の帰宅後、彼の申し出に依り、私達夫婦は妻の里方の近所に転宅し、最後に旻と会ったのは、五十五年十一月も終わりに近い頃と思う。私との話し合いが毎々に疎通対立する為、一ヶ月余り空白の時が流れていた。

正月を迎え、御せち料理と鏡餅を旻の姉にことずけ、神棚に鏡餅をお供えする様にとの伝言に従い御供えしたらしく、下敷きに用いたらしい半紙のみが残されていた。

どこからともなく熱いものが胸に焼きついてくる思いで、一周忌も毎日の回向の内に抑え、同僚の皆様方の御好意に、霊あらば天国とやらで温情に感謝していることと信じます。合掌。

昭和五七年二月

(回想、おわり)

『画中日記』2023.05.10【立石旻君の思い出(1)】

昨日で、遺稿集『風紋』からの私の抜書きは終えた。『風紋』は481頁の厚いハードカバーの本で、彼の死後、この本を編集、出版して、今の私の手元にあるのは(一度関藤氏から借りたのですが、ながく手元におきたいので返却、ネットの古書で手にいれました)、立石君の人徳だろう。この本がなければ、今書いている、私の文章も、おそらくないだろうから、私の脳の奥底に隠れている、彼の記憶も、今こうやって出てこないであろう。

しかし、いざ書こうとすると、昔のことでトリトメない。だから、ひとまず、思い出すままに、アレコレと書いていこうと思う。後で、あらためて時系列にまとめればいいから。パソコンのキーボードで、文章を作るのは、時代を変えたね。だから、パソコンのない時代に、481頁のしかも、本人の元原稿も集め、散逸した手紙類も、年譜も、手作業で行ないこの本を現成させた編集者の努力と、能力と、友情は素晴らしい。

多分、この本の編集は、立石旻遺稿編集委員会となっているが、中心になって動いたのは、『風紋』の本文中にしばしば、名前の出ている、一ノ瀬孝行氏であろう。いい時代だね。これもネット検索で、それらしき人物、おそらく間違いないだろう人物にヒットした。昔では、出来なかった事だ。

ヒットしたからといって、それで、どうもこうもないのだが、世界の実在に、また、私の若い時からの世界観に、間違いのなかった事に、安心する。

『画中日記』2023.05.11【立石旻君の思い出(2)】

さて、何を書こうかとあれこれ悩むが、思いつくままに、まず文章にしてみよう。

立石君の家は玉本通り(今はランブル通り)にある畳屋だった。お祖父さんが家を仕切っているようで、ガラスの引き戸の横の、畳敷の火鉢の前で店番をしていた。耳が遠いようで、ラッパ状の金属でできた単純な補聴器を使って 他人の話を聞くときに使っていた。お祖母さんも怖そうなひとで、三井造船所の社宅にある、私の家と近かったが、彼の家に遊びにいったことはない。お祖父さん夫婦が、三井造船所ができる前からの、玉の地元の人らしく、戦後の復興から、タンカーブームで景気がよくなり、いつも外で遊びまわっていた私とは、学校外で出あうことはなかった。

『画中日記』2023.05.12【立石旻君の思い出(3)】

小学校4年の時に、同じクラスだった。立石君は名前の旻から、「アッチャン」と、私は名前の浩二から「コーチャン」と呼ばれていた。絵は彼の方が上手く、当時の私は、将来画家になることなど夢にも思っていないので、それを認めていた。それに、担任のO先生は私とソリが合わず(おそらく、子供のクセに生意気なガキだと思っていた)、嫌われていることを感じていた。先生が、立石君に、教室の壁に貼る、日本の歴史を模造紙(今、こんな言葉があるのかなあ)に描いてきてくれ、と頼まれ、彼の家で、私が戦国時代の鎧兜の武士の絵を描いて手伝った記憶がある。

相変わらず、休み時間や下校後に彼と遊んだことがなかったが、おそらく、一緒に遊んだ同級生はなかったろうが、当時の子供が熱中した、野球やソフトボールを含めて運動は苦手だったようだ。それは、やらなかっただけで、一緒に遊んでいれば、フィジカル面はむしろ優れていたのだから、それは彼の勘違いだ。私が小学校3年生の時の休み時間に、親に買ってもらったグローブと軟式ボールを学校に持っていき、講堂の横の通路で、高畠君に投げさせてボールを受けていると、立石君が「ワイにもやらせてくれー」と数球投げたボールは、私がビビるくらい速かったので、遊びで経験値を積めば、彼の自己認識も世界認識も変わっていったであろう。

『画中日記』2023.05.13【立石旻君の思い出(4)】

玉の町は、東西を山に囲まれ、真ん中に小さな川が流れ、南向きの川口に塩田のある立地の小さな村だった。その塩田だった土地に、大正6年(1917)に三井造船所が建造された。その狭いエリアに、ビッシリと家が建てられ、塩田だった土地に、造船所の最初の社宅(後に、奥玉社宅、和田社宅と、次々に社宅を建造する)に私の家があり、昔の石組みの低い土手上の玉本通りに、海側の一列の家をはさんで立石君の家があった。立石家は玉村の塩田の、持ち主だったのだろうか。その玉の旧家に、姉二人の末っ子の一人息子として、「周囲の者の希望と歓喜の中に未来の嘱望を一身に集め(父省三氏の回想より)」生まれた。

