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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『饗宴』プラトン著 久保 勉訳 岩波文庫

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『饗宴』プラトン著 久保 勉訳 岩波文庫

■アポロドロス 「(中略)そこで僕達(岡野注;アポロドロスと彼の友人)は歩きながらその事について語り合ったのだった。だから、初めにもいった通り、僕は下稽古ができていないわけではないのだ。で、ぜひ君達にもそれを話せというのなら、そうせねばなるまい。それに僕にとっては元来フィロソフィヤに関する談論でさえあったら、自分でそれをするにしろ、他(ひと)のを聴くにしろ――それからいつも受けると信じている利益などは論外にしても――、この上もなく嬉しいのだ。反対に何か別種の話を、――とりわけ君たち金満家や金儲熱心家の話を聴くと、僕は自分でも不興に襲われるし、また僕の友人の君達も、気の毒になるのだ、何もしないくせに何かひとかどの事をしていると自惚れているのだからね。ところが、君達の方ではまた恐らく僕を不幸な者と思っているのだろう、そうして僕も君達がそう信ずるのは正しいと信ずる。ところが僕は、〈君達〉については、単にそれを〈信ずる〉のではなくて、たしかに〈知って〉いるのだ。」

友人 「君はいつも相変わらずだなあ、アポロドロス。君はいつも君自身をも他の人達をも悪罵している。察するに、君はソクラテス以外の人は無造作にすべて悲惨だと思っているらしいね、しかも君自身をその筆頭に置いてさ。それにいったいどうして君が『弱気男(マラコス)』という綽名を取るようになったのか、少なくとも僕には分からない。話をするとき、君はいつでもこうなんだから、君自身に対しても、他の人々に対しても、ソクラテスは別だが、君は憤慨するのだ。」(45~47頁)

■「それでは、ディオティマよ、愛智者(フィロソフーンテス)とはいったいどんな人なんですか、智者でもなくまた無智者でもないとすると、」と私(岡野注;ソクラテス)は訊いた。

「それはもう子供にでも明らかなことではありませんか、愛智者が両者の中間にある者にほかならぬということは(と彼女は答える)、そうしてエロスもやはりその一人なのです。なぜといえば、智慧は疑いもなくもっとも美しいものの中に数えられています。ところがエロスとは美を求める愛なのです。そうすると、エロスは必然愛智者(フィロソフオス)であるということになり、また愛智者として智者と無智者の中間に位する者となる訳です。この事もまた彼の生れから説明されます。彼はすなわち賢明で多策(富裕)な父と無智で無策(貧乏)な母との間の子なのです。この神霊(ダイモーン)の性質といえば、親しいソクラテスよ、まあこんなものです。もっとも貴方があのようにエロスを解したことは、それは少しも不思議なことではありません。さっきのお話から推して考えると、貴方はどうも、エロスとは愛される者のことで、愛する者のことではないとお思いだったのでしょう。それだからこそ貴方にはエロスがあんなに絶美に見えたのだろうと思います。実際、愛すべき者とは真に美しく、きゃしゃで、完全で至福な者ですからねえ。ところが愛する者はこれとは違って、私がお話ししたような、ああいう姿をしているのです。」

(24) そこで私はいった。「御もっともです、外国の友よ、貴女は実際立派に語られました。さてエロスがはたしてそういう性質を具えているとすると、それは人間にどういう利益をもたらしてくれるでしょうか。」

「ソクラテス、ちょうどその事をこれから貴方に説き示そうと思っているのです、」と彼女はいった。「そういうわけで、エロスはこういう者であり、こういう生れであり、またそれが美しい者に対する愛であることは貴方も認められるのです。ところが今かりに誰かが、ソクラテスとディオティマよ、美に対する愛とはいったいいかなる点に存するのか、とこう私達に訊いたとしたら?あるいはこの問いをもっとはっきりといえば、愛する者が美しき者を愛する場合、彼は〈何〉を欲求するのか。」

「ところが(と彼女はいう)、その答に対してはさらに次のような疑問が起こって来ます。美しきものを手に入れると、その人はいったい何の得るところがあるのか。」

そこで私は、その質問に対しては即答することがとうていできぬ旨を答えた。 「では(と彼女はいう)、かりにこうしましょう。誰かが問題を換えて、美の代わりに善を置き、さあソクラテス、いって下さい、愛する者が善きものを愛する場合、その求めているのは何ですか、と、こう訊いたとしたら?」

