(13)数学に人生を賭けた人(70頁)
神があるか否か、自己があるか否か等の最大の全体の概念は、全元論から考えたらなんと簡単なことかと僕は思う。世の中の悩みもトラブルもそうである。僕が『清兵衛と瓢箪』や昆虫の生態などと比べて面白くないな、と思った読みものは、全部が、四苦八苦している欲望を是認して、欲望や執着に囚われた人たちのことを書いていた。なんと面白くないことだろう。
ドフトエフスキーの小説に『賭博者』という作品があって、自身も賭博癖による借金で悩まされた。人間の欲望の記号であるお金にかかわるドラマは、それはそれで充分面白い。しかし、目的とするお金そのものは、人間の執著(しゅうじゃく)に耐える価値があるのだろうか。たとえばメンコの面白さ(注)を書いても、それは上位概念ではない。それでも僕はメンコの面白さも体験していたのだから書けるのだ。しかしそれは、上位概念ではない。なにしろ全元論が最上位概念なのだ。道元が言ったからでなく、世界がそうなっているのだ。子どもの頃から漠然と感じていたけれど「世界はそうなっている」のだ。だから今は嬉しくてたまらない。
佛教関係者で一般には有名になっていないけれど、古の教えを伝えている素晴らしい人物がたくさんいる。最近では澤木興道(1880~1965)という人。宿無し興道と言われ、各地に参禅道場を作った高僧で、無所得の座禅、つまり目的を持つことさえもやめてただひたすら坐るということを説いた。まさに只管打坐で、座禅の教育にも貢献した。
こちらは知らなくても、世の中に隠れた偉大な人たちは、これまでジャーナリズムの光が当たらなくても実際はいたのだから、実像もやがて明らかになる。だから、あのひどかった民主党政権の政治もいずれ元に復活するし、絵の世界では僕がいたようにじつは、それぞれに然るべき人物はいるのだよ。たとえば僕は無冠だ。どこの美術団体にも属していないし受賞歴もない。しかし、こうやってきちんと存在しているのだよ。
グリゴリー・ペレルマンというロシア生まれの数学者がいる。数学ではフィールズ賞というノーベル賞以上の賞があるが、賞を辞退した。ペレルマンは「ポアンカレ予想」を証明したことが驚くべき功績なのだけれど、フィールズ賞だけでなく百万ドルの賞金の付いたミレニアム賞も辞退している。
お母さんと二人で年金で細々と暮らしているような人で、今も表に出ることを避けて研究を続けている。自分が広く発表したというよりも、僕のサイトもそうだけど、たまたまのように公表していた資料から巷で「おい、解けているぞ…」と、次第に有名になった。数学のあの種の証明はきっちりと審査されるから、関係者が皆じっくりと検討した結果の受章で、そんな凄い人物がじつはどこにでもいるのだ。NHKスペシャルで「100年の難問はなぜ解けたのか」として、7年ほど前に取り上げられたこともある。
数学では、数学に人生を賭ける。これ、想像がつかないという人がいても、僕にはよく分かる。集中するあまりおかしくなったり、それでも解けない問題がある。ゲーデルの不確定性定理が出てから、結局、真か偽か分からないという問題も存在することが分かった。それまでは、すべての命題は真であるか偽であるかだったのが、真か偽か言えない問題に、もしそんな問題に深く関わったら、数学者としての一生が無駄になってしまう。もともと真か偽か分からない問題に出会ったら、その理論体系に矛盾がないことを理論体系の中では決して証明できないのだから、どこまで行っても行き着かない。
だから途中でおかしくなる人は一杯いるのだ。自分では解けなかったり、解く方法論が間違っていたりする。ペレルマンは問題を解くにあたり、当時花々しく流行していたトポロジー(位相幾何学)を使って解かれるだろうといわれていた問題を古典的、物理的な手法で解いて数学者をも驚かせる。ともかく凄い。受賞とか賞金に関係なく、数学で一生を過ごす。つまり禅の「天地一杯」と対峙しているのだから、自分の背後の世界は目に入らないし、聞きたくもないのだろう。