とにかく、その狭いエリアに、各地から人が集まってきた企業城下町なのだ。私の父は、瀬戸大橋の岡山県側の駅、児島味野の近くの倉敷市小川の生まれで、神戸で鉄工所に住み込みで働いていたが、三井造船所の募集で、社宅に入り、兄、姉、私が生まれ、3年後に弟が生まれた。その、ギチギチに詰め込まれた町で、さまざまな歴史を背負って玉の町に生まれ、生まれた時から、小学校、中学校と同じ面子(めんつ)で学校に持ち上がる。後に、私が高校1年の2学期に千葉に転校し、現在まで何人も他郷の人と知り合ったが、少年時代の体験と人間関係が、つくづく、玉の町は特殊だったなあとおもう。

造船所が出来る前の玉の町

『画中日記』2023.05.14【立石旻君の思い出(5)】

立石君と私は、小学校4年生の時が、ただ一度の同クラスで、その後中学校でも同じクラスにはならなかった。

その4年生の時に、土曜日の学校からの帰り道に、同じ社宅に住んでいる同クラスの岩切君と、立石君に、「おい、明日、弁当を持って、女学校(校舎は火事で消失、跡地は空き地だったが、後に、今ある玉野市立玉商業高校となる)の上の山に遊びにいかんかあ」とさそった。

小学校4年生の子供だけで、3人で山に行くということは、今では考えられないだろうが、当時は、海へも子供だけで行っていたし、昭和の男の子の遊びに、危険はつきものだった。当時の玉の山は禿山で、砂防のため植林された木もまだ大きくなっていないので、子供が草藪や森で道に迷うということもなかった。山での危険より、海や池での水難事故は、今思い返しても危なかったことがあるが、それは、私の他の文章で、いずれ書くことがあるだろう。

『画中日記』2023.05.15【立石旻君の思い出(6)】

日曜日の朝、立石君と岩切君と私とで市商の横の道を上がって、大池を過ぎ、広い砂場に出る。3人とも大池から奥は、初めての場所だ。小学4年生の子供が、3人で山に行っても、目的がないのだから、やることがない。少し昼メシには早いが、砂場の横の小高い場所の岩の上で弁当を食べていた時、下の道から、人の呼ぶ声が近づいてきた。立石君の父親が、自分の息子が、子供だけで山に行ったのを心配して、探しに来たのだ。その後は、そこから、今はゴルフ場になっている、奥の山を立石君の父親の案内で歩いた。昭和の子供は元気だなあ。山道を、ズックの靴で、かなり歩いても、体力的な弱音を吐くような子はいなかったなあ。しかし、その分残酷で、弱音を吐いたり文句ばかりいう子は、遊びの足手まといになるので、男の子の遊びにはマゼてもらえない。

『画中日記』2023.05.16【立石旻君の思い出(7)】

立石君の父親は、山歩きの途中で、モロタの木を切って持ち帰った。モロタの木は、皮を剥ぐとツルツルの樹身で、後で、ヒシャクの柄にしたといっていた。物事をよく知っている大人との山歩きは面白く、踏めば煙のような胞子がでるホコリタケを踏んだり、岩の下の砂地に摺鉢状の巣で、小昆虫を待ち構えているアリジゴクをとったり(後に、一人でアリジゴクをとってきて、扇雀飴のカラのブリキの化粧缶のなかで飼う)した。

知らないことを知って山を歩くと、周りは、俄然景色が変わる。植物や昆虫、石や地形にまで、私が自分で、いろんな疑問に、自分で調べ観察して、その疑問を解くことの楽しさを知っているのはこの頃からで、それは、77歳の今でも変わらない。

『画中日記』2023.05.17【余談閑話(アリジゴク①)】

アリジゴクは巣を、見つけられれば、玉では、玉でなくても、どこにでもいる。岩の下や、軒下の雨のかからない砂地に小さな摺鉢状の落とし穴の下で、大きなハサミを広げてアリなどの小昆虫が、巣に落ちてくるのを待っている。

今なら、ユーチューブで検索すれば簡単だが、巣が見つかっても、どうやってとるのか、とって、どうやって飼うのか、子供が一人で、アレコレ考えながら、思考実験をやっていくのだ。そして、自分の予想があたって、自分の力でとれたり、それを飼って、目の前でアリや、羽を切ったハエなどを巣に入れて、観察するのは、楽しいよ。科学や、哲学の方法論である「仮説演繹論」を子供の時から、やっていたのだ。それも、自分一人で、楽しみながら。

私の父親は、一時(いっとき)もジッとしていられない人だった。暇な時間に、何もしないでボーとしている姿を見たことがない。母親はそんな父に、ブチブチ小声でモンクをいうだけで、何も言えない。3歳下に弟が生まれ母は弟の世話、そんな父親に、父親っ子として育てられたのだから、父に輪を掛けて、ジッとしていられない。今もそうだけれども、子供の時は、忙しかったよ。私の周り360度、知らないこと、知りたいことだらけで溢れているのだもの。周りの大人から、「またコーチャンのナンデーが始まった、ナンデーのコーチャンだから」、と言われ、学校から帰ると、外を飛び歩いていた。

明日は、アリジゴクの観察のことを書きます。

『画中日記』2023.05.18【余談閑話(アリジゴク②)】

あらためて一人で、とったアリジゴクを持ち帰るたのマッチの空箱を持って、とりにいった。大仙山の山裾の岩の下には、どこにでも巣があるし、一つあれば、その周りにいくつも見つけられるので、はじめての捕獲も、失敗をおそれることはない。失敗しても、いろいろ試してみればいいのだ。

