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(69)必須の色だった「白」

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(69)必須の色だった「白」(244頁)

僕の絵は、どこかに必ず真っ白のパートを入れる。具象も抽象も含めて、真っ白なパートを入れなければ駄目だと思っていた。キャンバスの地のホワイトを残すのが一番いいのだけれど後の黄ばみが不安なので、キャンバスや紙の地の白の上にチタニウムホワイトを塗っている。ジンクホワイトでは駄目で、不透明で被覆力が強く、真っ白なチタニウムホワイトでなければいけない。画面の一部にほんの小さなパートでもいいから白が入っていないと駄目だ。

というか、駄目だったのだ。その事は、他の画家にも常々言っていた。「白を入れなきゃ駄目だよ」とか「白がない絵は駄目だよ」と。その理由もきっちりと説明できていた。

しかし最近、白を入れなくてもいい場合があることを発見した。それを次の仕事で試みてみようと思っている。白を入れないで、つまり僕の描画の縛りが一つ減って、自由度が増して絵が描けるのだ。

それは、僕にとっては大冒険だ。他の画家にとっては、白が入ろうが入るまいがどぅってことない些細な事だろうけれども、僕にとっては、大冒険の、ワクワクする挑戦なんだ。周りから見れば「何だ。それだどうしたの?」と思うような事かも知れないけれど。

何故白が必須かというと、色のついた光そのものは美しいのだが、その光に照らされた物は美しく見えないのだ。たとえば風景写真で、夕焼けの写真などで全体に赤っぽいとか紫っぽい写真があるが美しいとは思えない。もし室内の照明を色のついた光にすると、室内は汚く見えるだろう。今は、サングラスのレンズの色はほとんどが無彩色だが、昔は青紫や緑のレンズのサングラスがあった。アメリカの空軍の夜間爆撃用の黄色いサングラスを、勘違いして昼間かけている人もいた。時代と共にそれらは淘汰されたけれど、その理由は外界が汚く見えるからだと僕は思っている。

太陽の光も夕方や早朝は色が付いている。絵を描いていると、午前一一時頃の光が、ものが最も美しく見えると思う。午後になると、光がほんの少し濁ってくる(黄色がかかる)ような感じがするのは僕だけだろうか。

という事で、白を画面に使うと、画面に白色光が当たっているというある種の証拠のようになるのだ。

ところが画面の最も明るい部分の白に少し色が付いていると、それが何かに染まっているようだったり、シミや汚れのようだったり、古びて見えたりするのだ。そうすると画面が汚く見える。そのために僕は、白を絶対にどこかに入れなければいけないと決めたのだ。

しかし、じつは白を使わなくてもできる、と近ごろある発見から思ったのだ。これは、やってみなければ分らないのだけれど。そして、言ってしまえば簡単な事なのだけれど。

それを、画面に向かって描きながら考えるというのではない。偶然に、やってみたらできたというような事は、僕の絵画理論上絶対にない。白を入れるにしても何をするにしても、仮説をたてその答えが合うという予測のもとにやっていくわけだから。何だか分からないけどとりあえずやってみて、それからまた考える…なんて、そんなやり方は、僕には絶対にありえない。美を目指す画家にそんな行為があるとしたらどういうものか、聞きたいくらいだ。

うどんを作っていたらカレーになった、などという事はない。うどんを作ろうという前提があって行為するわけだから。何だか知らないけれどやっていて「あっ!何かできた!」などという事はないのだ。

もっとも、予定が変わるという事はある。絵なんて特に、エスキースの段階では予定の変更は大いにありうる。ある方向がいいかも知れないと思うと、どんどんそっちに行くのだから。しかし、何にも考えないで、何か手近な物を放り込んで、それからおもむろに、さて、何を作ろうか…などという事はない。

しかし、絵の世界にはそんなことがあると思っている人達が結構いるんだ。プロの画家のなかにも、筆でも持って「さぁ…」という感じで、何かやってみようと思っている人がいる。

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