岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

テキストデータ 著書、作品集、図録

⑶而今、現成、マンデルブロー集合

投稿日:

⑶而今、現成、マンデルブロー集合

じつに恐ろしい。いや恐ろしいのではなく、これは素晴らしいのだよ。世界は、こうやって存在しているなんて、世界に、こうやって存在しているなんて、自分の存在がなんと幸運でなんと不思議で、なんとありがたいことか。何かの本で読んだけれど、禅のお坊さんの言葉で、「お前たちは、天から大借金を背負っているのだ。みんな一文無しで、一生かけても返すに返せないのだぞ」といっている。そうやって生まれてきておいて、不満や屈託などをかかえてグチグチ言って過ごすな、ということだ。仏教では、人間の根元的な煩悩を三毒といって「貧・瞋・痴(とん・じん・ち)」を克服しなさい、といっている。そんな煩悩をかかえて、あるいは、そんな煩悩の充足を目標にして生きるなんて、つまらない生き方だ。せっかく、生まれてきたのに。

そしてこの世界観では、時間軸はどういうことかというと、時間というものは進歩史観ではない。「而今」といって、今、今、今と今ここに因と縁で現成している。未来に向かってラインは続いているけれど、今、ということだ。過去のラインは変えられないけれど、未来へのラインは、開き、続いている。

先ほどの話に加えると、香厳撃竹で竹に石ころが当たったということは、もともと竹が生えていた。そして石があった。これらはどこかで生まれたわけだ。竹の原因、石の原因もどこかにある。どこか宇宙の果てから突然に降ってきたのではなく、無から涌いてきたのでもない。あるものが流れ流れて、因と縁で竹という存在になり、石という存在になり、香厳の庵の周辺にあった。それを香厳がたまたま掃いていて、石が竹に当たって「カン」という音がした。

僕だけでなく全部の存在がそうなっているのだ。竹に当たったからといって、どうということもない。しかし香厳にはそういう歴史的必然性があった。香厳でないと、掃いて石が竹に当たる音がしても、それだけのこと。しかし、世界はそうなっているのです。今、今、今と現成しているのです。

道元のわかりにくい言葉に「薪が灰になるのでない。冬が春になるのではない」というのが、現成公案の中にある。どういうことかというと化学でいう「相転移」のことだとおもう。水は温度を上げると水蒸気になり、温度を冷やすと氷になる。これはエイチツーオー(H2O)というものがあって、温度が高いと水蒸気になり、下がると氷になりということであって、水が水蒸気になったり水が氷になったりするのではない。また、そのH2Oも、酸素一つと水素二つが結合したものだ。そして、その酸素と水素は、原子核と電子で……、どこまでいってもキリがない。万物は、世界は、一瞬、一瞬、刹那ごとに因と縁で現成するのだ。

西洋には、因果律で「因」はあるのだが、「縁」という概念と言葉がないらしい。因だけだと運命論になってしまう。過去は運命で、ラインは一度も途切れていない。しかし、未来は縁によって運命ではない。未来は、やはりラインは途切れないのだが、縁によって分岐する。ちょっと分かりにくいかもしれないが、じつはマンデルブロー集合のように、時間も空間も構成されている。全元論とマンデルブロー集合とで全体像のイメージをつかんで、存在の全体像をとらえる。その上で道元の『正法眼蔵』を読むとさらに分かりやすい。

マンデルブロー集合については、数学も物理も全部、最近はそう言っている。つまり紐理論とか、リーマン予想とか、物理も数学もみんな、境界が融合している。しかし、同じようなことを、800年前の道元が、2000年以上前のお釈迦さまがすでに言っていたのだからこれは凄い。

それから先ほどの逸話で、香厳の先生がなぜ「教えてやってもいいのだけど」と言いながら、教えなかったのか。マンデルブロー集合というのは、分けることができない。全体で、全体が一つである。すると、神も人間もお釈迦さまも道元も物も皆、万物、悉有は世界の内にある。今の世界内の、存在内の世界と、自分も神も超越も、真善美も、全部分けられない。分けられないとどうなるかというと、だからこそ、道元もお釈迦さまも、対象物にはならない。つまり拝む対象にはならないということです。お釈迦さまも禅宗も、自分の前に拝む対象を置かない。分けられないのだから、世界のなかに構成物としてすでに自分が入っているということだ。ちなみにマンデルブロー集合については、ネットで動画をさがして見ると、視覚的に分かりやすいかもしれない。

磁石というのは、無理に折ってもN局とS局とは分けられない。どんなに折っても、小さな磁石になるだけで、N局とS局は単独で取り出せない。磁石と同じように空間も時間も、じつは全部がそうなっている。全部が分けられない。自分とか、対象物とかいうようには分けられない。神も、天も、プラトン的イデア界も別個にあるのでなく、磁石のように、割っても割っても決して分けられないものなのだ。存在の構造が分けられない。細胞レベル、心のレベルも同様で、分けられない全体としてのマンデルブロー集合がある。時間についても同様です。

 

-テキストデータ, 著書、作品集、図録

執筆者:

関連記事

『岡野浩二作品集 1964〜1981』1982年出版

(21)参照文「私の実存と世界が出会う所」

(21)参照文「私の実存と世界が出会う所」(68頁) 私が印象派以後の絵を見て感じることは大別して二つに分かれる。一つは個別の表面の向こうに作家の本当に表現したい内容が透けて見える。つまり画面の表現内 …

片瀬白田だより(2010年)

片瀬白田だより(2010年) 片瀬白田だより(2011年) 片瀬白田だより(2012年) 片瀬白田だより(2010年) 2010年5月7日〜2010年12月23日  目の洗濯 2010.05.07 い …

美術雑誌『美術の窓』に寄稿した原稿

美術雑誌『美術の窓』に寄稿した原稿です   セザンヌ、ルノワールに続いて今ゴッホ展も開催されていますが、各展の人気と会場の熱気は美術館の外の美術シーンとは対照的です。なぜに現代の画家の絵は人 …

(58)絵画における光と空間

(58)絵画における光と空間(205頁) 絵でいえば、僕がリアルに描いていて、やがて変わるときがきた。 僕が「幻視された景観」(桑原住雄、『岡野浩二作品集1964~1981』の巻頭分より)という事で、 …