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『芸術の哲学』第3章

投稿日:2020-12-27 更新日:

 

第1章 第2章 第3章 第4章 第5章

 

『芸術の哲学』第3章


 

●ランダムなドットが立体に見えてくる体験…パラダイムの転換

 「物感」という重要な概念に出会ったことや、「美」は超越で、内在ではないので百人百通りではないという認識に至ったことなどを書いてきたが、高校二年生の時に画家を志して後に、六二歳の現在の画に至る、そのきっかけとなった大きな分岐点はブリジストン美術館の常設展でモネの絵を見たときの体験だった。

一九八〇年十月に第三回『赫陽展』に風景画の大作を出品した。自信作でもあり達成感もあったけれども、気分はかなり煮詰まっていた。三十代なかばの自分がこの先一生この方向の画を描き続けることへの疑問が芽生えていたのだ。コローやバルビゾン派の画の技術を研究咀嚼して画商界にデビューして十年、それを発展してここまで来たが、どうも進めべき方向が少しズレているという感じがしてきている。展覧会後ウツウツとしながらも画商からのオファーのある作品を描き続けていた。

その当時の僕のヒットシリーズのひとつに「岬」シリーズがあった。北海道から沖縄まで全国を取材して海に突き出した崖と、岬の突端の白い灯台を組み合わせ、すこし高い視点から見おろした構図の絵だ。岬の絵を描いていて、モネにも岬や海の崖を描いた作品があることを思い出し、画集を開いて自分の絵と見比べた。同じ対象を描いているのにどうしてこうも違った画面(ルビ:えづら)になるのだろうか。そうして、以前モネの作品を観たブリジストン美術館の常設展を観にいったのだ。

モネの絵を見(ここは観ではありません)て、もちろんモネはよく知っていたが、そのとき「モネは描写している」と実感したのだ。それまで実際、僕は対象を実体として捉えて、それを見たとおりに、遠近法や陰影法を使って自然主義リアリズム、つまりクールベの技法で描いていた。だからたとえばモネのような印象派の画家の絵は、自由に対象から浮遊して自分のセンスで画面を創造しているものと解釈していた。その解釈の間違いのせいで、画面の情報が僕の脳の中の正しい場所に届いていなかったのだ。ブリジストン美術館でのモネの画面(ルビ:がめん)の情報を僕の脳の中の適切な場所で処理することで、それは解けない幾何の問題が補助線一つでパタパタと解けていくような、あるいは忘れさった出来事が思いがけない連想から思い出すような、昔の真鍮の鍵を鍵穴に差し込んでガチャンとドアを開けるような、そのような感じで画面が浮かび上がってきたのだ。そのときに、モネはきっちり描写しているということが、よく分かった。むしろ、自己意識を排して目を独立させ描写に徹していることが分かったのだ。そして、鑑賞者の僕が、そのモネの絵の美を享受するのにモネの肉体のどこにシンクロするのかといえば、場所は脳(つまり解釈)ではなくて、眼、画家のモネが対象世界と一筆ごとに交感する眼に鑑賞者の僕の眼がシンクロするのだった。

ステレオグラム(立体視)は左右の眼球の視差を利用して、平面上の画像でも三次元に見える画像のことである。十九世紀にはすでにステレオカメラが出来ていて、日本でも明治時代にはすでに伝わってきていた。僕も子供の時に故郷の玉の『太陽館』で左右に違う色のセロファンを貼った紙で作ったメガネをかけて洋画の立体映画を観たことがある。映画の中でロイド眼鏡で髭のコメディアンがシャンペンかビールか洋酒のビンを、指で口をふさいで振ってカメラに向かって噴き出すと子供の僕は自分に向かってお酒が飛んでくるように見えて驚いた記憶がある。初期のステレオグラムは二つの画像を並べて目の焦点を意図的に前後にずらして合わせることで立体視するか、一つの画面の上に異なる二色でズラして描かれた画像を同じ二色を左右に貼ったメガネで見るか(同じ色の図像が消える)だったのだが、近年になってコンピューターを使ってランダムなドット(点)にしか見えない一つの画面のシングル・イメージ・ステレオグラムが開発され、それを紹介した本、『マジックアイ』の発売後、一九九〇年以降日本でもおおいに流行した。

僕は画家だから、視覚に関することにはなんにでも興味があって、流行の初期にすぐに本を買ってきて体感した(その中の一冊は、故郷の玉で小中と同級生だった何森仁(ルビ:いずもりひとし)君の著書『ステレオグラムをつくろう–あなたも3Dアーティスト』だった)。

最初は慣れて見えるようになるまで時間がかかるが、一枚のランダムなドットから立体が立ち現れてくる瞬間は感動的である。自分の肉体の内部で起こっている現象を外部に取り出して見せてくれるのだから。この体験は、以前ブリジストン美術館の常設展でモネの絵を見たときの体験に似ていると思った。ステレオグラムは、眼の焦点を変えることによって隠れていた形象が立ち現れるが、モネの絵は画面を見る僕の意識の枠組み(パラダイム)を変えることで急に隠れていた情報が飛んでくるのだ。眼の焦点と意識のパラダイムの違いはあるが、外部世界と自己の内部世界(認識)が出会って現象するその仕方がそっくりだ。

モネは対象の光を描写しているのであって、決して彼の自由な感性で好きなように描いているわけではない、ということが知識としてではなく僕の身体(眼)に映り込んだ。その体験のすぐ後に、国立近代美術館にてマチス展(一九八一年四月)を観て、『ダンス』の第一バージョンの作品の前でモネの絵と同じような現象が僕の眼に起こって、画の見方のパラダイムの変更に自信を持った。また、そのパラダイムで平面作品を見ることに慣れてくると、モネ以外の画家、特にそれまで理解できなかったセザンヌの絵も次々に解釈と技術の理解ができるようになった。ステレオグラムはランダムなドットに見えている間は、どんなに時間をかけても研究努力しても形象が見えてこない。絵画も画面に描かれている内容ではなく、「光」と「画面の空間の秩序」にパラダイムを合わせないと美は立上がってこないのだ。

この観点は、それまでの自分の仕事の延長線上にはなかった。進むべき方向が少しズレているのでこのフォームのまま一生画を描き続けてもマネやセザンヌやマチスの到達した記録は出せないだろう。それに気がついたので、絵のうえでおおきな決断につながり、ベクトルをそちらに向けた。彼らの記録にせまる記録がだせるかどうか、それは分からないが、どっちみち今の方向のままならローカルな記録で一生が終わってしまうだろう。それで、生活のリスクはあるがフォームの改造を決断したのだった。

四回転ジャンプを氷上で跳ぶためには、まずスケートを滑れなくては始まらない。しかし、一生ずっとナチュラルに滑っているだけでは、決して4回転ジャンプは跳べない。四回転を跳ぼうというベクトルに沿って、意志と不断の負荷をかけた練習によってはじめて可能性がでてくる。さらに、一足飛びに四回転は跳べない。まずは一回転から、順次2回転、3回転、3回転半と跳ぶことをマスターしてやっと四回転に挑戦できるのだ。漫然と滑っていて突然四回転が跳べるということはない。一生スケートを滑っていても百%不可能だろう。ステレオグラムも、見えるかなぁとそのドットを漠然と見ていても、また眼の焦点を変えないで、平面上に焦点を合わせたままでドットの研究を重ねても、一生形象は見えてこないだろう。ともかく一九八二年前後の僕は、結果や周りの思惑を考えずやみくもに手探りでベクトルの変更に挑戦した。同じ人間があのような作品を描いたのだから、僕だって同じ人間で画家をこころざしそれに一生をかけたのだから、自分に起こった現象を鑑賞者に起こさせるような絵を描きたい。…そう思った。