簡単だった。松葉で、巣の底をチョコチョコと動かすと、砂の斜面がむくむく動く。動いた斜面を松葉でほじくり返すと、砂と保護色のアリジゴクがでてきた。以前、ギンヤンマを初めて獲ったときのことを文章にしたが、少年が独力で、虫でも、魚でも、捕獲できた喜びは、体験しなければわからないだろう。原始から変わらぬ狩猟本能だろうか。野球ゲームでバーチャルにホームランを打つのと、実際に、試合でホームランを打つのとでは、全然別の次元の話だ。

アリジゴクは出てきて、すぐに後ずさりで砂にもぐろうとする。私は、初めての体験で、アリジゴクのことをまだ何も知らないので触われない。松葉でマッチ箱に寄せ入れて、家に持ち帰った。

さあ、アリジゴクを飼うぞ。

『画中日記』2023.05.19【余談閑話(アリジゴク③)】

持ち帰った数匹のアリジゴクを、なるべく細かい砂を敷いた、お菓子の缶に入れた。アリジゴクはすぐに、あとずさりしながら、砂の中に隠れたが、隠れてから一向に動かない。ジレッったいので缶の蓋を閉め、時々覗いたが様子に変わりがないので他の遊びに外に出た。翌朝、起床するとすぐにソッと缶の蓋を開けて見ると、完璧に出来た美しい漏斗形の巣ができている。巣の斜面は細かい砂ばかりだ。どうやって、この小さな虫が、定規やコンパスなしに、こんな美しい巣を作るのだろう、また作れるのだろう。学校があるので、急いで家の周りの、アリを数匹つかまえ入れて、学校に行った。

『画中日記』2023.05.20【余談閑話(アリジゴク④)】

翌日は、学校から飛んで帰り、アリジゴクの観察だ。朝入れた、餌のアリンコはまだ、元気に動いていて食べられてはいない。だから、私はアリをむりやりに、摺鉢状の巣に落としこんだ。アリはまだ元気なので、すぐにアリジゴクの巣から出てしまう。巣の底から大顎で砂を撥ね上げ、アリを底に落とそうとするが、アリはすぐに外にハイ上げってしまう。異常に気付いて、逃げようとしているアリは、逃げられるのだなあ。実際のアリは、異常には気付かずに巣に入ってくるから、アリジゴクに捕獲されるのだ。自然のアリジゴクは、誘引する餌も用意せず、たまたまうろうろしている虫を、ただひたすらジッと待っているのか。

子供の私は、餌のアリを入れて、アリジゴクの巣に落ち、アリジゴクがアリを捕らえ、食べる時を、ジッと待つことなどできない。それを見たいために、寄り道もせずに、学校から飛んで帰ってきたのだから。

『画中日記』2023.05.21【余談閑話(アリジゴク⑤)】

私と昆虫との、かかわりは話せばどこまでも広がっていく。5年生になって、『ファーブル昆虫記』を読み、秀文堂(玉の本屋)で昆虫図鑑を買った(先年、蔵書をほとんど全部処分するまで、転居のたびに持ち歩いていた。パソコンの検索のおかげでこれも必需品の広辞苑を含めての辞書類も処分した)。という事で、立石君の話から脱線してしまいました。

将来、昆虫学者になるかもしれない少年が、なぜ画家になったのかという運命の分岐は、拙著『芸術の杣径』に書いています。『岡野岬石の資料蔵』のサイトの【芸術の杣径】お読みください。本が欲しい人は、私のところに連絡してくれれば、送ります。昆虫熱が冷めた経緯(いきさつ)は下記の、『御殿場だより』のテキストで書きましたので、コピペします。

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 2013.08.05 【霧の鍋有沢(番外編-1)】

明日朝、今週の御殿場行。その前に、先週撮った写真の1枚を紹介します。

先週ネムの木の写真を撮っているときに、スコリアの道の上で動いている昆虫の群を見つけた。これは、シデムシの幼虫と成虫で、森の中の掃除人、動物やミミズなどの死肉を餌にする昆虫だ。子供の頃の私だったら、べつに珍しい虫ではないが狂喜することだろう。昆虫採集に熱中していた興奮が一気に冷めてしまった思い出がある、当の虫なのだ。

小学校の5年生か6年生のときの夏休み、『ファーブル昆虫記』を読んで、単純なカブトムシやギンヤンマの標本ではなく、地味な昆虫をビシッと揃えた美しく高度な標本を作ろうとおもった。蝶や蜂は展翅が難しく、またその道具が田舎では手に入らず(東京に出て来て、渋谷の坂の上にある昆虫専門店で、専門の収納式捕虫網や展翅版、ガラス蓋の標本箱等を買った時は嬉しかった)虫や腐敗につよそうな甲虫類の採集に決めた。『ファーブル昆虫記』のなかの、肉屋にいる昆虫(サシガメだったか)を読んで、少ない選択肢のなかから肉食の昆虫を選んだ。缶詰の空き缶の中に肉を一切れ入れ、入り口を地表に合せて埋めればトラップになってなにかの昆虫は採れるだろうとの皮算用だったのだが。

