『ルノワール』ウォルター・バッチ著 富山 秀雄訳 美術出版社
■ある教師にルノワールはこう言ったと伝えられている。「絵を描くことが楽しくなかったら、私が絵など描くことは決してないと思っていただきたい」と。(カバー裏)
■彼がベラスケスを尊敬したということのうちに、ルノワールが進んで巨匠たちから学ぼうとする態度を再びみてとることができる。かって彼は私に、伝統が独創性を邪魔したことは一度もないといいきった。そして彼は最高の美術家を手本として利用したのである。「ラファェルロはペルジーノの弟子だった。しかしそのことが、神のごときラファェルロになることを妨げはしなかった」と、彼はいう。この伝統への信仰は、今日昔の巨匠たちの作品を模写しようとする学生がほとんどなく――それは過去から学ぶもっともいい手段の一つであるのに――そして近代美術は本質的に過去の美術と異なるもので、それと接触すればそこなわさえするという馬鹿げた考えが広まっている時にあって、とりわけ貴重なものである。(29頁)
■ルノワールの言葉を読むと、芸術に時間はない、ひとたび正しかったものはつねに正しいという彼の信念をあらためて確かめることができる。彼はその原則を、私との別の会話の中でも述べていた。
「古典以外には何物もない。生徒、それももっとも高貴の出の生徒を喜ばすためだからといって、音楽家は七音階にもう一つ音階を加えることはできない。彼はいつでももう一度最初の音階に帰らなくてはならない。ところで、それは美術でも同じことだ」。しかしこれとともに、七つの音は二度と同じ組み合わせにならないことを知らない人たちに対して警告がなされた。「人はティティアンの作品をもう一度作ることはできないし、またノートル・ダムを模作することもできない。――中略――それぞれが森の木々のように違っているからである」。(40頁)
■ルネサンスの画家たちにとっては、「美しい作品を作るという名誉が、報酬の代わりをしていた。彼らは天に達するために働いたのであり、金を得るためではなかった」と。
自分自身の生涯や底に秘めた信念を書こうというような考えはなかったが、ルノワールは自分が生まれた偉大な職人階級のことを述べることによって、彼自身の創作の本質に分け入る重要な洞察を与えてくれる。彼は単にすばらしい職人であったばかりではなく、芸術的目的の達成が「報酬の代わりをしていた」人として、今日の世界に認識されなければならない人なのである。(41~42頁)
■もし線のリズムの波動が肉体のある部分を取り除くことを要求すれば、またもし、光と色の流れや動きが写真的な映像に合わないような前景と後背の関係を要求するとするならば、ルノワールはそうした現実の実物主義よりも彼の構成が要求する側に優先権を与えることを、ほとんど躊躇しなかっただろう。(44頁)
■「必要なのは主題の『感触』そのものをとらえることである。絵画はものの品名目録(カタログ)ではない。わたしは、もし風景画であるならその中を歩きまわりたくなるような、またもし女性を描いたものならそれらを愛撫したくなるような絵がすきだ」。(45頁)
■われわれがいかなる美術にも求めるものは、個人的で永続的な視覚であり、ルノワールのなかにあんなにも豊かに表わされていると感じるものは、若々しく喜びにあふれ、生き生きしたすべてのものの肯定、われわれを取り巻く世界の中の秩序と均衡の感覚なのである。(46頁)
■ルノワールは、この絵に関連したつけられた《ラ・パンセ(瞑想)》という題名に抗議した。「わたしの絵に、どうしてこんな題がつけられたのだろう。わたしは美しい魅力的な若い女性を描こうと思っただけで、モデルの心の状態を描き出そうとしたと考えられるような題はつけなかったのだが……あの少女は考えごとをしたことなどありはしない。鳥のように生き、ただそれだけなのだ」と。(72頁)
2009年8月12日