画家のみならずだれであっても努力の方向が合わなければ、根性だけでは何事も達成できない。みんな努力するけれど、努力しない人はいないけれど、何かをなす方向で努力しなければだめなのだ。好きなようにやりなさいではだめ。スケートもまず、四回転を跳ぶというベクトルを決め、まず一回転ジャンプから始めて、二回転、三回転と目標をあげていってやっと可能性がでてくるのだ。いくらベクトルを決めても、一足飛びに四回転は跳べない。

ステレオグラムを見ていると、立体の図像が浮かび上がって来る直前には予兆があって、ゆらぎながらある瞬間に図像がワッと湧きあがって見えてくる。「来るぞ、来るぞ……来た~!」という感じだ。一度見えるとあとは見えやすくなる。僕はモネやマチスに出会って、後にランダム・ドット・ステレオグラムから3D図像が浮かび上がった時、その現象が似ていると思った。ふつうナチュラルに日常生活を過ごしていて、そのパラダイムで世界を見ていると、世界はランダムで混沌としてよく分らない世界、諸行無常の世界と向き合っている。そこで、自我意識を原理にして生きていくのが、実存主義である。しかし、ランダムなドットの中にきちんとした構造、空間、形象が見えれば、それは内在ではなく外側の世界のなかに存在しているのだから、それを認めれば実存主義の誤りを認めなくてはならない。この本の『人生の処し方と美意識が、結びつかない……』の章のなかでのアインシュタインとタゴールの論争ではアインシュタインの意見に同意せざるをえない。(注:アインシュタインの考え方は、哲学の用語では「素朴実在論」と呼ばれるもので、ともかく日常経験から言って、人間が見ようが見まいが客観的に世界は存在している、という考え方である。)「真・善・美」は超越的に人間の外側に存在している。

画家は「美」という超越に向かって、どれだけ高く跳べるかという記録に挑戦している走り高跳びのアスリートなのだ。同じ人間が自分の肉体だけの力で地上から二m四五cmも高く跳べることを「凄いな~!」と感動している。 百メートルを九秒台走ったからといって、二メートル以上もの高さを跳べるからといって、どうしたのそれが?というのは「美しいだけで、それがどうしたの?」ということと同じだ。逆にこちらから「なぜ、美しいことがどうしたのなんて聞くの?」と聞きたい。人間に、ほかにもっと意味のある生き方があるなら、教えてほしい。「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」のどうせ死んでしまう卑小な人間が、百メートルを九秒台で走るのだ!氷上で四回転もできるのだ!ピタゴラスの定理だって見つけるのだ。「それがどうしたの?だからなんなの?」と聞く人たちには、逆に「それ以上のものがあるの?」と聞きたい。

●世界の写り方がよい人と悪い人…

 絵画やステレオグラムを見る時と同じく、世界や人間についてもゆがみなく正しく認識することが大切だ。人生や人間を正しく認識するためには、まず「人間を記号で見てはいけない」ということだ。記号で見るな、といわれても分かりにくいと思うが、周りを自分の生きられる空間に写し込むように生活すればいいのだ。表面のランダムなドットを見ているかぎり、存在は見えてこない。存在者は存在を隠蔽する。リンゴがあるとリンゴに目がいってリンゴの「存在」に気が付く人はいない。周囲を記号で捉えると、自分に映り込んだ生きられる空間が狭く貧しくなる。僕の説では、人間は内部に外側の世界が写り込んでそれぞれの生きられる空間を形成し、その中に自我が生まれる、と考えている。だから、自我の解釈の前に、鏡が世界を写すように、まず感覚器官をとおして身体内に世界を写し込んでいる。自我意識の記号的解釈の前に物や事象を歪みやくもりなく写さなくてはならない。これは、経験的学習なので練習や教育によって良くも悪くもなる。仏教の用語に「薫習(ルビ:くんじゅう)」という言葉があるが、意味は衣に香の薫りがしみ込むように人の阿頼耶織(ルビ:あらやしき)(注:心の源)が、悟りの境地に染まるように修業する方法のことだ。「孟母三僊」とか「朱にまじわれば赤くなる」のことわざにあるように周りの世界は本人の世界観を染める。おまけに、ステレオグラムのように、世界の表面は無秩序なドットにしか見えない。本当はランダムなドットに隠されて「真・善・美」は外部世界の時空に通底して実在しているのに、ナチュラルに世界を見ているかぎり表面のドットに目がいってしまう。そのために当人の世界観も無秩序で現在の現実の自己と日常生活に頽落してしまう。「真・善・美」は外部世界の時空に通底して実在しているのだから、それさえしっかり見て、自己の内部に写し込めば、そしてその世界観のもとで諸事に対応すれば、あとは何も生きることに苦しむことはないのだ。ステレオグラムを見るのに両目の焦点を変えるように、世界を見るパラダイムを変えないと「真・善・美」は見えてこない。そのために、芸術や学問や宗教を人類はいつの時代にも必要としてきたのだ。先人の芸術家の美が顕現された作品を観たり哲学や宗教を勉強して、世界の表面のランダムな事象を、パラダイムを変えることによって正しく「真・善・美」を認識する方法やコツを習得すると、世界は美しく感じられるし生きることの苦しみから解放される。

たとえば近頃二〇〇八年五月に起きた秋葉原の通り魔事件を含めて似たような事件が頻発している。事件を起こした若者たちに共通することは、彼らの世界観、人生観が狭く歪んでいるということだ。世界の写り方がとても悪い。問題は世界の「写り方」なのだ。子供が小さい時は親子の関係は記号にはならない。夫婦の関係は記号になりがちだが、本来はそれもおかしい。現状は、親子、夫婦、肉親までも関係が記号に近くなってしまっている。

記号でないからこそ、どんな親でもどんな子供でも写し合って、お互いの生きられる世界の中に大きく存在している。僕の父親が僕が子供の頃よく「犬コロだってかわいいのに、自分の子供がかわいくないはずがない」と言っていたものだ。ペットを飼ってみたら分かる。それも昔のように捨てられた子犬を拾ってきて飼ったり、もらってきたりして飼えば、その犬が雑種だろうと駄犬だろうとそんなことは関係ない。ペットショップの値段の高い犬とも代替できない。それは飼い犬の中に飼い主の自分が写り、飼い主の自分の中にペットの犬が写り込むからなのだ。ところが最近はペットばかりでなく家族に対してまで「年収四〇〇万の夫」と同じように、記号として見てしまっている。

