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【パラダイス・アンド・ランチ(江戸前寿司)】

投稿日:2020-10-28 更新日:

【パラダイス・アンド・ランチ(江戸前寿司)】

(1)高校の遠足で

私が生まれ育った玉野では、当時寿司といえばそれぞれの家庭で手作りの、太巻き寿司(私の家では、穴子、卵焼き、赤い蒲鉾を縦に切ったもの、ほうれん草、かんぴょう)と、まぜ(ちらし)寿司、まぜ寿司を三角形に切ったアゲに入れたきつね(いなり)寿司で、高校1年の2学期に千葉に転校するまでは、関東のにぎり寿司は、年に一回、父のおみやげの、会社の宴会の料理の折詰で出会うだけだった。折詰のなかで一番価値があり、兄弟で争うのは赤く蒸した海老の握り寿司で、今でも私が回転寿司で食べるリストに欠かせない。

母が寿司を作る時は、子供の遠足や、運動会、学芸会等の弁当ためで、(太)巻き寿司と卵焼き、煮蒲鉾が定番のセットだった。

千葉の高校に転校してきて、学校の遠足で、相模湖に行った時の弁当は、おにぎりと卵焼きと、煮蒲鉾だったが、その時、クラスの一人が、寿司屋の折詰を自分の弁当として持ってきていた。まず、店屋物を弁当に持ってくることに驚く。母親は弁当を作らないのか、当時は寿司屋は高い値段をとっていたのに、それを子供の弁当にするなんて、私のとっては異次元の家庭で、軽いカルチャーショックを受けた。そして、その中身は、細巻きの、赤い鉄火巻きと緑色のかっぱ巻き、その折詰のガリやシャリや海苔の配色と配置に驚いた。美しく、粋で、美味しそう。

T君に、率直に「関東にはこんな寿司があるのか」と寿司折の感想をいうと、鉄火巻きとかっぱ巻きを1つづつ「食ってみ」とくれる。薄緑色のかっぱ寿司の味は、イマイチだったが、マグロの赤身の鉄火巻きには美味しくて驚いた。海苔も、色や味が違うし、生マグロの赤みを細く巻いているのが贅沢で粋だ。千葉は、東京に近いと玉野から来て、当時まだまだ田舎で、期待外れだったのだが、そして、食べ物は、子供の頃食べた瀬戸内の食べ物より美味しい食べ物はないと思っていたのだが、一気に関東の食べ物に、興味と期待が湧く。まだ、一度も食べていないものを、食べてみたいと期待は湧くが、スーパーやコンビニも外食店もなく、パソコンの情報もない。気軽に入れる店も自分独りの力で探さなければならない。支払いのお金の問題も、大きくからむ。

(2)市川の寿司屋に初めて入る

昔の男の思春期から大人になる期間は、大変な試練の時期である。身近に、その道の情報を持っている友人、先輩、先生、家族がいなければ、自分自身の体験でデータを集めるしか方法はない。

芸大に入学して、市川に間借りして生活すると、仕送りのお金1万円と奨学金4000円とアルバイトで画材費と生活をやりくりしなければならない。生活の方法も、自炊をしていたが、たまに入る外食店も自分独りの力で探さなければならないし。支払いのお金の問題も、大問題だ。

その頃は、回転寿司はなく、10円寿司という店が秋葉原デパートの中にあって、入って食べたが、立ち食いだし、安いけれどもネタの注文の仕方も分からないので1度入って食べたがそれっきりだ。握り寿司は、食べたいけれど、寿司屋に一人で入るのは、勇気がいる。

食費は、1週間1000円と決め、ポケットには1000円札1枚と小銭入れの中の小銭は、いつも切らさないようにして大学生活をおくっていた。

市川では、六所神社前のバス停近くに住んでいて、市川駅からのバス賃は15円、天気の良い日には、JRの市川駅から裏道を歩いても若い自分には、いい散歩代わりの距離だ。

秋の、晴れた日の午後だったか。お昼時は過ぎている。JR市川駅と下宿の途中にある京成線の市川真間駅の近くを歩いている時に、小さな寿司屋のウインドーが目に入った。サンプルのメニュー食品のなかの、桶の中の握り寿司の〔竹〕が600円で出ている。小さな店で、歩道に直接入り口があって、のれんがかかり、入りやすそうな、下町の庶民的な寿司屋の雰囲気だ。ポケットには1000円入っている。今日は奢って、握り寿司の〔竹〕を一人前食べてみようと、20歳(はたち)前の画学生が、初めて暖簾を分けて、引き戸をガラッと開けた。

くどいようだが、私にとっては寿司屋に一人で入るというのは、初めての体験だ。そして、パソコンなど影も形もない、昭和40(1965)年頃の話だから、事前の情報は何も持っていない。

ガラッと引き戸を開けると同時に、対面にあるカウンターの向こうから、「ヘイラッシャイ」と声が掛かった。小さな店の中に、お昼時を過ぎているので、お客は一人もいない。テーブル席もあったのだが、突然私にスポットライトが当たった、想定外の場面に遭い、眼前の視界がホワイトアウトになり、次の行動の判断がとれず、ふらふらと、声の主の前の、カウンター席に座ってしまった。私はテーブル席で寿司の〈竹〉を注文しようと思って入ったのに、いきなり、ピンチに陥ってしまった。

