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⑵全元論とは何か…「香厳撃竹(きょうげんげきちく)」

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⑵全元論とは何か「香厳撃竹(きょうげんげきちく)」

全元論とは何かというと、これまで、僕は色々と道元に関わる本を読んできました。パソコンに保存している「読書ノート」をみると、2011年に読んだ『道元』(和辻哲郎著 河出文庫)が最初です。東伊豆に借家を借りてイーゼル絵画(現場での直接描法)をやり始めたのが2010年の5月ですから、戸外での描画現場での体験と、本から入る情報がシンクロして、一気に道元にのめり込みました。『正法眼蔵』も読んだけれども、たしかにものすごく難しい。ところどころはよくわかるが、なかなか全体像がつかめない。しかし、おぼろげながらでも全体像がつかめると正法眼蔵では、くどいくらい何度も「こうだろう、こうだろう」と丁寧に教えてくれているのが理解できます。全体像がわからないうちは、禅問答と同じでたいへんわかりにくい。しかし全体像さえわかると、ある時に視界がぱっと晴れるように見えます。そのようにしてわかったのが、僕のいう全元論です。

全元論という言葉がひらめいた助けになったのが、ゲシュタルト、フラクタル、マンデルブロー集合などの概念と形態を知っていたことでした。つまり、分けられない、ということは部分のない、ということは全体を要素の集まりに還元できない。全体が部分と自己相似形で、関係に関係する、全体で存在する存在。分けられないのだから、有も無も勾配があるだけで輪郭線がない。

 

まず、最初のポイントは『無門関』という禅の公案集です。『正法眼蔵』の中でも『無門関』の中の話と同じ話が、何度か出ていますが、中国で当時の禅僧の無門慧開がつくった公案集。公案集には、『碧巌録』『従容録』等色々ありますが、いちばんポピュラーなものが『無門関』で、現代訳の本や私的な訳もネットに多数出ています。

そのなかに『香厳撃竹』の話があります。要約するとこんな感じのストーリーで、潙山(いさん)という禅僧がいて、その弟子が香厳であるが、香厳はまだ新鋭の筆頭くらいの位置にあった。そろそろ悟ってもいいと期待されるような立場だ。

ある時、師が香厳に課題を出した。すなわち「父母未生以前の一句を言いなさい」いう公案を与えられたのだが、「あなたの父母がまだ生まれる前のあなたのことを詩に書いて来なさい」というようなことだ。その課題は、はじめは香厳には意味さえ分からない。父母が生まれていないなら自分は生まれていないのだから、さっぱり分からない。香厳は本が好きで書物もたくさん持っていたが、書物の中を探しても手がかりがつかめず、それではいわゆる画餅だからといって、本を全部焼いてしまったという伝説もある。

香厳は長い歳月を費やしたが、どうしても答えを見いだせずに、師である潙山にどうか教えてほしいと懇願したが、「教えてやってもいいが、そうするとあなたに一生恨まれてしまう。だから教えられない」と言われ、香厳は元からやり直そうとして、下働きから始めてまた何年か修行し、やがて寺を出て転々としながら慧忠というお坊さんの墓の近くに庵を結び、墓守ををしながら修行していた。香厳はまだ、あのときの答えをずっと探している。

そこである日、竹箒で道を掃いていたら、石が竹箒で飛んで、近くの竹に「カーン!」と当たった。その時、香厳は大悟した。悟った後は、師のいる方向に礼拝して心からありがとうございましたと感謝した。さらに、師からあの時に教えられなくてよかったと、そのことにも深く感謝した。香厳はその後、解答の詩を寺に送って、「おお、よくやった」と嗣法されたという、そんな話です。「香厳撃竹」は禅宗では頻出する有名な話です。

 

ところで僕は、この話が全部解った。この逸話の意味が全部分かった。逸話の言わんとしていることも「教えてやってもいいのだけど教えられない」という意味も、すべてが解った。「世界はそうなっている」ということが解ったことが、悟りです。解釈書は色々あって、無門関にもこの逸話は入っているけれど、読んで納得できるものは少ない。

しかし道元の解説は凄い。もっとも、それでも分かりにくい。僕が解説したほうが分かりやすいかもしれない。香厳が、師から、解答を教えられて悟ったのではなく、自分で「そうだ、そうだ!」と思った。そこが重要なのだ。僕もイーゼル絵画と自分で本を読んで、自力で理解したのだから、解りやすく(解りやすくもないか)話せるのです。

鈴木大拙のエピソードに、両手を叩いて「右手が鳴ったのか左手が鳴ったのか」という話がある。また、白隠禅師には「隻手の音を聞いて来なさい」、という公案がある。「隻手の音声(おんじょう)」という話だ。どちらの音が鳴ったのか、また、片手の音を聞いてこいというのだが、ふつうに考えると訳が分からない、ナンセンスな話に思えるだろう。

しかし僕の解釈はこうだ。今、あなたの右手と僕の左手でパチッと音を立てるとする。この音、この現象は、事実であり真実で、嘘や幻想でもありませんし誰にも否定できません。音の原因は、あなたの存在と僕の存在が当たって、音という現象になったのです。あなたの存在と僕の存在。存在の原因は何かというと、僕のことで言うと親父とおふくろがセックスをしたから受精して生まれた。その時に受精しないと、兄弟、姉妹になるのであって僕ではない。そのときのたまたまです。昔のことだからきちんと育つかという問題もあり、今ならせっかく排卵しても避妊で受精しないとうケースもある。

また僕以前に、親父とおふくろもそうやって生まれてきたのだ。そこまでにずっと、親父とおふくろの背景も一つとしてすき間なく続いているのであって、どこかで途切れていたら今、僕は存在しない。僕にいたる一つのラインをずっと辿っていくと、僕になる母親の卵までの、どこかが途切れたら僕はいないのだ。親父とおふくろも、たまたまその日にセックスをして僕ができた。するともう滅茶苦茶に確率の低いところから、やっと自分は生まれているのだ。しかしここにいたるラインは、一度だって途切れたことがない。

今僕がここにいるというところまで、一度も途切れていない。僕の今の存在は、過去の世界存在の果てから、一度も途切れていない。僕がそうであるように、あなたもそうなっている。あなたと僕とでは、生まれた時間も空間も違っていて、出会う必然性はどこにもない。しかし、今この一瞬にあなたの右手と僕の左手が出会うということは…もう、考えられないくらいの確率なのです。そして今「パチッ」という音がするのです。「パチッ」という音はそうなっているのです。「世界はそうなっている」のです。世界は、オールオーバーに、自分も他人も物も差別なく、隅々まで、今、ここに「現成公按」しているという証拠が、この「パチッ」という音なのです。

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