あの事件では親が、人生の目的を記号(偏差値、学歴、会社、金銭等)に置き換えた一種類の世界観しか提示できなかったのではないだろうか。パラダイムを変えれば、世界はいくつの方向にも見えるという見方を教えなかった。それに昔の生活様式で子供時代から大人になるまでの成長過程をすごせば、遊びや、家族、親戚、地域社会など多くの人間とその生活を知ることによって、自分の家庭も相対的だと分かってくるので、自らが、昆虫が変態するように、子供のときの「生きられる空間」を組み替えて自然に大人になっていく。社会に出る前に、そういう経験を体験して、練習して、蛹の時代を通過し正常に脱皮して青虫から蝶々に変身するように、身体を含めて世界観も組み替えが必要なのだ。子供から一人前の大人になるにはこれだけのことを学び、またトラブルなく通過しなくてはならない。特に蛹の時代は、外皮は堅いが内側は柔らかくて弱い。今の青年は蛹になる時期が遅いし、蛹の状態が長い。脱皮しない人もいる。こんな時代の社会環境のなかで、成長するのだから、今の子供は大変だ。子供の「生きられる空間」を善き物、美しき物で満たしてほしい。「生きられる空間」を善き物、美しき物で満たしさえすればその後の人生でどんなつらいことに出会っても世界や人生や自分自身を呪ったりはしないだろう。

通り魔事件をおこす若者たちは、自分と自分の親の一種類の世界観でしか社会を見ることができなかった。一種類というのは、ほとんど数値化され、記号で捉えているということだ。学問は偏差値や受験のためだし、人生の目標は、年収とか、車とか、ブランド品とか、家とか、まあほとんど金銭に換言できる尺度で見てしまっている。

現在の世の中の「勝ち組」「負け組」のように、人間の価値をはっきりとデジタルに二分する尺度はお金だ。この尺度ではかるとセザンヌもゴッホもゴーギャンも「負け組」である。この世界観で世の中に適応して成功すれば一時のホリエモンや村上某氏のようになり、一方で世の中に適応できなくて脱落すると、生きていける世界がなくなり世間からも見捨てられたように思って極度に絶望してしまう。その世界観が問題なのだ。親も、相対的にものごとを見ることができたらいいのだが、親自身が一種類の価値感しかもっていない。いろんな体験を重ねていたら少々の挫折など、どうということもないのだが、一種類の乏しい世界観を子供に強いてしまう。そこから外れた子供は、親からも捨てられたようになり、彼にとっての生きる空間がない。

僕自身が、自分の「生きられる空間」と周りの社会の空間とのズレに気付きそれとの相克に未熟なりに悩んだのは高校生の時だった。(参照文:『芸術の杣径』の「汽車のなかで駅弁を食べる」「生きられる空間」232頁~237頁)僕の前著『芸術の杣径』の「汽車のなかで駅弁を食べる」の章のなかの経験のように、空間のズレが短い時間だったらやり過ごせばいいが、それが一生続くとしたらどのように折合いをつけて生きていけばいいのだろうか。そのことに悩み苦しむことが蛹の時期なのだ。自分の「生きられる空間」を組み替え直し、硬い殻を自力で突き破って成人に変身しなければ、殻のなかで死んでしまうだろう。ああいう事件やオーム真理教の事件を見ると、いいたいことはたくさんある。切なくてあまりにも理不尽である。昔ならば外に出ないで殻のなかで自分一人で死んでしまえばいいことなのに、世界を記号で見ているので記号的人間(赤の他人)を道連れにしてしまう。可愛がったペットは自分では殺せない。ペットの肉は食べられない。動物を記号で見るから、殺したり、捨てたり、食べたりできるのだ。まして人間は記号で見てはいけない。

フラーも言っているように、引力(お金、欲望)に沿った方向で生きると、引力の中心に呑み込まれるか、それとも永久に外に飛び出すかのどちらかである。「勝ち組」になるか「負け組」になるかのどちらかだ。しかし人生のベクトルを引力に直角の方向に変えると、地球が太陽の周りを永久に回っているように、生きて為すべき仕事は限りなくあり、またでてくる。

前の「仕事は無限にある」の章でのべたようにフラーは、一度は自殺しようとしたが、止めて、生きていくベクトルを変え、その後数々の業績を残し生涯をまっとうした。大学を中退し、事業に失敗し、自殺寸前まで行ったとき、もう「自殺するか、考えるかしかない」と気付いた。その結果、もはや金儲けなどの自我の欲望などの方向には生きて行かない、と決めた。自分のためとか、自分の家族のためとか、そういう考えをしないで、引力に直角の方向で生きて行こうとした。もちろん、家族からも周囲からも反対される。現実は成功したり失敗したり簡単にはいかないのだが、その方向で彼は彼の人生を貫きとおした。

●世界は外側にある

 僕の絵が変わったのは、パラダイムが変わったからだ。世界も自我もなんら変わっていないのに、パラダイムを変えると、世界は今までと異なった様相に見えてくるのだ。従来と同じ身体が、従来と同じ世界に相対しているのに、たとえばフラーはあるとき人生観のパラダイムを変えたことで人生が変わった。パラダイムを変えなければ、「勝ち組」「負け組」のように人間を単純に二分する世界観になってしまう。それが記号で見るということであり、見方が悪いということだ。

そういう見方で生きているかぎり、一生かかっても、ステレオグラムは立体的に見えないし、四回転ジャンプは跳べない。ベクトルが違うパラダイムで絵を描いている人には、一生かかってもモネやセザンヌやマチス、牧谿(ルビ:もっけい)、雪舟や等伯や劉生や坂本繁二郎のような画は決して描けない。一生努力して描き続けていればいつかは出来る、などというものではない。フラーは、世界をそのように認識したときから、そのすばらしい世界観で仕事を遂げていった。人は皆同じ世界で、同じ身体で、生きているのだが、パラダイムしだいで一〇〇人一〇〇とおりになってなってしまっている。画家は皆同じ対象を同じ絵具と筆で描くのに、パラダイムの問題に気付かないので一〇〇人一〇〇とおりになってしまっている。

「美」は、「そちら」、「向こう」にあるのだ。描いている、あるいは見ているこちら側でなく、向こう側に世界は昔から同じように存在するのだ。ある人にとっては、混沌として無秩序にしか見えないものでも、見える人には秩序と構造が見える。漁師は水面下の世界を、画家は世界の存在のなかに美を見る。「万有引力の法則」はニュートンが創ったのではなく見つけたのだ。発見したから存在したのでなく、発見前から未来に渡って存在し続けている。そして後に相対性原理がでてきたからといってマクロな視点でみれば正しく、間違っているわけではない。ステレオグラムがどうしても立体視できない人が、自分には見えないからといって「世界は見る人の好き好きで一〇〇人一〇〇通りよ」というのは間違っている。「落体の法則」はアメリカでも日本でも、石ころでも爆弾でも人間でも、好きでも嫌いでも、分かろうが分かるまいが、すべてに妥当するのだ。ステレオグラムが見えない人は、見えない責任は見えない人の側にあるのであって、ステレオグラムの側にあるのではない。