トラップは1個だけ、仕掛けるのは大池の先の草原と決めて途中で肉を買って行けばいいや、と家を出た。いつも私がお使いを母に頼まれる滝岡肉店に行けばよかったのだが、行く道の途中のF肉店に行ったのが第1の誤算。滝岡肉店のニイちゃんなら、顔見知りだし時々サービスにハムを余分にくれたりしていたので「肉を10円分チョーデー」と言えば、肉の切れ端をタダでくれたかもしれないのに、F肉店の親爺は明らかに迷惑そうな顔をして、10円分の肉の理由を聞いてくるのだった。理由を説明して、お金もチャンと払ったのに、最後までイヤミたらしくグダグダいわれて、ア~、今思い出しても腹が立つ、このクソ親爺。

続きは、御殿場から帰ってきてから。

 2013.08.08 【霧の鍋有沢(番外編-2)】

写真は7日に描いた鍋東地区でイーゼルを立てた場所、文章は先週の続きです。

暑い夏の昼間、草いきれとキリギリスの「チョン ギース」の声のなかで、くさはらの土を掘り返して空き缶を埋める少年を、いつのまにか近くの木の上にとまったカラスが興味深そうに見ている。少年は数時間後の獲物を空想して夢中だ。採集した虫は、マヨネーズのビンの中にアンモニアを染み込ませた脱脂綿を入れてその中に密封して殺し、一匹づつ紙に包んで持ち帰れば手足や触覚が傷つくこともないだろう、完璧だ!。肉を買う時にチョッと齟齬はあったが、あとは予定通り完璧に仕事をした。数時間後、この空き缶のなかは数種類の昆虫が入っていることだろう。

一旦家に帰ってから、出直すには遠いので、大池で時間をつぶしてから採集しようと、時間をつぶすためにも、だから大池の先のくさはらを採集場所に決めたのだから(どうだ、完璧だろう)、と1時間位のつもりで独りで池の畔で遊んでいたのだが、どうにも我慢ができない。甲虫だから飛び去ってしまう訳ではないのだから何度でも見廻ればいいヤ、と30分ばかりで、最初のトラップの見分に向った。これまでのことは、本からの情報ははあるが、その本を自分でさがし自分で読むことを含め、全部自力でやっているのだ。自分で作ったトラップで、獲物を収穫するするときの、期待と高揚感は、遊びさえもすべて周りから用意されている今の子供にはとうてい分からないだろう。だからこそ、自力で物事を為し得た時の喜びは大きいのだから。

というわけで、期待にドキドキしながら、空き缶を覗いた。「ナイ……、ナイ、ナイ、ナイ」何もない、肉もない。空き缶は汚れてもいない、なんの痕跡もない。何故ダ!! 

しばらく、考えて、やっと気付いた。あのカラスだ。あのカラスが少年がトラップを離れるとすぐに横からさらっていったのだ。(こんな時にふさわしいセリフを後年、映画で知る。肩をすぼめ両の掌を前に向けてこう言うのだ。「セ・ラ・ヴィ(これが人生だ。こんなもんだ)」)

F肉店の親爺が、ケチの付きはじめ。物事が成就しないときのパターンは、万事こんなものだ。少年は悄然と家に帰った。昆虫採集の熱もそれ以後一気に冷めてしまった。(終り)

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『画中日記』2023.05.22【立石旻君の思い出(8)】

何日か、アリジゴクの話で横道に外れ、それもキリがないので昨日で終わり、今日から立石君の思い出にかえります。

小学校が終わったので、中学校時代の思い出を書こうと思うが、中学3年間で同じクラスになったことはない。玉中は、クラス数は玉小と、今はない奥玉小を合わせて5クラスで、ひとクラス45人前後だから、あの小さなエリアに、一学年に225人前後の同級生がいたことになる。その同級生が、小さい時から、おなじ町でずっと一緒に育っていったのだよ。

東京の本社から来る三井造船の家族から、ヤクザやホームレスまで、ギッチリと実存の人生が詰まった環境で、育っていったのだ。

『画中日記』2023.05.23【立石旻君の思い出(9)】

小学生時代は、勉強も、遊びも、自分の思いのままにやっていけばいい。そして、それは楽しく忙しかった。

中学生になると、異性への関心や自分の性欲などの身体の変化、学校の試験、どういう方向で生きていくのか、などの関門で、自分の将来の人生上の問題が、次々と身にふりかかってきて、生活と、自分の世界観のフェーズがドンドン変わっていった。中学2年生時から、全員の試験の点数のトータルで順位をはりだした。私も立石君も、10位以内には常にいるが、1位にはどちらも、なったことはない。それよりも驚いたのは、今まで特に目立たなかった友人の何人かが、上位陣を占めていることだ。

このへんから、立石君も私も、他の男子生徒も、人生上の危険な分岐が始まっていくのだ。

『画中日記』2023.05.24【立石旻君の思い出(10)】

玉の町には、映画館が4軒あり、私の父が、ブルーカラーの役職なので、下請けから回ってきた映画のただ券が、いつもタンスの上の物入れにおいてあった。衆楽館と太陽館が洋画の映画館で、中学時代に観た、イタリアンリアリズムの映画やフランス映画の影響なのか、当時好きで読んだ、国木田独歩の本の影響でか、私が誘って、立石君と佐々木君と私の3人で、広島の高等商船学校を受験した。高等商船受験は誰にも相談せず、自分らの独断で行った。今、思い出しても慚愧にたえない話で、後で、周りに多大な迷惑をかけるのだが、その顛末は明日アップします。

