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⑷世界は「そうなっている」

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⑷世界は「そうなっている」

 全元論は不思議な世界だけど、この全体像がイメージできると一気に分かってくるのだ。これは運命論ではない。自分の生まれる以前は、世界に投げ入れられて変えられないし、自分の過去は、いまさら変えることは出来ないが、未来は、一瞬一瞬の出会い(因と縁)で、パッパッと、世界は今ここに、相転移して現成するのだ。道元は『正法眼蔵』の「現成公案」の章で書いているし、他の章でも何度も触れている。

 ということは、先ほどの師が香厳(きょうげん)に言ったように、「教えられない」「教えたら一生恨まれる」というのは、お釈迦さまも道元も、この世界から別個の存在の、対象物ではないということだ。香厳も師に頼ってただ教えられるのでなく、香厳に対して師が「世界そのものをお前が知れ」と言ったということだ。問題(自分)も解答(神、仏)も、全部世界の中にあるのであって、分けられないのだから、自力で知ることによって初めて、師が悟ったのと同じように、世界と自分との存在の有り様(よう)を、自ら知ったということである。ただ教えられたのでは、そういう構造を体感できない。

 イーゼル画にも通じるが、道元の話でいうと只管打坐(しかんたざ)で、ただひたすら座禅を組みなさいという。道元も座禅を欠かさないし、お釈迦さまも夏安居(げあんご)といって、雨期には三ヶ月くらい、叢林(そうりん)に籠っての座禅をずっと続けていた。これは、世界とシンクロしなさいということである。

 これはランダムドットステレオグラム(3Dアート)と似ている。3Dアートは全部やり方や回答を教えたとしても、見ること自体はその人が見ないと分からない。解答を教えられても、自分の目で見ないと体感できない。自分でやってみて気づくわけだ(3Dアートは全体を見ないと立体が浮かんでこない。部分を見る事はできない)。

 つまり師のソフト、あるいは出来合いのソフトではダメだということ。そういう禅僧の話では「修証一等」もそうだし同じような逸話がたくさんあって、禅問答は一見ナンセンスで分かりにくいが、しかし僕は今、そういう禅の逸話の意味が、ほとんど全部分かるのだ。それで結局、道元は素晴らしい、お釈迦さまは素晴らしいけれども、信仰の対象にならない。そもそも全元論では世界は分けられないのだから、神も仏も自分も、万物がこの世界の中に在るのだから、道元やお釈迦さまがいなくても、世界はそうなっているのだ。

 なぜなら、まさに「世界はそうなっている」ということで、万有引力の法則でもピタゴラスの定義でも、ニュートンやピタゴラスが見つけなくても見つけても、見つける以前から見つけた以後も、世界はそうなっているのだ。すなわち「世界はそうなっている」ということに道元も気づいたし、お釈迦様も気づいた。僕はたまたま、絵を描いていて、「美」を追求するだけに生きてきて、ここにきてそこに気づいたわけだ。するともう、嬉しくてしようがない。

 真・善・美に関わる人以外は、ふつうに生きていてはこの世界の実相に気がつかないのはなぜかというと、「自我の欲望」に囚われて人生を送るからだ。お二千何百年前から釈迦さまは、衆生に布教している。煩悩にとらわれた世界(此岸)で生きるな、解脱(げだつ)して(河を渡って)涅槃(彼岸)の世界で生きなさい、と。自我の欲望で四苦(生・老・病・死)八苦(愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく))して終わり。生きることの根本から、欲望に囚われ、だからあのパナマ文書などの結果に現れるのだ。ああいう行為は人間の欲望に根ざした行動だよ。勝った、負けた、損した、得したというそういう思考は、生きることは自分をこっち側に置き、他人や社会を向う側において、自分と分けている。そうやってプラスだ、マイナスだと、喧嘩腰の姿勢、人生を戦いの姿勢で生きていく。

 お金は人間の欲望の記号であると考える、唯物史観のマルクスの世界観では、儲けるというのは相手の損が儲けとなるという考え方である。資本論のいう利潤とは、共産主義の考える利潤とはどこから来るか。ーーそれは資本家が、社会の労働者の実質的な賃金、つまり労働力の本来の価値から上前をはねて低い賃金で使って、その余剰のところで儲けようとしている、という考え方である。だから、進歩史観の最終状態の一歩手前の段階が自由主義であり、資本家が労働者の敵と考える。資本家を倒せば、国民全員が労働者階級で、共産党の一党独裁の平和で平等な社会になると考えた。実際の共産主義国家は、共産党が資本家の位置に取って変わっただけで、腐敗と矛盾はますます蔓延(はびこ)り、理論通りにはいかない。仏教的世界観(全元論)以外の国の世界観は、喧嘩腰の考え方だ。勝った、負けたとか、損した、得したとか分けて考えるのは欲望を肯定する考えである。すなわち、人間が生きるということは他人に勝つべきであり、他人より金持ちになるべきであり、他人より美味いものを食うべきという思考である。

 つまり人間は、宗教がなくなり超越がなくなると自分の欲望しか生きるモチベーションがなくなる。日本以外のほとんどの国は、特に宗教的しばりが薄かったり、多民族多宗教の国は全部がそうで、さらに宗教がまた問題になる。ほとんどが一元論の宗教(一神教)である。一というのは、一と一とがぶつかると、お前の一は間違っているといって相手を叩きつぶすか、呑み込むか、あるいは鎖国(人ならば引き蘢る)するかである。だから宗教について、イスラムとキリスト教もそうであるし、同じ宗教でも分派すると骨肉の争いになる。一元論では無理なのだ。宗教であっても、一元論ではうまくいかないし、本来世界はそうなってはいないのである。

 神も自分も含めて万物全体で動いているという思考を持たないと、世界には必ず矛盾が吹き出てくるのだ。イギリスのEU離脱問題も、同じ根っこで争っているから問題になる。国益で争っていると、お前の国益は俺の損ということになり、それでは解決しようがない。日本的な考え方(八紘一宇、英語ではウィンウィンの関係というらしい)でないと解決の道がない。

 

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