人が好き勝手に「私には分からない」とか、「私、嫌い!」とかといっても、「美」もステレオグラムも「向こう」にある。だから僕は、画家がなすべきことは表現するとか自分を語ったりすることではなく、世界の描写に徹しなさいといいたい。芭蕉は、古い池があって、蛙が跳びこんだ音がした、ということしか語らない。自分のことや自分はこう思ったということを、芭蕉は決して言っていない。誰も聞いていないし聞きたくもない自分の考えや内面に拘泥するのはやめて、世界をしっかり描写しなさい。描写の技術を身に付けなさい。そして「美」に向いなさい。モネも、セザンヌもマチスも描いているものは普通のもの。よく吟味されてはいるが、身の回りの風景や人物や静物を、ただ描いている。それでいてあんなにも美しい。ところが、一般の人は、ランダムなドットにしか見えないから、美しさが分からない。

モネを見たことが転換点になった当時、僕は、リアリズムからややシュールリアリズムの方向に進んでいた。そのためにモチーフとして、特別なものを探さなければならなかった。この空間内を横に、この地上を水平に、風景を探そうとしていたのだ。それが、モネやマチスの絵の体験から、彼らのように、今いるこの場所を、垂直に「高く」跳びたいと思った。つまり地面(現実、日常)を蹴って跳躍する方向の違いに気が付いたのだ。ひとつのモチーフを描きつくせば、次はグランドキャニオンとか、今度はフィヨルドとかいうように、特別なものを横に、水平に、探すようではすぐに行き詰まってしまうだろう。それまでは幅跳びだったのだ。そうでなくて彼らのように地面から「高く」跳びたいと思ったのだ。

つまり、画家は「走り高跳び」のアスリートなのである。それまで、形式や様式や技法のことは放置して、同じパラダイムのまま、内容だけ空間を水平に探求していた。しかし、目指すべきは高跳びの方向だと分かった。それでフォーヴィズムから始め、長い時間をかけてやっとここまできた。当時、そうはいっても時間もエネルギーも勉強もまったく手探りで我流の仮説演繹法なので、そして常に孤独な作業なので方向が合っているかどうかの確信に不安をかかえてやってきたが、最終的には現在の「物感」のところまできた。よくぞここまできたと思う。

●「あの空間はいいな」と感じさせる線、記号に見えない線

 物感を意識して絵を描くようになったのはまだ最近のことだが、では具体的にはどうするかというと、色も明度も記号として使わないということだ。発想の段階で対象を具体的に設定して、ああなってこうなってということを、考えに入れて光の現象を描写するつもりで絵を進めていく。その時に気をつけることは、目、見え、のほうを信じて制作を進めていくことだ。同じ線分でも横にするのと縦にするのでは長さが違って見える。同じ色の縞模様も、縦縞と横縞では明度が違って見える。同じ色の絵具を塗っても広いスペースを塗るほど明度が低く見える。だから絵の場合は、デジタルな数字(記号)とアナログの目とが食い違ったときは迷わず目のほうが正しいと信じてそちらを選ぶべきなのだ。

そうしなければ、頭のなかだけで記号として対象を捉えて絵を進めていくと、物感、つまり世界の存在感(リアリティー)はどんどん希薄になるのだ。これは、具象も抽象も同じ。僕は今、絵のうえで前とは違うことをやっている。画面(ルビ:えづら)は似たように見えても、やっていることは自分の中では大きく違っている。手元では小さな角度の差でも、先行き大きな差になっていくだろう。もっとも人生の残り時間は少ないけれど……。見る側が画面にリアリティーを感じるように、見え方を追って、光と空間を追って、考えながら描き進めている。すると、具象画もすんなりとモティーフが見えてきて、以前よりも格段にうまく描写できるのだ。

それで、最近は具象画が面白くなってきた。かっての巨匠達のやっている事の意味がよく分かるのだ。マチスの晩年の絵などは、二〇〇四年の国立西洋美術館での『マチス展』では描いている最中の影像が放映されていたが、毎日、自分の描いた絵具を拭き取っては、また描いている。何度も何度も書き直している。展示された完成作品はいわゆる「一発描き」ですんなりと清澄な美しさに画面が満たされ、苦労や努力の汗の匂いは微塵もない。僕には、以前マチスの完成作と完成に至る過程の方法論が理解できず、うまく説明できなかった。マチスの絵のような造形的で写実とかけ離れて見える作品は、ピカソが印象派の画家達と違って対象を現実に実写しないのと同じように、モデルを見なくても楽々と描けるだろうにどうしてモデルやモティーフを目の前に設定し何度も描き直すというめんどうで苦労の多い過程を経るのだろう。それはなぜかというと、描写するからだ。クールベもモネもセザンヌもマチスもみんな描写しているのだ。それぞれの表現形式の違いで、感覚の違いでなくてフォームの違いで画面(ルビ:えづら)はそれぞれだが、みんな等しく目の前に対象を設定し描写しているのだ。

まだ歴史が浅くファインアートが存在しなかった新興国アメリカから、一九二五年と一九二八年の二回の渡欧の後、国吉康雄は

「私はフランスの近代作家から、とくに彼らのメディアムに対する理解の鋭さに感銘を受けた。あちらではほとんどの作家が対象から直接に描いている。それは当時の私の方法とは異るものであった。私はそれまではほとんど想像と過去の記憶から描いていたので、その方法を変えるのに苦心した」(みづえ1975年10月号26頁)と、述べている。

完成作品においては一見して大して変わりはないが、目での直接の描写と、頭での記号的解釈で描くことの方法の違いは、画家にとっては大きいのだ。

線はもともと記号である。写真を見れば分かるが、自然界にもともと線は存在しない。人間の意識が外界を線でつかまえにいってしまう。子供の絵を見れば分かるが、人間はナチュラルにしていると、記号で捉えてしまうのだ。一方、カメラや鏡がとらえたものは、人間のナチュラルな認識とは違う。これはリンゴ、これはテーブルというように意識したりせずにそのまま写している。本当は人間の目にもそのように写っているはずなのに、脳のなかの意識が、記号で、認識を補正して解釈してしまう。だから、外界を記号でとらえて描かれた絵画は解釈学的になってしまい「ああ、そうですか」といった、対象の解釈された結果に対する感想にすぎなくなって、美を味わう現象学的鑑賞から離れていってしまうのだ。では、線は使えないのかというと、そうではない。記号に見えない線がある。

記号に見えない線はいくつかある。漫画などの線は典型的に記号にみえるが、マチスやゴッホの線、他に林武、ビュフェの線などは記号に見えない。雪舟や浮世絵なども線が記号に見えない。記号に見える線と、記号に見えない線の違いをはどこにあるのだろうか。それは、物感の有る無し。物の輪郭を変換したものが線。そもそも絵は、すべて絵具の塊であり、見る側に錯視させているに過ぎない。錯視の中でトップのヒエラルキーにあるのが、巨匠達の芸術作品なのだ。だって、絵具の組み合わせが芸術に見えるんだよ。その芸術に見える大きな要素が物感。記号に見える線には物感がない。線にも物感を込めればいいということだ。物感のある線を描けるなら、線を使える。「これが太陽ですよ」というような線は記号。非常口を示すあの人間の形の線は記号。線が対象の側、つまり画面上の空間の上に存在しているように見える線が描けるなら、線は使える。もし、非常口を示す人間の形も「あの人間のいる空間はいいな」と感じさせるものであれば、それは物感のある線といえる。