大きな湯飲み茶碗の、お茶が目の前に出され、チョッと口をつける。頭の中は、フル回転して、このピンチを打開する方法を探している。この先の展開も、想定できないし、自分のとるべき行動も知らない。

カウンターの対面の店主から、いぶかしげに「何しましょう」と声が掛かった。

さあ来たぞ。

「タコとイカをください」

生姜が横に置かれ、タコとイカが2個づつ目の前に置かれる。タコもイカも美味しかったし、生姜も美味しかったが、味わう余裕がなく、頭の中だけがフル回転している。

食べ終えると、当然、店主は「お次は」ときた。

「今日は、これでいいです。お勘定してください」

ハイ、600円です」

ポケットから、この頃聖徳太子から伊藤博文に替わった、なけなしの1000円札を出し、400円のお釣りをもらう。

「ごちそうさま」

入り口の暖簾を分けて店を出た。“助かった” 何とかピンチを切り抜けた。

下宿に帰ってきて、今日の体験を反芻して考える。こんな事は、これから先、生きていく上で、何度も出遭うだろう。だってこれからは、生まれて初めての体験だらけだ。自分の本来の目標の美術の世界でも同じ事だ。

お金の問題があるので、この後、私が考えた寿司を食べるための打開案は、店に入って、一人前の寿司を持ち帰りで頼むことにした。この店にはコレっきり行かなかったが、下宿の近くの寿司屋(店主一人でやっているので、出前をやっていない)では、ガールフレンドが来た時にはこの手を使った。この時の包装は、竹の皮だった。

(3)日本橋の『吉野寿司』で

①この回は、1973年(27歳)の時の話です。

1970年東京芸大の大学院に在学中、日本橋画廊と契約、1971年4月、日本橋画廊で個展。前年の暮れあたりから予兆のあった第一次絵画ブームの波にシンクロして在庫も含め完売だった。ちなみに、第一次絵画ブームは新人ブームだった。後の、1974年のオイルショックまでは、ブームというより、バブルといってもいいだろう。

1972年3月、東京芸術大学大学院修了。前年から絵で生活できるめどが立ってきたので、アッサリと大学を離れる。5月、日本橋画廊にて個展。完売。個展の後に北海道札幌市西区手稲西野に転居。日本橋画廊とは独占契約なので断わるのだが、絵画ブームの本格的な到来で、南浦和のアパートにも画商が押し掛けてくる。以前の生活に比べて、あまりにも異常な状況に画家としての本能的な防御だったのかも知れない。北海道は前年の9月に取材に訪れ、風景と光が気に入っていた。

1973年5月、日本橋画廊にて個展。完売。

 日本橋画廊に専属契約してからは、自分の個展のオープニングパーティーだけでなく、日本橋画廊で開かれる、他の画家のオープニングパーティーにも、出席しなければならない。

その頃の、企画画廊(貸画廊でない、絵を売って商売している画廊)のオープニングパーティーのメインゲストは絵を買ってくれるコレクターで、ダルマの水割りを作るバーテンダーや、バンケットコンパニオンに数人のキレイどころもいて、いつも盛況だった。

パーティーの大きな寿司桶の寿司を、女性がお皿に2、3個取って渡され、ウイスキーの薄い水割りは、紙ナプキンにグラスの下部を包んで、絵が売れているので、リラックスして、磊落(らいらく)にお客や先輩の画家と話す。今思い返せば、いい気なもんで恥ずかしい。

もちろんこの費用は、デパートで絵が売れ始め、今まで細々と商売していた企画画商(日本画の画商や日動画廊等の大手の画商は別ルートで売っていた)に需要が集中して、何もしなくても、絵が飛ぶように売れるからだ。おまけに、画家からの買取値段と、実際の売値が、デパートで売値を付ける結果、幅が大きくなり、パーティーの費用など、絵さえ売れれば画廊はなんでもない。私の場合も、供給不足で絵が足りず、契約点数(月に10号5点)では、予約しても3年先まで予約で埋まり、手に入らないと聞かされた。個展も、開く前から完売だった。だから逆に、個展の新作では、売れることを気にせずに、どんどんモチーフを広げていくことができた。

その、オープニングパーティーの大きな寿司桶が、画廊の近くにあった『吉野寿司』からの出前だったのだ。

この時の、握り寿司と薄いウイスキーの水割りは、味の取り合わせがぴったりで、半世紀後の今でも、持ち帰り寿司を買って食べる時のウイスキーは、アトリエに欠かせない。

東京で2度目の個展の絵も前回同様完売しているし、画料は安かったが、まだバイトは続けていて、金に余裕があったので、息子の個展を喜んで来る父を、今回は、寿司屋のカウンターで食べさせようと考えた。(前回の個展の時の父母との食事は、『レストラン ロゴスキー』の章で前述しています)