『画中日記』2023.05.25【立石旻君の思い出(11)】

高等商船の一次試験は、岡山で受験した。私達の学年のB組担任で国語の先生の近藤先生が、生徒へ心配して、試験会場まで玉からついてきていただいた。

試験は、学科試験と身体検査で、一次試験が通ると、二次試験の体力試験に広島の学校で受け、それが通ると、たしか、寮に入ることになる。

3人とも、一次試験は通った。二次試験受験の当日までは、数日先だ。

私は、父親から、船員はお前には向いていないということと、高等商船は2等航海師の免許しかとれない、もしどうしても船員になろうとおもうなら、商船大学を受けなさい、と言われた。父親の言うことは、もっともだし、私も、少年のロマンチックな人生の先行きが、急に現実化していくことに、やや恐怖心を感じていたので、二次試験に行かなかった。

立石君は、後で聞くと、私達の学年のA組担任の浅川先生の反対の説得で、二次試験に行かない。佐々木君も、行かない。結局、3人とも一次試験は受かったのに、二次試験には行かなかった。これが、玉中に迷惑がかかったことは、後で(後といっても何年も後だが)知るが、少年の人生の、大きな分岐だったので、迷惑をおかけしたことは、お許しください。

3人はこの後、地元の、高校岡山県立玉野高校に進学する。

左から相川養三、私、立石旻(小豆島キャンプ旅行)

『画中日記』2023.05.26【立石旻君の思い出(12)】

私は、玉野高校一年生の2学期に千葉の高校に転校する。転校後、何度か手紙のやりとりがあったが、互いに次にくる、大学進学、そしてその先の、いったい自分は何を目標に生きていくのかという、自分の選択、勉強に忙しく、文通もいつのまにか、止んでいた。そして、私は東京藝術大学油絵科に入学、立石君は九州大学工学部建築科に入学する。

写真は、私が芸大の1年生の夏休み、同級生の小田君(東京出身)の四国の親戚の家の帰りに玉に寄った時に、玉の港で、ビールを飲んだときの写真。帰り道で、立石君が転んで顔を切り、血が出たので三井病院に行った。撮影者は小田君で、写真が趣味で、この写真も、撮ってもらっていてよかった。

左から2人目が立石君、右から2人目が私

『画中日記』2023.05.27【立石旻君の思い出(13)】

私は、現在77歳で、今この文章を、パソコンのキーボード(キーボードとパソコンがなければ、この文章は書いてはいないだろう)で打ち込んでいるのだが、当時の思い出の記憶時の自分と、思い出のなかの立石君とは、自分自身のフェーズと、時代、世界のフェーズも変わっている。私は高校3年生の時に、実存主義に出遭い、救われた。しかし、50歳代後半から、実存主義の間違いに気づき、現在の全元論的世界観に至っており、その世界観で毎日絵を制作している。

仏教的全元論からみれば、当時の私の実存主義的世界観からの世界認識の間違いと、それによる、判断、行動の間違いは手に取るように解る。私と立石君は戦後の、昭和の時代を真摯に、真只中を生きてきたのだ。昭和という、その時代のフェーズの内で。

立石君が36歳の死と、私が77歳まで生き残って絵を描いていることの違いの因は、私が、高校2年生の時に、天職と感じた画家に向かって人生を歩んでいったことだろう。〈美〉という羅針盤を身の内に持って、人生の座礁の分岐を乗り切ってきたからだろう。

それにしても、立石君の事を書くのは、切ないねえ。

『画中日記』2023.05.28【立石旻君の思い出(14)】

『風紋』の129頁に〈 13(火)岡野の個展、「白い月」「星の…」ともに月と星がなければ……と思う。「力」、「黒べえ」、「グランプリ」with 相川〉〈 19(月) 日本橋、ゲルボア、セドリック、入谷で飲む。(相川、岡野等)〉と載っている。これは、1971年4月、私の日本橋画廊での最初の個展で、立石君が東京の建築会社に就職していた時のことだ。19日は、相川、岡野、立石、野上と4人で鶯谷の焼き鳥屋で飲んだ。

私は、千葉への転校、芸大への入学、それ以後の、東京での流浪と、状況の激変を抜け出して、やっと、生活の明るい見通しが立ち始めた時だ。立石君は、この時東京に来て間もなく、東京での生活は、ブラックアウトの状況だったろう。こんな時は、周りの状況をまず、正しくよく知るということが大切で、視界が狭い中を無理に動くと、座礁してしまう。立石君と私は、その時一緒に飲んでいても、見える風景は違うのだ。

『画中日記』2023.05.29【立石旻君の思い出(15)】

立石君と東京で会ったのは、1971年4月のその時だけで、その年の暮れに相川君と会った時には「アッちゃんは、九州に帰った。会社でビラを貼り出して、会社をやめたらしい」と言っていた。だから、立石君の東京での生活は1年続かなかった。

立石旻遺稿集『風紋』は、パソコンのない時代に、481頁の、しかも、本人の元原稿も集め、散逸した手紙類も、年譜も、手作業で行ないこの本を現成させた編集者の努力と、能力と、友情は素晴らしい。

下記に『風紋』の年譜から、東京での、立石君の生活の様子を抜書きします。

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昭和46年(1971)26歳

(前略)