ところが数字の1を書くときに「この1、ちょっとおかしいんじゃない?色を変えたら?」などとは言わない。記号とはそういうものだから。一方、デザインならそれを言うのであって、大きさを変えようとか色を変えようということになるのだが、今度は大きさや色彩や明度や線が記号になってしまうし、そもそも記号はそういうことを問わないのだから。いずれにしても、芸術作品に比べると、デザインや漫画の「美」のヒエラルキーは低いのだ。

●跳ぶなら、高く跳べるフォームで…

 人間を記号で描けば、例えば非常口を示す人間の形のようになる。絵画の中の人物のありようは、記号とは最初の設定が違っている。一見、描写とは関係なく見えるピカソやマチスも徹底的に描写している。

マチスは、晩年(1940年~1954年)の美の本質が結晶したかのような、美術史の中でもピークをなす作品群と、四〇歳代の後半までの若々しい実験的な作品群に挟まれて一九一七年~一九二九年までのオダリスクや室内風景などの、何だか異質な作品群を残している。若い頃の僕はこの時期の作品を見て戸惑い、理解できなかった。これが僕の最も好きな最晩年(1945年前後)のマチスの作品とどう繋がるのだろうか。だいたい画面がヌルッとしていてグレーがかったモデリング(肉付け)のトーンが美しく感じられなかった。当時のマチスの周りの人も、それまでの革新的で実験的作品に比べて描写に回帰したマチスに否定的な評価であったようだ。一九二〇年、マチスは五〇歳である。五〇代のマチスはほぼ一〇年間何の考えを基にこのような作品を描き続けたのだろうか。

結論を先に言えば、眼(視覚)の独立と自由のためにもう一度自分の画業を再構築しようとしたのではないだろうか。何からの独立と自由かと言えば、自分自身の意識から、ということだ。例えば花瓶に花を活けてテーブルの上に置いて、それを写真に撮ったり絵を描くとき、画面上の位置関係や大きさ等だれが描いてもほぼ似てくる。意識が対象を捕らえに行くときの共通点が眼(視覚)を縛るのであろう。対象を目の前にして自己の意識から自由になることは至難の業なのだ。

マチスのオダリスクでは画面のすべての場所を同価値で描こうとしている。モデルの顔も、壁紙の模様も、テーブルの花も、筆のタッチの差はほとんど無い。まるで望遠レンズでピントをぼかしたような奥行きの浅い画面になっている。このことはマチスの作品が、対象をマチスの意識が捕らえ解釈しを表現したその結果を私達鑑賞者が見ているというよりも、マチスの眼前の対象を直接にマチスの眼を通して触れているという感じをもたせる。だから画家の眼の視線の振幅と鑑賞者の眼がシンクロ(共鳴)して馥郁とした芸術の味わいが伝達されるのだろう。そのような考えのもとに、それまでの実験的で主意的な作画法から、視覚的、感覚的、エロス的な世界へとたて直しをはかったのではないだろうか。そしてそれが晩年の人類の宝物ともいうべきすばらしい作品群に連なっていく。

マチスがモデルを直接に描いている作品を見ると、髪の生え際と皮膚から離れた部分の差もちゃんと伝わってくる。あれをもし、描写でなくて記号的解釈で絵を描くとすれば、きっと漫画や福笑いのようになってしまうだろう。マチスの描写力はすごい。写実的な描写とは違うが、隅々まできちんと描いていて、空間が充実していて画面に簀(ルビ:す)が無い。あたかもそういう髪型のようで、生え際は皮膚にくっついている様子を、きちんと見る側に感じさせる。つまり画面の描かれている物に物感があれば絵具は対象物に変換されて対象物になるのだ。印象派は、対象物の解釈が自然主義的リアリズムの実体から光に変わり、絵具が光に変換。セザンヌは印象派にフォルムと空間をつけ加えて、ただの絵具を組み合わせた平面を光と空間に錯視させる。

僕は最近、抽象画と同時に具象の絵も積極的に描いているが、抽象も具象も物感を考えながら描いている。人物画の場合、髪や目鼻が「向こう」のものにならなければ物感がでてこない。写実的な描写とは違っても、こちら側で恣意的に、感情のおもむくままに筆を動かすと物感が出てこないし、キャンバスの上の空間になにも無い所ができて絵画空間に簀ができる。簡単そうでも、具象画は物感を考慮に入れると、おそろしく難しいのだ。

記号で絵を描くと、記号の情報は「図」の上にしかないので、画面の「地」の部分は何も無い空間ができてしまう。そのために、絵画空間に簀ができて空間の秩序が崩れて美しさが減じてしまう。対象を直接描写すると必然的に画面上の空間は充満し、画面に穴ぼこ、簀、ができない。だから抽象や、具象でも対象を想像で描く場合は物感のない場所を作らないように、注意を怠れない。ピカソは対象を直接描くことはないが、キャンバスの前で「これは何だ…」という独り言をつぶやいている映像があるそうだ。(注:『芸術の杣径』「これは何だ」は反語、230頁~232頁)ピカソは画面上に何もない場所を作らないように気を付けて、指差し点呼のように確認していたのだろう。抽象画や、具象でも想像や写真やスケッチから絵を描く場合は、直接描写するのと違って、よほど画面に簀ができないように気を付けなければならない。

同じ平面の上に同じ絵具で描かれていても、絵と図はまったく違うものだ。図の本質は画面の上にはなく、画面から離れて向こう側にある。例えば、ピタゴラスの定理の三角形の図は、フリーハンドで描こうが、定規を使ってきちんと描こうが、黒板にチョークで描こうが、すべて表面の地の向こう側にイデアとしての三角形を想定しているので、イデアは支持体(黒板やノートなどの地となるもの)の上の個々の三角形の表面の在りようを問わないし、また何に描かれているか、つまりの支持体の在りようも問わない。記号の本質はもともと画面の上にはないのだから。

しかし、絵は画面の上の絵具の在りようこそがすべてで、イデアと美を画面の表面と一致させようとする。ゴッホのひまわりやセザンヌのリンゴは、記号やシンボルとしてのひまわりやリンゴではなく、実体としてのひまわりやリンゴでもなく、彼らが彼らの目で捉えた光と空間としての世界(世界の横に、を付ける)なのだ。

しっかり描写すると、対象が画面に張り付くように、対象が画面上の存在になる。だから物感が出てくる。一本の線で卵を描いたとしても、記号で描かずに実際に卵を見て描くと、意図しなくても物感が出てくる。絵は表現(頭、意識)ではなくて描写(目、感覚)なのだ。

例えば、その線は卵の線なのか空間の線なのか、そういうことを考えるのが描写ということである。具体的にどうするかは、やりながら考える。仮説演繹法だね。 絵描きはそういった問題を考える時に、具体的な問題にならざるを得ないわけだ。色は、形は、コントラスト(明暗)は、線は、パレットの上で絵具をいじるのだからその決定は具体的だ。