その当時の、流行りの青年の行動様式は、ロマンチックな体当り主義で、小田実の『何でも見てやろう』や、堀江謙一の『太平洋ひとりぼっち』の、裸の実存が体制の古い権威に立ち向かうという感じのものだった。画学生の頃は、コリンウィルソン(『アウトサイダー』)や岡本太郎(『現代芸術』)や、戦後レジームの末端の文化的切り口が、周りに充満している。

かといって、今のように、パソコンで自分で情報が得られない当時は、メインストリームメディアの一方的情報以外は、やはり地図無しでの『暗夜行路』(志賀直哉 )、レーダー無しでの『夜間飛行』(サン・テグジュペリ)を強いられるので、青年が社会に出ての様々な局面で判断ミスの恐怖にでくわす。

市川の寿司屋での失敗のリベンジだけでなく、今後出遭う初めての場面を正しく判断する方法論を、試してみるいいエキササイズだ。父に、東京の美味しいものを食べさせたい、という気持ちもあるが、私とっても、市川の寿司屋での、敗因の超克の意味もある。今では回転寿司があり、たかが寿司屋だが、寿司に限らず、人生において、全方位のギャップを乗り越える方法論を身に付けなければ、様々な局面で無視界飛行(ブラックアウト、ホワイトアウト)で挫折するだろう。若い時は、こんな些細なことも、重要なんだよ。

当時日本橋画廊に出ていた、児島徹郎氏の奥さんに『吉野寿司』の情報を聞くと、出前や桶で頼むと、少し高い程度ですむということだが、カウンターでお好みで食べるとお高い、ということだった。話の中で、『吉野寿司』のオーナーが、子供の時に観ていたNHKのテレビ番組『事件記者』に出演していたということもでた。これは、今、パソコンで検索してみたのだがヒットしなかった。当時の寿司屋のカウンターで客がネタをお好みで食べる場合は、魚の選ばれた部位を使い、その場で切り、握る寿司飯の大きさも、握りのかたさも違いがある、ということも聞いた。なるほどなぁ。美味しいものを食べるの時は、対象をちゃんとリスペクトして、値段の高さの根拠も納得して、食べなきゃなぁ。

それにしても、初めて入る店なので、父との昼食の前日、予約を兼ねて、店の様子を知るために、昼食時を外して上寿司を一人前食べに入った。

② カウンター席には、お客はいなかったが、迷わずカウンター席に座り、上寿司とウイスキーの水割り(日本橋画廊のパーティーで、寿司とウイスキーの水割りの組み合わせがが美味しいことを知る)を注文して、カウンター内の職人に、明日両親と三人でカウンター席で、お好みで食べに来ることを予約、そしてその場合いくらくらいお金を用意してくればまにあうのかを聞く。それに加えて、父は関西生まれで江戸前の握り寿司はなじみがない。ましては、カウンターでお好みで寿司を食べたことがない。私はここの寿司を近くの日本橋画廊のパーティーの出前で出される大桶で知り、明日、息子の個展会場にくる父に、東京での美味しいものを食べさせたいとの事情を説明した。答えは、頼む寿司のネタによるし、食べる量にもよるので、当日いくらになるかはわからないが、お昼ですので、一人前〇〇円以内でおさまるでしょうと言われた。

明日はよろしくお願いします、といって、お茶を飲み、キャッシャーで勘定をして店を出て、画廊の私の個展会場に戻った。

③ 翌日、両親とは画廊で待ち合わせ、父の、私の子供時代からの自慢話が、画廊主の児島徹郎氏相手に止まらず、途中で私が促して寿司屋に向かった。カウンターの前には、三人分の席が用意されている。おまかせの江戸前の寿司ネタで3人前、順次握ってくださいと注文した。途中でお腹がクチくなったら、最後に鉄火巻きか玉子を自分で注文して、お茶をたのめ、と言っておいたら、少食の両親は、早々に終えようとする。息子にお金を使わせたくないという気持ちもあったかもしれない。私は市川の寿司屋での復讐戦の気持ちもあるので、ここで、気持ちの上でも、お金の上でも、ビビっていないというハッパル気持ちがある。父が鉄火巻き、母が玉子を頼んだ時に、私はチョッと足りなかったので、大トロを一貫、父と母には「ワイも初めてじゃが、まあ、話のタネに食うてみぃ」と、一個づつ頼んだ。

父は言った。「豪勢なもんじゃのぅ」「じゃけど浩二、おまえ、こげぇな店でしょっちゅう食べよるんか」

私は言う、「バカなこというな。カウンターで寿司を食うのは、市川で1度、2度目が昨日のこの店、生まれてから今日で3度目じゃ」「今日は、父ちゃんに東京の美味いものを食わせとぉて、ここに来たんじゃ」

父はいう、「おぅ、おぅ、それで安心した」「こげぇな美味いもんを若い時から、しょっちゅう食うとると、将来ロクなもんにならんぞ」……

カウンター内の職人と目を合わせて、「目の前で、お客が注文する美味しい魚を切って、チャッチャと握って出す。お客は、食いたいものを次々に注文する。豪勢なもんじゃのぅ。さすが、東京じゃ。」

勘定は、覚悟していた用意していた金額をだいぶ余した。

 

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