地元での就職を探したが見つからず、急遽、山口の行くS建築設計事務所へ入所が決まり上京する。3月30日より、中野の相川宅で共同生活(岡野注;実際は、東京を知らないので、相川君の、狭い昭和の木賃アパートに転がりこんだのだろう。相川君も関西学院大を卒業後創文社に就職)。4月、岡野浩二の個展を観る。カードには建築技術書からの抜書もみられ、仕事に負けずに取り組もうとする生来の生真面目さがあらわれている。5月、タクシーの中に大事にしていたカードを一部紛失。この頃から短歌が残されている。所員の待遇改善に端を発した討論を組織していくなかで、「労学通信」(№1~9)を自主レポートする。なお自主ゼミには、修士に進学した美術部OBの佐野誠嗣が新たに加わる。5月15日、杉並区和泉に間借。8月、所内に公開質問状を貼り出す。孤立の状況で再度、同志結合体を求めて九州に帰ることを決意する。10月6日、帰福する。

(後略)(462頁)

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『画中日記』2023.05.30【立石旻君の思い出(16)】

この、フェイスブックに連載している立石君の思い出話は、今年の4月に玉野で、玉のランブル通り(旧名;玉本通り)の彼の家のあった空き地を、動画を撮った時に浮かんだのが動機だ。

帰柏して、関藤氏から遺稿集『風紋』を借り、後にネットで購入、4月26日から毎日書き続けた。それも、今日で最終回だと予定して『風紋』の年譜を調べていたら、読むのが止まらなくなり、また、私と立石君と会った時の、シーンも次々と浮かんでくる。

『風紋』を編集、出版したのは、〈立石旻遺稿集編集委員会〉となっているが、年譜のテキストを書いたのは、九州大学で最初に友人になった一ノ瀬孝行氏であろう。

明日からは『風紋』の年譜からの文章を抜書します。すばらしい、文章ですよ。

『立石旻君の思い出』2023.05.31【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和47年(1972) 27歳(1)

1月、「ホモジーニャスな時空に関してのある註」。2月、名島の石井宅にて「椿会」を開く。福岡地区研など、何らかの形での共同性を模索する試みであった。十数名の参加者あり。3月、H設計事務所を退所。「一ドラフトマンの報告」を自主ゼミにレポート。鮎川「ヘルバルト『一般教育学』試論」、庄「共同体論-都市再開発法批判」を修論として卒業。新たに法学部出身の今玉利琢夫が自主ゼミに参加。箱崎のR工務店に工事主任として勤務するも、中途で常雇の作業員をえらぶ。7月11日、「小倉にて」6首を短歌誌「ゆり」に投稿。10月、馬出のW建築設計事務所に入所。意匠のチーフとして設計に従事する。人間関係が彼の心性に合っていたのか、一ノ瀬に珍しく熱っぽく建築の事を語っていたという。

・2月19日、連合赤軍、浅間山荘事件、リンチ殺人発覚。

・5月15日、沖縄施政権返還。

・9月25日、日中国交正常化合意。

『立石旻君の思い出』2023.06.01【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和47年(1972) 27歳(2)

カードには、相変わらず「夢」の記述が多い。短歌もかなり作られている。「同志結合体」という東京から抱いて帰福した夢の困難さを再確認しつつある。

「ひょっとすると、私の友、私の夢、私のおもい、私の身体、私の仕事………それぞれが、何等の関係を相互に持たず、隔絶した円環運動をしている事になるのではないかという無力状態の感想に迫られる。……(中略)……円環運動を拡大し、それぞれが接線を持つように押し進める〈コミューン〉は、友の夢……の破壊によるか、私の破壊によるしかない。となると、私の破壊より方法はない(七月三一日カード)。十二月に「縷刻(るこく)の舞台、(一)-1、2、3』及『縷刻(一)』が書かれる。((一)-1は「朱犯」にも掲載)

『立石旻君の思い出』2023.06.02【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和47年(1972) 27歳(3)

「縷刻(るこく)の舞台」には、大学入学以後の自らの心的な遍歴が表現論として開示されている。

たぶんに対人関係において、人よりも多く負債を背負いこみがちであった彼は、他者に意味を強制する「存在の弁明性」でしかない自己主張にみちた生活世界で、少なからぬ傷をうけたのであろう。ひきおこされる激しい憤りを鎮めあるいはそれを回避する方法とは、自らを孤独な身体へと還元することであった。不自由な意味をひきずる意識は一旦禁止され、知覚のみが外界に開かれる。(463頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.03【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和47年(1972) 27歳(4)

「傘が用を果たせない程の横なぐりのドシャ降りは、海岸を歩るく時には最高であった。あくせくとし、常に罠を張っている人間は全く視界に入らず、しかも、人間の臭いの染みたみじめったらしい風景は、雨のスクリーンによってかき消され、生活の音は雨音によって遮断されている。現実の世界にあって、自然によってその現実性の生々しさがオブラートされる時、意味無しの世界-幻想の世界が浮上して来る。だから、僕は一人じっと待つだけでよい。孤独であること、雨にビショ濡れること、これが自分の側の、意味無しの世界へ没入する為の、条件である。」そこでは私の表現も又、「存在の弁明性」そのものとして拒絶され、風景への同化が願望される。「私は、風景との一体化を求める。その意味で、私はふうけいである。それが表現の果てる極地であろう。」無心にキャンバスに向うことも、無意識までは排除できない。(463頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.04【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和47年(1972) 27歳(5)