画家がある命題を立てたら、始めの一歩は仮説演繹法にかぎると、僕は思う。つまり、仮説演繹法だから、仮説を立てて演繹し実験の結果から帰納する。思弁的な事ともう一つ、実験(画家ならばエスキース)して実地に実践して、実験結果をもう一回仮説に戻す。絵描きだったら美しい絵が出来たり出来なかったり。それをもう一回、その始めの方に、原理原則の方にフィードバックして、もう一回仮説を立て直したりして見つけた法則を、また次の命題に利用して…という風に、常に演繹と帰納を繰り返さなければならない。一般的な仕事でも思弁と実践と、常にやり取りというか、行き来しなければならない。思索だけだとか、実験一筋とか、どちらもそれだけでは駄目なのだ。実験一筋というのは、ほとんど経験論者だ。経験だけでやっている「頭で考えてては駄目だ。ただ描くことだよ」というやつだよ。かといって、描かないで頭で考えてばかりしていてもやはり駄目。それでは両方とも駄目だ。

実験結果の判定基準は、ランナーはタイム、学問は真偽、絵画の場合は「美」。仮説を立てて描いた作品が、仮説をたてる前の作品より美しければその仮説を採用し、美しくなければその仮説を差し戻して新たな仮説を立て直す。

走り高跳びのフォームは、今は背面跳びだが、背面跳びと言う跳び方は僕の若いころはなかった。。今の子供は、走り高跳びといえば背面跳びが当たり前だろうけど、メキシコオリンピック(一九六八年)でD・フォスベリーが史上最初にあの独創的なフォームで跳んだのだ。それまではベリ-ロールが一番いい跳び方だった。ベリーロールというのは、腹ばいになってバーを越える。それ以上のフォームがなければ、その範囲の中で能力を競っていく。どんなに新しく、独創的なフォームを考えついても、以前より高く跳べなくてはそのフォームを採用するわけにはいかない。美術の場合、新しいイズムや技法は、従来のイズムや技法よりもより美しい結果を出した時にはじめて承認され他の画家に採用され美術史にも妥当するのだ。

美術史では印象派のフォームがよかった。モネ、セザンヌ、マチスが記録をつくった。現代美術、特にポスト・モダンの国アメリカ系の現代美術は、さんざん新しいフォームを試み、取り組んだが、結局、より高く跳べなかったのだ。偶然性を絵に取り入れたポロックなどは、その技法を着想した頃は新しい世界が開けそうだという期待もあったのだが、結局、彼らの記録を超えられず、腰砕けに終わってしまった。

結果は分からないが、僕も色々試みている。その結果のフォームが現在の「抽象印象主義(Abstract Impressionism)」であるが、それも、もしより高く跳べるフォームが見つかれば今からでも躊躇なくフォームの改造に取り組むだろう。

●視覚のパラダイムを変えた印象派

 今在るほとんどのものは、縄文時代には無かった。国家も法律も税金も学校も自動車も電話もパソコンも……。何も無かった縄文時代から人間が少しずつ考え、少しずつ進歩してきた総体が現在の世界だ。ハードウェアだけでなくソフトウェアも、そもそもの世界観も縄文時代の人間と現在の人間は大きな違いがあるだろう。

ガリレオ・ガリレイ(1564–1642)は「科学の父」と呼ばれ、ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)、ヨハネス・ケプラー(1571-1630)、アイザック・ニュートン(1642-1727)と並んで、哲学や宗教から科学を分離することに寄与し、科学革命の中心人物とされている。ニュートンの時代にはまだ「科学」という学問の分野はなく、自らは自然哲学をしていると考えていた。ガリレオやニュートンたちは、現在でいう科学者や物理学者という認識ではなく、自然哲学者だったのだ。

以前、ラジオの放送大学で『科学哲学』(野家啓一教授)の講座をやっていて、面白かったので何本かテープにとって時々聞いていたのだが、最近、その野家氏の著作の文庫本(『パラダイムとは何か-―クーンの科学史革命』講談社学術文庫)を書店でみつけ読んでいる。

トーマス・クーン(Thomas Kuhn、1922ー1996)は、アメリカの科学哲学者で、科学史はつねに連続的、累積的に進歩するのではなく、ときどき断続的、飛躍的な変化を起こすと主張している。つまりパラダイム・シフトが生じるというのだ。「歴史は飛躍しない」という言葉は聞き慣れた歴史観だが、つねにそうではなく、時に革命的に大きく変わるときがあって、それまでの世界観を劇的に変化させる新たなパラダイムの発見がときどきなされる。ガリレオなどの時代には、同じデータで研究していても天動説を取るか地動説かによって、世界が大きく変わらざるをえない。歴史は、決してひとつの世界観が連続して進歩、形成されるのではない。

地動説をとなえたのはニコラウス・コペルニクス(1473-1543)だが、天動説から地動説に宇宙観が変わる過渡期に、ティコ・ブラーエ(Tych Brahe、1546ー1601)という裕福な研究者がいた。彼は日ごろ観測し続けた天体の豊富な資料を持っていたが、その資料を読み解くのに天動説のパラダイムから離れなかったために、複雑になるばかりでどうしても説明しきれない事例が余分に出て来てしまう。そのティコ・ブラーエの資料を借りてヨハネス・ケプラーは天体の運行に関する「ケプラーの法則」を発表して天体物理学の先駆者として歴史に名を残した。同一の資料を天動説でなく、地球の方が動いていると考えると矛盾が一気に解決したのだ。

絵画でパラダイムの転換というと、なんといっても印象派である。それまでのリアリズムの技法では描写対象を実体存在として捉えていた。それに対して印象派は対象を光の関係で見るのだ。リアリズムも印象派も、人物であれ風景であれ静物であれ、同じような対象をただ描写しているだけだ。どこが違うかといえば、リアリズムが眼前のリンゴを描こうとしたのに対し、印象派の画家たちはリンゴに反映した光を描写しようとしたのだ。意識の認識は脳だが、光の認識といえば目で、そのために意識的に意識を遮断して視覚を独立させていったのだ。

フェルメールも、カメラオブスキュラというピンホールカメラの一種を使っていたと言われる。コローも、初期のピントの甘い写真を見て遠景の木の描き方などに影響されたのではないかという。人がナチュラルに描写すると、遠くの小さく見える人間も大きくズームアップして見てしまうし、どんなに小さくても目鼻を描いてしまう。つまり無意識に視覚を意識が補正してしまうのだ。そもそも、ピントを合わせるのは人間の意識がするものだ。しかし目は意識して見ている物以外のものもピントはボケていてもちゃんと情報処理している。つまり印象派の画家達は意識(ピントを合わせることや、物を解釈すること)を遮断して、眼前の美しい光をただ忠実に変換してキャンバスに描写しようとしたのだ。そう考えると、モネの絵の輪郭がボヤけていることも、固有色の問題(色は物に属しているのではなく、物と光の現象なのだという認識)も納得できるだろう。自我意識がピントを合わせ、「ああ、リンゴだ」と思うし、向こうから来る人は知人のAさんだと判断する。人間がナチュラルな意識のままに絵を描くと、遠くの人物にも目鼻を描いてしまう。印象派はそうでなく、意識が捕まえに行かない方向で絵を描く。身体は世界をそのまま情報処理しているのだが、自我意識が判断や解釈をそれに加える。カメラや鏡のように、目は眼前の世界をただ写しているのだ。目に写っているものを判断しようとする意識を意識的に遮断して、あるいは意識をや判断を実体ではなくて光(現象)の方向に向けて事物を見る。つまり、実は石膏デッサンの時の見方描き方が印象派のメソッドなのだ。白い石膏の塊から、色のある自然物にその描写法を拡げて行ったのが印象派なのだ。