「それが自分のものになることである、」と私は答えた。

「では善きものを手に入れると、その人はいったい何の得るところがあるのでしょう?」

「それならもっと容易く答えることができます(と私はいう)。その人は幸福(エウダイモーン)になるでしょう。」

「実際(と彼女はいう)、幸福な者が幸福なのは、善きものの所有に因るのです。また幸福になりたい人はいったい何のためにそうなりたいのかとさらに尋ねる必要ももはやありません。むしろ私達の答えはもうこれで終極に到達したように見えます。」

「本当にそうです、」と私も同意した。(110~112頁)

■「では、もっとはっきり話しましょう(と彼女はこたえた)。いったいあらゆる人間は、ソクラテスよ、肉体にも心霊にも胚種を持っている。そうして一定の年頃になると、私達の本性は生産することを欲求する。もっとも生産は醜い者の中では駄目で、ただ美しい者の中でだけできるのです。男女間の結合もつまり一種の生産であります。ところがそれは一種神的なものであります。またそれは滅ぶべき者のうちにある滅びざるものなのです、懐胎と出産とは。もっとも調和せぬ者の間ではそれは行なわれません。ところが、醜い者はあらゆる神的なものと調和しないが、美しい者はこれと調和する。したがって産出に際して運命(モイラ)の女神や産の神(エイレテユイヤ)の役を勤める者は美の女神(カロネー)なのです。それゆえに、生産衝動の漲れるものが美しい者に近づき行くとき、彼は心勇みまた歓喜に溢れる、そうして生産し受胎させる。けれども反対に醜い者に近づくとき、彼はいつも面貌憂鬱となり、不機嫌に内に籠り、身をそらし、引き退り、受胎させずにただ苦しき重荷としてその生産慾を持ち続ける。それだからこそ生産慾と胚種に充ち溢れている者は美しい者に対して強烈な昂奮を感ずるのです。これを領有せぬ者は恐ろしい苦悶を脱することができるのですから。ソクラテスよ、本当のところ愛の目指すものは、貴方の考えるように、必ずしも美しいものとはかぎりません。」

「ではいったい何でしょう?」

「美しい者の中に生殖し生産することです。」

「そうかもしれませんね、」と私も同意した。

「そうですとも、全然(と彼女は答えた)。ではいったいなぜ〈生殖〉を目指すのでしょうか。それは、滅ぶべき者のあずかり得るかぎり、生殖が一種の永劫なるもの、不滅なるものだからです。ところが不死は必然に善きものと共に欲求されなければならぬ、もし私達のすでに容認して来た通り、愛の目指すところが善きものの〈永久〉の所有であるとすれば。この考察から必然に出て来る結論は、愛の目的が不死ということにもあるということであります。」(116~117頁)

■さて(と彼女は続けた)、肉体の上に旺盛な生産慾を持つ者はむしろ婦人に向かう、そうしてその恋愛の仕方はこういう風なのです。すなわちこういう人達は子を拵えることによって、不死や思い出や幸福やを、その信ずるところでは、『未来永劫に自分に確保しようとする。』ところが、心霊に生産慾を持つものは――というのは、肉体における以上に心霊において、そのものの受胎と生産とが心霊にふさわしき一切のものに対して、生産慾を持つ人もたしかにあるのですから。では、そのふさわしきものとはいったい何か。智見(フロネーシス)やその他あらゆる種類の徳。それを産出するものは一切の詩人と独創者(ヘウレテイコイ)の名に値するすべての名匠達(デーミウールゴイ)とであります。(121頁)

■それを聴くと、彼(岡野注;ソクラテス)は例の非常に独得な皮肉な調子でこういった。「愛するアルキビヤデス、僕が本当に君の主張する通りの男だったら、そうしてもし僕の衷(うち)に君を向上させるような何かの力であるのだったら、君は実際馬鹿じゃないということになるだろう。すると君はきっと君の美貌よりもはるかに勝れた名状し難き美を僕の衷に看取しているに違いない。もし君がそういうものを看取して、僕とそれを共有しよう、そうして美と美を交換しようとするのなら、君は僕から少なからず余分の利益を得ようと目論んでいる訳だ。それどころか、君は単に見せかけの美を代価として真実の美を得ようと試みる者、したがって実際君は青銅をもって黄金に換えようとたくらんでいる者だ。がとにかく、優れた人よ、もっとよく考えて見給え、僕には何の価値も無いということに君が気付かないといけないから。実際、理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始めるものだ。が、君は、そこまでにはまだ遼遠だ。」(142頁)

2009年7月11日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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