無化の体験は、やがて別の場所から訪づれる。それは聖なる他者=思慕の対象によってであった。「一人のあなたを信仰する為に、私は無数の分身をつくり、あなたの周りに待ち受けさす。だがやがて、その分身は私から離れて独立しはじめ、遂には、あなたの分身と化してしまった。私は完全な抜けがらとなり、逆に、あなたの分身-あなたに包囲されてしまった。」この他者による自己の無化(解放)の体験はその後の学園闘争の過程で、その更なる可能性としての共同体形成の志向の中に、受け継がれてゆくといってよい。(463~464頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.05【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和47年(1972) 27歳(6)

「自分とは離れた別個な存在としてしか意識出来ない関係性を、近代自我の哲学問題として措定したのではなく、共同いしとしてわれわれの行為、〈生活〉を追求する、即ち、共同体形成へめざいた軸が、権力闘争を語り、かかわる根拠として要請されたと思う。」このように他者と自己との関係性を追求する視点は、運動の具体性の中から次のような了解を生みだす。「対権力の中で……方向性を把みきれぬまま、共犯性に公然と固執し、さらけ出して行ったという過程は、闇の中にほおむらなかったという過程は、〈表現〉の原罪であるし、だからこそ、その成果である。」として、以前の孤立した地点において拒絶された「表現」は、「表現の原罪」として類的な拡がりの中に、把え返されていく。(464頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.06【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和47年(1972) 27歳(7)

更に又、運動の内部での彼我のもんだいは、「何等かのかたちで、既にわれわれは離反している。この意味と質が本格的に問われるのはこれからだと思う。離反の距離を測り、そして、限定されざるを得ない共同性が要求する人の峻別の構図を自身にあてることによって自己を二極化へとすすめる。つまり、共同性と私の二極化、私自身の二極化、その確かめが次へ拓かれる根拠ではなかろうか。」と、あくまで共同性との脈絡の上で把握され対立はしえても排除しないものとして、もはや自身の内部に懐胎されているはずだと考えられているはずだと考えられている。そこにおいて「表現の弁明性」は次の様に位置づけられる。「表現とは組織性の問題である。お前が死ぬも死(ママ)きるも、この理解と把握にかかっている。そして、弁明性は排除されるものではなく、組織論に豊かさを与えるものである。」(464頁)(27歳、おわり)

『立石旻君の思い出』2023.06.07【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和48年(1973) 28歳(1)

二月三日、「ヤマブドウの会」準備会を海華苑にて開く。これは自主ゼミメンバーが就職を目前にして、修論へ流れこんでいくのに、就職後も、何らかの共同性を追求していく方向を求めたものである。その後、「現代思想」をテキストにして数回開かれた。(464頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.08【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和48年(1973) 28歳(2)

佐藤さちよ、小倉英子の主宰する「朱犯」に短歌四首を掲載。短歌誌「ゆり」に五首投稿。三月、W設計事務所を退所。松井「共同体論」、大塚「共同体論」、佐野「自然性について」、江崎「機械工学論」を修論として提出し卒業。石井、博士課程を中退。これで自主ゼミのメンバーは全て大学を去る。(464~465頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.09【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和48年(1973) 28歳(3)

三月上旬「縷刻(るこく)の舞台、⑴-5」。4月、H設計事務所入所。「縷刻の舞台、⑴-4、絶交」(内容は不明)。自主ゼミメンバーは大部分が福岡に残ったが、就職、結婚を契機に、各々の生活過程への分岐がはじまる。カードではそれまでの人間関係を離れて、もう一度、己れの軌跡を見つめなおそうとしている。「私的な手淫が他人にどう関係するのかを精神の牢屋にて考え、そして組織問題にどの様に取り込むかを追求する。一年間一人会。」(4月12日、カードより)。18日、「縷刻の舞台、⑵-1-1〈彼我反〉」を、友人達に郵送する。しかし人恋しさに、すぐに自ら禁を破っている。8月、S設計事務所入所。

(465頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.10【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和48年(1973) 28歳(4)

カード形式の叙述は、10月1日付をもってほぼ終わる(残された限りでは)が、9月25日、絶望をばねとした次の様な思考が書き記される。

「悪魔の世界観の金字塔をつくるのが、僕の目的となったいま、市民的人間関係を徐々に排除して、二年後には人類に対して闘争をいどむ。何故なら、僕は人間関係を、完全なまでの他人の私物化、つまり他人の独占化を求めた。甲と乙を関係づける意味を多少なりとも変った意味において、甲が丙と一定程度の関係を結ぶことを、僕は僕は絶対に許せないと思ってきた。(465頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.11【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和48年(1973) 28歳(5)

意味の世界に敵対する諸々の慣習、制度及び、日々の習慣を憎んだ。それら怠惰な形式主義及び、即物主義的なものに対する否定が、完全な関係の独占化=共占化を生む意味の世界である。自らの生命を断つことが出来ず、なお未練がましく生きていく為の、弱々しい自己存在の弁明性として。

そして今、その弁明性を否定して、悪魔の世界観を築こうと思う。……(中略)……悪魔の世界観では、自己の存在否定と世界否定が一致せる。共同主観のイメージ力の自堕落に、悪魔の炎をぶっつけよう。」(465頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.12【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和48年(1973) 28歳(6)