●自分と他人は、写り写られしている関係

 世間を騒がせたいといって事件を起こすような、劇場型事件を起こすような人は、なぜそう思うのか。なぜ、ワイドショーで取り上げられたいなどと思うのか。

身近な人や肉親や好意を持った人は、自分の中の写り込んだ世界のパースペクティブの上で、近くてはっきりと大きく写っている。逆に自分は他人に大きく写されたい。ところが、他人を誰も写しこんでいないし、誰からも自分の存在が写しこまれているという実感がないというのは、限りなく孤独だ。

日本はまだいいが、たとえば移民の国アメリカでホームレスになったとすれば、その孤独は日本人が想像もつかないほど孤独だろう。アメリカには戸籍もないし、誰も自分を見ていない。見られたとしても「路傍の石」のようにしか見られていない。誰にも自分が写りこんでいない。自分が生きていることを、誰も知らない。誰かの視界に入ったとしても、石ころのような存在だから相手の空間に写っていない。

日本も現在、都市化と少子化で、そうなりつつある。自分の存在が、家族を含めてちゃんと写っていると確信できる他人の数は何人くらいいるだろう。昔の田舎の人間関係は、写りこみすぎて煩わしい面もあるが、都会に住んでいてなおかつ学生とか会社とか家庭とかの帰属するコミュニティーを持たない人がおそわれる、自分の存在の根源的な孤独感には無縁だろう。田舎は田舎で、せっかく写し写されしても、自分を写した他人が他所へ出て行ってしまうので、それも寂しい。ペットの飼い方にも今の人間の孤独感が反映されていて、周りに自分をよく写してくれる人がいないので、ペットに写った主人としての自分の写像に癒されているのだ。とにかく、子供が小さい時には、親子はもちろん親子以外にもなるべく多くの人に、自分の存在が他人に写っているという経験をさせるべきだ。写し写されの関係をあらゆる方向に築いておくのは大切なことで、そうすれば、写る自分の像に対して良く写されたいという欲求が生まれるし、自分のマイナス面は写されたくないという「恥かしい」という感情が育つ。

中学生の時だったか、まだ白黒テレビの時代でアメリカの『透明人間』というテレビドラマがあった。主人公は日常生活ではスーツと帽子とサングラスと手袋で顔は白い包帯でグルグル巻きにしているのだが、いざという時にはそれらを全部はずしてピンチを切り抜けて問題を解決するというようなドラマだった。翌日学校では男子の間で「もし自分が透明人間だったらどんな事をしたいか」という話で盛り上がった。「銭湯の女風呂に入る」「好きな女の子の部屋に忍びこむ」「喜多屋(玉の町では高級品の店)で商品を盗む」「リンゴ屋(八百屋)で天井から吊り下げたザルに入れているお金を盗む」等々、すべて犯罪か破廉恥なことばかりでワァワァと盛り上がった。透明人間のように誰からも見えなかったり、旅行中の「旅の恥はかき捨て」のように自分を知っている人がいないと人間は恥ずかしい行為も平気でするし、したいのだ。

あるとき上野広小路近くの表通りを歩いていて、東南アジア系の女性から客引きされて、驚いた。以前は、そのての客引きは裏通りでこっそりとやるものだったのに、今は客も女性も恥ずかしくないのだろうか。女性もよその国に出稼ぎに来ているから出来るのであって、顔見知りの人がいる自国の地元では羞恥心が先に立っておおっぴらにはできないだろう。写り写られしている世界の中にいるときは、「恥ずかしい」行為はできないものだ。

自分の内部が自我で目一杯ならば、自分の行為は独我論になってしまう。写り写られの関係がなかったら、外部世界や超越(真・善・美)は自己の内部には無いのだから、自分の行動は「自分の勝手でしょ」になってしまう。そして他人の行動には「自己責任でやっているのだから俺の自由だ」と言われれば反駁できない。写り写られの関係がなかったら、自我の中ですべてが完結してしまう。

自分の内部世界に写っていない人を殺すのは罪悪感が少ないだろう。飛行機で飛んでいって爆弾を落としても、倫理的にはあまり罪意識がない。ところが、自分が写り写られしている人を殺すとしたら、もの凄い心理的な抵抗がある。僕が子供の時のチャンバラ映画で主人公の周りの人一人を助けるのに、大勢の捕り手が殺されるのを「なんだかおかしいなぁ。捕り手にも家族があるのに」と思って観ていたが、おかしくはなかったのだ。主人公には捕り手の木っ端役人など目に入ってないのだから。家で、家畜としてでなく、ペットとしてニワトリを飼ってごらん。そのニワトリの肉なんか食べられないよ。ペットロス症候群の例もある。自分の内部世界に近く大きく写った人の死は、自分の一部も死んでしまうのだから、心に大きな喪失感を与える。おまけに、その人に写られた自分の写像までもがその人と共に失われる。そのように二重の喪失感で、濃く近い存在の人の死は悲しいのだ。

写り写られという関係で生物界も人間界もできている。だから、自分のことを美しく写されたいのなら、他人のことも美しく写してあげなければならない。他者を美しく写す、そういうポリシーで生きればいい。人と世界は、そういう関係で生きていけたら幸福な人生が送れるのに、自分は美しく大きく写して欲しいくせに他人は美しく写してあげないという人や、透明人間のように人に写らずに欲望を満足させようとする人は、世界に関わるパラダイムがおかしいので周囲との関係に障害が絶えない。つい最近も「金で買えないものはない」と言った人がいたが、金で、他人の中の自分の写像は買えません。金で、自分の中の恥ずかしい記憶は消えません。

他人のからだの中に写られた自分は自分。自分のからだの中に写った他人は他人。人間(他の生物も)は、他者と外部世界を自分のからだの中にアプリオリに抱え込んで生きているのだ。そういう世界観で絵を描き、人生を生きるなら、フロイトの精神分析をもとにしたシュールリアリズムや表現主義の考え方が、僕には認められないのは当然だろう。

●消滅したことのない国、日本

 以前観た『アギーレ/神の怒り』(1972年、ヴェルナー・ヘルツォーク監督、ドイツ映画、その映画ではスペインのコルテスの部下のロペ・デ・アギーレという狂信的な実在の人物が伝説の黄金郷、エル・ドラドを探してアンデス山中からアマゾン河の源流の側に迷い込み、兵も武器も失いアマゾン河を筏で下るという物語。実際のアギーレはその後アマゾン河口に出てスペインに戻った)という映画の中では、ヨーロッパの各国が他の国を植民地にして征服していく過程で征服者はカソリックの神父と共に行動し、神から、その土地は自分たちの土地であるという宣言を与えられたというかたちをとるのだった。つまり、私達は神からこの土地を支配するように言われたのであって、人間が人間から戦い奪ったのではないというわけである。大統領の就任式では聖書に手を置いて宣誓するし、裁判では聖書に手を置いて「嘘を言わない」と誓う。約束とは神に対する約束であり、人と人との約束ではない。相手の信じる神が自分達の信じる神と異なれば、その約束は守る必要がないということになる。一神教の人達の言い分は、神が違うなら約束は守らなくていいのだ。子供の時によく観たランドルフ・スコット主演の西部劇に出てくるインディアンがよく言っていた。「白人またうそつく」。

日本という国は他の国にない特徴を持っている。国内の戦争はいつも内戦であって、他国との戦争では元寇の役と第二次世界大戦の沖縄での局地戦が、たった二度の地上戦である。世界史をみてもそんな国は他にない。日本という国家は、町内会や宗教団体や血族集団が大きくなったものではない。ところが世界の他の国は、争って勝ったそれらのコミュニティーが大きくなったような歴史をもっている。だから、土地も法律も国家も、自分達のコミュニティーがそれらをつくった、というように、国さえも相対的に考えている。日本人の感覚では、日本という国は、過去からずっと存在しているものだし未来も存在し続ける、自分の外側にある社会集団の最上位にあるものだと措定している。日本は、自分、家族、地域社会、会社などの職業集団、宗教団体、民族、国家というように自分を取り巻く空間がきれいに同心円をえがいていて小さい円が大きい円の外にはみださないで生きていける環境の国だ。他の国の人は、それぞれの円の中心がずれてはみだす部分が多く生き方の基底に何を置くかがむつかしくて、それぞれの空間同士に軋轢がうまれる(例:宗教、民族、思想、経済、家族)。国家が超越的存在でないのならば、国家内で宗教、民族、思想、経済、家族、個人、の間の争いは避けられない。日本人は国を宗教よりも上位ととらえている人や、自分で気付かなくても国を超越だととらえている人が多いので問題は少ないが、互いの超越同士の争いや、超越を持つ人と持たない人の争いは調停できない。これを世界に拡げれば、世界中の国が国家の上位に世界を超越と措定し(バックミンスター・フラーの「宇宙船地球号」の概念)、それを実感して生きられれば国家間の争いはなくなるのだろうが。外部世界に超越を持てなければ、自我しか存在しない。自我しか存在しないのならば、人はどうせ死ぬのだから、生きて何かを為そうとする、何かの為に生きる、などということは無意味だ。

日本という国は、歴史上一度も消えたことがない。ある時代に消滅したり、ある時代に再建されたりという歴史がない。これからもずっと在り続けるであろう。こういう超越的空間に包まれて人生が送れるということは、自分の実存が独り裸で社会に参入して生きなければならない国にくらべて、なんと幸せなことだろう。

日本では、天皇制という制度がじつによくできたものだった。中学の世界史の時間にナポレオンが一七六九年フランスで皇帝に即位したことを知って「なんかおかしいな」と思った。ナポレオンが皇帝になるのだったら、日本では豊臣秀吉が天皇になるのだろうか。アメリカでは時の大統領より偉い人はいない。天皇制でなければ世俗の政治のトップが社会の頂点なので、日本では今、麻生首相が日本で一番偉い人になってしまう。日本ではどこの国の大統領よりも、首相よりも偉い存在が、世俗を超越した存在が歴史上国に在り続けたことは日本人のすぐれた国家観であった。時の権力者が一番偉い人というのでは、国民は困る。実権を持たない象徴としての超越的存在は国家に必要だ。

国家の権力は懲罰権と徴税権を独占する。国民は懲罰権と徴税権を国に委ねて、ほとんどの日本人はその権威に従う。ところが、国家が町内会の大きくなったものにすぎなければ、町内会の会長が勝手に規則を決めたり、罰をくわえたり、勝手に税金を取ったりしたら町内会の人たちは納得できないだろう。国家というのは、超越でなければ国民は従えない。天皇は超法規の存在である。世俗の権力者がそのまま超法規的存在になっている国の国民はたいてい不幸だ。独裁者は自分の罪を裁かれないし、国民の税金を勝手に使うし、自分の税金も納めない。

日本は特殊な国なのだ。先祖代々の遊牧民で、羊を放牧している人が突然柵を作られて「今年からここは俺の土地だからここの草はおまえの羊に食わせちゃダメ」と言われても、その根拠としてその人の国の土地権利証書を見せられても、その国家と自分が関係ないとしたら、おとなしく納得して従わないだろう。「おまえらが勝手に国を作って、おまえらが勝手に自分の土地だと言っているんだろ。俺達は昔から代々羊にここの草を食わせているんだ。ザケンナヨ」というわけだ。それは日本以外の国では当たり前のことだった。生徒会の会則のようなものを作って一方的に今日からこうするとか、勝手にタバコを吸ってはいけないとか、こんなことをおとなしく従うのは、国家や社会を超越だと思っている日本人だけだろう。世間を超越と考え従う日本人を封建的とみて否定し、西欧的近代個人主義を良しとした夏目漱石の意見に僕は組みしたくない。むしろ、国家を超越と考え、自分を露骨に押し出すことを恥ずかしがり、自我だの自由だのと声高に主張しないかっての日本人の世界観は、むしろ良きものとして肯定されるべきだと僕は思う。

これは、自殺がなぜいけないのかとつながる話だ。自殺したいならお前一人で死ね。自我だけ死ね。自分の中の取るに足りない自我の欲望などで、つまらない道を歩むな。一時は勝ち組のチャンピオンだったホリエモンや、村上ファンドの村上世彰氏が「金で買えないものはない」とか「お金をもうけてどうして悪いの?」などと言っていた。しかし日本人は、あのように外部に自分を写されたいだろうか。僕ならああいう部分は、自分の中にそんな部分もがあるかもしれないが、恥ずかしくて写されたくない。よく恥ずかしくないなと思う。「旅の恥はかき捨て」というように周りと自分が写り写られしていないと、人は恥ずかしいという感情が薄れる。だから日本人は外国人にくらべてシャイなのだ。

僕には絵を描くという仕事があり、そのスキルでもって自己表現欲をみたし、外部世界に写されている。日常生活は新聞もとらず、テレビも見ないで、アトリエに篭ってほとんど外出しない。知らない人から見ればただの怪しい老人と思われるかもしれないが、そういう生活でなんの不満もなく幸せなのは、世界と自分が写り写られしていて、しっかりと関係しているという意識があるからなのだ。

他の宗教、他の国家、他の家庭、他の人なども、写り写られの関係で考えるとよく分る。その人の人間そのものを見てもよく分からないが、その人に写っている世界像、その人の「生きられる空間」を見るとよく分かる。その人にとって、世界の何がどう写り込んでいて、どんな世界像の中で生きているかということがイメージできると、その人の行動も理解できる。前の節で書いたように「年収400万円の夫」という見方で周囲を写し、その「生きられる空間」で人生を送れば、同じような問題が際限なく生じてくるだろう。「5000円のサービス券」も同様で、そういうことが生きているかぎり延々と続くのだ。人の、人間性そのものではなく、その人の「生きられる空間」を理解しなければならない。これは国家でも同じ。国民に写られた国家像が重要なのだ。国民に写られた国家像の集合そのもの、人間の集合ではなく人間が持つイメージの集合が、近代国家のコンセプトである「国民国家」といえるのだ。国民一人一人の「生きられる空間」の中に、「写られた国家」という表象が形成されているのだから。

第1章 第2章 第3章 第4章 第5章

 

 

 

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