10月、N総合エンジニアリング入所。偶然にもその上階に住んでいた先輩の古賀士平と会い、その後時折、酒をさげて訪づれては次の就職のための退職証明を依頼する。

11月、松尾、加藤の「八女」研究に対して批判の書簡を送る。はるかに遠くなった大学と自分の距離に対するいらだちからか、紋切文句で切り捨てている。(465頁)(28歳、おわり)

『立石旻君の思い出』2023.06.13【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和54年(1979) 34歳

1月6日、両親は敷物店を止め、八浜の方へ移転。20日、深夜工を辞める。2月19日、岡山を引き払い玉野に帰る。3月8日、自宅にて『立石旻総合事務所』開設。(一級建築士・土地家屋調査士・行政書士・宅地建物取引主任・T海上火災保険代理店)

三井造船の町である玉野市では造船不況で仕事の依頼はほとんど無く、家庭教師をして諸士会会費にあてる。国民生活センター応募論文「80年代の消費生活を考える」(推定)

12月初めに古賀が事務所を訪づれたが、4年振りに見る彼の風貌には耐えてきた忍辱の時間が刻み込まれており、黙する外になかった。商店街に面する事務所のガラス戸には、各種資格が大書されて貼りつけられ、あたかも往時の立看板の如く充分に挑戦的であった。片隅にアトリエ〈風紋〉とあり、表現者としての矜持を手放さないことを示していた。(471頁)

『立石旻君の思い出』2023.06.14【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和55年(1980) 35歳

1月、依然として仕事の依頼なく、建築構造設計の勉強をはじめる。突如として、一ヶ月間で70余通の恋文を生産する。3月、それまで独習した彫印技術で印房もはじめる。時折、仕事を依頼されてもあまり代金をとらず、依頼者にも出来ることは無償で教えていた。8月、気力の減退を感じ、最終的に司法書士受験を断念する。(472頁)

『立石旻君の思い出』2023.06.15【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和56年(1981) 36歳(1)

1月1日、年賀状を例年のように版画で出す(表紙に使用したもの)。「……渋谷村を「石もて」追われた啄木の流浪の感性があればこそでしょう。いい歌を送って下さいました。……今年元日の、この歌は、私の心に契機を与えて呉れました。」(1月5日、西原宛封書より)。1月19日、九大工学部同窓会名簿から選んだ中国地方在住者多数に、仕事の依頼状を出す。(472頁)(つづく)

『立石旻君の思い出』2023.06.16【遺稿集『風紋』より】

年譜

昭和56年(1981) 36歳(2)

1月21日、辞世の歌「ねじ解くる時計の下に氷河期の死顔浮かべて遺言とせり」のコピーに、別れの言葉を書きつけ友人達に郵送。1月22日、朝8時頃、出崎の海岸で軽トラックに排気ガスを引き込んで自殺しているのを、貝を採りに来た地元の人が発見。車中には、飲みさしのオールドと、死の間際に書かれた義兄亮宛の詫状が残されていた。玉野市の東にあり、夏には海水浴で賑う白砂青松の海岸は、小学生の頃スケッチ大会に来た思い出の場所であった。検死の医師は、内臓に水がたまっており、かなり以前から苦痛を覚えていたはずだと語ったという。事務所には両親宛の遺書が残され、死後の残務処理に関する項目が細かく指示されていた。

1月25日、自宅にて葬儀。戒名 慈覚明旻信士。安らかな死顔であった。副葬品として、好きだった松尾和子の「再会」のレコードと、自らレタリングした工学部院生闘争委の旗を添えた。(472頁)(おわり)

明日、下記の文章を書いて全文の最終回にします。

『画中日記』2023.06.17【立石旻君の思い出(17)】

立石君が、東京から福岡に移り、そして玉野に還ってきて、自我の実存空間と、周りの他者及び社会の空間の差に対して、順応し適応できない苛立ちと、怒りと、生活空間の苦しみは、当時の世界を同世代で過ごした私には、いたいほどよくわかる。そして彼は出崎の海岸で自死する。

当時の私は、今の私と違って、実存主義で生きていたので、彼の自死は、私のその当時の生き方に大きな影響を与えた。

当時、テレビで見ていたボクシングの試合で、解説者が、「逃げ回って判定で負けても、ノックアウトされて負けても、負けは負け」と言った。立石君は、生活世界及び女性の現実優先の世界観による無理解によって彼の世界を否定され、ノックアウト負けをしたが、彼は倒れたが、何くそオレは戦い続けるゾ、と、決意した。

追記;今の私は、実存主義は間違っていることに気付き、〔全元論〕を確信しています。(おわり)

 

 

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⑶而今、現成、マンデルブロー集合 じつに恐ろしい。いや恐ろしいのではなく、これは素晴らしいのだよ。世界は、こうやって存在しているなんて、世界に、こうやって存在しているなんて、自分の存在がなんと幸運でな …

(40)世界とは何か、自己とは何か、どう生きるか

(40)世界とは何か、自己とは何か、どう生きるか(123頁) 一見複雑にみえても、ほとんどの哲学の命題は「世界とは何か」「自分とは何か」「どう生きるか」という3つの問題に関わっている。その問題を認識者 …

(55)面白かった微積分

(55)面白かった微積分(197頁) だから僕は、微分積分も自分で勉強して、それであっと言う間に数学が好きになった。物理学は中3の時に玉の秀文堂で買った、ガモフの『1、2、3、・・・無限大』と『不思議 …